「すべては真白に染まりゆけ」


 朝九時。
 某所。

 手紙が届いた。
 十二月二十四日、俗に言う聖誕祭前夜。つまりはクリスマスイヴ。
 この日に指定された山小屋へ来てくれ、というものだった。
 ある程度まともな常識を持った人間ならば当然、誰が行くかそんなもんと思うだろう。
 どうでもいい日ならともかく、クリスマスイヴである。
 恋人たちの語らいの夜だ。恋人たちに嫉妬する独り身が凶器を持って徘徊していてもおかしくない狂騒の夜だ。
 藤井冬弥も、他の誰もと同じように、そんなところに行きたいなどとはこれっぽっちも思わなかった。
 その山小屋。場所は標高そこそこの高さにある山の頂上付近らしい。みると、地図が添付されていた。
 行きたくないにきまっている。
 夏だったとしても、余程の理由がなければ。あるいはそんな山に登ろうと思うのは山が好きか歩くのが好きか、そのどちらかだけだろう。
 何が悲しゅうてそこまで歩かなければならないというのか。冬弥は訝しがった。
 内容を読み進めるたびに彼の顔には、困ったような表情がだんだんと浮かびあがってくる。

 ――理奈のことで大事な話がある。誰も来ない山奥の小屋なら、マスコミの目からも逃れられる。君に来て貰いたい。

 誰からの手紙か。冬弥は慌てて手紙の裏に書いてあるサインを読み解く。わざとくずされた字を、目を細めながら解読した。
 緒方英二。
 それはかの天才の名だった。緒方理奈の兄にして、音楽家。敏腕プロデューサー。緒方プロダクション社長。
 現在は、引退した緒方理奈の後を継ぐと称される、森川由綺ひとりに力を注いでいるという。
 今年の音楽祭は、彼女が確実に優勝だろう。冬弥の元恋人である、アイドル森川由綺。
 冬弥はため息を吐いた。あれから色々と逃げ回り、海外を転々とし、やっと騒ぎが収まったので日本に帰ってきたのだ。
 彼の恋人である、理奈と共に。
 冬弥は困った。緒方英二からの手紙である以上、無視するわけにはいかない。
 大事な話などという文面に心当たりはあるといえばあるし、ないといえばない。具体的な内容は一切なかった。だからこそ、判断つきかねた。
 しかし、冬弥と理奈の所在地へと送られて来た手紙である以上、これはまさしく本人か、それに近い人間が出してきたものだ。居場所を充分に隠し切れるかどうかには、ある程度の信頼がある。マスコミにかぎつけられるまではあと数ヶ月は保つだろう、といった場所なのだ。
 果たしてどうしたものか。手紙を前に渋面をつくり、冬弥は悩んだ。
 行くべきだ。そう考える。だが、何故クリスマスイヴなのだ? 冬弥だって普通の男だ。当然、理奈と一緒に過ごしたい。それくらいは英二も認めていると、冬弥は認識していた。だが、このような文章が届いた以上は、そうではないのだろうか。
 決着をつけるってことなのかもしれないな、と彼は笑った。いささか自嘲気味の笑みではあったが。
 とはいえ、行くにしても行かないにしても、もう時間がなかった。
 なにせ今日のことである。指定された場所に行くにしても、陽があるうちでなければまずいだろう。
 彼は決めた。
 行くことにした。
 慌てて冬山登山の支度をして、家を出る。
 昔、彰に誘われたミステリツアー用の装備ではあったが、使えそうだったので有効活用してみた。なかなか格好は決まっていた。
 幸い、山があるのは近郊だった。これなら夕方になる前には頂上にたどり着けるだろう。
 彼が、部屋に書き残したメモにはひとこと。『認めてもらってくる』と書いてあった。
 丁度、食べ物の買い出しに出かけていた理奈が気付いたときには、冬弥はとうに山小屋へ向かっていたあとだった。
 どこかに出かけたらしい冬弥に、少しだけほほをふくらませる理奈。
 仕方ないかぁ、と椅子に座る。かなり慌ただしかったのを示すように、部屋の暖房や電気はそのままだった。
 理奈は、点けっぱなしになっていたテレビに懐かしげな視線を送った。そこにはもう戻らないけれど、それでも好きな場所だったから。
 少しだけ寂しくなって、別の番組に変えた。
 天気予報をやっていたらしい。聞こえてきた言葉は、理奈には関係なかった。

 ――今は晴れていますが、夕方には大雪になるでしょう。
 
 さて、冬山だ。冬弥は歩みを早めた。足下には気をつけながら、どんどんと道なりに登っていく。
 危険だった。いくら晴れていたとしても、冬の山ではあらゆる危険が降り注ぐのだ。
 枯れた木々に服が引っかかった。転んだ。謎の小動物数十匹に襲われた。熊がいた。襲われる前に走って逃げたら今度は蛇を踏みつけていた。狙われた。慌てて近くの折れた枝で振り払う。その枝にも変なキノコが生えていた。手で触っても毒に冒されそうなケバケバしい色だった。気持ち悪かった。投げ捨てると、丁度そこにさっきの熊がいた。ぶつかった。怒ったらしい。一気に走り寄ってくる。木々の間をすり抜けながら、全力で上に向かう。だんだんと道が無くなっていく。後ろを向くと熊の姿は消えていた。途中で諦めてくれたらしい。かなり離れた位置から逃げたおかげだろう。あと十メートルも近ければ追いつかれて死んでいたかもしれないと思って冬弥はぞっとした。背筋を通り抜ける悪寒。震える体の向きを直し、頂上へと向ける。首筋に冷たさが走った。うわっ、と飛び跳ねて走って走って走って逃げた。
 立ち止まって首に手をやると、水滴が付いていた。別になんていうこともなかったらしい。
 ここってこんな山だったかと冬弥はかなり怖かった。昔に一度だけ来た覚えがあるおそらくそのとき使った山小屋と同じ場所だろう。道は覚えていないが、一応道のようになっているところを進んで上に向かえば辿り着くはずだった。
 ミステリツアーのおかげか。彰が美咲とはるか、それから由綺と冬弥を引っ張り出してここでイベント風に企画した。最終的には由綺は来られなかったが、そのときの地図を渡されていた彼女も、場所を知っているはずだった。
 冬弥にとって不思議なのは、緒方英二がこの場所を知っているということだった。
 管理者がすでに下山しているはずだが、別に山小屋自体は自由に使って良いらしいので、問題はない。だが何故ここなのだろう、と冬弥は思った。
 それから約一時間。冬弥はひたすら歩いて歩いた。歩いて歩いて歩いた。
 着いた場所には、前来たときと変わらぬ山小屋が、物憂げに存在していた。明かりが点いている。おそらく緒方英二がいるのだろう、と彼はノックもせずに入った。
 彼がひとり、そこでぼんやりと暖炉の火を見つめていた。最後の炭らしい。冬弥の目には、一個も残っていないように見えた。部屋のなかは一応はあたたかかった。あの暖炉の灯火が消えてしまったら、暖房器具は一切無い。山小屋であるから、毛布が精一杯だろう。電気も来ていないな山奥である。いや、自家発電らしい。明かりだけは、あった。寒いのでさっさと中に入る。冬弥がドアを閉めると、外から入り込む冷たい空気が遮断された。
 小さな窓がひとつあるだけで、外を覗けるようなガラスは他にない。部屋が薄暗くなった。
 ふんどし一丁の緒方英二がそこにいた。
 言葉に詰まる冬弥。

「…………」
「…………えっち」

 ぎぃ……ぱたん。ドアが震えながら閉まっていった。

 ――よし! 見なかったことにしていますぐ帰ろう。

 現実逃避しつつ、即刻小屋に背を向ける。
 振り向いちゃダメだ。振り向いちゃダメだ。
 がたんっ。小屋からドアが開いた。声が掛かった。
 もう気付かなかったフリして逃げるには遅すぎた。

「おや青年、こんなところで会うとは奇遇だな」
「……いえ」

 冬弥は戸惑った。英二も同じ表情だった。怪しい。怪しすぎた。絶対になにか企んでいるに違いない、と冬弥は彼を疑った。
 しばらく見合う。
 それから英二が先に状況を理解したようだった。

「っと、まずは俺の方からいうのがいいみたいだな。その様子じゃ……青年も騙されてきたらしいし」
「…あの。英二さん……それってどういう」
「んー。いやな。俺の方に来た手紙はこれ。どうだ?」

 ――私、あの、言いたいことが……あるんです。ここに来てくれませんか? すごく恥ずかしいけど、私、勇気を出しますから……お願いします。

「な。こんなこと書かれちゃったら来るしかないだろ。どうだ青年。そうは思わないか?」
 色ボケ。冬弥は思ったが顔には出さなかった。
「へぇ。で、その手紙は誰からなんですか?」
「由綺ちゃんから」
「殴るぞ色ボケっ!」
「うわっ。いきなり切れるなよ……。青年にそれを言う権利はないな。いま由綺ちゃんはフリーなんだぞ。お前がうちの可愛い可愛い理奈を持ってっちまったからな」
「……う」
「とまあ、不毛な争いをしててもしょうがないな」
「というか、こっちにはこんなの来てたんですけどね……」

 冬弥が差し出した手紙。地図は家に置き忘れてしまったことに今更に気付くが、どうしようもないので忘れることにした。
 まじまじと中身を見てから、英二が吹き出す。

「……なるほど。俺はこんな手紙出した覚えはない。しかし巧妙だな……ほら見ろよこのサイン。完璧だぜ。いっそ次からファンレターへの宛名書きはこれ書いた人間に任せておきたいな」
「というか、アンタに来たのは騙される方が悪いわっ!」
「ひどいよぉ……冬弥君」
「気持ち悪っ。それ誰の真似ですかっ!」
「ん。別に」
「だからアンタ……やっぱりこれ書いたの英二さんじゃないんですか?」

 めちゃくちゃ冷たい目で冬弥が訊く。
 言い返す緒方英二。

「……尊敬の気持ちが欠けてるぞ青年」
「うっさい色ボケ!」
「はっはっは、そろそろ罵り合いは止めようじゃないか」
「誰がやらせてんですかっ!?」
「ほら、そんな風に怒らない怒らない」
「……はぁ」

 一気に信頼度ダウン。緒方英二株急落中で、一生上がることはないだろう。
 冬弥の心中を察して、英二はあたたかく声を掛けてあげた。

「そんなに落ち込むなよ」

 そう言いながらも、やはりふんどし一丁だった。格好つかない。

「だーかーらーっ……もういいです」
「バカな話はこのくらいにしようか。青年、今の状況分かってるか?」
「はい? いいえ。慌てて来たんで全くですけど」

 山小屋のなかに男がふたり。

「……ハッ!?」
「襲わないってば」

 英二が笑う。
 冬弥が逃げた。じりじりと。ゆるゆると。
 実際にあり得そうだと感じた以上、ここはあらゆる意味で危険だった。
 デンジャラスゾーンに踏み込んだことを、心底後悔しながらも、なんとか冬弥は訊いた。

「本当でしょうね?」
「ちなみに、こんな状況じゃ風情というか雰囲気というか……ムードがないな」
「……近寄るなアンタ」

 緒方英二株、マイナスへ急落下。
 ムードがあったらやるのか、という言葉を飲み込んで、別の言葉を必死に探す。
 言ったらうん、と頷きそうだった。彼は信用出来ない。

「そ、それで……英二さん、さっきの言葉はどういう意味ですか?」
「んー。案ずるより産むが易し……あ、違う違うっ。逃げるな青年」
「いや逃げますよ」

 何をやる気だアンタ、という言葉も必死に喉元で停める冬弥。

「百聞は一見に如かず、だな。外を見てみな」

 なにかまずいことでもあるのだろうか。
 さっき通ってきた道を見ることになるだけだ、と冬弥が疑いながらドアを開く。

 吹雪だった。暴風だった。嵐だった。突風だった。
 つまりは、山を下りられそうにはないような悪魔の天気だった。
 山の天気は気が変わりやすいと言われるとはいえ、ここまでの天候では戻るのに一日はかかりそうだった。
 冬弥は直観したことを、そのまま頭に伝える。だんだんと浸透してくるその意味。

 クリスマスイヴのうちに帰れません。

 ぴしり、となにかにひびが入るような音。堪忍袋の緒か緊張の糸か、あるいは我慢の限界か感情の堰か。
 冬弥にとっては別にもはや、そのどれでも、なんでもよかった。

「英二さん」
「ぐ、ぐるしぃ……しぇ、せいね、ん……も、ぉ、ちつけ……ぇ」

 うわーん、と冬弥が英二の首を持ってカクンカクンと前後させる。
 やられているほうは死にそうだった。
 というか、冬弥の手には半分殺意。

「俺を家に……っていうか理奈ちゃんと一緒に過ごさせろこの馬鹿兄貴!」
「か……感情的に、なのは、いいことだ……ぜ」

 かくんかくん。

「うがぁーっっっっっっっっっッ!!」
「ぐぇ」

 がっくんがっくん。

「はぁはぁ……」
「げほっげほっ……っ! まったく無茶するな青年……」

 余裕ぶった笑みがまだ浮かんでいた。
 冬弥は落ち着いたらしい。体力の使いすぎか、肩で息をしている。

「はぁはぁ……はぁ……っ」
「あ。俺に欲情するなよ?」
「死んどけ好色馬鹿兄貴め!」

 ぐわんぐわん。

「ふはははは。甘いっ!甘いぞ青年ッ! 俺はすでにそれくらいの攻撃には慣れた。理奈に鍛えられたこの頑丈な体を見ろ!」
「脱ぐなおっさん!」
「……っていうか、だ。兄貴兄貴というが……俺としては、青年にそう呼ばれても嬉しくない。むしろ理奈に『ほにいちゃん』と呼んでもらいたい」
「最悪だなアンタ」

 緒方英二シスコン疑惑確定。
 冬弥内部の緒方英二株、とりあえず心の底からも投げ捨てる。


「で、見たな?」
「……ええ」
「何故か、炭はもうないんだ。残り火はあと、保って二時間……はないな。一時間半ってところだ。どうする青年」
「帰れないし、ここは凍えるくらい寒くなるってことですか」

 真面目な口調に戻った緒方英二。
 でも、もはや信用しないことに冬弥は決め込んだ。
 ここに呼び寄せたのが彼でない証拠もない。とりあえず、一番怪しい人物であることには変わりなかった。
 なにせ天才と変人は紙一重……というか、ほとんど同じ意味である。
 天才緒方英二。変人緒方英二。冬弥には、すでにほとんど違和感がなかった。
 その辺りの認識は、英二の自業自得であるので別に問題ではない。ただそれだけのことなのだから。

 問題はひとつ。
 どうやって帰れるまで、ここで過ごすか。

 遭難者用の缶詰も暖房用のものも、ほとんど使われてしまっているらしい。
 冬は本来閉められている山小屋だから、仕方ない、と無言で諦める。

「……提案があるんだが」
「却下します」
「こういうときは、人肌ってのが常識らしいじゃないか」

 冬弥はにべもなく切り捨てる。嫌な予感がしていた。
 というか、ここで言われるような台詞なんてひとつしかないことに気付いていた。
 英二は冬弥の非難の視線を完全に聞こえなかったこととして処理した。気楽なものである。

「ハダカになって――「嫌です!」

 彼の言葉に、冬弥は思いっきり意識的に遮って否定した。
 絶対に嫌だった。

「ヌードになって――「ダメです!」

 言葉を変えても駄目なものは駄目である。
 ギロリ、と英二を睨み付けた。

「そんなに睨まれると、さすがに怖いぞ青年。よし、なら譲歩してこうだ。服のままで――」

 言い終える前に拳がクリーンヒットした。吹き飛ぶ英二。
 もはや天才の威厳という言葉は幻想の彼方。遥か遠くネバーランド辺りに置き去り。
 つまりは、どこにもない、ということである。所詮、真実なんてそんなもんだった。

 全二名中の、一名気絶につき、そのまま無言のときが約二時間ほど続く。
 現在時刻は十二月二十四日午後八時。

 クリスマスイヴ終了まで、あと四時間しかない。吹雪は止んでいない。これから帰るのは無理だった。
 だいたいにして、冬弥はここには真面目な話をするために来たのだ。
 ダメ人間を柱に縛り付けて、人の世のためになるような善行をしたところで、彼は別に嬉しくない。
 特にこんなのが天才と呼ばれるような状況の世界は激しく間違っている、と思ったがどうでもいい。
 理奈と共に過ごす夜に価値があるのであって、その兄の変人の監視なんてしたくはないのだ。
 目を覚ました英二が不満げに言う。

「縄、それも極上の……荒縄か。青年ってもしや、縛るのが好きなのか?」

 無視した。

「おいおい青年。理奈を縛ってあんなことやこんなこと。あげくのはてにそんなことまで……まさか、やってるんじゃなかろうな? 俺ですらそんな趣味は持ってないぞ? あ、まさかどこぞの彼みたいにベッドに手だけ縛り付けて……ああっ、青年!」

 何を想像しているのか。真顔でいうな、と冬弥は叫ぼうとして、声をのどにとどめる。
 反応すると余計にうるさくなりそうだった。正直、さっさと帰りたい。
 そう思う冬弥の意には反して、未だに雪は止まない。

「……寒さでなんか縄がちくちくしてきたんだが。ちくちく」
「さいですか」
「青年。……これは凄いぜ。ちくちく。次の由綺のイベントで使うか。ちくちく」
「…………」
「微妙に気持ちいいかもしれないな、これ。お客さんを椅子に固定するのに最適か」
「………………」
「快感ってのはこんなところから生まれてくるらしい。はっはっは。青年、大発見だぜ」
「……………………」
「おーい青年、なんか喋ってくれよ」
「…………………………」
「知ってる? うさぎってね、さみしいと死んじゃうんだよ?」
「切なげに言わないでください……つーか、こわいわアンタっ!」
「やっと……振り向いてくれたな」
「嫌ですけどね」
「そうか? でも、俺は嬉しいぜ」
「……だって、」

 冬弥の言葉を遮って、英二が声に微妙な響きを乗せた。

「なあ、やり直そう……」
「無理です」
「そんなこと、いわないで……もう一度だけ」

 はぁ、と大きくため息ひとつ。

「……英二さん、別れた恋人同士っぽい台詞をいわないでください」
「俺としたことが……参ったな。はっはっは」
「わざとでしょうがっ!」
「ちっ。バレたか」
「……ったく。からかうのはそろそろ止めにしましょうよ」
「ぶーぶー。俺から理奈奪ったくせにー」
「子供かアンタ」
「ははは。でも、大人のおもちゃは好きじゃないがな」

 さるぐつわ。
 とりあえず英二の持っていたスカーフ(四万円相当)で。

「……さぁて、どうしたもんかな」

 冬弥がつぶやくと、うーうーとうなり声が聞こえた。無視した。
 深々と降り注ぐ雪。見ればきっと、輝いているだろう。
 あまり寒さで体力を削られるのは危険だと判断して、冬弥は外には出られなかった。
 食料は一応あったが、カンパンだけ。実は、彼はこれを初めて食べたが美味しいとは感じなかった。
 ぱさぱさとした食感。飲み物が欲しかったが、山小屋にそれを求めるのは酷だろう。
 仮にあったとしても、水だけだ。凍えながら、どこかにお湯を沸かせるようなものはないかと探す。
 見付からない。暖房器具一切合切は初めから置いていないし、頼みの綱の炭もない。
 火種だけは目の前で余計なことをさせないようにしている物体が持っていたが、冬弥は煙草も欲しくない。
 ライターが一個では、どうしようもなかった。

 冬弥は、数日前に理奈が淹れてくれたココアの味を思い返していた。
 あたたかくて、美味しかった。生きて帰れたら一番に飲みたいものだった。

 とは言え、この状況では明日まで保つかどうかも怪しくなってきている。
 なにせ寒い。
 冬の寒さ。
 雪に囲まれた凍える空気。
 堅牢な山の静けさ。
 山小屋という場所ゆえの空気の通りの悪さ。
 全てにおいて、危なかった。

 意識が薄れかける。最悪、眼前のシスコンの提案にすがるしかないのかもしれない。
 でも、嫌だった。
 それだけは嫌だった。
 なにがなんでも嫌だった。
 生死を分ける事態でも、嫌なものは、嫌なのだ。


 冬弥が腕時計を見る。九時。寒さはこれ以上増さないかもしれないが、体力は削られていく。
 せめてもう少しまともな食べ物が欲しかった。熱が保たない。寒さに弱る。
 見ると、緒方英二は寝ていた。コノヤロウ。
 しかし起こすよりも何倍も気楽だったので、放置しておく。関わっている元気はない。
 冬弥自身もだんだんと眠くなってきた。

 意識が薄れていく。
 暗い小屋のなかで、ただ床の冷たさが突き刺さるようだった。


 冬弥は、霞んだ視界でふと思った。

 ――なんだか……このひんやりとしたのは、ちょっと気持ちいいかもしれない。

 ある意味、(冬弥の理性は)限界だった。


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