私は鳥である。名前はまだない――とすれば、かの有名なる(我が種の同胞には嫌われていたが。鳥と猫は本来相容れないものであるゆえ。さておき)あの猫に自らを似せて語ることもできよう。が、いまの私を表す名は鳥だ。
 他の奇異な、そして忌まわしき呼び名ではなく、ひとときとはいえ鳥の名を冠してくれた彼に感謝している。私が虜囚のうちに本来の名を忘れることがなかったのは、きっとそのおかげだ。クロード、これこそが私が生まれたときより刻まれた名である。もはや、……呼ぶ者はないのかもしれないが。

 羽ばたきながら、枝が曲がった木に留まる。折れたのはつい最近だろう、幹の断面が痛々しい青だった。緑の匂いと表現すればいいだろうか。私にとって嗅覚などほとんど意味を為さないものであり、せいぜいが煙ほどの強さのものしか判別出来ない。それでも感じいるほどに薫っていた。さらに葉が自ら主張しているのか、ざわめきを聞く。木漏れ日に跳ねた光がとても眩い。夏も半ば、もうすぐ終わり始めるというのに。私は空を歩くようにあの家の回りを飛び、またこの木に戻ってくる。
 隷属させられていた青葉殿は数日前より私を一顧だにしなくなった。余裕もないのか、もはや構ってもいられないということなのだろう。ともあれ自由になったがゆえに、翼を大きく広げられる。
 本来住まうべき世界を、しばらくぶりに羽に感じる。空より見下ろすと、高屋敷の家の広さに圧倒された。他の家々に比べても大きさはあまり変わらないが、どうにも広々と感じるのだ。隙間のような寂しさや空しさ。寂寥と言い換えてもいい空気に、人間の姿が見えないからだと気づいた。
 そうして私は誰もいなくなったはずの屋敷に別れを告げる。ここに残る理由はなくなったのだ。
 彼らのために、一声、高く鳴いた。どこまでも響き渡るよう、せめて誰かに伝わることを、私は願ってやまない。

 人間に囚われたのはあのときで二度目であった。弱っていた私は、唾棄すべき性質の人間の鎖に繋がれた。それが一度目だ。そこで数日を過ごしたが、殺されなかったこと、油断した隙に鎖から逃れられたことは僥倖だった。
 痛んだ翼を癒す間もなく暗闇に紛れ、夜もネオンで輝く街を必死に飛び続けた。ほとんど視界もないまま、何度も建物にぶつかり傷つきながら、闇に包まれた街を離れたのだ。私はなんとしても生き延びねばならなかった。このまま死ぬわけにはいかなかったのだ。
 羞恥すら覚える最初の悪意に比べ、再び奪われた私の自由は、それでもひどく優しかったように思えた。これは我が盟友とも思える彼がいたからであろう。司殿には大いなる親しみと、感謝を。
 仇は討つものであり恩は返すもの。機会があれば彼とまた語り合いたいものだ。もしそのとき、彼が窮地にあるようであれば――我が誇りに掛けて、我が翼に誓って、彼を救おうと思う。空の王であった私の、せめてもの矜持と笑われてもよい。この世において、生きること、生き続けること以上の名誉などないのだ。死ねばすべては終わりである。空より堕ちた私は死んだも同然だ。あの空へ。あの空へとまた飛ばなければならない。青く青く澄み渡る、悠久の天空に。

 翼に負った傷もいつしか癒えていた。もし手当てをしてもらっていなければ、いまごろはとうに土に還っていたに違いない。そう、私はようやく翼を取り戻した。私の空を取り戻したのだ。いっときの宿としてここに人間と寝食を共にし、あるいは一度隷従の身と落ちたとしても。私は、私の仲間達の王だったのだから。

 鳥は空を駆けるものである。私は王の名に恥じぬよう翼を存分に振るってきた。ときに我らが敵を倒し、あるときは我らが仲間を守り、いついかなるときも誇り高く、そして生き抜くことを信念とした。慕ってくれる者たちがいるかぎり、王であり続けるのが空を故郷とする我らが掟である。
 幼少のころより、私は人間の世界を垣間見ていた。ヒトの知識を得ることが、自らの武器となったとは皮肉ではある。驚異から逃れるために闇に紛る方法もまた、人間を知ることで覚えたのだ。すべては生きるため。だからこそ、どんな努力も惜しんではならない。そうでなければ、どうして仲間たちを守れるというのか。
 空は私たちの世界だ。そこは何者にも冒されえない王国だ。しかし、仲間達がいまどうしているのかを、私は知らなかった。……ずっと知りたかった。いつでも知りたかったのだ。
 彼らが飢えていないか、そして苦しんでいないか。不安は積もる一方だ。夏の暑さに焼かれるたびに、逆に身が凍る思いだった。血が失せていることもあるのだろうが、弱り切った私はそれを想像することすら耐えがたかった。
 恐怖という感情が、胸の奥に澱としてつもり続けている。身を刻まれる思いに、ゆっくりと心を蝕まれていく自覚すらあった。しかし、そういった恐れを否定するつもりは毛頭ない。生きていくためには、弱さもまた、必要なものだから。
 縄張り争いのすえ我らが宝を略奪されていくのは口惜しい。だが、その程度のことなど、かまわないと断じよう。何年もの間、私たちが各所を駆けずり、人間の家屋より掠め、あるいは地に置かれた一瞬の隙を狙い、そうやって必死に集めた――あれらすべての、かがやくもの。それを根こそぎ攫われていても私は気にすまい。仲間達さえ無事でいてくれれば。彼らさえ、生きていてくれれば。
 これもまた世界の理なのだ。弱肉強食などと、我らの誰が論じ得たか。する必要すらないというのに。真実はどこにでも転がっている。どれほど悔しくとも、生きるか死ぬか、奪うか奪われるかの二択しか存在しない。それが我らの居場所なのだ。少なくとも、いまを生きるためにここに来たのだから。
 この、都会と呼ばれる濁った場所に住まう我らは、そのルールに従わねばならない。争うがゆえに傷つき、争わねば死んでいく。悲嘆にくれることもできないのなら、我らは群れるしかない。仲間を作らねば。集団を作らねば。少なき者は常に多き者に喰われるが運命ゆえに、いつも仲間達で寄り添っていた。そう、私は家族を得ていたのだ。
 私は自らを、そして人間たちを笑う。ひどい喜劇もあったものだ。いいや――涙を持って観るが喜劇、笑顔を得るため観るが悲劇という言葉もあった。笑わずにはいられまい。ヒトもカラスも同じだ。家族を守りながら、そして家族に守られながら生きていくのだ。どうしてと問うこともない。そこには安堵があり、救いがあり、温かさがある。傷つき倒れた私を癒すように雌たちは庇い、慈しんだ。雄たちはみな士気を高め、来たる同族の敵たちを、そして多種族の虐殺者たちと戦う道を選んだ。
 我らは弱い。どうしようもなく、その弱さを嘆くひますらないほどに、ただ弱い。群れて何が悪いというのか。私が彼らを守ろうと思って、何が悪いというのか。烏たるこの身では、涙を流すこともできないが。

 ひとしきりの感慨に浸り終えると、私は翼をはためかせた。残された最後の食料もついばみ終えた。あとはこの地を去って、仲間たちの元へと戻ろう。私を下僕とした主も、司殿も、他の者たちも、みな散り散りになってしまった。ひとり、またひとりと家を出ていく彼らの姿に私は強い失望を覚えた。彼らにとっての家族とは、こんなにも壊れやすい絆だったのか、と。
 人間のいない家は、ゆっくりと、しかし確実に朽ちていく。家もまた守るべき家族を迎え入れるためにこそ存在しているのだ。私はそれを理解していた。彼らの去ったあとのこの家は、おそらく取り壊される。ここは彼らの場所だ。彼らの家なのだ。それゆえに崩れていく。壊れていく。無遠慮な無関係の人間の手によって、あるいは時間という劇薬によって、風にさらわれるように消えていくのだ。彼らがいなくなってしまえば、帰るべき場所もまた存在し得ないのだから。
 私は彼らに何を見ていたのか。いまなら断言出来る。そう、それはきっと人間の強さと弱さだ。一羽のカラスと同じように、彼らはみな、一人ではどうしようもなく孤独なのだ。悲しさに耐えられないほど寂しがり屋なのだ。
 ある者はその一人きりという現実から目を逸らし、ある者は求めることに執着し、ある者は初めから無かったものと否定し、ある者は持っていたそれを信じ切れずに捨て、そしてある者はただ純粋に手にしようと前を向いていた。そこに偽りがあったとしても、自分の真実を誰しもが持っていたのだ。
 ああ、きっと私は羨ましかったのだ。こんなにもこんなにも、すべてを絆に求め、強さを信じ、弱さに救われ、誰かを愛し、ゆえに愛される、そんな彼らが。そうだ。私は彼らに何を見ていたのか。
 彼らが好きだったからこそ、この優しき日々にいつかの私と仲間たちを見ていたのだ。ささやかなきっかけで別れゆくとしても、彼らの日常を私はずっと愛していた。作り出す空気が、楽しげな笑顔が、あの騒がしさがとても好きだったのだ。怒声に眠りを妨げられることすら、私はこれが彼らの日常と捉えていたのだ。
 別れ。
 その言葉に、私は不意に心揺さぶられる。動揺し、混乱し、そして潰されそうになるほどの哀しみを思い出す。気づいてしまえば後は早い。記憶を留めることは、もはや無理だった。思い出さずにいることに、私自身が耐えられなくなっていた。
 涙は出なくとも、嗚咽はひとりでに漏れくる。詰まった胸の奥底から震えが来る。狭い喉からでは、はき出せもしない絶望が声なき叫びとなった。なんという、寂しさだ。

 すでに戦場では、もう仲間たちは一羽残らず絶えているであろうから。

 そんなことは気づいていた。とっくに気づいていたのだ。どうしても認めたくなかっただけ。くだらないつまらない嘆きをいつまで、いつまで私はしているというのか。
 どうして私だけが、ここでのうのうと暮らしている。あのとき死ねばよかったというのに。これではあまりに悲しいではないか。ぽっかりと空いた胸の穴に、冷たい風が吹き込む。痛みはじわじわと浮き上がるようにして。足りない。なにもかもが足りないのだ。仲間達を喪って、すべてを失って、どうして。

 ……どうして私はまだ生きている?

 終わってしまった自らの意味を胸に焦がれながらも、しかしそれが残り火でしかないことを知っている。あまりに愚か。これほどに意地汚く、そしてなんという臆病か。
 民を守りきれなかった王は、嘆きのうちに消えるべきだったろうに。たとえ負け戦であれど、決して誰一羽として見捨てず最後まで戦った。そのことを誇りに、私は空で死ぬべきだったのだ。
 私は空から堕ちたのは、仲間たちがみな倒れたゆえに。守る者がみな力尽きたゆえに。死に損ないの躯でも、それでも戦い続けた理由が亡くなってしまったからだ。空から消えていく同胞の姿。血脈たち。みな、命の灯は尽きてしまった。
 たとえ生きていたとしても、そのときまだ息のあった者がいたとしても、そこにはもう私がいない。助けられなかったのだ。救えなかったのだ。私の愛しき仲間たちを。
 一羽、また一羽とうち捨てられていく仲間達の盾にもなれなかった。そしてまだ私はおめおめと生きている。生き残っている。ただ一羽だけで、この世界に置き去りにされたように。ただむなしく生き残ってしまったのだ。もはや仲間たちの元に駆けつけることもできない。
 だから現実から目を逸らし、帰ることを躊躇っていた。だから……だからせめて、彼らに家族の意味を。私が失ってしまったものを、見つめていたかったのだ。
 悔しい。悔しくて悔しくてたまらない。

 私はあらんかぎりの力で鳴いた。涙も流せず、ただ慟哭を吐き出して。

 もはや私がここにいる理由もあるまい。私は私の場所へ帰ることにしよう。巣に横たわるのが、仲間たちの屍と骸だけであるとしても。
 帰り着く場所はともがらの元。そこでただゆっくりと果てよう。……そうか。
 私もまた、ここに住まいし人間たちの同胞、同類であったということか。失ってしまったものを知らず求めていたのだから。なんということだろう。つまりは私も彼らの同士。なればこその、これが――家族ということか。
 あの包み込むように大きな家を見つめる。広々として、おそらく大切にしていた者のいたはずの、あたたかな世界。優しい場所。きっと彼らのための灯台であったのだろう。だが、いまは殺意の突き刺さる荒野のごとき様相だった。
 地上にときおり見えるのは、殺気を誤魔化し切れていない人間たち。この場所をいかようにするのか。言いしれぬ不安が、暗く募っている。緊迫した空気を感じた。
 翼をはためかせ、私は降下した。屋根に留まると視点が低くなり、視界が窮屈に感じる。足で歩きながら勢いを殺し、端へと近寄って地上を覗いた。窓に映る影と、息を潜めているような気配を感じた。
 唐突に。そう、事実突然に閃く。まだここには数名が残っているのだ。たしかに一度出ていったはずなのに、いつ戻ってきたのか。もはや危険が残っているだけで、家に拘泥することは死を意味するかもしれない。だというのに、何故。
 そして、やっと気づいた。彼らは未だ、家族足り得ることの意味を持っているのだと。絆は断たれてなどいないのだと。絶望し、脆弱にも死に場所を求める私よりも、なんと貪欲なことか。なんと崇高なことか。
 これが人間なのだ。理性よりも希望を愛し、本能よりも幸福を欲す。暗闇のなかに臥したとしても、どん底のなかに這いずり回りながらも、たった一条の光を探し求め、そしてそれを掴もうと必死に手を伸ばす。無駄になるかもしれない、泥のなかのあがきであると知っていても、なお立ち止まることを止めない。

 視線を下にやると、黒い服の人間たちが蠢いている。こういった争いを見るのは日常茶飯事だったはずだ。私たちの戦場でも、闇に住まう人間たちでもそう変わらない。空より見る彼らの姿は滑稽ですらあった。巣の側にひっそりと流れ続けた、あの路地裏の血の量を私はよく知っている。ゆえに、いま眼下にざわめく下衆共の薄汚さに吐き気すら覚えていた。なんという卑劣さだ。持たぬ者たちにささやかな微笑みすら生み出した、あの高屋敷家を、屑らが打ち崩す醜い姿が脳裏に浮かぶ。事実、それを躊躇うまい。
 どんなものでも壊すことはあまりに容易い。そして、もう一度造り上げることはひどく難しい。ただこうして手をこまねいて見ているのは我慢ならなかった。
 しかし、どうすることもできない。鳥たる身のなんという悔しさか。あの優しい人間たちが危機に陥ったその瞬間に、救うことができないなどと。私は、昼間だというのに目の前が真っ暗になった。なにが王か。なにが空を舞う種族か。ここで見捨てるのは誇りを捨てるのと同義だ。気づいてしまった。気づいてしまったのだ。

 天は蒼穹。
 なれど私は黒き翼ゆえ、天に拒まれているのだろう。なるほど、ここで死ぬのも悪くない。死に場所を失った王ほど哀れな者はないのだから。ならば友のために、朽ちるまで戦って逝こうではないか。くくっ、と私は笑う。笑って、凶器と化す自らを誇る。

 いつだったか、ヒトの子らの学舎にて雨を避けたとき、戦陣で詠われし辞世の句を聞いたことを思い出していた。最期を戦に求むるは、私にこそ相応しい。
 疾駆。一息に空より舞い降りて、一撃を喰らわせる。頭蓋を掠め、ままに目にくちばしを突き刺し、一転して離脱した。怒り狂った者が黒い銃を持ち出しているのが見えた。銃口は私を狙っているようだが、あの大きさでは私に当てるのは難しいはずだ。とうに天高く逃れている。仲間らしき大柄の同型が宥めていた。しかしそれでも震える腕で私を狙っている姿は変わらない。なら、また行こう。どうせ狙いは定まらないのだから。
 滑り降りるようにして疾走。空白を交えて、一瞬の交差のうちにほほの肉を削る。さすがに私が気まぐれで狙っているのではないことを理解したか、他の者たちが一斉に狙いを定める。もちろん、空中で舞いながら敵を惑わす。
 蒼穹が目に染みた。
 一度大きく離れて、雁のごとくぐるりと回って戻ってくる。見失ったか私に気づいている者はいない。位置的に近所の家屋が死角となって私を隠してくているようだ。木の狭間からすり抜けて、もう一撃。理性のたがが外れたか、銃を撃ってきた。もはや本来の目的よりもこちらを優先させているのだろう。当然といえば当然か、私を見下している彼らは、格下の者に誇りを傷つけられたとでも思っているにちがいない。されど、敵も構えてしまった。虚はつけない。
 愚図だとは思ったが、油断せず、発砲してきた方向から転身、私は空へと逃れるふりをした。今度は低空から弾けるように突き抜ける。跳弾が隣の家の白い壁に穴を空け、煙が昇っていた。三度、地面から迫る黒い影に怯えたか、敵は身を隠すように乗ってきたらしき車へと避難してしまう。
 これでは攻撃できない、と身を隠そうと体を翻した瞬間。
 羽が、散った。
 しまったと思う間もなかった。ちゅぃん、とやけに小気味よい、そのわりに背筋に怯えが走るような音が聞こえた。空気が震えていた。耳に届いたというよりは、体に、それが通り過ぎたあとの衝撃。直撃はしていないが、それでも当たれば即死するほどの。
 しかし、まだここで堕ちるわけにはいかなかった。決して広いとは言えない私の視界の片隅に、しっかりと見えたのだ。彼が必死の形相で、彼女たちを連れていく姿を。逃げているのではないことは、私が一番知っている。誰よりも私は彼と近かった。失ってしまった家族の絆を、それでも求めている彼と。この瞬間、彼もまた戦っているのだと理解している。守るため。大切なものを守るために、壊したくない絆を守るために。そう、いまこそが助けられた恩に報いるとき。この機を逃してなるものか。
 胸を張って、高く高く空の果てを目指すように大きく舞い上がり、勢いに体を反らし、銃を手にした敵の一人を目がけて大気を駆ける。それは、真っ直ぐに振り下ろされる一本の剣のように。
 風を切りながら、私はいままでの記憶に想いを馳せる。思い残すことはない。ここを抜け出しても、彼ならば生きていけるであろう。でもまあ、届かないだろうとは思うが、それでも伝わると信じよう……彼に望むはひとつだけ。叶うなら良し。叶わぬなら、それもまた良し。青い空に見守られながら散っていけることに、限りない感謝を。
 この大きな絆の家こそが、私の墓標となるように。それくらいの我が侭は、想うだけならかまうまい。
 影より濃い漆黒が窓に映った。刹那の後、とてつもなく大きな、魂すら抉るような下からの衝撃に体が吹き飛ばされる。しかし重力の枷に引き留められ、すぐ落ち始めた。それから一歩遅れたマーチのように、痛みが全身を踏み砕こうとしていた。耐えることはできない。が、無視する。掠めた弾丸はいずこかへと飛び去り、しかし私の翼は穿たれた。熱いのか、寒いのかすら分からない。血の臭いすら私は感じない。感じるのは風の音と、私の意識がまだ在るということだけ。支える骨も砕けている。尾は空気を捉えていない。
 弱気になっているのか、自らに問い掛ける。いいや、事実だ。
 もはや飛ぶ力も残っていないのは分かっていた。それでも。それでも真っ直ぐに。いまだ硝煙の香り立ちこめる銃を握りしめたまま、なにか空には恐ろしいものがあるように私を見上げている仇敵に向かって。敵は逃げることも忘れ呆然としていた。
 撃たれても尚勢いをゆるめようとしない私と目が合っている。目が、合っている。そのままくちばしを噛み締め、引き絞り、きつく尖らせ、あの呆けた顔面に狙いを定め、真っ直ぐに。
 視界がだんだんと黒に浸食されていく。見えない。真っ直ぐに落ち続ける。見えない。ちゃんとこのまま落ちれば、確実に敵を仕留められるはず。そのはずだから。だから、自由にならない翼と、壊れかけの躯を抱きしめながら、命を賭したこの一撃を――最後まで、真っ直ぐに!

 まず暗転。それから薄い衝撃が私を包み込んだ。視界は闇に溶けている。墜落の痛みはほとんど無かった。すでに限界を超えていたのか、関節の筋肉もくちばしも動く気配がない。感触すらない。神経も感覚を失っていた。決して外さなかったとは思うが、無駄死にだったのであろうか。いいや、少なくとも意味はあったはずだ。
 王たる宿命は叶わずとも、盟友の時間の糧にはなったと私は信じる。信じるしかない。信じていなければ、いまにも暗闇に飲み込まれてしまいそうなくらい、怖いのだ。たまらなく怖いのだ。怖くて怖くてしかたがないのだ。死は恐ろしくなかったけれど、私が守りたかったものが壊れてしまうことが、何よりも怖いのだ。

 しばらくして、おずおずと怯えるように光が戻る。なるほどこれは人間の言う天国だろうか。たしかにそれくらいのまぶしさだ。あたたかな感触と、光溢れる場所のまばゆさ。楽園があるとすれば、きっとこういった世界のことを指すのだろう。納得して、私は体をゆだねた。波にゆられるように抱きすくめられている。ひどく気分が良い。ぬくもりがあった。人間の腕のような、ぬくもりが――ぐに、といきなり強くなる。苦しい。私は魚のようにエラ呼吸はできないのだし、どちらにしろ酸素が足りない。息ができない。くるしい。くる――

「あー、いきかえったよ」
「初めから死んでない!」
「そかー。……むう」
「おい、もしかしなくても食う気だっただろ」
「…………ツカサ、それゴカイだよ。そんなことないよ?」
「その間はなんだ」

 どん、と彼女の腕からいきなり落ちた。(正確には、あはーと笑った瞬間に抱えていた手から力が抜けて落とされたのだが。)見覚えのありすぎるふたりだった。地面には、大きな袋から中身が飛び出ているのが見える。「大宇宙超真理曼陀羅」と書いてあるお札が数百枚単位でばらまかれていた。ある意味、壮観だった。

「ふふふふふははははっはっっはっっはひゃひゃひゃひゃ」
「黙れ変態」
「ぬぅわぁーにぃをぉお抜かすか息子よ! この鳥が助かったのは誰のお、お、お、おかげと存じるかね。ん? んんん? 泣いてわめいてあいつを助けてやってくれと叫んで土下座して足の裏を舐めて頼んだのは誰だったかねえぇ?」
「家族計画は終了する、とか重々しく叫んでた貴様はどこにいったんだよ! どー見ても戻ってるじゃねえか! しかも誰が土下座したっ!?」
「涙ぐんで『あいつを助けてやってくれ』と思った司は優しい息子に育ちましたお母さん」
「あらあら、司くんも大きくなったわね……」
「そう、そーなんですYO! 大きくなっちゃったんです。ほらそこが。家族一同、司のそこに注目YO!」
「……騒がしい」
「うるさい」
「待てお前らーっ!! 俺か! 俺が悪いのか!?」
「うん」
「当然」
「そうだにゃー。司が悪いのにゃー」
「ええと、あのっ、おにーさんそんなに怒らずに穏便にっ」
「とりあえずそこの変態は今後一切猫なで声を出すな! 気持ち悪いわっ!」
「ふふふふひょひょっひょんぬらりひょん? まあ、猫っぽいのの小文字部分を変えると色々と引っかかるよーな気がしなくもないそんな気がするきょうこのごろだな。……まあ、そんなイッツエロゲリズムジョークは置いておこうか。司よ、事実はどうなのだ? じ・じ・つ、というやつは?」
「あんた、どこに隠してたんだ、あんな袋」
「そんなもの四次元○ケットに決まっておるではないか。なにを不思議がっているのか父には理解できないぴょん。まったくこれだからエッチなことに敏感な思春期の司は」
「……俺にも理解できねえよ」
「甘いっ、まだまだ甘いぞ息子よっ! そんなんだから昨日の真剣な夜のあとにも乳くりあっている現場を簡単に写真に撮られるのだ! ビバ激写」
「……絶対殺す。そこを動くなよ変態! 誰か火を貸せ……こいつはいまのうちに灰に返さないと俺のこれからに暗い影を落とす悪魔だ」
「あの、止めなくていいんですか?」
「うー、ツカサ、だれとチチくりあってたか?」
「……あ」
「……う」
「……お」
「ええと、そのー」
「とりあえず黙れお前ら」
「司、貴方が黙りなさい」
「ぐは」

 助かった、のか。いやしかし。何故。どうして。疑問を抑えきれない。凍り付いたように、地面から彼らを見上げるだけだ。
 胸の筋肉は弛緩し、踏みしめる腿も震えている。知らぬ間に、我がくちばしは小さく欠けていた。赤は黒に紛れ、艶やかに羽を濡らす。痛みに支配されたまま動けない。
 天使の羽にも似て、地にこぼれ落ちた白に一羽、私の姿だけがひどく薄汚れて見えることだろう。煤けた姿をさらし、戦いのうちに死にきれなかった王が、ここにいる。

「説明が必要って顔してるな」
「……おにーさん、また鳥さんと話してるみたいですけど」(ひそひそ)
「きっと司は昔からあの習性があったのだろう。そして友達少なかったのだ。そこを踏まえて、この可哀想な兄をちゃんと哀れんでやりなさい」(ひそひそ)
「ツカサ、鳥と見つめ合ってるなー」
「うーん。お母さんとしてはこの場合感受性が豊かだって褒めてあげるべきなのかしら」(ひそひそ)
「馬鹿よ」(きっぱり)
「司は変わった……昔の司は鳥と会話なんてする男じゃなかった……」(ひそひそ)
「……つーか、お前ら全員聞こえてるぞ! せめて小声で話せよ!」
「うぬ? おかしいな、(ひそひそ)と入れれば聞こえないと某小説に書いてあったのだが……しまった、騙されたっ!? パパりん、ぴんちっ! が、がお……うちのちょっと曲がった息子が家庭内暴力を振るうんです。たすけてくださいみ○さん」
「えっ、あっ、あっ、テレビにでるなら化粧してこなきゃ……てへっ」
「他社ネタ使うなっ! それからそこっ、み○もんたに本気で掛けようと電話を持ってくるな。それから化粧してもしなくてもさほど変わらないから無駄な努力はよせ」
「ひどいっ、司くんがいぢめるー」
「ひどいっ、司くんがいぢめるー」
「中年が黄色い声を出すなっ!」
「ひどぃぃい、ずるいずるいずるいっ! 若ければいいんだっ! 若いってそんなに素晴らしいの!? うわーん、司くんがさべつするぅーっ! おばさんだからってぇえ」
「やかましい」
「えー」
「……あーもう、ちょっと黙ってろ。頼むから」
「人間として不適格なくらいのコミュニケーション不足と判断されます。うちの性欲魔人の司ちゃんはそのうち引きこもりになるんじゃないかと心配で心配で」
「やかましいわ人外っ! 貴様は土の中に引きこもってろ。さて……」
「カァ」

 私は、じっとしたまま体の緊張を解きほぐし、彼の説明をみじろぎもせず聞いた。銃を使った人間がいたため隣人たちがこぞって警察を呼んだこと。私の引き起こした混乱に乗じ、寛殿が様々な工作をして状況を裏返したこと。そして、私を助けるために行動を起こしたことなど。簡単に説明してくれた。

「まあ、あのお札入りの袋で衝撃を吸収しようとしたり、跳ねた鳥を春花がキャッチしたり、それから青葉のあの瓶と寛の攻撃でふらついた黒服に向かって、あー、その、なんだ……末莉が石でそいつの急所をガツン、とやったりな。あれは痛そうだった」
「……カァ」

 司殿の言葉に、彼の顔から視線を逸らし、はるか高みへと向ける。
 空は遠い。

「……クァ……」
「あっと、これだけは言っておかないとな。……手助け、ありがとう」

 そういって彼は立ち上がった。わざわざ私の視線に合わせるために座り込んでいたことを、いまさらに気づいた。どうやら前後不覚とまではいかなくとも、私もかなり疲労しているらしい。体にもガタが来ている。またもや傷ついた翼は、いつか癒える日が来るのだろうか。このまま力尽きてしまうのも悪くないかもしれない。しかし。

「ああして鳥と会話を成立させられるというスペシャルスキルをもって一家の大黒柱の立場を奪おうだなどと片腹痛いわ! この偉大なる父の、鳥人間コンテスト三年連続六位の実力を見せるときが来たようだな。ふむん」
「ええと、おにーさんが真面目な顔してるんで、おとーさんは少し黙っててください」
「……ぐっすん。娘がっ、娘が反抗期にーっ!?」
「あらあらお父さん。末莉の成長をちゃんと喜んであげないと。……でも三年連続六位って中途半端かもー?」
「それもそうだな母さん。よおし今日は赤飯にするぞう」
「……もしかして触れられたくない過去だったのかしら」
「おおっ、あんなところに八番星が! ……え、北斗七星?」
「おー」
「また微妙な」

 いつも通りの会話だった。あまりにいつも通りすぎて、彼らがいちどき別れを選んだことなど忘れてしまいそうなくらい、普通だった。

 とたんに気づいた。
 この場違いなまでにふざけた会話。これは寛殿なりに考えたうえでの結果なのだ。殺意を目の前にして、若き者たちが受けたであろう衝撃を少しでも和らげようとしているのか。あるいは別れた過去よりも、彼らが戻ってきた現在を正しき姿と思いたいのか。どちらにしても優しさには違いない。
 下を見ると、散った羽が黒を隠すほど赤かった。もうすぐかろうじて保っていられた意識が尽きてしまいそうだ。目覚めたときに命があるかどうか、分からない。
 寛殿、青葉殿、真純殿、準殿、春花殿、末莉殿、そして司殿。高屋敷の家族たち、彼ら七人のいつも通りの姿に私は安心する。これで心おきなく地に還ることができる。

「さあ、今日は宴にしようではないか! 酒だ、酒持ってこぉい! あとちゃぶ台も必要だぞ。父は父らしく、思う存分ちゃぶ台返しを司に向けてやってやろう! 楽しみにしておれ馬鹿息子よ」
「……解決祝いのパーティには賛成だが、貴様は寝てろ」
「おおうっ、久々にキいた」
「強制的に寝させてやろうか」
「家庭内暴力予告ですよー。おまわりさんたすけてー」
「そこにいるから洒落にならんわっ!」
「さて、なかよし家族八名。いまより高屋敷家に帰還だ」
「……いきなり真面目になったな」
「父はやるときはやるのだぞ?」
「ほう」
「それでは、全員揃って我が家に帰ろうではないか!」

 分からない……分からないが、私はいま生きている。まだ生きている。それはきっと、誇るべきこと。仲間達の勇姿を思い出しながら考える。
 同胞たちは、そして私は、あのころ生きるために戦っていたのだ。だからいまはまだ死ねない。少なくとも、生き抜いたのちに死ななければならない。仲間たちの姿を記憶する王の務め、最後の餞として。
 たとえ死したとしても、その絆は薄れ得ない。仲間たちを愛していたという真実は、私がいるかぎり決して消えることはないのだから。
 この瞬間に彼らが馬鹿げた会話をしながら、それでも無事に笑っている姿を見られたことを、その因の一角でも私の力で成し遂げたことを、私は純粋に喜んでいるのだ。
 小鳥のように弱々しく首をかしげて、高屋敷家に目をやる。壊されていない、崩れてもいない。幻視のごとく予感した、あの家の消え失せる様を見なくてすんだ。それがとても嬉しい。優しい場所は、彼らの帰りをちゃんと待っている。

 絆は脆いけれど、それゆえに尊い。
 美しくて、醜くて、歪んでいて、真っ直ぐで、手にすることを躊躇うほどに複雑で、手にしたものは単純で、楽しくて、悲しくて、嬉しくて、つまらなくて、厳しくて、そして優しい。家族とはそういうものだ。形のない絆。けれど鎖のごとく縛るのではなく、手と手を取り合って前に進むための繋がり。血ではない。家族で在りたいと望む者が、手を差し出せばいい。家族になりたいと願う者が、手を取ればいい。
 誰もが孤独に怯え、震える手を伸ばす。振り払われることもあるだろう。見向きもされないかもしれない。それでもきっと、いつか誰かに届く。

 私は、守る者を持ったとき王となった。
 そして家族は、求め合うがゆえに家族となるのだ。

「鳥、一緒に来るだろ?」

 返事の代わりに、私はカァと一声鳴いた。彼は、ん、と頷いた。
 彼は全員の顔を見る。いつも通りの疲れた顔で。いつもよりも優しい表情で。ごくごく当たり前のように、ひどくあっさりと声を掛ける。

「じゃ、帰るか」

 当然と発せられた言葉に、私は力無く翼を広げた。自らの足で数歩を進み、倒れそうになる体をどうにか支える。少しばかりふらつきながら、彼の前に立つ。視界はほとんど霞んで、歪んで、いまにも白に溶けていってしまいそうだ。
 見回せばいつも通りの顔。不満げであったり、なにも考えてなさそうであったり、楽しそうであったり、嬉しそうであったり。だがそれは、決して不快ではない。
 これが一度壊れたことを全員が理解している。その儚さを誰もが知っている。けれど、そこにはぬくもりがたしかにあるのだ。
 帰る場所を失った者たちが身を寄せ合うのではなく、行く未来のために共に歩く者たちが肩を並べるためのもの。作るものではなく、いつしかできてしまっていたもの。
 しばらくのあいだ、彼らのなかに混じって見守ることにしよう。それすらも家族と呼ぶのかを私は知らない。
 知らないが、それでも。すでに彼らは私にとってかけがえのない家族なのだ。
 私が空を見上げたら、鮮やかな青がただ美しかった。澄み切った青い世界を、私は霞む瞳にしっかりと焼き付ける。これで思い残すことはない。
 視界は闇に閉ざされていき、もはや足に力もなかった。倒れるままに地に横たわる。翼も動かない。優しいまどろみに包まれていく。カラスの体力などたかがしれているのだ。このまま冷たくなるかもしれない。だが、すぐ抱き上げられたぬくもりと、気遣うような慌てた声があった。心地よい風が私を撫でてから、空へと抜けていった。そして私は静かに目を閉じる。
 見えなくとも、誰かが私を助けようと手を尽くしてくれているのが分かった。いつかの司殿のように。私はそれに甘え、最後に残った力でカァと小さく鳴く。

 私は家族を愛している。もし、運良く目覚めのときが来るのなら。
 願わくば、彼らのいつも通りの騒がしさに起こされんことを。




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