過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう
ウィンストン・チャーチル



アンバー・デイズ




 仄明るい光が壁にぼんやりと反射して、店内を薄暗く照らす。しかし影になるような場所は無い。何人かがバーカウンター前の席に座り、ある者はバーテンダーに話しかけ、またある者は無言でグラスを傾けている。
 すでに時間も遅くなり、客足も遠のいてくる頃合いだった。
 見慣れた常連客が階段を降りてきたため、バーテンダーが軽く会釈する。
 客――緒方英二は椅子に座ると、まずカクテルを頼んだ。それからふと隣りの席に目をやって、表情を緩めた。
「驚いたな」
「どうも」
 短く挨拶を交わす。視線の先には篠塚弥生。由綺付きのマネージャーが一人で佇んでいた。
 英二は予想外だったと言いたげに軽く肩をすくめた。この店で会ったのは初めてだったのだ。見た感じ、誰かを待っているようでもない。おそらく純粋な偶然だろう。
 目の前でシェイクされるのは、スコッチに、透明なキュラソー、イタリアンベルモットにライムを加えたもの。そのカクテルグラスの置かれるのを待って、静かに口を開いた。
「俺らにはきっとどうでもいいことなんだろうけど」と前置きして「幸福の条件って一体なんだと思う?」と尋ねてみる。
 弥生が何か言う前に、英二は自答を続けた。
「気づかないことさ」
「……?」
「そう不思議そうな顔をしなさんな。俺が言いたいのは、自分が幸せだってことに気づかないやつのことだ」
 前を向いたまま、英二がそんなふうに呟いた。弥生がいつも通りの声のトーンで聞き返してくる。
「今まさに自分が不幸であると気づかないこと、ではないのですね」
「弥生姐さん、それはちょっと穿ちすぎ」
「そうでしょうか」
 笑いもせず、英二は見つめられた。
「なに、俺がそうだって?」
「さて」
「……ったく。かなわんね」
 弥生はカウンターに座ったまま、背筋を伸ばした姿でドライ・マティーニを飲んでいる。
 英二が可笑しくって仕方がないと笑いをこらえる仕草をした。弥生も自分の手の中のグラスと、英二の頼んだカクテルとを見比べて気がついたようだ。
 表情は変わらないが、空気が柔らかくなったように感じた。
「これはなかなか……面白いな」
「そうですわね。乾杯でもなされますか」
 ふむ、と英二は考えて、高らかにこう告げた。
「酒と葉巻と英雄を愛した男に」
「乾杯」
 チィンと涼しげな響きを跳ねさせて、グラスが触れ合う。二人は前を向いて一気に飲み干した。
 英二は次に頼むものを考えて、バーテンダーに色々言ってみる。面白そうなカクテルは無いかと。二、三提案されたが、その中にはしっくりくるものが無かったので、水割りにした。
 弥生はまたマティーニを頼んでいた。今度はジンの代わりにウォッカを入れている。当たり前のように飲み干したが、顔色が全く変わらない。
「さっきのことを理奈にも聞いてみたんだ。どう答えたか。弥生姐さんは興味ある?」
「お聞きしましょう」
 上司の顔を立ててくれているのか、それとも興味があるのかいまいち判然としない。
「気づくことだとさ」
 弥生の表情を観察してしまう。どんな反応かが気になるのだ。
「自分が幸せであること。あるいは、自分が不幸であることに。幸せだって気がつけば、それを続けようとする。不幸だと知れば、そこから逃れようとする。ま、あれの性格からすればそう言うだろうな」
 バーで議論をふっかけるほど野暮ではない。ただなんとなく話したかったのだ。そして弥生は聞き流すだろうと考えていた。
 しかし、面白い言葉が返ってきた。
「由綺さんに似たような問いをされたことがあります」
「由綺のやつが? ……幸せって何か、って感じかね」
「まあ、そのようなものですわ」
「姐さんはなんて答えた」
「渇きが満たされること、と」
「……ふうん」
 弥生の嗜好なら知っている。それがどういう意味なのかも。英二は詳しく語ることを避けた。
 そうこうするうちに、問いが戻ってきた。
「緒方さんならどうお答えに?」
「俺? 俺は、幸せになんかなりたくないね。だからそんなもんには答えない。だって幸せなやつってつまんないだろ? みんな自分の持ってないもの、自分が欲しがるものを誰かに中に探すんだからさ、そんなもんのために頼られちゃたまんないぜ」
「ああ、だから藤井さんのことがお嫌いなのですね」
「……うん?」
 弥生は英二の方を見ることもなく、淡々と語る。
「由綺さんが藤井さんと離れがたい理由はそれだと、そう思っていらっしゃる。そして自分にはどうにもならないことだと」
「やれやれ。あんまり嫌なことを見透かさんでくれよ」
 ため息混じりにもなる。
 弥生が苦笑した。珍しいこともあるものだ。
「いえ。私も似たようなものですわ」
「自分語りなんて、珍しいな」
「この時間、由綺さんは彼に抱かれているころでしょうから」
「あ、そ」
 英二は眉をひそめた。だが何も言わなかった。
「詳細をおたずねにならないので?」
 また、嘆息してしまう。
「おいおい、そんなのは時間の問題だってのは承知してただろ。弥生姐さん、俺をなんだと思ってるわけ?」
「どうしようもないお人好し、と」
「それはお互い様だろ」
 弥生が英二と同じ水割りを頼んだ。
 どちらからともなく黙ってしまうと、あえて今話すべきことが何もないことに気がついた。英二は無駄と知りながら、笑いかけてやった。
「とにかく、恋なんてするもんじゃないぜ」
「……同感ですわ」
 喋りながら、変なペースで飲んでいたためだろう。酔いが回ってくるのが妙に早い。真横にいる弥生が涼しい顔なのが少し悔しくて、英二は終わったはずの話を続けた。
「弥生さんさ。今、幸せ?」
「そちらは?」
「たぶん、弥生さんと同じ」
「ならば答える必要など、ないのでしょうね」
 弥生はくすりと笑う。嫣然と、と言いたいところだったが、むしろ無邪気な微笑みだった。
「何もしないっていうのは勇気かな。それとも愛かね」
「どちらでもありませんわ」
「じゃあ、俺らのやってることは、なんなんだろうな」
「私たちにとっては、どうでもよろしいことなのでは?」
「そういやそうだった」
 最初にそう言ったのは自分だったと、英二は頭をかいた。どうも頭が回っていない。弥生がらしくない、どこか明るい口調で聞いてきた。
「緒方さんは愛なんてものを信じておられるのですか」
「たぶん、弥生さんと同じだろうさ」
「あらあら」
 分かりにくいが、冗談だったのだろう。弥生の目が笑っていた。
「うん。まあ。なんていうかさ。俺は、」と一度言葉を句切り、「別にジョシュア・ノートンになりたかったわけじゃないんだよ」とため息を吐いた。
 肩をすくめる。そうそう上手くいくことなんてないのだと、英二は口に出さずにうそぶいた。
「なまじ自分の思い通りにならなくて、良かったかもしれませんわね」
 反論の言葉もない。英二は口元を歪めて、返事代わりにした。
 そろそろ閉店時間になるだろう。
「……雪になっちまったかな」
 地下なので、外の様子など見えない。しかしあの寒さで、来るときには雨がちらついていた。あるいは降り積もっていてもおかしくはない。
 店内に静かに流れる何か物憂げな曲は、掠れた声、罅割れた音を発しながら、何度となく同じメロディを繰り返し、どんどん小さくなって、やがて宙に溶けるようにして消えていった。
 次の曲がかかるまでの、短い空白の時間。帰り支度をする英二の隣りで、弥生がよく磨かれたグラスを手に取った。
 静寂を壊したのは、カランという氷の音。
 甲高く澄んだ響きが、傾けたグラスから生まれた。その氷の隙間、透き通った液体に弥生の顔が映り込んだ。
 ほんの少しだけ優しい笑み。
 もしかしたら気のせいだったのかもしれない。
「じゃあ、お先に」
「ええ。また明日、お会いしましょう」
 英二は地上への階段を上り、外へと出た。風に逆らって歩き出すと、思っていたよりも大きな白い雪が吹きつけてきた。顔や手に当たるたび、痛いくらい冷たくて、その凍えさえ、なんだかいやに楽しかった。

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