雨は嫌いだった。
悲しい思い出ばかりが思い起こされるから。
弱々しい雨の音。
ガラスに遮られているため、本当に小さく聴こえてきた。
地面と透明なガラスを叩くその音に、私は不満顔で空を見る。
先ほどまでは雲の多いだけだった空が、鉛色を濃くしていた。
鈍い灰色の雨雲の狭間から、だんだんと強くなっていく水滴。
窓の外を見れば、かすかに溜まった水たまり。
当然だが、薄暗い。
隠れてしまった太陽の方向を睨み付けると、私は黒板に向き直った。
教師はよそ見をしている生徒がいることなぞ知りもしない。
ひたすら黒板を白い文字で埋め尽くしていた。
その時間の授業が終わった。
ノートを取るのに必死で、降り始めたばかりの雨に気が付いている人間は少ない。
黒板に目一杯書かれた乱雑な文字に、わずかばかりのため息を吐き出す。
書き写す苦労と、予定が崩れた不満に対して。
カリカリとシャーペンの音が鳴り響き、鉛筆が動き回る。
休み時間の数分を奪い取って、やっと書き終わる。
私は立ち上がり、浩平の席まで歩いていく。
三年生になったとはいえ、この学校にはクラス替えはない。
ただ、はっきりと宣言した覚えはないのに、いつの間にか私と浩平の仲は広まっていた。
私たちには気にする必要もないので放っておく。
なんとなく誰の仕業かは判っているのだけれど。
好奇なのか祝福なのか、いまいちよく判らない視線を感じる。
それには反応しないで、浩平に話しかける。
「浩平」
「……ん。どうした茜?」
私が声を掛けると、浩平は笑みを浮かべて聞き返してきた。
このやりとりすらも楽しくて、私も笑みを浮かべているらしい。
自分では気付かないけれど、少し前に、詩子から指摘されて驚いた。
私は、小さな声で言った。
「デート」
「デート?」
オウム返し。
その顔を見る限り、外の様子には全く気付いていないらしい。
私は軽く腕を上げると、浩平の目の前に持っていく。
通り過ぎて、そのまま暗い空を指す。
「今日は、どうやらデートはできないようです」
ゆっくりと窓の外に目を向ける浩平。
いまさらのように気が付いたらしい。
「……あー。雨降って来ちまったか」
ものすごく残念そうだ。
私は浩平と同じ気持ちで、さらに強くなっていく雨を見ていた。
会話の通り、今日はデートの予定だった。
いつものルート。甘いものを食べて、お買い物をして。
ときどき詩子が邪魔をしに来たりもする。
そんな感じの、だけど幸せなデート。
浩平が変なことをしでかすこともある。それすらも楽しい。
好きになってしまったのだから仕方がない。
ただ歩くことすら嬉しくて、今日も楽しみにしていた。
雨が降るのは仕方がないことだけど。
やっぱり、嫌なことばかり思い起こさせてくる。
そのまま時間は流れ、お昼休みになった。
静かに続く雨音と、教室のざわめきと。
私は黙って席で待つ。
しばらく待てば、人の数は減っていく。
学食へと向かう人間と、弁当やパンを食べる人間で別れていく人の流れ。
まばらになった教室のなか、私と浩平が向かい合ってお弁当を食べている。
雨の様子は強くなるばかり、どうやら、学校から帰るころにはもっとひどくなるようだ。
苦々しい思い。感じたことを悟られぬよう、浩平に話しかける。
「で、浩平。今日は何点ですか?」
もぐもぐと夢中で食べていた浩平は、一度、箸を置く。
目をつぶって悩む。
ちょっと間を開けて、それから答えが返ってきた。
「……10点」
「……何点満点かを言ってください」
ひとこと。
私の言葉に浩平は、当然、とばかりの笑みを浮かべた。
「9点満点」
必要ないくらい自信満々に。
その答えに、私は疑問を投げかける。
「なんでそんな中途半端な点数なんですか」
「いや。言ってから10点満点中10点だと物足りない気がしたんだ」
はははっ、と笑って食事を再開し始める浩平。
良かった。ちゃんとおいしくできていたみたいだ。
私は、安堵の息を吐き出す。
浩平が弁当箱を空にして、その端に残るご飯粒まで食べた。
ふぅ、と一息つく。
そのまま私に向かって笑いかけてきた。
「しかし……美味い。ホントに美味い。朝昼晩、全部茜の料理を食いたいくらいだぞ」
その言葉に、私も微笑んだ。
午後の時間は静かに過ぎていく。
カチカチと鳴る時計の針音。硬いシャーペンの音。
ざあざあと落ちてくる、雨の粒。
厚い黒い雲の隙間は見えない。
敷き詰められている空は、なおも深くなるばかり。
今日何度目かのため息を、誰にも気付かれないように吐き出した。
ぼんやりと空を見上げていると、教師に指されそうな順番が回ってきていた。
暗い空に負けないくらいの落ち込んだ気分で、不満を飲み込む。
視線を戻して、ノートと教科書に集中する。
午後の授業も全て終わり、もうこれ以上は学校にいる必要はない。
だけれども、やっぱり雨は止まないまま。
本日最後のホームルームを待っている時間が、やけに面倒だった。
浩平を見ると、どうやらあちらも空を見上げているらしい。
悔しそうな顔の浩平。なんとなく私も悔しかった。
「あんにゅい?」
横から、唐突に話しかけられた。
いつも聞き慣れた親友の声。
とっさに反応する。
まあ、毎回だいたい同じ切り返しなので問題ない、と思う。
「……詩子、いつの間に来たんですか?」
「いやー、今日はデートだって聞いてたからついつい邪魔をしに」
てへへ、と笑う。
悪戯好きの子供のような笑み。
「そうですか」
「あれれ……邪魔しに来たのに怒らないの?」
不思議そうな顔で訊く詩子の疑問に、私は即答した。
「もう慣れました。それに今日はどうせデートは中止です」
「あっちゃあ〜。すごい大雨だねー」
いままで気付かなかった、とばかりの言い方。
もしかして、と訊いてみた。
「あの、詩子……。この時間までどこにいました?」
「他の教室で授業受けてた」
至極当然と言いたげな表情。
自信満々の笑み。ある意味で、浩平ととても似た笑顔。
さすがに何と言えばいいのだろうか、私にはよく判らなかった。
ちょっと黙る。
「……」
「……」
会話が止まってしまった。
そして、先に口を開いたのは詩子だった。
「この学校って面白いひとが多くて楽しいんだもん」
手をひらひらとさせながら、笑った。
誰も気付かないというのも、問題な気がする。
「そういう問題じゃないです」
「まあ、見付かっても笑って許してくれるわよ」
気楽な口調で言ってくる詩子に、私は仕方なしに頷く。
「……なら、いいんですけど」
詩子が窓の外を見下ろしてから、空を見上げた。
水ばかりが見える。
途端、困ったような顔になる詩子。
「しかし、この雨だと帰るのが大変かもしれないねぇ」
「たしかに」
肯定すると、詩子は考え込んだ。
荷物はどこかに置いてあるのだろう。手ぶらだ。
と、何か思いついたような顔で、にっこりと笑みを浮かべた。
ちなみに、もう詩子には慣れたのか、誰も注意しようなどと言う人はいない。
浩平の日頃の行いが悪いせいだろうか。
詩子の分まで積み重なるのは、自業自得とは言えないけれど。
浩平はこっちの様子に気が付いているのかいないのか。
どうやら放っておくことにしているらしい。
詩子はしばらく私のまわりをうろうろすると、勢い込んで頭を下げた。
手を合わせて、お願い、といったポーズ。
「茜お願いっ、傘貸してーっ!」
「……どうぞ」
教室の隅に置かれた傘立てから、私のお気に入りを一本。
そのまま詩子に手渡す。
「ありがと茜っ。今日は朝からいたから、傘を持ってくるの忘れちゃったんだよねー」
「次からは忘れないでくださいね」
私の言葉に思いっきり頷く詩子。
「うんうん。分かってるって」
満面の笑みを浮かべて、そのまま続けた。
「じゃあ、あたしは帰るね」
「もう帰っちゃうんですか?」
詩子は髪の毛をいじりながら、にひひと笑った。
「いやー、デートも中止みたいだし。そこまで野暮じゃありませんよーっだ」
「……はい?」
私が聞き返すと、詩子はそれには答えず、笑みを深くした。
「ま、分からないならいいからいいから。じゃあねー」
そのまま手を振って、教室から堂々と出ていく。
どういう意味だろう。
私は言葉に意味を考えていた。
だが、すぐにホームルームが始まってしまったために中断する。
明日のこと。注意事項。雨の日だから気を付けて帰りなさい。
……などといった話。それほど長くはない。
最後に担任が挨拶をして、終わる。
「さて、茜。帰るぞ」
「あ、はい」
背中越しに声を掛けられて、すぐに浩平に近づく。
机に掛けておいた鞄を持って、まだまだ強いままの雨を見て。
唐突に気付いた。つい声を上げてしまう。
「……あ」
「どうした?」
浩平が、私の声に聞き返してきた。
ほんの少しだけ言いよどんで、答える。
「傘、詩子に貸してしまったのでありません」
完全に自分の分のことを忘れていた。
詩子も、私の分が無くなることに気付かなかったのだろうか。
「ああ、気にするな」
傘立てに向かい、がたがたと黒い傘を抜き出す。
そんな風に言いながら、自分の傘を持ってくる浩平。
あまり中身の入っていないように見える鞄をつかみ取り、教室のドアへ向かった。
廊下に出た途端、浩平がつぶやく。
とても、優しい声。
「……家まで送ってやるから」
どこか、照れたように。
その微笑みに、私は少し、顔を赤くした。
帰り道を、寄り添って歩く。
雨に濡れないようにと、ぴったりくっついた体が、ほのかに温かかった。
……雨に降られたら、浩平の傘のなか。
不純な動機かもしれないけれど、私はとても幸せだった。
いま、私の隣には浩平がいるのだから。
降り注ぐ、痛いほどに冷たいこの雨さえも嬉しかった。
今なら。
嫌いだった雨を、好きになれそうな気がした。
終わり。
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