時は過ぎてしまっても




 ふとした瞬間に、自分というものを取り戻したとき、ほの明るい闇が私の目の前にあったことをおぼえている。そして届くのは声だけだった。誰かの声。いくつもの異なる声たち。
 私はひどく混乱し、言いようのない不安に陥ったが、そういった戸惑いを周囲の声へと伝える術を何一つ持っていなかった。……目覚めることのできないまま、私はおびえていた。その眩い闇がいかなる意味を持つのかを知るまでのあいだ、わけもわからぬ恐怖にさらされ、考え続けていた。


「だからさ、こんな風になっちまった親父を誰が面倒みるっていうんだよ。そりゃ、いいさ。家族だから面倒くらい見るのは当たり前だ。でも、いつまで? 治る見込みなんか無いって医者が言ってただろ。母さんも聞いてたじゃないか」
「分かってるわよ」
「分かってない」
「……そうね。だけどね、できる限りは頑張ってみるの。そうじゃないと、お父さん、あんまりにも可哀想じゃない。……無理強いはしないわよ。あんた、就職決まったばっかりでしょ」
「俺のことはいいんだ。俺のことなんかは」
「だめよ。ちゃんとしなさい。こっちはこっち、あんたはあんたの人生なんだから。わたしは大丈夫よ。幸い、補償金だけはがっぽりもらえたからね」
「……分かった。来週、また来るよ」
「いいのよ。それより身体に気をつけなさい。倒れたりしたら怒るからね」

 おぼえている。むしろ、忘れていない、と言ったほうが正しいのだろうか。深い闇の中に埋もれている最中も、私の耳はそれらの言葉を取り込み続けた。少しずつ、記憶は明瞭になってゆこうとする。
 痛みはない。あるいは身体の感覚など何一つ無いという状況下にあって、私は海に漂う水母のようであった。波に押し流されそうになりながら、その動きに逆らってその場に留まろうとする。
 静けさが私を蝕んでゆくのを感じるたび、どうしようもないほどの冷たさが背筋を通り抜けた。何もないと言いながら、そうした感覚だけはむやみに鋭敏になっていたのであろうか。
 言えることは、分からないというその感触が、私という存在をどれほど不安定なものにしたのか、余人には理解出来ないであろうことだけだ。
 そこにいる私が漂白されていくかのような、すべてが失われてゆく手触り。
 時折、虚無の息づかいが、頬を撫でた。死に神が私へと向けて腕を伸ばすイメージを抱いた。そんなときには、やり過ごすことしかできない。身をよじることも、逃げ出すこともできず、ひたすらに触れられるのを避けようと、心だけでもがくのだ。
 なにかひどく大きく、冷徹で、残酷な、そしてありふれたものであるがゆえに――なおのことおそろしいものによって、ゆっくりと、私が消されていこうとする。
 あらがえないというただ一点を根拠に、私はそうした薄ら寒さを感じるこの世界が、長い夢なのだと信じた。
 やがて終わる悪夢であることを、信じたのだ。

「そうです。植物状態、といってしまうと少しばかり語弊が生じるでしょうが、おおむねそういった症状であると考えていただいて結構です。それで、他に何か質問はありますか?」
「主人は治るんですか?」
「外傷はほとんど治癒しました。先ほども申しましたように、問題は二点です。ひとつは脳内の出血。これは早期の手術によって大事に至りませんでしたが、一向に意識が戻らないことから、まだ何かしらの異常が残っている可能性があります。もうひとつは、精神的な問題でしょう」
「あの、先生。精神的、といいますと?」
「つまり、生きようとする意思があるかどうかです。それが強ければ、回復することは十分ありえます。諦めるにはまだ早いと、私は判断しています」

 声。声。声。
 私が受け入れられるものはただそれだけだった。音の響きが私の中に入り込もうとしている。聞き覚えのある声があった。知らない声があった。そのどれもが、私に向かって語りかけられたものではなかった。
 声はただの音だった。私はそれらを意味の為さないものだとして捉えていた。しかし長く無音が続くうちに、私はかすかな音――たとえば風の音、はるか遠い靴音、シーツの擦れる音、人の息づかい、そして数人の話し声など――を必死に求めるようになった。
 不意に、音は意味を得た。
 あるとき、最初のうちはただ鳴っているだけの音たちが、私にも馴染みの深いものとして蘇った。人間の声は詰まるところ言葉だった。耳を傾けるだけだった私が、静けさの中に様々な色合いの声を見いだすようになると、まとまりのなかった音は明確なものへと姿を変えた。
 暗闇のなかにあって、声は光であり、風だった。
 色褪せた記憶をも呼び起こす、かすかな切っ掛け。

「このたびは、なんと申しあげたらよいか」
「いえ。……来ていただいて、主人もきっと喜んでいると思います。……あらいやだ。こんな言い方だと、まるで死んだみたいね。ふふ」
「奥さん。そういう冗談は止めたほうがいい。こいつの顔もめっきり変わったが、あなたも相当お疲れのようだ。気持ちは分かるが、あまり感心できない」
「いいんですよ。こんなになってまで、色んな方が訪ねてきてくださるんです。なのに寝っぱなしの主人ですからね。このくらい言わないと割に合わない」
「……はあ。それはそうと、本当に顔色悪いですよ。ちゃんと休んでますか」
「大丈夫ですよ」

 闇の中にあって、声はいくつもの色や、形、大きさ、あるいは衝撃として私に元に集った。それはおそらくイメージ、もしくはその欠片や、残骸だったのだろう。私は夢の中に過ごしていたのだ。そこで形作られる存在において、もっとも適していたものが視覚化された音声だったのであろう。
 理屈はどうでもいい。ただ、私は声を集めた。意味のある言葉をつなぎ合わせ、私の空虚を埋めてくれるものを追いかけた。
 黒が別の色で塗り替えられてゆく。人間にとって、色とはすなわち光の見え方だ。とすれば私の眼前に現れたあらゆるものは、光を材料として作られていたと言っても過言ではなかったろう。
 私はそうして、声を、ひとの姿として作り替えた。
 記憶と繋げることができたものは、私の知るそのままに。繋げられなかったものは、漠然とした想像で補われた。
 こうして生み出された数多のかたちは、聞こえてくる声に呼応して、そのたび新しいものへと書き換えられてゆく。誰かに優しい言葉をかければ顔は笑みを浮かべた。愚痴れば顔つきは自然と暗いものに変化した。冗談を言えばひょうきんに、あるいは口元を歪めたりした。声の調子や、言葉の選び方は当然ながら、足音の早さ、息の大きさ、動作ひとつひとつにも音が生じる。

「ああ、奥さん。突然押しかけちゃってすみません。いやね、ずっと来られなかったから謝ろうと思ってはいたんですが。なあ、おまえ」
「すみません。ほんと、ご無沙汰で」
「いいえ。かまいませんよ。あ。お飲み物でも買ってきましょうか」
「お構いなく。長居はしませんから」
「そうですか? ……やっぱり買ってきますね。そのあいだ、ほら、主人の顔、見てやってください」
「……あ、いっちまった」
「あらら。あのひとも気、遣うわよねえ」
「言うなよ。そういうことを。兄貴も年だってのに、なんで今更こういうことになるかねえ」
「年ならあなたも同じくらいじゃない。ま、対向車線から車が飛び込んで逆走するなんて運の無いことはそうそう無いでしょうけどね」
「だなあ。そのまま死んでたほうが楽だったかもな」
「……あのひとも物好きよね。相手からの補償だけじゃなくて、保険金も入ったんでしょ? お金があっても、やっぱり世間体は気になるものなのかしら」
「おいおい……っと、静かにな」
「はあい」
「すみませーん。ちょっと時間かかっちゃいました。ええと、お茶で良かったでしょうか? 一応、珈琲も買ってきましたけど」
「ああ、どうも。いただきます」

 一方で、言葉そのものの重さは厚みを増した。何気なく語られる一声に、私は容易く影響されてしまう。
 怒りもあった。おそれもあった。不安であったり、諦めであったりといった様々な感情がどこからかわき出してくるのを知った。
 夢でありながら、ここは現実でもあった。
 闇の中は静かだったが、音だけが外界と私を繋ぎ合わせた。何もなければ狂っていただろう。何も出来ず、死ぬことさえ選べず、ただ生きていることを思えば、この深い闇が透明で無いことは、あたかも幸福の享受に似ていた。
 他者よりも多くのものが未知となったために、より多くの恐怖を持ちはしたが、いくらかの苦痛は意味を失ったのだ。
 終わりは怖くない。
 ただこうして続いていくことが――永遠こそが、おそろしかった。
 そのくせ、去りゆこうとする言葉を追いかける傍らで、緩やかな時間の流れに私は追い詰められていた。時折現れる音のない瞬間が、孤独を呼び込もうとする。
 私は独りなのだ。
 自覚したとき、孤独よりも巨大な退屈におそわれた。時が流れてゆくのを聞き届けるだけの人生が始まったのだ。気づかずにいればそれも幸福であったかも知れない。しかしそれは無理な相談だった。
 私は、眠り続けている。
 現実において、私は未だ死んではいないのだ。だが死んでいないことは、生きていることと同義ではない。
 私は、生かされているに過ぎなかった。
 途方もない寂しさに飲み込まれ、深い崖の下から叫ぶような心持ちで、誰にも気づかれない。こんな存在をたとえるのに相応しい言葉を知っていた。
 幽霊だ。
 私は動けぬ幽霊となって、夢と現実の波間を漂う。

「来たよ。……あれ、母さんいないな。一階の売店にでも行ってるのか。しっかし、親父も変わったなあ。こんなに痩せて、管つけて、あんだけ威張りくさってたくせに、今じゃ自分で何にも出来ないなんてさ。昔からすると信じられないよな。……なあ。親父さ。いいかげん、母さんのこと、解放してやれよ。あれからもう何年経ってると思ってんだ。五年だぜ、五年。毎日、毎日さ、あんたの身体を拭いてやって、あちこち固まらないように動かしてやって、全部、母さんがやってるんだ。あんたのために。見てらんねえよ……聞こえてるんだったら、頼むから、母さんを離してやれよ……」
「…………あら! 来てたの? ごめんねえ、ちょっと先生と話しててね。あら、どうしたの。目、赤いわよ」
「なんでもない」
「そう? ならいいけど。ああ、それよりあんた。ちゃんとご飯食べてんでしょうね。あとね、この前来たときは給料上がったとか喜んでたけど、寝る時間減ってたら元も子も無いわよ。お金より健康のが何倍も大事なんだからね。身体壊したらわたしもお父さんも悲しむってこと、分かってるわね?」
「……ああ」
「そうだ。もっと大事なことがあったじゃないのよう」
「なに?」
「カノジョよカノジョ。いいかげん恋人でも作ったんじゃないの? なに? まだなの? そうなの? ホント?」
「ホント」
「あらそう。……へーえ?」
「ホントだってば!」

 そして私は意識を取り戻してから耳にした言葉のすべてを思い返し始めた。すべての言葉を、ひとつずつ、並べていった。時間はあった。時間だけは、たっぷりとあった。
 息苦しさを覚えながら、言葉を読むことに没頭するようになった。他にすることはなかった。ただそうすることだけが、私が私たりえるために必要だった。
 いや、言い訳をしても始まるまい。
 私は目を逸らしたかったのだ。
 どんな人生であっても、その人生における主人公は自分であるという。
 しかし私は観客としての役割を与えられたのだ。見ていることしか許されない傍観者の立場。慰めに言い換えれば、途中で舞台の上から退場させられた悲劇の主役であったのかもしれない。
 大事なのはひとつだ。
 私は果たして、このまま舞台の最後までを見続けていることになるかどうかだ。

「そうね。良かったじゃないの」
「ん」
「……あんたね、もうちょっと嬉しそうに報告しなさいよ。なあに、お母さんのこと気にしてるの? わたしのことはいいのよ。それより、日取りは決まっているの?」
「いや、母さんと相談してから決めるべきだって、あいつが」
「あらそう。あんたには過ぎた子じゃない。この前、家に挨拶に来たときもちゃんとしてたしね。あ、お父さんのことは話してあるんでしょうね? ここまできて、後でもめたりしたら怒るわよ」
「それは大丈夫。つきあうのを決めたときに、全部話した」
「そう。ならいいの。で、お父さんに報告してから帰る……?」
「いいや。どうせ聞いてるだろ」
「どうでしょうねえ。もう何年も経ってるんだし、聞いてるんだったら指の一本を動かしたり、目を開けたり、そのくらいのサービスしてくれてもいいと思うんだけど」
「……そんなもんかな」
「そんなもんよ」

 ずっと続いていた音が、ある日、突如として途絶えた。私は困惑しながらも何をすることもできず、ただ耳を澄ませた。
 音のない世界。……いいや、音はある。いつだって心臓の音がしている。血流の音が聞こえる。空気の流れにだって何かしら音を生み出す力がある。動いているもの、生きているもの、変化するもの、そういった存在があるからこそ、あらゆる場所に音が発生する。
 そして、今、ここに音はない。

「親父。母さんが倒れた。……今は自宅で療養中だ。もう、けっこうな年なんだ。これ以上無理はさせられない。分かってるんだろ。あと、俺、結婚するから」

 音が遠ざかってゆく。
 私は、その音が息子なのだと知りながら、何も出来ない。

 音がしない。

「……これが、親父」
「そう。ちょっとのあいだ、二人きりにしてくれる?」
「ああ」
「うん。じゃあ、外にいてね。盗み聞きしてもいいけど、たぶん、恥ずかしいから、あとで怒りたくなるかもしれないけど」
「一階にいるよ」
「そう? ……じゃ。……行った、かな? それじゃあ、はじめまして、お義父さん。わたしが、あのひとと結婚したものです。ふつつかものですが、これからあなたの義理の娘になります。どうぞよろしくお願いします。結婚したといっても、式はあげていません。お義父さんが来られないって聞いていたのと、わたしのほうの両親はすでに他界しているのとで、色々考えたらこうなりました。したほうが良いと思ってらっしゃるなら、おゆるしください。えと、お義母さんのことは心配しないでください。ちょっと疲労が溜まっていただけみたいです。だけど、無理させちゃいけないので、なるべくわたしがこっちに見にくることにします。というか、今そう決めました。あのひとは反対してたけど、わたしがそうしたいんです。事後承諾というか、現場判断というか、そんな感じですけど、いいですよね? いいです、よね? ……いいってことにしておきます。では、また明日来ますので。ではでは」

 私……私は……。
 夢の中に……。

「……そうですか……でも、本当によろしいんですか? これまで、ずっと一緒に頑張ってらしたのに」
「いいんです。……わたしも疲れました」
「母さん。いいのか」
「ええ、なあに。そうしたほうがいって最初から言い続けてたのはあんたじゃない。何を今更」
「でも」
「……もうね、疲れたの。わたしはまだ大丈夫だけど、……大丈夫のつもりだけど、あんたにも、あの子にも、こんな苦労を押しつける気は無いの。昔言ったでしょう。あんたの人生は、あんたのもんだって」

 そうか。すまなかった。母さん。長いあいだ、苦労をかけた。
 私はけっきょく、最後まで面倒を見させて終わってしまうことになるのか。名残惜しいが、しかし、私に出来ることは何もないのだ。ただ生かされてきた。何年だろう。とっくに十年くらい過ぎていたのかもしれない。
 長い時間を、費やしてきた。
 奪ってきてしまった。
 だから、今になって、それを精算することになるのだ。何にもならなかった長い時間を、取り戻すことの出来ない日々を、ようやく終わらせるのだ。
 終わるのだ。
 だが、私はせめて言わなければならない。
 すまなかった、と。

「だめですっ!」
「え?」
「……そんなの、だめです。お義母さんも、あなたも、どうしてそういうことを言っちゃうんですか。お義父さん、可哀想じゃないですか」
「同情ならいいんだ。もう、そういう時期はとうに過ぎたんだから」
「ちがうの。ちがうのよ。そうじゃなくて、二人が大変だったのも、分かるの。分かったつもりかもしれないけど、でも、わたしが言いたいのはね、お義父さん、もうすぐ孫に会えるのに、それなのに今って、あんまりじゃない……」
「孫って、……孫?」
「どういうことだ」
「話が前後しますけど、わたし、妊娠しました。生みます。それで、お義父さんにも会わせます。たとえ自己満足だって言われたってかまいません。それくらい、いいじゃないですか。会わせてあげたいじゃないですか……」

 すまなかった。
 伝える方法も無い。せめて、こうして想うのだ。
 すまなかった。
 ちゃんとした父親でいられなくて。長い時間を、無為に過ごさせて。いろいろなことを犠牲にさせて。
 すまなかった。
 そう言うしかないから、私は、ただ想うのだ。
 笑うことも、泣くことも、何もできないまま、想い続けるのだ。
 すまなかった。
 そして、私は独り取り残される。


 音もなく、時は流れる。
 やがて足音が響き、静かにドアが開くと、こんな音がする。
 音から、姿形を夢想する。いつものように、そこにいるものと信じて、まぶたを開く。どうしてかもう暗いとは感じなくなった。窓から白い光の差し込む病室は、明るくて、眩しいくらいだった。
 身体は軋むような痛みをおぼえ、まるで動かない。しかし心地よかった。重さを感じているのだと思った。

「ほら、おじいちゃんですよ」
「……っ!」
「パパのパパですよー。ほおら、握手。はい、よくできました」
「……ぁあ!!」
「あ、お義母さんこんにちは。あなたも、ほら、こっち来て。写真でも撮りましょうよ。せっかくなんだし。ね?」
「……ぅぅぁっ」
「ああ、はいはい。泣かない泣かなーい! ほらほら、たかいたかーい」

 そして私は見つめる。
 声もなく、呆然と、見つめた。
 そこには私の知らない若い娘と、私の知っている妻の年老いた姿と、大きくなった息子がいて、小さな赤ん坊を抱いている。その幼子は、私の孫なのだと娘は言う。
 小さな手のひらが、私の指先に触れている。
 あるかないかの感触を、どうにかして感じ取ろうと、私は指に力を入れる。神経を集中させて、そこにあるものを思い出そうとする。
 呼吸の仕方さえ忘れてしまっていたかのように、どうにも息をするのが億劫だ。
 やがて、かすかな音が聞こえてくる。いいや、大きな声だ。それは赤ん坊の泣き声なのだった。こちらを見て泣き出したのだと分かって、私は狼狽する。どうしたらいいのか分からないし、動くこともできないしで、顔を無理矢理、笑みの形にする。
 笑って、見つめる。
 赤ん坊は、ぽかんとした様子で、私の顔をしばらく見つめ返したかと思うと、にっこりと笑った。
 信じられない、と息子が驚き混じりの呆れ声で呟いた。ああ、夢ではなかったのだと思った。これが本当に夢でなければいいと心から思った。
 私はふと、何か言わなければと思った。上手く声が出ないような気はしたし、しゃべり方もすっかり分からなくなっていたが、なんとか口を開いて、こう告げた。

「ありがとう」

 ちゃんと聞こえたかどうかは分からなかった。
 けれど、私の目からは、久々に得た光の刺激のせいか、とめどなく涙が溢れ出していた。
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