ふたりぼっち




 空は透き通っていて、青くて、こんなにも綺麗で。
 綺麗すぎるから、どうしようもなく寂しかった。

 歩いてきた道を振り返る。真っ白な雪につけた足跡はふたりぶん。まっすぐにまっすぐに向こうへと、ぐんと伸びている。私の影が、真後ろにぴったり寄り添っていて、ついてくる。どこまでもついてくる。
 ふたたび前を向く。雪ばかりで光は反射して眩しい。ほんの少し先を歩いている冬弥君の背中は、もこもこのジャンパーで、なんだかとてもあったかそうだ。
 とうやくん。
 とうやくん、とうやくん、とうやくん。
 口の中で繰り返す。
 藤井君とは、もう呼んでいない。それがどんな意味を持つのかなんて、誰にとってもきっとどうでもいいことだ。もう。たぶん、もう。
「冬弥君」
 今度は声に出した。口を開くと、風が冷たい。耳元を通り過ぎてゆく鋭い音は、あっという間にこの光の中に消え去ってしまう。
「なに、美咲さん」
 立ち止まって振り返ってくれる。その表情は優しげで、色んなことを忘れ去ってしまったみたいに振る舞うから、私の胸を詰まらせる。冬弥君が優しいのは私のため。冬弥君と一緒に歩いていくことを決めたのは私。
 だからこんなふうに、私は少し後ろを歩く。隣を歩いてしまうことが許されないことのように思えてしまって。
 吐き出した息が白く輝く。
 雪なんか降っていないのに、冷たさがあたりに舞っている。
「手、繋いでも……?」
「もちろん」
 そんなこと、当たり前のようにしてしまえばいいのに。
 そして私たちは歩く。白い雪原を、ゆっくりと。


 その別荘に行こうと言い出したのは、珍しく私からだった。別荘といっても私の所有物ではない。私などまだまだ一新人に過ぎないので、当たり前の話なのだけれど。
 友人……先輩と呼ぶべきだろうか。舞台脚本の仕事をもらえるようになってから、親しくさせてもらっている仕事仲間がいる。彼女の好意で借りられることになったのだ。というのも、とある映画で脚本家を募集しているらしく、それのコンペに出てみないかと誘われたのである。
 渡りに船、というわけではない。私がずっと憧れていた人物が監督としてオファーを受けたと聞いていたので、情報があればとあちこちに声を掛けていたことが功を奏したのである。
 映画の大まかな話は決まっている。すでに監督が題材、テーマを出していたのだ。それをホン……脚本として組み上げて、提出し、採用されれば脚本家として参加することになる。
 私が書こうとしている話は、冬の別荘地の話だ。作劇の役に立つのではないか、というありがたい助言をもらって、あまつさえ鍵まで借りてしまった。これで行かないという選択肢はありえなかった。
 だけど、ひとりで別荘に泊まって、取材というのはあまりに寂しい。私は冬弥君についてきてほしいと頼んだ。冬弥君は二つ返事で承諾してくれた。
 だけどそのとき、もっと当たり前のようにワガママを言ってくれれば、なんて笑われた。私は本当にそうだ。そうするべきなんだ、と彼の腕の中で思った。同じベッドで眠るようになってからずいぶんと時間が経っている。こんなふうに身体を寄せ合っているのに、私はいつまでこの胸の痛みを感じ続けるのだろう。
 そして誰に遠慮しているのだろう。そんなふうに思った。
 

 別荘に着くと、部屋の中は寒々しかった。久しく掃除していないというのもあったが、それ以上に洋風の造りは暖炉の火を必要としていた。着火するためのライターと、乾いた薪、炭、そういったものを物置から引っ張り出してくるのに時間を掛けてしまった。
「くしゅん!」
「あ、大丈夫?」
「うん。ちょっと寒いだけ。冬弥君は」
「全然大丈夫。美咲さんは少し休んでてよ。こっちはもうなんとかなりそうだから」
「うん。ごめんね」
「あはは。そこは……」
「あ。ありがとう」
 冬弥君は笑った。
 暖炉の奥に炎が揺らめくと、まだ熱は届いていないのに、部屋の中が休息に穏やかさを取り戻していくようだった。吐く息からはあの濁った白さが取り払われて、優しい暖色へと変化していく。
 熾火から跳ねてちらつく火花は、まるで赤い雪のよう。私たちは暖炉の前に置かれたソファに座った。二人で並んでいると、口を開くことを忘れたみたいに、自然と沈黙の帳が降りてくる。
 私たちのあいだには、陽炎めいて静けさが揺らめく。喋る必要がないのだろうか。それとも、話すべき言葉を持っていないのだろうか。
 なにかふと畏れにも似た感情を抱き、冬弥君の手に触れる。たとえば映画館で初めて手を繋ごうとする、淡い恋心を持った少年のごとく。おそるおそる腕を伸ばし、ほんの少し躊躇い混じりに、指先を合わせる。
 息が漏れる。
「寒い……?」
「ううん」
 炭の焼ける香りに混じって、冬弥君のにおいを感じる。冬弥君の手のひらにじんわりと滲んだ汗。体温。熱。
 私はそっと手を離した。お湯を沸かすために、台所に向かう。
 一応と思って持ってきていたインスタント珈琲の瓶。棚からカップを二つ出して、分量を量って粉を入れる。あんまり美味しくないかもしれないけれど、身体を温めてくれるだろう。
 冬弥君を居間に呼ぶ。ソファから這い出るように抜け出した冬弥君は寒そうに身体を震わせる。その様子に私は微笑んで、カップを渡す。
 湯気が白く昇る。口を付けると、苦かった。
「美咲さんは砂糖はいるんだっけ?」
「私は入れるけど……冬弥君はブラックよね」
「今日は砂糖入りにするよ」
 なんでもない話をする。冬弥君が買ってきた小説のことだとか、私の仕事でやった失敗だとか。きっとどうでもいいこと。だけど、ほんの少し意味のあること。
 そういう時間を作る。いつも、どちらからともなく、まるで義務のように話し始めている。
 でも言葉では埋まらない隙間は、知らないあいだに生まれている。それは時間だとか、誤解だとか、そういった形のないものだ。ささいなすれ違いがひび割れになって、やがてすべてを壊してゆく。
 私は知っている。あのころの由綺ちゃんの表情のなかに、そのひび割れを見ていたから。緩やかに過ぎてゆく時間。少しずつ離れてゆく心。本当ならば取り返せたはずの日々。
 だけど、そこに私が割り込んだ。
 取り返しの付かないものとして、罅は広がった。
 冬弥君も分かっている。繰り返したくないと、きっと、そう思っている。
 冷え切った手。
 伝わらないぬくもり。
 そんなものはいらない。必要なものならば、分かっている。
 触れ合った身体だけが、その隙間を埋めることが出来る。ほんの少しの風で身体が冷え切ってしまわないように、お互いの体温でお互いを暖めようとする。真っ白な雪を汚しても、かまわない。どうせ冬が終われば溶けてしまうものに過ぎない。
 必要なのは歩くことだ。汚すことなんて怖がっていても意味がない。歩いて近寄って抱き寄せて、そして離れがたいものだと知らしめることだ。相手に。私自身に。
 波打ったシーツに、背中が触れる。冷たいベッド。脱ぎ捨てた服が床に落ちていて、それを拾い上げる余力なんて残っていない。こんなに寒いのにどうしてこんなことをしているんだろう、なんて不思議に思いながら、ぼんやり上を眺める。頭の上。天井の梁にうっすらと埃が張り付いているのが見えた。
 ああ、掃除しなくちゃ。なんて思う。
 染みがついたかもしれないシーツも、クリーニングに出さないと。そんな現実的な悩みがどんどん押し寄せてきて、私は腕の中で眠っている冬弥君の寝顔を見つめて、息を吐く。ちょっとだけ遊ぶように、耳元に囁くみたいに。
 

 朝起きてすぐ、私は食事の支度を始める。音が騒がしかったのか、冬弥君が慌てた様子で起きてくる。所詮、長い休みではないのだ。こんなときくらいゆっくりしてもいいのにと私は言う。冬弥君は困ったように笑って、そうだねと頷く。
 気だるい早朝の時間。そのくせ、妙に外は明るく見える。
 食事を終えてから、なんとはなしに、締め切られていた窓のカーテンをさっと開ける。凍えそうな風景。
 晴れ渡った空から、舞い降りてくる雪。
 純白の雪に光が乱反射して、痛いほど煌めいている。
 空には分厚くて灰色の雲。なのに遠くには青く澄んだ空が、穏やかに広がっていて。
 冬弥君は何も言わず、ただその光景を見ていた。私の後ろから。
 ごめんなさいと私は誰かに言いたかった。誰でも良いから、こんな私を許して貰いたかった。
 だけどそんな資格は無いのだと私は思う。
 謝る資格さえ、私は持ち合わせていないのだ。
 この胸を締め付ける形のない罪悪感の正体に、私はなんとなく気づきかけている。もはや誰を傷つけているわけでもないくせに。こうやって平凡に、あるいは当たり前の顔をして、冬弥君との日々を過ごしている自分をどうしようもない人間なんだと、ずるい人間なんだと、そう糾弾してもらいたがっている。
 断罪の声は無い。
 だって。
 何が罪なんだろう。何で罰せられれば良いんだろう。
 私は幸福になってしまった。
 こんなにも幸せで、胸が苦しい。それなのに。それだから? とても切ない気持ちになる。なんでもない瞬間、そう、こんなふうに二人で、二人ぼっちで空を見ているとき、とてもやりきれなくて、寂しくて、なのにどこか満たされている、そんな気分になってしまう。
 私は、幸せなんだ。
 この幸せに浸っていていいのか、うじうじ悩んでしまうくせに、幸せなんだって思ってしまう。
「冬弥君。外に出よっか」
「雪がちらついているのに、どうして?」
「歩きたいから。雪の降るなかを、冬弥君と一緒にどこまでも」
「そう……」
 冬弥君は頷いてくれるだろう。寒いから厚着して行こう、なんて提案もしてくれるに違いない。そして傍らで、私と同じ歩調で、こんな私の気が済むまで、きっと付き合ってくれる。
 私は先の見えない真っ白な世界を、来た道を、その足跡を消し去ってくれる雪の中を、大好きな冬弥君と共に進んでゆく。
 やがて雪は止むだろう。青空にも出くわすだろう。そして冬の終わりに春が追いかけてきて、凍り付いたすべてを解かしてしまうだろう。あらゆるものが、止めどなく流れ去るだろう。
 でも。
 真っ白な日々が溶けてしまったならば、そこには何が残るのだろう? 色んなものを失って、今を歩く私たちに、いったい何が……。
 この幸せは、同じかたちであり続けるのだろうか。

 二人ぼっちで、私たちは歩く。
 春に追いつかれないようにと。少しずつ足早になって、寒さに震えながら、凍える風をかき分けながら。 
 

(了)


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