すれ違った相手の顔に見覚えがあった気がした。
 だけどあやふや過ぎてよく分からない。気がするっていうのはつまり、確信じゃないからだ。あたしはさりげなく物陰に身を隠した。その人物の様子を窺うことにしたのだ。
 すらっと背が高くて、包容力がありそうで、なおかつ年上だった。
 彼はあたしに気づいたのか、怪訝そうな顔をこっちに向けた。
 隠れたことを見破られたんだ。
 動揺を気取られないようにして、静かに微笑みを返しておく。
「ん、俺に何か用か」
「いえー、格好良いひとだなあって思って。どうも、こんにちは」
「ああ、こんにちは」
 普通に挨拶できた。表情を崩さなかったのは、日頃の訓練のたまものだろう。あたし、これでも外面は良い方なのである。
「……へえ、そういうことか。悪くないな」
「はい?」
「ここで逢ったのも何かの縁だ。で、そっちの部屋はどこだ?」
 にやっと笑ったと思ったら、何をいきなり言い出すのかこの男は。つまりあたしはナンパされているのか。様子を窺うが、そんな雰囲気でもなかった。はてな。
「えっと、この階の端ですけど」
「お、隣だったか。それは都合が良い。俺は棗恭介って言うんだ」
 快活な、というより、子供っぽい笑みを浮かべて、彼は右手を伸ばした。
 そして、あたしの頭を撫でた。軽く、慈しむような手つきで。
 唐突過ぎる行動にあたしはぴきーんと硬直する。彼は腕に繋がった点滴のスタンド、そのステンレスの棒を左手に掴んだまま、眩しいものを見るように、あたしを眺めていた。
「それで、あんたの名前は?」
「あたしは――」
 答えようとした瞬間だった。胸の奥で、ざわつくものがあった。何か大事なことを思い出しそうな、そうした奇妙な気分になる。
「……あや」
「あや。へえ、良い名前じゃないか」
 恭介はあたしをその場に待たせたまま、ゆっくりと自分の病室に入り、中からいくつもの本を持ち出してきた。
 本と言っても小説ではない。それは漫画だ。表紙を見た瞬間にピンと来た。
 それは、あたしも好きな、学園革命スクレボだ。
「あやも入院中は暇だろ。貸してやるから自由に読んでいいぞ」
「……えと」
 答えに窮した。いや、確かに暇だ。なもんだから、あたしもお父さんに既刊はすべて持ってきてもらっていたのである。しかし好意であることは間違いないわけで、それもスクレボを真っ先に貸してくれるというあたり、恭介はきっといい人なのだろう。
 スクレボ好きに悪いやつはいない。うん。
 しかし表紙の絵柄に見覚えがなかった。すり切れるほど読んでいるあたしが知らないということは、最近になって新装版でも出たのだろうか……と顔を近づけて凝視して、
「……って、これ明後日発売の最新刊じゃないっ!」
 叫んだ。
「もちろんそうだ」
「どうしてよ! まだ発売してないはずなのに!」
「フッ。いいだろ」
 むかっ! 勝ち誇られた。
「なら、いいわ。遠慮しておきます」
「ほう? さっきの目の色からすると、読みたくて仕方がないんだとばかり思ったが」
「あたしは自分の力で手に入れるからいい」
「そうか」
 にやりと笑う恭介。むかむかむか。良いヤツだと思ったあたしが馬鹿だった。そうだ、最初に見た瞬間から、何かこう思いっきり気にくわなかったのだ。
 たとえば前世か何かで、天敵とか、あるいは強敵と書いて「とも」と読むような関係だったに違いない。不倶戴天。こいつは間違いなくあたしの前に立ちふさがるラスボスだ。
 つまりあたしはこいつを倒す必要があるということだ。
 というか倒したい。
 むしろ倒さなければならない!
「けっ、誰があんたの手なんか借りるもんですか!」
「じゃあ、俺から奪い取れたら、この最新刊、あやのものにしていいぜ」
 あたしを甘く見たな。
 言葉が脳に届いた瞬間、あたしの手は即座に反応していた。
「うおっ」
 自分でも驚くような速度で腕を伸ばしたが、恭介は思い切り身体をひねって避けた。って逃げられた!? どんな反射神経よ! ていっ、せいっ、うりゃ! てりゃあ! 突き出した拳の隙間から、恭介は、まるでタコのようににょろりとすり抜ける。
 次の瞬間、あたしは彼に飛びかかっていた。
「そいやあああああっ!! 死にさらせーっ!!」
 スクレボに手は届かなかったが、
「ぐはあっ」
 とうめいて、恭介はその場に倒れた。どうやら傷口が軽く開いたらしかった。
 普通にしていたから気づかなかったが、思いの外、重症患者だったらしい。やり過ぎたと気づいて、あたしはすぐに近くの看護士を呼んだ。
 あたしたちは翌日、二人揃って看護師長に叱られる羽目に陥ったのだった。


 市内の大病院で、ゆっくりと恢復してゆく日々を思い返す。
 ことの起こりは、昨年の冬に起きた崩落事故だった。工事現場に降った豪雨のために、地盤の緩んでいたあたりが地滑りを起こしたのだ。
 本当ならば、巻き込まれずに済んでいたはずの事故だった。あたしは外から現場監督と一緒に見回りをしていたのだ。
 ああいうのも既視感、と呼ぶべきなんだろうか。
 あの雨の日の早朝、目が覚めた瞬間、これから事故が起こると思った。それは確信というよりは、当たり前の、あたしにとって分かりきったことだった。
 突き動かされるようにして監督に危険を伝えたあと、工事の遅れによる損害と、人命に関わる事故とを比較させ、どちらがよりリスクが高いかを朝から丁寧に説得したのだ。いや、別に脅迫はしていない。ただ丹念に説明すれば、ひとは分かってくれるものである。うん。
 なにしろ、大雨やら洪水やらの危険がある場合には、工事は中止しなくてはならないという決まりがある。今は多少の雨でも、すぐに豪雨になる。判断は早いに越したことはない。
 ゆえに、多少時間はかかったが、監督は分かってくれた。
 結果として、ほとんどの工事関係者は避難を始めた。
 そんな折、少し離れた場所でけが人を見ていたはずの父が、いきなりの土砂崩れの余波で体勢を崩したのだ。空中に投げ出されそうになる父の姿。
 あたしは無我夢中で父に手を伸ばし、腕を掴み、よっしゃ助けた! と思った。
 そう、父は助かった。
 問題はあたしだ。ほっとしたところで安定を失って、ごろんごろんと転がり落ちること数百メートル。垂直で無かったのが不幸中の幸いとはいえ、あちこちぶつけて骨折だらけ。詰めが甘い。甘すぎる。滑稽だ。笑えばいいくらいだ。というか、あたしだったらむしろ笑う。笑わないとやってらんないでしょ。こんなボケ。
 崩れてゆく土砂に埋もれて、意識が途切れがちになった。
 死を覚悟したのは言うまでもない。痛みは鋭く、鈍く、間断なく自分の身体から体温が奪われてゆくさまをありありと感じた。
 あとから聞いた話によれば、落ちてきた岩があたしの足の肉をごっそりと抉ったり、太い血管が切れたりしたらしかった。らしい、というのは一番ひどい状態だった下半身の様子についてはよく知らないからだ。なにしろ、助け出された時点では意識を失っていたのである。あと、その後は包帯やら何やらで生足を直視するまで長くかかったせいだ。
 それでも、かろうじて残った意識は痛みを訴える。血液が失われるのが感じられる。物理的な冷たさだけではなく、不安や恐怖による冷たさのせいで、身体が硬直してゆく。
 処置があと数分遅ければ死んでいた、とも言われた。
 避難を呼びかけておいたおかげで、他の全員無事だったのがあたしを救った。
 それは、救助は素早く行われる運びとなった、という意味である。もし何日も生き埋めになったまま、雨晒しになったりしたら、苦しむだけ苦しんでそのまま力尽きていただろう。
 ということで、その他全員は軽傷で済んだ。あたしだけ意識不明に全身ぐちゃぐちゃの血だらだらの重体。運び込まれたのがこの病院で、それからもう一年半ほど経っている。
 いいかげん骨折などは大半治りはしたものの、筋力が衰えてしまったのは致し方ないことだ。リハビリも兼ねて、長らく入院生活を続けている。
 そろそろ退院らしいのだけれど。
 そんなこんなであたしは、退屈な日々を送っているわけである。
 いや、送っていた、かな?
 話を聞いた限り、恭介はなかなか楽しい人物であるようだった。大怪我で死にかけたあたりの事情には、そこはかとない親しみを感じなくもない。
 意気投合というのとは違う。敵対的に振る舞ってしまうのである。言うなれば仲良く喧嘩といった感じ。
 つか、あんた怪我人なんだからちっとは大人しくしてろ、と思う。こういう人物と同じ学校に行っていたら、きっと面白おかしい青春を送れたんだろうなあとも。
 まあ、それどころじゃなくなっちゃたけど。
 学校かあ。


 不在の恭介のベッド、その横に備え付けられた椅子に腰掛けて、スクレボの最新刊を読みふけっていた。奪取に成功したのである。
 暇つぶしに他の患者も全員どこかに出かけたのか、あたしひとりになってしまった。
 代わりといってはなんだが、本来のあたしのいるべき隣の病室には、やたらと大量に人が集まっている。ってか人口密度偏りすぎでしょ。なによ二十人って。誰か止めなさいよ。
 止めなかったあたしが文句を言うのも筋違いか。
 と、そこにボンキュッボン、な女性がやってきた。年齢はあたしと同じくらいか。
 それにしても大きい。そしてなんだかあたしを好奇の視線で見つめている。あたしは漫画を一端閉じると、彼女に目を向けた。
 視線があった。
 楽しげな表情が浮かんでいた。あたしはよく分からず、首をかしげた。
 恭介の知り合いらしい。恋人とかではない、と思われる。よく分からないけど。
 彼女は近くの椅子を置いて、そこに座り、尋ねても居ないのに名乗ってきた。
 くるがやゆいこ。あたしは漢字はあまり得意ではないのだ。表情に出ていたのか、なぜか胸元からメモ帳を取り出すと、わざわざそこに書き付けた。
 来ヶ谷唯湖。
 あたしも自己紹介することになった。いつもの癖で、あや、とだけ名乗った。
 やはり同い年らしい。ひとしきり世間話をしたところで、
「あや君か。名字は教えてくれないのか」
 そう訊かれ、あたしは自分の境遇を掻い摘んで話した。外国暮らしが長くて日本に帰ってきたのはつい最近であること。説明しながら、帰ってきた、と考えたことに気づく。
「だから、あんまり呼ばれ慣れてないのよ。ずっとあや、で通してたの」
「なるほど。では、そう呼ばせてもらおう」
「で、来ヶ谷さんはアレとどういう関係?」
「アレとは恭介氏のことか」
 あんなやつはアレで十分だ。
「他に誰がいるのよ」
「いやいや、ま、君の気持ちは分からんでもない。アレ呼ばわりされても、彼は気にせんだろうがね」
 くっくっく、と含み笑い。フクザツな関係なのかもしれない。
「恭介氏とは……そうだな、同志、とでも言っておこうか。別に友人でも、仲間でもかまわないのだが」
 あたしは大人びた表情の彼女を見上げた。ほんの少し高い位置にある目線。どこか遠くを眺めるような。
 郷愁と思しき表情は、すぐさま霧散した。視線があたしを射貫いた。
「で、当の本人はいつごろ戻るんだ」
「さあ、知らないわよそんなこと」
 嘘ではない。世界が俺を待っている、とか口走ってドアから出て行ったので、あたしは見なかったことにしたのである。おそらく何かやらかして、看護士から逃げているのだろう。
 遊び心を失わないのは大変結構だが、つい先日、病院内の子供を集めて全員でゲームをしている姿を見かけた。本当に年上かと疑わしい。
「……そうか、邪魔したな」
「何か伝言があれば伝えておくけど」
「では、頼まれていたワゴンの件、オッケーだと」
「ん、了解」
「やれやれ、せっかく後から理樹君も来ることになっていたのだが。……本人が留守では仕方がないな。今日のところは出直すとしよう」
 りきくん。
 声に出さず、その名を、口の中だけで転がしてみる。
 その響きに、あたしは惹かれるものを感じた。もう顔も覚えていないけれど、初恋の相手と同じ名前だった。日本を離れる直前まで、ずっと一緒に遊んでいた男の子だ。といっても日本という国は狭いくせに広大だ。こんな場所でいきなり再会出来る可能性なんて、事故で死にかけて生還するのと同じくらい低いに違いない。
 そういうのは奇跡と呼ぶのだ。
 ありえないこと、という意味合いで。
 しかしりきくん。女の子みたいな顔をして、優しくて、でも実はちょっと男らしく引っ張ってくれたりもしたりなんかした、あのときの少年とまた出逢えるのなら、それはとてもすてきなことだと思う。
 ずいぶん前の、遠い記憶のなかだけの出来事。大切な思い出。
 そんな実らなかった初恋を思い返して、あたしは身もだえした。ぐぎゃああああ。なんで今になって鮮明に思い出そうとしてるのよあたしは! 馬っ鹿じゃないの? だって十三年も前のことなのよ!? あたしはどこの少女漫画の主人公よ!
 で、ものすごい視線を向けてしまったらしい。来ヶ谷さんは少し口ごもった。
「理樹君に興味があるようだが、それなら実物を見た方が早いな」
「へ?」
「恭介氏が好きな漫画を、もう一冊買ってくるように頼まれたらしくてな。友人と一緒に書店巡りをしてから見舞いに来るそうだ……あや君、どうした、いきなりあたふたとして」
 わたわた。あたふたあたふた。
 気がつけば、意味もなく髪の毛をいじってみたり、パジャマの裾を摘んでみたり、スクレボの最新刊を後ろから読んでみたりしていた。
「はっはっは、あや君は可愛らしいなあ」
「なっ」
 いきなり抱きしめられていた。
 ……謎だ。このひとの思考回路が分かんない。しかも逃げだそうとしたが、がっちりと、それでいて優しく包み込むようなかたちで、腕が背中に回っている。
 やっぱり大きい。
 いや、これは、うむ、なんというか。
 やばい、人体の神秘だ!
「おねーさんに任せなさい。理樹君との出会いを演出してあげようじゃないか」
「遠慮しておくわ」
「とても残念だ」
 指があやしげに動いた。間近にある顔に浮かんだのは、心底残念そうな表情だった。何をするつもりだったんだこのひと。そもそも、いいかげん身体を離してくれんものか。
「……ええと、お邪魔しました」
 音もなく、というか病室にはドアが無くて、つまり知らないうちに廊下から覗き込まれていたわけで、声の主は女の子っぽい少年で、あたしと来ヶ谷さんの一見抱擁っぽいものを見ての発言だったと、ついでに彼はやっぱり理樹くんだなあ、と一瞬遅れて悟った。
 うわあああああああああ! ちょ、まっ、り、理樹くんに見られたああああ!
 こんな場面を!? こんな場面って何!? 女の子同士、ってこと? 女の子同士ってあれがそれでこうなって、つまりそのナニがアレでそれでコレで、にゃああああああああ!?
 超混乱。
 はは……滑稽でしょ。大きなおっぱいに動揺して、初恋の男の子に誤解されても仕方ない場面になっても気づかないぐらいだったんだもの、どんなヒロイン候補よ、馬鹿丸出しね、笑うがいいわ、ほら、笑いなさいよ、あーっはっはっはっ! って!
 と叫びそうになったが、ここは病院なのでなんとか控えた。うし。あたしはクールだ。別につい先日、看護師長さんにこっぴどく叱られたのが堪えているというわけではない。
 超冷静だった。真っ赤になった理樹くんの顔がはっきりきっぱり思い出せるくらいパーフェクトにクールだった。
 ええと、つまりやっぱり理樹くんはすさまじい誤解をしているってこと。
 だよね?
 よね?
 誰にともなく確認してしまう。声に出さなかったのに、来ヶ谷さんは深く頷いた。
「あや君の望み通りになったじゃないか」
「どこがよ!?」
「出逢いは最悪なほうがいい、だったかな? その漫画はね、以前、私も恭介氏に借りたことがあるんだ」
 スクレボを指し示してそう言われた。
 くっ。かっ。けっ。悔しがろうか文句を言おうか拗ねようかと迷った挙げ句、あたしは頭をかきむしって無言で叫んだ。
 病室に響かなかった音のない慟哭は、とても虚しかった。
「まあ、理樹君のことだ。抱きつかれていたのも、私が勝手にやったと分かっているだろう。気にすることはない」
「もし本気にされてたら?」
「キミなら、いつでもカモーン、だ」
「……こわっ」
「まあ、精々がんばり給え。乙女らしくな」
 あんたのせいでしょうがああっっ!! と思い切り怒鳴りつけたかったが、柳に風のような気がした。だいたいそんなことをしている場合じゃない。早く誤解を解かなければ。
 なんかこう、きわめて理不尽な気がして、あーもう。
 つか、もっと穏やかな出逢いってのが無いのか! こんちくしょーっ!!


 あやのいなくなった病室に、ひょっこりと恭介が戻ってくる。
「ん?」
 恭介は来ヶ谷の姿を認めて、きょろきょろと理樹の顔を探した。
「理樹は一緒じゃないのか?」
「入り口までは来たんだが、ちょっと色々とあってな。あや君も追いかけて行ったし、まだ病院内にいるはずだが……ここに戻ってくるかどうかは半々かな」
「あのなぁ来ヶ谷。あんまり、理樹をからかってやるなよ?」
「おや、恭介氏がそんなことを言うとは……今日は珍しく雪でも降るかな」
「夏に雪なんて降らねえよ」
 来ヶ谷が肩をすくめた。もし本当に降るとすれば、それは何かがずれているのだろう。世界を形作る歯車か、過ぎ去ったはずの時間か、それとも誰かの得た認識か。
 ひとは誤解と理解を繰り返して、認識を作り上げる。
 確かなのは今だけだ。過去も未来も、記憶の延長か、そうでなければ模倣に過ぎない。それが分かっているから、二人ともが苦笑する。
 もはや夢の世界は懐かしく語られるべき過去になった。
 自分たちはもう戻れない。ささやかな永遠を失った。
 だから起こりうることは起こり、起こらないことは起こらない。当たり前のような日々が続いている。怪我はすぐには治らないし、ひとはゆっくりと前へと歩いていくしかない。
「事実、その通りだな。……さてと、私はそろそろ行くとしよう」
「もう行くのか」
「元気そうじゃないか。傷口が開いて退院が遅れたと聞いたから、こうしてわざわざ見舞いに来たんだ。遊びは真剣にしてこそ、だろう。なら治るまでは安静にしていることだな」
「ま、それもそうか」
「あや君に伝えてもらおうと思ったんだが、必要が無くなってしまったな。頼まれていたワゴンだが、借りる算段はついた」
「そりゃ吉報だ。悪いな。無理言って」
「恭介氏の我が侭は全員で楽しもうという志のもとにあるからな。私としても協力するに吝かではないさ」
 来ヶ谷が出て行った背中を見送ったあと、恭介がちらりと窓の外に目をやった。透明な陽光が射し込んでいる。外を見下ろすような位置まで歩くと、ガラスをすり抜ける強烈な眩しさに手を翳した。
 遙か高みで、太陽はただ燦然と輝いている。光も、熱も、在るだけで伝えるように。
「誰も傷つけないなら、ワガママだっていいんだ」
 小さく独りごちる。
 幸せスパイラル理論。小毬の提唱したそれは綺麗事だけれども、案外悪くない理屈だと恭介は思っている。あなたが幸せになれば、わたしも幸せ。そうやって繰り返し、繰り返し続けてゆく。
 それはつまり、自分が幸せになることで、誰かを幸せにすることでもある。
 人間は、太陽みたいに誰かを照らすことは出来ない。しかし、手を伸ばすことはできる。触れ合った場所で体温を与え、言葉を交わし、形のないものを分かち合うことなら出来る。
 諦める必要は無かった。だから手を伸ばせば良かった。
 差し出された手は、掴むためにあるからだ。
 誰もいなくなった静謐な病室で、恭介は笑って呟いた。
「がんばれよ、二人とも」


 ミッションスタート!
 誰かの声が聞こえた。あたしは周囲に目配せをしたが、誰もいなかった。ひどく聞き覚えのある声だと思ったのだけれど、やはり錯覚かもしれない。
 もしかしたら以前見た夢のせいだろうか。
 あれは工事現場で土に埋もれていたときのこと。体中バッキバキに骨が折れて、出血多量で瀕死だったあたしは、意識不明のあいだ、変な夢を見ていたようなのだ。
 詳しいことは思い出せなかった。ただ、悲しくて、楽しくて、嬉しくて、切なかったことを覚えている。
 何日か前、スクレボの話で盛り上がっているとき、不意に話題に出していた。恭介に朧気な夢の内容を話したら苦笑いされた。そして、恭介が入院している理由を教えてくれた。
 およそ一ヶ月前に、バス事故で死にかけたらしい。
 あたしと同じ、生きていることが奇跡的だと言われるほどの大怪我。
 つまりはそのせいで気が合った、というか、共感してしまったのだろう。漫画っぽいくらいの悲劇的な死の淵から、なんとか生還したというあたり、他人事とは思えない。
 いつだったか、恭介は変なことをあたしに尋ねた。売店で二つ買ってきたプリンのうち、一個をあたしに手渡した。奢りらしい。素直に受け取る。
「お前はアキレスと亀って言葉を知っているか」
 ゼノンのパラドックスだったっけ? どこかで聞いたことがある。
「ああ」
 俊足のアキレスと、足の遅い亀が競争する。そのとき亀は先行してスタートしており、アキレスは決して亀には追いつけない、という話だ。
 そんなわけがない、と誰もが考える。
 だけどアキレスが進んだとき、遅いとはいえ、亀もまた進んでいる。二者の距離は永遠に縮まり続けるだけで、決して亀をアキレスが抜き去ることは出来ない、という。
 言葉遊びというべきか、欺瞞というべきか。
 それがどうしたの? あたしは恭介の顔を見上げた。
「意味が分からないなら、それでいいさ」
 そう言われて、あたしはプリンを口の中に運びつつ、ひとり考える。
 不意に、終わりのない夢を想像してみる。やがて目覚めるときが来るはずだけれども、そのときは訪れない。なぜなら夢の中に時間は関係ないからだ。だから常に亀は先行し、アキレスは後を追い続けるしかない。
 でも、そんなの嘘だ。
 アキレスが追いつけないのは、その一瞬を無限に分割されるからだ。決して過ぎ去らない一瞬とは永遠のことになる。だが、それはあくまで認識の誤謬でしかない。
 無限の回数は、無限の時間を意味しない。
 すべては有限だ。
 そしてあらゆるものが変化することを止めることは誰にもできない。見る。話す。食べる。思考する。行動する。生きる。
 それらはすべて、動く時間のなかにあって意味がある。
 過去には帰れない。未来には飛べない。ただ、あたしには今がある。まるでモモに出てくるカシオペイアのような、しっかりとした亀の歩みが。
 だけどどこで聞いたのだろう。
 思い出せない記憶の向こうに、そんな夢があったのかもしれない。
 ちょっとだけ、覚えていることがある。
 あたしが見ていたのは、重なり合った二つの夢だった。
 あたしが理樹くんに告白したという夢。
 そして、あたしが理樹くんに告白できなかったという夢。
 どちらの世界でも、あたしは理樹くんのことが好きだった。大好きだった。なのに、最後の最後で上手くいかない。詰めが甘い自分が嫌になる。最初から間違っていたなんて思いたくないのに。思い出せないことばかりだ。
 いつ見た夢だったのか。本当に夢だったのかすら定かではないけれど。
 忘れてしまったんだろうか。
 それとも、最初からそれは夢に過ぎなかったんだろうか。
 分からないのだ。好きだって、伝えたかった。好きだって、伝えられなかった。後悔しているのか、後悔さえできなかったのか、何もかも曖昧で、あやふやで、あたしは考えることに疲れてしまった。
 いつの間にか、プリンを食べ終わっていた。こつんとプラスチックのスプーンが底を叩いた音がした。食べてしまえば無くなってしまう。
 当たり前のことだ。
「つまり、シュレーディンガーの猫か」
 さっきの疑問を、あたしは言葉にしただろうか。
 だけど恭介はかまわず話を続け、それは箱の中の猫だと言う。
 生きているか、死んでいるかは、箱を開けてみるまで分からない。だから半分死んで、半分生きた状態が重なり合っていることになる。そして、どちらか一方を観測した瞬間、もう片方は無かったことになる。
 あたしは、どちらのあたしだったんだろう。
 あの夢の終わりに、あたしは死んでしまった。あれは夏のことだったろうか。それとも冬のことだったろうか。
 よく、分からない。
 あたしが死んだということだけは、覚えている。
「そうだな。朱鷺戸沙耶は、死ぬしかなかった」
 なら、あたしは?
 今、ここにいるあたしは、何をすべきなんだろう。
「馬鹿だな。お前は生きてるじゃないか」
 それもそうだ。納得してしまってから、あたしはやっと気がついた。
 残っているのは、あたしだ。
 たったひとりのあたしが。
 彼は、ずいぶん前に行ってしまった。追いかけないといけない。歩いていたら追いつかない。だったら走らないと。
 駆けていかないと。
 待ってるんだ。きっと。そこで。
 恭介は笑っている。
「……さて、いいかげん起きろ。この天の邪鬼」


 突然の立ちくらみから恢復すると、理樹くんが心配そうにあたしの身体を支えていた。あたしが倒れかけたので、慌てて引き返してきて肩を貸してくれたらしい。
 さすがだ。それでこそ。
「理樹くん!」
「は、はいっ?」
 いきなり名前を呼ばれて驚いて硬直した。面白い。顔が近い。息が吹き掛かるくらいの距離。視線が合うと、理樹くんはドキドキしているみたいに、顔を赤らめていた。
「ねえ、理樹くん」
「えっ? なに!? というかキミは――」
「当たってるの!」
「なにがっ!?」
 腕が胸に当たっている。
 いや、これはむしろ、胸が腕に当たっているのか。理樹くんのことだからわざとではないのだろう。よく分かっている。で、やっと気づいたようだ、動きが変わり、慌てて離れようとして……ひゃん。
 ドキドキドキドキ。心臓がバクバク鳴ってる。
「あ、あたしの純情を弄んだわね!」
「いきなり!?」
「でも、あたしのこと好きなのね? そうよね? 好きに違いないわよね? あたしと一緒よね? そう。そうじゃなきゃこんなことしないわよね。うん、オーケー分かった、だったら許してあげるわ」
「いやいやいや!」
「えっ……勇気を出して言ったのに、思い切り否定されたーっ!?」
 やばい。勢いで押し切ろうと思ってたのに、意外な言葉でちょっと鳴きそうだ。う。うぅ。ショックだ……。
 もしかして理樹くんに嫌われた……?
 なんで?
 やっぱり格好良くなきゃいけなかったのか。そうなのか。あたしは自分の表情がすごい勢いで暗くなっていくのを感じた。
 ああ……あたりはみんな雪のような冷たさで……
 あたしはひとりきりで……
 えらく陰鬱な情景を思い描いていると、理樹くんはさらに否定した。
「いやいやいやいや! だからそうじゃなくて、あの」
「こうなったら、理樹くんを倒すわ!」
「なんでそうなるのさ!」
「……だって、もうどうしたらいいか分からないんだもの!」
 頭の中が目一杯だった。
 目一杯といっても、目玉が大量にあるという意味ではなくて、頭の中にそんなふうに詰まっていたらホラーだ。ああ、さっきまでの空想が尾を引いている。ホラー。そうよっ。馬鹿みたいでしょっ。あたし、ホラーで主人公に助けられるヒロインじゃなくてむしろヒロインに襲いかかる犯人みたいじゃないっ。
 いやいやいや!
 そうじゃなくて! あたしはいったい何を考えているんだ。
 って、理樹くんの口癖が移った!?
「というわけだから!」
「どういうわけなの!?」
「あたし、理樹くん、追いかける。捕まったら、ひとつ言うこと聞く。オーケー?」
「なんでそんな片言なのか分からないし、そもそも」
「スタート!」
「って、ずるいよっ。うわ、わわ」
 文句は言いつつも、脇目もふらず、脱兎の如く逃げてゆく理樹くんの後ろ姿にあたしは驚く。ちっ。逃げられた。
 こうなったらホントに掴まえて言うこと聞かせちゃる。
 逃げた理樹くんが悪いのよ!
 好きな男の子に逃げられた女の子の悲しみを思い知らせてやる!
 ……なんか当初の目的ととんでもなく違ってきている気がしないでもないが、深く考えるとのたうち回りたくなる気がするので、考えないことにした。


 それはそれとして、さっそく理樹くん発見。
 病院の廊下なので、うるさくならないよう、無言ですたすたと外に向かうのは暗黙の了解になっていた。階段を無言で下りる二人。受付を無言で通り過ぎる二人。玄関先で速度を緩めて自動ドアをすり抜ける二人。
 外に一歩出た。
「えええええっ!? ねえ、なんで僕いきなり追われてるのさっ?」
「あたしもなんで追ってるんだか分からなくなってきたわよっ!」
「いやいやいや!」
 叫びつつ理樹くんは、とうとう病院から脱出した。
 陽の光が眩しくて、少し暑いくらいの気候のなかに、あたしたちは飛び出した。
 駐車場は危ないと思ったのか、逆方向に走ってゆく。生い茂った緑の隙間から優しい透光が漏れている。木漏れ日を踏みしめ、あたしもそれを追いかける。
 病院の周囲をぐるりと一周し、玄関口近くまで戻ってきた。入院患者用の病棟の方角に逃げられて、あたしは全力で駆けてゆく。
 あと一歩、もう一歩。
 腕を伸ばす。
 よおし! これで捕まえたっ!
 そう思った瞬間だった。
 上の方から窓を開く音がした。恭介の声が聞こえてきた。ちょうどあの病室の真下あたりだった。
「お前ら、そいつから理樹を守れ!」
 へ?
 声の先には、ぞろぞろと見覚えのあるような、無いような連中が、不思議そうにあたしたちに視線を集めていた。統一感のない格好で、雰囲気もばらばらだ。その割に仲が良さげな雰囲気が伝わってくる。
 しかも、やたらと女の子の比率が高い。
「ふぇ? どーしたのー、恭介さ〜ん!」
 叫び返して尋ねる女の子。
「そいつは……理樹から大変なものを盗もうとしているんだ!」
 ちょっと待て。
 目の前に二人が立ちふさがった。さっき恭介に聞き返していた、可愛らしい子があたしに尋ねてくる。
「そーなの?」
 言われてみれば、そうだ。つい最近見させてもらったDVDにそんなシーンがあった。赤い服の泥棒が、お姫様の大変なものを盗んでいってしまうのだ。
 あのラストシーンは実に格好良かった。
「そっ、そうよ! あたしは理樹くんの大変なものを盗もうとしているのよ」
「理樹の大変なものを盗むのか?」
 猫っぽい方があたしの言葉をオウム返しし、もう一人がさらに繰り返した。
「たいへんたいへん〜……へんたいへんたい〜……つまり、理樹くんのへんたいなものを盗もうとしてるんだよね〜?」
「そうか。お前はヘンタイか!」
「なんでそうなるのよ!」
 目の前の小柄な女の子二名を筆頭に、どっさり取り囲まれてしまった。後ろに控える全員を凝視する。
 あたしの鍛え上げられた鋭い眼力と、研ぎ澄まされた感覚が、彼女たちを倒すべき敵だと認識した。
「ところで、あなたはどちら様?」
「あたしは――」
 ゴスロリっぽい格好のちんまい子に名乗ろうとしたが、脇から出てきた大男が返答を遮った。
「へっ。なんだか知らねえが、理樹は俺が守るぜ!」
「ふん。馬鹿め。その大荷物で素早く動けるわけがないだろう。理樹のことは俺に任せろ」
 同じくらいの背丈の男が割り込んだ。
「なんだとこの野郎」
「さあ理樹、俺を頼れ!」
「てめえ! 理樹は俺に助けを求めてるんだ! どけっ」
「どく必要はない。むしろお前がどけ」
「さあ、この筋肉を見ろ! 筋肉は決して理樹を裏切らないぜっ」
 理樹くんは困ったように笑った。
「いや、どっちにも助けを求めてないから」
「……最近、理樹が遊んでくれない……俺はさみしいぜ……」
「くそうっ。俺では頼りにならんというのか!」
 大男二人は顔を突きつけ合わせ、しばらく落ち込んでいたかと思うと、深刻そうに話し合いを始めた。
「なあ、謙吾よお、俺たちはまず何をすればいいんだ?」
「フッ。知れたことだ。お前は俺のように勉強をすればいい。俺はお前と同じくらい筋肉を鍛える。そうすればお互いの足りない部分が補えるだろう」
「そ、そうか」
「ちなみに理樹の代わりに宿題が出来るくらいになれ」
「ぐはああっ。それは無理だぜ! 勉強……俺にはできねえ!」
 二人の背中に隠れるような位置から、声がした。
「これは……! いえ、ちっとも美しくないです」
 あたしは三人の脇をすり抜けて理樹くんを追った。
 背後で好き勝手言われているのが聞こえた。
「おや? 理樹くんが女の子に狙われているそうですヨ?」
「またライバルが増えたの? クドリャフカ、あなたも大変ね」
「ら、らいばるですかっ!? らいばる……それは……とても素敵な関係なのですっ」
「響きだけで言ってるでしょ」
「わふーっ、ばれました!?」
 こっちも放置しとこう。うん。
「でさ、理樹くん」
「ええと……ひとつ、先に言っておいたほうがいいと思うから、あえて言うけど」
「うん」
「さすがにパジャマ姿のまま外に出るのはどうかなと」
「……あ」
 クマさん柄のパジャマだった。理樹くんに冷静に指摘された。目があったゴスロリ少女が、にこっと微笑んだ。すっごく可愛いよぉと唇が動いたのが見えていた。
 ……うわああああああああああああ!
「恭介めえええぇぇぇーっ!!」
 とりあえず恭介を指さしてみた。
 三階から、恭介が苦笑して肩をすくめた。
「へ? 俺のせいかそれ」
「違うわよ! でも恥ずかしいのよ! 恥ずかしかったらとりあえず気を紛らわしたくなるじゃないっ! そのとき一番黒幕っぽいヤツの顔が見えたらあんたのせいだって言いたくなるでしょっ!」
「そういうもんか?」
「まあ、恭介が黒幕っぽいというのは否定できないけど」
「してくれよ!」
 理樹くんの言葉に、恭介が超落ち込んだ。
「あいつ、いつも何か企んでるくせに何言ってるんだ?」
「それは思っても言っちゃダメだって」
「そーなのか? 理樹ならいいのに?」
「ほら、恭介が踊り始めちゃったじゃないか」
「楽しそうだぞ」
「なら…いいのかな」
「うん」
 理樹くんたちのやり取りが届いたか、恭介が踊るのを止めた。
「良くねぇよ! なんだよ! 俺だって鈴にお兄ちゃんって言ってもらいてぇよ! 鈴にお兄様って言ってもらいてぇんだよ!」
「あいつ馬鹿なこと二回も言ったぞ。しかも後半はより最悪だ」
「恭介も大変なんだよ……」
「たいへんたいへん……大変態か。恭介なら大変態でも仕方ないな」
「うおおおおおおーっ!! 誤解が鈴に納得されてやがるっ!?」
 被害者が増えてゆく。というか恭介はあたしの巻き添えになっただけか。ちょっと可哀想な気もしたが、まあ恭介だからいいや。
「それで、理樹。こいつどうするんだ」
「……えと」
 あたしはもう破れかぶれだった。よく考えたらこっちはあの理樹くんだと思っても、理樹くんからしてみればあたしなんか知らないって思ってるのかもしれない。
 それも仕方ないことだって分かってる。
 分かってるから、あたしは叫ぶ。
「なによ! ほら、笑いなさいよ! 指さして笑えばいいじゃないっ! どうせ変なのに追っかけられたとでも思ってるんでしょ! 滑稽ね、笑いなさいよ、うっひゃひゃひゃひゃっ、ぐへへへへ!って笑えばいいのよっ!」
「いやそんな変な笑い方はしないし、そもそも笑わないけど」
「じゃあ何よっ、なんなのよっ、まだなにか言うことがあるわけ? ないわね? ないわよねっ? じゃっ!」
 しゅたっ、と手を挙げて、あたしは病院に引き返そうとする。
 理樹くんに引き留められる。
 うわああ。
 自分の顔が真っ赤になるのを止められない。当たり前じゃないっ。
 どどどどど、どうすれば。
 えと。
 うわうわ。あわわ。
「じゃっ、じゃなくて」
「な、なによっ」
「名前は、なんていうの?」
 理樹くんは微笑んだ。あたしの答えを待っているかのように。
 それはどこか胸を張るような、誇らしげな表情。こうして、こんな風に話すことができることを心から喜ぶみたいな、優しい笑みだった。
 それは、あたしの大好きな男の子の顔で。
 とても格好良かった。
 だから、あたしは告げるのだ。
 名前を。
 今ここにいる、あたしの名を。
「……あや」
「じゃあ、あやさん」
 理樹くんは、手を差し出してきた。
「リトルバスターズに、入らない?」
 彼の言うリトルバスターズがなんなのか、あたしは知っている。
 唐突な申し出だとは思わなかった。だって、あたしは。
 その手を見つめて、理樹くんの顔を見て、まわりにいる全員の様子を眺めて、覚悟を決めた。
 そうだ、あたしは――


 あたしはいつだったか、恋を知るまでは死ねないと思った。だけど、本当にそれを知ってしまったら、余計に死ねないことに気がついた。こんな楽しいことをみすみす見逃してなんかおけない。
 わがままなんだろうか。
 きっと、そうなんだろう。
 走ったのはどっちだったのか。追いついたのはどっちだったのか。
 もう分からないけれど。
 辿り着いたんだ。
 ここに。
 もう、諦めなくてもいいんだって、そう思ったら、涙が出た。


 掴んだ、理樹くんの手のひらは、温かくて、力強くて。
「うん……うんっ」
 しゃくりあげながら、その手を握りしめる。誰も、あたしのことを笑わなかった。
 猫っぽいあの子が、あたしの頭にぽんぽんと手を乗せて、撫でた。
「泣いてるのか?」
 じっと見つめられて、あたしは俯く。
「な、ないてないわよっ、ちょっと目から塩水が出ただけよっ!」
「あやさん」
 理樹くんが静かにあたしの名前を呼んだ。
「……そうよ! 泣いてるわよ! 泣いたっていいじゃない!? だって嬉しかったのよっ! 嬉しかったら泣くわよっ、楽しくても泣くわよっ、泣くくらい嬉しかったのよ……っ! う、ああああああああん……っ!」
 あたしはそれから、病室に戻るまでのあいだ、理樹くんの手を離さなかった。


 もう、ひとりじゃない。探していたものは見つけた。
 だから、あたしは今、ここにいる。
 そして全力で駆けてゆくのだ。やがて想い出になる日々を。この暖かくて眩い世界を。

inserted by FC2 system