ばべるの図書館だより



目次

 1、泥の頁
 2、緊急対談『旅人と未来の図書館長』
 3、匿名投稿「幻想のバベル、崩れた塔の欠片」
 4、次号のおしらせ




1)泥の頁

 超体積は無数の体積から成り、体積は無数の平面から成る。平面は無数の線から成り、線は無数の点から成る……。
 ボルヘスの著した「砂の本」の冒頭、その文章を順序を入れ替えたに過ぎないが、この言葉はひとつの疑いを授けてくれる。点から線、線から平面、平面から体積……そして超体積。次元を積み重ねていけばその先に生まれるのは無限だ。増殖を繰り返すごとく、数多に膨れあがってゆく。
 だが、はぎ取ってゆけばどうなるか。存在は小さく、さらに小さくと縮小されてゆく。目に見えぬものよりもなお細かなものがそこにはあるはずだ。しかし零ではない。無と有の狭間に存在しながら誰にも気にされることなき微少にして些末なる一切。
 有限の時に生きるものには、無限の終わりを確かめることはかなわない所業である。無限は己の目によって証明できぬもののひとつと数えられる。
 問いと答えはいかなるときでも不可分である。かといって答えが正しいかどうか、誰にも分からないのだ。
 そんなものを本当に無限と呼んで良いだろうか。
 ただ、もっとも小さなもの……無限を象る、この最終単位が点だとすれば、点に成りうるものは、ないことになる。果たしてそんなことがありうるだろうか。無限に矮小なるものが、いかにして存在しうるのだろうか。価値も意味も与えられぬもの。虚無を否定するだけの空疎なる事実。
 無から有は生まれない。有は有からしか生まれない。だとすれば原初よりすべてが存在していたことになる。
 初めのものは何からも生まれず、ただ在った。終わりもなく、始まりもない。そんな存在が、真実あり得るだろうか。
 私には、無から有が生まれることはなく、また、有から無が生まれるとも思えない。ならば私の抱く空想は、何から生まれているのか。
 疑うこと。分からないことを見つけること。それらへの恐怖を克服すること。
 されど人間は己にとって都合の良いものを信じるものだ。さながら無心に信じることも、狂うことのひとつの形態である。
 これから記すことはまったく真実ではない。だが完全な虚構というわけでもない。私はバベルの図書館を確かに得た。なれど自らの手で見つけ出すことは容易く、そこに続く道を他者へと伝えることのなんと困難なことか。
 真実であると附された物語は、むしろ虚構性をいや増すものだ。幻想であると嘆くことによって、その茫漠さをこそ疑わせようとする作家もいる。
 無限という名の怪物は、神話で語られる勇者や英雄に殺されるのではない。それは幻想として存在しているときにのみ、人間を喰い殺す力を持っている。しかし時の賢者が語るように、未だ生まれ得ぬものを殺すことはかなわない。
 こうした長々とした言い訳はみな、私のつまらぬ矜恃や、さかしさから生まれたものである。本来、物語はそれそのものとして独立していなければならないことを、まずは付け加えておく。




2)緊急対談『旅人と未来の図書館長』

 図書館だより創刊号発行に際して、偶然当館を訪れた旅人氏と現図書館受付係、自称未来の美少女図書館長との対談が行われた。
 以下はその記録である。


バベル「はいはーい、こんにちは。私がばべるなのだよー」
旅人氏「初めまして、お嬢さん」(以降「バベ」「旅人」と略する)
バベ「はじめましてー」

――ボルヘスの先見性の限界について
バベ「えっと、ボルヘスさんの時代には漫画が無かったと思うんだ。それがこの図書館が完全ではない証左である、みたいな」
旅人「……? 事実こうして図書館があったとしても?」
バベ「ここにあるのは確かに無限のページを持つ本だけど、アルファベットの組み合わせだけで作れるのは……色々あるけどつまりは活字本ね。でもでも漫画が無いでしょ」
旅人「漫画を数に入れるのか? いや、しかし、世界の図書館で大量に漫画を置いているなんて日本の図書館くらいじゃ」
バベ「でも、それは強固な『無限』に、罅が入るくらいには意味があるの。あなた完璧って言葉知ってる? どんな小さな瑕瑾であっても、入ってしまったなら完の一語は外さなければならないのよ」
旅人「……」
バベ「言ってしまえば想像力の限界ね。バベルの図書館を現実のものとして創造しえない最大の理由だと思う。誰もが胸の裡に作り上げることはできる。
 だけど、それだけ。
 誰も本当にそれが存在できるとは考えない。もし、こうなら。もし、ああなら。そんなイフだけで組み上げられたのが、バベルの図書館。
 無限は、すべてって意味じゃない」
旅人「つまり、知らないから辿り着けないってこと?」
バベ「そー。昔のひとは鳥になりたいと思って、空を目指した。
 羽を作ったり、翼を背負ってみたりして、飛行機を考えて、やがてライト兄弟が人類初めて空を浮いたり飛んだりして、現代で人類はとうとう宇宙まで飛び出した。だけど、もっと昔のひとは、宇宙に行こうとは思わなかった」
旅人「そんな場所のこと知らなかったし、知ったところで、大気圏まで行くことすら出来やしなかった……なるほどね」
バベ「ボルヘスさんはね、漫画ってものがこんなにも大量に存在しているって状況をきっと想像できなかった。まあ、日本以外で、あの時代に、それを想像するのは無理に近い」
旅人「いやいや、そんなの日本でだって無茶だ」
バベ「かもね。誰もが価値のあるものを求めるから、まだ価値が見いだせないもの、知らないものについては、いつか新たな意味が発生するだなんて、普通考えない。
 手塚治虫がアトムを描いたみたいには、なかなか上手くいかないね」

――創作は神の御手によらない?
旅人「お嬢さんさ、なんで漫画に言及するのか教えてくれないかね」
バベ「いつだったか、ヴェルヌが『考えうるものは、いつか実現できる』みたいなこと言ってみたいだけど、想像にはやっぱり限界がある。
 イメージっていうのは、たとえば夢のようなもので、自分の知識を基礎にするから、理解できないものは、頭の中じゃぜったいに作れないんだからね。それをしようと思ったら、理解できないままに描くか、狂うしかない。異次元の存在や、神だとか、偶然なんかに頼る羽目になる。そして自分の手でやるためには、人間の理から外れなきゃいけない。
 しかも、それを他人の中で想起させようだなんて、無茶もいいとこでしょ」
旅人「無理だな。……イメージを損なわず伝えるなんて、どんな人間にも不可能だ。ましてや小説にしようとするなんて、烏滸がましいのかもしれない。だが言葉は人間が作ったものじゃないか。
 定義づけられて、共通化された概念だ。文字は点。単語は線。文章は平面。本は体積。でも、点は点より小さくて細かなもの、より深く、より薄く、より曖昧なものを表現するには不向きだ。じゃあ、どうすればいいんだ?」
バベ「まあ、光だとか、電子だとか、そういうものを想像してくれると話が進めやすいんだけど。そうだね、量子力学で言うところの『波であり、また粒子でもある』ってこと。分かる?」
旅人「文字っていう点は、共通の幻想が形作った概念である。それ以上に、現実に発生した情報でもある。こう理解すればいいかな」
バベ「でね、ひとは自分の抱いたイメージは現実の次元に変換しないと、他人に伝えることはできないんだ。
 まあ、絵画にするなら、文章にするよりは、イメージの原型に近いものができあがるかも。イメージにおいて、言葉は粒子。なら、映像は波になるかな。色や形。厚みや構図。それにしたって伝えるのが厄介なことには変わりないけど」
旅人「だが、絵がどのくらい伝達の機能を果たすのかについては、ちょっと疑問がある。イメージに近い分、伝達機能としては明瞭さに欠けるんじゃないかな」
バベ「うん。自分の中にあるイメージすら、自分で完全に把握するのは難しい。表面上だけなぞってもしようがない。かといって内側にあるものを外に出そうとすれば、形にしなければいけない。そうしないと生まれないし、残らないから。伝えようとしたら、伝わるまでのあいだ、消えないものでなければいけないから」
旅人「ふむ。それは可能性の顕現であり、未来の卵であり、過去の果実でもある、ということだね」
バベ「そこまで格好良く語るつもりはないけどね」

――ばべるの図書館だより創刊号に向けて
旅人「だから、お嬢さんは漫画に拘るのか。文字と絵の融合。二つのイメージの伝達手段を組み合わせているから」
バベ「アルファベットの組み合わせで綴られる無限の本は、だけどそれしかないということでしょ。整理された混沌ね。無限でしかないものに大それた価値なんてあるのかな? わたしはひどく虚しい気がするんだよ。
 無限は、人間に望まれない限り意味はない。でも、人間が読みたい本は無限の波間に飲み込まれていて、求めるものは手にはいらない。
 無限の可能性っていうのは、未知であるということ。想像はできるけれど、決して定まっていない曖昧なもの。
 すべての可能性が詰まっている。だけど自分の手で望み通りのものを選び取れるわけじゃない。それは、人生だとか、世界にありふれた何もかもと何が違うの。
 有限であるあたしたちは、それでも多くの可能性を持っている。
 バベルの図書館っていうのは、夢の産物でもなければ、知識の宝庫でもなくて。
 幻想に囚われる人間を戒めるため描かれた悲しい寓話。あたかも黄金を望んだミダス王への戒めに似ている。
 それは昔、素晴らしい空想の産物だった。今や朽ち果てた夢の跡に過ぎない……」
旅人「なるほど。破綻した夢は、もはや過去の強度を保ってはいられない。様々な仮定の上に積み上げられた幻想は、それを覆すひとつの現実に及ばない。もちろん幻想には幻想なりの価値があるけれど、もはやバベルの図書館は過去の遺物となり果てた、か」
バベ「砂の本では、漫画っていう新しい物語のかたちを表せない。ただ文字だけで語られるものは、文字では語り得ぬものへの距離を埋められない。
 壁を乗り越えるには無限だけでは足りないの。だって無限の助走距離があっても、壁を飛び越えようとしなければ、まるで意味がないもの。
 あるいは、無数の点は線となるのだから、漫画さえも生み出すのかもしれないけれど――望みの本を探すのがいっそう難しくなるだけで、何の得にも成らない」
旅人「バベルの図書館も、砂の本も、見つけようと思えば容易いのだね。ただ、ひたすらに想像し続ければいいのだから。自分の世界が終わるまでの時間、それは観測し得る限り、無限に等しいものを汲み出せる泉だ。意識というバベルの図書館で、砂の本を捲り続けることだって、自分の人生なのだから自由だ」
バベ「……でもね、世の中には数え切れないほどの本があって、今も現在形で生み出され続けているのだから、そっちを読んだほうが楽しいんじゃないかな、と思うんだよ。
 小説も、漫画も、今でも人間には読み切れないくらい存在している。しかも数え切れないことと、無限であることは、イコールではなくて。けれど有限である私たちには大した違いじゃないんだもん。
 ねえ、あなたはどう思う? 旅人さん」
旅人「私は……さて。少々長居しすぎたようだ。困ったことに、ここに居続ける理由も終わってしまった。また、旅に出ることにするよ。お嬢さん、今日はありがとう。なかなか楽しかった」
バベ「うん。わたしも楽しかった。じゃ、良い旅を!」




3)匿名投稿「幻想のバベル、崩れた塔の欠片」

 以下は断片的である。思考のいくらかを直接的に記すことによって相応の効果があると考えた。
 千冊の本を読むより一冊の本を千回読み返すことに意味があるかどうか、ボルヘスならずとも一考に値しよう。

 ある小説の帯によれば、世界は言葉で出来ているとのことである。誰も私に教えてはくれなかったので、いまいち信憑性に疑いが残るが。
 そうである以上、神も言葉で出来ている。言葉によって生まれたものは、言葉によってまた別のものを作り出す。反響にせよ反射光にせよ、それらは伝わった時点で少しずつ摩耗しゆるやかに死んでゆく。
 光あれ。神は言った。
 ニーチェによればしばらく前に死んだそうだ。こうして文字の上、言葉の中にまで偏在している以上、あちこちにこびり付いているのだろう。神は黴か、それとも細菌であろうか。
 あらゆる情報は、純度を保ったまま他者へと移り住むことが出来ない。劣化する。そうでなければ目も当てられぬほど手を加えられるか、表面上のみ同じ形態を保ちながら臓腑を腐らせている。
 水面に石を投げる行為は、波紋を生み出すことと同義だ。石は水底に落ちる。波紋は別の波紋を生み出し、別の波とぶつかり合って新たな波紋を生み出す。
 創作であれ、現実であれ、石は石の形である限り、意味を失わない。波紋もまた、水面を揺らすことに変わりはない。
 石が神に形を変えることもあるだろう。
 ともかく神は蘇ったり死んだりと忙しいが、石は自ら投げ込まれようとするわけではない。
 すべてがもっと単純になってくれれば良いのだけれど。


 神を信じぬ者ほど神をよく語る。


 誰かの前で、ユダはこう言いました。
「お前こそは神の子である」
 ユダの前で、ユダでないものは言いました。
「お前は神である」
 ユダでないものの前で、誰でもないものが言いました。
「これは夢であって、おまえは人である」
 誰でもないものの前で、ユダはこう言いませんでした。
「神よ、つまり人はおまえである」
 そして、ここから誰もいなくなったのでした。


 どこかの作家が想像した。世界は巨大な仮想空間で、我々が今生きている世界も夢のごときものであると。我々は他者の物語の登場人物に過ぎず、主人公と思いこむことによってのみ物語への参加を行おうとする。しかし所詮は夢に過ぎない。未知を想像で埋めても、空虚な未来が残る。パンドラの箱に残った厄災に似て、ひどく辛辣な希望のかたちが。
 物語が終わったとき、残るのは「私」ではないどこかの誰かなのではないかと、「私」が疑っている。
 夢はうつつ、うつつは夢。
 手のひらに泊まった胡蝶を握りつぶす勇気など、「私」には無いのだ。
 だからバベルの図書館はある。


 語るべきときに語るものを賢者、語ってはならぬときに語るものを愚者と呼ぶ。時を待つことが出来る者は賢く、時を比べることしか出来ぬ者は愚かである。


 可能性の胚。
 しかし孵ることのない卵であることを、誰が否定できるというのか。ラプラスやマクスウェルの名を与えられた悪魔たちは沈黙を守る。未来とは可能性という呪縛によって綴られ、ひとつにつながった鎖である。
 夢と未来は、どちらも過去を練り合わせて紡がれた物語だ。
 誰も現実から逃れることは出来ない。今や私の背中に追いすがろうとしているのは、架空の犬である。
 夢によって現実への勝利を掴むことはかなわない。意識の泉より汲み出される水は蓄えてきたものを取り出しているだけだ。新たなるものはここには無い。


 問う。世界は、どうしてこんなにも美しいのか。
 あなたはなんと答えるだろう。


 本を読まなかった。手を伸ばして触れたりしなかった。表紙すら見もしなかった。だが本を読まなかったと一度も言わなかった。読まれなかった文章は書かれなかったとは嘆かなかった。ペンも無ければ紙も無かったが、そこには人間がいなかった。何もしなかったとは誰も思わなかった。本がそこにもあるとは考えなかった。なのに思考しなかったのは私ではなかった。彼らでもなかった。今でもなかったし、昨日でもなかった。明日であるはずもなかった。音は出なかったうえに、灯りも見あたらなかったが、暗くなかったから光はあるのだろうとはどうにも信じられなかった。どこにもなかったとも疑えなかった。未来は来なかったのだが過去に戻ることもなかったので、現在という舞台が今も存在していると言い切れることもなかった。あなたではないものは、分からなかったことも、分からなかった。


 以前、小さな町のバザーで、小汚い一冊の本を手に取った。ただ、中身は襤褸のごとき有様であった。触れるだけで崩れる本は、逆に珍しいのではないだろうか。
 もちろん買った直後に、売り手が影もなく消え去ったなどということはない。捨てるのも忍びないからと発言した売り手は、悪びれもせず金を受け取って満面の笑みを返してきた。
 私は帰宅してから、本を眺めてみた。本来あったであろう表紙は失われており、すぐに目次が目に飛び込んできた。
 頁の大半は消失したのか、泥じみた黒が染みこんでいて、大半の文字が読めない状態になっている。かすかに残った紙片には読者に対するいくつかの警句と、突拍子もない批難めいた言葉が並んでいる。
 多くは元の持ち主の手によって破損したものと思われる。感情的な行為とも思えなかったのは、いささか丁寧な破り方だったためである。本の頁を破く人間が理性的であるかどうかの議論に加わるつもりはない。
 読める限りの頁を繰ってゆくと、最後の一節に辿り着いた。こう締めくくられている。
『それでも人間は愚かであることをやめない。愚かでなければ人間として生きられないからだ。
 あらゆる現象は、他の現象と同期せざるを得ない。巨大なるものも、矮小なるものも、同じ法則のなかに存在している。すべては等しく生まれ、等しく死に至る。
 それが世界の仕組みであるためだ。心の仕組みは、社会の形成と同じ動きをするだろう。宇宙の広がりは、人間の進化や営みに通じるだろう。
 どんなものであれ、自らが内包するその法則に従っている。法則は外より与えられたものにあらず。ただ己が己たらんとして継続せんとする意思に他ならない。我らは、あまねく我らを動かすものであり、また我らが動かすものである。ゆえに我らが持ち得ぬものはすべからく、我ら以外の何者も持ち得ぬのだと知るがいい』
 読み終えたとき、陽はすでに落ちていた。
 捨てるべきか、それとも燃やすべきかと迷った。私は結局この本を書棚へと押し込み、寝台に横たわって眠ることにした。


 ひとが夢に何を見いだすだろう。
 無限が何の意味を持つだろう。
 我が手には何もなく、ただ形のないものをこそ、求め彷徨おうとする。欲深く望み、飢え苦しむばかりだ。この渇きを満たそうとすれば、いかなる代償を、どのようなものへと支払えば良いのか。
 欠片たちの王国に私は棲まう。
 閉ざされた可能性という、無数のがらくたによって築かれた場所。すなわち瓦礫の楽園。そこは、もはや遠い日々の名残としてあるのみ。


 夢について語るのは私の役目ではない。
 自分のために描かれた一冊の本が欲しければ、自分で書けば良いのだ。青い鳥を例に出すまでもなく。


 我々は有限を否定することによってのみ、無限を生み出すことが出来る。しかし否定から発生した現象は、神や悪魔たちのささいな悪戯と何ら変わりはしない。
 そこにあるのは鏡あわせの虚ろな世界である。
 ただ考える。ゆえに、私は、有限と無限のはざまを生きている。



 こうして夢を旅することは、今ではない時間を生きることであるように思う。そこに無限があるかどうか、私のみぞ知る。





4)次号のおしらせ

 ばべるの図書館だより第二号は、■■■■年後に発刊予定です。なお、当館正面玄関スペースにて無料配布されます。詳しくは館内係員まで。
inserted by FC2 system