「あ、店員さん追加注文。チーズケーキを」
「Yes! んー、アナタどこかで見た顔ネ!」

 金髪のウェイトレスの言葉に、にっこりと微笑む。
 余裕を持った笑み。ばれても構わない、ということだ。
 海外のレストランにも顔が知れていたか、と少し嬉しかったりする。
 気付かれて騒がれるのは困るけれど。

「ヘイお待ちッ!」
 店員が威勢良くケーキを置いた。
 言葉が、なんか間違っているような気がしないでもない。
 テーブルが揺れる。食器が鳴る。
 コップに張った水面が、テーブルの動きに呼応して、ぐるりと回って飛び跳ねた。
 そんなことは気にせずに、私はチーズケーキを受け取る。
 私の目の前には、軽めの昼食だったはずの空の皿。
 対面する位置に彼がひとり。静かに腰掛けている。
 まわりから見ている人間の視線にはどう映ったのかを考えてみる。
 兄妹か。親密な友人か。それとも仲睦まじい恋人か。
 まあ、恋人なんだけど。
「日本語が使えるレストランで良かったよ」
 つぶやく彼。
 日本とは違う暑さと環境に、若干、疲労の色が見える。
 彼の安堵の声に、小声で言い返す。
「私は気にならないけど」
「いや……一応、英語も話せるんだけど。どうも苦手意識が先に」
「うん、そうかも。確かに慣れてないと辛いわね」
 兄のせいで英語くらいは日常生活には困らない。
 独語や仏語とかも、使う機会は少ないけど覚えていたりする。
 小さく笑って、彼が口を開く。
「もう少し話せるようになっておかないと」
「ふふっ、少しくらい頼られてても大丈夫なんだけどね」
 彼の悩んだ顔。しばしの沈黙のあと、こくりと首肯。
 私たちは顔を見合わせる。
 プッ、と吹き出したのはどちらが先だったか。
 笑みを返して彼は言った。
「頑張ろう」
「と言うか、楽しみましょう」 
 私は折角のバカンスなんだから、と続けた。

 逃亡生活。
 そんな言葉は似合わないけれど。
 突然の引退宣言。追いかけたマスコミ。隠れた私。
 あらゆる噂、想像、空想。ときには真実のひとかけらを掴みながら。
 けれど未だ、答えに辿り着いた人間はいない。

 しかして、詳しいことはほとんど表には出ることはなかった。
 かわしつづけた追跡ゆえに、騒ぎは未だ留まるを知らない。
 休息のための、旅行。
 名も知れぬ小さな島。どこか遠くの夢の在り処。
 日本は冬のまま。ここでは泳げるくらいの気温がある。
 私たちは、一組の恋人であり、恋人でしかなかった。
 たとえ、私が大きすぎるほどの名を持っていたとしても。
 彼が、傷だらけの愛を持って、私の側に居続けていることも。

 なにもかも関係ない。
 ここにいるのは、幸せになりたかった恋人たちだけ。

 評判が上々らしいレストラン。
 地元のひとに訊いたらここを教えてくれた。
 島にある美味しい料理店はここしかない、というのもあるかもしれないけど。
 食事は不味いよりは、美味しいほうが良い。誰にとっても当然の理屈。
 だから私たちはここに来た。
 日本の誰もが知らないほど、小さな場所だけれど。
 銀色の波。暖かな陽光。綺麗な浜辺。透き通る蒼の世界。
 言ってしまえば、楽園みたいな島。
 私は、あと一週間くらいは日本を出たことすら知られない、と言った。
 彼はそう、とだけつぶやいて、店内に目を向ける。
 店の小ささのわりに、忙しそうに動いている金髪のウェイトレスが印象的。
 揺れる大きな胸。じっと見ているので、私は彼のほほをつねった。
 痛そう、でも止めない。
 む、と拗ねたような顔になっている、ガラスに映る自分の顔。
 手を離した。彼がつねった部分をさすりながら、謝ってくる。
 頭を下げた彼の顔に、私はコップを付けた。氷が割れる音が、パシリと響く。
 ほっぺたが赤い。彼は私の吐息を感じて。私は、耳まで真っ赤になって。
 目を合わせ顔を近づけ、あと数センチの距離。

 ちらり、と見るとコップの透き通った先に、じっと真剣にその様子を見ている人間がいた。
 振り向くと、思いっきり目を逸らす彼女。
「……エー、コホン。ワタシ、ナニモミテナイデスヨー」
「なんでいきなりエセ外人になるんですか」
 困ったように、彼が言った。
「あぅ」
 恥ずかしい。
 しかも、さっきまで(少しイントネーションはおかしかったが)日本語を話していたひとだった。
 天然という単語が頭に浮かんだ。知っている天然とは違うタイプの天然だけど。
「Verygood!! ラヴァーズならそのくらい人前でやらないとダメネっ!」
 自信満々な風体で、体を反らして胸を張り、親指を立てながら笑って去っていった。
 HAHAHAHAーッ!! と響く声。
 わざとらしかった。
 この状態で続けられるほどの根性は無かったけど、一応、彼に訊く。
「えーと、ど、どうする?」
「……続きはあとで、ってことにしておこうか」
 うん、と微笑む私。
 残っていたカップの紅茶を飲み干して、感情を済ませようと、立ち上がる。
 チップは……渡そうと思っていた相手は隠れて見ているから止めておく。
「じゃ、払ってくるわね」
「待ってる」
「ええ」
 彼の言葉に応えて、歩き出そうと一歩を踏み出した。

 その足音をかき消すように、別の足音が響いた。
 入り口のドアが大きく開く。
 からんからん、と可愛らしい鈴の音。
 小さく横を見ると、どこか見覚えのある顔。

 誰だったっけ。

 そんな思いを抱く。
 頭を回る記憶。直接会ったことはないだろう。
 ブラウン管。――そう、なじみ深いブラウン管の内部世界。近くて、遠い場所。
 近すぎて、目の前も見えないくらいで。だから遠くなった場所。
 っと、思い出した。
 最近になって名の知れてきた国際ジャーナリスト。
 確か、レポーターの真似事もやっていたような。

 ええと……名前は、長岡志保だったか。
 何故こんなところにいるのか。偶然にしてはなかなか厄介な相手。
 仕方ないから、目配せしておく。彼が不思議そうな顔をした。
 彼女から隠れるか、否かを考えて……座る。
 とりあえず、残すつもりだったチーズケーキの一切れを口に運んだ。


「やっほーっ! レミィいるー?」
「OH! どうしたのシホ? また最新情報でもアリマシタ?」
 どうやら金髪女性と知り合いらしい。
 案外に胸が大きい。彼の視線がそっちに行かないように、遮る。
 彼女たちの会話を聴きつつ、小さく手招きをした。
 不安顔の彼が近づいてきて、あっ、と驚きの声をあげた。ようやく気付いたらしい。
 彼の口をすぐに手で塞いだので、音は漏れなかった。
 苦しそうだけど我慢してもらいたい。少しの間を空けてから、手を離す。
 話に耳を傾けながら、視線で彼に注意を促した。
「って、日本語、まともに使えるようになってるくせに、なんでニュアンスがおかしいのよ」
「クセに決まってるネ!」
 AHAHAHA! と笑い合うふたり。
 仲間か親友か。どっから見ても、仲良しにしか見えない。
 こういうの、ものすごく羨ましい。
「はいはい。バイトが楽しいからって遊んじゃだめよ、ったく」
 こくこく、とうなずく彼女。
 満足げにぽん、と手を打つ長岡さん。
「そうそう。忘れるところだったじゃない……数年ぶりの志保ちゃんニュースよ!」
 大げさに手を振り、店内をぐるりと回す。拍手ーっ、と叫んだ。
 ギャラリーはいなかったが、レミィさんとやらがパチパチパチと手を叩く。
 どん、と床を踏みしめて、一言づつを強く言った。
「この島に、あの、緒方理奈が潜伏してるっていう情報が入ったのよ!」
 潜伏って。
 まあ、いいけど。
「尾が足りネ?」
「オ・ガ・タ・リ・ナ!」
「……YES! わかったヨ!」
 うんうん、と絶対分かってない様子で頷くレミィさん。
 こっちを見ながら言っているし。
「突如引退したトップアイドル! 噂が噂を呼び、今やその存在を探して走り回ってる人間だらけよ」
「で、そのリナがどーしたデスカ?」
 答えながら店の中に振り向く彼女。
「ここら辺にいる、って」
 ぎぎぎ、と音が出そうな動き。顔がこちらを向く。
 視線が合った。吃驚した顔になった彼女。
「話、だった、んだけど」
 息継ぎしつつ言葉を繋げ、彼の方も見る長岡さん。
 私の名前は、緒方理奈。共にいる彼の名は、藤井冬弥。

 恋人。

 回りのことを気にして、藤井君と呼んでもいいのだけれど。
 恋人の名くらいは、名字よりもいつも名前で。
 と言うことで丁度、冬弥君、と呼びかけようとした瞬間だった。
 これ以上ないくらいに眼前で、真っ直ぐに顔が見えた。
 見間違い、で済ませられるほど遠くない。非常に近い。
 実は真横にいたんだけど。
 この距離で今まで気付かなかったあたり、なかなか面白いひとかもしれない。
「いたーっ!!」
 驚きの大声。その言葉が指し示しているのは、確実に私だろう。
 逃げるのには失敗したらしい。
 彼女たちはドアの前で話していたから、逃げるつもりも無かったけど。
 私はやれやれ、と言わんばかりに肩をすくめた。
「シホ、ラヴァーズを興味本位でじろじろ見ちゃいけないネ!」
 さっきまで興味津々に見ていた人物がいかにもなことを言った。
 兄さんみたいな切り替えの早さに、私は感心していた。
「って、この娘が緒方理奈よ! トップアイドル! 話題の中心!」
 長岡さんがこれでもかこれでもか、と説明する。
 レミィさんはうんうんと頷いて、こちらに申し訳なさそうに謝った。
「AHH……Sorry、全く気付かなかったデス」
「……あー、ちょっとレミィ、お客さん溜まってるわよ」
 指差す先には、入り口付近で待っている人間たち。
 レミィさんとやらが慌てて仕事に戻る。
「しまったデス! じゃあシホ、GoodLuck!!」
「英語で話した方がまともな口調ってのも、なんかねー」
 レミィさんにがんばれー、と手を振ってから、顔を私の方に向ける。
 いきなり真面目な表情。
「さて……、初めまして、緒方理奈さん」
「初めまして長岡志保さん」
 油断出来ない。
 単なる取材なのか、どこまで知っているのか。
「お話、訊かせていただけないでしょうか?」
 簡単に交渉を始めようとする彼女。
 今のレミィさんとのやり取りが嘘のように固い言葉だ。
 冬弥君はどうしたものかと思案顔。今のところ、黙っている。
 逃げるにも、宿泊先まで付いてこられるのも大変。
 ただ、何よりも先に言うことがある。私は口を開いた。
「その前に、ひとつ」
「はい?」
「無理して口調変えなくてもいいと思うけど」
「……う〜ん。やっぱり分かっちゃう?」
 がらっ、と言葉遣いが変わる。
 非常に違和感だらけの丁寧語よりも、こっちのほうが話しやすい。
「ええ。いつも通りの口調でどうぞ」
「そうさせてもらうわ。やっぱり志保ちゃんトークでやらないと調子も出ないからねーっ」
 ふっふっふ、と笑う。
 唐突にマイクを取り出し、口元に近づけた。
 ぱちん、とレコーダーの録音ボタンらしきものを押すと、テープの回る音が聞こえる。
 店内の喧噪に比べれば、とても小さい音。
 なのに、隠すつもりも無いらしい。なかなか根性のある記者さんだこと。
「はいっ。んじゃ引退理由、さくっと教えてちょうだい」
「話せない、と言ったら?」
 返した言葉は予想していたらしく、動揺は一切無かった。
 それもそうか。
「教えてくれるまで逃がさないわよ〜」
 にやりと笑う。よく笑うひとだ。でも、余裕のある笑みには嫌みがない。
 ……本当に敏腕らしい。これなら相手に不快感を与えないように、情報を引き出せる。
 知り合いの話によれば、業界のなかでは信用に値する方らしいけど。
 国際派のジャーナリスト。それなりに修羅場も経験しているはず。
「っと、その前に緒方理奈、略してオガリナさん」
「略さないで良いです」
 オガリナオガリナと目の前で呼ばれても、あんまり嬉しくない。
「じゃ、理奈ちゃんって呼ぶわ。口調、元に戻したらどうかしら?」
「私からは……長岡さん、で良いですか?」
「志保ちゃんって呼んで」
「志保さん」
 隙が見当たらない。
 いつの間にか話の主導権を握られている。
 元アイドルと、敏腕レポーターの会話には思えないくらいだ。
 この手のひとは、私は苦手かもしれない。
 あまり回りにはいなかった系列の存在だ。
「ま、仕方ないわね〜。そのくらいで勘弁してあげましょう」
 こちらの抱いた苦手感覚は気付かれていたらしい。
 記者に対して親しい口調というのは、慣れていないけど。
 馴れ馴れしい、という感情は無い。このスタンスが彼女なりの距離の取り方のようだ。
 相手のことも考えて、その上で踏み込みすぎないようにしている。
 信用しても大丈夫かもしれない。もう少し、話を続けてから決めよう。
「えーと、理奈ちゃん」
「冬弥君は、ちょっと時間潰しておいてくれる?」
 正直なところ、この記者がどこまで知っているのかが分からない。
 下手に行動すると、冬弥君の方まで記者が大量に押し寄せかねないし。
「判った。何かあったら」
「失礼ね〜。このあたしが何かするとでも?」
「う……すみません」
 言葉のわりに、笑みは崩れていない。
 からかって遊んでいるのか。なかなかの手練れらしい。
 冬弥君を席に残して、私たちが移動する。
「じゃ、珈琲ください」
 いつの間にか忍び寄っていたレミィさんに注文をして、別の席に移る。
 とりあえずお昼の時間も過ぎて、客は引き始めていた。
 席に着く彼女。ここで話をするつもりらしい。
「レミィ、アタシもお願いね〜」
 イエ〜スッ!! と陽気な声が聞こえて来た。
 さて、それでは本題に入ろう。
「で、志保さん。何が訊きたいんですか?」
 ちっちっち、と指を振る動作。甘い甘いと言いそうな感じ。
「う〜ん、理奈ちゃんだったら判るでしょ? 誰が、何を知りたいのかくらい」
 ブラウン管の前の彼ら、彼女たちが知りたいこと。
 何故引退したのか、今どうしているか、というところだ。
 それに答えることは、由綺にも影響が出る。
 私自身のことであるけれど、勝手に言うわけにはいかない。
 この道を選んだからには、傷付く覚悟は出来ている。
 傷つける覚悟かもしれない。
 だとしても、親友を売ることは出来ない。
 もう、友達として見てもらっているとは、思えないけれど。
 それでも、私は由綺のことが好きだから。
「と、言いたいところなのよねぇ……あたしとしては、その辺りはもう判ってるんだけど」
「……え?」
 この女性は、今、なんて言った。
 知っているのか。どうして。どうやって。何故。いつから。
「志保ちゃんネットワークをあんまり舐めないでもらいたいわね〜」
 ひらひらと振った手のひら。余裕か。
 でも、おかしい。
「だったら、なんで私に取材したいの?」
 その情報をメディアで出せば良い。私と冬弥君。そして、由綺と兄さんの話を。
 カマを掛けただけの可能性もある。これは駆け引きだろうか。
「理奈ちゃんがいなくなってしまったから、次のトップアイドルの森川由綺。その恋人の話」
 単語で引っかけるという意図かとも思ったが、これは違う。
 志保さんは、本当に知っている。
「さて、さっきの彼よね〜。なかなか顔は良かったけど……性格は、悪くないわね」
 少しばかり、こちらを伺う冬弥君を見て、彼女はにっこり微笑んだ。
 離れた席からは、こちらの声が聞こえないくらい距離がある。
 彼の表情くらいは見えるから、彼女は試した。そういうことだ。
「優しいってコトはこれで証明されたわね。心配そうに見てるなんてねー」
「そこまで知っていて、なんで私に取材したいのかが良く判らないんだけど」
「この情報。あたし以外は知らないのよ」
 脅迫か。強請か。しかし嫌な予感はしない。むしろ、このひとは信用できそうとすら思っている自分。
 けれど、今までの経験からそんな単語が脳裏を過ぎる。職業病ってやつみたいだ。
 引退したのに、その辺りの感覚は変わらない。
 当分はこのままだろうなぁ、と口の中だけでつぶやく。
「理奈ちゃんの現状次第でスクープにしようかどうか迷ってたの」
「現状次第って」
 私の状況と記事にすることが関係あるとは思えない。
 余程人が好いか、それとも別の理由か。
「この国際ジャーナリスト。
 敏腕記者にしてインタビュアー、さらにはラジオのDJ志保ちゃんは、理奈ちゃんのファンもやってるのよ」
 胸を張る志保さん。やけに陽気な言い方でにこにこ笑っている。
 経験から来ている自信か、もともと自信家なのか。
 その姿は、格好良い。
「……ありがとう」
 引退したとはいえ元アイドル。
 ファンだったと言われれば嬉しい。
「引退されちゃったからねー。ちょっとばっかり困ったのよね」
「なんで志保さんが困るのか判らないんだけど」
「カラオケで理奈ちゃんの新曲歌えないからに決まってるわ」
「……はい?」
 自分のぼんやりとした声が耳に届く。
 えーと。
「これでも歌には自信があるのよ。カラオケクイーン志保ちゃんという綽名も持ってたんだから」
「へぇ……」
 相づちを打ちながら、少しばかり納得もしていた。
 バランスが良い。綺麗な声に、発声もしっかりしている。
 これなら及第点。歌手でデビューすればそれなりに上り詰められそう。
 容姿も良い。兄さん辺りは苦手にしそうなタイプだけど。
「外国生活が長くて、理奈ちゃんの歌は楽しみのひとつだったんだけど」
 歌の上手いアイドルは日本じゃ少なくてねー、と彼女は続けた。
 そうだろうか。そうかもしれない。
「まったく……やれやれよね〜。日本に戻ってから調べてみたら恋人スキャンダルだったし」
「それは、誰に訊いたんですか?」
 ちょっと失敗したかなぁ、と言う表情になった。
 誰か、ここを漏らした人間がいたのだろうか。
 私たちが来ていることは、ほとんど誰にも知られていないはず。
 この島のことを知っている人間なんて、限られている。
「色々よ色々! って、そんなことはどうでも良いわね。話、聞かせてくれないかしら?」
「……ええ」
 少しばかりの逡巡。うなずくと、彼女はメモを取りだした。
 これまでのテープレコーダーだのマイクだのは、実は飾りらしい。
 顔を近づけてくる。距離が縮まる。
 内緒話の要領で、小声の質問。
「えーと、まず、由綺ちゃんの恋人を寝取ったってのは本当?」
「本当です」
 知られていることを隠しても仕様がない。
 確認作業なだけだろう。むしろ、おかしな情報を流されるよりは良いはずだ。
 噂なんてものは、正しい情報があればすぐに消えてしまうのだから。
 志保さんは、取材内容を使うだろうか。大丈夫だと思うから、私は話しているけれど。
「んじゃ、引退はそのせいね?」
「そのせい、じゃなくて、そのため」
 責任を負わせるのは、自分にだ。
 私が悪い。間違っているとは思わないけど、傷つけたのは私。
 事実は事実として話す。
「はいはい。言いたいことは判るわよ」

 そんな風に、判った風な口を聞かないで欲しかった。
 あの痛みを知っているのだろうか。
 叩かれたときに生まれた、哀しい痛みを。
 叩いたときに感じた、胸に突き刺さった苦しさを。
 そして叫んだときに、心が軋む音が聞こえたことを。
 我が侭なだけだと、自分でも理解していると言うのに。
 止められなかったのは私の弱さ。
 奪ってしまったのは、単なる結果。

 志保さんは、目を細めた。
「んで、今ここにいるのは誰のためかしら?」
「……自分たちのため」
「そう」
 メモを取っているようには見えない。
 ペンを走らせてすらいないのだ。何を聞きたいのか。
 この女性は、どうしてそんなに哀しそうな目をしているのだろう。
 私に、何を言いたいのだろう。
「じゃあ……今、楽しいかしら?」
「……ええ」
 少しだけ、昔を思い出しながら。
 ほんの数ヶ月前の昔。
 切り離された世界のように遠い出来事。いつまでも残る記憶。
 けれど思い出にするには、辛すぎるくらいの。
「後悔は、した?」
「……して、ないわよ」
 言葉を探すように、口ごもって。
 してない。後悔なんて、してはいない。

「ふーん……本当に後悔してないの?」

 冷たい声。
 さっきまでと同じ人なのかと疑いたくなるほど、冷たい目。
 寂しそうな。苦しそうな。冷たい冷たい、視線。
 糾弾したいのだろうか。
 それはそうだ。
 恋人を寝取ったなら、誰だってひどい女だと思うに違いない。
 やっと手にした恋だとしても、傷つけなければ手に入らなかったもの。
 傷つけられたほうは、たまったものではない。
 きっと、由綺は私より強いけれど。
 私は、冬弥君を選んだ。
 奪ったのだ。
 言い訳なんてしない。出来ない。するつもりもない。
 そこまで考えたら、志保さんが口を開いた。

「もう一度訊くわね。後悔した?」
「……少しだけ。でも、私が選んだ道だから」

 答えを変えた私に、彼女は微笑んだ。
 正直に言ったことにか、答えそのものに対してかまでは判らない。

「んー、なら良かったわ」
 志保さんの笑った顔は、綺麗だった。
 表情が豊か。
「そうそう。もうひとつ訊きたいんだけど……」
 今度は気楽そうな口調で。
 こういう性格を演じているのか、こちらが本性なのか。
 優しい目になっていた。
「今、幸せ?」
「ええ……とても」
 即答した。
 この答えだけは躊躇うことはない。
「あら、即答したわねー。妬けちゃうわよもう」
 にやり、とテープを取り出す。
 先ほどまで見せていた録音機のテープではなく、ふところに入れてあったらしい。
 騙された……みたい。仕方ないか。
 信用とは、騙されても許せると思うことだ。
 つまり私は今、このひとを信用している。
「ふぅ。これで日本に帰れるわ」
 ぼやき気味に言う志保さん。
 お仕事終わり、と今にも言い出しそうに身体を伸ばしている。
「記事にするの? 私のインタビューを手に入れた、とか言って」
「ああ、これはマスコミとは関係無いわよ〜。頼まれてたの」

 その言葉に目が点になった。流石に驚く。

「どういうことなのか、説明してくれません?」
「由綺ちゃんにね〜、『理奈ちゃんが、今、幸せかどうか訊いてきてください』ってね」
「由綺が……? なんで」
 何故、この流れでその名が出てくるのか。さっぱり解らない。
 見ると、手で長めの髪を流している。
「あ、これでも由綺ちゃんとすごく仲良いのよ。ふふん」
 自慢げに言った。
 訊くと、何かの番組で会う機会があって、意気投合したらしい。
「いや、そうじゃなくて」
「んー……あえて言うなら元恋人の幸せを願った、という共通点ゆえに、かしらね」
「由綺が?」
 少し、引っかかる言い方だった。
「『理奈ちゃんが幸せなら、彼もきっと幸せだから』とかなんとか言っちゃってね」 
「でも、それじゃ」
「そこでアタシの出番なワケよね。あーあ、まったくお人好しね〜」
 珈琲を運んでくるレミィさん。ふたつをテーブルに置いて、別の席に向かう。
 こちらに明るく笑いかけている。今更気付いたけど、すごい美女だ。
 なるほど。この店の繁盛の理由のひとつが判った。
「納得行かない? 由綺ちゃんがそんなことを頼むなんてことに」
「そうかもしれないけど。なんて言うか」
 どうして彼女に頼んだのか。
 仲良くなっていたとしても、そう簡単に頼むことじゃないだろう。
 特に、由綺なら。
「ふっふっふ。ちょっとした面白い話を聞かせてあげるわよ」
「……ええ」
 少し、興味深かった。
 どうして、なぜ、疑問ばかりを感じている。
 なにより彼女が。


 あの日、冬弥君を奪ったときのこと。
 由綺の見せた目と同じ……寂しそうな目をしたように見えたから。


「昔ね。あたしには親友がいたのよ……あ、今も親友だけど」
「さっきのひと?」
「あー、レミィも親しかったんだけどねー」
 違うらしい。たぶん、私は知らないひとなのだろう。
 懐かしい思い出を語る口調で、志保さんは話始めた。
「そりゃもう一番の親友だったわ……仲良し四人組。
 あたしとその子、あと男がふたり。その子はふたりの男共と幼なじみ」
 ふぅ、と水の入ったコップを握りしめて、ため息を吐く。
 いつの間にか取り替えられていた。かなり話に熱中していたらしい。
 話に集中する。冬弥君は静かに待っているみたいだ。
 かなり時間が経っているけれど、この際ちょっとばかり長くなるのは仕方ない。
 視線で合図。安心したのか手を振って、彼も珈琲を頼んだ。
 冬弥君なら待っていてくれるから大丈夫。
 あの頃は馬鹿やってたわー、と志保さんは笑った。
「そのうち一人の男と、幼なじみの女の子、つまりはあたしの親友ね。
 まあ、恋人にいつなってもおかしくないけど、そこから先に進めない。
 ふたりは、そんな関係だったのよ」
「でも、それなら問題無いんじゃ」
 私の言葉に、志保さんは頭を横に振った。
 世の中そう上手くはいかないらしい。
「自覚してたのか、それともしてなかったのかは知らないけどねぇー。
 そいつがあかりを心配させる行動ばっかりしてたの。他の女とどんどん仲良くなるし」
「えーと、志保さん。あかりさんって誰?」
「っと、ゴメンゴメン。あかりは、その親友の名前なのよ。
 それで、どこまで話したっけ?」
「他の女と仲良くなる、までだけど」
 彼女は、苦労していたはずだ。
 好きなひとの行動ほど、心を揺さぶられることは他に無い。
 冬弥君が他の女性を見ていれば、辛いし苦しいし、何より哀しい。
 ……由綺も、こんな感覚を味わっていたのだろうか。
 志保さんが先を続けた。
「そうそうっ。アイツがどんどん他の娘と仲良くなっちゃったから、このままじゃあかりが可哀想。
 あたしが人肌脱がなきゃいけないっ! な〜んて思っちゃったりしたんだけど」
「だったら」
「話はまだ途中なのよね。これで巧く行けば良かったんだけど……
 色々動いてるうちに、あたしがその男と近くなりすぎたのよ」
 あのころは若かったから失敗しちゃったのよね〜、と彼女が笑みと共に吐き出した。
 いい思い出なのか、嫌な思い出なのか。
 見ている限りでは判断がつかない。
「……それってつまり」
 幼なじみから奪った、ということだろうか。
 志保さんは珈琲に口を付けた。私もそれに倣った。
「たぶん想像してるのとは違うわよ。
 まあ、惚れたことには変わりないか。この志保ちゃんの一生の不覚ってヤツね」
「それで、どうなったの?」
 微笑して、カップを置いた。
 涼しい口調。
「完全に聞き手に回っちゃってるわねー。ま、その後はアタシから離れたわ」
「どうして……好きだったんでしょう?」
「好きだったからこそ、よ」
 完全に疑問顔の私に、志保さんは微笑んだ。
「あたしよりも、アイツを幸せに出来るあかりの方がいいと思ったの。
 放っておけば確実にくっつくふたりだったからねー」
 やっぱり予想通りになったんだけどね、と感慨深げに語る。
 ふたりとも、好きだったのだろう。だから、身を引いた。
 そういうひとには、見えないのに。
 そういうひとにしか、出来ないことをして。
「それであたしは海外に渡り、ジャーナリストへの道を拓いた」
 大成功して今に至る、これでおしまい、と彼女はつぶやいた。
 国際ジャーナリストなんて、そうそう数がいないから厳しい道に決まっている。
 苦労したのだろう。このひとは。
「面白くなかったならギャラはいらないわよ」
「ここ、奢るわ」
 私はそう言って、彼女の言葉を否定した。
 楽しい話と言うわけではなかったけれど、意味はあった。
 そう思うから。
「ありがと理奈ちゃん。ま、世の中にはそういう恋もあるのよ」
「志保さん、もしかして由綺にもその話を」
 軽く語尾を上げたが、志保さんはさらりと無視した。
「……やっぱり志保ちゃんって呼んでもらいたいわね」
「遠慮しておくわ」
「そうそう。また忘れるところだったわよ。
 『幸せになってね』って言っておいてくれ、って由綺ちゃんから」
 わざわざ声を真似る。芸の細かいひとだ。
「そうそう、理奈ちゃんに教えておいてあげる。
 あたしはそんな関係があったことをあかりに言ったし、それでも今も親友。
 ま、アイツには黙ってるとか言ってたんだけどねー。
 自分が好きなひと、親友だと思っている相手なら、幸せになってもらいたいのよ」
「分かってる、つもりだけど」
 たぶん、それこそが由綺が願っていること。
 優しくて、お人好しで、どこまでも天然で、私のライバルだった由綺。
 もうすぐ頂点まで辿り着くはずだ。私が居た場所に。
 あの娘なら、いつまでも輝ける。
 スポットライトの光線に囚われずに、自らの輝きで。
「愛のキューピッドなんてあたしには似合わないけど。
 ちゃんとふたりは幸せだって言っておいてあげる。んじゃね〜」
 トン、と椅子が音を立てた。
 志保さんはレミィさんに近づいていって、二言三言話しをする。
 一緒に、そのままドアの向こうへと消えていった。

 話が終わったのを見て取ったのか、冬弥君がこちらに向かってきた。
 私は立ち上がって、彼の手を取る。
 少しだけ、目には涙が溜まっているような気がしたけれど。

 私は、しっかりと笑みを浮かべた。

「騒がしいひとだったね」
 冬弥君は正直に感想を言った。
 それだけじゃない気がする。志保さんも優しいひとだ。
 でも、騒がしいという感想は私も抱いた。同意しておく。
「確かに、そうね……」
 笑みを交わして抱き合う。
 幸い、他の客はもういない。
 店内にレミィさんが帰ってくるのが見えた。
「どんな話だったかは、訊いたほうがいいのかな」
「あとでゆっくりと話すわ」
 こちらの様子から考えたのか、心配そうに言う彼。
 冬弥君にも言っておくほうがいい。
 優しいあの娘の言葉は、彼にも聞く権利がある。
 不安だらけでも、前に進むしかない私たち。
 過去は消せないし、過去があるからこそ自分たちは今を歩いている。
 今より、もっと幸せになってみせる。絶対に。

 テーブルの上に置いてあった勘定書きが消えている。
 奢ると言ったのに、志保さんはどうやら払ってくれていたらしい。
 私たちは、笑顔で手を振っているレミィさんに挨拶をして、ドアを出た。


 距離が、遠くなっても。
 離れてしまっても、側にいたとしても。
 彼女は、本当に私たちの幸せを願っている。そういう娘だ。

 許されなくても、傷つけあっても。
 まだ私は、親友でいてもいいのだろうか。

 淡い色の太陽が、強く輝いている。
 スポットライトよりも眩しい光が、私たちを優しく包みこんだ。
 傍らの冬弥君に微笑んで、私は歩き出す。


 この島から出たら一番に、由綺に会いに行こうと思った。



 Fin.


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