私は荷物の詰まった大きなトランクを脇に抱えるようにして、古さを感じさせる館の前に立った。
 風に吹かれながら、数時間前のことを思い返していたのだ。
 汽車に揺られるのは久々のことだった。苦痛と言うほどではない退屈はあった。車窓から変わり映えのしない風景が流れ続けるのを覗いた。あたり一面まさに田舎である。今まで過ごした華美な都会とは正反対に位置している。僻地と呼ぶのが相応しい。
 用意してもらったのは二等席である。この場合、三等席でなかっただけありがたいと感謝しておくべきだろう。実際、何の問題もなく駅へと到着したのだから。
 旅の途中に不安が無かったとは言わない。しかし思ったより容易にことが進んだのも事実だった。船旅が不要だったのが何より素晴らしかった。館までの道に不案内な私のため迎えまであった。準備の良いことだ。もっともその馬車はここに着いて早々帰ってしまった。つまり雇い主お抱えの馬車ではなく、このあたりで営業している会社だろう。このご時世、乗り合い馬車も減ったというのによく頑張っているものだ。
 御者は去り際、館を眺めている私に物珍しげな視線を向けてきた。無遠慮な態度にむっとしたが、馬車はとうに走り始めていた。どういう意味か尋ねる暇もなかった。
 トランクを引きずりながら、仕方なしに歩き始める。歴史のありそうな赤煉瓦の道の先にある、小さな館を目指して。
 そこを庭と呼ぶには抵抗があった。敷居が無かったからだ。どこからどこまでが私有地なのか判然としない。あるいは見渡す限りはそうなのかもしれない。草木はそれなりに手入れされていた。都会を離れた私が、田舎を通り過ぎて、さらに違う世界に足を踏み入れたかのようだ。良く言えば世間と離れるための別荘地の光景だった。
 余人の存在することが許されぬ区画。
 悪く言えば、そう、隔絶されているとも思える場所である。
 静かだった。ただでさえ遠い故郷が、さらにはるか彼方へと埋もれてしまうように感じられた。くだらない。それは旅路を振り返った者が陥る錯覚に過ぎない。
 過去の居所から離れたのは私自身なのである。しかし、この地は思い描いていたのとは少々異なった。私みたいなあぶれ者まで送り込む以上、もっと大人数の住み込みを雇っていそうだと予想していたのである。場所はともかくとして、これで人手が足りないとは到底思えない。
 私がこの地へと赴くのを希望したのは先方だった。多くを語らない雇い主への不審はあったけれど、給金の良さに釣られて食いついたのは私の方である。雇われている先と世話をする相手が違う以上たいした問題ではなかった。
 私を雇うことになってからも男は必要最低限のことしか喋らなかった。こちらの仕事に何を望んでいるのかをほとんど口にしなかった。
 意外に若い男だった。紳士然とした風体から予想される重苦しい声そのままだった。最後に告げられた一言が、どうしてか鮮烈に耳に残った。
「君のすべき仕事をすればいい」
 私は素直な従僕がそうするように、はい、とだけ答えた。


 思ったのとは違って小さい、とは相対的に考えたせいである。屋敷は実際それなりの大きさがあった。一人や二人で住むのにはちょっと大きすぎるくらいだ。ここからでも窓が汚れているのが分かる。手が行き届いていないと見えたのは気のせいではない。
 人手が足りないと言うより誰もいないのだろう。これでは先が思いやられる。すべて私がやらねばならないのか。嘆息が自然と漏れた。あちこちを見る。最初の印象は間違っていないようだと観察しながら頷いた。
 何かが動いたのが視界の隅に映った。二階の窓が大きく開かれたところだった。純白のカーテンが風にはためいていた。一瞬だけ覗いたのは、こちらを見つめる深い青色の瞳だった。いや、目が合ったと思った。次の瞬間、目を逸らされた。だから本当に視線が交わったかどうかは断言できない。
 意を決して、ようやく重たげな扉を叩いた。
 待ったのは短い時間だ。やがて急いで駆けてくる足音が聞こえた。階段を跳ね降りて来たのだろうが、どしんといういきなりの衝撃が伝わってくる。
 据わりの悪い若干の間が空いた。
 続けざまに元気いっぱいな声が、開きかけた扉の向こうから待ちきれないとばかりに飛びだしてきた。咄嗟のことに反応が遅れた。
「ようこそ、お客さま!」
 彼女は脇を抜け、大きく通り越してしまった。ぐるり、くたびれて色褪せたパジャマの裾を翻した。勢いに身体を反らせながらも急停止した。私は目を丸くして声も出せず、彼女が口を開くのを待つしかなかった。
 硬い表情のまま、こちらをまじまじと見つめ、不思議そうに聞いてくる。
 訝しげというよりは好奇心の表れであろうか。悪い気はしない。そこに敵意のようなものは認められなかった。
「あなた、どなたさま?」
 連絡はついていたはずだと考え、なんとか戸惑いを隠して答えることができた。
「こちらでお仕事をさせていただくことになった者です。はじめまして、お嬢さま。どうぞよろしく」
 あっ、と声を挙げ驚いた様子を見せたのは最初だけで、こちらを窺うような表情はどこかに溶けて消えた。聡明そうな瞳に理解の色が浮かび、優雅な一礼を返される。
「こちらこそ、お姉さま」
 丁寧な口調。しかしお姉さまと呼ばれるのには違和感がある。
「私は使用人ですよ」
「かたいこと言いっこなしよ。驚かされたんだもの、それくらいの呼び方は許してくれるでしょう?」
「あら。なにに驚かれました?」
「来るのは男の方だとばっかり。残念なような、嬉しいような。ううん……やっぱり嬉しいわ! ねえ、出逢うって素晴らしいことだもの。わたしはそう思うわ」
 きっぱりと言い切って、私の顔をじっと見つめた。
「あなたはどう?」
 投げかけた問いの答えも待たず、彼女はさらに続けてくる。
「そうだ、気が利かなくてごめんなさい! こんなところで立ちっぱなしなんて嫌よね。さあ、どうぞ入って!」
 私はつい微笑んでいた。この可愛らしい女の子のためにできることは、今のところそれくらいしか思いつかなかった。


 彼女に先導されるまま、その後ろをついて行く。ここでどう振る舞うべきかと考えさせられたけれど、自然な成り行きにまかせるのが一番だと思い直した。
 元々持っている性格はそう変えられるものではないし、そもそもこの国において私は基本的にこの手の仕事に向いていない。前の職場にいたときそれは自覚させられた。
 丁寧だとか、礼儀作法だとかも、一通り覚えさせられたけれど、結局は仕事のために必要なものと割り切るしかない。気持ちが無いのに誰かのために尽くすだなんてこと、無理はものはどうしたって無理なのだ。
 そんな私だったから解雇通知を受けたのだろう。今思えばまあ仕方ないかなとも考えてしまう。誰のためでもない。つまり誰のせいでもない。自分の責任において失敗した。ゆえにクビ。分かりやすくて大変結構だった。
 だけど今回失敗するのはまずい。生活がかかっているのだ。慣れない土地で職を失うのは命に関わる。危機感は募る一方である。
 こちらのそんな思いとは裏腹に、歩きながら彼女は矢継ぎ早に質問してくる。いきなりボロが出そうになる。内心はらはらしつつ、ひとつづつ問いに答えてゆく。
「今までどんなところで働いていたの?」
「とても大きな屋敷ですね」
 この館の内部を歩きながら言うのは気が引けた。それくらい広い屋敷だった。
 彼女は私に扉を開きながら館の部屋割りを説明してくれた。一階にいくつかある使用人用の部屋、食堂、物置、二階への階段を昇る。寝室、ピアノ室、書斎、一通り見て引き返す。
 戻り道、廊下から室内を覗き込んだ。分厚い埃が黒塗りのピアノの上部に溜まっているのが見えた。窓が開いており、さきほどのカーテンが静かに揺れていた。
 彼女が振り返る。目がぱっちりと開いた。私を見て、それから天井を仰いで、陶然としたふうに息を吐いた。
「大きいって、お城みたいな?」
「そうですね。お城のように無駄に大きなお屋敷でした」
 無駄に、の部分を目一杯強調した。彼女はくすくすと笑う。気をよくした私も調子に乗って適当なことをしゃべり出した。街の名前を告げると彼女はさらに笑った。大きな街から逃げ出すように転地してきた私をよほどの変わり者と見て取ったのであろう。
「わたしたち、気が合いそうね」
「そうですか?」
 私は不思議そうに聞いた。聞いてから、これでは合わないという前提での返答だと思われるのでないかと焦った。しかし特に気にしていないようだった。
「だって、わたし、窮屈なのは嫌いだもの」
「おぼえておきます、お嬢さま」
「そう。まずそこからよね」
「はい?」
 彼女は悪戯っぽく口を尖らせた。幼い子供がやるような仕草だった。十四か十五くらいの少女ならおかしいとは言わないが、ひどい違和感があった。あえてあやふやなその感覚を言葉にすれば、彼女はもっと大人びているという気がしたからだった。
「わたし、お嬢さまなんて名前じゃないわ」
 はてな。私は少し困った。彼女はすねたようにこちらの顔を見上げていた。自己紹介もまだだったことに思い至る。しかし普通のやり取りに戻る気は無いらしい。事態の推移に逆らわず、私は彼女が求めていることの正体を探ろうとした。
「では何とお呼びしましょうか」
「そうね、なんて呼びたい?」
 質問に質問で返された。堂々巡りに成りかねない。
「お嬢さまと」
「あら、なら、あなたのことはやっぱりお姉さまって呼ぶわよ」
「それはご勘弁願えますか」
 やりにくかった。彼女は無邪気そうな口調で、そのくせ、とても真剣に語るのだ。私は年下にやりこめられるのを好まない。少し冷徹に突き放そうかと意識した。彼女はさりげなく呟いた。
「わたしの名前はあなたが決めて」
「それは」
「だめ?」
「使用人としては許されないことでしょう」
「でも、お願い」
 上目遣いをしてせがんでくる。何を望んでいるのかよく分からない。遊び相手かと見定められたのか、それとも敵として認識されたのか。確かなのは彼女は莫迦ではないということだ。知性もある。計算もある。素振りのひとつひとつは自然だけれど、何も考えずに動いているわけではない。
 自分がどう見られるのかを理解している。そして意識しているのだ。
 そのわりに無防備だ。今の私には彼女の振るまいが幼さゆえの未熟なのか、ひたすらの無垢なのかを判断することは難しかった。
 純粋であることは確信できた。
 階段を下りてゆく。先を行く彼女の背中を追いかける。繊細そうな指先と、首筋の透明さが気になった。陶磁器に似た艶のある肌。誰も触れられない黄金の髪。普段から陽に当たっていないのだろうと思わせる雰囲気があった。
 最後の一段から足を降ろす少女の足音は、ひどく軽い。
 ふと思い浮かんだのは彼女の肌の白さだった。そして透きとおるように潤んだ青い瞳がより強い印象として儚げな白をうち消した。彼女のまなざしが私に向けられている。目があったとき、その名は口を衝いて出ていた。
「……ビアンカ」
「それ、名前?」
「おいやですか」
「嫌じゃないわ。でも、聞き慣れない言葉ね」
「私の故郷の言葉です。白という意味の」
 肌の色からではなかった。何も持たない色。カンバスの色。清純なる色。
 光の色だ。
「そう。ビアンカ。ビアンカ、ね」
 口の中で転がす。響きを楽しむように。
「良い名前ね。なら、わたしは今日からビアンカよ。あなたが決めた名前。ビアンカと呼ばなかったら返事をしないわ」
「……御自分のお名前がそんなにお嫌いですか」
「ええ、そんなところよ」
 ふっと表情が消え、また戻る。
「あなたの名前はどうする?」
「私の名前?」
「そうよ。わたしだけつけてもらったんじゃ不公平だもの。何が良い?」
「いえ、私は別に……」
 ここで自分の名前を口にするのは憚られた。それをすれば彼女を傷つけると感じた。そのため私は何に言えず黙り込んだ。
「だめ、名前は必要なものなんだから!」
「ではお嬢さ……ビアンカさまがおつけください」
 それで彼女と親しくなれるのなら意味がある。名前がどうなったところで中身が変わるわけではない。
「いいの?」
「ええ」
「……あなたなら、どんな名前が似合うのかしら」
 会話の最中に記憶が蘇る。雇い主の男の無言は重苦しかった。何か事情があるのだろうが何も教えてはくれなかった。それでも働いてくれる人間を捜していたのだろう。余計なことに興味を持たず、粛々と自分の仕事をこなしてくれるものが良い。求人の広告にはそんなことが書かれていた。
 世話をする相手の名前も知らずこんな場所までやってくるのは、職を失い生活に困った使用人くらいなものだ。
 彼女はビアンカと呼ばれることを喜んだ。決して気まぐれに別の名前に替えたりはしなかった。彼女を喜ばせることができたことに私は安堵した。この場所においては、彼女のためになることをする。それ以外のことはすべて不要なことなのだと考えた。


 館の掃除、料理、勉強を見る、その他もろもろ。全部丸ごと私の仕事となった。忙しくはあったが、幸いなことに、前のところのように手紙が頻繁に来たり、客が毎日のように訪れるということが無かった。
 もっとはっきり言えば、外からの影響とは切り離されていた。静けさがあり、穏やかさがあり、緩やかに流れる時間があった。それらは閉ざされた楽園を私に想像させた。
 ビアンカさまと呼ぶたび、なんだか妙な気分になった。お嬢さまと呼ぶと無視される以上どうしようもない。なんとか慣れるしかなかった。
 私の名前については保留ということになった。彼女は名前を大事にし過ぎているきらいがあるが、真摯に考えるということは悪いことではない。
 私自身の感想はさておき、名前にこだわるのは分からなくもない。名前をつけるとは自らの所有物に対しての、もっとも原始的かつ表象的な行為だ。自分のものであるという刻印みたいなものなのだ。
 たとえば親が子にするように。飼い主がペットに対してそうするように。人間が、自然や動物、概念や現象に対し、理解し征服したという証を立てるように。
 名付けるとはそれが他と違うということの認識でもある。名のあるものは名のないものと異なって、個として存在していると見なされる。つまり名前は自他を区別するために必要なものである。それとそれ以外を区別するために重要なものなのである。
 だから私にはビアンカの考えがよく分からない。違う名前が彼女にとって必要なのであれば自分自身で名付ければ良いのだ。私に名前を呼ばせるために名付けさせる理由が思い浮かばない。
 彼女がそこまで深く考えていないと思うのは早計である。
 ビアンカは知識に対して貪欲だ。勉強にも熱心だし、書物を読むことを好んでいる。山のように蓄えられた書斎の本を暇に飽かして読み耽っていたと聞いた。それは決して退屈を紛らわせるためだけで出来ることではなかった。
 彼女はこの館から外に出ない。少なくとも、この何年間かは敷地内から外に出たことは無いのだという。働いているわけでもない。現在は使用人も私以外には誰もいない。よく生活できたものだ。
 そんな疑問を彼女としたら、当然の答えが返ってきた。
「食事を作りに来てくれる管理人がいたのよ。近くに住んでいる、人の好さそうに見える老夫妻なんだけどね。あなたが来るというから、その前日に暇を出したわ」
「そのお二人は今どうなさってます?」
「やっと念願の隠居生活が出来るって喜んでいたわよ」
「仲は良かったので?」
「もしそうなら辞めてもらうわけないじゃない」
 人の好さそうに見える、という言い方をしたことを思い出した。そうは思っていないから出てくる表現だった。
「もっともな話です」
「呆れている顔ね。言葉が過ぎたかしら?」
「ビアンカさま、ひとつだけよろしいでしょうか」
「かまわないわ」
「ひとは、ひとりでは生きてゆけません。たとえば私はあなたに使われることで生活させていただいております。それでも折り合いがつけられなくなったときは、私はまたどこかに働きにゆくことになるでしょう」
 あなたは私がいなくなったらどうなされるおつもりですか。そこまで口が滑りそうになったが、なんとか言葉を飲み込んだ。ビアンカの語りは、なんとなく生き急いでいる感じがした。だから牽制のつもりで告げた。
「そうね」
「つまり」
「お互いに上手くやっていきましょう、ということ?」
「はい。至らないこともありましょうが、適度に許してください」
「じゃあ、あなたもわたしのことを許してね」
「場合によります」
「えっ、それはずるいわ!」


 その日は家庭教師の真似事をする羽目になった。ビアンカが勉強したいと言ってきたからだ。勉強の内容はビアンカが自分で決めた。私は掃除の時間を奪い取られた。結果として世間の情勢に疎い彼女へ情報提供ということになった。
 外に出られないのか、出たくないのかもよく分からない相手に、好奇心を植え付けるような言葉を次々に聞かせる。この行為には、ちょっとした緊張を強いられた。嘘を教えない前提で、本当のこともあまり口にしないのが精一杯だった。
 あまり話しすぎると良くない。私はそう判断したのだ。
 お金のないひとは貨物列車の連結部分に立っているのは本当か、などと聞かれたときには答えに困った。そんなことをする者はたぶんいない。少なくとも私は見たことが無いとしか答えようがなかった。
 恋愛についても聞かれた。年頃の娘らしい興味だった。
「あなた、恋人はいる?」
「いたらこんなところに来ておりませんが」
「それもそうね」
 ビアンカは悪いことを聞いた、という仕草を一瞬だけして、続けて聞いた。
「このあたりで恋人を作る気はある?」
「今のところ、特に必要ありませんね」
「あらそう。必要かそうでないかで決めるの?」
 私はそれには答えず聞き返した。
「ビアンカさまは欲しいんですか?」
「わたし? ん、どうかしら。恋人ってどんなものか、本でしか知らないから。ただ、いたらきっと幸せになれるんでしょうね」
「どのように?」
 意地悪そうに聞いてみる。ビアンカは赤くなった。
「さあ?」
 会話の内容というのは作り出そうと思わなくとも、とりあえず何かしら出てくるものだった。良い機会とばかりに、以前から気になっていたことを質問してみた。
「そういえば、どうしてお一人で暮らしてらっしゃるんです」
「お父さまもお母さまも、とっくに亡くなったわ」
「それにしたって色々と大変だったのでは?」
「気にしなくても大丈夫。お兄さまは健在だもの」
 顎に人差し指を当てて私を見やる。
「まあ、そのへんのことはあんまり細かく考えないほうがいいわよ。どうして一人でこんな館に住んでるかっていえば、一人が好きだからね。あと聞きたいことは?」
 急な饒舌に嘘の気配をかぎ取る。しかし聞き流した。
 ビアンカは続けざまに言葉を継いだ。
「そうそう、あなたのお給料のことは心配しなくても大丈夫よ。たとえわたしに何かあってもしっかり支払われることになっているから。神かけて誓うわ。あ、もちろんちゃんとお仕事してくれたならの話だけど」
「お一人が好きなら、なんで私をお雇いに?」
 聞いておいたほうが良いだろう。必要だったから私はここに来たのだ。何故、必要なのかが分からないのは居心地が悪い。
「えっと」
「答えにくい理由なら聞きませんけど」
「お仕事を探している、からかうと面白いひとがいたらここを紹介してほしいってお兄さまにお願いしておいたの。きっと楽しい日々になるだろうからって。大成功だったわ」
「なるほど。よく分かりました」
 ビアンカは笑って聞いてくる。
「怒った?」
 私は微笑んだ。
「ではビアンカさま、今日は料理を失敗するかもしれませんが、それでもよろしいでしょうか。もちろん心配なされなくても大丈夫です。材料がもったいないですから。あと二人分は失敗したりしませんよ。ただちょっと焦げたシチューや歯が立たないパンが出てくるかもしれませんが、からかうと面白い人間が相手するのであれば、やはりそれくらいしないといけませんものね」
 ビアンカは少し引きつった笑顔になって、冗談っぽく聞き返してくる。
「もちろん、大丈夫だったほうをわたしにくれるのよね?」
 当然のように答えた。
「私に可能な限り楽しい生活をご提供しますよ、お嬢さま」
 ビアンカさま、と呼ばれなかったあたりに私の本気を見て取ったか、彼女は凍り付いたように固まった。
 ちなみにその晩、焦げたシチューと焼きすぎたパンに加えて、酸っぱいワインで彩った食事はビアンカの前にちゃんと並べた。有言実行というやつである。
 あとでまともな食事を出してあげたが、失敗した分がもったいないので二人で一緒に片付けた。食べ過ぎでどちらも苦しんだのは言うまでもない。


 慣れたのを実感したのはいつだったろうか。ビアンカは何か思いつきさえ(なおかつ実行に移したり)しなければ基本的に素直だし、人懐こく話しかけてくれる。予想していたよりずっと良い職場になったのは確かだった。
 とはいえわがままを憚り無く口にするのを黙って見過ごすわけにもいかない。
 出来の悪い使用人たるもの、主人の行動にはしつこく口を挟むのが慣わしである。
「お食事はできた?」
「ビアンカさま、はしたないから口をとがらせるのはおやめください。ちなみにあと二時間ほどです」
「え」
 表情がめまぐるしく変わること変わること。よほど待ち遠しかったのだろう。すまし顔で私は言い加える。
「夕食は決まった時間にした方が健康に良いんですよ」
「おなかがすいたの」
「我慢してください」
「これ以上空腹になったら、今以上に痩せちゃうわ。ただでさえ痩せてるのに」
「ふふ、お食事抜きにしてあげましょうか」
「ごめんなさい、お姉さま」
 こんなやりとりが続けば親しくもなろうものだ。ビアンカはよくころころ笑っている印象があるのだが、実際はそんな笑顔でいることは少なかった。何もせずに笑顔ということはまずない。
 ただ、こんなにも自分から距離を詰めてくれるとは当初思っていなかった。
 ありがたくはある。おかげで心休まる日は少なかった、とも言う。
 なにしろ彼女が動くときは常に私を巻き込もうとするのだ。掃除中、私を手伝おうとしてはたきを折ったり、調理を手伝おうとして皿を壁に吹き飛ばしたりした。何かしら用事を見つけては私の後ろをついてこようとする。退屈がときに憂鬱に変わるのだろうから仕様のないことだと思って、私は彼女のことを受け入れることにした。
 こうして慌ただしさに追われる日々は、仕事のなかに潜んだいくつもの追憶を振り払ってくれたようにも思う。見知らぬ土地に来た者が当然に抱く、感傷だとか、孤独に対する不安といったものを、私はすっかり忘れていた。


 着替えを持って行くと大抵、部屋から閉め出された。どうしてだか、ビアンカはお洒落な格好をすることを嫌っていたのだ。
 なので、私は逆に燃えた。
 ピアノの練習をしている姿を尻目に、部屋の中へと先回りしてみることにした。ドアが開き、私が待ちかまえているのを悟ったか、彼女はぴたりと足を止めた。
「部屋で待ち伏せなんて、大胆なんだから……」
 とぼけた台詞で煙に巻こうとしているのは見え見えだった。
 私が後ろ手に持っている服を出した瞬間、脱兎のごとく逃げだされた。即座に確保しようと飛びかかる。タイミングが合わず上手くかわされる。腕を伸ばして捕まえようとしたら今度は猿のように避けられる。
 じりじりと追い詰めてゆく。私ににじり寄られるたび、ビアンカはそろそろと後退してゆく。やがて壁を背にもう下がれないことを理解すると真横に跳んだ。
 なんとかそれを止めた。
 ビアンカはもう少しでドアに正面衝突するところだった。
「危ないことは控えてください!」
「追うから逃げるのよ!」
「逃げるから追うんです!」
「分からず屋!」
「分からず屋ですとも!」
 胸を張って言い返した。呆れた様子でビアンカは私に掴まれていた腕を持ち上げた。そっと手を離して、無理矢理引っ張ったせいで少し赤くなった手首を私は軽くさすった。くすぐったそうに身をよじるビアンカ。
 意識がそれた瞬間に服を目の前に突き出す。
「わたしはこれがいいって言ってるじゃない!」
「ビアンカさま、身だしなみはレディの嗜みですから、どうぞそんなこと仰らずに」
「絶対にいや」
 暴れるのをなんとか押さえ込んでいるうち、礼儀がどうこう言っている場合ではなくなった。言い争いどころか喧嘩じみた状況にまでなっていた。私はビアンカがここまで嫌がることが不思議でならなかった。
 何枚もの趣味の良いドレスが当然にクローゼットにしまわれていたから、余計に疑問が増えてしまった。
「せめて寝間着を普段着にするようなことはおやめください」
「いいじゃない、誰に見せるわけでもなし」
「私が見ております」
「……えっち」
「お嬢さま、いいかげんにしないと強硬手段に出ますよ」
「強硬手段って?」
「脱がせて着せます」
「……すごくえっち。あ、はじめてなの、やさしくしてね……」
「コルセット、ぎゅうぎゅうに締めてあげましょうか」
「あの、えっと、ねえ、綺麗なお顔が笑っていないわ、具体的には?」
「息が出来なくなるくらい」
「それは息の根を止めるって言わない?」
「言いません」
「すごいお顔。鏡見る?」
「……ところでこのドレス、どなたからの贈り物です?」
 一瞬ためらって、ビアンカは曖昧な表情で答えた。
「たぶん、お兄さまよ」


 私が不安に襲われるのは、決まって、ピアノで曲を弾いているビアンカの背中を覗きこんだときだった。
 儚さではなくか弱さとも違うそれは、決して綺麗なだけではなく、何かもっと危ういものを感じてしまうのだ。
 黒塗りのピアノに比べてひどく小さな背中が寂しげに腰掛けている。演奏者は楽器の前では孤独にならざるをえないと聞いたことがある。長い時間をかけて修練してきたことを全身全霊で表現するとき、傍らには誰も寄り添えないのだと。寄りかかってはならず頼ってもいけない。
 ただ一人で。
 圧倒的な孤独がそこには存在していた。私はただ傍観者でしかなかった。
 そうだ。観客ですらなかったのだ。
 心が折れないよう気持ちが挫けないよう、形のない後押しが必要になることもあるに違いないと思った。ひとが記憶を糧に音を輝かせるとすれば、ここにいることしかできない私にいったい何が出来るのだろうか、とも。
 私はただ彼女の紡ぎ出す調べに耳を傾けて、それを理解したような気になった。
 何が分かったのかも知らぬまま、彼女の後ろ姿を見守っていた。
 いつだったかピアノを弾く理由を訊ねてみたことがある。言葉を返すビアンカの顔には無理しているかのように、ぎこちなさの消せない笑みが浮かんだ。
「決まってるでしょ。聞いてくれる誰かのためよ」
「誰かとは?」
「そうね、わたしを愛してくれるひとのために弾けたら、それはとても幸せなことだと思うけど」
 彼女が一人きりで過ごしていた日々を鑑みれば、朧気ではあったが、意味についての想像がついた。彼女の口調、仕草、何もかもがあまりに切ないものに思えた。私は、その小さな背中を抱きしめた。
 そうすることしか出来なかったからだ。
「ん……なに、くすぐったい」
 そして、ビアンカは目を細め、甘えるように呟いたのだ。
「ね、もう少しこのままでいてくれる?」
 私は自分のしていたことを不意に思い出し、慌てて離れた。
「けち」


 あの日から、ビアンカは一日のうちのいくらかの時間を、ピアノを弾くことに費やそうと決めたらしかった。
 私はそれに付き合わされた。というより、私に聞かせるために、ピアノの前に座るようになった。少なくとも私にはそうとしか思えなかった。
 彼女は何も語らず、ただ弾いたのだ。私は理由を聞かないで、その調べに耳を傾けることにした。それで十分だった。
 私たちの日々は満たされていた。あるいは何かひとつ崩れれば、すべてが消え去ってしまう箱庭の楽園のような脆さがあったのかもしれない。満たされた器はわずかに傾けただけで中身がこぼれ落ちてゆくものだ。
 しかしそのことを指摘して何になるだろう。本当はかけがえのないものが当然のようにあることの幸福。それは失ったときに初めて気がつくはずのものだ。でも、まだ失っていない。今はまだ。
 ビアンカは初めから知っていた。私もかすかに気づいていた。
 だとすれば、もうすでに崩壊は始まっていたのだろう。認めたくなかっただけで決して突然のことではなかったに違いない。
 ここにある静かで穏やかな時間はやがて壊れるたぐいのものだった。どういう形で終わりが訪れるのかを私は知らなかったが、失う前からこの尊さだけは理解できた。壊れるもの、失われやすいものを扱うように私たちは言葉を紡ぎ、時間を過ごした。
 当たり前のように生きていた。


 季節が巡る。私がここに住み始めたころに謳歌していた春は、いつの間にか夏に取って代わられていた。その夏さえも、こうして秋によって隠されてしまった。
 いつしか光の色は透明に変わり始めていた。凍えるような冷たい風が空から降りてくるようになった。
 青空のなかに窓の外まで白いカーテンがはためいていた。最初から最後までを集中して弾いていたかと思うと、彼女はピアノの鍵盤から手を下ろす。
 ビアンカは猫のように目を細めて、私を手招きした。
「ねえ」
 はい、とそっと近づく。
「今の曲、どう思った?」
「初めて聴きました。短いですね」
「うん、そうなんだけど、そうじゃなくて、感想」
「まるで恋人に捧げるような曲でした。切なさのような」
 聞いて欲しがっているのが分かる。どうか愛してくださいと求められているような音色が続いたのだ。音楽について、あまり詳しくはない。だから率直に答えた。
「……そう」
 頷く顔に楽しげなさま子は見えない。
「どなたの曲です?」
「わたし」
「はい?」
「この曲はね、わたしが作ったのよ」
 少し驚いた。いつそんなことをしていたのだろう。
「……本当は昔作りかけてやめた曲を、最近になってまた作り直したの」
「どうしてです?」
「必要になったから」
 意味がよく読み取れなかった。作曲する必要というものが彼女にあるとは思えない。作曲家でもなければ、何か趣味に没頭していたという風でもない。
「必要なら、仕方ありませんね」
「そうね、仕方がないわ」
 あまり嬉しくなさそうに答えた。
「でも結局、だめだったのよ。こんなものを作り直したところで、何が変わるわけでもなかったんだから」
「ところで、曲名は」
 少し考える素振りをした。
「あなたが欲しい」
「本当に?」
「決めたのは今だけどね」
 言いながら手製の楽譜をびりびりと破った。私が片づけようとすると、ビアンカは自分で拾い上げて、丸めてからくずかごへと投げ入れた。
 過去形で語られた。そのおかげか、ほんの少し、分かった気がした。


 秋も半ばを過ぎたころ朝は玄関から掃除を始め、昼過ぎにはピアノを弾く姿を後ろから見守り、夕刻に他の家事を片付けるのが日課となっていた。
 その日、偶然が重なったとしか言いようがない。ビアンカが普段より長くピアノの練習に没頭していたので、掃除の前に声をかけるということができなかった。
 ベッドを直した。部屋を出ようとした。そのとき窓からの風で、封を解かれた手紙が机から絨毯の上へと舞い落ちた。
 拾い上げた瞬間、ドアの方向から悲鳴じみた声が挙がった。
「……なにをやっているの」
 声が震えていた。
「その、手紙」
 釈明する暇もなく、手紙を強引に奪い取ろうするビアンカ。私もまた、こんなふうに彼女が動揺する姿を目にしたのは初めてだったため、驚き、硬直した。
 それが続く事態を引き起こしたのだった。
「返しなさいっ!」
 間が悪いときは重なるものである。ビアンカが伸ばした手は私の腕を引っ掻くことになった。爪は短く切られていたから深い傷にはならなかった。しかし血は出た。腕を伝わって絨毯に染みを作った。それを見て私はつい、こんな言葉を吐いた。
「申し訳ございません」
 何について謝ったのか分からない。
 彼女も分からなかったはずだ。かすかに滲んだ血に顔をしかめると、部屋の外を指さして、ひどく興奮したさまで叫んだ。
「今日は顔も見たくない。出て行って……外に出て!」
 私は頭を下げて再び謝ると部屋を辞した。時間はどんな感情をも和らげてくれるものだった。彼女の怒りが収まるまで待とうと思ったのだ。しかし彼女の動揺がひどく気にかかった。ドアを閉じる瞬間、そっと室内を窺った。
 ベッドの前に立つビアンカ。そこには烈火のごとき怒りは影を潜めて、不安そうに肩を震わせている少女の姿があった。
 傷つけることで自分も傷つく、そんな彼女がどうしてあんな振る舞いに及ばねばならなかったのか。おそらく手紙に書かれた内容に起因するのだろう。しかし私は、ビアンカが見せまいとした表情にこそ気をとられていた。
 怒りは演技ではなかった。それ以上に強い哀しみは、どうすれば生まれうるのか。
 音を紡いでいる最中にだけ覗けるのと同じものがあった。すなわち、強がりのなかに潜んだ深いあきらめと切望が、はっきりと姿を現していたのだ。


 未明ごろになるだろうか。
 ビアンカの様子が気になって眠れずにいると、足音と、ドアを静かに開いた音が聞こえた。その手の冗談は幾度となく言われてきたが、夜這いのような真似を実際にされるわけにもいかない。どうしたものかと途方に暮れた。これが彼女なりの仲直りの方法だと言われたら逃げるのも難しい。
 月明かりを遮る影があった。
 吐息が近かった。その息は熱かったことをおぼえている。
 薄くまぶたを開いた。ビアンカは私の顔をじっと見つめている。目が合った。しばらく何も言わなかった。やがて口を開いたのは彼女からだった。
「起きてるんでしょう?」
「……」
「答えて……ね、ごめんねの代わりに、キスしていい?」
 混乱しつつも、なんとか切り抜けようとした。
「どうして、キスなんですか」
 絞り出すように口にするのが精一杯だった。綺麗なドレスを召した彼女は可憐だ。真摯な瞳で見つめてくる。窓から射す薄明に照らされた顔は、ほのかな朱に染まっていた。
 私は息をのんだ。
 真っ白な肌。美しい青い瞳。細い腕。均整の取れた躰。それを彩る鮮やかな赤色のドレス。もし私が彼女のことを初めて見たのなら、こんな感想を抱いたかもしれない。
 まるで着飾った人形みたい。
 きっとそう思われるのが嫌だったのだろうと思った。
 しかし私にはどうしてもそうは見えなかった。彼女はあまりに人間だった。強がりを示すように震える腕が目に映った。おびえを隠しきれない濡れた瞳に私が映っていた。
「口づけるのは、お互いの幸福を祈るためのものよ。ずっと一緒っていう誓い」
 聞いたことがない話だ。しかし思えばそうなのかもしれない。
「孤独はひとのこころをたやすく折る。未来なんて深い闇みたいなものだけど、そこに向かって怖がらずに歩いていけるのは、誰かが傍らにいてくれるから」
 ビアンカは語る。
 そうすることでしか私を繋ぎ止められないとでも思っているかのように。
「キスを別れるときにして、再会のときにもするのは、離ればなれになっても、側にいなくても、一緒にいるって、そういう意味から来てるの」
 そして、からかうような口調で問う。
「知ってた?」
「いえ……」
「だから、おまじないみたいなもの」
 誰のために。ビアンカのためか、それとも私のためのものか。
「お願い」
 彼女の抱いたそれは恋心とは違ったかもしれない。しかしもはや止められないことだけは理解できた。止めることで何かが決定的に壊れることを恐れた。臆病な私は受け入れることで許されようとした。
 すでに壊れかけているもののことは見ないようにした。
 間違いだったとは思わない。
「あなた、本当は心の中でビアンカって呼び捨てにしているでしょう?」
 ひたすらに私を求めているのが分かる。こんなとき彼女に対する答え方を他に知らなかった。押しつけている唇はやわらかく、吐息はとても甘かった。
 熱くて冷たいものがあった。
 深く繋がったように思った。しかし終わったあとの安堵の表情に、かすかな痛みをおぼえた。それは純粋な愛情だったろうか。心に生じた曇りをぬぐえなかった。
 私はただ必要だったからそうした。
 そんな気がした。


 幾度かの夜を過ごしたうちに、寝物語にあの破り捨てられた楽譜のことに触れた。ビアンカが語り出したのだ。私は静かに聞いた。
「あれはね、最初、お父さまに聞いてもらいたくて作ったの」
「ビアンカさまのお父さまに?」
「さまって付けるのやめないの?」
「はい。止めるわけにはいきません」
「そう。いいけど」
 彼女は不満げに頬を膨らませる。思い出したように続きを語り始めた。
「お父さまは、わたしのことを見ない。わたしの言葉を聞かない。わたしの存在なんて無かったことにする。そういうひとだったの」
 ため息ひとつ。
「でも、音楽なら耳を傾けるかもしれないでしょう? そこに私がいても、いなくても関係ないわ。誰かが弾いてくれれば、それがお父さまに届くかもしれない。そうしたらいいなって思っていた」
「だからピアノを?」
「お兄さまはわたしをここから出さない代わりに、他の自由をくれたわ。わたしが望むことをなんでも叶えてくれた。書物を送ってと言えば山のような本が届いた。ピアノを教えてくれる教師を与えてくれた。自分で曲が書けるようになったら、その先生はすぐに追い出したんだけど、曲が書き上がる前にお父さまは亡くなられてしまったわ」
 これ、笑いどころよ、と言わんばかりにくすりと微笑む。
 私は黙ってビアンカの言葉を聞いた。
「そうして、なんとなく罪悪感っていうのは良心の別名なんだって気づいたの。お兄さまのおかげで、わたしはここから出ずに生きてこられた。しかもワガママに育ったのはお兄さまのせいにできる。わたしは何も悪くない。そう思いこんで生きていくことだって出来た。ねえ、こんなに素敵な人生はそうそうないでしょう?」
 悲しそうな声色は、心からのものか、演技か、今はそう思いこんでいるからそう聞こえるものなのか、区別が付かなかった。
「でもね。違ったわ。結局、誰かのせい、何かのせいにするっていうのは、甘えているんだってこと」
 自分のため。誰かのため。それらはすべて言い訳に過ぎない。
「はっきりと気づいたのはつい最近のことだった。大切なことはだいたい手遅れになってから分かるものなの。お父さまをどうこうするのは、最初から私がどうにかしなければいけなかったのよ」
 彼女はピアノを弾くフリをした。鍵盤も無しに宙で指をなだらかに滑らせる。器用なもので、そうしていると本当に曲が聞こえてくるような気がした。
「結局、わたしも気づくのが遅かったわけね。愛すべき両親は二人一緒にあっけなく死んでしまった。残ったのは私自身のことなんかどうでもいい、優しい優しいお兄さまがひとりだけ。つまり、わたしは誰かを見つけたかったんだわ。愛されるかどうかは……どうでもいいとは言わないけれど、きっと後回しにしてもかまわないことだった」
 ビアンカが私に触れた。腕を撮り、目を覗き込んでくる。
「わたしはね、ただ愛したかったのよ」
 彼女がささやく言葉は弱々しかった。だが美しかった。
「わたしなんかに目を付けられて、いやだった?」
 ここで否定することが何を意味するのか、私は承知していた。
「いいえ」
「良かった」
 真実、安心しているようにビアンカは微笑んだ。
「もう半年以上経ったけど、あなたの名前を呼べなくてごめんなさい」
「大丈夫ですよ、ビアンカさま」
 私は彼女をそう呼んだ。私が名付けたその名前を呼んだ。青い瞳が揺れた。ビアンカはさもどうでもいいことのようにつぶやいた。
 素直さの隠せないままに、震えを殺した声で。
「そうね、名前を呼ばれなくたって、そんなに困ることはないのよね」


 つましくも優しい日々は長く続かなかった。ビアンカが体調を崩したからだ。
 雨の日が続いているせいやもしれない。特別身体が弱いという意識は無かったのだけれど、彼女の顔色が優れないことは事実だ。立ち上がる気力も無いようだった。町に医者を呼びに行こうとした。
「ねえ、待って」
 彼女が、寝台の上から誰かの名前を口にした。私は聞き返した。
「どなたのお名前です?」
「かかりつけのお医者さまよ。連絡先はそこにあるわ。抽斗を開けて、そう、その紙に」
 綺麗に折り畳まれた手紙もしまい込まれていた。逡巡し、私はそれを手に取る。そこには明確に、終わりという文字が書かれているような、そんな嫌な予感があった。
「見てもよろしいですか」
「いいわ」
 短い文面で、意味は即座に頭に入ってきた。そして最初に抱いた不安は間違ってはいなかったのだと知る。それはまさしく終わりを告げる手紙だった。ビアンカの終わりが近づいていることを。いや、もうすでに背中にまで迫っていることを否応なく教える言葉だった。
「わずらっていらっしゃるのは……心臓ですか」
「ふうん。驚かないんだ?」
 言葉に迷っている私に、ビアンカは縷々とこう語った。
「お医者さまの話によれば、一年くらい前にはわたしは死んでるはずだったの」
 感情のこもらない口調。彼女には不似合いな口調だった。しかしそれもまたビアンカの姿だった。これも本心なのだ。いくつもあるうちの本心のひとつ。
「治らないなら好きにさせてってお兄さまに言ったら本当にそうさせてくれたわ。次に発作を起こしたら最後だそうよ。で、お手紙の内容は、治療の方法が見つからなくて申し訳ないって報告」
 憂鬱そうな声が部屋を満たした。
「誰も悪くないんだから、謝らなくてもいいのにね」


 翌日も雨は止まないようだった。雇い主である彼女の兄に連絡をとる。医者をこちらに向かわせるとの返答を送ってきた。
 自分で来るつもりは無いのだと、返信の文章のその行間から読み取れた。
「お医者さまを迎えに行って参ります。ビアンカさま、ピアノを弾いたりせず大人しく寝ていてください」
「あら、聞くひとのいない演奏なんて、弾かないのとどこが違うの?」
 当然のこととしてそう答えられた。私は俯いた。終わりが近いことを示す息苦しさは日に日に強くなる一方だった。目を合わせれば、瞳に深い孤独が覗けそうな気がした。
 もし、愚かさというものがあるとしたら、どこにあったのだろう。
 彼女を受け入れたことか。それとも、ここに来たことか。何も出来ない自分の存在自体がそうだったのか。いくら考えても答えは出そうにない。
 不意にビアンカが顔を上げた。瞳に映そうとしたのは、彼女が見つめているのは、私だった。
 重なった視線で睦み合い、やがて彼女は息を吐いた。何を望んでいるのかを、私は知っていて、だから、その通りにした。
 果たしてどちらからだったのか、もうおぼえていない。
 離れるのを拒むかのようにそっと手のひらを重ねた。触れた彼女の指先はかすかに震えていた。私たちは互いの体温の熱さに驚いた。いつしか私は、ビアンカの綺麗な指に自分の指を絡めていた。
 ビアンカ。
 繋がっていると信じた。信じることで奇跡が起こればと願った。
 誰のために。
「ねえ、どんなものもいつか終わるわ」
「だからこそ、出逢うことは素晴らしいのではありませんか?」
 最初の日、ビアンカは自らそう言ったのだ。
「うん……そうね。本当に、そうだった」
 彼女は小さく頷くと、疲れたようにまぶたを閉じた。私は急いで外に出た。鈍色の雲から降り注ぐ雨粒が絶え間なく顔を濡らした。視界が妨げられるたび目の前の暗闇がひどくおそろしいものに感じられた。
 終焉は刻一刻と迫っていた。


 外はひどい嵐で、昼から薄暗いままだった。
 弾かせて。ビアンカはそう口にした。弾くことはおろか鍵盤の前に座ることさえできそうになく、必死にベッドから降りようとする彼女を医者と一緒に止めようとした。
 医師が来てから、何日が経ったのか。手を尽くしてはくれていた。だが、あくまで限界を誤魔化しているに過ぎないのだと説明された。薬の投与は増え続けた。苦痛を消す代わりにビアンカの体力をも奪ってゆく。
 夜更け過ぎ、雨足が激しくなるのが分かる。
 ビアンカは私をまっすぐに見つめた。苦しそうに。鬼気迫る表情で。
 重たげに腕を持ち上げた。指の動きが一定のリズムを刻んだ。シーツを鍵盤に見立てて音もなく弾いていたのだ。
 止めることなどできなかった。それはどうしてか彼女にとって何より大切なこと。理解させられてしまった私にいったい何が言えたというのか。
 いつしか、ビアンカの弾く音色を耳にした気がした。いや、それは確かに聞こえていたのだ。
 すべてを許そうとする曲だった。
 前に聞いたのと同じ音色のはずなのに、そこには限りない優しさがあった。大きな哀しみがあった。そして揺るぎない強さがあった。それらすべてを乗り越えようとする意思があった。
 この短い曲は、唐突に終わった。
 渾身の演奏が届いたのを知って、ビアンカは嬉しそうに笑った。ともに過ごした日々を想いながら、そこに描いてきたすべてを綴るようにして。
 最後に、私に向けて微笑んだ。
「あなた……の……名前」
 まるで曲の名前を告げるように、ビアンカは静かにひとつの単語を口にした。
 その言葉を私は繰り返した。彼女はもう何も見ていない。しかし傍らに寄り添う私に向けて話し続けようとした。
「……ずっと一緒に……」
 消えていった他の言葉の行方は知れなかった。ただ私はそれを聞いた。たしかに聞いたのだ。
 私は彼女が息絶える瞬間を、目に焼き付けた。


 それから私は動かなくなった彼女を見つめた。
 じっと立ちつくした。どれだけ経ったのか覚えていない。まるで時間が止まっているような気になる。二度と動き出すことのない静寂が私を支配しようとしていた。
 ふと、そばで見守っていた医者のことを思いだした。そうでなければいつまでもそうしていただろう。この数日間、懸命に助ける術を探してくれていたのだ。
 深く頭を下げる。医師はこういう場に立ち会うのは慣れているようで、特別何かを言うでもなく、これからどうするのかについてだけ尋ねてきた。
「分かりません」
 そう答えた。
 医師は眉をひそめて、初めて私の名前を聞いてきた。本来ならもっと前に交わされるべき内容の会話だった。それでも困らなかったのはなぜだろうと考えた。
 私は元々持っていた名を口にした。ビアンカに呼ばれた名は名乗らなかった。それは私のものではない。ビアンカのための名だったからだ。
 医師は目を細めた。
「そういえば、この子の名前を呼んでいたね。君が名付けたのか」
「はい」
 目を閉じ、まぶたを上から押さえていたかと思うと、医師は小声で語り出した。
「少しだけ、昔話をしようか。君には知る権利がある。あるいは義務が」
「はい」
 そういえば、このひとはビアンカのかかりつけの医師だった。彼女を幼い頃から診てきたのだ。昔からずっと、彼女を知っていることになる。思うところがあるのだろう。
「この子には父親がいない」
「それは、どういう意味ですか」
 お父さまと呼ばれていたものがすでに死んだということはビアンカの口から聞いた。しかし、いない、という医師の言い方には皮肉げな響きがあった。
「この子の青い瞳は気にならなかったのかね」
「いえ……美しいとは思いましたが」
 少し考えて付け加えた。
「私の故郷では珍しくなかったものですから」
「そうか。君は異国の出身なのか」
 私は頷く。納得の表情をして、嘆息混じりに医師は説明してくれた。
「この子は異国の男との不義の子だ。望まれずして生まれたのだよ。母親の夫は、つまり父親ではない」
「そういう意味ですか」
「それだけでは、まあ、そう珍しいことでは無かろう。驚くほどのこともない。多少は予想していたかね」
「うすうすは」
「そして、その母親の夫、つまりこの子がお父さまと呼んでいた相手は、自分の娘とは考えなかった。まあ、私生児とはおおむねそういった境遇にあるものだろうが、事態はもっと悪くてな。この子には名前が与えられなかったのだよ」
 絶句した。ゆっくりと息を吐き出してから、聞き返した。
「名前がない?」
「そうだ。父親はこの子に名付けることを嫌った。それどころか妻にも兄にも名前をつけることを禁じた。本来なら許されないことだ。この子の兄から頼まれた私も、それをしてはならないと念を押された。タブーとはそれを知るものにしか意味を持たないものだ。こんな場所に隠されている子供のことなど誰も気にしなかったのだよ」
 だから名前を大事にした。名付けるという行為を尊いものとした。何を言って良いのか分からなくなる。
「この子の兄は、この館に近寄ることは決してなかった。怖がっているんだ。どれほど恨まれているか分かったものではなかったからな。だから普通の兄妹がするようなことで出来る限りのことはやってやる。しかしそれ以外のことは一切しない。ゆえに彼はここに来ることはできない。普通の男なのだよ」
 ビアンカは彼らのことを恨んでなどいなかった。憐れんでいた。そうでなければ悲しんでいただけだった。言葉を交わすこともなく相手のことが分かる、そんな人間なら彼女の痛みを理解していたはずだ。だから、もはやどうでもいいことなのだろう。
 すべきことをせよ。雇い主、つまりビアンカの兄の言葉が思い返される。
 すべきことをしないのは、どういうことだろう。ビアンカの父は名付けることをさせなかった。それは存在の否定だ。生まれてきた者に対する呪いだった。
 父は死に、ビアンカはもはや解呪されることのないそれと戦い続けた。自分で名付けることは出来なかった。彼女には、それまで自分というものが無かったのだ。
 ふと気づく。あの雇い主は、すべきではないことを何一つ示さなかった。何も出来ない中で、それは精一杯の行動だったのかもしれない。
「この子は誰にも名前を呼ばれないで一生を過ごすことになっていた」
 息を吐き、だから、と医師は続けた。
「だから君に名前を付けてもらったとき、どんなに嬉しかったことだろうな。私にはとても想像が出来ない。それは何も持たなかったものが、初めて手に入れた自分の……自分だけのものなのだよ。どんな人間でも与えられるはずのもの。なのに自分にだけは与えられなかったもの。君はそれを彼女に与えたのだ」
「私は……」
「名前を呼ばれないということは、傍に誰もいないのと等しい。名前が無いというのは自分が否定されているということだ。この子は自由だったわけではない。放棄されていただけなんだ」
 たとえば聞く者のいない演奏のように。
 報われることのない愛のように。
 何が出来たというのか。叫びだしそうになった。すべては終わってしまっている。だけどそれでも、何かを叫びたくてしかたがなかった。
 この手の中には幸福があった。愛があった。しかし今となっては、それが本当は何だったのか分からなくなってしまった。それでも私は信じることしかできない。疑うことは逃げることと同じだった。苦しくとも、重くとも、逃げてはならなかった。
 誰のために。
「ひとを愛するものは幸せを感じることができる。ひとに愛されるものは幸せを手に入れることができる。君はこの子を幸せにしてくれた。この子は自分の幸せを知ることができた。すまない、ありがとう」
 医師は一度も彼女のことをビアンカと呼ばなかった。去り際、このひとも無力を感じていたのだと気づかされた。
 出て行った医師を見送りもせず、私は室内に残った。
 生気の失せた顔をしばし見つめたあと、その唇に口づけをして部屋を出た。雨の音も弱くなっていた。廊下の窓から外を覗けば、もうすぐ夜明けになるようだった。
 与えられた自室へと戻る途中、ピアノに薄く積もった埃が視界に入った。


 朝になってすぐ玄関先の掃除をはじめた。冷たい空気を吸い込んだ。空は高く澄み渡っていた。そこには遮るものなど何一つ存在せず、青だけが鮮やかに煌めいており、その景色はいっそ悲しいくらいだった。
 いつの間にか習慣になっていたせいで、何かしようと考えなくとも身体は自然に動いてくれた。
 二階の窓はかたく閉じてあった。主を失った館は凍り付いたように静かで、あまりに寂しく目に映った。
 光を放つ太陽に背を向け、きつく目を閉じて、記憶に思いを馳せた。
 胸があたたかなもので満たされている。けれどどうしてか肩が震えた。崩れそうになる足を必死に抑えた。
 そして彼女のために笑おうと思い、しかしそれはとても難しく、私は、こみ上げてくるものを抑えられず、この世界が美しいばかりのものではないと知りながら、ましてや悲しみに満ちてなどいないと言い聞かせながら、でもやはり心を偽ることなどできなくて、熱いものが頬を伝ってゆくのを感じ続けた。
 彼女のせいで泣くのではない。彼女のために微笑むのだ。
 でも、しゃくりあげてしまうのを止められないでいる。声を張り上げ泣いてしまっている自分が悔しくて、なぜだか、ひどく悔しくて、そのくせ、目からはぼろぼろ、ぼろぼろと雫が止めどなく溢れてくる。
 想いがこぼれぬよう、そっと空を仰ぐ。ありもしない輝きを求めるみたいに、高く、もっと高くへと手を伸ばす。そうしながら、私は彼女の名を口にした。
 ビアンカ。
 なにもかも、なにもかも白に消えてゆくのだ。
 まだ何にも染められていない色に。
 胸の裡で、私は彼女の名を呼んだ。幾度と無く呼び続けた。
 ビアンカ。
 青く揺れる場所はあっという間に滲んだ。いつしか何も描かれていない真っ白な世界になった。そこはまぶしくて、あまりにまぶしくて、やがて何も見えなくなった。

  (了)