「そうだ! 今年は由綺ちゃんをかこんで、クリスマスパーティーをしましょう」
と、美咲が提案したのがことの起こりだった。もちろんそこに至るまでの会話にはそれなりに紆余曲折があったわけだが、取り分け重大な原因は、クリスマスイブ当日に冬弥のスケジュールが空いていないせいだった。日付が変わる直前くらいまでは拘束されるだろう、とは当人の弁である。
クリスマスイブ――それは彼女持ちにとっては非常に大事な日である。無論、冬弥だって断ろうとしたのだ。早いうちから仕事を入れないようにはしていた。
しかし何せ時期がら季節がら人手不足の折である。急なことで、しかも経験者を要する仕事ということが重なっていた。日頃無理を聞いてもらっているバイト先だ。事情も分かり切っている。他にも様々なしがらみがあって、結局断り切れなかったのだ。
いろんなことを上手くやっていこうとしたら、この世にはどうにもならないことが多々ある。
冬弥は、その時間、その場所に、自分ひとりでもいれば、どれだけの人間が助かるかが瞬時に理解できてしまったのだった。こうなると流石に首を縦に振らざるを得ない。
それで落ち込んだのは冬弥だけではない。
ああ、珍しく予定を空けさせてもらっていた由綺。彼女の顔に一瞬だけ浮かんで、すぐさま隠れてしまったた落胆といったら!
恋人は仕事に追われる羽目となり、かくして彼女はひとり寂しい時間を過ごす――まるで去年と同じような状況、立場は逆だが――なんて空しいことになりかねない。
そんなこんながあって、美咲は励ますようにパーティーを提案したのだ。
由綺はありがたいような、申し訳ないような、それともまた他の感情の入り交じった複雑な想いを胸中に抱えつつ「うん、美咲さん、ありがとう」と答えた。
頭の隅っこで考える。
美咲さんくらい素敵なひとなら暇なわけが無いんじゃ……いやいや、偶々一緒に過ごす相手がいなかっただけなのかもしれない。美咲の思惑について、由綺は考えないことにした。余計なことは忘れて楽しんだ方がいいに決まっている。
このような経緯の元で、美咲、はるか、彰の三人は、由綺と共にクリスマスパーティーをすることになったのである。
いわゆるパーティーと言っても、ケーキや料理を食べつつ、お酒も入って盛り上がって、適当に乾杯する。そんな催しだから気兼ねする必要もない。日頃一緒の時間がとれない友人達と存分に楽しもうと由綺は強く思った。
予定や用意、その他諸々の相談をして煮詰めた結果、会場は大学の近所にある美咲の家で、時間は夕方からになった。
「そっか。それじゃあ、仕方ないけど……うん、うん……あ、あとでまた電話するね」
美咲は大学の門に寄りかかっている。会話の途中で眉をひそめた。相手の困った声が行き場を無くして宙に溶け、やがて電話は静かに終了する。
手が下に降りる。携帯電話を押し当てていた耳には、ちょっとした熱が籠もっていた。外で会話するものだから顔に手にと直截風が当たるのだ。そのため身を切るような寒さが身体に染みこむようだった。手の甲がつねられるような痛みをおぼえた。外に出てきた理由はある。棟内の電波状態がやけに悪く、仕方なくこんなところまで出てきたのだ。
しかし、ここにいて良かったと美咲は思った。偶然、構内から出て行くはるかの姿を見つけたためだ。
「はるかちゃん」
「あ」
手を振って呼び寄せる。はるかは何を考えているのかよく分からない顔でうーんと前後の動きに迷ってから、ひょいひょいと軽い歩調で近寄ってくる。
鼻先を突きつけ合わせて相談しようということらしい。美咲が内緒話の体勢でかるくかがむ。はるかも中腰になって、顔をずずいっと寄せた。
近い。が、ふたりともあまり気にしない。
「やっぱり冬弥君、ぎりぎりまで来られそうにないって」
「そう」
「どうしよっか。由綺ちゃんもいることだし、色々考えてたんだけど……」
何か無いかと周囲に目を巡らすが興味を引くものは無い。良い案が思い浮かばなくて困っていた。
ふと視界の隅に見覚えのある影が通り過ぎてゆく。こちらには気がついていないらしい。彰だ。はるかが目で追った。美咲も倣う。どちらも別段声を掛けるつもりは無いようだ。
間を保たせるための話題には一応昇った。
「昨日から七瀬君はなんだか嬉しそうにしてるわね」
「うん、尻尾を振ってる」
「……しっぽ?」
「うちの彰の話じゃなくて」
「ああ、そういえばはるかちゃん、犬飼ってるんだっけ」
「彰からもらった犬。名前は彰」
「……ぷっ」
「おもしろいね」
美咲の吹き出した瞬間、はるかもかすかに笑った。
彰が見えなくなった。そうこうのうち、美咲は何か思いついたらしく、真剣な顔ではるかに耳打ちした。ぬくい息がかかる。くすぐったそうにそのアイデアを聞き終えると、はるかは、にっこり笑って頷いた。
自分だけじゃどうにもならないことがいくつかあるので、さらに細かく指定するように、話を続ける。美咲はそおっとはるかの表情を窺った。
はるかの返答は簡潔だった。
「いいよ」
イブイブ――つまり23日のコンサートを大盛況のうちに終えた由綺だったが、この長い一年の慣れと経験、プロ根性のおかげもあって、疲れを翌日に持ち越したりはしなかった。そもそも全力で歌を唄ったあとの心地よい疲弊感には何物にも代え難い快感が含まれている。直後ならともかく、時間さえかけて休めば、極端な疲労は残らないものだ。。
あーあーあー。声を出す。喉の調子も悪くはない。最初の予定ではまる一日の休みを貰って、一日中冬弥と過ごすつもりだった。そのぶん、どうにも体力が有り余っている気がしなくもない。
腕を上にして、うーん、と伸びをする。よおし。せっかくの休みなんだもん、楽しまなくっちゃ。
普段よりイルミネーションで彩られた街並みは、楽しげにさざめいている。恋人たちにとってはクリスマスのサンタより、イブが本命だ。
由綺も街中が妙な熱で浮かれているのを肌で感じる。コンサートの最中に感じる一体感に似た熱気とは異なり、ここに漂うのは、もっと小さく深くて、もっと濃密な、そんな空気だ。
まだ夕陽が落ちきっていないが、明るさを含んだ夜の気配がどこからか流れてくる。
なるほど今日はクリスマスイブである。つまり12月24日である。恋人達のための聖夜だ。
道行けば、そこかしこにカップルが行き先を塞ごうとしているようだ。正確にはどこに向かってもいちゃいちゃしている恋人達が自分たちの世界に入り込んでしまっていて、どうにもこうにも歩くのを邪魔しているのだ。そう、あくまで邪魔なのであって、別にうらやましくはない。
本当なら今日は冬弥君と……なんてぜんぜん思っていないもん、と珍しく素直じゃない思考を、目まぐるしい勢いでぐるぐる考えている。
素直に顔に出てしまっているので、誰にでも分かることではあるが――当然そんなのは嘘である。
それはそれはものすごーく思っているのだ。ちょっぴり悔しさを感じつつ、寂しさも混じって口を尖らせ、由綺は急ぎ足で寒空の下を進んでゆく。
頭上では、グレイの雲がまばらに流れてゆく。夕焼けに染まって透明な赤光を反射させていて、なんて美しい景色なんだろうと思えた。言うなればロマンチックなのだ。なんでこんな日なのに、傍らに冬弥君がいないんだろう。とても寂しかった。……ぶんぶんっ、と首を振って焦って否定する。去年はこんなことしょっちゅうあって、なのに冬弥君は私のことを待っててくれたんだもの。私だってこのくらい我慢しなくちゃいけないんだ……
口をへの字に結んで、この一年のことを思い返していると、感謝や愛情、手のひらのぬくもり、指先の冷たさ、唇の感触や、吐息だとか、それよりもっと熱いものだとか、いろんなことを明確に思い出してしまって、ひとり顔を赤くした。
でも、やっぱり傍にいてほしい。寂しいものは寂しいのだ。
ひどくわがままになっている自分に気付いて顔を伏せた。唇に指を当てて、そおっと撫ぜる。うつむきかげんで美咲の家へと足早に歩いてゆく。途端、顔を隠すのを忘れていたことに気がついたけど、誰も由綺には気がついていないようだ。ほっとする。
と、同時にやっぱりうらやましいなあと、そういう行為に及ぶカップル達をちらちら振り返りつつ、由綺はとぼとぼ美咲宅へと急ぐのであった。
美咲の家、というか部屋に到着した。去年までは実家にいたそうなのだが、今年からは心機一転、一人暮らしを始めたとのことである。昨年は目が回るような忙しさで由綺は周りが見えていなかったが、美咲にも、いろいろ吹っ切りたいことのひとつやふたつあったのかもしれない。
由綺がここを訪れるのは初めてのことだ。そもそもこっちには二、三ヶ月前くらいに引っ越してきたそうだから、冬弥や彰も来たことは無いらしいと聞いている。
約束の時間より大分早めに着いてしまった。そのせいでドアの前でどうしたものかと途方に暮れている。インターフォンのボタンをすぐ押そうか、十分くらいどこか回ってから時間に合わせようかと、指がボタン上を彷徨う。
迷っているあいだ中、周囲をあちこち興味深そうに観察している。見た感じ、一応だが、アパートというよりはマンションらしい造りの住宅だった。彼女の部屋はこの二階通路を進んだ一番奥にあった。
収入を考えれば住める部屋があまり広くないのは当然のことである。とはいえいきなり一人暮らしを始めるのは大変だったんじゃないだろうか。由綺も何度も連れて行って貰ったことがある実家はそこそこ広い。美咲の部屋も日当たりの良い、綺麗に片づいた部屋だった。わざわざ出て行て一人暮らしするなんて、もったいないんじゃないかとも思う。
そんなことを考えながら由綺はなんとなく倉澤という表札を見上げ、ぼけっとそのまま待っている。
家の中から声が聞こえた気がした。美咲がひとりなら話し声など無いはずだ。とすると、もうすでに誰か先に来ているのだろうか。
それが契機となった。ようやく決心がついて、チャイムを押す。
ピンポーン。
慌てたのか、大急ぎで片づけをする音がする。不思議だ。由綺にとって、美咲の部屋のなかはいつも綺麗という印象しかなかったのだけれど。
室内から音が消え去った。テレビもついていないようだ。遠い街のざわめきに比べ、目の前の空間だけがとても静かだった。
「由綺ちゃん?」
「うん、来たよー。美咲さん、こんにちは」
ぎぃぃ、とドアが開く。
二人が顔を合わせたこの時点でも、まだ約束の時間まで20分ほど余っていた。
由綺は玄関先で一旦立ち止まって、中の様子を覗き込んだ。何か物音が聞こえたような気がしたのだ。
「寒かったでしょ。早く上がってね……えと、どうかした?」
ううんなんでもない、と答えて靴を脱ぐ由綺。
はてな。美咲の後ろ姿は何時も通りだった。何が気に掛かったのか、自分でも分からないままで由綺はうーんと唸る。何もおかしいものは見えない。背中を追って部屋へと入る。予想通り広くはないが、決して窮屈というほどでもない。一人暮らしならこのくらいでも充分なのだろう。手狭な感じは受けない。スペースを活用できる人間なら、充分以上かもしれない。
部屋は繋がった二つと台所、トイレ、風呂場に洗面所が揃っている。脇目で窺うと、乾燥機が見当たらない。それどころか洗濯機も無いようだ。そう言えば来る途中、階下にコインランドリーがあった。あそこで洗っているのだ。
由綺はひとり納得し、はぁぁと感心して、息を吐いた。
「え、なに?」
振り返る美咲に、笑って答える。
「良い部屋だなあって」
「そうかな」
「はいっ」
「うん、ありがとう」
一部屋を通り抜けて、奥の方の室内に辿り着く。会場はここらしい。まだ、特にこれといった飾り付けなどもしていないらしい。質素だがセンスの良い小型の家具が壁に沿って並んでいるだけだ。内装にあまり凝ったり拘りすぎないのは美咲らしいと由綺は思った。台所にある冷蔵庫のかなりの大きさは特に気にならない。自分が教わったこともあってか、由綺にとって美咲の料理上手は自明のことだからだ。
中央にはテーブルがある。木製だが分解などは出来そうにない。実用性重視の、作りのがっしりとした卓袱台代わりにもなりそうなものだ。
で、その向こう。壁沿いの家具に混じってひとつ、妙に大きな箱がどんと置かれている。人間が一人くらい入れそうな幅と長さの箱である。幅は冷蔵庫とどっこいどっこいか。高さはその箱の方が幾分小さいが。
当然、由綺は目に入ったそれから目を離せない。
「あの」
何の箱なのか、気になって聞こうとする。プレゼント用の包装用紙に似た図柄で、上から下までかなり派手な色合いだ。目立つことこの上ない。
じっと凝視していると一瞬動いたような気がした。錯覚だろう。上部だけ微妙に色が異なる。あそこだけ別の絵でも描いてあるみたいだ。蓋の用途なのかもしれない。
先回りして美咲が答えた。
「実はね、プレゼント」
「へ」
「いつも頑張ってる由綺ちゃんへの、ね」
「そ、そうなんだっ。美咲さん……ありがとう」
ただ喜ぶだけじゃなく、感動しているらしい。惹かれるようにして箱に近づいていく由綺。ふらふらと吸い込まれていくような足取りだ。ある程度近寄ったところで、とつぜん美咲が焦った声を出して止めた。
「こんなに早く来ちゃったから隠す暇が無かったんだけど……あ、出来れば今開けないでくれるかな。せっかくだしね」
「はいっ、美咲さんがそう言うなら!」
ドアが開く前の物音は、どうやらこれを隠す方法に苦心していた時分の騒動のためなのだろう。由綺はそう考えて、少々申し訳ない気持ちになった。
美咲が笑って、こんなふうに言う。
「あとで、ちゃんと演出付きにするから」
こくこく。由綺が嬉しくて声もなく頷く。と、いぶかしげな顔で美咲が携帯電話を手にする。
「七瀬君、迷ってるのかしら。時間を決めたらほとんど遅れないのに」
「なら、私が迎えに行った方がいいかなあ」
「あのね……由綺ちゃん、自分が有名人だって自覚ある?」
「でも、今日も大丈夫だったけど」
「こらこら」
と、考え直す素振り。美咲は顔を上げて提案する。
「……じゃあ、一緒に行く?」
こくこく。由綺はまた首を上下に振る。
「あ、はるかは」
「はるかちゃんなら大丈夫よ。帰って来る頃には飾り付けとかやってくれてるかもね」
今や押しも押されぬトップアイドルの一人だというのに、まったくと言って良いほど由綺の性格は変わっていない。こんなやりとりもまた楽しい。
思い出し笑いのような、内側から漏れてくる笑いをこらえつつ、美咲は玄関へと歩いていく。由綺は置いて行かれないよう慌てて追いかけていった。
美咲が靴を履いて、開けたドアを抜ける。由綺はちらりと大きなプレゼントに目をやって、すぐに外に出た。ドアが閉まる直前、由綺の視界の端で、まるで箱が生き物のごとく動き出しそうな気がした。
差し込んだ鍵をひねると、鉄じみた硬い音が響いて、他の音は掻き消された。
美咲と由綺は並んで歩いた。
真横から夕陽の光が射し、目に眩しいほどだ。ふたり分の影は長く伸びている。
大通りから若干脇にそれたところに美咲の家がある。
といっても分かりやすい場所だ。直線距離では大学と駅のちょうど半分ほどの場所で、ほぼ一本道なため合流するのは容易かった。彰は周囲を注意深そうに顧みては、道を憶えようとしていたのだという。
もう約束の時間だと由綺が告げると、えっ、と驚いた顔で自分の腕時計に目をやった。長針と短針が重なったまま凍り付いているかのようにそこに留まっている。秒針が動いていなかった。
「うわ、ごめんなさい」
「いいのよ。事故とかじゃなくて良かったわ」
美咲が先導する形で歩き始めると、前方から風が吹き付けてきた。紺青とオレンジの境目も、すでにほとんどが闇に溶けてしまっていた。
由綺が目を細めて空を見上げた。今年の冬は例年に比べ若干だが雪量が少ないらしく、雲も薄い。紺青の夜天にはまばらにでも星が煌めいているようだ。由綺の見ているのを真似して、美咲が黒く澄んだ頭上を仰ぐ。ぽつりとつぶやく。
「うん……晴れて良かった」
「美咲さん?」
その口調が本当に安堵でいっぱいなのが気になって、由綺は足を速め、美咲の顔を下から見上げるように呼びかける。美咲は言いにくそうに答えながら、ぱたぱた手を振る。
「あ、っと、なんでもないわよ。こっちの話。クリスマスに雪が降るのはちょっとロマンチックなんだけど、そのぶん移動が大変になるんだもの」
「美咲先輩、パーティーの後、どこか行くんですか?」
彰の問いに、考え込んでしまう。
「……ええとね。私じゃなくて……ああ、なんていえばいいんだろ……」
困っているようだ。なんで困っているのか分からない彰と由綺はとりあえず沈黙を守る。しばらく黙って歩いているうち、パッパッパッ、と街灯の電気が入る。白い光が灯り始めた。美咲は、やっとのことで口に出来る答えが見つかったらしく、多少慌てながらも、二人に向かって名前を出す。
「そう、冬弥君のこと」
「え、でも」
「帰ってくるころに降ってたら、電車やバスが止まっちゃうかもしれないし」
そうかー、と由綺は納得する。何を考えているのか顔にありありと書いてある。美咲は口には出さずにそれを読み取る。冬弥君いまどうしてるかなぁ。今日は寒いから薄着してないといいんだけど。クリスマスイブ、いっしょに過ごしたかったな……。こんなところだろう。
彰のほうは美咲の言葉なので疑う余地など無いと自分を納得させている。美咲は苦笑して、すでに目の前まで着いていた家を指し示す。
並んで階段を上っていく。
鍵を捻り、ドアを開いた。振り返りもせずはるかが声を掛けてくる。
「あ、おかえり」
「ただいま。はるかちゃん、どう?」
「んー」
「あ、いいんじゃないかな」
「じゃあ、そういうことで」
由綺と美咲が往来を行き来してくるまでのあいだに、飾り付けは恙なく終了していたようである。作業にけっこうな時間がかかってそうなくらいに綺麗に装飾されている。おつかれさまと美咲がねぎらう。
天井際にあるそれが真っ先に目に飛び込んでくる。材質は触らないと分からないが、段ボールか何かのようだ。白地に赤い文字でクリスマスパーティーと書かれた板だった。鮮やかなポスターカラーで塗られているし、きちんと乾いていることからも、先に用意してきたものだろうと由綺は思った。持ってくるのも大変だったろうに。
「はるか、全部終わっちゃった?」
「一応ね」
「ごめん、手伝ったほうが良かったね」
「由綺は良いよ」
「僕は?」
「……」
「はるか?」
「……」
「なんで黙ってるのさ」
無言を返されるばかり。彰はなんだかよく分からない重圧に負けそうになっている。美咲が謎の激戦を繰り広げている二人の一方へと何やら問いかける。
「あ、頼んでおいたあれは?」
「ばっちり」
はるかは即答した。美咲の目が笑っている。あんまり苛めちゃだめよ、と釘を刺されたらしい。
いじけているのを見て、ようやく応答してやる。
「遅刻した?」
「う」
「彰、美咲さんに――」
言葉を止める。彰は勢い込んで聞き返さざるを得ない。
「美咲先輩がなに」
「……ふっ」
はるかに鼻で笑われた。彰はからかわれたと悟り、愕然として椅子を引いていく。
誰の目にも勝敗は明らかであった。
と、はるかの携帯にメール着信。美咲に目配せ、頷く。
「はるかちゃん?」
「おかし、そこに置いてあるから」
「……うん、了解。じゃあ、料理も並べておこっか」
「ん」
美咲が台所に向かう。料理を運ぶ。彰が持ってきた飲み物はジュースがメイン。ワインはあるが、後にしようということになった。
彰が出しゃばりかけるのを制する。
「由綺、乾杯の音頭」
はるかの促しに、おずおずと手を伸ばす。
「じゃ、じゃあ、……えとえと、みんなのこれからの活躍を願いましてっ」
かんぱーい!とグラスを重ねる。
「あはは。由綺が一番活躍してるけどね」
と余計なことを口にする彰。
「彰、お手」
「なんだよはるか」
「お座り」
「……うわあああっ。か、身体が勝手にー?」
「調教してるし」
「されてないしっ」
「んー。サブリミナル効……じゃなかった。超手品。超はるかマジック」
「どこが超なんだよっ!? しかもそこまで言いかけておいてなんで手品っ!?」
などと漫才をやっている二名を放置して、美咲と由綺は最近あまり時間が合わなかったぶんを埋め合わせるようにして話し続けている。
「由綺ちゃん、お正月中の仕事は?」
「一応、三が日はお休み貰えるみたいなんだけど……」
「そっかぁ。良かったわね」
「はい。美咲さんの方は?」
「こっちはねー、ちょっと二月公演の脚本書くの頼まれちゃったから、休み無いかも」
「それはお疲れ様です」
「まあ、私は由綺ちゃんほど忙しくは無いんだけどね。あ、久々に一緒に服の買い物とか、行く? もちろん一月入ってからの話よ。由綺ちゃんの休みに合わせるから……どうかな」
「嬉しいな――あ、でも、理奈ちゃんにも誘われてたんだっけ……どうしよう」
「緒方さん?」
「うん」
「なら仕方ないかあ。そっち優先にしたほうが良いんじゃないかな」
「……うーん」
しばし迷う。
「そうだ! 一緒に行けばいいんだ!」
今度は美咲が押し黙る。けっして嫌なわけではない。ないのだが、緒方理奈、由綺と並んで服を選ぶというのは中々勇気のいることではなかろうか。答えに窮していると助け船が入る。
「美咲さん」
はるかだった。
「え、なに?」
「ごー」
行け、という意味らしい。助け船ではなく背中を突き落とす係だった。
彰はジュースを飲んでいたはずなのだが、いつのまにやらコップの中身が入れ替わっていて、顔が赤くなり始めている。アルコールにはそんなに強くないらしく、わはははははと唐突に笑い声が漏れ出す。なんにしろ場が暖まるのは良いことだった。
さて、そんなこんなで盛り上がってきたところで、美咲がはるかに向かって声を掛けた。
「そう言えば、はるかちゃん。頼んでおいたケーキは?」
「んー。少し待って」
手ぶらに見える。一通り前後左右を見回したあと、
「布ぷりーず」
「これでいい?」
用意良く、美咲が手元にあったバンダナ二つ分ほどの布を放る。
「ん」
腕から先が完全に隠れた。はるか取った不可解な挙動に注目する由綺と彰。
「じゃん」
布が取り払われると、手の中からにょっきりと箱が出現した。ケーキが入っていると思しき形状だ。
「わあっ! はるか、いつから手品なんて出来るようになったのっ」
由綺がはしゃいでいる。
「はるか、開けないの?」
はてなマークを顔に浮かべる由綺。はるかは重たげな箱を、慎重にテーブルに置く。
「もっとすごい手品、見せてあげる」
「へ」
「……はい」
由綺が目を皿のようにして箱を凝視する。ぱかっ、と開いたら、中身は空だった。
「えっ、えっ」
由綺が混乱している。
「瞬間移動」
「うわっ、すごい! はるか、すごいよ! どうやったの!」
本気で感心している由綺からの一通りの賛辞を受けたのち、はるかはんー、と唸って。
「彰、冷蔵庫の中から持ってきて」
「え、なんで僕が」
「いいから早く」
はるかがその場から一歩も動く気が無いのは見て取れた。良いように使われていることに気付きつつも彰は立ち上がる。美咲に良いところを見せようとでも言うのだろう。
「うーん、仕方ないなぁ」
台所へと向かう。
こうなれば何も言わずとも、冷蔵庫へと三人の注目が集まるのは当然だった。彰が扉を開く。中には細かな作り置きの料理や飲み物、醤油のペットボトルなんかがかいま見える。そして確かに大皿に載せられたケーキが一つ、ラップを掛けられた姿で鎮座ましましていた。
簡単の声を挙げた由綺が、はるかの顔とケーキを見比べて、視線を行ったり来たりさせている。
「じゃあ、はるかちゃんお手製のケーキ、全員で分けて食べましょうか。すごく美味しいのは保障付きよ」
美咲は口元に笑みを浮かべている。切り分けたそれを受け取って、由綺が感嘆の声を挙げる。
「美味しい……っ!」
お菓子作りの秘訣は的確な分量を崩さない点にあると言われる。生クリームからスポンジ、チョコレートのビターな風味などが入り交じった妙になじみ深い味の、だが食べたことのないような斬新なアレンジ入りの美味しさに三人は驚いた。食べたはるかも驚いた。由綺が夢中になってケーキを口に運んでいる隙に、ひとり分残して、冷蔵庫にしまっておくことにする。
美咲が紅茶を淹れてくれる。手ずから渡されたティーカップに、彰は無心に喜んでいる。
場が落ち着いたのだ。
だからだろう。唐突に、由綺は違和感をおぼえた。
この部屋で目立つものといったら、飾り付けられた場所、それもあの大きなクリスマスパーティーと書かれた板だ。それから冷蔵庫くらいなもので、自然とそのふたつが目に入った。
そのふたつしか目に入らなかった。
変だなと思ったら、冷蔵庫の長方形から想起してしまった。
何故か、影も形も見当たらない。きょろきょろと部屋の中のものに目を向けた。大半の家具より大きいそれが見つからないのはおかしなことだ。嫌がおうにも目に入るべきものなのだ。しかしどこにもない。台所、玄関、トイレまでをぐるりと見回すと、隠せるスペースが一切ないことに気がついた。
ようやく、由綺は自分の疑問を明確に口にした。
「美咲さんのプレゼントが無くなってる……?」
何のことか知らない彰は、疑問顔で由綺を見つめる。美咲はどうしたの、といった優しげな微笑を浮かべている。はるかは由綺の呟きを耳にして、一瞬、ほっとしたような顔を浮かべたように見えた。
「――と、まあ、これこれこういうわけなの」
不安そうな由綺の懇願を受けて、美咲が彰に滔々と説明してあげる。はるかは聞いているのかいないのか判然としない態度で黙ってその会話に耳を傾けている。
「なるほど、箱のありかが分かればいいんですね」
はりきっているらしい。すわここから彰のミステリ知識が総動員された探偵篇が始まるかと思いそうなものである。しかし誰も止めようとはしない。
「美咲さんのために考えました……」
本人の目の前では使わないようにしている呼び方が、ぽろっとこぼれ飛び出る。その彰を楽しげに見つめる美咲。おろおろしている由綺は、これから始まることがよく分かっていないようだ。
「そうか!」
「え、分かったの?」
「いや、その。さっきのはるかの手品のネタだけは」
「……だって、はるかちゃん」
美咲がはるかに伺いを立てる。はるかは、
「へえ」
とだけ返事した。
「つまりこういうことだよね。ケーキは元から冷蔵庫の中にあった。被せた布の中からケーキ入りの箱が出てきたみたいに思わされたけど、実はあれは箱だけ。普通、わざわざ取り出した箱にケーキが入っていないだなんて思わないから、勢いで、いきなり出てきたあの箱から更にケーキが消えたなんて見せかることができたんだ」
今日初めて、尊敬する美咲に対して良いところが見せられるからと、妙に饒舌になってしまう。
はるかの表情は変わらない。黙って聞いている。
「考えてみれば単純なトリックだよ。結果だけ見せられている僕らは、その前の状態を知らなかったんだもの。あの手品は、合っているかどうか観客に確かめられない問題の、答えだけだったってこと。でしょ?」
美咲は見た。一見、変わらない表情だと見えなくもないはるかの顔に、僅かな変化があったことを。
由綺もつきあいが長いから、なんとなく悟った。……あ、はるか、ちょっとムカついてる。
しかしはるかは何故か反撃しない。
「あはは。ケーキが入っているって前提が崩れればあとは簡単だったよ」
「で。七瀬君、大きな箱のありかはどこなのかな」
「それは、えっと」
答えに窮する。
「部屋の中に無いなら、外なんじゃないかな、と」
「どうやって? 泥棒ならもっと別のもの持って行くんじゃないかなぁ」
はるかの代わりなのか、どうしてか美咲が矢継ぎ早に質問を突きつけてゆく。しかし室内にそれらしき箱は見当たらないのも確かなのだ。総当たりで探そうにも、一見して、箱の隠せそうな場所は無いことが分かる。
なるほど。これが美咲の言っていた演出なのだ。
辻褄は合ったが、どこに消えたのかも、どうやって消したのかも、手段が分からない。
由綺も考える。
が、可能性をひとつづつ潰していくと、どうしてもはるかにしか出来ないことに思えるのだ。順番に考えてみると、まず自分が来たとき美咲は部屋にいた。箱があった。部屋を出て行くのは由綺の方が遅かったのだから、隠すにしても持ち出すにしても、どうしても美咲には不可能となる。では誰ならば可能か。
彰はどうだろう。あれこれ考えて無理だという結論に達した。なぜなら彼は遅れてきたのだ。たとえ美咲の部屋がどこにあるかを知っていても、鍵をかけたのを由綺はこの耳で聞いている。部屋の鍵が無ければ外から入れないのは自明だ。
鍵?
あれ?
不可解に思って、由綺は聞いた。
「はるか、もしかしてここの鍵持ってる?」
「ないよ」
「私も渡した憶えは無いわね」
美咲が付け加える。嘘ではないようだ。とするといっそうおかしなことだ。美咲と一緒に外に出た由綺は鍵を閉めるのを確かめていた。はるかとすれ違うこともなく道を行き、また鍵を持っていないではるかは部屋の中に入ったことになる。
そんなことはありえない。
「じゃ、由綺ちゃん。箱がどこにあるか当ててみてくれる?」
心なしか楽しげに、美咲がそんなことを口にする。余興なのだ。肩肘を張らずに、かるい気持ちで推理してみると、なんとなく楽になった。
曰く、箱はウエハースか何かで出来ていて、はるかが食べてしまった。(これはその後のはるかの食べっぷりで否定された。)曰く、箱の素材が特別で水を掛けたら見えなくなってしまった。(中身はなんだったんだよ、というツッコミで排除。)曰く、もともと箱なんて存在していなかった。ただの錯覚。(目撃者がふたり。由綺と美咲がいるのだから、無理がある。共犯者がいれば可能という説に移行した)。曰く……
まずありえない説から、そうかもーと納得できそうになった説まで、色々出た。
「そういえば、ケーキははるかが作ってきたんだよね」
「ん」
「じゃあ、あの箱って?」
箱に入れないと持ってくるのが大変だから、という至極まっとうな理由は思いついたのだが、それでも箱そのものは最初から用意しておいたとするほうが無難な考えだろう。普通、あんなケーキの箱を大事に長々と取っておく人間はいないからだ。
指摘されて、はるかは声に出さずつぶやいた。あたり、と口が動く。
と、いきなりだった。
はるかが立ち上がる。
「犯人は――」
突きつけられた指先が、最初から決まっていたことのように彰をびしっと指し示す!
「んー、彰でいいや」
適当だった。
「ええーっ!!」
「……七瀬君、信じてたのに……」
いきなり糾弾し始める由綺と美咲。もちろん冗談だと分かっていてやっている。
「なんではるかの言うことだとみんなして即座に信じちゃうんだよぅっ」
少し泣きそう。
はるか、ものっそい小声で、
「……というのは冗談」
なるべく聞こえないようにさっと口にする。
「はるか! もっと大きな声で!」
「んー。彰、いまなら許してあげるけど」
「今、冗談って自分で言ったじゃないかあっ!!」
箱の消失が発覚してから、どれくらい時間が経ったのだろう。再度展開されそうになった彰の推理を聞いていても良かったのだが、美咲は壁にかかった時計を見る。まだ、もう少しかかるのかもしれないと嘆息する。
その瞬間、ポケットが震えた。
はるかに合図する。
心持ち大げさに。なにしろ最後の仕上げである。せっかくの苦労が水の泡というのはあまりにも忍びない。邪魔されないよう慎重に、上手くことを運ぶためにはもうひとつ必要なことがあったのだ。
由綺が困惑した様子で、彰とはるかのやりとりを前に硬直している。
「仕方ないね」
「なにが」
「彰、伏せ」
「……犬扱いはひどいよ……」
でも、ついやってしまう。慣れてしまっている自分が悲しい。
「もっと死体っぽく」
「なんで僕、クリスマスイブに死体っぽいことをやらなきゃいけないんだろ……」
「上手に死体役が出来れば美咲さんとうっはうは」
「それはものすごく魅力的な提案だけど、騙されないよ……あとさ、うっはうはって絶対死後だと思う」
と言いつつ、こう?なんて聞きながら、しっかりと床に倒れる。
「ん」
それをはるかは踏みつけて、衆目を一身に集めた。全員、脇目もふらず、この推移の結末を見ようとする。
「犯人は、私」
じたばた。彰が暴れる。踏みつける力を強くする。由綺が目を丸くしている。
「え、僕が被害者なの?」
「死体は黙って。十点減点」
「……」
ここからは、余計なセリフを差し挟まれると困るのだ。
「実は私が真犯人」
「はるか、本当に? でも、なんで……」
急展開についていけない由綺を尻目に、はるかは動き出した。
天井から釣ってあったあの『クリスマスパーティー』と書かれた板を取り外す。で、裏返すと、部屋に入ったとき由綺の目に入ったあの派手な図柄が現れる。リバーシブルだったのだ。
「ここをこうして」
更に彰にネタをばらされた手品用のケーキの箱が取り出される。折りたたまれていたそれを分解すると、正方形の蓋のような形になった。
あー! と死体役、もとい彰から事態を理解したゆえの驚く声が漏れる。
「……なんだ、そうかぁ」
「こぉら、七瀬君?」
「あ」
「一万点減点ね」
美咲にめっ、と叱られてがっくり半分、恍惚半分。彰はこれはこれで幸せそうだ。
と、ここで、とうとう由綺にも理解できた。
さいころの形状を思い出せば分かりやすいかもしれない。大きさを調整するために横二つ折りにしてあった段ボール板を元に戻し、長方形になるよう、ついた折り目の通りに縦に曲げる。広げれば□□□□となる形だ。丁度、上部と下部の抜けた四角柱の形状になる。そこに蓋をかぶせれば、最初に見たのとまったく同じ箱のできあがりである。
中に何も入っていないそれを軽々と持ち上げると、よいしょ、っと玄関側に持って行く。彰は死体役を全うしている。脇腹を踏まれても泣かない。実は黙っていさえすれば良かったのだが、なにせ根が素直なので言われた通りにし続けている。
由綺の近くで立ち止まったはるか。
「はるか?」
「手品の続き、見たい?」
「うん……」
なんでこんな手間のかかる用意をしたのか、美咲の顔と、はるかの顔を見比べて、由綺は不思議そうにその箱を注視し続けた。怒ってはいない。むしろ考えている最中は楽しかったように思う。ただ、どうしてなのかが全然分からなかったから、どんな顔をすればいいのかに困っていた。
はるかが箱に手を触れる。
いち、
にー、
さん、
数をかぞえた。はるかの、まるで魔法使いのようなさりげない仕草。
「じゃん」
「――由綺ちゃん、開けてみて」
それまで黙っていた美咲が、にっこり笑って薦めてくる。
「えっ」
「ほらほら」
思った以上に強く背中を押されて、由綺が箱の目の前にとととっ、と踏み出す。
そして、言われるままに、そっと蓋を取る。
「……え? な、なんで!?」
そこにいたのは――
「どうして冬弥君が入ってるの!? えええーっ!??」
なんと答えて良いか分からず、冬弥ははるかに目を向ける。寒さで顔が赤いままだ。今さっき到着したばかりらしい。
はるかはいつものような口調で、
「ひみつ。手品だし」
なんて言う。笑顔の奥にはやり遂げた満足感が見えていた。
「っと、来るの遅れて悪い。これ、誕生日プレゼントなんだけど。……由綺?」
呼びかけられて、呆然としていた由綺が我を取り戻す。
手渡されたのは小さな箱。指輪か何かだろうか。しかし由綺はそれよりも冬弥の顔を見たまま、視線を動かさない。穴が空くほど顔を見つめている。それしか見えないみたいに、見つめ続ける。
「あ、うん、ほんとうに……冬弥君だ」
「……由綺」
はるかたちがいることにも構わず、由綺は冬弥に抱きついた。
顔が、冷たいほっぺたに触れる。冬弥も腕を回し、ぎゅうっと抱きしめる。
「うれしい……ありがとう」
由綺の感謝の言葉は誰に向けたものか。
二人の様子を息を殺して見守っていた美咲とはるかは、声は出さず『大成功』と口だけ動かして、お互いの頑張りをたたえ合っていた。
聖夜は多少騒がしく、あたたかな光に照らされながら、ゆっくりと更けてゆく。
――Merry Chirstmas! and Happy Birth Day to you!!
(了)
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