天井からは、冷たい光が照らしてた。
 秋葉ちゃんが何か言おうと口を開く。けれど蒼ちゃんの影が遮った。
 わたしの前で、ぽろぽろと涙が落ちていく。
「そっかぁ……蒼ちゃんって、じつは泣き虫さんだったんだねー」
「ばか」
 悲しげな顔から視線を外す。
 セピア色の写真をゆっくりと手に取り、じっと見ていると、とっても優しい気持ちになれた。いつまでもこうしていたかった。
 でも、机の上のほう、備え付けられた荷物を置く棚のうえに乗せた。
 木々を背景に写真に向かって笑っている、わたしたちの日々がそこにはあった。
 呆れたような苦笑いと、ちょっと照れながら怒ってる姿。それから木漏れ日に目を細め、にこにこ笑ってるわたしがいた。
 なにもかもが優しくて、あったかくて、みんなみんな好きだったのだ。
 いつだって楽しかった。どんなことでもできると思ってた。
 思い出すと、なんだか夢を見てるみたいだ。ふとんの重さを感じながら眠るように、なんだか安心しちゃってる。
 ねえ、蒼ちゃん、秋葉ちゃん……わたしはいつも笑っていようって決めてたけど、いつでもすぐ泣き出しそうだったんだよ。
 楽しかったんだ。
 ふたりのおかげで、わたしはいつでも笑っていられた。だから泣かないで。だから最後まで笑っていたかった。
 だから。
「ふたりとも……」
 大好き。
「ありがとう」
 ゆっくりと流れる今日を過ごすのが、どれほど幸せだったのかを。明日へ生きていけるのが、どんなにすごいことなのかを。
 わたしは少しだけ知っていたのだ。
 なにもかもが遠い昔の記憶かもしれないし、少し前のことだったかもしれなくて。いまではそれすらもあやふやに感じてしまう。
 ついさっきのことすら、ぼんやりかすんでいく。でもわたしは、ちゃんとまぶたの裏に浮かべられる。まだ、あのころを覚えてる。いまを覚えてる。
 覚えていられる。それだけで充分だった。
「わたしが泣きやむまで、手を握っててくれるかなぁ」
 言葉に詰まりながら、それだけいって、わたしは目を閉じてしまう。ちいさく震えてる手に、そっとふたりの指が絡んだ。つよく握りしめるように。決して離さないように。
 泣き顔なんて見たくないし、見せたくない。
 ふたりが笑ってる、このかけがえのない時間を、ぎゅっと抱きしめていたかった。
 いつまでもいつまでも、ずっと。



いつか結晶になる今日を



「スカートまでびしゃびしゃだー」
 大粒の雨が土をはね飛ばす。
 濃い暗雲は渦を巻き、強風の吹き荒れる涙空。
 今日が来ることを遥か以前から覚悟していたのだ。だから羽居は不満だった。こんな日は、すっかり晴れ渡った青空が良いに決まっている。
 なにもこんな天気じゃなくてもいいじゃないかって、そんなふうに思った。
 どんよりと曇りきって翳った頭上には、暗幕が垂れ下がっているようだ。むぅーとほっぺたをふくらませて、それから羽居はようやく落ち込んだ。
 天を仰ぐ。雨雲の影が重なっていた。薄暗さがどこか寮の廊下を思わせて、なんとも息苦しい雰囲気を醸し出す。
 嵐の表情を浮かべていたのだ。時間が経てば、今以上に天候が荒れるのが容易に想像出来た。
 羽居は身を翻して寮に駆け込む。濡れた髪を乾かしたい。タオルを探してとたとたと廊下を行く。教師に見つからなければ、走ってもかまわなかった。でも走らない。髪から水が滴り落ちて、掃除された廊下を汚してしまうのが嫌だったからだ。
 人波をかき分ける。誰かに挨拶されて、羽居は反射的に挨拶を返した。誰だろう。話したことはあるはずで。しかし風景の一部のごとく捉えてしまったのだ。
 ごめんなさい。羽居は心の裡で頭を下げた。
 さらに廊下を奥へと早足で歩いていく。
「ただいまー」
 勢い良くドアを開け、羽居は真っ直ぐ部屋に飛び込んだ。
「……ねえねえ秋葉ちゃん、なにかふくもの貸してー」
 葉書を熱心に読んでいる秋葉を見つけると、羽居はさっそく聞いてみた。ドアが閉まる音と、秋葉が顔を上げるのは同時だった。
「羽居、あなたは私の顔面に水をはねとばす趣味でもあるの?」
「えー、そんな趣味はないよ?」
「ふぅん。……少し待ってなさい」
「うんっ」
 しばし待つ。
 ごしごしと秋葉が顔を拭き終え、羽居に向かって声を掛ける。
「じゃ、受け取りなさい」
「ありが」ばす。羽居の顔面にかるい衝撃が当たった。むぐっ、と口に貼りついたらしく声がでない。満足そうに秋葉は深くうなずいた。
 全力投球だった。
 ぷはー、と布をはがす羽居。怒ったぞ、といいたげな表情で、
「うぅ、ひどいよっ。暴力はんたいー。どーしてそんな乱暴なコトするかなぁ」
 秋葉はにこりともせず、黙っていた。
「あれ、どーしたのー?」
 無言だった。
 羽居の顔を見ていた。
「うーん、秋葉ちゃん、ほんとにどーしたの? お腹でもいたい?」
 重ねられた問いに対し、不機嫌な顔で秋葉は口を開いた。質問に質問を返す形である。
「これは、なに?」
 突きつけたのは、さきほどまで秋葉が熱心に読んでいた手紙だ。流麗な文体で、宛先には寮の住所と三澤羽居の名が記されている。
「あーっ! かってにみたんだっ! 秋葉ちゃんいけないんだー」
「悪かったわね。でも、私だって人の手紙を見るような悪癖は持ってないわよ。羽居、私の机の上に文面が見えるように置いてあったのは誰のせいかしら」
「……えっと、誰のせいかな?」
「アンタが置いたせいに決まってるでしょうがっ!」
 ほっぺたをつままれた。痛かった。
「えー」
「なに自分は関係ないって顔してるかな」
「だってだってだってー、秋葉ちゃんの机になんて、どーしてわたしが置くの?」
「いい? 蒼香は今日はまだ部屋に戻ってきてない。宿舎にいない中等部の数人に用事があるからってね。私が置くコトもありえないでしょう。はい、残ってる可能性は?」
「風に飛ばされて、秋葉ちゃんの机に着地したってのはどうかな。ほら、ちょうど窓も開いてるしー」
 たしかに窓が開け放たれたままだ。外に見えるのは深い緑色の木々、鬱蒼とした森だけだった。それすら空の暗さに沈んだ色に紛れている。風と雨粒が入るので秋葉は窓を閉めた。外の空気に部屋は冷やされ、かすかに寒い。
「今日に限ってやけに否定するわね。……まさか本当に羽居じゃないの?」
「うん。そーゆー手紙は気を付けてたもん」
 それもそうか。秋葉は納得して、手紙の内容を思い出す。
「これって今日来たってこと?」
「ちがうー。昨日のお昼ごろに渡されたから」
「じゃあ今日の朝に置かれたなら、蒼香の可能性もあったか」
 タイミング良く、というべきか。ドアを開けて蒼香が入ってきた。雨に降られたはずだがほとんど濡れていない。羽居と違い、忘れず傘を持っていったのだろう。
「ただいま」
「おかえりー、ねえ、もしかしてこれ秋葉ちゃんの机に置いたのって蒼ちゃん?」
「ああ……それがどうかしたか」
 不思議そうに訊いてきた。
「ええ、ちょっとね」
 秋葉が手渡し、ん、と蒼香は手紙を受け取り読む。読んでいるうちにうーむと唸り、最後には羽居に視線をずらした。
「床に落ちてたからさ、宛名見ようと思ったんだが……家に帰れって書いてあるのが目に入ってね。遠野だと早合点したみたいだ。悪かった」
「それはいいんだけど、それより羽居、どういうことか説明してくれない?」
「うー、明日すぐに家に帰らなきゃいけなくなったってコトだよ」
「……それだけ?」
「そーだよ? ほかになにも書いてないでしょー」
「それは、そうなんだけど」
「どうした、遠野にしては歯切れが悪い。気になることでも書いてあったとか」
「文面にはもうすぐ約束の日だから必ず帰宅するように、って短く書いてあるだけなんだけど」
 なんだけど、の先が続かない。
 気楽そうな蒼香の声に、秋葉はしばらく押し黙る。鮮やかな黒髪をなびかせながら、悩んだ表情を見せ、言いづらそうに口を開いた。
 窓から吹き込む風が三人の頬を撫でる。湿った空気が肌に染みる。
「羽居、帰ってくるのよね?」
 真摯な口調に、蒼香のほうが横で驚いてしまった。顔には出さなかったが、一瞬遅れて言葉の意味を掴んだのだ。滅多なことで動揺しない彼女たちにしては、非常に慌てていたとも言える。
 蒼香は声を出すのを忘れたように、秋葉が視線向ける先へと目をやった。そこにはいつも通り笑っている姿がある。蒼香はすぐさま安堵の息を吐き出す。肩をすくめるのも忘れない。
「――って遠野じゃあるまいし、そんな心配はいらないか」
 言いながらも顔がうすく赤らんでいる。焦ったことを恥じていたのだろう。ふたりが見ていると、羽居はひとさし指をあごに当てた。まいったなぁ、とでも言いたげに、
「うーん。どうだろうね」
 ふたりに向けてそう告げた。
「は」
 声をあげてしまった。なんとなく負けた気分で悔しいが、そんなささいな感情はどうでもいい。それよりいまの言葉の真意を急いで質さなければ。場合によってはただじゃすまさないぞ、と秋葉は口元と気をきつく締める。
 いくつか声を飲み込んでから、秋葉は眉をひそめ、静かに問い掛けた。簡単には逃がさない、そういった意思を全身から発していた。
「で、どういう意味?」
 羽居は、にっこりと笑んだ。
 ふたりの様子を窺っていた蒼香は気づいた。今日の羽居が浮かべる表情はいつもに比べて、どこか……いや、はっきりと違うものだ。あえて言葉にするなら、それは遠い笑顔だった。いくらかの間を空けたあと、答えが返ってくる。
 床に敷かれたカーペットのおかげで足音は立たなかった。険しい顔の秋葉から二歩だけ離れて、羽居がやっと口を開いた。笑みは絶やさない。
 ぢぢっ、と羽虫に似た音が鳴った。頭上の蛍光灯である。
「わたし、入院しろって前から言われてたのー。秋葉ちゃんは知らなかったっけ?」
「初耳に決まってるでしょう?」
「あたしもだ。ああ、だから実家に帰るの嫌がってたのか」
「むー。おっかしいなぁ」
「言わなかったのってわざとだろ、羽居」
「……あははっ。そんなコトないってー。それは蒼ちゃんのごかいだよ」
「嘘が下手すぎる。どこから嘘なのか知らんが」
 蒼香が口元を歪めた。
「まあ、とにかく」
「そのへん、詳しく話してもらいましょうか」
 言葉の途中に被さるように秋葉が先を続けた。彼女の落ち着いた声が、元々そう広くない室内をさらに狭く感じさせた。
 ふたりを見据えたまま、じりじりと後ずさってみる羽居。
「秋葉ちゃんの目がこわいから遠慮しておくねー」
「それ捕獲するの手伝ってくれない?」
「いや、しかしな」
 蒼香は渋面をつくる。
「ならいいわ、私が実力行使にでるだけだから」
「おいおい……何をする気だ、何を」
「って、うわっ、蒼ちゃんずるいっ」
 渋い顔をしたまま、油断させた羽居の後ろに回って捕まえていた。
「悪く思うな、おまえさんのためだ」
「さあ羽居。キリキリ白状なさい」
「うわあ、秋葉ちゃんどっかの女王様みたいかも」
「ほう」
「その手はなーに?」
「羽居の性根を正してあげようかという私の優しさよ」
 はたから見れば、なんとも素敵な微笑みだった。
「……えっと、こわいこといってる?」
「いいえ、全然」
 注意して見ると、目が全く笑っていなかった。
 動けない羽居の前に立つと、秋葉は真正面から目を覗き込んだ。少し赤くなっている。羽居の瞳は、秋葉の隠し切れない不安と微笑を映し出し、まつげは濡れていた。
 何を思ったか、羽居は笑みを深めた。迷わず口を開く。
「ねーねー、秋葉ちゃん」
「なに? くだらない用事だったら却下するわよ」
「そろそろご飯の時間ー」
「む」
「あっちゃー、仕方ないな」
 あと数分で六時半だった。いまから廊下で列になって、食堂へと向かわねばならない。規則を守れなければ食事抜き、そして寮監の訓戒が待っているのだ。
「今夜は荒れるかしら」
 空の暗さと降りしきる雨に、嘆息しながら秋葉がつぶやいた。静かに窓を閉める。果たして重苦しさはこの空模様のせいだけだろうか。空気がまとわりつく。雨の匂いが立ちこめている。
 秋葉は弱く息を吐き出した。しばらく羽居の笑顔を観察するように見る。それからくるりと背中を向け、ドアへと歩き出した。
 不満を隠そうともしていない声で、振り返らずに呟く。
「そうね。詰問は後でゆっくりしましょう」
「しなくていーのに」
 羽居は口を尖らせた。


 廊下には厳粛な空気が漂っていた。食堂では一切の私語が禁止されるから、ここから口をつぐむ者は多い。 
「あ、三澤さん、教室棟に傘忘れていったでしょ」
 前にいる誰かが、羽居に声を掛けた。
「えっと」
 羽居は不思議そうにその生徒の顔を見つめ、思い出すような表情になり、すぐさま手をぽんと打った。
「あー、そーかも! 教えてくれてありがとーっ」
「とりあえず玄関口の傘立てに入れておいたから。あとで持ってってね」
「らじゃー!」
 彼女は列に戻っていった。
 羽居は小さく零した。
「……あのひとって誰だっけ」
「おいおい」
「むう、傘は持ってってたのかあ」
「もしかして、寮に傘を忘れたと思って、わざわざ濡れながら帰って来たの?」
「みたいだねー」
「……物忘れもここまで行くと尊敬に値するわね」
「同感だよ」
「なんかバカにされてる気がするー」
「気のせいでしょう」
 声を掛けた女生徒が、羽居と何度も楽しげに話をしていたのを、蒼香は見たことがあった。秋葉や蒼香ほどではないが、それなりに親しい友人だったのではなかろうか。しかし羽居は思い出せなかったし、気にしている様子も、ふたりには見せなかった。
 まじまじと羽居の顔を見る蒼香。その視線に気づくと、羽居は無言で微笑んだ。


 食堂で食べ終えると、つぎは入浴の時間である。ぞろぞろと自室に戻っていく上級生の姿を横目に、廊下を歩いていく三人の姿があった。
 他の学年の入浴時間が終わるまで、秋葉たちは適当に時間をつぶした。慌ただしく問答するより、ゆっくりと腰を据えて話したいと蒼香が主張したのだ。秋葉が浴場で問いただす提案をしたが、多数決で却下されたのも理由の一端である。
 浴槽内では一時休戦ということになった。
 がら、と戸を横に引き脱衣場に入る。丁度上の学年の時間が終わった直後で、同級生の姿はほとんど見えなかった。おいおい増えるだろうが。
 備え付けのかごに、羽居の制服が投げ入れられた。着替え用のパジャマも一緒に入れておく。
「よーし、おふろおふろー」
「羽居、あまりはしゃがないように。……ぐ」
 秋葉がうめいた。瞳の奥に暗い炎が生まれたのが側にいた蒼香には判った。視線の先にあるのは、背中越しの羽居の揺れる胸である。それだけで蒼香は察した。
 現実はなんて残酷なのか。
 秋葉の胸と羽居のそれを見比べ、すぐさま目を逸らした。へたをすれば殺されかねない。かけるべき言葉などない。普段はできるだけ見ないよう気にしないよう心がけていたはずなのだが、今日は秋葉の油断だった。知れば比べてしまうのが人間の情動である。
 当然だが、
 負けた。
「あれー、秋葉ちゃんどーしたの?」
 悲しいのだ。
 とても、悔しかったのだ。
「……遠野」
「なにも、いわないで」
 はら、と涙を流さずにはいられない。
 泣いてなんかないとばかりに秋葉は制服を脱ぎにかかる。自棄を起こしたように乱暴な脱ぎ方だったが、床に投げ捨てた制服はきちんと拾って畳んでかごに詰め込む。履いていた下着までもいちいち全部きれいにしまい込んでから、控えめな胸を張れるだけ張った。そうだ。なにも気を落とすことなどない。きっと兄さんだって胸は大きいことを誇示しないような、むしろ手のひらサイズ、もしくはぺったんこの、つまり幼児体型が好きに違いない。そうに決まってる!
 兄はちっちゃい胸が好き。それは――秋葉の希望的観測だった。
 矜持を守るためにはそう思うしかなかったのだ。俗に貧乳と呼ばれる自分の体型を誇ろうと秋葉は妄想を思い浮かべ、タオルで前を隠し、浴場へのドアに向かって真っ直ぐに歩く。小さな胸であることなど、一切、全く、これっぽっちも気にしてなんかいないのだ。もちろんこれからぐんぐん成長していくはずだ。下級生の瀬尾晶にはなんとか勝っている。と、思う。実際に確かめてはいないがきっとそのはずだ。だから大丈夫。どんなに薄くたって、なんら自分は気にしてなんかないやい。
 秋葉は換気扇を見上げて声なく叫ぶ。そして先を行く羽居の背中ごしに、また豊かな胸が見えることに気づいた。あっちは隠そうとしても隠れないのか。隙間からちらちらと見えている。見えているのだ。秋葉は足下もおぼつかない。ゆらりとふらついて、爽やかな笑顔を浮かべて、ようやく歯を食いしばって耐えた。
 勝てない。
 秋葉は思う。世界にはどうしようもないこともあるのだと。
「世の中は不公平よ」
「さてな。しかしあいつ、また大きくなったような」
「なっ!?」
 絶句。
 衝撃に貫かれひざからくずおれる秋葉。
「いや、忘れろ。というか忘れてくれ頼むから。おまえさん目が怖いぞ」
 さっさと湯船に向かった羽居は、こちらがわの事情などおかまいなしだ。蒼香は宥めるのに神経を使い果たした。
「……まあ、気にすんなって。それよりさっさと風呂入ろう」
「そうする」
 ふと横にいる蒼香の一部分を見つめ、全身を見回し、数秒間だけ考え込んで、それから秋葉はにこやかに聞いた。
「ところで蒼香」
「ん?」
「もしかして、私よりも――」
「先行くよ」
 みなまで言わせず、蒼香は浴場へ逃げた。どんな表情かなど見るまでもなく判ったから、しばらく後ろは振り向けない。たかが数センチ、されど数センチ。かすかな差が明暗を分けることもある。明確な審判が下されていないのは、蒼香にとって、あるいは秋葉にとっても幸運だったのだろう。
 しかし秋葉は知らなかった。後輩たる晶の未発達な胸は、すでに秋葉に迫っていて、いまにも抜きつつあることを。
 合掌。


 浴場は広い。銭湯とほぼ変わらない造りである。違いがあるとすれば、富士山の絵やそれに類するようなものはないことか。大人数が一度に入っても大丈夫にできていた。
 ふたりの視線の先、湯に浸かっている羽居は悠々とくつろいでいる。頭にタオルを乗せ、ゆるんだ笑みは気持ち良さそうだった。
「……羽居、からだ洗ってから浴槽に入った?」
「なーに、秋葉ちゃん」
「からだをちゃんと洗ったのか、と聞いてるんだけど」
「洗ったよー」
「ほう。じゃあ、もう一回洗いなさい。髪が濡れてないみたいだし」
「うー、ばれた」
 名残惜しそうに浴槽から上がってくる。ざばぁと湯水が水面に滴り落ち、艶やかな肌を滑っていった。前を隠そうともしない羽居に、見ているふたりのほうが恥ずかしさを覚えた。
 羽居は上気させた顔のまま、蒼香に聞いてみた。
「ねねっ、なんで秋葉ちゃんおこってるの?」
「放っておいてやれ……」
 返ってきたのは苦笑である。
 そこから何かを敏感に感じ取ったのか、楽しそうな表情になった。シャンプーを前に座り込んだ秋葉の背中目がけて、羽居は素早く移動する。
 到着。
 背後から、
「ふっふっふ」
「な」
「あーきはちゃんっ、体洗ってあげるー」
 えいや、とばかりに体勢を崩させる。秋葉が逃げられないように背中から抱きしめて、手元のボディシャンプーを出す。白い液体石けんを秋葉の背中に塗りたくった。
「や、やめなさい! きゃっ」
「じっとしててよお」
「できるかっ」
「秋葉ちゃんのわがままさんめっ」
「こらっ、や、やめっ」
「えいえいー」
「う……」
 秋葉、撃沈。
「……おーい、生きてるか」
「蒼香、見てないで助けな」言葉の途中でするりと回り込んだ羽居の顔が、秋葉の目の前に唐突に出現した。少なくとも秋葉にはそう見えた。
 間近にある羽居の丸い目が、じぃっと秋葉の顔を見つめている。
「秋葉ちゃん照れてる?」
「やかましいっ」
「なんでもいいが、動揺しすぎだろ」
 淡々と後方から声が聞こえた。
「だから見てないでた」自ら言葉を遮って、秋葉は視線を下に向けた。手があった。ふにふにと動く指とその感触。
「遠慮しないでいいよー!」
 そう言う羽居の方は、遠慮の欠片もなかった。
 かぁっ、と火が点いたように真っ赤になる秋葉。叫ぼうとしたが声も出ない。手を伸ばしていた当人は、ひどく楽しそうだった。
 横で見ていた蒼香は意地悪そうに笑っている。反撃する気力も失ったか、秋葉は黙ってされるがままになっていた。
「よぉし、髪も洗っちゃうぞ」
「……もう、好きにしなさい」
 座り込んだ秋葉は、じっとしたまま、目をぎゅっと閉じている。
 わしゃわしゃと、艶やかな髪を洗い終えた。
「秋葉ちゃんの髪って、まっすぐなんだねー」
 答えはなかった。立ち上がってすぐ浴槽に向かい、秋葉はへりをまたいだ。肩まで浸かって、そのまま顔を沈める。湯は熱かった。
 先ほどから秋葉の頬は赤い。ちょっと恥ずかしかったのだ。
「いやはや、面白いもん見せてもらったよ」
 蒼香の声が響いた。
「そうだ、蒼ちゃんのからだも洗ってあげるっ」
「なっ」
「うんうん、これは名案なのです。ということで覚悟」
「待て羽居。あたしはやってもらわなくて結構だ」
「ダメだよー。さっきから秋葉ちゃんのコト笑ってばっかりで全然洗ってないでしょ? 体も冷えちゃうから、さっさと洗ってお風呂に一緒に入らなきゃ」
「だからあたしは自分で洗うからいいって! 遠野、助けてくれい」
「……羽居、ちゃんと隅々まで洗ってあげなさいね」
「おまえさん、心が狭いぞ……さっき助けなかったこと根に持ってるのか」
「ええ、もちろん」
 逃げようと、蒼香が立ち上がろうとした瞬間。
「ほら! 動いちゃダメなの!」
 羽居の声と共に、石けんのぬるぬるとした感触があった。背中をタオルでこすられると力が抜けてしまった。つい、しばらく身を任せてしまう蒼香。
 お湯でざばぁっと泡を流すと、蒼香の小柄な体は一瞬だけ熱さに震えた。それから知らず吐息が出る。
「はい、おしまいっと」
「ありがと」
「どういたしましてー」
 羽居は満足げだった。


「はぁ……」
 ため息ひとつ吐き出して。
 隣の秋葉に向け、蒼香は薄く笑いかけた。浴槽の奥に背をもたれながら。ふたりの視線の先には、髪の毛をようやく洗い始めた羽居の姿がある。くせのある毛に苦戦していた。
 知らぬ間に増えていた生徒の姿も、周囲に見受けられた。
「ま、たまにはこんなのも悪くないもんだよ。なあ、遠野」
「……そうね」
「へえ、今日は珍しく素直な返事だ」
「蒼香こそ」
 しばし黙る。
「どうしたもんかな」
「できることをするしかない。でしょう?」
 秋葉を見つめて、蒼香はゆっくりと頷く。
「……羽居は、大切な友達なんだから」
「ああ。……ん? おまえさんが友達って言葉を使うとは、これまた珍しい。ふぅん……大切な友達ねえ。それって親友って言わないか?」
「気のせいじゃない?」
 羽居が入ってきた。
「ごくらくごくらくー。やっぱりお風呂は気持ちいいね」
「そりゃ良かった」
 苦笑しながら、ふたりはぼんやりと天井を見上げる。嵐は激しくなったころだろうか。勢いを増していく不穏な風の足音が、自分たちに近づいてくるように。
「わっ、冷たいよう」
 上から雫が落ちてきた。
 温められた羽居の背中には、その冷たさがやけに染みた。


 入浴を終えると、三人は脱衣場から部屋へと戻った。
 途中、「そーいえば着るときも脱衣場ってなんか不思議」とパジャマ姿の羽居が言いだし、ふたりは黙殺した。
 襟を掴んで自室まで連行していく。音を立ててドアが閉まり、大声が部屋を跳ねた。就寝時間にはまだ、多少だが時間があった。
「ひーどーいー」
「あんたが逃げだそうとするからでしょ。さ、聞かせてもらうわよ」
「秋葉ちゃんのおにー」
「よく言われる」
「むー」
 蒼香は黙っている。しばらくにらみ合っていると、羽居は拗ねたような顔を別の方向に背けた。後ろ手に手を組み、羽居はゆっくりと窓に近づく。
 背中を向けたままで、
「ん」
 窓から見える景色は灰色だ。意識して必死に浮かべた表情は微笑みだろう。羽居は意味もなく、小さな声を漏らした。
「で……おまえさん、どっか悪かったのか?」
 雨が強くなっているのが音からも分かる。木々の影でひどく暗い。風も勢いを増しているのか、木々の枝が大きく揺れた。深緑の葉もざわめきを止めない。嵐は一層酷くなっており、いまは泣き叫ぶように荒れ狂っている。
 鈍色の霧雨が透明な窓を叩く。そこを境界に切り分けるよう、白と黒が分かたれていた。外には連なる深淵があり、先はどこまでも真っ暗過ぎる。遠くなど何も見えはしない。この暴雨はいつまで続くのだろう。薄闇を覗きながら、羽居は一度だけ体を震わせた。
 問い掛けに対しては、かすかに頷いて答えの代わりにする。倒れてしまいそうだ。竦んでいる。足の震えはもうずっと止まっていない。顔だけはなんとか笑みを形作っているが、いまにも泣いてしまいそうなのだ。
 喉が詰まる。
 消えてしまいそうだった。これから話す声が、いままでの自分自身が。
 羽居は目を閉じた。
 世界が暗くなる。あらゆるものが見えなくなる。すべては闇のなかに消えていく。
 羽居は誰ともなく問い掛けた。
「この雨って、いつまで続くのかなあ」
 窓が映す。そこには目を瞑った羽居の、いまにも泣き出しそうな笑顔がある。
 不安や悲しみ、そして切望だろうか。相反する感情がぶつかって、どうすればいいのか羽居自身も解ってなどいない。泣きたくて、笑いたくて、だけど、どちらも正しくなんかなくて。
 ただ、おそろしかった。
 堰が切られたように、いまにも溢れ出そうになるなにか。羽居は手のひらを自らの胸に押しつけ、跳ねる鼓動を確かめた。どくん、どくんと、動いていることに安堵し、何もない世界を覗き込む。心臓はまだ動いている。まだ、ちゃんと生きている。
 まぶたを開くと、そこにはふたりがいた。だから大丈夫。

 わたしはいま、ここにいる。

 羽居はくるりと振り返って、にっこりと笑んだ。この微笑みだけが真実なんだと、ふたりに教えるように。せめて、自分で信じられるように。
「もうすぐ、わたしは消えるんだって。……ずっと、ずーっと前から言われてたんだ。学校に来させてもらってたのはね、わたしのわがまま。だけど、それも明日で終わりなんだ」
「消えるって――」
「うん、黙っててごめん」
「どういう、こと」
 秋葉も、蒼香も、滅多なことでは驚かないつもりだった。何を言い出すんだろう。眩暈のように目がちかちかする。混乱が容赦なく襲いかかる。
 羽居は迷って、ゆっくりと口を開いた。教えることがたとえふたりを傷つけることにしかならないとしても。その痛みすら覚えていて欲しい。考えていることは矛盾していた。けれど、それは紛れもなく羽居の本心だった。
「わたし、だんだん記憶が無くなっていくんだ。ただ忘れるんじゃなくて、消えるの」
「……記憶が消える?」
「忘れるってことは、どこかにしまわれちゃうだけなんだよ。ホントはね」
 でも、と続けた。
「わたしの思い出には、ぽっかりと穴が空いていくんだ。いちど消えちゃった思い出は、二度と戻らなくて。それが、どんどん増えていくの」
「忘れた記憶が戻らない、って」
 もう思い出せない。
 子供のころの日常、家族との会話、中等部でのルームメイトの顔、そういった経験を、三澤羽居は全て忘却するのだ。大事な思い出が消えていくのはゆっくりで。だけど確実に削られていくのを感じている。記憶から抜け落ちた小さな出来事は、そんな思い出があったことすら、羽居には判らなくなってしまう。
 最近になって、いつしか新しく覚えることも難しくなった。周囲からは物忘れが激しいと思われていた羽居。ある意味でそれは正しかった。降り注ぐ記憶の雪は、積もることもなく溶けていった。今まで目立たなかっただけだ。ずっと、予兆はあったのだ。
 羽居は語る。
 欠片ばかりが浮かんでいて、手を伸ばしても決して届かない悲しみを。思い出そうとするたびに、その記憶が失われていく苦痛を。そして自らが消えていくことの恐怖を。
 幾多の他人との関係、そのなかで人間は生きている。自分とは、誰かと繋がっているときにだけ生まれる概念なのだ。他者との繋がりのなかに、自分の存在を理解する。ゆえに記憶とは、自分が自分であるという根拠であり、他人と自分とを分け隔てる唯一のものでもある。
 記憶が消える。自分から他人が消えるのを感じ、他人から自分が消えていく過程を理解すること。ふたりは羽居の言葉を信じ、想像せずにはいられなかった。すると虚ろで、なのに抗えないほどの恐怖が、そこにあることに気づいた。耐えきれない。大切にしている自分の記憶が、知らぬ間に勝手に奪われていくようで。
 こうしている間にも、一個、また一個と記憶が欠けていく。思い出が失われていく。ぼろぼろと崩れるように。造り上げた砂の城が、大きな波に攫われていくように。
 忘れる速度が上がっていたことに、羽居は充分なほど気づいていた。ここ数週間はひどさを増していて、だから家にも連絡を入れたのだ。手紙が返ってきた以上、明日にも迎えが来るだろう。そして二度と羽居が戻ってくることはない。
 夢みたいに楽しい日々だった。
 粉々に散りながら、霞んでいく。いくつかの大事な記憶は、まだ胸の奥底に。記憶と記憶の繋がりすら消えてしまったら、忘れていくことすら覚えてはいられない。
 羽居は未来を思い描いた。もし昔から今へ、たしかな繋がりを見いだせたなら、想いがずっと続くのなら。
 この学校の名前は何だっただろう?
 羽居が思っていた以上に、記憶を奪われるのは早い。忘却は加速していく。
 深いところにある思い出は簡単には消せない。三澤羽居という人間を形作っている大元の場所だからだ。しかし根差した場所、心の奥底まで辿り着いたとき、羽居という存在は、その人格は、跡形もなく消滅することになる。
 人間は一定量の記憶しか覚えていられない。整理し忘れることで、あるいは上書きしていくことにより、新しく覚えるための空白を生み出すのである。そして他者に比べ、羽居の記憶できる限界は小さい。ゆえに羽居が現在に至るまで積み上げてきたもの、その大きさに今まで耐えた容量を超えてしまったのだ。
 たとえば遠野秋葉が、自らに流れる血によって怪異と類似するように。羽居に残された時間はごく僅か。
 許容を大幅に上回る多量の水は溢れ、すべてを押し流し、ときにダムごと崩壊させるのと同様に。しかし人間はダムではない。抱え切れない重さに圧し潰され、沈みそうになるときもあるけれど。
 人は何かを忘れながら生きていく。
「うん。昔ね、同じコトがあったの。なにもかも忘れちゃったんだ。……家に帰ると、もう戻ってこられないかもしれない。だからいつも帰りたくなかった。自分が自分でいられるかぎり、ここにいたかったんだよ。ぜんぶ忘れちゃうと、それまでの自分も一緒にいなくなっちゃうから」
 言葉は、挟めなかった。
「いろいろなコトがやりたかったから、学校にこさせてもらってた。ねっ、秋葉ちゃんは怒ってくれてたけど、みんなに何か頼まれるのはね、べつに嫌じゃなかったんだよ。ううん、何かやれるコトがいっぱいあるって、すっごく楽しかった。わたしが、誰かのためになにかできたんだもん」
 反射する光にも似て。
 誰かの記憶に残ること、それは自分が存在していた痕跡になる。自分はたしかに、ここにいたのだと。何かを遺していけたのだと。羽居は信じたかったのだ。
 証はここにあった。
 羽居は過去形で語った。それから笑顔を潤ませて、言う。
「でも……もう、帰らなきゃ。ふたりを忘れちゃう前に」
 ふたりを傷つける前に。
 なにかを胸の奥底でこらえて、なんでもないことのように羽居は告げる。
 誰かに忘れられることはひどく悲しい。でも、誰かを忘れてしまうのはもっと悲しいことだ。その悲しさにすら気づけないのだから。
 羽居は泣き顔のまま、自分が泣いていることなんて気にせずに、笑うことにした。
 嬉しかったからだ。
 秋葉が見つめた。いまどうするべきなのか、羽居が何を望んでいるのかを知ったのだ。気丈にも、いつも通りの顔を浮かべようとする。あふれそうになる涙を押さえつけるようにして。
 蒼香は黙っているが、想いは同じだろう。
「だからいまは夢みたいなんだあ。うん、わたしはしあわせでした。秋葉ちゃんにも、蒼ちゃんにも、出逢えてよかった。こんなにすてきな友達ができて、うれしかったよ」
 深々と頭を下げた。
 秋葉が動こうとしたが、先に蒼香が前に出た。
「そっかぁ……蒼ちゃんって、じつは泣き虫さんだったんだねー」
「ばか」
 うん、と羽居はうなずいた。横にあった自分の机に腕を伸ばす。ごちゃごちゃと積み上げられたがらくたの山から、迷わず一葉の写真を手に取った。質素な木枠で飾られている写真立てには、いつか校内の行事で撮ったと思しき三人の姿がある。
 背景に朝の明るい緑の森が広がっていた。秋葉に追いかけられる羽居と、それを苦笑しながら見ている蒼香の姿。写真に撮られ、多少動揺したらしく照れている秋葉の顔。森のさらに後ろには、変わり映えのない古校舎も覗けた。
 机の上部にある棚へ写真立てを置いた。かたん、と木のぶつかる小さな音が鳴る。もう一度、自分を見つめる写真のなかの羽居たちに目を向ける。
 自然と、羽居は笑みを深くした。
 濡れたままのほっぺたをほころばせる。本当に嬉しそうな顔でささやく。
「ふたりとも……」
 優しい声だった。
 じっと見守って、ふたりは言葉を待った。
 羽居はにっこりと笑う。
「ありがとう」
 秋葉は声を失った。張りつめていた我慢の糸が切れたらしく、とうとう子供のように泣き出してしまった。
 そう言われるのは、嬉しい。そして気にくわない。
 ひどく悔しかった。
 なのに涙はどんどん溢れてくる。秋葉は胸を詰まらせた。悲しくなんてない。そう思いたいけれど、ぽろぽろ泣いてしまうのだ。どうしてそれを止められるだろう。
 感傷的な自分を諫めようとは、何故か思わなかった。
 きれいな感情。誰かを好きと思うのは、決して悲しいことなどではない。
 だが、これは別れの言葉だ。ひとつの夢の終わりだった。
 慟哭のごとき嵐は、ひたすらに吹き荒れている。自分たちの気分に合わせでもしてくれたのかと、蒼香は闇を睨め付けた。
 ぐしゃぐしゃになった顔で羽居は涙声のまま望んだ。ちゃんとした声にならなくても、ふたりはわかってくれた。
「わたしが泣きやむまで、手を握っててくれるかなぁ」
 おずおずと秋葉が手を取った。ぎゅっと握りしめると、蒼香も同じように重ねた。自分から手を繋いだのは初めてかもしれない。ただ、こうしていないと不安だった。ふたりには、羽居が消えていってしまうように思えたのだ。
 しゃくりあげる羽居の声だけが響いていた。やわらかい指の感触だけが本物だった。耳に届くのは窓を叩き付ける雨粒の激しさと、風の叫び、それから自分たちの吐息だけ。まるで、嵐のなかにいるようだった。
 涙も枯れ果てたか、それとも悲しさは尽きたか。いつしか涙の筋が渇き始めた。羽居はうん、と大きくうなずいてまぶたを押し上げる。
「ありがとう」
 もう一度、羽居はいった。
 感謝の理由など聞き返さなかった。秋葉は震えを隠し、なんとかうなずいて応える。漏れそうになる嗚咽を必死に抑えながら。
 羽居は本当に嬉しそうで。
 だから、辛い。
 夜のうちに羽居は姿を消すつもりだった。蒼香にも、秋葉にも、なぜだかそれが分かった。分かってしまった。
 三澤羽居は優しい。そして優しさは常に痛みと共にある。
 痛みを知る者は傷つけることを嫌がり、傷つくことを怖がる。だから優しくするのだ。誰も傷つけないように、痛みを与えないために。
 傷つくこと、傷つけること。どちらがより悲しむべきことだろう。忘れるのは傷つけることで、忘れられるのは傷つくこと。どちらがよりつらいことなのか。
 もうすぐふたりの顔すら思い出せなくなる。羽居はそれを悟った。消える前に、せめて自分の大切を守りたい。そう思うのは、果たして罪なのだろうか。
 重なった手を、羽居は自分からそっと離した。
「……忘れちゃうのは、かなしいよ」
 目の前で忘れられるのは、かなしすぎるから。
「だから、さよなら」
 誰かを忘れてしまう前に、自分が忘れられるように。誰かを傷つけるよりも、自分だけを傷つける道を行こうと決めて。
 行く道は、戻れない道。
 終わりを目指して歩くのだ、嘆きの丘へと向かって。
 その決意は悲しいけれど。
 もっとも相応しい言葉で言い表すなら、
 寂しい。
 秋葉はむしろ呆然と羽居の笑顔を凝視していて、蒼香はなんともいえない怒ったような呆れたような目で羽居を睨みつけて、ふたりともが見えないよう背中で組まれた震える手に気が付いていて。
 消失ではなく、喪失。
 手からこぼれ落ち、いつしか空っぽになる。
 いつ記憶が完全に忘れ去られるか。リミットはとっくに過ぎている。鮮明に思い出せる記憶はもはや片手で足りる量だった。意識するはしから細部は黒い霧に閉ざされた。意識から外すとその記憶に至る、他の思い出も見つけられなくなっていた。思考が途切れ、散っていく。
 父親も母親も自分が帰ってくるのを待っていてくれるだろう。けれど会わないほうがいいのだとも羽居は思う。
 なんでもない日々が、こんなにもかけがえのないものだなんて知らなかったあのころ。覚えている。まっさらの紙みたいに、すべて忘れさり何も判らなくなった羽居の最初の記憶。目の前でうろたえるふたりに『だれ』と問い掛けたとき。お父さんとお母さんだと名乗ったふたり。その瞳に浮かんだ涙があまりに寂しくて、痛すぎて、なのに優しく抱きしめてくれて。
 また同じことを繰り返すなんて、羽居はどうしても嫌だった。この悲しみを繰り返すくらいなら、いっそ。
 ごめんなさい。
 声には出さず、独りで羽居は歩き出そうとした。
 逃げるように。
 立ち止まってはならなかった。流れ散っていく記憶の破片。残滓すら空白に埋没する前に、早く消えなければ。なのに踏み出せなかった。
 羽居が背中を向ける前に、蒼香がただの一声で止めたからだ。
「たとえ忘れられても……あたしたちが、羽居のことを本当に忘れるとでも思ってるのか?」
 つまらなそうに淡々と呟く。
「ったく、あんまり世話焼かせるなよ」
「同感ね」
 蒼香の声に重なって、秋葉が髪をかきあげながら半眼で告げた。ふたりは気づいたのだ。まだ羽居にしてやれることがあると。
 蒼香は、これ以上ないくらいしっかりと羽居の顔を見据えながら、叫びを吐き出した。涙すら浮かべて、怒鳴った。
 羽居のことを真剣に怒ってくれている。
 友達として。
「うだうだ言うなよ! 誤魔化しで笑うな! 最後まで諦めんな! それくらいじゃなきゃ、おまえさんがどんだけ泣いたって意味がない。明日思いっきり笑うために、人間は今日涙を流すもんなんだ! 羽居が忘れても、あたしたちは絶対に覚えてる。あたしたちは三澤羽居の親友だ。そうだろ、なあ!」
 嬉しかった。
 その言葉は、何より羽居の欲しかった言葉だ。
 たとえふたりを傷つけることになったとしても。嬉しかったという羽居のこの想いは、自身で否定することなどできなかったから。
「……ねえ、羽居」
 静かに声にする秋葉。
「アンタ、そんなに私たちを信用出来ない? 傷つくことを怖がるとでも思ってる?」
 ふん、と鼻で笑う。
「傷つけることが怖い? 笑わせないで」
 震える声。
「私たちは友達でしょう。それ以外に理由が必要?」
 胸を張る。
 それはきっと、ただの強がり。
 忘れられる恐怖はあまりに大きい。それくらいは理解している。秋葉も蒼香も解っていて、それでも目を逸らさない。
 羽居を見つめる。潤んだ瞳に映り込む自分たちは、精一杯強がっているけれど、それでもふたりは本音で話す。そうでなければ、どうして誰かを好きになれる。傷つくことを怖がっていては何も出来ない。傷つけることを恐れていては、誰かを愛することなど出来ない。ただそれだけのこと。
 それだけのことを、ふたりは羽居に教えたかった。
「秋葉ちゃん……でも、でもっ……」
 羽居は傷つける言葉をかけてしまわないように。大好きなひとたちをこれ以上悲しませないように。このまま夜に紛れて、どこかへ行けたなら。
 そう、思っていた。
 こんなにも大好きだから。
 だけど。
「友達だから、頼ってもいいんだ。いままでもそうだったし、これからもそうだよ。絶対に。だからさ、そんなに悲しそうな顔、するなよ」
「……蒼ちゃん」
「だぁっ、そんな泣き顔でむりして笑わないの!」 
「秋葉ちゃんだって、泣いてるよー……」
「ばっ、馬鹿言わないように」
「あはっ……あはははっ」
「笑うなっ」
 ぺしっ。
「いたいー。あたま叩かなくたっていいのに」
「思い知った?」
「……うん」
「なら良いけど。で、羽居はどうするの?」
 秋葉は問う。
 これでもまだ逃げるのか、と。
「わたしは――」
 息を呑み、羽居は声を止めた。手を握られたことに驚いて。
「不安なら、こうしててやるから」
「羽居……まだ怖い?」
 繋がった右手の先は蒼香だった。何を言うべきか迷って、羽居は下を向いた。空いている左手を使い、パジャマの裾でごしごしと自分の顔を拭く。
 それから顔を上げる。羽居の声は震えていた。
「……ぜっ、絶対、忘れないから。きっと大丈夫だって信じてる。この手をぜったいぜぇったい離さないもん!」
「よし」
 秋葉は、羽居の左手を握りしめた。
「じゃあ、待つとしますか」
「そうね」
「ふたりとも……」
「どうした、とうとうおまえさんまで遠野に惚れたのか?」
「そこ、あとでひどいめに合わせるから覚えてなさい」
「……本気の目で言うなよ。ただの冗談だって」
「あれー、蒼ちゃんが秋葉ちゃんらぶ! じゃなかったっけ」
「このタイミングで言うとは……やっぱムダに大物だな」
 いつも通りの三人が、楽しげに笑った。


 終焉が迫っている。
 結末は避けられない悲劇だと、羽居は誰より知っている。好きであればあるほど、親しければそれだけ痛みは大きく強くなり、消せない悲しみを生み出す。また同じことを繰り返すのか。好きなひとを悲しませるのか。
 灰色の絶望がささやく。
 結局、いくら足掻こうと救われないのだと。生きている限り、誰かを好きになる限り、三澤羽居は何もかもを傷つけ続けるのだと。
 だとしても、いま、ふたりの友達であることを過ちだとは到底思えなかった。この気持ちは捨てられない。たとえ何もかも亡くしても、忘れたくない大切な想いだった。
 羽居は耳を澄まし、目を凝らす。
 窓の外、木々をなぎ払うような嵐は割れんばかりに叫び声をあげている。暗闇は渦巻き三人を飲み込もうと近づいてくる。深くどこまでも落ちてしまいそうな真っ暗な夜空。
 色が失われる。
 夢のなかにいるようだった。たゆたうままにぼんやりと見渡せば、眩むようなまぶしい闇が揺れている。消灯にしてはあまりに突然の暗黒だ。戸惑いの気配が寮を漂っていた。おそらくこの嵐でブレーカーが落ちたのだろう。いまにも窓を壊すのではないか。そう思わせるほど暴風がうるさかった。騒々しく廊下を走る足音も、羽居の耳には入らない。視界は闇のなか。暗すぎて表情など見えやしない。立ちすくんだまま動けない。
 なにも、わからない。
 痛い。どうしてか胸がひどく痛かった。
 どれほど苦しくとも、逃げ出したくとも、この痛みは夢だなんて思いたくなかった。悲しみも涙も恐怖も、すべて自らの気持ちの裏返しなのだ。失いたくないからこそ、必死に何かにしがみつく。
 意識するそばからぼやけ、それに違和感すら持てない。何もかも忘れてしまったとき、どうなってしまうのだろう。
 羽居は笑顔を作れなくなった。
 独りになるのが怖くて。
 知らない。此処は何処なのか。それでも判ることはある。目の前にいるのは遠野秋葉と月姫蒼香だ。いつだって優しくて、一緒にいるのが楽しくて、大好きで大好きで大好きな、ともだち。
 不安までも、とうに忘れた。
 絡んだ指。力が入らなくなっていく。
 唯一言葉だけは忘れなくとも、感情が淡く薄れていった。この圧倒的な悔恨が、失敗したという後悔すら、等しく空に散ってしまう。
 羽居に孤独が残された。
 そこにいるふたりの顔を見ようとした。
 周囲から闇が押し寄せた。埋まる。息苦しさすら感じる。感触は無い。何かを忘れていく。何を? それすら判らない。
 ただ、確かにふたりの顔は近くにあった。
 遠すぎる。もっと近くに。足りない。これじゃ足りない。
 見えなかったはずなのに。
 ふたりの羽居を見つめる瞳は優しかった。
 違う。過去形じゃない。
 優しい。
 大好き。
 親友。
 大好きな、ふたり。
 好き。
 それは、何?
 思い出そうとする。でも思い出せない。
 忘れてしまう。
 蝕まれる。錆びていく。心が軋む。からっぽになる。
 本当に?
 本当に。
 本当に、忘れたくない。
 ともだち。
 ふたりのこと。
 彼女たちが、大好きだから。
 忘れない。
 忘れたくない。
 ぜったい。
「……わすれたく…ない…よぉっ……」
 ぜったいに、握りしめたこの手は離さない。

 忘れる瞬間を待ちながら、羽居は明るい闇に沈んだ。
 意識を失い眠りゆくその表情は、とても穏やかなものだった。



 包み込むような白い光が、窓から差し込んでいた。
 嵐の去ったあと、鮮やかなブルーはどこまでもどこまでも広がっている。森の陽だまりでは小鳥が楽しげに歌っていた。
 朝の空気が気持ちいい。透き通っている。
 羽居はゆっくりと目を覚ました。泣きすぎたせいか、目が赤く腫れている。
「おはよう。起きたみたいね」
 ベッドに座っている秋葉の声。しかし羽居は訝しがる暇もなかった。
 声が聞こえる前に、違和感に気づいたのだ。
「あれ……」
 起きあがれない。
 顔だけ上げて、ぐるりと自分の体を見回す。すると、蒼香が羽居の体にしがみついているのが分かった。よだれまで垂らして、羽居の足を枕代わりに頭を乗せている。
 動くに動けず、羽居はぼんやりとその顔に見入った。
 無防備な寝顔だった。
 見ているとなぜか嬉しくなってくる。
 蒼香を起こさないよう鈍い動きで体勢を変えようとする。どうにも上手く行かないのであっさり諦めた。できることならこのまま寝かせてあげたい。幸せそうな寝顔を見ていると、羽居はそう思わずにはいられなかった。
 ぼんやりと羽居は考えてみる。
 握ったままのこの手は、どうしてこんなにも温かいのだろう。右手はすやすやと寝息を立てている無防備な蒼香に、左手は目覚めても尚この手を離していない秋葉に、夜中ずっと繋いだままだった。
 羽居はぼんやりとした表情で、重なった手を見つめ続ける。
 手にあるぬくもりは心地よかった。
 ぬくもり。
 温かい。
 この手は誰のものなのか。
 羽居はじぃっと目を凝らした。
 蒼香を、秋葉を感じながら。
 繋がっている。
 昨日と今日を繋ぐこの手を、このぬくもりを起点にして。
 過去から続く現在まで、羽居が大切に思い、また絶え間なく積み上げてきたものが、胸の奥から沸き上がってくる。
 それはとても重くて、ひとりでは抱えきれないけれど。
 羽居は孤独ではないから。
「……そっか」
 羽居は気づく。
 信じていた。驚くことなど、なにもなかった。
 握りしめたままの手を見つめてから、ゆっくりと目を閉じた。
 うん、と一度頷く羽居。安心して寄りかかる。
「なっ……」
 枕代わりにされそうになって、秋葉は避けた。
「あっ、なんで避けるのーっ」
 ぼすっとベッドのスプリングで羽居は跳ねて、ほっぺたを膨らませながら不満げに訊いた。羽居のパジャマがはだけているのが、見下ろした秋葉の目に入った。
 目覚めの気配を感じ、邪魔しないように動く羽居。ううん、と目をこすりながら蒼香が体を起こした。
「二度寝は禁止ね。さっさと起きなさい」
「……もう朝か」
「おはよう、蒼香」
「おはよ、んで何やってるんだ」
 眠そうに蒼香がふたりを見つめた。
 秋葉が抱きしめられて、羽居から逃げるところだった。
「なんで抱きついてくるかな」
「秋葉ちゃんが可愛いからー」
「まったく」
「蒼ちゃんが呆れてるよ?」
「アンタにでしょうが!」
「ええっ、そうだったのっ!?」
「そこで驚いた顔しないように」
「えへへー、でも蒼ちゃんも可愛いしー」
「……」
「……」
「どうして黙るのー?」
「何が『でも』なのか知らんが、なんていうか、……なぁ遠野」
「蒼香が可愛いだなんて、何を今更」
 秋葉が肩をすくめて言った。
 なぬ、と勢いよく蒼香が振り返る。
 それに続けて、羽居が笑った。
「蒼ちゃんの顔が真っ赤だー」
 照れ隠しに蒼香が黙る。
 はぁ、と大きく息を吐き出した。
「その様子なら大丈夫そうだな」
 蒼香が立ち上がろうとして、握ったままの手に引っ張られた。
 羽居は何も言わずに顔を上げた。秋葉を見て、蒼香を見て、ゆっくりと自分から手を離す。
 ひんやりとした朝の空気に溶けて、手から熱が逃げていった。
 ベッドから降りた蒼香。
 真剣な顔。
 羽居はその表情をまぶしそうに見上げて、しっかりと頷いた。
「うん、大丈夫。ちゃんと分かってるもん」
「ほう、何をだ」
 意地悪な問いだった。
 いつも通りな蒼香のスタンスで。隣りにいる秋葉も目が笑っている。
 嬉しくて嬉しくてたまらない。
 そんな動きで誇るように胸を張ると、羽居は微笑んだ。
「わたしはね……」
 思い出す。
 忘れない。
 過去に流した涙が、いまの笑顔に変わるように。
 そう、昨日から今日へと続けたかった大切な気持ち。そして今日から明日へと持ち続けたいこの想い。
 いつでも胸の奥できらきらと輝いているから。
 羽居は、それを言葉にするだけで良かった。

「いままでも、これからも、いつだってふたりのコトが大好きなんだぁって!」


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