永遠なんていらない。
 大切なのは、そんなものじゃない。

 全てが永遠に続くことなど、あり得ないから。
 やっと手に入れたこの日常が、とても大事だから。
 今、この瞬間を抱きしめるように。
 たとえ辛くとも、目の前を見て歩いていくこと。
 現実から目を逸らして、立ち止まっていてはいけない。
 白い世界を歩きながら、少しだけ前のことを思う。
 悲劇として記憶されるはずだった出来事。
 誰とも知れぬ他人の日々とは分け隔てられた、あたしたちの結末。
 そのまま終わるはずだった、寂しいだけ、苦しいだけの物語。
 諦めの記憶で、決意の記憶で、今では思い出のひとつの。

 それは、望み続けたもの。

 あたしたちがやっと手に入れた、純白の日常。
 それが、とても愛おしい。
 今を生きていけるということは、幸せなことだから。

 白い壁を見ながら、感傷を抱いた。
 乳白色は、寂しさゆえに真白の雪のように見えている。
 人の気配も感じられないような、とても薄暗く長い廊下。
 息苦しさを覚えるほどに、清潔すぎる空気が流れていた。
 ふと視線を横に向けると、窓の外には暗闇だけ。
 地面を跳ねる光はただ、寂しげに映る。
 冷たい光だけが、この建物から漏れている。
 なにもかも雪に埋め尽くされて、それを夜が押しつぶして。
 黒一色の世界が、白に滲んでいる世界。
 長い長い廊下。遠くに闇が見えるかのよう。
 あたしはゆっくりと歩く。
 急いでも仕方がない。急ぐほどの理由もない。
 足音を立てないように、静かに、静かに。
 沈んだ空気を気にもせず、病室へと向かう。
 こんな時間に人とすれ違うことはないだろう。
 面会時間もとっくに終わっている。
 あたしがここにいられるのは、担当医師の配慮。
 ずっと見捨てず、あの子を診続けていてくれたお医者様。
 先生にはいくら感謝しても足りないだろう。
 あとでお礼を言いに行こうと思いながら、目的の病室の前に着く。
 はぁ、と息を大きく吐き出して。言うべき言葉を考えて。
 何かをほんのちょっと期待して、ゆるんでいたほっぺた。
 直そうと、涼しげな顔を意識してみた。
 それでも笑みが浮かんでいるのが、自分でも分かる。
 よしっ、と力を入れて手を伸ばす。






 『dearest』 作者:yoruha






 がちゃり、と。
 唐突にノブを回す金属の音。強くドアが開く。

 あたしの手が、空を切った。
「うあっ!」
 勢い込んでいたためか。バランスを崩してしまう。
 当然のように、先ほどまでドアのあった場所に向かって倒れ込んだ。
「っと」
 声が聞こえて。
 何かにぶつかったらしい。少し痛い。
 そのまま思いっきり体当たりをしたような体勢で、固まるあたし。
 ひょい、と軽く抱きかかえられる。
「重いぞ香里」
「うるさいわよ相沢君」
 あたしを優しげに抱きかかえたまま、文句を言ってくる相沢君。
「名雪だの栞だのに比べれば、重いだろ?」
「どうかしら。あたしに訊かないで」
 少し、胸に嫌な感覚が走る。
 相沢君は、ふたりを抱きかかえたことがあるのだろうか。
 そんなことを考えながら、それでも冷静に続ける。
「ところで相沢君」
 いくらなんでも、この体勢は少し……いや、かなり気恥ずかしい。
 とりあえず、そんな感情は表に出さずに話しかける。
「降ろしてくれない?」
「ああ、悪い悪い。忘れてた」
 病院の床に、まず足が着く。
 身体も自由になって、相沢君の手が離れた。
「忘れてたって……」
 呆れた。
 こんな行動することについて何も考えてないみたいだ。
 お互い恋人がいないから、気にする必要も無いのかもしれないけど。
 相沢君はたぶん、誰かのことが好きなんだと思っていたりする。
 どうしてか。
 あたしには、見ていれば分かってしまったのだった。
 誰が好きなのかまでは分からないけれど、誰かを好きなのは間違いない。
 栞なのか、名雪なのか、それとも他の誰かだかは知らないけど。 

 こちとら、恋愛のひとつもしたことのない、寂しい女の子なんだけどね。

 そんな内心のつぶやきは、口に出さない。
 代わりに少しばかりのため息を吐き出したら、相沢君が口を開いた。
「いや、抱き心地がいいと言うかなんと言うか」
「……相沢君?」
 にこり、と微笑んであげる。
 いきなり目を逸らす相沢君。
 よろしい。
 途端、相沢君は真面目な口調になって話しかけてきた。
「さ、香里、遊んでないで栞に会ってやれよ」
「ええ。それにしても、なんでこんな話になったのかしらね」
 若干の沈黙。

「……香里が倒れ込んできたから」
「……相沢君が変なこと言うから」

 内容の違うふたりの台詞が、ぴったりと合った。
 困ったように顔を見合わせて固まるあたしたち。

「えーと、お姉ちゃん」
 小さく、控えめに声が掛かる。
 ここに来た目的を思い出して、そのまま表情を満面の笑みに変える。
 部屋の端にあるベッドに振り返って、言葉を返す。
「栞、どうかした?」
「いま、私のこと忘れてたでしょ」
 じーっ、とこちらを見てくる栞。
 どことなく、目が据わっている気がしなくもない。
「……ところで相沢君」
「お姉ちゃんっ!」
 栞が叫んだ。
「冗談はこれくらいにして、と」
「さっきの、本当に冗談……?」
 ベッドの上の栞が、左手でシーツを握りしめている。
 右手には、今にも投げつけられそうな枕。
 元気なのはいいことなんだけど、ちょっと元気になりすぎな気がする。
 宥めるように、あたしはベッドに近づいた。
「当たり前でしょ」
「本当かなぁー」
 疑わしそうに言ってくる栞。
 一応、枕は手放してくれたらしい。
 その様子を見て、あたしは訊いた。
「で、どうだったの?」 
「なにが?」
 栞が聞き返してくる。
 あたしはその言葉に苦笑しながら答えた。
「検査の結果に決まってるでしょーが」
 こつん、と栞の額に軽く握った手を当てる。
 少し、熱っぽいような感じ。
「栞……大丈夫?」
 あたしが訊くと、栞はぱたぱたと手を振りながら笑って答えた。
「あ、うん大丈夫。たいしたことないって先生も言ってたから」
「ならいいけど。もしも無理してるんだったら、怒るわよ」
 ぐーっ、と顔を近づける。栞は逃げる。
「お姉ちゃんっ。暴力反対だよー」
 がばっ、とシーツを被って隠れる栞。
 その状態のままで顔を少しだけ出し、なにかうなっている。
 とりあえず放っておこう。
「で、相沢君。なんであなたがここにいるのよ」
「いや、お見舞いに決まってるだろ」
 憮然とした表情で言い返してくる相沢君。
 まあ、いいけど。
「……検査入院に、わざわざお見舞い?」
 あたしが言うと、不満げな顔で反論してくる。
「不思議そうな顔をするなって」
 そんなことを言いつつ、不適な笑みを浮かべた。
「俺は優しい好青年だぞ」
 何故か栞が頷いている。
「たとえ検査入院だろうとなんだろうとお見舞いに来るさ」
「祐一さん、優しいですー」
 栞は、ぱちぱちぱち、と音を立ててるつもりで拍手した。
「はいはい。栞、ヘンなことされなかった?」
「酷いぞ香里。このジェントルマンをつかまえて言うことがそれかっ!」
 そんな台詞を言いながらも、あたしも相沢君も笑っていたりする。

 相沢君とのこういう会話にも、慣れてきた。
 学校でも、普段でも、最近は会うことが多くなっていた。

 栞の病気が相沢君に気付かれて、あたしと栞の仲直りに奔走してくれて。
 いつ最悪の事態になってもおかしくないときに、必死に励ましてくれて。
 奇跡が起きたかのように、栞の病状がだんだんと回復の兆しを見せてきた。
 ずっと見守っていてくれて。みんな、一緒に喜んでくれて。
 そして、あたしたちは、学年が上がってもまた同じクラスになった。
 相沢君と名雪と北川君との四人は、親友と言ってもいいくらいに親しくなっていたわけだ。
 そう……いいところも、悪いところも知ったうえで付き合える友人たち。
 ついでに言えば、全員、栞とも仲良くなっていたりするけれど。

 本当に、感謝している。
 もうひとつ、相沢君について付け加えるのなら。
 そばにいるだけで楽しいだなんて――誰にでも感じられるわけじゃない。

「で、なんかお姉ちゃんが遠い目をしてますけど」
「そうだな……俺はそろそろ帰るか」
 と、その言葉にあたしも感慨にふけるのを止めておく。
 相沢君が、ベッドの隅に置いておいた鞄を手に持った。
「えー、もう帰るんですか?」
「面会時間、とっくに過ぎてるし」
 不満げな栞の頭にポンポンと手を置いた。
「まあ、そんなこと言わずに、もうちょっとお話ししましょうよ」
「わがまま言うなって。せっかく花も持ってきてやったんだから」
 優しげに、自分の妹にでも接するように笑いかけた。
 とまあ、ベッドの横にはちょっとした花が束になって置いてある。
 お見舞い用としては、普通に使われているものだ。
 さらに視線をベッドまで動かすと、栞はかなりふくれっ面だったりする。
「……むー」
 巧い反論が思いつかないのか、拗ねたような顔。
「いいですよーだっ」
 まあ、言葉とは裏腹に笑ってるから大丈夫だろう。
 相沢君もそのへんは心得たもので、軽くあしらっていた。
「あ、香里」
 思い出したように、相沢君が立ち止まる。
「栞にあげた分の余ったやつだけど……いるか?」
「どんな花かによるわね」
「まあ、栞よりは香里の方がいいだろうと思ってな」
 差し出された花は、撫子。
「大和撫子にでもなれ、ってこと?」
「いや、まったくこれっぽっちもそんな意図は隠されていないが」
「んー」
 可愛らしい撫子の花。
 可憐な姿と、雑草並みに強靱な生命力を併せ持つ花。
 正直、相沢君から物を貰ったのは、これが初めてだけど。
 こういうのが意外に嬉しいものだったんだなぁ、なんて思った。
 これまで他人から貰った贈り物なんて、あまり嬉しくなかったのに。 
「受け取るわ。ありがとう相沢君」
 あたしはその花を受け取った。
 にこりと心から微笑む。 
 相沢君は、それに見合っただけの笑みを返してきた。
「どういたしまして、じゃーな」
 パタパタと手を振って、そのまま病室から出ていく。
 ドアを閉めるとき、ゆっくりと音を立てないようにしていた。
 意外にそういうところはちゃんとしているらしい。

 さて。
 後ろでにこにことしている我が妹の様子は大丈夫そうだ。
 とりあえず、検査入院からは無事に退院出来るだろう。
「で、栞。相沢君と何を話していたの?」
「お姉ちゃんの攻略法を」
「……へぇ」
「というのは冗談。うん、じょーだん」
 冷や汗をかいているところを見ると、ちょっぴり真実も混ざっているらしい。
 どうしてくれよう。
「えぅ……とっ、とりあえずお花を花瓶に入れてくれないかな」
「露骨な話の逸らしかたね。ま、別に構わないけど」
 あたしはその言葉に、紙に包まれた花を手に取った。
 そのまま丁寧に包装を剥いで、金属製の花瓶の中に入れる。
 水は入っていなかった。
 確か、洗面所とかはどの階にでもあったはずだから、入れてこようか。
 ずしりと重い花瓶を手にドアに向かう。
 と、ノブを回して開ける瞬間に後ろも見ずに栞に告げた。
「栞と相沢君がどういう話をしようが、あたしには関係ないから」
 何か言いたげな視線が背後から突き刺さったが、無視して病室の外に出た。

 がちゃり、きぃ――パタン。

 蛇口の栓をひねり、水道に花瓶の口を近づける。
 入れすぎないようにしつつ、水を止める。
 銀色に光を反射している花瓶からは、水の揺れる音がしていた。
 少しばかり持ちにくくなったが、抱えるように栞の病室へと戻る。

 個室というわけではないけど、他の患者さんがいないから。
 あの子、ひとりっきりでこの病室にずっといたんだ。
 栞も少し、寂しかったのかもしれない。
 相沢君には、あとでお礼のひとことも言っておこう。
 来たときと同様に、あたしはドアを開ける。
 今度はちゃんとノブの音。ドアの開く音。閉まる音。
「一応、持ってくる花にも気を付けてくれたみたいね」
 あたしは開口一番、そんな風に言ってみた。
「そうなの?」
 栞は、あたしの手元の花々に興味を持ったらしい。
 花を凝視している。
「ええ、とりあえずお見舞い用の花としては無難ね。まず間違いのない選び方よ」
「あ、なるほどー」
「なるほどって?」
 栞が感心したような声を挙げたので訊いてみる。
「祐一さん、笑いながらお花の解説してくれてたから」
 相沢君の真似をしている栞。
「えっと『ああ、これはこういう意味を持っている花でな……』とか言いながら一本づつ」
「へぇ……相沢君、意外にそういうことに詳しいのかしら」
 あたしのつぶやきに、栞が解説してくれた。
「その手のことに無駄に詳しい後輩とか、名雪さんのお母さんに聞いたらしいけど」
「なるほどね」
 後輩とやらは知らないが、秋子さんなら納得出来る。
「そのときに花言葉なんかも覚えたからって、お姉ちゃんが来るまで色々と話したんだよ」
 あたしは見舞いの花の種類はともかく、花言葉には詳しくない。
 と言うか、相沢君が花言葉をわざわざ覚えたことに少し驚きを感じた。
 まあ、栞に合わせてくれたのだろう。感謝の理由が増えてしまった。
「良かったわね、栞」
 あたしは、楽しそうに話す栞に、優しく微笑みかけた。
「でも、お姉ちゃんの分の花。祐一さん、私にくれなかったんだよね」
 一転、かなり不満げな声。
 話しつつ、撫子を紙で包む。
「どういうこと?」
「あれは、余ってたんじゃないと思う」
「……大した理由じゃないわよ。きっと」
 むー、と口をとがらせる栞。
「きっと、お姉ちゃんに渡すために、かなり選んだに違いないもん」
「どうしてそういう結論になるのやら」
 やけに自信満々な栞の様子に、あたしは肩をすくめる。
「ちなみに撫子の花言葉は……あれ?」
 栞が言いかけて、固まった。
 なんとなく予想は付くけど、一応訊いてあげる。
「どうしたの」
「うー。さっき聞き忘れました」
 泣きそうな顔で言ってくる栞。
 ベッドの上で暴れないで欲しい。
 あたしはシーツを直しながら、その悔しそうな姿に話しかける。
「まあ、別に良いけど」
「家に花言葉の本があったはずだから、今度調べる……」
「いいわよ。わざわざそんなことしなくても」
 あたしの言葉に、不思議そうに栞が口を開く。
「お姉ちゃんは、祐一さんのこと嫌いなの?」
「だから、なんでそこに話が行くのよ」
 苦笑して、栞の顔を見る。
 やけに真剣な様子で、こちらの表情を伺っていた。
「だって……」
 と、そこまで言いかけて口を閉じた。
 栞は困ったように、おずおずとその先を続ける。
「お姉ちゃんは、贈られた花の持つ意味が気にならないの?」
「ええ、特に」
 その答えに栞はおおいに不満なようで、強く叫んできた。
 ここが病院であることを忘れているらしい。
「絶対に、確実に、間違いなくっ!」
 一度止める。
 そのまま空気を吸いこんで、一息に言葉を吐き出す。
「お姉ちゃんは祐一さんに気があると思ってたんだけどなー」
「……そんな風に見えるかしら」
「うん」
 即答された。

 まあ、嫌いじゃないのは確かだ。
 けれど――

「でも、お姉ちゃん。
 祐一さんと一緒にいるとき、他の誰といるときよりも楽しそうだよ」
 にこやかに栞が話しかけてきた。
 自信満々なその笑みが、やけに輝いている。
 まあ、この手の恋愛話が大好きな年頃ってことだろう。
「別にそんなことはないと思うけど」
「そんなことあるよ」
 こぶしを握りしめて力説してくる。
 充分に間を取って、聞き返してみた。
「そう?」
「うんうん。顔、赤くなってるのに気付いてないみたいだし」

「……え」
 一瞬だけ言葉が止まった瞬間。
 待ちかまえていたかのように、栞が語りかけてくる。
「自分で気付いてるくせに……隠さなくていいよ?」
 肩をすくめて、やれやれ、とでも言いたげに。
「ムキになって否定しても、冷静に否定してもいいけど」
 ふっふっふ、と含み笑いをしながら、栞は言った。
「私には分かりますよーだ」
 ベッドに倒れ込んで、伸びをしてもうひとこと。

「私はお姉ちゃんの妹だからね」

 あたしに反論させないようにだろう。
 すぐに栞はシーツにもぐって隠れてしまった。
 仕方ない。
 今日はもう帰るとしよう。
 ふと、部屋の窓から外を見れば、夜もだいぶ更けている。
「じゃあ、帰るから……早く寝なさいよ、栞」
 反応したのか、ベッドが少し揺れた。
 その日は、栞の寝顔を見ないで帰ることになった。


 次の日の朝。
 両親はすでに仕事に出かけている。
 今までの入院費用云々のために、共働きなのは仕方がない。
 とは言え、あたしだって寂しくないわけじゃない。
 慣れただけ。
 つらいことや、悲しいことに。
 あたしは、思われてるほどは強くなんてないんだから。

 ――なんてね。

 最近になってやっと、泣き言を言えるようにもなった。
 やっぱり余裕が出来たからなんだろう。
 こんな考えも持てないほど、自分の感情を抑えてたりもしたから。
 鏡に向かい、着替えた制服のしわを伸ばしながら感傷に浸る。
 少しばかりの不安と。それにも増して楽しげな現実。
 無意識に笑みを浮かべたまま、冷たい朝の寒さに震えて。

 どうしたものか。
 胸の奥で、くすぶり続けていた痛み。
 彼と初めて出逢ったときから、ずっと在り続けた熱。
 それは何か。未知であったはずのもの。
 しかし、考えることが出来るだけの余裕もある。
 実のところ、その答えも手に入れてしまっている。
 もしかしたら。
 初めから気付いていたのに、認めたくなかっただけか。
 栞のときみたいに、後悔なんてしたくはない。
 言わなければ、決して伝わらないこの想い。
 けれど。
 それはとても大変。
 手に入れるのも、あきらめるのも。

「どうしろってのよ、本当に」

 先ほどまで浮かべていた笑みを引っ込めて。
 鏡の中の誰かさんに向かって、あたしは軽く睨み付けた。


 一人歩いて学校の校門に着いた。
 栞は今夜には帰ってくることになっている。
 だから、明日からは一緒に登校出来るだろう。
「さて、今日も一日勉学に励むとしますかっ」
 うーん、と軽く身体を伸ばして眠気を遠ざける。
 やっぱり、あたしだって朝は眠い。
 どたどたと走り寄る足音が、耳に届く。
「あ、香里ー。おはよう」
「おはよう」
 速度を落として横に並んだ名雪の声に、挨拶を返す。
 そのまま一緒に来た相沢君が声を掛けてくる。
「よう。昨日の花はどうした?」
「ちゃんと植木鉢に植えておいたわよ」
 どくん、と鼓動が跳ねた。
 平静を装って、軽く笑う。
 名雪が横から、不思議そうに訊いてきた。
「むー。何の話?」
「名雪には関係ない話だな」
「秘密」
 名雪をからかう相沢君に、話を合わせてみる。
「うー、ひどいよふたりとも」
 どこか演技めいた非難の声。
 名雪が一歩飛び出して、こちらを振り向いた。
「ふたりとも……ジャムの餌食になっちゃえばいいんだーっ!」
 それだけ叫んで、一瞬の躊躇も見せずに走り去る名雪。
 振り返りもしない。
 陸上部部長の名に恥じない、素晴らしい足だった。
 呆気にとられるあたしたち。
 キンコンカンコンと変わり映えのしない予鈴が鳴った。
「……あ、やべっ」
「待ちなさい名雪っ!」
 やられた。
 これを狙っていたのか。
 とっくに見えなくなった名雪の姿。
 あたしと相沢君は顔を見合わせる。
 どちらからともなく、仲良く慌てて教室へと併走することになった。

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