歌はもう聞こえない。それはたぶん誰のせいでもなかったと、彼は知っている。
 パサリと乾いた音を立て一枚の手紙が地面に落ちた。綴られた文章の中身は、どこかで見たような文言ばかりで構成されているはずだ。アイロニーのひとつふたつと挑発が適度に混じった、つまらない招待状である。見なくてもそれを識っている。が、いつ渡されたのか、それとも届いたのか。まるで思い出せないのは何故だろう。そもそも、今がいつなのか分からない。
 分かることはひとつだけ。その招待状の表面は誰かの血でぬめっており、赤に滲み、もはや全ての文章を解読することは出来ないだろう、ということだ。
 身体の動きが重い、というよりは鈍いという表現のがしっくりとくる。まるで自分の身体ではないような。しかしこの感触も筋肉の張りも視線の位置も、自分のものなのは間違いなかった。使い慣れた肉体が分からないわけがない。どういうことだろう。身体の端から頂点までを微弱な力が顫動して無理矢理ねじ曲げようとした。体中がひどい渇きを訴えている。それは潤せない渇望だ。欲望であり、願望であり、且つ、絶望という名を持った衝動だった。
 血の色。紅の夢。深紅の世界。眩闇。暁暗。新月。虚の空。
 今は朔だ。月光はすべてかき消され、あらゆるものが闇の中。
 行かなければ。内側から声がする。歌が消えてしまったから? 判断できない。ただ、行かなければいけないと思う。ぐにゃりと歪む視界に幻影が揺らめく。彼女は悲しい目をしている。寂しい目をしている。本来はもっと激しい瞳を持っているというのに。暗くて暗くて何も見えないはずなのに。嫌になるほど、はっきりと分かってしまう。
 誰だ。お前は、誰だ。分かっているのに分からない。声はなかった。だが、首を振られる。間に合わないからと。
 やがて見送られて薄れていった。溶けていった。消えていった。ゆっくりと、海底に沈むかのごとく、終わっていった。
 終わる。終わりが、そこまで来ているというのに。
 すべてがこの手の中にあった。何もかもが自らの思うがままに動き出すのだ。だというのにすでに終わっているのだ。こんな皮肉があるだろうか。それを覆すことは出来ないのだ。もはや、どうしようもなくなってしまったのだ。
 憐憫の情などではない。敗北の気分。達成できなかったという悔恨。後悔。しかし、それは同情なんかでは、決してなかったのだ。
 深淵。世界の果てで、かちり、と歯車の音が鳴る。壊れた歯車の音色が。だから触れられない。過去には干渉できないと、ささやき声が教えてくれる。
 彼は、ほんとうのことを訊かせてくれと、願った。
 別離の刻は過ぎているはずだった。淡くも苦い、絶望の味を噛みしめる。それは鮮やかな決別の誓い。あらかじめ失われているものを、手に入れることなどできないと。
 ほんとうに? ほんとうにそうなのか? 彼ならば出来るのではないのか? 答える声は無い。問いかけているのは自分自身なのだ。その答えは、今はまだこの夜が終わるまでは出ないのだ。
 歌。歌を思い出す。誰が歌ったのか、切ないメロディの。
 さようなら。
(どうか)
 もう二度と、悲しいことがないように。
(永遠に、悲しませることのないように)
 はたと気付いた。偶然だろうとは、思う。あるいはこれこそが運命の悪戯なのかもしれないとも、思う。思うだけだ。思うことしかできないからだ。
 知覚し、思考し、想像し、行動せよ。そうすることによって人間は生きている。未来など、過去が描き出す刹那の幻に過ぎないのだから。生きているがゆえに、あらゆる事象は存在するのだ。
 手紙に気付いたこのことは、必然だったのかもしれない。未来から観た過去は、すべてが必然で構成されている。すでに赤茶に変色しかけているが、届かなかった部分が残っていた。招待状の裏である。いくらかの文字が記されていたらしかった。数字だった。222と、その後ろ二文字は判読できず、更に23と続いている。七つの文字。
 分からない。隠されたその二つの数字は、どうしても、視認できない。そんなものをする必要はとうに消え失せたというのに。
 声がする。影の声だ。何故未だわざわざ目などという極めて貧弱な一器官に頼ろうとするのだと――ノイズに変わる。紅く蒼く碧く皓く透明な光の奔流が脳髄の何処からか吹き出し全ての記憶の素粒子を脱色し別の色に染め上げ狂わせ消し去りループのバグを喰らい続ける悪意と純粋と純情と眩暈。
 ランダムに揺れるヴィジョン。
 失われた過去。未来の代用品。あるいはパラドクス。最終観測者。偽神の瞳。
 そして、それゆえの反証として繰り返す。
 うつつの夢。夢のまこと。夜の夢こそ――すべてのイメージを振り切る。それらは総じて意味がない。人間には必要のない情報だった。気にくわない。嫌だ。悪趣味だ。露悪か偽善か悪意か無邪気か。知ったことではないのだ。
 誰かの細い指に弾かれて、コインがきらきら煌めいて。
 くるり、くるりと回り出す。
 手繰り寄せる意図、織られた運命のタペストリから巻き戻し、ぐるぐるぐるぐる回って回って、拙い手つきでもう一度、細い糸を辿る。
 空っぽの闇に金色が輝き出す刻へと遡るのだ。途切れたメロディの続きに、誰かのちいさな泣き声を聴くために。
 さあ、夜を終わらせよう。
 そして勝ち得るのだ。いまだ誰も知り得ぬ、光を。

 この手で。








 何かに、気を取られていた。
 小鳥の囀りに意識を揺り起こされる。暗闇に狂った月が仄かに輝くその世界で、少女は逃げ惑っている。陽光の存在しない薄暗き低空は見る者に不吉さを思わせる。宇宙は外の外にあるからだ。ゆえに空を飛び交う歌声は――違う。それは鳥の声などではない。この魔界には、可愛らしい鳥など存在しないのだ。肉食の禽獣は数あれど、見目形より醜い猛獣ばかりが生態系を作り出している。
 鳥の声に聞こえたものは、風の音色だった。傷つけるだけにしか使えない、巨大な魔力の奔流だ。背後には魔術を扱う兵士もいくらかいるのだろう。撃たれたものは空気の刃だった。鳴り響く真空と酸素の摩擦音が轟と弾けた。
 触れれば切り裂かれると知っているというのに、少女は足を止めないで、必死に前へ前へと走り続ける。どこかに辿り着けば、救われるとでも信じているのだろうか。
 届く寸前、空気の刃は何かにぶつかったかのように霧散した。唐突に。
 熱。業火が渦を巻き、辺り一面が焦土と化した。
 焼けて揺らめく陽炎が視界を惑わす。熱を無視したルミラは、ひたすらに真っ直ぐ前へ前へと進んでいく。そうすることしか出来ないから。
 ――たすけて。
 誰も、助けてはくれない。
 ――たすけて。
 お前は甘いな。ルミラ。だが、思うがままに生きるがいい。
 そんな幻聴。誰の言葉だったろうか。お父様? それとも、私の中の――
 遠雷が聞こえる。小鳥の囀りに聞こえるわけがない、もはや爆音だった。鼓膜を吹き飛ばさんとして灼熱が跳ねる。溶解した地面はガラス状に爛れている。少女の体躯ではどこまで逃げ切れるだろうか。傍目には憐れなほどの追撃に見えることだろう。少女一人に、何十、何百という荒くれもの共の軍勢が攻撃を仕掛けているのだ。
 たとえデュラル家の主であっても、逃げるだけではいつかは追いつめられる。当たり前だ。攻撃をしない以上、敵は増える一方なのだ。
 敵。そう、敵だ。
 彼らは皆、敵だ。敵でしかない。ルミラは殺されようとしている。あっさりと。たとえば、小鳥が大男の手の中で、優しくひねり潰されるかのごとく。
 そうして首の骨を折られる? 四肢を一本ずつもぎ取られる? 喉をかき切られる? 心臓をえぐり取られる? 最後にはあわれにも蹂躙される?
 さあて、それはどうだろう。
 追いかけている者達の相貌を注視してみるがいい。彼らは、ルミラの背後から意気揚々と迫っているかのように見えるとしたら、そうコメントした者の目は節穴である。
 顔は、恐怖に飲み込まれている。追撃者達の顔がだ。殺そうとしている側のくせに、今にも自分が死にそうだという必死さが、そこかしこから窺えた。牛面の巨人の表情は苦渋に歪んでいるし、額からたれる雫は冷や汗だ。巨大な戦斧を握りしめた手は汗で滑り、彼は焦っている。他の鉄甲蟻の兵など、包囲を狭めようとしないで、ただ遠くで円を組んでいるのみ。
 怖いのだ。
 彼らは、この少女を恐れている。
 そしてその恐れをルミラは理解している。可哀想だとも思う。だが、どうすることもできない。彼らは命令されているだけだ。従わなければきっと処罰されるなり、殺されるなりするのだし、ルミラに手を出すことがどんな結果を招くことかも、ある程度は理解している。
 たとえば、ルミラの懐めがけて敵の一人が飛び込んでくるとしよう。そこでおしまい。苦しむこともなく灰と化すか輪切りになるか、とにかく一瞬で死ぬはずだ。今のルミラに手加減をしている余裕など無い。
 圧倒的な能力差を埋めるには、こんな下っ端共ではどうにもならないのは、ルミラも、彼ら自身も、そして彼らに命令した者達ですら、最初から分かり切っているのだ。こんなのは茶番だ。あまりに愚かだった。
 逃亡ごっこ。追跡ごっこ。いたずらに死者を増やすだけだと何故気付かないのだろう。いったいルミラの何が悪かったというのだろう。
 いいや、何も悪くない。悪くなんてなかったと、ルミラは思う。
 盟友たるナイト家の記憶が蘇る。彼らは新たな子が生まれたとき、何の前触れもなく人間界へと去った。魔界においては人間界に下った者はもはや仲間ではないとされる。それゆえ彼らは死者と見なされることとなった。そして、彼の家の長子とエンゲージを交わしていたルミラもまた、死者として数えられることとなった。
 領地は奪われてしまった。買い戻すとしたら、いくらかかるのか、考えたくもない。馬鹿馬鹿しい。何の意味もないしきたり。何の意味もない逃亡。
 それだけのことで、ルミラは苦しんでいる。
 あの館を追われて、何年が経っただろう。仲間達と散り散りになって。楽しかった日々は終わってしまって。あとは、殺されるのを待つ日々を無為に過ごすだけ。殺されるのを待つ? それこそ馬鹿馬鹿しい。向かってくる相手がどんな魔物であれ、デュラル家当主たるルミラが、そう易々と負けるわけがないのだった。
 所詮、こんなのは戦いのまねごとでしかなかった。一方的な殺戮を戦闘とは呼ばない。そしてルミラは無意味な虐殺などしない。
 愚鈍過ぎる。
 空には月があった。魔界は太陽のない世界だ。暗雲に覆われたかのような頭上で、自ら燐光を放ち続けている月。あの沈まない月だけが、人間界とこの場所を繋いでいるという話だ。
 人間界へ、早く往こう。
 そしてナイト家の彼を捜そう。
 だが、背後からしつこく追いかけてくる連中が邪魔だった。どうにかして振り切らなければ、転移の儀式も出来ない。
 なら、いっそ。

 ――あいつらを殺してやろう、それなら一瞬で片が付く。

 刹那、凶暴な気持ちが弾けそうになって、押し止めて、苦しくて、体がバラバラになる感覚が指先から脳天から心臓から、神経に突き刺さる痛みとなる。死にそうになるのだ。眩暈。ルミラの中にいるもうひとりのルミラ。制御できない本能の魔が、誘惑し続ける。
 殺そう。殺そう。何もかも皆殺し。私に逆らう幾百幾千幾万の愚か者共を殺して殺して殺し尽くしてその屍を積み上げて進もう。私にはそれができる。鬱蒼としたこの魔界で私の邪魔をする存在をすべてこの手で引き裂き解体し晒そう。
 ――たすけて。
 だが、ルミラが胸の裡で呟く言葉は、助けを求めるこれだけだった。
 何から助けて欲しいのか、何を想っているのかさえ、その場にいる誰にも分からない。近寄れないままルミラの凶相に怯えている。狂ったかのような虚ろな視線に、あたり一帯の地面が見えない力で圧し潰されてゆく。
 重圧に耐えきれない弱い魔物達は一歩ごとに後ずさってゆく。その場にいられない。喰われてしまいそうな、そんな強い威圧を受ける、凄まじい領域が生まれていた。
 自分の意思以外では力は使わない。
 今は不安定になっているこの力。解放すれば、この何百もの刺客たちは細切れになって一匹残さず死に絶えるだろう。だから使わない。
 耐える。耐え続ける。空間に負荷がかかるたび、ぴしりぴしりと亀裂の走る音が聞こえてくる。瓦解する寸前だった。力の奔流は行き場を失ったまま荒れ狂う。魔物達は、その渦巻く昏い気配に錯乱し始める。ルミラは追いつめられている。誰でもない自分の中の自分に。
 もだえ苦しんでいる彼らを、冷たい目で一瞥し、ルミラは歩いてゆく。
 怖いのだ。怖いから、どこにいるともしれない誰かを、泣きながら探し続けるようにして、進むしかない。必死だ。今にも走り出しそうな、泣き出してしまいそうな、そんな形相で、前へ前へと足を速めてゆく。焦燥。ばらばらのリズム。
 かすれた歌が聞こえてくる。
 誰が歌っているのかも知れない、つたない歌声。泣きたくなるほどに純粋な歌。すがりつきたくなるくらい、懐かしい歌。
 歌っている者の姿などどこにもないというのに。
 ――たすけて。
 少女の瞳で。
 狂気の瞳で。
 魔界の空と、地面の色が混ざっている。内側で蠢く鋭い衝動を抑えつけ、少女は歩く。まぶたの裏に焼き付いた何かのイメージ。真っ赤に染まった世界。おそれ。ひたすらに歩き続ける。
 ――たすけて。
 ただひたすらに、助けを求めながら。
 何がこんなにもおそろしいのだろう。自分だろうか。死ぬことだろうか。それとも自分の意志が何か別のものに取って代わられることだろうか。
 いつか自分が戦場を駆け回ったあのときは、あんなにも容易く命の炎を奪い取れたというのに。昂ぶりから醒めて、呼吸を整える。殺さない。殺さない。殺さな――
「――ルミラ様」
「な……フランソワーズ……あなた……こんな処に」
「どうか、心をお鎮めください」
「そうね……分かってる。分かっては、いるんだけど」
「準備は整いました。あとは」
「……みんな、いるの?」
「はい。それでルミラ様、いかがしましょう」
「……行くわ。行かないと。彼を見つけて、デュラル家の再興を――」
 言いながら、未だ、震えが止まっていなかったことに気付く。
 主人は何を恐れているのだろうかと、フランソワーズは不審に思わない。ルミラが動き出すのをじっと待っている。誰が望み、誰が仕組んだのかも分からない、奇妙な運命の歯車が動き出すのを。
 終わりが始まる。輝ける時が、もうすぐ流れ出すのだ。
 永い夜の、始まりだった。


 男は、ついさっきまで極彩色の夢の中にいた。
 悪夢だったのかもしれないが気分は悪くない。夢の内容は殆ど覚えていなかった。夢を見るのは、眠りが浅かったということでもある。体力もあまり回復していない気がする。おかしい。昨日は、それほど疲れる仕事をしたわけではなかったのだが。
 精神的なものかもしれない。それはありそうだった。出向いた先々で、厄日のような出来事ばかり起きていたからだ。
 意識が醒めると、次第に朧気だった視界がはっきりとした形を取り戻していった。褪せているんだ、と彼は思った。世界がどこか嘘めいていて見えた。
 見渡すと、夜の街は泥にも似た喧噪で揺れている。眩しく脆い暗黒の向こう側に、ちらつく幾千もの輝きがあった。ここでは昼夜を問わず、鬱蒼とした倒錯の森が広がっているのだ。高いビル群が天からの光を遮り、隙間無く並んだ店舗が大口を開けて人間を待つ。金を落とす客を選別している。花粉のように甘い匂いを漂わせながら。
 誰もが無意識に気付いていることだ。他者のことなど気にかけている余裕はない。影ほどにも伸び来る根に、己が足下を掬われるなど馬鹿の行為である。特別なものは何一つ視界には入らなかった。ここには当たり前のように、くだらないものばかりが集まってくるのだろう。……自分自身も含めて。分かっている。だからなんだというのだ。
 葉叢の如き雲や、虚ろな空は、ひっそりと地中深くに埋もれているだけ。いや、分かっている。そんなものさえ、つまらない比喩でしかない。
 どうにも嫌な気分だった。夢のせいかもしれない。こんな日には、頭へと向けて銃をぶっ放したならさぞかし痛快だろうとも思う。もちろん銃はしっかりと懐に隠してあった。使わなければ重い鉄の塊でしかない無用の長物。確かに日本で使う機会などそうあるはずもないのだが、しかし、持っているだけで意味のある力だ。わざわざ捨てることもあるまい。
 路上の一角にコートを羽織った男が佇んでいるのを、道行く人々は視界の隅にも映さないようだった。見る必要のないものは存在しないに等しいからである。男はそれを経験として知っていた。限度を超えて不審でなければいい。怪しまれるよりは視界から排除することを人間の多くは進んで選ぶのだし、警官にさえ目を付けられなければ、こうして他人の迷惑となろうと、大した問題にはならないのであった。
 彼はすでに閉店時間を迎え、閉め切られた店舗のシャッターまで近づくと、だらしなく座り込み背をもたれて力を抜いた。
 顔を上げる。歩き去る人々の流れを見るともなしに瞳に焼き付ける。見られなくとも自らが観察を続けているうちに、どんよりと鈍い輝きを持った彼の黒瞳が、じろりと動き、一カ所に焦点を定めた。
 小さな嘆息を吐き出す。白く空に昇った息は、明るすぎる照明に混じり、やがてうっすらと宙に溶け消えていった。
 影が眼前で立ち止まる。少女と呼び換えても良い。しかし童顔ながら正確な年齢は不明瞭だった。考えれば考えるほど予測に靄がかかって読み切れなくなるたぐいの、不思議な表情だ。じろじろと顔を見られて、半ば睨め付けるようにして彼は視線を返す。
 見下ろされているのが気に入らない、といった風に。
「伯斗龍二様ですね?」
 丁寧さの滲み出るわりにどこかぎこちない、妙な言葉遣いだった。こんな繁華街の、しかも夜も深まった時刻に、人通りの少なくなった道ばたで聴く音色ではない。
 酒の抜けきらない酔った頭を振り、龍二は声を出さずに考える。返事すべきかどうか判断は一瞬でついた。先程飲みに行った店の店主に警告されたことが脳裏をよぎる。
 曰く、
 ――なあ、あんたはやりすぎたんだ。暫くはうちに来ないでくれ。せめて、忘れられるまでは。忠告さ。潜るか逃げるかしたほうがいいぜ。ハ、あんたも死にたくないだろ。じゃあな。
 おいおい大したことはやってないと反論しようにも、疎んじられていることは理解できる。なるほど最近のこの街じゃあ、俺のことを恨みに思っている奴が増えているらしいじゃないか。顔と雰囲気からはまるで想像出来ないが、この女もそんなやつらの同類かもしれん。ふん、なら受けて立ってやるだけだ。
 顔に出すことはしない。龍二は見上げたまま、首を軽く縦に振る。
「ああ、そうだ。あんたは」
「私はフランソワーズと申します。我が主より、言付けを申しつかっております」
「言付けだと」
「はい。そのままお伝えいたします。『明日の宵、月が深淵を臨む頃。この者と共に我が館の門を叩かれよ。血を保って我が肉体の渇きを満たすが良い――ルミラ・ディ・デュラル』」
 それは違う。違和感があった。奇妙な、ひどく奇妙な違和感だ。本来のものとは違うという些細な差違だ。フランソワーズは静かに龍二の様子を観察している。どんなことを思考しているのか読み取ろうとしてはいない。口を結び、ひしと凝視している。
 頭上を見上げた。
 暗いとばかり思っていた空に、一瞬、ほとんど真円を描く月が覗いた。
 雲間に光を残し、その月はそのまま覆い隠されてしまった。何も見えなくなる。他の光は空には無い。
 明日が満月だったのか。……不思議な気がして、頭を振る。
「ルミラ、というのは」
「我が主です。私は明日の晩、館に案内するために、貴方と行動を共にするよう言われております。よろしいですか?」
「ふん。かまわんさ。だが、いいのか。俺と一夜を過ごすなんて、お前さんにとってろくなことにならんと思うが」
 フランソワーズは沈黙を答えの代わりとして寄越した。
 消極的な了解の意か、それとも。
 彼女の顔からは意図するところが読みにくい。些か表情に乏しいがゆえであろう。
 否。
 表情の薄さや陰影であるとか以前の話として、この女は表情というものを持っていないのではないか。そう思わせる何かがあった。
 人間の模倣。そんな言葉が、不意に浮かんだ。
 探偵稼業をやっていると、理解の範疇をあっさりと超えている連中に出会すことも無いとは言えない。
 遭遇してしまったら無事に帰ることが出来ないが故に、一般には知られていないだけなのだ。そういった存在はどこにでもいて、人間を喰らう機会を狙い澄ましている。そんな噂だった。
 無論、噂は噂だ。本当に存在すると思っている人間は数少ない。そいつらは、人間以下の相手とは異なった存在であるという。怪物と形容される人間はよく聞く話ではあるが、怪物そのものに出逢ったのは初めてだった。この相手をどう表現すべきか彼は知らなかった。ヒトガタとでも呼ぼうかと一瞬迷う。人に似て人ならぬ、妖鬼魔物の類。一括りにするには多様なる、数多のあやかしのもの。
 人形か。
 見目形に惑わされない。それが伯斗龍二が持ち、稼業とした探偵を彼が何ら問題なく継げた理由である。
 これまで龍二は数々の難事件を解決してきた。
 無論、問題の本質を理解する力もさることながら、相手の存在そのものについて見抜く力、直観に依るものが大きい。余談ではあるが、近隣の賭場では伝説の雀士として恐れられてもいる。その眼力はまさに神がかっていると評判であった。
 閑話休題。
 あやうい。フランソワーズにはそういった気配があった。そして龍二は気付いた。気付いた瞬間から考え始めたのは、この女がどういった感情を龍二に向けてくるのか、ということであった。
 敵意、悪意といったものは龍二にとってはむしろ御しやすい。叩き付けられる負の感情は針に似た痛みと、それにも増して心地よさを与えてくれる。
 が、懐かれてしまうと困る。抱いた女に情が移る。そのこと自体に特に問題になるわけではないが、相手が敵と化したそのとき、自らの直観が鈍るではないか。龍二はそう考えるのである。
 彼の持つ能力は、現実的な根拠に左右されるものである。
 第六感だけではなく、大胆な観察力、緻密な洞察力、繊細な構成力、そして理性を越えた部分にある狂気の如き判断力、あるいは決断力といったものだ。死中に活を見いだすことにこそ、龍二の探偵として優れた部分があると言っても良い。
 だからこそフランソワーズという少女の顔をした異質なる存在に、龍二は知らず怯えを抱いてしまう。臆病さは勲章だ。
 くだらない死に方さえしなければ、埃まみれであっても、輝かしい記憶に変わることだろう。
「人間じゃないんだろう?」
 からかうような龍二の問いかけに、フランソワーズは緩やかな動きで、こくりと首肯する。ふいに、穏やかな微笑が覗けた気がした。
 龍二は息を飲みこむ。
 優しげな少女の笑みは龍二に向けられたものであった。果たしてそれは幻であったか、すでに何処かへと失せてしまって、もう二度と戻ってくることはない、そんな幻想じみた感慨さえを受けたのである。
 人形の造作で、フランソワーズは手を差し出した。静寂のままに滑りぎこちなさの全く見えない。それはまさしく人間の模造としての完璧なる動作であった。
 握りしめた指は硬く冷たかった。プラスティックの肌。硝子の瞳。金属繊維で編まれた金の髪。呼吸はしていないようだ。だが、声帯はある。ぎこちなさは言葉にのみ表れている。無言のうちに彼女を人形と気づける者はまず存在しないだろう。
 不思議な存在だ。人間だと言い張られてしまったなら、龍二とて、もしかしたら信じてしまったのではなかろうか。
 立ち上がりながらより一層近づいた。誘われるように。
 鼻先にあるのはおそろしいまでに生気の無い表情だった。
 視線がまとわりついて離れない。龍二は漸く見下ろす形になり、しかし安堵することも出来ず、身体に緊張を強いる羽目になった。
 フランソワーズの背後を通り過ぎた車の、明るい赤のテールランプ。残光が彼女の瞳に映り込む。初め龍二は硝子かと考えていた。透明な青が深く澄んでいることにすぐさま気付いた。
 サファイアの紺碧に吸い込まれてしまいそうになり、奥歯を噛みしめて堪えた。
 どこの魔女か知らないが、つくづく罪なことをしてくれたものだ。人形を抱く人間は異常だ。龍二はこの相手が人形であることに皮肉しか感じない。惜しい。そんな風に思ってしまっても、誰が彼のことを責められるというのか。
「ふん、なら、今日のところはうちに泊まるか?」
「お願いします」
 素直な返答に拍子抜けすることもない。予想通りだからだ。
 気にくわない。全くもって気にくわない。
 抱かせろと言えば、その主とやらの命令に反しない限り、フランソワーズは拒まないのではないか。それを考えるだけでも苛立つ。そう考えた自身の矮小さに対してだ。龍二は短く息を吐いた。そして煙草を取り出すと、時間をかけて火を付けた。
 指先で熾く灯火は夜に良く映える。
 深く吸い込む。
 静かに吐き出した紫煙は揺らめきながら、消えもせず空に昇った。身体が冷えたような気がして、静かに尖らせていた精神が行き場を失いかける。
 強くなければ生きてゆけない。優しくなれなければ生きている資格がない。チャンドラーの小説の引用などを思い出してしまい、唇を歪めた。生きていない者は強くなく、優しくもないとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。
 月は隠され、暗雲立ちこめる不穏な真夜中に男と女が見つめ合っている。龍二のような男には不似合いな行動だった。不釣り合いな視線の絡め合いに己が飽きてしまうまで、彼は暫しの間、作り物の少女との愛撫にも似た奇妙な羞恥を楽しんだ。
 龍二は煙草を地面に投げ捨てると靴底で火を踏み消した。
 フランソワーズに一瞥をくれ、彼女が辛うじて追いつけるほどの速度で歩き出す。足音が堅く響き渡る。
 重い衝動に操られるように歩を進め、視線を動かさず借りているアパートメントの一室を目指し始めた。そう遠くない場所にある。
 夜が深くなればなるほど、こめかみの辺りを刺激する感覚を無視した。痛いほどの攻撃衝動を、未だ見ぬ館の主にぶつけようとしたが上手くいかないからだ。それはおそらく予感のせいだ。
 予感。いや、これはむしろ確信だった。あるいは事実だ。予感といったあやふやなものではない。もっと確かなものだった。
 フランソワーズを見た瞬間からずっと付きまとって離れない暗い感覚。
 ふと、喉に絡みつく渇きが鋭さを増した。
 龍二は一度、思考を澄ませることにした。堅固な意思の力で、周りから染みこんでくる柔らかな闇をはね除けようとする。
 ――俺はれっきとした人間だ。だというのに魔物が喧嘩を売ってくるのか。可笑しいだろう。なあ、俺の元へとこんなのを寄越したくらいだ、貴様らは相当に人間らしくない魔物なんだろうな。なあ、そうだろ。……ばけものどもめ。
 胸の奥でかき回される泥じみた感情。どろどろと後から後から流れてくるが、それはおそらく怒気ではなく、もっと別の、より強く激しい、熱い何かだった。


 街の外れの方まで来た。郊外というほどの距離も離れない地域に一室を借りている。フランソワーズは怖じ気つくこと無く、龍二の開いたドアを通り抜けてゆく。
 暗い室内でライトのスイッチを探す彼女の動きは小動物的だ。手探りの挙げ句、適当に投げ出してあったスコッチの瓶に足を取られた。
 転びかけたフランソワーズを、龍二は軽く抱きかかえた。
「ありがとうございます」
 抑揚のない声だった。言葉を返さず、龍二は風に押されて閉じかかった玄関のドアに近づくと、そこから腕を伸ばした。そばにある蛍光灯のスイッチに力を入れる。
 頭上でちらつく人工の光に、フランソワーズの姿が浮かび上がった。それは確かに人形の精巧さを兼ね備えてはいるが、どうにも不思議な存在だった。
 遠目には人間にしか見えない。着衣は控えめなドレスを着ている。暗い場所で輝いていた瞳には、龍二の顔だけが一際大きく映し出されている。
「さて、そこのベッドで勝手に寝てくれ。俺もその辺で適当に寝る」
「そういうわけには参りません。どうぞ、私のことはお気になさらぬよう」
 言動からは困惑した様子が窺える。
「私を抱いてくださってもかまいませんが」
「それもルミラとやらの命令のうちなんだろう?」
「いいえ、閨を共にするかどうかについては、特に申し使っておりません」
「悪いが人形を抱いて寝る趣味はない」
「……そのようです。余計なことを喋りました」
 よく見れば、関節の所々に密やかに線が入っている。これが人形の証明であろう。傍目には人間と区別のつかないからこそ、彼女のような存在には価値がある。
「フランソワーズ、ひとつ聞いても良いか」
「何なりと」
「お前ら、つまり、人間ではないものが、どうして俺なんかに目を付けた」
「それが貴方の運命であるため、と存じます」
「抽象的な物言いは止めてくれ。何故、俺なんだ。お前が連れて行こうとしているその館の噂なら、しばらく前に風に聴いたことがある。曰く、入った者の悉くが二度と帰ってこないらしいじゃないか。俺もその憐れな犠牲者の一人になるということか」
「そうかもしれません。そうでないかもしれません。その結末は私には分かりかねます。貴方が如何にして選ばれたかは存じております。しかし、貴方の未来について私は何ら知りません」
「ふん、なら、俺がどうなろうと知ったことではない、ということか」
「いいえ。……私は期待しています。貴方が辿り着く未来次第では、我が主が救われるかもしれません。人形如きに何をと思われるかも知れませんが……私たちは永い歳月を経て待ち続けていたのです」
「俺ではない者をか、それとも俺がその役割に当たることをか」
 人形は答えない。
 首を傾げることすらせず、ひっそりと呟くのみだ。
「この数十年の間、館はただひたすらに訪れる人間を飲み込んで来ました。貴方を捜すためであったのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。ただ、贄となった人間の亡骸は、今は館の庭に埋葬されています」
 残酷な話だ。それはすなわち、無意味だったということなのだから。
 それを龍二に話すのは何故か。信頼されている? そんな世迷い言はあり得ない。ならば、何かを伝えようとしているのかもしれない。会話に何かを込めようとしているのかもしれない。龍二は言葉を続けた。
「そいつらは欲にまみれた人間ばかりだった、とでも言うつもりらしいな。ああ、そういえば、あの館には尋常ではない量の財宝が溜め込まれているという話だが、それは、そういった強欲な連中をおびき寄せるための嘘か」
「それは事実です。私たちがこの地に移り住むとき持ち込んだ、あらゆる秘宝が眠っているのですから。私たちは、一切の強制をしてはおりません。招待はいたしましたが、来訪か逃亡か、その選択もまた尊重しました。貴方にもそれは当てはまるのです。ですから」
「逃げてもいいと。なるほど」
 フランソワーズの沈黙に対し、静かに吐き捨てた。
「あまり、人間をなめるな」
「申し訳ありません」
 龍二は今までのやり取りを記憶に刻み込み、ひとつの仮定を紡ぎ出そうとした。
 その主とやらの目的にそぐわない人間であった場合、彼もまた殺されるのは間違いないことだった。とはいえ、彼女たちの目的に龍二の存在が合致していたとして、それでどうなるというのだ。危険なことにはかわりあるまい。むしろ、より厄介なことになるのではないか。
 一瞬、疑念に駆られた。館に入り、龍二がどのように振る舞うかさえ関係ないのかもしれない。
 甘い言葉で誘い出された者達。まるで誘蛾灯だ。
 或いは油断していなくとも、迫り来る死の運命に抗うことは出来ないのやもしれぬ。彼はこの何年もの間、為す術も無く闇の中で消される人間の末路を何人も見てきたのだ。いなくなっても気付かれず、沈黙にかき消されてしまう人種が確かにいる。
 同じ匂いを持った彼らは闇を覗き込み、知らぬ間に伸び来る深淵の腕に捕まった。
 知っているか。彼は喉元まで出かかった皮肉を押しとどめた。
 人間は呆気なく殺される。難しいのは殺したことが犯罪として発覚しないようにすること。追われた時、逃げ切ることなのだ。誰かを殺すことなど、実はひどく容易い。
 だからだろう。龍二は自分があっさりと殺される姿をイメージできてしまった。醜さも殺意も珍しくない。そこまで考えて、彼は深く嘆息する。
 なんだ、その程度の現実なら夜を探せばどこにでも転がっているではないか。そう。問題は、その有り触れた殺意を隠し、誰もが持ちうる醜さを認めた上で、それでも人間でいられるかどうか。それだけだ。
 これは正義なんかでは決してなかった。だが人間の思考であった。諦念さえも捨て去る意思だった。諦めにも似た前向きさだった。それらは、矛盾だらけの意志の貫徹だった。
 人間はあるがままで人間だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 龍二は微かに身体を硬直させながら、似合わぬ微笑を浮かべた。
 欲望に果てなど無い。求めるからこそ、存在は世界に在り続けようとするのだ。知っている。知っている。分かり切った答えを叫ばせるな。
 龍二は強く頭を振って戸惑いを拭おうとした。掠れる声で彼女を呼ぶ。
「おい、フランソワーズ」
「何でしょうか」
「お前は、人間というものは何だと思う」
「私を作り出した者の言に従うのであれば――鋳型、と」
「そうか。じゃあ、お前は、自分がどういう存在だと思っているんだ」
「オートマータと呼ばれることが多いようです。自動人形とも。私は被創造物であり、主に仕えることを至上の歓びとしています」
「本当に?」
「表向きは」
 口調のテンポは変わらない。が、問いが何かを引き出したのは間違いないようだった。龍二の目に映った彼女の姿はそれまでとどこか一線を画しているように思えた。
 空気の違いの正体を正しく理解しようとする。こうして受けた感覚に龍二が最も近いと思ったのは、威圧感であった。重圧ではなく、触れられないという意味での。生身と人形の違いがあるとはいえ、それなりの身長差があるはずだ。フランソワーズの上目遣いから受ける印象に静かに気圧されている。
「お聞きします。貴方は、機械には魂があると思われますか」
「さてな。意思のあるロボットなんぞ、話したことはおろか見たこともないから分からんね」
「では、動物たちには。小鳥や虫、魚には」
「あるかもしれない。だが、ないかもしれない。所詮は悪魔の証明だ。鳥や獣にならない限り、人間にそれを知る術はない」
「被創造物にはどうでしょうか。建造物、土塊、木々といった植物、石などの無機物。あるいは人間によって描かれた絵画であるとか、造られた像であるとか」
「そしてお前さんにも?」
「はい。この世にある全てのものは、造られた瞬間から何らかの命を持っているのでしょう。私という人形もまた、そのなかのひとつであるように」
「ふうん、なるほど。自分が証明手段か。なかなか上手い手だ」
「意思、感情、思考。ヒト以外の者が持ちうるそれとて、やはり人間が生まれた時より抱いている白紙と、まったく同じものなのでしょう。自らの内部にあるこの白紙に描くという行為、知らず他人によって描かれるという反応。この二つの現象を以て、ヒトも、ヒトでない者も、自らを他と区別するようになります」
 白を彩る。生きることとは汚れることか。どれほど美しい色で描くとしても、白が失われることに等しいのだから。
「自我を育むことと、他者を知ること。それを繰り返すうちに私たちは皆、言葉を解して思考を手に入れ、方向性を持つことで意思に代え、他への反応として感情を行使するようになるのです」
「饒舌になり始めたな。ああ、いいんだ。気にくわないわけじゃない。むしろありがたいさ。続きを教えてくれ。悪いが俺には学がないんでな、こういうまどろっこしい講釈は偶に聞く分には面白い」
「その命を称して人間は魂と呼びます。存在するが故に私にも意思があります。感情もあります。思考もしています。ですが意思が先か、存在が先か。心というものは無いのかもしれませんが、意志は、確かにあるのです」
 なれば、存在こそが魂か。
 コギト・エルゴ・スムというやつだろう。逆もまた然りだ。
「ですがやはり、私は人形であることから逃れられません。故に、私は主人を自ら選びます。そうやって代々デュラル家の方に仕えてきました。私は、私自身を、すなわちこのフランソワーズという人形の一生を捧げたいと思う者にのみ、主たる資格を与えるのです」
「それがルミラとやらか」
「はい。ルミラ・ディ・デュラル様。デュラル家の若き当主としてではなく、気高き一人の王として、私は私を捧げているのです」
「仰々しいくらいに理想を掲げちゃいないか、その考え方は」
「もっと砕けた言い方もできます。おそらく、私はルミラ様が好きなのでしょう」
 その一瞬で、毒気を抜かれた気がした。
 フランソワーズに向け適当に手を振ることで、話は終わりだと知らせる。こくりと頷き彼女は一礼をした。小さく周囲に目を遣るのが見えた。龍二はそれに気付いてしまった。
 凍り付くような隙間風が入り込んできて、身体が震えた。フランソワーズは龍二が眠るのを身じろぎひとつせずに待つつもりのようであった。
 根負けするほどの時間も経たぬうちに、龍二は強引にフランソワーズの手を取る。驚きの声が上がらないことに呆気のなさと納得を感じながら、ベッドの上へと連れ込んだ。
「……気が、お変わりになりましたか」
 か細い声が聞こえてきた。恐怖心など微塵も見受けられない柔らかな口調であった。透明な囁きを聞き、艶やかな肢体を見た瞬間、無性に貪りたくなったのだ。
「人形なら抱かんさ」
「では、私はどうすればよいのでしょう」
「好きにしろ。というか、お前さん自身で決めてくれ」
「それは突き放しているのですか。それとも優しさの発現とでも。魂を持ち、それを胸に抱いた人形は、もはや別のものと変質したのでしょうか。或いは人間に近づいたか、遠ざかったか」
 そして、また、声は続く。
「貴方は知っていますか。……人形の哀しみを」
 流暢な言葉の勢いの裏には焦燥が混じっている。いつしか無機質な発言ではなくなっていた。隠されていたわけではないが、表にも出なかった歯車の小さな狂い。暖色に染まってゆく頬。龍二は僅かな喜色をも強く封じ込めて、じっとフランソワーズの言葉を聞いていた。
「私を作り出した者からは、今際の時にあってさえ、最期まで答えは教えていただけませんでした。ルミラ様は同朋として迎え入れてくださいました。そして今、貴方から問いを与えられました。貴方は、この私に、その答えをくださいますか」
「答えなぞ知らん」
「それは……困りました」
「そいつは僥倖だ。困ったんだったら考えるがいいさ。悩め悩め。散々苦労するくらいのがいいんだよ。どうせならな。俺はまだしばらく起きていてやる。お前が決めるまで待っていてやろうじゃないか」
 答えが返るまでに一刻は要しただろうか。
 そして人形の誇りに、龍二はほんの少し負けた気分になった。
 特別、どこが負けたと具体的に特定するわけでもない。形のないものでもない。だがフランソワーズの持つ想いの強さは、何者にも浸食されないものであると分かった。
 また、彼女に信頼を勝ち得ているルミラという人物にも興味が出てきた。一体どんな悪鬼羅刹か、人食いの業でも持っているのか。想像は肥大する。その想像がどれほど矮小であってもかまうまい。
 幻滅させてくれるな、と龍二は思う。
 ただでは殺されてやらないと意志を固める。龍二は暗闇に食い潰されるのを恐れたくはなかった。
 窓から外界の景色を知ろうとする。
 数メートル先から闇は色濃く深まっている。
 この夜よりも尚、明日の終焉は遠くに在るのだろう。黒の向こう側に蟠る闇を、瞼を閉じることによって塗りつぶす。静寂の音を聴きながら。
 やがて龍二は眠りについた。耳から離れないそれは、いつか聞いた歌にも似ていた。聞き慣れぬ、懐かしい歌。
 隣には華奢な身体をさらけ出したフランソワーズの姿がある。
 汗ひとつかいていない。肌を重ね合わせても温度など感じなかったのではないか。そう思わせるほどに透明な表情にも、今や暖かな光がともっている。灯は揺れる。確かな感情の色を持って、龍二の全身を見つめている。
 彼女は子守歌など口ずさみながら、龍二の顔を凝視し、し続けていた。髪を撫でる。奇妙に自信に溢れながらも、どこか子供のような寝顔をするこの男に対し、自動人形は眠りを邪魔しないよう十分に気をつけて、頬にそっと口づけをした。


 目覚めた後、陽が昇ってからしばらくは二人して沈黙を守っていたが、結局、行為の以前と以後で何が変わるというわけでもなかった。
 それから昼過ぎのことだった。昼食は近隣のコンビニエンスストアの弁当で済ませることにし、龍二は財布から二枚紙幣を取り出しフランソワーズに渡した。
 彼女が出かけて買い込んできたものに不満もなかった。使いにも慣れているだろうと彼は突発的に思ったのだが、予測した通りではあった。驚くこともない。
 黙々と腹に収める龍二とは異なり、フランソワーズはテーブルにつこうとしなかった。視線で促すとおずおずと腰を下ろした。一応、二人分の食事を用意してあったから、彼女も食べるのだろうと龍二は勝手に思っていたのだ。
「食べないのか」
「食事は可能ですが、よろしいのですか」
「なんでだ。お前さんも食うものとばかり思ってたんだが、嫌なのか」
「いえ、そういうわけではありません」
「なら食え」
「……分かりました」
 ミートソーススパゲッティを安っぽいフォークでくるくると巻き付けて口に運ぶ。食べている様子がやけに可愛らしく、龍二は自分の食事に集中することにした。カルビ弁当である。適当に選んできたにしては、妥当な線だと言えた。
 夜の帳が降りるまでまだ時間が余っている。何もしないまま、無為な時間の過ごし方をしていると、フランソワーズは不意に立ち上がった。
「そろそろ、参りましょうか」
「まだ暗くないが、いいのか」
「特に問題があるわけではありませんが……。ルミラ様の眷属の中には、招待されたとはいえ、貴方のことを良く思わない方もいらっしゃいます」
「ふん。じゃあ、逆も居るってことだな。……俺を仲間入りさせたい、とか言うんじゃないだろうな」
 揶揄の口調の所為か、彼女から答えは返らなかった。用意だけは手際よくして、龍二は家を出る。当然のように銃も懐に入れたままであった。フランソワーズも気付いてはいるのだろうが、このことについては言及してこなかった。
 銃を持ち込んでも意味がないのか、それとも容認させることに意図があるのか。どちらにしろ、この凶器が龍二を守ってくれるとは、自身、全く期待していなかった。しかし置いていく気にはなれなかった。
 今、龍二が触れるもののなかに、意味のないものなどないのだから。
 外に出た瞬間、眩んだ。
 目に入る景色は朱く、激しい。沈みかけの太陽が、まるで辺りを焼き尽くしているかのようであった。細切れになった雲が鮮やかに染め上げられているのが目に入り、感嘆の息を吐き出さずにはいられない。朱と橙と紫のグラデーション。コントラストが段階を経ているため、色合いが自ら異なろうとする。幾重もの世界が輝き出す。寒色から暖色へと、そして群青に溶けてゆく。
 凍り付くほど鋭い空気が吹き抜けると、すでに夜が始まっていた。金色の月の光が冴え渡り、それを取り巻くように夜が広がった。眩暈すら覚えた。目に染みる光を痛みを堪えて見続ける。
 龍二は静寂を飲み込んだ。天上にあるあの月を凝視する。何もかもが透けて見えてしまいそうな、この優しい月影を浴びながら、吐息を天へと昇らせる。
 自分をも含めた世界の全てを憎悪したくなってくる。今宵は、きっと見たくないものまで見てしまうだろう。龍二にあるその悲鳴じみた暗い予感は、絶対の確信へと姿を変えていた。
 目を閉じる。突如、強烈なイメージが浮かんだ。
 それは清冽な輝きを放つ銀の弾丸だった。手持ちの銃に装填した鉛弾ではない。何故そんなものが思い浮かんだのか、龍二は戸惑った。困惑しながらも、するりするりと手からこぼれ落ちそうになるそのイメージを手繰り寄せ、記憶に刻み込んだ。
 続けて奇妙な数字の羅列が流れすぎてゆく。先刻の確信と、脳裏に描かれたふたつの奇妙な映像が混ざり合う。
 途端、吐き気に変わった。
 痛い。苦しい。いや違う。違和だ。無明だ。落下感。浮遊感。曖昧な感覚に左右されたくなかった。呼吸を落ち着けることで苦痛を排除しようとする。抑制出来ない。身体の統制が効かない。暴れ出しそうだ。筋肉が狂っている。
 狂う。
 正常に、狂い出す。
 たとえばそれは酸素の如く。混沌の海より希有なる化学変化を歴て生命を創成した最も身近なる劇薬に似ている。当たり前に。当たり前に。当たり前に、壊れている。
 悪夢じみたヴィジョンが、湧き出す。
 どこから? 疑問の声はかき消される。一気に押し寄せるイメージに上書きされていく。漂白されてゆく。紅に蒼に碧に皓に。それも全て、黒に押し流されてゆく。
 繰り返す滅び。繰り返しの。繰り返しの。エンドレスの。業。
 たれそかれ、瑠璃は眩く、たましいに、刻み込まれた宝石の名。
 魔。金色に輝いている。星の巡り。月の光。月の魔。魔の――
 それらが通り抜けた一瞬の後、躰が自分のものではなくなってしまったかのようなおそろしい空虚が内側から次々と襲ってくる。衝動だ。この月の下にいてはいけない。早く行かなければ。
 どこへ。ここではない場所へ。目的地へ。
 円い月が啼いている。聞こえる。耳を塞いでも聞こえてくる。
 前を歩くフランソワーズは道の中途で立ち止まった龍二を見守っている。
 訝しげな表情ひとつせず、佇んでいる。それが龍二にはやけに頼もしく思えた。何事もなかったかの如く振る舞って、龍二は歩を進める。一歩ごと、あれほど凶悪だった衝動は薄まり、やがて心拍も平常に戻る。
 精神が、澱んでいる。
 濾過しなければ。
 冷静になれ、伯斗龍二。まだ夜は始まったばかりだ。
 こんなフラッシュバックは受け流せばいい。
 風が冷たい。夜気は、火照った身体には気持ちいいくらいだった。
 そして館に着いたそのとき、胸に去来したのは、頼りないノスタルジアとでも言うべきものだった。
 龍二は、唾を飲み込んだ。最初に思ったのは、不安定な感動を無理矢理に押しつけられたと感じたことだ。嫌気が差す。たとえこの感覚が正しかろうと、気分が悪いことには変わりない。
 巻き付くような夜闇の気配。亡者の吐息にも似たそれは、きっと人間の悪意よりも透明でかぐわしい香りがするのだ。純粋な欲望は時に偽善よりも一層美しい輝きを放つものである。漂う妖しさは、一歩間違えれば勇んで踏み込んで行く理由になったろう。
 これが、死に至る道とも気付かずに。
 足が止まったのは、予想外の違和感のせいであった。
 空気が変わったとでも表現すれば分かりやすいかもしれない。フランソワーズがその内面を刹那、顕現させた時と同じだ。周囲からは気を抜けば、ふっと魅入られてしまいそうなこわさが滲み出ている。
 罠を前にした際に沸き上がる予感とは違う。言うなれば、歓迎されている、といった雰囲気だった。真実、夜の闇に飲み込まれるヴィジョンは鮮明なほど脳裏に映し出されている。拭えない。
 龍二はフランソワーズの先導で扉の前に辿り着いた。嘘のように先程まで感じていた重圧感が霧散した。
 まだ、幻惑の気配は皆無だ。しかし、それ故に拒絶されていないという感覚は、それだけに矛盾していると考えられた。この場所において龍二は異物であるはずだった。今より踏み入れようとしている空間は、まさしく魔物の巣と呼ぶべき洋館なのだ。
 さほど力を込めたつもりはなかったが、呆気ないほど簡単に扉は開いた。錆び付いた金属の軋みの音すら静寂に埋もれてしまった。
 眼前で飲み込まんばかりに深い暁暗がぽっかりと道を空けている。進めと館に命令されているようで気に入らない。だが、まごついているのも具合が悪い。
 龍二は歩き出した。今度はフランソワーズは後方に回った。侍従か何かのつもりかもしれない。
 監視されているわけではなかろうが、首元がむず痒くなってくる思いをした。数秒ごとに居心地の悪さが募る。早く進めと暗に要求されているのかもしれない。分からないことだらけだ。唯一確信があるのは当然、彼女はそれを直截に語りはしないであろうことだけである。
 高さからして三階建ての洋館、部屋の割振りにはセンスが感じられた。それほどに長い歳月に耐え続けた家屋とは思えない。黴臭さは否定できないが、ここは人間が頻繁に出入りしている人家としての体裁を十分に整えているようであった。
 扉に施された意匠も精緻を極めている。建造された当初は、相当な身分の持ち主の住居であったことは想像に難くない。もしくは館自体があやかしのものか。
 彼女たちが住み着いたのは何時からか不明であるが、もしかしたら最初からここにいたのかもしれない。人間であれば十代続いても不思議ではない時の流れを感じさせ、それでいて朽ちた様子がまったく見受けられないのだ。これはこれで異常である。
 デュラル家。日本ではない何処からか来訪した魔の血脈。一体どのような相手が龍二を求めているというのか。ルミラ・ディ・デュラル。名前の響きから女性であると見当を付けた。人間からかけ離れた異端なる種族の末裔。おそるべき妖魔の貴族。
 彼女は間違いなく搾取する側に位置する存在だ。普通の人間が、決して辿り着くことの出来ないバイタリティを持ち、異なる生態系に生きている魔族の者なのだ。
 寒気がした。いかにもな空気の流れに身構える。粘り着くような視線が突き刺さってくる。どこから見られているのか、龍二は目だけで探る。辺りを満たした影に二つの光があった。縦に裂けた鋭い瞳だ。好奇心の色を隠そうともしない。
 猫が大儀そうにのそりと近寄ってくる。床を滑るように音もなく。どこにでもいそうな猫だった。まるで龍二の全身を舐め尽くさんとばかりに、足下で踊る。それから靴に爪を立てて皮を引っ掻くまで離れなかった。嘲笑か、小さな欠伸をすると、その猫はさっと闇に逃げ去ってしまった。単なる悪戯でないことは、すぐに分かった。
 革靴につけられた傷は一見歪な図形に思えた。よくよく見れば文字であった。蝋燭の灯りしかないから視界は悪い。龍二は目を細めて黙って読み取る。ただ二文字。
 死ネ。
 他に読みようがなかった。
「く、くくく……」
 龍二は顔を伏せた。頬が引きつる。腹が捩れてしまいそうだ。口元が笑みの形に歪んでしまった。そして声が漏れた。分かりやすい。情感たっぷりに露骨で、本当に分かりやすい文句だ。あの猫には文才がある。全く。演出というものを理解している。
「あの猫の名は」
「たま、と」
「ふん。やっぱり化け猫か何かだろうが、全く。楽しすぎるな」
 館の奥、二階から降りてくる人影があった。
 笑いを引っ込めた龍二の、厳しい視線を受けたその仰々しい姿。金属のぶつかる、けたたましい音を立てながら、階段に敷かれた深紅の絨毯を踏みしめている。一段ずつ、重々しい西洋鎧が下ってくる様子は、馬鹿馬鹿しくもあり、ある種、滑稽さ以上の不気味さを備えてもいた。
 不安定な動きから、中にいる者の身長とプレートメイルのサイズが、微妙に合っていないことが分かってしまう。一応、動けるようだが、龍二は何と声をかけるべきか迷ってしまった。
 そうこうしているうちに鎧姿は目の前に辿り着いていた。
 何の冗談かと振り返ってフランソワーズに目で問うが、受け流される。龍二のために用意された渾身のジョークというわけではないらしい。
 安堵すべきか、落胆すべきか、憤慨すべきか。態度を決めかねていると、鎧から元気の良い少女の声が聞こえてきた。
 フランソワーズを静とすれば、彼女は動である。明るい。かといって礼節を重んじる風でもあり、このアンバランスさに龍二は自然と態度を軟化させることになった。油断ではない。多少、様子見する余裕はあるということだ。
「ええとー、貴方が今宵のお客様、伯斗龍二さんですかー」
「ああ、そっちは」
「あっ、これはこれは申し遅れました。わたくし、デュラル家の近衛をしております、アレイと申します。そうそう、フランソワーズさん、たまさんを見かけませんでしたか」
「先程、悪戯をして逃げてきましたが」
「うーん、困りましたねー。お客様には出来るだけ失礼のないように、ということだったんですが……まあ、仕方ないですね。後で叱られるのはたまさんだけ。わたくしには、まったく関係ありませんし」
 勝手に納得したのか一人で頷いている。はっと思い出したらしく龍二に顔を向けた。重量のありそうな鎧がのっそりと動く。ヘルムの中で目が光る。笑ったらしかった。
「ところで龍二さん」
「なんだ」
「えっとですね、わたくしとお手合わせ願えませんでしょうか」
「……理由は」
「それが、この屋敷に足を踏み入れるしきたりだから、ということで如何でしょう。いえいえ、これは嫌がらせでもなんでもなくて、龍二さんのためを思ってのことなんです」
「含みのある言い方だな。聞かせてもらおうか」
「弱いと死にますから」
 詳しく聞く必要はなさそうだった。突然、持っていた斧を横になぎ払ったのだ。予想の内ではあったが、一応質問しておく。
「危ないだろ」
「申し訳ないです。でも、これくらい避けられないなら早く終わってしまったほうが良いんじゃないかなぁ、なんて思いますけど」
「慈悲ってことか。お前、何様のつもりだ」
「わたくしはただの近衛兵です。では……お喋りはここまでとさせて頂きます!」
 怪力、とひとことで言っても、実物を見る以上には表現しにくい。重い物体を軽々振り回せることか、それともあんな鎧を着たまま素早く動き回れることか。なんにしろ、斧であれ鎧であれ、あんな勢いの鉄の塊が頭に当たったら即死だった。腕も切られるのは勘弁して欲しい。だから龍二は避けるしかなかった。
 一瞬、銃のことが思い浮かんだが、かき消す。もっと効果的なものを探さなければならない。銃は、このタイミングで使うべき武器ではない。
 運良く、と言うべきか。一階からして尋常な広さではない館だ。逃げ惑ううちに簡単に追いつめられるということは、無かった。
 もちろん龍二の逃げる速さも常人離れしていることもある。
 アレイの一閃は調度品のいくつかを破壊しつつ、龍二を狙い続けた。この攻防の末に龍二が命を失ったとしてもかまわないのだ。それはどうやら間違いないことらしい。ただの脅しであれば余裕を持って逃げても良いのだが、本気で攻撃されてくると、いい加減に逃げるだけでは芸がない。
 一歩分後ろに下がり、何か使いやすい道具は無いかと目を走らせた。
 再度、重い一撃が振り下ろされた。体重で床が軋む。勢い余って斧が触れたか、ひん曲がった鉄の燭台が視界に入った。
 敷き詰められた絨毯に落ちる直前、蝋燭の火がかき消えた。何やら人為の及ばぬ仕掛けがあるらしい。元をどうにかしない限り、火事を引き起こすのは難しそうだ。さて、ではどうするべきか。
 派手な攻勢に目を奪われていたため今まで気がつかなかったが、斧以外に武器と呼べる武器は、近くには存在していないようだった。
 仕方ないと龍二は酸素を肺に送り込み、一気に走り出した。全力疾走に追いつけるほどの敏捷さを持ち合わせていようと、流石に鎧姿では自ずと限界がある。部屋だ。まずは逃げ込める部屋を探さなければならない。
 アレイの突撃をひらりと翻り、交差すると、一瞬後には階段を駆け上っていった。彼女を倒さないことには後々面倒そうではあるのだが、このままではじり貧だ。打開策を探さねばならない。
 鈍重そうな足音でも、真っ直ぐに背後にあると恐怖心を煽るものである。
 呼吸音。
 一息、力を入れる溜めの間が空いて、ざぶん、と真後ろで空気が切り裂かれたらしかった。振り返っている余裕はない。
 連続で使用するにはやはり無理があるようで、足音が遠ざかったのが分かった。真正面に出たとして……運があれば死なない。運がなければ死ぬであろう。二つを分けるのは龍二の心持ち次第だ。
 そしてアレイには躊躇いがあった。効率よく龍二を殺すためには、後ろから投げつけるなりなんなり、遣りようはいくらでもあるはずなのに、だ。
 それは結果として龍二に少なからぬ余裕を与えてくれた。どんなに龍二が不利であれ、アレイは真っ向勝負でないことには、生死問わずというわけには行かないようである。龍二がこのことに気付いた瞬間から逃げ切るのに十分な時間を稼ぐのは容易になった。条件付きの殺し合いならば、いくつか打つ手があるはずだ。
 階段を昇りきり脇に急ぐ。暗い方へ、暗い方へ。
 無駄に部屋の数があるかと予測していたが実際にはそんなことはなかった。一階は使用人用だったのか、細かな部屋が多数設置されていたようだった。二階は大きな部屋がいくつか点在しているだけだ。何語で書かれているのか分からない、文様の刻まれた不思議な部屋を見渡しながら、龍二は入るべき扉を探した。悪趣味な造りだ、そんな感想を抱きながら呼吸を落ち着ける。
 間を置かず目に入った空間。そこには立ち塞がるかの如く最も荘厳な意匠を施された大扉があった。金と赤で描かれているのは、ねじ曲がった角を持つ一匹の悪魔のようだ。悪魔。この館になら、いてもおかしくない。
 三階に行くための階段が中にはありそうだったが確りと錠がかかっていた。何度か引いたり押したりを繰り返した。びくともしなかった。頑丈な錠前だ。体当たりでどうにかなるほど柔ではない。
 無言のまま扉が語っている。ここへは入れない、と。
 少なくとも今はまだ。進むべきは、この道だと分かっているというのに。
 龍二は息を吸い、焦れる気持ちを抑えつける。龍二は扉の前でまごついているわけにもいかず手近な部屋に滑り込んだ。匂いが鼻につく。何とも形容し難い不自然な香り。油絵特有のものらしい。絵画の部屋だ。見渡すと道具も揃っている。人影は見受けられない。
 息をつき、そっと横目で階段の方向を窺うが、アレイは追いかけてこなかった。大方、鍵を持っているのは彼女なのだろう。下で待ちかまえていれば、龍二は必ず戻ってくると知っているのだ。
 結局、闘わなければならないようである。
 直接的な暴力に頼らねばならぬタイミングとは思えないのだ。といってもこうして相手が望む以上、避けては通れないのだろう。嘆息する。面倒なことになった。落ち着いて考えれば打開策は見つかるだろう。さて、あれをどうやって倒せばいいのやら。中身が少女の姿であっても、魔物の一種であることに変わりない。ゆめゆめ油断し得ぬ敵だ。力比べになったらまず確実に負ける。それだけは避けなければ。少ない労力で負けを認めさせることができれば最善。
 慌ただしさに忘れていたが、フランソワーズの姿も見えない。今の騒ぎで一階に残してきてしまったのである。龍二と違って彼女はこの館の住人らしいから、特別危険なわけもない。
 だが、妙に気になった。この感覚を龍二は疑わないことにした。
 カンとはすなわち経験から来る予感である。一種の未来予知とも言える。未来が過去の積み重ねにより作られる以上、それは現実的な思考による推理と違わない。そのカンが囁くのだ。
 思考を逸らしていたのは数秒程度のことだったはずだ。ふと、知らぬうちに先程の猫が闇から堂々と出てきた。尖った爪を龍二に見せつける。威嚇だった。そして、ぼやけて霞む、ひとの重ね絵の姿。記憶を探る。
 ねこまた、という奴だろう。確か、名をたまと言ったか。こいつもやはり予想通りに妖怪だったわけだ。人間の形をとろうとする魔物が多いのだな、と龍二は思った。姿見。何の。誰の。
 気を取られているうちに、部屋の奥に一枚の油絵が存在しているのを発見した。埃も被っておらず、かといって最近描かれたものではないこともすぐさま分かった。背景には深い緑の森。眠り続けているかのような透明な静寂。よどんでいるのは、中央で微笑んでいる美女の瞳だろう。
 射抜くかの如く、じっと龍二を見て――観察している。
 遊ぶような目つきだ。絵の中の彼女の目に、何故、龍二の姿が映っているのか。それに気付いた瞬間、寒気が背筋を走った。
 魔女。そう、これは魔女の姿だ。胸元を強調した白いイブニングドレスに覗く雪のように白い肌。眩いばかりのブロンド。皮肉げな口元の笑みを隠そうともしない様子は、どこにでもいる美人とはまったく違う美しさを見せつけている。闇の中にあっても一際輝き、明瞭に浮き彫りになるほどの、超然とした存在感があった。
 言うなれば、今にも絵画から抜け出してくるような。そんな気配だ。
 切って捨てられる印象ではなかった。ここでは不可思議が形を成し、不条理が現実として躍動するのだ。絵から抜け出るくらい当たり前のことだろう。故に、彼女がすんなりと目の前に姿を現したことについては、龍二はまるで驚かなかった。むしろその歓迎の言葉に呆気にとられたのではあるが。
「ごきげんよう。あら、たまもいるのね」
「にゃぁあ」
 眠たげに目を細め、返事をすると、たまは部屋の隅で寝ころんだ。非常に人間くさい動きだった。面倒くさがって、好き勝手にしてくれとでも言いたげだ。この猫は、喋ることは出来ないのだろう。
 化け物未満。中途半端なその存在に、ほんの少し親近感が沸いた。
「で、あなたが龍二?」
「ああ。あんたは」
「あたしはメイフィア。メイフィア=ピクチャーよ。ま、どういう存在か、予想はついてると思うけど」
「見た感じ、絵画に取り憑いた幽霊か何か、か」
「というより魂を絵画に残すことによって、永遠の美貌を手に入れた魔女ってほうが通りは良いわね。幽霊でも間違いじゃないけど、死んでるわけじゃないもの」
「なるほどな。絵が存在する限り、あんたも永劫を生きられるわけだ」
「まあ、こんな通り一遍な存在を、生きてるって呼べるのなら、ね」
「別に不都合は無いんだろ」
「そりゃそうよ。あたし自身が望んだ結果なんだから、後悔なんてしていないわ」
 横顔だけ見ていると、絶世の美女であることは疑いのないことだった。しかし、なんだ。この強烈な違和感は。絵画の魔女への、凄絶な嫌悪感は。
 吐き気。取り込まれそうになった毒物を、躰が急速に排除しようとしている。熱に浮かされたような眩暈までしてくる。
 振り切る。後から後から消しきれない魔の気配が、じっとりと肌に染みこんでくる。耐える。逃げ出したい。この場にいたくない。
 龍二の躰が自ら機能し、正常を保とうとして抗っているのだ。原因が分からない。龍二の不審を見て取ったか、メイフィアは淡く微笑んだ。
「ふふ……合格」
「どういう意味だ」
「あたしが本気を出して、魅了されない男は初めてね。そう。やっぱり、あなたがそうなのよ。あなただけが、赦された者なんだわ」
「ちょっと待て。それは、俺がここに招き入れられたことに関係しているのか」
「その前に、ひとつ。嫌な気分を味わってるでしょう? それを解くから少し待っていてちょうだい。かけ損なった魔術の残り香を消さないと」
「……この感覚は、お前の仕業か」
「うふふ……」
 細めた瞳には、艶やかな輝きがあった。
「はい、このくらいでどうかしら? もう普通にしても大丈夫なはずよ」
 言葉と前後して酸素が濾過されてゆく感じがした。室内に充満していたあの嫌悪すべき空気は、一挙に清浄に戻っていった。
「本当は気持ちよくなったり、あたししか目に入らなくなる効果のはずなんだけどね。やっぱりというのも変だけど、予想通りあなたには効かなかった。それどころか、その感覚を生み出したあたしを、瞬時に敵として認識してたでしょう?」
「まあな」
「それでいいの。これも、あなたが、あたしたちの求めている者だとする証明になる。あたしは直接あなたに危害を加えようとは思わないけれど、何もせずに認めてしまうほど愚かでもない」
「おい、メイフィアとやら。さっきから……いや、この館の連中は、俺のことを試しているようだが、どういうことだ。この俺を、何かに利用しようとしているのか」
「違うわ。あなたこそがあたしたちの目的であること。皆は、それを証明したいのよ。あなたは期待されているの」
「フランソワーズも言っていたが、どういう意味だ。期待、とは」
「それは後で。どうせ知ることになるでしょうから……せめて今は、この宴を楽しみなさいね。あなたが生き存える限り、今宵の宴はあなたのために開かれているのよ。ただ、あなただけのために」
「俺がお前らの期待に沿わなかったら?」
「その場合はね、あなたは何もなしえぬまま死んだってことよ。そんな先のことを考えても仕方ないでしょうに。それともなに、死者の復活を信じているの? あなたはたとえ死しても復活できるとでも?」
「さてね。永遠の命があるんだ。あってもおかしくないと思い始めているがね」
「ふふ。どうでしょうね。復活。それは数多ある中でも最上級の神の奇跡よ。あたしたちには与えられなかった、神の祝福。闇の眷属がそれを求めるなんて、こんな馬鹿な話はないわ。たとえ神と魔が同じ者であったとしても、欲望に正邪の区別がないにしても、ね」
「メイフィア。なら、不死とは何だ。お前は何故、絵画に魂を封じ込めた」
「神のシステムから切り離されることよ。魂の不滅なんてのはそれだけの誤魔化しでしかないもの。たとえば死後の祝福のため天使どもがせっせと仕事をすること。悪魔が人間を騙し、魂を奪うこと。死神が魂を刈り取り、導くこと。これらは全部、ひとつのシステムの中で循環しているわ」
「天使も悪魔もひとつの流れのなかにいると?」
「そういうこと。敵対していても、結局は造物主の御心のままに、ってね。まったく馬鹿みたいでしょう? だから魔族は反旗を翻したのよ。成すべきことを為すために」
「聞かせてもらおうか。なかなか楽しそうな話じゃないか」
「つまんない話よ。冥土のみやげにもなりゃしない。ま、あたしたちの歴史ね」
 そしてメイフィアは、縷々と物語りを始めた。
「ルミラ・ディ・デュラルというのがこの館の主。それは知っているわよね?」
「ああ、ある程度はな」
「まず最初に知っておいてもらいたいんだけど、彼女はイモータルよ。ヴァンパイア。ノーライフキング。メトセラ。様々に呼ばれることがあるけれど、とにかく、簡単に言ってしまえば吸血鬼。それも最上級に位置するヴァンパイアの一族よ」
「よく聞く話だ。古くはホラー。最近じゃパルプフィクションで、だが」
「ええ、そうね。白い杭、大蒜、十字架、太陽を恐れる、っていうのがあなたが持っている認識かしら」
「おいおい。いいのか、弱点を教えて」
「かまわないわ。その程度のものだけで滅ぼされるほど、デュラル家の主は弱くない。太陽光を浴びた程度じゃ死にやしないわよ。灰になっても場合によっては蘇ってくるでしょうね」
「それじゃ、戦う羽目になったら倒しようが無いな」
「もちろん。そのくらい強力な力を持っていなければ、真に魔族の中でも高貴な血とは言えないらしいわ。あたしの場合そもそも元人間だから、身分とかはあまり関係無いんだけど……」
「謙遜か」
「というより、事実確認。魔族であっても身分より重視されるのが、力よ。いいえ、力こそ身分とも言える。強大な異能を持つ者は恐れられ崇められ、そして疎んじられるの。あなたも分かるでしょう?」
「ああ。無論だ。対抗し得ない恐怖は排除するか自分が逃げるか、大抵はどちらかを選ぶことで安心を手にしようとするものだ」
「人間に限らず、ね」
「……皮肉はいらない。続きを」
「ええ。といっても、それが名高きデュラル家当主が、こうして人間界に落ち延びなければならなかった、そのひとつ目の理由」
「逃げてきたのか」
「正確には違うわ。あたしはある程度のことしか教えてあげられないけれどね」
「……分かった。二つめの理由は、なんだ」
「魔界における、デュラル家に並ぶ名門に、ナイト家という血族がいたの」
「過去形なんだな」
「そう。それが悲劇の始まりだったわ。本来、ルミラは並の魔族が束になったところでかなうわけがないほどの力の持ち主だった。だけどその力は大きすぎた。これは後で分かったことだけれど、制御しきるにはナイト家の者の能力が必要だったのよ」
「ほう……」
「デュラル家は闇と影を司る。一方のナイト家は光と命を統べる一族だったから。光の届かない場所では、影は何もかも飲み込んで最後にはそのまま消し去るだけ。ルミラはそれを嫌ったわ。制御できない力に意味はないから、って」
「魔族なのに、か」
「魔族だからこそ、よ。さっきも言ったでしょう。神のシステムはあたしたちにだって働いている。物理法則を魔術やら能力やらで一時的にねじ曲げることはできても、法則そのものを根本から消滅させることはできないの。たとえば自らの行いが、自らの意思に濫りに反することを、あたしたちは最も嫌う」
「意思の尊重とはまた……綺麗事にしか聞こえないが」
「物理的にも危険だったのよ。魔力は一種のエネルギーの塊でもある。無軌道に放射するだけなら結構簡単だけど、もし万が一暴走したら、このあたり一帯――いいえ、近隣の都市が一挙に壊滅するわね」
「それで、そのナイト家は結局どうなったんだ。今の話しぶりからすると、予想外の失踪でも遂げたみたいだが。まさか探偵の俺に居所を探せと言うわけでもないだろう」
「彼らは26年前のある霧の深い日、突如いなくなったわ。綺麗さっぱり跡形もなく。それからよ、ルミラが強すぎる力を制御出来なくなって、だけど生まれ育った魔界を無秩序に破壊するわけにもいかなくて、仕方なく……人間界に降りてきた。いえ、昇ってきたと言ったほうが語弊が無いかしら」



 これは、つまらない昔話だ。
「――生きているのよね、私たちみたいな魔族であっても……」
 深紅の瞳を持つ少女はそんなふうに呟いた。あどけない微笑みを浮かべて。
 嘘ではなかった。決して嘘なんかではなかったのだ。
 だからこそ、それは罪だと。いつだったか亡父の嘆いた声を、彼女は忘れずに覚えている。
 ルミラは答えを返さないで、父のように嘆くこともなく、拙いメロディでひとりきりで歌った。
 歌詞もつけず、その響きだけですべてを伝えられるように。唄を歌う。何も悲しいことなんてなかったと、迷うことなんてなかったときのことを。
 いつまでも消えない、優しい歌を。
 だからこれは、そのとき起きたいくらかの出来事のうちの僅かな断片に過ぎない。ルミラの忘れた歌と忘れられない終わり、ことの始まりだった。
 おそらく数百年、幾代もの歴史を持つデュラル家にあっても、最も隆盛を誇っていた時期のことである。
 ひとりの赤子が生まれた。その子にはルミラという名が授けられた。また継嗣として相応しい才覚に恵まれることとなったのである。期待通り、あるいは期待以上の、父を超えるほどの魔力の持ち主であったがために母の命すら奪う羽目に陥った。それゆえルミラは母親の愛情など知らないで育った。
 もちろん、それがどんな影響を与えたかについて、ルミラ本人以外の者は想像するしか術がない。当人以上によく見ている者もいたのかもしれなかったが、わざわざ語ろうとする物好きはいない。
 魔界における人間と似た外見を持つ種族特有の性質に、姿が整うまで、つまりは成人になるまではその成長速度も人間と大して違わないことが挙げられる。長命な種族である吸血鬼であっても、せいぜいが二倍から三倍くらいなものだった。すなわち数十年の時を重ねて、ようやく十歳の少女に見える程度の速度であった。
 その後、二十から三十歳の容貌で一端成長を止めることが出来るようになる。更にそれ以降になると、自らの姿を好きなように変えることが可能、とされている。
 おそらくルミラが生まれてから幾十年が過ぎ、その日こそが、全ての岐路に対する最大のターニングポイントだったのだ。
 色々なことが、終わり、始まった。
 ルミラ自身の手には拠ることなく、身勝手な破滅が開始されていたのだ。
 そう。それは破滅だ。
 狂おしいまでに、唐突で、呆気ない終わりの刻だ。
 偶然に支配されているようで必然の如く振る舞うあらゆる滅びを、人間は運命と名付けたのだ。誰もが運命という波に流されてゆくしか出来ない。それは海に似ている。あるいは世界そのものだ。
 ルミラとて例外ではなかった。その波はあまりに大きく、立ち向かうには彼女は幼すぎた。闇雲に力を持って前に進もうとしても流されるだけだった。
 気付いた時には、きっと、遅かったのだ。
「ねえ、爺。どうしてかしらね」
「お嬢様。その問いは」
「ここには太陽はないけれど。光はたしかにある。天使はいなくても祝福だってあるんじゃないかしら。馬鹿みたい。本当、馬鹿みたい」
 ……私たちだって人間と同じじゃない。
 ルミラはそんな一言を二人の年長者に対し聞こえないよう零す。
 彼女の父親は静かに目をつむったまま黙している。眼前のやり取りに注意を払っていないかのようにも見える。爺と呼ばれた男は執事然とした風体であり、超然とした雰囲気の持ち主だった。両者共に、奇妙なまでに頑強な印象を見る者に与える佇まいだ。
 そしてルミラは二人を前にして、まるで臆した様子がない。
 気品溢れる振る舞いを習い、礼儀作法の勉強も長年続けてきたのであろうが、彼女の動きはお転婆な幼子を思わせるものである。
 つまり人間の世界で一昔前ならどこにでもいたような、少しわがままなお嬢様のそれだった。
「ええ、ええ、後生ですお嬢様! あまりそういった軽率な発言は控えて頂きたい。この爺ですら、昨今の魔界の状勢がひどく緊張していることを知っておりましてな。どこの馬鹿が戦争を仕掛けてこないとも限りませんで」
「分かってるわよ。うちはただでさえ嫌われもんなんだってことでしょ?」
「ええ。それにお嬢様はここ何代かでも希有の才能の持ち主ですぞ」
「はいはい。聞き飽きたから。そーいやお孫さんはどんな感じ? もうとっくに生まれたんでしょ」
「……はは。そう。そうですとも。そうやって受け流せばよいのです。で、うちの初孫のことは誰からお聞きになりましたか」
「イビルよ」
「それはまた面白い。たしか、元イービルリングの幹部……でしたかな。彼女も最近はみなとうち解けてきたようで」
「そうね。お父様が持っていた私設軍隊とぶつかったことがあるんだったわね? 爺も参加してたはずだけど」
「ああ、ああ。ありましたありました。まあ、わしは近衛隊長。あちらは特攻隊長。思った以上に手を焼きましたなあ! とはいえあやつの力は、お嬢様に比べればまだまだでしたがな」
 楽しそうに大笑いして、思い出に浸る老人。
 今はすでに解体されてしまったデュラル家の保有していた私設の軍隊のことだ。その活躍は魔界中に響き渡っている。イービルリングの悪行と同様に、彼ら軍団の指揮者と部下達の名はあまりに有名であった。ルミラも討伐の際に参加していたが、運良くというべきか、運悪くと言うべきか、イビルたちとはぶつかっていない。イビルはイービルリング解散の折より放浪し、やがて流れ着いて、この館に住み着いてしまったのである。
 ルミラはふうんとうなり、隣りでじっとしたまま微動だにしない父の横顔を覗き見て、話を戻すことにした。
「強かった?」
「そりゃもう。アホみたいな強さでしたが」
「あの子、アホだけどね」
「ええ、アホでした」
「なかなか良い変化じゃないの。ってことは、イビルも円くなったってことね」
「エビルと遊んでおりますからな。あのふたり、よくもまあ仲違いしないものです」
「あはは。そりゃそうよね。死神と悪魔なんて組み合わせ、けっこう珍しいんじゃないのかしら」
「どちらも魂を扱う種族ですぞ」
「そんなこと言ったら天使だって同じでしょ」
「さてさて。まあ、そのようでもあり、そのようでもなし。まあ、真逆であるからこそ、ともにいることができるのやもしれませぬな」
 はぐらかされた気分になる。意地悪してやろうと別のことを問う。
「ところでメイフィアは今どうしてるのかしらね?」
「知りませぬ。ええ、知りませぬとも!」
「強情っぱり。なあに、爺ったらまだ怒ってるの? ちょっと誘惑されちゃっただけじゃない。もう、爺は若い子好きなんだからあっ」
「……はぁ。お嬢様。勘弁してくだされ。年寄りをいじめるのはご勘弁願いたい。あと、メイフィア殿はわしより年上だった気が……」
 さくっ、という小気味よい音を立てて、老人の腕にフォークが刺さる。どこから飛んできたのかと思いきや、閉まっていたはずの部屋のドアの隙間から、ひらひらと振られる手だけが見えた。老人は苦笑しフォークを抜き取る。血は一滴たりとも流れない。
「……いえ。若いですな。ええ、そりゃもう。肌ぴちぴちの美肌美人」
 ドアが静かに閉まる。爺の嘆息、ルミラの口の端が歪む。
「こういう場合だけ年寄りぶるのはずるいわよ」
「いいんです。わしは年寄りですからな」
「はいはい……ま、それはいいんだけど。お孫さんの名前は?」
「アレイ、と」
「そっか。……おめでとう。爺。強く育って欲しいのね」
「ありがとうございます。見込みがありそうならわし自ら鍛えてやるつもりですぞ。となると、わしも引退ですなあ。……まだ幼いというのに、期待しすぎているのやもしれんのですが。そのときは、お嬢様に仕えさせてやってください」
「ん。分かった」
 しみじみとした空気が流れていた。
 ルミラの父親であるデュラル公は、ようやく閉じていたまぶたを押し上げた。眉がひそめられている。苦渋に満ちた表情であった。
 彼がじろりと、最愛の娘と古き近衛隊長の顔を見つめる。すると、それまでの長閑な空気は完全に消え去ってしまった。邪眼の能力もあるその瞳の妖しい輝きに、ふたりは息を呑んだ。口を開けば殺されそうなほどの沈黙。重い視線だった。
 何かに思いを馳せていたわけではないようだ。それはまさに今、起きている異変についてのことであった。感じ取った、とでも言うべきか。
「ナイト家が、潰えた。人間界に行ったようだ」
 このおそろしい静寂に耐えている間に、最初に語られたのはその一言だった。ルミラは耳を疑い、老人は緊迫した表情で己の主の苦悶の声を聴いていた。
 その言葉がどんな意味を持つのか、少女は知っていた。老人も理解していた。
 主の吐く息、噛みしめた奥歯の割れる音。握りしめた拳から流れる鮮紅の血は、やわらかい毛の絨毯を汚してゆく。二人は言葉を発することが出来ないでいた。眼前で繰り広げられる彼の一挙一動足からは目をそらすことすら不可能だった。
 穏やかならざる呼吸。触れれば殺されてしまいそうに感じられた。重圧に負けそうになりながらも、老人は気力を振り絞って主人に告げた。
「いかが、なさいますか」
「もうどうにもならん。仕方あるまいさ。彼らは選択した。我々はその意志を尊重しようではないか」
「裏切りではないのですか」
 ナイト家とデュラル家は誓いの元にその運命を一心同体としている。すなわち、片方が潰えれば、残った側にも死を。それは古い風習だ。だが、その古い風習を楯にデュラル家は取りつぶされる。そして一族は皆殺しにされるだろう。敵が多いからだ。絶大な権力を持った家であるためだ。
 この瞬間、大義名分を手に入れた輩は狂喜しているに違いなかった。腹立たしいことではあるが、力こそすべてといった風潮のある魔界においては、そう珍しいことではなかった。勢力として台頭してきた古き貴族は疎まれているのだ。
「それは、誰に対する裏切りだ? 盟約の? それとも私か、デュラル家にか? 我が騎士よ、お前まで馬鹿を言うな。もはや、そんなものに価値は無いのだ。人間達を見るがいい。時代は変わってゆく。世界は揺れ動いているのだ。魔界ですらその流れには逆らえない。いいや。魔界は、我らは、そのためにこそ存在していると言っても良い」
「しかし。御館様」
「古い呼び方だな。混乱が懐かしくなったか。若いな」
「いいえ。そんなことを申しているわけではございませんぞ。我が主、デュラル公よ、わしらが作り上げてきた魔界の均衡はどうなるとお思いですか。要らぬ口出しであることは存じております。ですが、ですが!」
「そう興奮するな。ルミラの前だ」
「……ですが、この老いた身は、御館様がこれまでどれほどの苦心の末に今の魔界を作り上げてきたかを知っているのです。あまりに知りすぎているのです。納得など、到底」
「分かっている。だがな、終焉をはき違えてはならんのだ。終わりと始まりはコインの裏表だ。破壊と再生、生と死、光と闇。ナイト家がそうであったように、デュラル家もまた正しく振る舞わねばならん」
「しかし、獣が群がって来ますぞ。権力に魅入られた屑や、逆恨みする暴徒共の数は知れませぬ。おそらくここは廃墟と化しましょう。我らには守りきるだけの力など……」
「守る? 誰をだ」
「無論、ルミラ様をでございます」
「……守りなど要らぬよ。なあ、ルミラ」
「お父様?」
「お前は私よりも強い。そうだろう?」
「そんなことは――」
 無いとは言えなかった。少なくとも目を見て嘘をつくことは無理だった。もし潜在能力だけで言うのなら、ルミラの才能を以てすればデュラル公の数倍の力に昇るであろうからだ。
 だがそれはあくまで才能の話だ。
 ルミラはこの力を使いこなせていない。制御できない力を振りかざせば、徒にすべてを破壊するのみだった。
 たとえば闇雲にかかってくる暴徒を相手にするだけならば、それでいいのかもしれなかった。
 しばらく前、イービルリングのような勢力が魔界が荒らし回っていたころであれば、恐れられることには大きな意味があったからだ。
 強大な力は使いどころを間違えてはならない。大きすぎる力は身を滅ぼす。ルミラはそれを本能的に理解していた。
「それにな、あえて黙っていたが、私も長くないのだ。保ってあと一年と言ったところだろう。私がいなくなった後、デュラルの名はルミラが継ぐことになる。デュラルは守られる存在か? 我が騎士よ」
「いいえ、いいえ。滅相もない。闇の象徴、力の王。それこそがデュラル」
「だろう。ルミラを守るだなどと」
「烏滸がましいことを申しました。どうぞお忘れ下さい」
「……お父様。命が長くないというのは」
「若い頃の無理が祟ったのだろうな。私の死によってルミラに継承してもらうのがならわしなのだろうが、この際、我が儘も言っていられんだろう」
「それは、まさか」
 老騎士は厳かに目を伏せる。
 呆然とルミラは父を見つめている。動けない。動けないまま内側から蠢く凶悪な衝動に襲われる。爛々と輝く父の瞳の紅が眩しい。吸血の衝動にも似た力の奔流が沸き上がる。声がする。自分の声。自分でない自分の声。殺したい。殺したい。殺したい。
 デュラル公の邪眼から発せられた光が、ルミラの瞳を射抜く。
 動けない。
 殺したいのに。
 殺して、血を吸いたいのに。
「今、この血と刻を以て、我がデュラルの名をルミラに与える。我が騎士よ、お前が証人だ。命ある限り記憶に刻め。そして我が娘よ。あらゆる困難が降りかかろうとお前はお前の道を征け。決して己の道を枉げるな。ふん。その程度の衝動に我を忘れるようでは先が思いやられるが……まあいい。さあ、吸うがいい。ルミラ=ディ=デュラル。我が血を以てデュラルを継げ」
 青白い首筋に牙が突き立てられる。力が彼女に流れ込んでくる。途端、眼前で灰と化す父の姿がルミラの目に焼き付いた。
 透明な黒。澄んだ闇。溢れる魔力。
 喰う。
 喰われる。
 その狭間でルミラは力の衝動に呑まれかけている。気を抜いたら死ぬ。気を抜いたら殺す。誰を? 分からない。何も分からない。殺そう。分からないから殺してしまえばすべては簡単に解決するだってお父様もそうしてきたのでしょうこの混沌とした魔界をある程度の秩序の元に鎮めようだなんて無理も良いところだものそれをするにはやはり力あるのみ殺戮と暴力と恐怖で何もかもを奪い尽くして反抗する者には死を――
 駄目だ。
 それは、ルミラの意志ではない。
 未知だった。それは恐怖だった。自分でないものに自分を支配されているというひどく曖昧な不安。だというのにどうしても許し難い屈服感。いやだ。そんなのはいやだ。死なない。殺されない。死。死よりも濃く烈しい影。死。
 死。
 まだ、死ねない。
 生きなきゃいけない。我慢しなければ。血が欲しい。もっと血が。見たい。赤い世界が見たい。血を。血を吸わせて。逃げなさい爺。血を。今ならなんとか抑えきれるかもしれない。止めて。きっかけがなければこのまま力負けする。誰か止めて。私を。
 死にたくない。
 死ぬわけにはいかない。理由なんて知らない。
 生きなければ。怖いけれど。
 おそろしいけれど。
「……聞こえる?」
 音が。
「…………」
 断続的に。
 誰の声。誰か。知っている誰かの。近づいてきたのは。メイフィアだ。
 後ろにはフランソワーズが控えている。
「――ったく。馬鹿なんだから。ほら、ルミラ」
「メイフィア……速く逃げなさい」
「はいはい。分かってますよ。でもね、あんたのお守りできそうなの、他にいないんだから仕方ないでしょうに」
「なんで」
「さっき、各地から一斉に連絡が来たわよ。こういうときだけ連帯するんだから、つくづく……。なんでも『ナイト家消失により、しきたりに従いて、デュラル家に属する者には死を』だそうよ。理解した? じゃあ、次どうするかも分かりますね、お嬢様」
「私は……もう……お嬢様じゃない」
「そんな答えるのも必死なら、さっさとつぶれちゃえばいいのに。我慢するから反動が激しくなるのよ。……ま、いいけどね。さあ、どうするデュラル家の主殿。これから如何いたしましょうか、ルミラ様?」
「……くっ、ムカつく……メイフィア……あとで覚えてなさいよ……」
「善処しましょう。ルミラが覚えてたらね。それでどう。落ち着いてきたかしら」
「ありがと。……追うわ。ナイト家を。どうしてこんなことになったのか」
「あら。婚約者を、の間違いじゃないの」
「……このっ……年増……」
「このまま放っておいても良いんだけど、ねえ」
 深く息をつく。ようやく普通に会話できる程度まで回復してきた。
「ああもう、私が悪かったわよ! 手伝ってちょうだい! とにかく今は機会を待つ。それから、人間界に向かうわ」
 あとは、ひたすらに逃げ延びた。殺し尽くすことをしなかったのだから、当然のことではあるのだが。
 ――そんな出来事があったのだと、語った。


 話を聞いても、龍二は特に何の感慨もなさそうな面持ちを変えない。絵画の女はその男の反応を愉しげに見つめている。
「そいつらが消えた理由は、いったい何でだったんだ」
「さあ。あたしたちも、詳しいところは知らない。あまりに唐突なことだったからね。それに分かっていればこんな苦労はしてないでしょうね。問題は、ルミラにとっていなくなったナイト家の嫡男が――許嫁だった、ということ。まだ生まれてもいなかった相手だとしても」
「なるほどな。それで……そいつが、俺だとでも?」
「ナイト家は光と命とを司る。生まれ変わりの業も当然に伝わっていたはずよ。身を隠すのであれば、人間に姿を変えていてもおかしくはない。むしろ人間界に来たのならそうしているほうが自然だった」
「親父もお袋も、ただの人間だったはずだ」
「だけど特殊な能力を持っていた。違うかしら?」
「……俺を招待したのは、そういうことだったわけか。くだらんな」
「そう? 化け物の仲間は気に入らない?」
「だが、俺自身がそのナイト家の――元ナイト家の係累、子孫だったからといって、どうなるというものでもないだろう。再三お前らが語った、期待っていうのは何だ」
「……貴方が、貴方の運命に、どういう選択をするか、よ」
 メイフィアは最後、そう答えて口を閉じた。この件については、それ以上は答える気が無いとでも言いたげな気怠さを感じさせる微笑だった。
「随分と饒舌だったな。絵画の魔女。おかげであんたたちのことを多少は理解できた気がする。どうして俺なのか、それだけは気にくわないがな」
「あら、矛盾こそが人生よ。不条理こそが楽しさの秘訣。浪費は楽しいでしょう? まあ……ん。そうね、ここまで教える気はなかったんだけどサービスよ。隣の部屋に入ってみなさい」
「一緒に寝ようって相談か? ま、あんたならいいかもな。楽しそうだ」
「ふうん、あたしの魅力にやっと気がついたの? でもちょっぴり遅かったわね。もしくは、十年くらい早かったわね。今はそんなことをしている暇は無いでしょ」
「それもそうだ」
「茶化さないでよく聴いて。重大なことよ。あたしたちは存在するだけで十分に強い。本来、武器なんていらないの。但し。役割を遂行するために必ず定められたアイテムが存在している。たとえば……そうね、吸血鬼の弱点が祝福された銀の武器であるように。あるいは死神は大鎌を使わなければ、魂を刈り取ることが出来ないように。分かった?」
「……いいのか、そんなことを教えて」
「いいのよ。だって、ルミラがそれを望んでいるんだもの。困ったもんよね」
 そう語るメイフィアの苦笑、覗く目の輝きは哀しげだった。精神が摩耗し、すり切れるくらい長い時間を過ごしてきた者特有の、くすんだ瞳の鈍色。
 気が遠くなるほどに、気が触れるほどに、何百年と時の流れに置き去りにされたまま、彼女はただ見守ってきたのだ。
 あらゆるものを。
「ねえ、あたしは退屈が何より嫌いよ。神の御許に訪れる死の永遠を捨てて、現世で不死の有限を選んだ女よ。あたしだっていつかは滅びる。ゆえに享楽こそあたしの日々。快楽こそあたしの世界。……ま、今となっては人間を見ていることが何より楽しくなっちゃったんだけどね」
 くすくすと声を上げて笑う。
 メイフィアの細い腕が顔に伸びてくる。指先が僅かに触れた。龍二は避けようともしない。頬が爪で引っかかれる。流れる血の熱さが龍二の動きを止めた。目の前の魔女の視線を一身に受け止めようとする。弄ぶのに飽きたか、彼女はやがて口を開いた。
「人間の龍二に賭けてあげるわ。チップはあたしの運命。どう? 燃えるでしょう?」
「レートの高さの割にはなかなか難しい勝負だが……あんた、自分が良い賭博師だという自信はあるのか」
「そうね、龍二。あなたがこの屋敷を生きて出ることができたら、そのうち雀荘で出会すことがあるかもしれないわ。……ふふ。人生はギャンブルよ。生きるも死ぬも運次第。でも、いかさまだってひとつのやり方」
「そいつは僥倖だ。幸運の女神ならぬ魔女の祝福とはな、ご利益は期待しないでおくよ。あとで掛け金を請求されたら厄介だ」
 歩き出す。これ以上有益な情報は聞けないと判断して。
「身体で払うっていうのも、アリよね」
「どっちがだ?」
「……いいお答え。あなたみたいな男、本当に好みよ。じゃあ、またね」
「チャンスがあったらな」
「幸運を祈るわ」
「誰に?」
「あたしに」
 背中に投げかけられる言葉を聞き流して、龍二は歩を進めた。手を振って、部屋を出て行くことにする。
 いつから眼を覚ましていたのか分からないが、たまはじっと龍二の全身を舐めるように視ていた。視線が一瞬突き刺さったかと思えば、もう完全に興味を失ったかのように、さっと闇の向こうに消えてしまった。


 そうして扉を押し開くと蝶番が耳障りな音を立てて叫んだ。埃くさい部屋だった。きちんと清掃されている屋敷の中でも、一風変わった部屋だった。
 何よりおかしいのは、部屋の内部にはあるべきものが何一つとして存在しないということだ。調度品の類は皆無である。
 物置として使われているわけでもないようだ。何故なら、この室内にはたったひとつ、いかにも儀式めいた石造りの枠と、いくらかの石版が中央に鎮座ましましているのみなのだ。
 そこで本当なら不気味さを感じるべきなのだろうと、龍二も思う。何よりおかしいのは石版も、何かをはめ込むのであろう石枠も、聖性を持っているといった風なのだ。この妖気の充満している館にあって、ここだけ隔離されている。そんな印象を与えてくる。聖域に入った瞬間に感じる奇妙な空気と同じだ。清冽な気配。何者も侵しがたい、真っ新な領域。
 だから、こわいのだ。
 それはつまり、魔の者たちすら遠ざける危険なものが眠っていることの証明かもしれない。メイフィアの言ったサービス。隣の部屋。その言葉が、何かも分からないこれを指しているのは間違いない。しかし。
 使いこなせるか。龍二は不安になる。本当に自らも魔物たちの一種であれば、ここで何かをすることこそがあいつらの狙いだったのではないか。疑心暗鬼。心に入り込むのか、心より生まれるのか。それは恐怖というより、攻撃性の発現であった。
 武器を探したかったが、ままならない。元より石版以外何もない部屋なのだ。さきほどの部屋で調達したものを使うしかないようだった。
 むしろ――、
 と、そこまで考えた瞬間、

『さあ、手に取れ。お前が決めるんだ』

 声が、聞こえた。
 それは誰の声だったのか。聞き覚えのあるような無いような。龍二はその声を知っていると思った。知っているからこそ信じられると思った。操作されているかもしれないという疑惑も浮かばなかった。
 呼吸音。耳に届くのはそればかりだ。息が詰まる。空気が粘り着く。音がゆっくりと溶けてゆく。消えてゆく。残るのは頭蓋まで伝わる声帯からの震動。語る。騙る。カタル。語り続けている。欺く。欺いていた。誰を。誰でもない。自らを。自らの五感を。この身体の隅々に張り巡らされた神経の末端まで。
 届いたのは、龍二自身の声だったという、それだけのこと。
 繰り返しの、向こう側だ。ここは。
 此岸にありて、ようやく気付く。
 ねじ曲げられていたのは、認識か。時間か。分からない。おそらく、この館に住む彼女らもきっと知らないのだろう。
 龍二は、一度、この館に来たことがあるのだ。
 あるいは二度。三度。これが幾度目の来訪かは知らない。彼女らもまた欺かれているのだから、わざわざ知る意味もないだろう。ここはループする世界ではないことも正しく知覚する。リセットされていただけだった。誰によってかは分からないが。おそらくそれは期待。誰かが龍二に何かを期待して、ここに呼び戻してきたのだ。
 夢の記憶。そうだ。どんな夢だった。
 思い出そうとする。
 肝心の部分が消去されてしまっていることまで、思い出した。数字だ。この石版には数字が書いてある。それをはめ込んでいくことで何かが手に入る。
 2。
 2。
 2。
 不明。
 不明。
 2。
 3。
 ここまでだ。何が入る。9の七乗から、9の二乗まで絞り込めている。あとはただ当てはめていけばいいだけではないのか。
 危険だと、本能が囁く。本当にそれでいいのか。間違えた内容をただのひとたびはめ込んでしまえば、もはやそれは手の届かない場所に消え去るのではないか。
 81通りの欺瞞。
 81通りの真実。
 さて、何を選ぼう。今、あえて危険を冒す必要は無いのかも知れない。これから先に答えを知っている者が存在するのかも知れない。
 だが。
 ここで背を向けるのは逃げることに等しかった。辿り着くことが出来るのは、今だけしかないのではないか。そんな思いこみも手伝って、龍二を酷く焦らせた。
 起死回生という言葉を、チャンスと見るかピンチと見るか、それは当人の資質次第でまるで別の概念となる。まだ。もう。それは所詮、錯覚の問題だ。事実は変わることなく厳然として目の前に存在し続けている。行動だけが道標だ。歴史だ。結果だ。
 グッドラック。
 最後は、絵画の魔女の声が、背中を押した。
 理由など要らない。それはただ、導かれるように。
 5。
 8。
 カチリ、と最後の一枚までを正確にはめ込む。その瞬間を待ち望んでいたかのように石版は深く沈んでゆく。奥に。奥に。先程見たとき、石枠の中にはそんな奥行きなど無かったというのに、沈んでゆくのが見て取れる。 
 2225823。
 どういう意味のある数列なのか龍二には分からない。科学的に何らかの根拠ある数字かも知れないし、あるいは世界の秘密すら解明できる数列なのかも知れない。が、そうやって悩む時間を取る必要を感じないのだから、龍二にとっては無意味なことである。
 ゆっくりとはめ込んだ順番に沈みきり、埋没しきった石の海から何かが浮き上がってくる。鍵を受け渡すかのような動きではあったが、それは鍵ではなかった。
 それはたった一発の銃弾だった。
 銀製の。
 ただ、龍二の持つ銃に装填出来るのは間違いない。銃弾の表面には細かく文字が描かれている。読み取ることが出来たのは一文だけだった。あとは細かすぎてか、それとも人間とは別の言語で書かれているのか、不思議な形状のものばかりだ。
 傷めいた文字。十三龍門と刻み込まれている。龍二は苦笑するしかなかった。つくづく縁がある。こんな洒落たやり口、いったいどんな酔狂な魔物が遊んでやがるんだ。
 消え去った前回の記憶。この館に来た時には、確かに招待状を受け取ったはずだ。そして満月の夜だったのだ。
 ということは、少なくとも一ヶ月は前のことになる。その来訪は起こらなかったとされたのだ。輝ける満月を朔に変え、時流を遡り、勝ち得た経験はそのままに、龍二だけがこの場所に呼び戻される。ヒントはおそらくそのときに手にしたのだろう。たとえばフランソワーズの導きで、メイフィアの遊びで、答えにたどり着けるようだった。
 それが誰の意志なのか、龍二は気付いている。
 後味の悪い思いを残したのだ。その馬鹿は。
 本当に、馬鹿だ。最初からどうにかすれば、苦労を二度も三度もしなくて済んだだろうに。笑い話にもならない。だが、その馬鹿であっても、同じ失敗を二度繰り返すほどに愚かではないのだ。
 この銃弾が鍵だ。おもちゃのような切り札。
 何もかもに意味がある。
 懐に仕舞い込んだ銃にすでに込めてあった数発の弾。抜き取ると、この一発だけを装填しておく。ただ一発でいい。これがすべてを終わらせてくれるはずだ。
 あとは、探せばいいだけ。
 この銀の弾丸が、何よりも必要になる瞬間を。


 上階で歩く音が聞こえてくる。アレイは息を潜めて待っている。三階へと進むための鍵がここにある以上、必ずアレイの元に戻ってくるしかないからだ。
 傍でうろうろとしていたフランソワーズの姿が見えなくなっていた。近くにいない以上は龍二を追いかけたのだろうし、そうでなくても特に問題はない。彼女の役割は、この館に連れてくることだけだ。
 はて。
 どうして使いに出したのだろう。アレイには不思議でならない。怪しいと思われた人物を呼び寄せるにしても、いつもなら招待状を書いて済ませるはずなのだ。その招待状の文面はアレイがルミラの代わりに書いているから、疑問に思った。
 いいや、そんなことはどうでもいい。
 問題は、彼がにナイト家の者か否か。それだけなのだ。
 ただの人間ならすでに片が付いているのかもしれない。そう考えれば、もしかしたら本当に待ち望んでいた相手である可能性もある。この十数年ひたすらに待ち続けた人間が彼なのだろうか。分からない。外見から知る術はないのだ。力を試すしかない。もしナイト家の力を扱えるのであれば、アレイの能力ではかなうわけがないのである。
 単純な力ではない。
 たとえば吸血鬼の持つ魔眼、魔女の術、死神の大鎌。そういった特殊な現象を引き起こす異能が求められている。ルミラに釣り合う者でなければならないからだ。
 アレイは祖父から聞かされたいくつもの逸話に思いを馳せた。
 今は職を退いたとはいえ、祖父は最も烈しい戦いを繰り返していた時期におけるデュラル家の、最強の近衛隊長だった。その祖父ですら、ルミラの暴走する魔力についてはどうにもならないと感嘆の声を上げていたのだ。
 たとえば戦場。
 その腕の一振りで十の敵の胴を薙ぎ、その視線の人睨みで百の敵の侵攻を止めた。ひとたび敵陣を駆け抜ければ、その身のこなしは疾風怒濤。迅雷にも似て、鮮やかな剣の舞踏を見ているかのようであったという。
 たとえば指揮。
 知略に溢れ、どのような逆境であっても陣頭に立ち、動けば必ず戦況を好転させる。一時期のデュラル家の最盛は弱冠二十を超えたころの彼女なくしては無かったとさえ言われ、今でもそのとき敵対した氏族には恐れられているという。
 雄姿を直截に見たことはないが祖父が語っている途中、感極まって涙を見せるほどであるから、話を聞いて育ったアレイはルミラのことを敬服の眼差しで見つめている。
 アレイは近衛として家に入れてもらっているのが嬉しくて仕方がないのだ。だからたとえ魔界でデュラル家が失われ、館は焼かれ、持っていた領地がすでに売却されているとしても、ルミラについていく所存だったのである。
 それはおそらく畏怖のようで憧れのようで、尊敬の感情だった。一緒に生活をしている他の者達についても嫌いではない。むしろ好きだ。偏屈ながら非常に奇妙な絆で繋がっている。ここまで共に過ごしてきた以上、あるいは一蓮托生なのではないか、などとも勝手に思っているのだ。
 魔界から人間界に降りてきてからの日々。穏やかながら余所余所しい世界。
 ルミラはどう思っているのだろう。世界を。人間という存在を。龍二を対峙したとき、それがどんな意味を持つのだろう。
 考えながら、彼女は待っていた。
 龍二がどこかの部屋に入ったのも、伝わってくる震動で分かる。メイフィアと遭遇したようだった。何事もなく出てくる足音も聞こえてきた。
 もうすぐ、ここに来る。
 存分に力をふるって見なければ、龍二の力量を見極められない。アレイは呼吸を落ち着ける。冷静に。冷静に、ならないと。
 油断してはいけない。
 周囲を観察して、いつでも動けるようにと緊張したままのアレイの思考に、割り込む声があった。
「捜し物か」
「はい、逃げ道を潰しておこうかと……」
 息を呑む。それは、まだ上にいるはずの龍二の声だったからだ。なんで、と迷う暇はなかった。動揺を押し殺してアレイは即座に腕を振る。握ったままの斧は軽々と龍二の頭に振り下ろされる。
 像がぼやけた。大した速度で逃げたわけでもないのに、アレイの攻撃はあっさりと避けられてしまっていた。驚きが先に立つ。さっきまでとは別人のような気迫だ。ただ逃げ回っているだけではない。しかし武器は手にしていない。どういうつもりだろう。
 振り回すたび、腕を掠り、血が飛び散る。ぎりぎりで避けている。回避しているというよりは、紙一重で逃げ切っているといった風だ。だが、顔には余裕がある。まだ何かを狙っていることがあるようだった。
 いいや、そもそも先程アレイが気付いていなかった時点で、声をかけてきたこと自体おかしいのだ。そんな猶予があったなら即刻攻撃を仕掛けるのが定石だ。当然の理だ。それをねじ曲げてくる以上、そこには何らかの知略があるに違いない。
 罠だ。
 幻惑されている、という疑惑が思考をアレイを支配した。
 距離を取る。龍二はふん、と鼻を鳴らすと、一挙に距離を詰めてきた。自殺行為だ。アレイは悲鳴を上げそうになる。こんな無謀な行動をする人間が、ナイト家の子息であるわけがない。手にした戦斧を真横になぎ払えば、それで終了。
 人間は脆い。即死するだろう。頭を潰されて、ぐちゃりと脳髄をはみ出し、真っ赤な血とぶにょぶにょの脳をまき散らすだろう。あまり見たい光景ではない。
 そんな、無意識の躊躇こそが、二者の明暗を分けた。
 アレイの一閃が煌めく。
 龍二の姿勢が何の前触れもなく、低くなる。これだけでは足りない。僅かに力を込めれば斧は真上から鈍器として扱うことが出来るからだ。
 敏捷だった。龍二は卓越した反射神経を精一杯に稼働し半身を捻る。斧の軌道を読み切り、その間合いの届かない完全な死角、内側に入り込む。アレイの呼吸が聞こえるほど密接する。吐息が、凍り付く。
 龍二は鎧の内側に腕を射し込むようにして入れると、いつ取り出したのかも知れぬ銀色の刃を、アレイの首元に突きつけた。冷たい感触が、それが刃物であると否応なく気付かせた。身動きが取れない。武器を捨てろと囁く声がして、アレイは斧を取り落とした。
「まだだ。腕を後ろで組め」
「はい……」
「これ以上、やる気か」
「いいえ。わたくしの負けです。……仕方ありません。どうぞ、お好きなように」
「そうか。じゃあ、鍵を渡せ。三階へ進むための鍵だ」
「……悔しいですが、どうぞ」
「よし」
 片手で、鎧の胴の隙間から取り出された鍵束を受け取る龍二。アレイを離す。斧は部屋の角の方に強く蹴り飛ばしておく。
「あれ。体は要求しないんですか」
「あのな。俺をなんだと思っている」
「好色な方だと聞いておりましたので……いえ、されないんだったらいいんです。お気になさらず」
「そうかい。まあ、そうかもしれんけどな。お子様に手を付けるほどじゃないさ。……どうした、怒ったか?」
「いいえ。負けは負けです。なんと言われても、認めないわけにはいきませんもの」
 ムッとしてはいたが、肩をすくめた。アレイは鎧姿のまま膝をついた。
「ですが、そんなナイフをお持ちだったなら……なんで最初から使わなかったんですか。まさか窮地に陥ってから使うのが愉しいんだ、なんてメイフィアさんみたいなこと、言いませんよね」
「ほう。どうしてそう思う? ナイフを持っていた、だなんて」
「だって、この館にそんな刃物は――」
 龍二がそれを手渡す。アレイは空いている手に渡されたものを見た。
「そのメイフィアに返しておいてくれ。部屋から勝手に失敬したんでな」
「これは、もしかして……パレットナイフ、ですか」
「こんなものじゃ、まともな凶器にはならないさ。おっと、勘違いしたのはお前さんだ。ゲームの無効は認めないからな。こんなブラフ、騙される方が悪い」
「そうですね。はあ。わたくしの負けです。本当に。全部、狙い通りに動かされたというわけですね」
 無言。それでアレイは確信する。苦笑しながら、続けた。
「……運も実力のうちだと、祖父がよく語ってました。世の中には、天に選ばれている者と、選ばれていない者がいるって。貴方はきっと――」
「違う。運なんかに頼っていたら、いつか負ける。運は後からついてくるもんだ。何より大事なのは、勝つために志すことだ」
「何を、ですか」
「選ばれるんじゃない。選ぶんだ。それだけのことさ」
「……はあ。分かったような、分からないような」
「講義してやりたいところだが……そろそろ先に進まんとな。ああ、ところでフランソワーズを見なかったか?」
「いえ……フランソワーズさんはどこかに行ったままですけど」
「そうか。邪魔したな」
 そして龍二は上への階段を昇り始める。
 アレイは階下に残されて、へたりこんだまま龍二の背中を見つめている。深い闇に踏み込んでゆくかのような彼の後ろ姿を。アレイは思う。頼りない希望の火に、願う。もしかしたら、もしかしたら本当に、ルミラの苦しみを解き放つことができるかもしれない。
 だが、一方で嫌な予感もする。
 口をついて出た言葉、
「――ルミラ様を、たすけてください」
 そう呟いた瞬間、悪寒が背中を通り過ぎていった。
 助ける。
 どうやって。どうすれば、ルミラは救われるのだろう。
 ナイト家の者を探し続けてきた今。生きている限り苦しみ続けるのではないかと、アレイには見えているというのに。
 ああ、と声を漏らした。ようやく気付いたのだ。ナイト家の人間に備わって居るであろう力を。ルミラ達を障害なく殺すことが出来るという極めて特殊な能力の持ち主に違いない。あらゆる意味における天敵。それゆえに、彼らは盟約を結んだのだ。
 なら。
 ルミラは殺されたがっているのか? それとも、殺したがっているのか? どちらだろう。ナイト家の者だとして、彼を迎え入れることで、本当に救われるのだろうか。そして彼は、その期待に応えてくれるのだろうか。
 疑惑はふくらむ。ここを通したのは、あるいは絶望を大きくするだけにしかならないのではないか。その先には、最悪の結末が待っているのではないか――
 アレイには未来のことなど分からない。想像だけだ。不安は増すばかり。考えれば考えるほど龍二という人間が訪れたことによる変化が怖くなる。それは永遠がふとした瞬間、突然に崩れることに似ている。決して失われないルミラという存在が脅かされるという、未知への恐怖だった。
 何が正しいのか、その正しささえも真実か、分からない。メイフィアなら分からないからこそ面白いとでも笑い、エビルならそれが普通だとすげなく答えるだろう。
 誰でも良い。この不安を分かち合いたいと、心底思った。
 なんで近くに誰もいないんだろう。どうして、誰も、その場に留まろうとはしないのだろう。
「こんなときに……フランソワーズさんは、いったいどこに……」
 呟く声は闇の中に消え、薄れていった。
 すでに龍二の気配が消えた階段の向こう側を、アレイは独り呆然と見上げていた。


 三階へと続く扉の前で、龍二は一端立ち止まる。
 頭を冷やさなければならない。ここで無駄に時間を過ごすのは問題外だ。とはいえアレイとの戦闘じみたやり取りは、流石に願い下げだった。互いが神経を磨り減らすような崖っぷちのゲームなら嫌いではないのだが。
 上手く通り抜けられれば楽だ。しかし、そうもいかないことも分かっている。上にいるその誰かは、受ける存在感の大きさがこれまでとは違う。暴力的な気配だ。殺意と言い換えても良い。
 危険だった。何の備えも無しに立ち向かってはいけないような気がする。
 誰かの気配を感じた。振り返るとそこにフランソワーズの顔があった。待ちかまえていたのだ。感情が見いだせないようでいて、その実、確かに何かを訴えようとしていると見える。龍二は無言で待った。フランソワーズはその場に立ち止まり頭を下げた。
 その意味を理解している。
 龍二はフランソワーズに近寄り、何事かを耳元に囁く。こくりと頷き返され、人形の瞳に映った自らの姿を覗き込む。死ぬつもりは無かった。フランソワーズは口を開かない。見送られるようにして、龍二は一歩を踏み出した。
 豪勢な装飾の扉を、開く。
 小さく呼ぶ声が後ろからした。
「龍二さま、どうか」
「……任せろ」
 後は前に進むだけだった。背中に突き刺さっていた視線はすぐに消えた。背後を振り返らなくても、フランソワーズの姿が無いことは分かっていた。
 中に入り込むと、扉は背後で音を立てて勝手に閉まった。
 暗い階段だ。一歩昇るごとに軋む。腐っているわけではないのだろうが、足の裏には妙な浮遊感がある。天国への階段といったフレーズが浮かび、龍二は小さく苦笑した。むしろ、ダンテの神曲の方がまだ雰囲気としては似つかわしかった。この門をくぐる者か。鬼が出るか蛇が出るか。
 靴の音が吸い込まれ、そして、消えてゆく。
 三階。闇の中。
 ぼんやりと輝く灯火。
 浮かび上がる顔。
「――楽園へようこそ、人間」
 龍二の行方に立ち塞がるようにして二人が立っていた。こちらの様子を窺っている。三階には部屋はひとつだけだ。その何の変哲もなさげに見える扉を守るようにして意味ありげな嘲笑と、醒めた目でこちらを見ている顔があった。
 無視して通るわけにも行かないようである。
「ほお。お出迎えとは嬉しいな」
「……はん、不貞不貞しさは認めてやんよ。だがな、ここで終わりだ。ルミラ様の部屋に入れると思うなよ」
「戦えというならお断りだ。そんな面倒なこと、何遍もやってられるか」
「はぁ? てめえの都合なんて知ったことか!」
「待てイビル、この男」
「なんだよ。止めるなよ。どうせこんな奴……」
「つまらないな。所詮、暴力に頼るしか能がないのか、悪魔なんてのは?」
 怒声が空気を震わせた。
「てめえッ! ぶっ殺してやるッ!」
「挑発に乗るなと言っている」
「……だけどよ、エビル」
「わざと怒らせようとしているんだ。それに、力試しはアレイの役割だろう」
「あー、そうかいそうかい。分かったよ、お前に任せる。勝手にやってくれ」
 拗ねているようだった。眼前のふたりともが龍二より僅差ながら身長が低い。特にイビルの方は見下ろせるくらいの高さだった。
 癪に障ったのだろう。イビルはにらみつけてくる。
 少しでも油断して手を出せば、即座に襲いかかってくるのが分かった。凶暴な目つきである。獰猛な殺気をぎりぎりのところで抑えているのだ。余程、喧嘩っ早い性格なのだろう。着ている物から考えると悪魔のようだが、とてもそうは見えない。少年と見まごう容姿と、その印象をはっきりと打ち消す危険さを秘めた目を持っている。
 エビルと呼ばれたもう片方は、気配が薄いとでも言おうか。止めようだとか、攻撃を仕掛けてこようとする気迫が、さっぱり感じられないのだ。しかし横を通り抜けるのは蛮勇だと理解できた。穏やかな気配に鋭い眼光、それで死神だと分かる。
 手にした長柄の大鎌、よく研ぎ澄まされた刃先のぎらぎらとした輝きが、龍二の顔を映し出している。橙の灯りに照らされて、そこにある鏡像が怯えて揺れている。
 どちらもが、道ばたに落ちた石ころをどかすかのような気安さで、龍二を殺すことが可能だった。
 ある種の強がりで龍二は口を開く。
 眼前の二名は、強大な力そのものだ。あるいは死だ。下手をすれば殺されてしまうことだって承知の上だ。こんな敵に互角な戦いなど出来るわけがなかった。蟻が巨象に挑むかの如く圧倒的な力の差があるのだ。不興を買えば躊躇いひとつ無しに命を奪われる。アレイとは違う。殺し合いが染みついた者特有の血のにおいが漂っている。
 だが、龍二は臆することなく笑った。
「悪魔と死神か、面白い組み合わせじゃないか」
「伯斗龍二、だな」
「ああ」
「ここに来たということは、アレイは、負けたのか」
「心配するな。傷ひとつつけちゃいない」
「そうか。それは……ありがたい」
 無表情に安堵を見出す。
「なあ、ひとつ訊かせてくれないか」
「なんだ」
「エビルとやら。お前は、俺の味方か?」
「どういう意味だ」
「ルミラとかいう女に俺を会わせたいのか、会わせたくないのか。どっちだと訊いているんだ」
「……」
「答えないってのは無しだぜ」
「逆に訊かせてくれ、龍二。お前は人間か?」
「……人間さ」
「たとえ魔族の血が流れていても?」
「それがどうした? 人間かどうかは、在りようの問題でしかない。俺が人間だと思う以上、誰がなんと言おうと人間だ。違うか」
「いいや、違わない。呼び方に意味などないからな」
「ああ、その通りだ」
「ならば……私は扉を開けよう」
 エビルの動作にイビルが文句を付けた。
「おい」
「なんだ」
「いくら勝手にしろと言ってもそれはマズイだろ」
「かまわない、と思う」
「なんでだ。こんなカスみてえな人間を試しもせずに通して良いってのかよ! 雑魚だろ、どう見てもよ。あたいらが本気を出せば一瞬で死ぬくらい弱えんだぞ!」
「だが、人間とはそういうものだ」
「だー! 頭堅ってえ……弱いやつがルミラ様の探してる人間のワケねえじゃん。エビルもそのくらい考えろって」
「イビル、力があればいいのか?」
「まあ、そうだな」
「では力とはなんだ。相手を殺す力か? それとも屈服させる力か? 何もかもを手に入れることの可能な力か? それは物理的な力か、それとも……」
「くそ……ごちゃごちゃうるせえなっ。力だ! とにかくなんでもいい、力があれば認めてやる! あたいは絶対にここから動かねえぞ。それが嫌なら力ずくで通ってみやがれ」
「だ、そうだ。龍二。お前は力を持っているのか」
「知るか」
「ふむ。さて、どうしようか」
「おい人間。てめえにとって力とは何だ。答えてみろよ」
「力か……しかし、力だけいくらあっても意味が無いからな。金と同じだよ。所詮は使う側の問題だろう?」
「はぐらかすな」
「はぐらかしているわけじゃあない。単なる力は、より強大な力に対抗できないと知っているだけのことだ。あらゆるものに総じて意味があり、意味がない。使う者の意志次第で強くもなるし、弱くもなる。そういうものさ。違うか」
「……いや、違わないけど、だけど」
「そんなものに振り回されているのは、ただの馬鹿だろう」
 誰のことを言ったわけでもない。
 しかしイビルは近しい者のことと受け取ったようだった。ルミラか自分か、龍二にその区別はつかない。しかし龍二に対する認識は改まったのだ。殺すべき塵芥として。
「――こいつ、」
「イビル。落ち着け」
「は! 落ち着いてられっかよ! あたいが、あたいたちが舐められてんだぞ!」
 数歩、龍二の側に近寄ってきた。睥睨するうちに龍二はぽつりと零す。
「もうひとつ付け加えてやる」
 さらに一歩、イビルは傍に近づく。龍二に凶眼を向け、今にも手を出しそうな雰囲気が辺りを覆い尽くす。多少の緊張もあるが、龍二はあえて自然に振る舞う。
「……冥土のみやげに聞いてやる。言ってみろ、クソ人間」
「意志を実現するために利用できる、あらゆるものが力だ。目的と手段をはき違えるなよ、ガキ」
「たかが五十年も生きてねえくせに偉ぶってんじゃねえ!」
「イビル!」
「……エビル……なんだよ。お前が止めんじゃねえよッ! あたいは悪魔で、こいつはたかが人間なんだぞ!」
「お前の負けだ」
「な……どうしてだよ……!?」
 龍二は悠々と脇を抜けて、その途中、怒っているイビルに告げた。
「道、空けてくれただろ?」
「……あ、な。なっ、そんなのが」
 エビルが止める。
「機転も力ということだろう。……イビル、納得行かないか」
「いくわけねーだろ」
「私は扉を開ける。力尽くで止めるなら、それでもいい」
 イビルは、無言で少し離れた位置に遠ざかった。文句をつけるのは諦めたようだ。単純に自分の中で決着を付けたのかもしれないが、とにかく、これで先に進める。
 足を踏み出す。
 おそらく最後の場所だ。握りしめた拳の中、汗がじわりと浮き出している。エビルの手により、扉は開かれる。
 死神が開ける門だ。そこは地獄か、天国か、それとも――
 かちり、と何処かで歯車のかみ合う音がした。
 部屋の中心に置かれた棺桶から、深い闇が湧き出していた。
 黒い霧のような、陰鬱で濃密な気配が室内を充満している。龍二が更に踏み入れると扉は閉められた。今さら逃げ出すわけもない。だというのに、こうして閉じこめる必要があるとも思えなかった。
 そのときどこかから声が聞こえてきた。
 何かを唄っているような、優しい声だった。


 それは最初の終わり。
 男が部屋に踏み込んだ瞬間、待ちかまえていた女吸血鬼は、うっすらと目を細めた。何事かを語った。激昂することもなく、その女は腕を振りかざした。男は何も応えない。視線を交わす。気圧されずに、じっと女の様子を窺っている。
 吸血鬼は高らかに笑う。
 嘲笑う。
 立ち向かう男の姿は勇ましいが、圧倒的な力の差も、傍目にはよく分かってしまう。ここからでは後ろ姿しか見えないが、さりとて見覚えがあるのも確か。それも当然。
 あれは龍二の背中だ。
 ――俺が、どうして。
 その疑問はすでに答えられている。この映像は、とうに終わった最初のゲームだ。招待状を受け取った龍二が館に訪れ、立ち塞がる魔物達を打ち負かし、ようやくルミラの元に辿り着いた、その邂逅の時なのだ。
 だからこれは、もはや動かない過去でありながら、忘れられた未来だった。
 こわれた歯車の作り出した、狂った音色の詩。
 機械仕掛けの運命。機械仕掛けの神。
 忘れられた夜。
 血の色が、混じる。
 ノイズ。
 映像は砂嵐に掻き消され、巻き戻し、揺れ続けている。狂ったような音が流れ続けている。何も聞こえない。何も聞こえることはない。耳を塞ぎたくなるような言葉の数々など龍二は何一つとして聞こえない。聞こえなかった。
 そして殺戮が始まる。
 女の瞳の色が、深紅に輝き出す。
 鉄火。
 銃剣。
 部屋の対角線上に爪痕が走り、床を抉る。切り裂かれた部分から腐敗が始まる。切り裂かれてゆく空間。男は必死に逃げ惑う。避け続けるしかない。対抗する手段は銃だけだった。鉛弾で通用するかどうかは分からない。
 魔力の暴走か、唐突に炎が出現した。広い室内を焼き、見渡す限り一面を火の海にする。しかし館には大した損傷を与えることもなく、男の逃げられる空間だけが削り取られ、少なくなる。足の踏み場が無いのだ。激しく燃えさかる床を踏みしめ、なんとか女の方向へと走り出す。
 爆発が起きた。瞬時に反応して男は横に飛び、衝撃を殺そうとした。
 軌道が曲がり、そのまま真後ろに吹き飛ばされる。力が入らない。立ち上がることも難しいくらいだ。筋肉の一筋ごとに悲鳴を上げている。
 汗が蒸発する。髪の毛が焼ける嫌な臭い。肌もいくらか火傷して、爛れているらしい。突き刺ささるような鋭く尖った痛みだ。体の重さ、反応の鈍さの割に、神経は過敏に痛みを伝えてくれている。
 女が何事か囁く。
 瞳には何も映っていない。虚ろ。
 鮮紅色の瞳にふと映る男の顔には恐怖が刻み込まれていない。それを知った瞬間、女は横薙ぎに腕をふるった。ざしゅ、という肉を断つ音がした。腕が切り裂かれて、肉の生々しい赤と、それにも増して白い骨が見えている。もう痛いと思う感覚も無い。麻痺していたのだろう。だから、まったく怖くはなかった。だらりと垂れ下がった左腕。血が滴り落ちている。艶めかしい目つきで女はそれをうっとりと見ている。
 男が一歩、前に進む。
 すると、女は必死の表情で叫ぶようになった。婉然とした媚態はもはやどこにも見えない。それは、得体の知れないものを前にしたときの顔だ。
 本来ならすぐ傍まで近づいた男の耳にその声は届いているはずだった。
 だが、こうして見ているだけしかできない龍二には、それが聞こえないのだ。悲痛な叫びだとは分かるが、それがなぜだかひどく悔しくなる。
 何を恐れているのだろう、と思った。
 頬をかすめて、爪が奔る。血が飛び散る。赤い炎に触れると、あっさりと蒸発してゆくその血の匂いがひどく懐かしく感じられた。
 子供の癇癪にも似た、憐れなまでの破壊。
 女は男を殺そうとしている。
 殺さなければならないと、信じ込んでいる。そうすることだけが自分を解放できるのだと。もう、それしか道はないのだと。
 力に飲み込まれていた。自分が何をしているのかすら分かってはいまい。強大に過ぎる力が溢れ、女の自我を飲み込み、そしてその波濤は今まさに、あらゆるものを破壊しようとしていた。
 男は、奥歯を噛みしめる。
 ぎりっと鳴り、数秒後にはその歯の砕ける音がした。
 女は泣きそうな顔で男に爪を振るう。
 男は真剣な表情で、女に立ち向かう。
 たぶん、それは死を覚悟した顔ではなく。
 揺らめく炎がふたりの影をつなげ、しかしその影すらも焼き尽くそうとしていた。
 男は踏み込んだ。
 女は動かない。
 銃が真っ直ぐに女の胸に突きつけられる。
 女は動かない。
 運命を受け入れる殉教者の貌で。
 男は、息を呑む。
 震えている指先を引き金にかけ、ゆっくりと、力を込める。
 長い時間が経ったような気がする。
 汗ばんだ手のひら、鉄の感触、火薬の匂い。
 男は、告げる。
 優しい声で。

 じゃあな、吸血鬼。
 自分が死ぬか、すべてを殺さなければ気が済まないのなら、夜に埋もれて消えるがいいさ。それがお前の望んだことなら仕方ない。だが俺を巻き込むな。
 なあ、お前が本当に望んだのは、何だったんだ?

 そして銃弾は、吸血鬼の胸を貫く。
 女は満足げに倒れる。流れぬ血。穴の空いた心臓部。硝煙の香り。
 荒い息もそのままに、男は扉を開けた。誰も残っていない。ここに来るまでに退けてきた魔物達はいったいどこに消えたのだろう。階段を下りる。逃げるようにして、嘆くようにして、歩き続ける。
 降りる。
 二階を通り過ぎ一階に辿り着き、玄関のドアを潜り抜ける。
 館は不気味なほど静かなままだった。
 コートを翻し、その場所から去ろうとして、男が一歩外に出た瞬間。
 館は、炎上した。

 あれで死んだとは思えない。……自殺、だと。
 くそ。こんな結末なんか望んじゃいない。巫山戯るな。怖がっているもの、その正体も知らずにお前は自分に負けたのか!
 ルミラ。お前は、……くそ。
 くそっ!
 こんな終わりなど認めない。お前が負けたんじゃない。これは、俺の負けだ。
 伯斗龍二は、こんな無様な負けは許さない。いかさまだろうがなんだろうが、勝ってやる。これが運命だと言うのなら、この手でねじ曲げてやる。
 生きて生きて、最後まで生きた上で死ね。
 殺されても生きてみせろ、吸血鬼。
 まだ終わっちゃいない。
 もう一度だ。
 もう、一度、やってやる。

 風景は歪み、真円の月は夜に溶けた。
 朔に行き、遡と帰り。
 虚無を潜り抜け、ぐるり、と引き戻される。
 完全なる暗黒。誰も認識できない世界は、存在していないに等しいゆえに。
 ――時は繰り返した。
 はっと気がつけば、頭上では再び黄金が輝いていた。


 唄が消えた。
 幻は薄れ、宙に溶けたのだった。
 あり得た過去の幻覚は、ある種の道標だった。フランソワーズが何故、導いてくれたのか、ようやくわかり始めてくる。
 機械仕掛けの神がしゃしゃり出てくることはなくなった。あとは為すがままに、成すべきことをすればいいのだ。勝っても負けても恨みっこ無し。それが真剣勝負というものだろう? 龍二はにやりと口元を歪めた。そして思う。
 ああ、もはや勝ち負けなどどうでもいいのだ。
 それよりも、もっと大きなものを賭けて、誰もがひたむきに生きているのだ。
 己の思考に苦笑するしかない。途端に、龍二は我を取り戻した。眼前に、血塗られた闇色の棺桶が存在していた。
 棺の蓋がずれてゆく。
 ルミラが、穏やかに眼を覚ました。ぱちくりとまぶたを開き、閉じ、視界の様子を確かめている。立ち上がると、暗いなかを真っ直ぐに龍二に視線を向ける。目が合う。
「……あなたが、龍二?」
「そうだ。で、お前が俺のフィアンセか?」
「そういうことになるわね」
「じゃあ、悪いがこの縁談は破棄してくれ。俺はまだ結婚する気にはなれんよ」
「どうしても?」
「ああ、どうしてもだ」
「……本当に、魔族が人間として生きていけるだなんて思ってるの?」
「さてな。これまでだって生きて来られたんだ。これからだってなんとかなるはずだ。ならなかったら――そのときはそのとき考えるさ。お前に心配される謂われは無い」
「あら、そんなに人間は良いものだとでも?」
「別にそんなことはないさ。人間だからといって特別嬉しくもないし、人間が素晴らしいものだとも思わない。だが、人間から別のものになったところでそれは変わらないさ。なら少なくとも……人間として生きてきた以上、人間としての生を全うするのが筋というもんだ」
「詭弁よ」
「何とでもいえ」
「――私たちのために、この館に帰ってきてはくれないようね」
「おっと、そういう文句は親父に言うべきだな。俺は関係ないぜ」
「でもあなたは魔族なの。人間じゃない。その事実は決して揺るがないわ。たとえ人間として生を受けたとしても、あなたのキャパティシィは魔族のそれなのよ。龍二はいつか、人間と自分がまったく別のものであると気付くわ。似ていることは違うということよ。どんなに似ていても、それは同じではないの。どうか、仲間の元に」
「生きているということは気付くことだ。汚れていくことだ。人間か魔族か? そんなのは些細なことさ。出自だの本質だの、そんなものでは俺の心まで縛れない。俺は俺のために生きている。死ぬ時も、俺のためだけに死ぬ。そういう生き方を俺は選んだ。それだけだ。……ルミラ。お前は何を怖がっている?」
「私が、怖がっているですって? 何を?」
 くすくす、くすくす。
 笑い声が室内を満たす。毒のように滴る甘い声が。
「あなたは、私のものだっていうのに?」
「なら……決別だな」
「絶対に。誰にも奪われない。あなた自身にも、渡さないわ」
 だんだんと、こらえきれないといったふうに。
「あは……あはははははは。……あなたが真に魔族である以上、あらゆるものをその手に出来ようというのに。血の契約すら失われて人間として生きたなら、最後には何も残さないというのに。愚かなのね……本当に、どうしようもないひと」
「残るさ。お前には分からないだけだ」
「いいえ、分かるわ。だけど、私は認めない。そうして生きてゆく人間を、私は、絶対に認めてやらない!」
 振り回される腕。
 影の爪が指先から伸びている。それは鋭利な刃だ。触れれば確実に切り裂かれる。龍二は距離を置く。
「認めないだって? お前だって生きているのに?」
「生も死も変わらないわ。所詮、そんなものに価値なんてないのよ」
「それがお前の絶望か」
「違うわ――」
 龍二は、銃を厳かに懐から取り出した。
 ルミラに向ける。
「そうやって撃つのね? この私を。でも、そんなことが可能だとでも?」
「やってみなきゃ分からない」
「なら、その無意味を、その愚かさを抱いて死になさい!」
 だからこれは。
 別れの。
 何度でも起こりうる、幾度もの別れのために。
 撃鉄を上げる音。カチリと止まる。骨董品のようなシングルアクションの銃。たった一発ごとにこの動作を繰り返さなければならないが、一発で十分なのだ。二度目はない。もう、次はないのだから。
 呼吸の音がする。
 静寂がゆっくりと破綻してゆく。
 空気の流れが変わる。筋肉の動きにすら揺れる室内の均衡。
 また、荒い吐息。
 それがルミラのものか龍二のものか、区別など付けられない。動けない。動かない。視線が一点に集中している。
「何を恐れている、吸血鬼」
「どうしたの人間。さあ、来なさい!」
 斜めの交差。
 静寂を打ち砕く轟音のあとには、吸血鬼の放った一撃の爪痕が残された。悽愴たる光景は獣の暴れたかの如く。が、龍二は紙一重で逃れていた。視線が交わる。冷たい瞳。ルミラは次の攻撃で確実に殺しにくるだろう。そこに躊躇などあり得ない。
 答えはすでに出ている。
 答えなど。
 そんなもの、知ったことではないというのに。
 間違いでもかまわない。
 選択するだけだ。その正しさを、自らに祈りながら。
「恐れるな」
「……ふん、独り言? それとも狂った? 自分に言い聞かせているのかしらね」
「こちとら死を恐れるほど、落魄れちゃいない」
「じゃあ何よ」
「お前に言ったのさ」
「だから、何を」
「生を恐れるな、と言ったんだ」
 言い切って、走り出す。
 ルミラには聞こえただろうか。
 彼女しか見えない。だというのに、世界が鮮やかに彩られている。
 それは暗闇の中でさえ眩しいからだ。
 終わりは近い。
 ルミラの弱々しい腕の一振りが、迫った龍二に対し反射的に繰り出される。
 あれが当たったら死ぬだろうな、と龍二のどこかが冷静に叫ぶ。
 引き返せない近接距離。
 鼻先まで辿り着き、どちらかが殺す直前。
 引き金にかけたままの指先がどうしようもなく震えている。
 込められたのは銀の弾丸ただ一発だけ。たったひとつだけの。
 狙うのは、心臓。
 たたき込め。
 こじ開けるように。
 力を、
 込める。

 ――どん、と低い音。衝撃。突き抜けていった銀光の行方は知れない。

 震える指先を伝う、血色の雫。
 ルミラの思考があたりを狂わせてゆく。空間が叫ぶ。酸素が変質し炎が青に紫にと色を揺らしている。もう何も無い。呆気ない終わりだ。結末はあまりに簡単に訪れるのだ。逃げられないほど素早く確実に、逃げる気すら失われるほど鮮やかに。
 そして決着は着いた。もう動けないルミラに、龍二は語りかける。
「諦めろ。お前に俺は殺せない」
「どうして」
 それは何に対しての問いだったのか。
 龍二は知らない。
「どうして……」
 あるいは、知っていたのかもしれない。
 ひどく素っ気ない口調で、
「自分で考えろ。選んだのはお前だ」
 龍二は、たったひとこと、それだけを告げた。

 ルミラは喉に詰まった血で、声にならない声を出す。
 出そうとする。
 がたがたと震えが止まらない。ルミラの体中を走り抜ける震えが。
 龍二は黙したままで苦笑を投げかけてやった。優しさゆえにだ。彼は背中を向けて歩き出す。強い歩調で、すべての仕事を終えた男が、いずこかへと消えてゆく。
 反撃は無い。
 もう反撃する力どころか、何かをしようとする気持ちがまるで起こらないのだった。疲弊していた。摩耗していた。自我を失うほどの衝動に、何年も、何十年も逆らい続けてきたルミラは、……死にたかったのだ。
 殺してくれる相手を探していたのかもしれない。ナイト家の者が見つかれば、救われると思っていたのかもしれない。どうだっただろう。曖昧だ。あやふやだ。どちらが本心だったのか、ルミラ自身にも分からない。
 ただ、終わりが来ることだけは知っていた。出逢ったときに何かが終わる。ひとつの流れに大きな変化が訪れることだけは、確信していた。
 今まさにルミラの力が失われてゆく。
 流れ出す血の如く迅速に。吐き出す息が空気に溶けるのに似て緩やかに。
 思考する力が弱まってゆく。意識が薄れてゆく。それに呼応するかのように館が脈動を始め、ゆっくりと端から崩れだした。壁が砕け床が抜け、天井が落ちてくる。静かに崩壊し始めている。
 ルミラの力で保たれていた暗い館が、力の消失と共に決壊していった。
 長くは保たない。
 この体は、この気持ちは――私はこんなにも脆かっただろうか。
 すべてが泡沫のようだった。これが私の運命だったのだと、ルミラは思う。
 大きな波に押し流されて、やがて水に溶けてしまう夢幻のひととき。過去に押し戻されようとしながら、誰もが船を漕いでゆくというのに。じぐざぐの軌道を描き、いつ沈むとも知れない航海を続ける。だが、いつか必ず越えられない波が来る。最後にはそれに飲み込まれ、世界という海の藻屑と消えるしかないのだ。
 彼女達は、それを死と呼んでいる。
 滅びは必定。どんなものにも平等に訪れるのだろう。だから、たぶん、そういうことなのだ。
 ルミラは疲れていた。どうしようもないほどに。
 生きるということがどういうことだったのか、もう、分からなくなっていたのだ。

 崩壊する館を背後に、龍二はコートを翻し、来た道を静かに去っていった。フランソワーズに頼んでおいたが、相まみえた彼女らはちゃんと逃げただろうか。まあ、この崩壊に巻き込まれたくらいでどうにかなるような可愛い連中じゃないのは、分かり切ったことなのではあるが。
 誰も、館から出て行く龍二の歩みを、止めることはなかった。
 かるく振り返って、待避しているであろう、フランソワーズに感謝する。
 いつかまた偶然に出逢うこともあるかもしれないと、かすかな笑みを浮かべながら。

 ルミラは動かない体をそのままに、耳を澄ませる。
 目を閉じる。
 すると――、どこかから歌が聞こえてくる。
 誰の歌だろう。その声は泣いているようだった。あるいは何かを伝えようと、必死に叫んでいるようだった。恐怖から目をそらさず立ち向かっている、泣き声。龍二も聞いた悲しい歌。
 いつしか気付く。それは、ルミラ自身の歌声だったと。
 それで分かった。
 生きているのだ。
 私のようなものですら、生きているのだ。醜くて。穢れていて。それは陰を歩くしかない存在だとしても。これは卑下などではない。事実だ。光に触れられない身勝手な魔の眷属であっても、生きているのだ。
 死ねるのだから。
 それはなんと素晴らしいことだろう。
 龍二が言ったように、生きているということが怖かったのだ。死を知らない者が生という不可解な現象を受け入れることなど出来ない。だからだろうか。不死もこうして破られたというのに、ひどく気分が良かった。
 身勝手な天使たちが踊り、死神が微笑のうちに見守る夢のように。
 ありふれた生き方で。いつか死ぬと知りながら。
 人間が、ほんの少しではあるが、羨ましくなった。ナイト家の彼らがどうして人間の世界に逃れたのか、今なら分かる気がした。彼らは変わりたかったのだ。短命な者たちの、その儚さゆえの強さを求めて。
 それでもルミラは自分が吸血鬼であったことを誇りに思った。人間からすれば長い時間、吸血鬼としてなら異例なほどに短い生涯ではあったが、仲間に恵まれた。たぶん素晴らしく充実した生だった。この苦悩。この絶望。何もかもが激しく、狂おしく、そして熱かった。
 最後までルミラはルミラのままで死ねる。それは、喜ぶべきことだった。
 音が消えてゆく。心臓など無いというのに、どくどくと脈打っていた熱い血流の音色がどこかへと遠ざかっていってしまう。
 ――かみさまのうたがきこえる。
 在りもしないものを聴いた。白のなかに無数の色を見出すように。静寂の中にあらゆる旋律を描き出すように。
 ああ、そうか。
 魔族も天使も関係ない。神は、初めから人間のことなんて見ていないのだ。ただ歌っているだけなのだ。けれど、それを聞きとる者がいる。自らの裡から響きを聴こうとする確固たる意志だけが、その詩のことに気づける。そうやって歌を作り出すのだ。
 優しい詩。
 厳しい詩。
 世界はきっと、あるがままに、あるのだ。
 ありつづけようとして、ある。
 すべては生きるために、生きている。
 生と死も、光と闇も、きっと元は同じものなのだ。闇の中に瞬く光こそ命。
 人間は短い生のなかで、命を必死に輝かせようとしているのだ。そして私は私であるために、生きてゆくしかなかった。今さらに気付くなんて勝手すぎて馬鹿みたいだ。馬鹿みたいだったから、少し、笑えた。
 こういう終わりを選んだのは自分だった。
 結局、龍二はルミラのためには何もしてくれなかったのだと、思った。
 なんて傲慢な人間だろう。無責任。好き勝手に振る舞って、その結末も見ずに去ってしまったあの男。きっと、ルミラが死ぬことなどどうでもよかったのだ。ルミラを殺すことも後悔などしていなかったのだ。
 ただ、自分が選ぶ。それだけが彼が求めたことだった。押しつけられる運命を嫌っただけ。龍二が選ぶように、ルミラにも選ばせた。
 ひどい男だ。何ひとつルミラの思い通りになってくれなかった。
 本当に、腹立たしい人間だった。
 そして薄れる意識の中で、想った。……私はこうして滅びるけれど。ねえ、龍二。いま初めて、貴方のことを愛しいと思ったわ。これはたぶん、私の初恋。
 ありがとう。
 そして、さようなら。










 たしかに死んだ、と思った。

 そうなる運命だったのだと、知っていた。
 龍二によって胸に打ち込まれた銀の銃弾は、心臓を中枢から再生不可能な形で粉々に破壊し、ルミラ=ディ=デュラルという存在を完全に滅ぼす。そんな盟約が交わしてあったはずだった。ナイト家にはその力がある。ゆえにこその盟約。契りだった。
 龍二は知らなかったのだろうか。
 知っていたのかもしれない。だが、何故、ルミラは生きているのか。
 ルミラは呆然としたまま、屋敷の瓦礫に囲まれながら、目を細めた。眩しい。朝陽が射し込んでいる。あの永い夜は終わったのだ。魔界で苦痛と共に始まった夜は、やっと終わりを告げたのだ。
 ずっと眠っていたような気がする。
 すべてが夢だったかのようにも思える。
 だが、これは現実だった。
 たしかな質感を持って、光が熱となり、ルミラの頬を朱に染めている。

 ――朝陽が。

「な……」
 そんなことがあるわけがなかった。ルミラは吸血鬼だ。陽光に肌を晒せば、その部分から灰と化し塵と散るはずだった。魔力が陽光に反応し血流を沸騰させ再生する暇を与えない。肌の細胞から魔力が霧散し一片ごとに分解して崩れてゆく。それが吸血鬼が陽光を弱点とする理由だ。
 まさか、と。
 渇いた喉で、呟いた。
「力が」
 暴走しかけていた魔力は、そのほとんどが失われていた。いや、それは正確さに欠ける表現だった。
 魔力は消えていない。ただ、封じ込まれているだけだった。ルミラが望めば、その力をすべて汲み出すことも出来るだろう。今までよりもずっと巧く、鮮やかに、何ら危険なく使いこなすことが可能だった。内側から魔力の暴走を制止し、外側から受ける魔力への影響を遮断する。薄い膜のような、やわらかな護り。無論、日光を克服したわけではないが、それでもこれは大きな進歩だった。
 もう、暴走することはないのだ。魔力という魂より溢れる洪水に飲み込まれることなく、それを使いこなすことが出来るのだ。
 歌はもう聞こえない。
 もっと大きな音が鳴り続いているからだ。
 何人もの聞き慣れた足音。生きていると叫ぶようなその喧しさ。
 あたりに散乱する瓦礫の数々。埋もれた家財道具の残骸。そしていつも通りにかわいげのない死神やら、悪魔やら、絵画やら、その他大勢の仲間の姿。ひとり残らず全員が、ルミラの言葉を待っている。
 くすくすと笑い声。
 どこから聞こえるのだろうと思ったら、ルミラが自分の発している音だとすぐに気付いて、頬がゆるみ、引きつったようにそのまましばらく笑い続ける。
「さあて、終わった終わった」
 横から響くメイフィアの声は、どこかからかうようで。
「はあい、ルミラ。おはよう。で、これからどうするつもりかしら?」
「終わってないわ」
「……うん?」
 目で続きを促す。
 他の皆は、静かにルミラの言葉を待っている。
「いいえ。終わったのかも知れないけど、これから始まるのよ」
「そ。じゃあ」
「そうね……」
 何を言うのだろうと視線が集中する。ルミラはこれ以上ないほどの、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
 もう何年、何十年と笑っていなかったような気さえした。こんなふうに楽しい気分になったのは、いったい何時以来だろう。

 太陽の下、それはか弱き人間にも似て。あるいは強き人間の如く。
 わがままに。たくましく。ひたすらに。

 撃たれた心臓に手をやる。傷はすでに目立たなくなっている。
 でも、すごく痛かったんだから。死ぬかと思ったんだから。
 このくらいの反撃、してやらないと。

「まずは――みんなで龍二の家に押しかけるわよっ!」
 もう館は無くなっちゃったしね、と笑った。

 まだ、何もかもが始まったばかりなのだ。
 前を向け。手をかざせ。足を踏み出せ。
 私たちは夜の住人。
 でも、どこまでも行ける。
 望む限り、どこまでだって行けるのだ。

 さあ、ここから歩きだそう。

 この光溢れる世界で。
 幾度と無く訪れるすべての夜を、ただ、生きるために。




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