あれは小さいころ。隣に住んでいた、自分よりほんのちょっぴり背が高くて、なぜか気にくわなかった男の子と見知らぬ場所で二人きり、一緒に過ごすはめになって、寒空の下ずっと、ずうっとずうっと、そこから身動きも取れずに、無言でにらみ合っていたときのこと。
 おぼえている。自分だって同じだろうに、優しい声で。
「不安なら、なにかしゃべってやるよ」
 私は決して忘れない。
 何かが、すとん、と胸に落ちてきた。だからまあ、うん、それはもう仕方なかったのだな、と後になって思うのだ。今なら不思議と穏やかな気持ちで、素直に思い返すことができる。
 それから十年くらい経って、私はこの胸の高鳴りをどうしたものかと、どぎまぎしている。
 今日だってそうだ。長年の家族ぐるみのおつきあいに、勝手知ったるひとの家、ピンポンとチャイムを押して、お隣さんの声が聞こえたら、挨拶もそこそこに、ドアを開いて中へと進む。
 うちと同じ二階建ての、似たような間取りがそこにある。玄関からも中の様子は見えていて、ぱたぱたとスリッパの音が跳ね、ご飯の炊きあがる匂いのさなか、可愛らしくて優しいお母さんと、どこかとぼけたお父さん、ぺこりと一礼、あらあらいつもありがとうねえと二人とも目が笑っている。
 春の気配がそこかしこに見え隠れしていた。板張りの廊下の途中にあるガラス窓から白く光が射し込んでいるのを目にした。
 きれいだった。早朝の肌寒さなんて忘れて嬉しくなるくらい明るかった。
 外の庭には大きな木が一本、天に向かって伸びている。枝に茂った若葉の、まだうっすらとした新緑も、朝らしく透明な空気も、陽光はすり抜けて日だまりを作った。校則で決められた白い靴下を履いた足で踏み入れてみる。なんだかとても暖かかった。
 私も笑みをこぼしつつ、そして彼がまだ寝ぼけているであろう二階の部屋へと階段を駆け上り、廊下を飛び込えて、薄いドアを開こうとして、そしたら、ドアノブに伸ばした腕は空振りだった。
 え!
 半開きの口。変な体勢でつんのめる。でも驚いている暇は一瞬のこと。たぶん顔が見えた。それが起きたのも一瞬で。なのにスローモーションで、視界が、回る。ぐるり、と。
 そうして、勢いよくドアが開いて、それで……それで?

 落ちてゆく感覚っていうのは、気持ちいいのか、辛いのか、なんだかよく分からないけど、両方かもしれないし、もっといろんなものの混ざり合った気分なのかもしれない。そもそもこれは本当に落ちているのかしら。ちょっとした疑問が、ふわりと浮かぶ。

 たとえばそれは、穴に落ちるアリスみたいな?
 落ちる。落ちる。どこまでも。
 ぐんぐんとスピードを上げて、真っ暗闇に吸い込まれて、降りてゆく。短いはずのスカートは、かぼちゃのようにふくらんだ。いろんなものを見た。見た気がした。でも、なんにも分からない。あっという間で。とっても長い時間のようで。
 明かりの無い世界で、まぶたを閉じるその刹那。いつかどこかに置いてきてしまった、かすかな輝きを見つけた。もちろん私は反射的に腕を伸ばしてみたけれど、すごい勢いで落ちるうちに、暗く巨大な空が、私の意識を丸ごと飲み込んだ。
 ああ、もう届かないんだ。
 そう思ったら、私はちょっぴり泣きたくなった。




クリスタライズ / ドロップ





 私ははっきりしない頭でまぶたを閉じたまま、考える。目覚めの気配はどこから来るのだろう。眠っていたそれまでと、起きてしまったそれからは、どうやって繋がっているのだろう。
 底に向かって落ちているという感じは消え去っていた。
 私はいつしか、強い明るさを感じていた。茫洋とした私の上へと太陽の光が燦然と降り注いでいることを知った。まぶたから透けて見える赤。闇を照らし出すそのまぶしさが、うろんな眠りに逃げ込むことを許さない。
 起きなくちゃ。
 ……。深呼吸ひとつ。地面の感触を確かめる。思ったより固そうな気がしたけれど、絨毯の上に寝そべっているみたいな快さ。もう一回、大きく息を吸い込んで、ぱちり、とまぶたを開いた。


 すこーん!と、どこまでも抜けるような青空だった。何が抜けているんだかはよく知らない。とにかく、頭の上に広がった真っ青で透明な大空はすごくすごーく、……すごかったのだ。
 腕を伸ばしてみる。
 まるで届かない。
 それにしても、果てしなく広い空だった。はるか先まで、どこまでも続いていた。そんな空が、私の伸ばした両腕に収まるわけもなくて、あんまりにも青くきらめいていたから、私はもう、それだけで感動してしまった。
 高校生にもなって空を見て感動するってさ。
 なんだかなあ、なんて自分でも思うけれど。いやほら、ほんとうに綺麗ってそういうものだ。
 ふう、と息を吐き出して、勢いをつけて立ち上がる。
 でもって早速、隣にいた幼なじみな彼に同意を求めてみた。まだ座ったままだ。同い年にしては、快活さが足りない。
「でしょ?」
「なにがだよ」
 おおう。にらまれたよ。や、目つきが悪いだけなんだって知ってるんだけどね。
 彼は、じっとこちらの顔を見上げてきた。あんまり長い時間見つめられてしまっていたので、これはもう目をつむって何か待たなければいけないのか、そういう雰囲気ってやつなのか! とちょっと悩んでしまった。
 そんな私のパトスの行き着く場所である彼は、いつの間にか立ち上がって少し先に歩いてしまっていた。遮るものなど何一つない空の下、はるか遠方まで見渡せる。私は少し落ち着いた気持ちで、その後ろ姿を見つめてしまう。
 言葉にするなら、やわらかな静寂って感じだった。しぃんと静まりかえっていて、あたりには背の低い草の地面がどこまでもどこまでも広がっている。なめらかな布の繊毛を思わせる、さざめく一面の緑たち。植物特有の、あの生々しい匂いはあまり感じない。だけど命の息吹が芽吹いているようで、息をのむほど鮮やかで、揺らめく草原の海はおだやかに輝いていて、そして不意に強い風が吹いたなら、その風に包まれながら、私は目を閉じて何かを待つ。
 突然の風は、いろいろなものを吹き飛ばしてくれる。おそるおそるまぶたを上げて、そこに佇む彼の姿を探した。
 彼は何もしていなかった。
 風は、私の長い髪を大げさに揺らしながら、草にぶつかってざざざあと波じみた音を鳴らしたり、私の顔を震わせたり、着ていた服を膨らませたりと、イタズラっぽく遊んではくるくると渦巻いてみたりと、表情をころころ変えた。
 でも、いつの間にやら風の勢いは緑や青に溶けたようで、なだらかな空気に紛れてしまったけれど、たったいまどこからか運ばれた残り香がかすかに漂っていて、その匂いは甘く、心地よく、いつか嗅いだことのあるものに思われて、私は意味もなく大きな空へと腕を伸ばす。
 掴めもしないのに、まっすぐに、それを求めてみる。私はそうすることしかできないのだと、そんな気がして、目を細める。
 息が、漏れた。
 遠くに目を遣っていた彼が、気が付けば戻ってきていて、さりげなく腕をこちらに伸ばして、その指先が、私の肌に触れそうなのが見えたから。どうしようかと戸惑って、私はただ何もせず眺めていた。それから。それから距離が近くなって、近くなって、どんどんゼロに近づいて、そうして、
「痛っ」
 デコピンされた。
「……ううー、なにすんのさー」
 私が両手でひたいを抑えながら涙目で告げると、
「いや、すごくデコピンしやすそうなおでこだったから」
「そんなの理由になるかーっ!」
 私は叫んだ。あんまり痛かったから噛みついてやろうかと一瞬思ったりもなんかして。しないけど。しないけどさ。
「いやその、悪かった」
 素直に謝られて、私は狼狽した。顔には出さなかった。見上げた位置にある顔が、近くて、えっと、もしかしたら動揺したのかもしれなかった。
 この反応に、なんかひどい違和感を覚えて、私はすごい勢いで頭を抱えた。ちがうちがう、なんか違うなあ。
 珈琲飲んだあとまだ液体が残っているカップに烏龍茶入れて飲んじゃった、みたいな気分。うー。まずー。でも何故かはき出せないのだ。もったいなくて。
「ところでひとつ聞きたいんだが」
 そんなこんなで彼は、私よりも、もっともーっと深刻そうに眉をひそめて、悩みに悩んだ顔をして、こんなことを口にした。
「ここはどこだ?」
 実に哲学的な質問が与えられてしまった。
 うーんうーん。悩む。これは悩む。だって、どう答えたらいいんでしょう。
「夢の中じゃないかなあ」
 いやほんと。答えに困ってしまった私は、この無限に広がる蒼穹を仰ぎながら、ため息のようにそっと呟くのだった。
「そして、私たちはどこからきて、どこへゆくのか――」
 嗚呼、嗚呼、なんということであろうか。場を和ませようとした私の心遣いは儚くも無惨に打ち捨てられたのであった。
 そして、彼の呆れたような視線は、ほんの少しだけ、私を悲しくさせたのだった。
 させちゃったのだった。
 でも、その、ちょっとドキがムネムネしたりもして。私の中で囁く声。ささ、もっと冷たい視線プリーズ。
「あ、ちょ、目を逸らさないでっ。しかもどこだか分からないってさっき確かに言ってたのにいきなり振り返りもせず躊躇いもせず足早に歩き出したりってひどい、なにさ! そんなに私と一緒にいるのは嫌なのねーっ! ……ってまったく聞いてないし! あ、あれ? どこ。どこ行っちゃったの? さみしいのいやーっ! 置いていかないでーっ!」
 あたふたする私を尻目に、あっという間に地平の彼方。
「待ってー! お願いだから待ってプリーズっ!」
 叫びながら、私は彼の豆粒ほどになった背中を全力で追いかけるのだった。
 私の脳内では、きらきらした光を振りまきながら、毛のふさふさした子犬を連れて、恋人とおいかけっこをして戯れる白いワンピースのお嬢様な私、みたいな構図が再生されていた。
 うんまあ、……うん。妄想だなあと、すぐに落ち込む。
 でもいいんだ。ちょっと幸せだったから。
 えへへー。


「あー、そこの知らないひと」
 あんまりにも他人っぽい言いぐさに、今なんだかものすごく傷ついた。地の底まで落ち込んでいきそうだった。しかし私は、顔を向けずにはいられなかった。
「ふんだ。知らないひとで悪かったですねー」
 すねてみたが、即座に受け流された! というか聞き流された。でもなんとか、笑って見せた。ぎこちなく。笑った。
 鏡もなんにもないから、今の自分の表情を想像してみる。
 どんどん沈んでゆく船のイメージに苛まれた。波もない、夜の暗くて深い闇のなか、光がだんだんと水中に隠れて見えなくなってゆくような、そんな冷たい感覚が、背中を走り抜ける。ゾクゾクと震えが走る。違和感。苦しいくらい、嫌な予感が、あった。
「大丈夫か」
 答えられなかった。
 息が。
 苦しくて。
 全速力で走り抜けてしまったせいで。
 もう。
 むり。
 というような内容を辛うじて残った体力を使い果たし、つたないジェスチャーで魂を込めて伝えた。ああそう、と彼はひどくあっさり頷いた。頷かれて私は力つきたような素振りでがくりと地面に倒れ伏したのだった。
 一分が経過した。心配する声は掛からない。五分くらいは経っただろう。まだかなー。まだかな、まだかなー。いいかげん十分はたったに違いない。がばり、という擬音がこれ以上ないくらいぴったりな勢いで飛び上がる。
「そこはほら、助け起こしてよっ!」
「放っておいた方がいいのかなあと」
「この現代人めっ!」
「お前は過去人なのかよっ!」
 いいんですけどね。置きざりでどっか行ってなかっただけでも私は満足です。ええ。そうですとも。
 でも、やっぱり気にしないでなんかいられなくて、私は、激しい不安に襲われながら、ぽつりと、一言、問いを口にする。
「私の名前、ちゃんと言える?」
 彼はたぶん、言ってくれるだろう。
 さっきの言葉は冗談だったと。
 いつもみたいに、私がふざけているから、それに合わせて反撃しただけだったと。
 だけどどうしてか私の呼吸は不規則になり、言いようのない闇が私の頭上に迫っているヴィジョンを持ってしまって、イヤイヤと赤ん坊がするように、かぶりを振る。
「……いや、悪いが……」
 彼は真摯に答えを返してくれた。
「お前のこと、知ってる気がするけど、分からない」
 私は叫びだしたい気持ちを目一杯の本気で抑え込んだ。握りしめた拳は痛かった。形もないのに胸に突き刺さったものは、たぶんもっと痛かった。でもだけど、その答えで十分だったと思った。同じだった。何も変わっていない。だから心配することはなかった。大丈夫、大丈夫、なんにも、問題なんか、ないんだ。
「そっか」
 でも。でもやっぱり。
 そんな思いとは裏腹に、涙は出てくるもんだった。


 涙はそっと腕で拭った。風が当たってひんやりとした。
「とりあえず、ここ、出よっか」
 我ながら思った。まるでデート中の喫茶店で会話に窮したときに会計に向かうときの言葉だなと。だけど、腰までの長さの草の海に漂っているとクラゲっぽい気分になるのは確かなので、早いところ別の場所で落ち着きたかった。
「ああ。でも、どこへ?」
 彼は何か言いたげだったが、表情だけに留めた。
「ここではないどこかへ」
「そうか」
 彼のテンションが低いことに私は悶え苦しんでいた。これはダメである。エラ呼吸している魚が地上に打ち上げられているようなものである。苦しいのである。つらいのである。
「……ごー」
 やっぱダメ。テンション上がらない。
 肩越しに振り向いてみる。憮然とした彼の顔があった。私はわずかに意識してしまい、意識しないようにしてから、そろそろと腕を伸ばした。
 かるく彼の手を掴んで、握りしめたら、私は前に向かっていきなり走り出した。不揃いな足音が聞こえた。彼の驚いた声も混じっていた。地面は少し柔らかかった。草を踏みしめてゆくせいもあって走りやすいとはとてもじゃないけど言い難かった。私は速度を緩めなかった。向かい風は私たちを迎え撃とうとした。障害物が無いせいか、それとも遠くに強風を作り出すような地形でもあるのか、私たちは絶え間なく吹き付ける逆風を突き破って前に進んだ。追いかけてくるものなんてないのに、息を切らせて走った。目にも鮮やかな緑の世界が続いていたのが、不意に、とぎれて、ずっと遠くに見えていた一本の大きな樹木が現れた。
 私は肩で息をしながら、手は離さなかった。同じように疲れた様子の彼は無言で呼吸を落ち着けていたが、気がつけば大樹を見上げていた。私はしばらくその横顔を見つめていた。そのうちに、同じ方向に目を向けた。
 木が天高く広げた腕には、幾重もの葉が揺れている。
「なるほどー」
 私はひとり頷いた。傍らにいる彼はなんだか良く分かっていないようだった。
「まだ、思い出さない?」
「……」
 彼は答えなかった。唇をかみしめて、真剣な眼差しをこの巨木に向けていた。


 私はこの木を知っている。木の裏側にはぽっかりと空いた穴があって、黒くて深くて、ものも言わず、とても寛大だ。あの草原だって覚えている。どこまでも永遠じみて続く緑の海。進むうちに迷って、自分の居場所をあっけなく見失った場所。この空だって忘れるはずがない。二人で見上げた場所なんだから。
 あの、おそろしく綺麗だった空の色。
 夜の青を。
 だけど、それを声に出すことはしなかった。


 シリアスな雰囲気に絆されてくれることをわずかに期待して、真面目な顔で木の様子を窺っている彼の背中にもたれかかる。力を抜いて全身を預けてみた。
 避けられた。
 痛かった。後頭部にすごい衝撃が走った。しばらく動けないくらいだった。とにかく痛かったので、私は大声で非難した。
「なんで避けるのさっ。ケチっ」
「なんでよっかかってくるんだ」
 疲れた様子の彼に対し、私は目に涙をうっすらと浮かべ、上目遣いを意識して、重大な秘密を語る素振りを見せた。言葉の途中でかすかに目を逸らしながら。ため息混じりで、ぽつり、と。
「……きみと私、実は、恋人だったんだよ」
「へえ」
 信じてない目つきだった。
「ホントだよ! 嘘じゃないよ! ホントだからね!」
「へえへえ」
 すごく信じられていなかった。
 私はめげなかった。
「……キス、しよっか」
「どうして今の流れからそこに飛ぶんだ」
「……あれ? ここはきみがどぎまぎしながら、ギリギリまで唇を近づけておいて、まぶたをそっと閉じたところで『嘘だよ、本気にした?』って私がさみしそーに呟くタイミングじゃないの?」
「違うだろっ! どー考えてもおかしいだろっ!」
「でもって、私は内心『やだ、なんてありがちな行動だろう。ドラマみたいな真似をして、同じふうに後悔するなんて……』って地面にしゃがみこんで泣き出すところでしょ!」
「病院行け!」
 やだ、なんて低レベルな言い合いだろう。お笑いみたいなボケとツッコミをして、観客がいなくてむなしいなんて……
 と、さめざめと泣いた。もちろん私ひとりで。
 せっかくここまでツッコミ入れさせたのに、ノリきってくれない彼。その彼はといえば、また木に意識が向いているようだった。
 多少落ち着いたのか、私に対する怒りが忘れさせているのか、記憶についての苦悩は一端棚上げになっているらしかった。
 なんとも面倒なことになったなあ。
 聞こえないように小さく呟いてみる。髪を手で梳きながら、ひどく平坦な空を見上げ、あの大樹を視界の隅に入れながら、ぼんやりと考えを巡らせた。
 風の声や、木々の音、光の色。そして私たちの話す言葉。目を凝らしても山の向こうは遠いまま。耳をかたむけたって他にはなんにも聞こえない。まるっきりおんなじようにも見えるけれど、そんなわけがないのだってこと、私はしっかり知っている。
 なんとも静かすぎて、なぜだか悲しくなった。
 そんなわけがない。
 そう言い切れたなら、どんなに良かったか。


 まあ、つまりこれはもともと夢なんだろうけれども。今の私に分からないのは、どこからが夢で、どこまでが夢なのだろう、ということだ。もしかしたら終わりなど無いのかも知れないし、始まってすらいないのかもしれなかった。
 疑い出せばキリがない。にしても、我ながら、哲学的な質問とは良く言ったものだ。
 どこから来て、どこへゆくのか。
 ここではないどこかへ。
 そんな場所、ありはしないのに、私はせめて、どこかを目指そうとしていたのだろう。


 大樹は悠々とそびえている。大地に根を張り、うねり、その茶色というより黒に近い太い幹を誇るようにして、私の目の前に立ちつくしている。木は動くことはない。そこで生きているだけだ。
 振り返る。
 まだ太陽は高く、雲ひとつ無い。彼の隣にひっそりと影が足を伸ばしている。私はそちらに近づく。土を踏むと小気味良い音が鳴った。気がついた彼が振り返る。逆光気味になったせいか、私の顔がほとんど見えていないようで、顔をしかめた。
 目が細くなると、わずかに睨まれているような気分になる。しかし私は黙り込んだまま、とびっきりの笑みを返した。
 一瞬の沈黙が、ここにある景色の静寂をいっそう際だたせた。
「お前は、なんで」
 彼は何か言おうとして、やめた。私にとって不都合な言葉など無いというのに、気を遣ったのだろう。何も言われなかった以上、私は口を開くべきではないと判断し、そう振る舞った。
 しばらくして彼が意を決したように声を紡いだ。
「なあ」
 不安の色が見える。
「何か、喋ってくれよ」
 私は無言でいた。風が凪いだ。音が消えてゆく。風も、木も、凍り付いたように動かない。空気にあらゆる音が溶けてゆく。どこまでも続くこの大空を見上げたら、見ているだけで青に吸い込まれそうになった。答えが返ってこないことに業を煮やした彼も、私と同じようにする。天を仰げば、一面の青は広がってゆく。私は、海が頭上にあるような気になって、天地がひっくり返っているんじゃないかという疑いを持った。彼はどうだろうか。空のある一点を凝視している彼の視界に映り込んだ青。黒い瞳の中にあって、空はダークブルーに描き換えられている。私はその黒曜石を思わせる小さく暗い空をじっと見つめ続ける。
 だけど、とうとう耐えきれなくなって、私は声を漏らした。止めていた息を吐き出すように、そしてまた、かつえていた酸素を必死に求めるみたいに。
「言葉にしたら、消えちゃう気がしない?」
「何が?」
 私はそっと、吐息のようにうそぶいた。
「ぜんぶ、ぜんぶ、なにもかも」
 彼は感じないのだろうか。
 この世界が、ひどく曖昧だってことを。留め得ぬものとしてしか生まれることのありえない、どこか嘘めいた場所だってことを。
 でも、そんなはずはない。
 私がそう思うのなら、彼はもっとそれを深く理解しているはずなのだ。ここは確かに夢のなかだけれども、この世界が作り上げられたのは、きっと二人が願ったからなのだ。


「キス、しよう?」
 もう一度、今度は幾分真面目な流れのなかで、そんなふうに告げてみる。期待なんかしていなかったけれど。彼はのろのろとした仕草で、いつの間にか足下を向いていた顔を上げて、私のおでこのあたりに、見るでもなく目を向けた。そこには生え際があるだけで大したものは無い。
 なんでと聞きたいんだろうな、と私は勝手に決めつけて、先回りして理由を言葉にした。
「眠れる森の王子様を、目覚めさせてあげたいから」
 頷く代わりに、問いが帰ってきた。
「俺は誰で、どうしてここにいるんだ? そしてお前は誰で、どうしてそんなことを言う」
「いいじゃない。そんなことどうだって……」
「良くない!」
 強く遮る声に、私はびくりと身体を硬直させた。驚かせてしまったことを悟ると彼は途端に声のトーンを落とした。
「ごめん」
「ううん、いいの」
 こんなふうに言葉を返すと、かえって罪悪感を煽っているみたいだった。なにしろ私は基本的に素直じゃないのである。彼とキスをするのに理由なんて欲しくなかったけれど、流れとして、そうも行かないらしい。世の中上手くいかない、とは普段からよく思うことだった。
 でも夢の中でくらい都合良く動いてくれてもいいのにな。
 ため息は隠して、さらりと教えてあげた。
「きみはね、私と口づけを一回交わすたび、忘れていることを思い出せるんだよ」
 ちょっと早口気味になった。私は少し長い息を吐いた。立っているだけなのに、少し痛くなったふくらはぎから力を抜こうと努力する。足の裏の感覚はあまり無い。
「ね。今度はキスしてくれる気になった?」


 どれだけの時間が経ったのだろう。いいや、時間はどれくらい過ぎていかないで留まり続けたのだろう。私にはその感覚は分からない。だいいち分かるとも思えない。たった一瞬が永遠に等しくなるときがあると、ずっと昔から知っているからだ。
 突拍子もない私の発言に、彼は思案の顔をした。
 ためらっているのは理解できる。
 ぽっかりと空白になった表情。この混乱による躊躇をどう捉えればいいのか、どう操ればいいのかと、私はわずかに惑い、迷いながら、しかし自分の心に従うことにした。
 きっかけもなく一歩、彼に近づく。突如動いた私を前にして目を丸くしたのを見る。反応できていないのを確認する。まばたきをする彼の、そのまつげの長さが気になった。背後にある木に彼を押しつけて、背中がぶつかって痛みを感じた顔を見つめる。衝撃に揺れた葉の声が降りてくる。根っこを踏み台に、ちょっと高い位置にある肩に手をかけて、私はさらにもう一歩前に踏み出す。彼は身動きが取れない。何が起こったのかとでも言いたげに、私の顔だけを視界に入れている。目を逸らす暇なんて与えない。鼻にぶつからないように気をつけなきゃとそれだけを考える。距離が無くなる。
 私は顔を近づける。
 啄むように、唇と唇が触れる。かさかさとした感触。数秒が経ってから、彼は私の腕を外し、そのまま全力で突き飛ばした。
 唇を奪うことに、すっかり集中していたせいもあって、私は咄嗟に動けない。よろけながら倒れそうになる。足がもつれる。地面は這った根がそこかしこに張り巡らされてでこぼこだ。
 息が出来ない。酸素が足りないことが呼吸の苦しさでようやく気づく。
 躓いて、そして後頭部からまっすぐに落ちてゆくのが、危ない、と、身体は動かなくて、声が出た、悲鳴みたい、彼の唖然とした顔が瞳に映った気がした、私は届かないことを知りながら、劈くような悲鳴は続いて、腕を、どこに向かうでもなくただ腕を、闇があった、腕を伸ばし、何も見えなくなって、そして。
 おそれていた痛みは無かった。
 手の先に、あたたかな感触が掴んでいることを知る。この闇はまぶたの裏側だと、おそるおそる目を開いて、ようやく安心する。
 指先には熱。いや、冷たいかもしれない。凍えるような心持ちで私は。
 考えがまとまらない。
 そして。
 目の前には彼の必死な顔があった。
 それだけで全部、分かってしまった。
 その瞬間、ほっとしたら力が抜けた。今にも倒れそうだったヘンな体勢が、気が抜けたせいで膝からぐにゃりと崩れた形だ。でも、もう大丈夫だった。仰向けになって地面に倒れ込んだ、というか寝ころんだ私に、彼は言った。
「……いったい、どうなっているんだ?」
 知っていることをすべて答えられる元気はなかった。
 だからひとつだけ。
「私が決めたから、こうなったの」
「夢なのに?」
「夢だから」
「……なんて都合の良い夢だ、これは」
 まったくだ。
 立場上、その意見には与することはできないが、これが全く関わり合いの無い夢なら、私だってそう思うに違いなかった。


 成り立ちは単純で、ありがちで、出てきた結果だけが不思議の産物だった。
 私がさっき語ったように、これではまるで茨姫。
 ルールは簡単だ。
 おとぎ話みたいに、キスで呪いが解ける。それだけのことに過ぎないのだ。それをさせるためだけにこんな大がかりな仕掛けと夢を持ちだしたのである。私は声に出さず嘆く。なんて似非メルヘンだろう。なんて卑近なファンタジーだろう。なんて……なんて、間抜けなドリーマーなのか。
 それともシェイクスピアだったりして?
 とぅーびぃーおあ、のっととぅーびー、と私か、彼か、どちらかが問いを発している。苦笑混じりに空を見上げる。色と様子が少し変化していて、途方もなく静かだった青空は、にわかに色めいて燃えるような夕暮れへと切り替わろうとしていた。
 詰まるところ、この夢のかたちには深い意味など無いのかもしれなかった。私は、どちらがこんな状況をより強く望んだのかをはっきりさせようと考えていた。
 でも、彼はようやくスタートラインに立たされたばっかりだ。その時点で、答えは出ているようなものなのだ。だけど認めたくない。それが女の子ってものじゃないのかな。うん。
 ほら、最近、やっとだけど、ふわふわのホットケーキだって作れるようになったし。


 彼がどこまで思い出しているのかを簡単に確認する。
 私はなるべく自然な風を装って起き上がると、すたすたと彼の近くに移動してから、耳元で甘くささやいた。
「じゃ、キスね。もいっかい」
 呆れた様に口をぽかんと開けているのが見えた。
「さ、どうぞ」
 私はちょっと乾いた唇をぺろりと舌でなめて、潤いを増やしてからそのときを待った。彼の反応は早かった。
 ぺちん。
 おでこが痛いです。
「どうぞじゃねえよっ!」
 私は主張した。
「しないと話が進まないからそう言ってるんだよ!」
「知るか! 寝言は寝て言えアホ! つーか起きろ! どうせお前の仕業だろアホ! 今度はなんだ、とうとう超常現象にまで手を出したのかっ!?」
 この信用の無さ。まさしく普段の彼である。
「アホアホひどいよ……」
「アホじゃなければなんだ、おでこ魔神かっ! 路上で怪しげなランプでも買って精霊でも呼び出したのか!」
「うう、ひどい」
 自業自得である。我ながらこんなに信用されていないとは思わなかった。私は天に向かって祈った。どうして私がこんなふうに言われなければならないのでしょうか。あんなことやこんなことがあったときも、きっと一緒に楽しんでくれているものだとばかり信じていたのにい。
「と、いうわけで」
 一言で話を戻す。
「キス、そんなにしたかったの?」
「え?」
「分かるよ。分かるけどね。……うん、どんなにぶっ飛んだ行為だって、理由があれば意外に納得するもんね。それに、こんな状況になったら、キスくらいしたってまあかまわないかなー、って諦めもつくよね。私も夢なら仕方ないなあって思ったもの。でも、やっぱりこんなのはずるいと思うんだ。ほら、恋人同士ならともかく、まだ告白もしてくれてないじゃない?」
「……」
 ふるふると震えている。いつもはそうはお目にかかれない、なかなか渋い表情だった。
「お前なぁっ!」
 叫ぼうとしたところを遮った。
「ファーストキスだったのに」
 ぐ。動きが鈍るのが見て取れた。
 私は追い打ちをかけた。
「……はじめて、だったのに」
 ぐぐぐ。彼、さらに固まる。
 私は付け加えた。
「こんなことしなくても、言ってくれれば……」
 しゅん。
 私、うつむく。
 彼は無言で唇を噛みしめている。
 二人、視線が合う。横から目を開けていられないほどの光が射している。オレンジ色の闇があたりを覆い尽くそうとする。風の冷たさが変わる。彼のにおい。柑橘系のシャンプーの。伸びた前髪が揺れる。切ってあげようかなあと私は思う。触れようとしてそおっと手を伸ばす。
 不意に、風が、ふいた。ざああ、と向こう側にある草の海が波打っていた。こちら側からあちら側へと過ぎ去ってゆく強い風が私たちを通り過ぎた。見えないはずのそのかたちが、押し倒された緑の跡で目に映る。私はその景色に一瞬、心を奪われた。薄暗くなりかけた空の、あの灼熱の色が、見渡す限りを橙と紫とに染め変えてゆこうとしていた。
 彼が私の視線の先を見遣る。
 隙が出来た。
 えいっ。
 彼は振り返りつつも上手に避けた。
「って、何度も騙されるかアホーっ!」
 向かった先には木があった。どんどん大きくなる木の幹の焦げ茶色に私は突撃する羽目に陥った。だが甘い。手をついて、そこを基点に体勢を入れ替える。勝ったと思ったときこそ油断する。彼の弛緩した肉体に手を添えて、するすると指先を這わせて……となんかエロティーックな気分になりつつ、目標補足。
 発射。
 唇を奪い取った。息が出来ないで、すぐに離れた。
 いや、もちろんもぎとったり、はぎとったり、ねじり取ったりしたわけではないのだけれど。
「……くっ……」
 彼は悔しさと悲しさと何か大事なものを失ったかのような切なさを語調に滲ませて、唇を来ていた服の袖でぬぐった。
「よし、勝った」
 私は勝ち誇った。あんまり無いのだけれど、ちょっとはある胸を張ってみる。
「勝ち負けの問題なのか。これ……」
「そうだよ。知らなかったの?」
「もうなんかどうでもいい」
「人生諦めるには早いんじゃない?」
 彼は疲れ切った様子で、重々しく口を開いた。
「つまりさ、これは、お前が愛の告白をするためだけに作った世界ってことでいいのか」
「そんなわけないじゃん。馬鹿じゃないの?」
 ぺたんと座り込んでしまった。見たところ立ち上がる気力もないようだった。
 私はほんの少し胸が痛んだ。我ながら照れ隠しとしてはひどすぎたかもしんない、と。
 まあ、でも、これはさっき知らないひと呼ばわりされた反撃のつもりもあったのだ。そこらへんの微妙な乙女心とか、鋼の復讐心とかをくみ取ってもらえたらいいなあとそこはかとなく思うのだった。
「ごめんね。大丈夫。安心して。ちゃんと愛してるから」
 心から告げた言葉は綺麗に聞き流されたらしく、彼はぼそぼそと独り言のように喋っていた。
「いつも思うんだが……お前、そんなに可愛いのに、なんでそんな中身なんだ……?」
「ふふーんだ。中身込みで私ですよーだっ」
 私はぷりぷりと怒った顔をしておいた。別に不機嫌でもなんでもないけれど、すねてみたくなったのだ。
 彼はしばらく私の顔を見つめていたが、難しい表情をして、手で自分の顔を覆ってしまった。悲しいことでもあったのだろうか。もしかしたら泣いていたのかも知れなかった。けど、さすがに聞くことは出来なかった。


 大きな木だから、二人が一緒に並んで寄り掛かったって、全然問題無い。だから私は彼の隣に腰掛けて、体育座りになると、膝に頭を乗せた。
 顔を覗き込んでみる。彼は静かだった。まるで、はしゃぎつかれた子どものように、黙りこくっていた。視線はどこを彷徨っているのだろうか。
 だから私から話し始めた。
 この夢の在り処を。
「思い出話をしよっか」
 彼は反応しない。
「ずっとずっと昔、まだ子供な私たちが、もっともーっと幼くて、なんにも分かっていなかったときのこと」
 彼は顔を上げなかった。でも聞いているのが分かった。
 私は色々なものを込めて、声にする。
 風が強くなった気がした。


 彼の家族と、私の家族。
 お隣さんだからって以上に、気が合ったのだろう。いつの間にか親同士で話が付いて、総出で遊びに行こうってことになった。
 今考えれば、互いの両親は、私たちが出逢ったときからいがみ合っていたことを気に病んでいたのだろう。だからつまり、これを機会に仲良くなってくれという意図があったわけだ。
 私と彼との喧嘩なんて、みんな、他愛もないものだって思っていたに違いない。でも、子供にとって今その瞬間にある感情は世界のすべてなのだ。狭い世界だなあと思う。思うけれど目の前にいる彼との戦いが、私の人生のほとんどを占めていたのだ。小さな世界いっぱいに溢れんばかりの怒りや、敵意や、その他もろもろ。簡単に塗り替えられるものではなかった。
 だからたまらなかった。同じ場所で息を吸うのも、目が合うのも嫌だった。話したくなかった。声も聞きたくなかった。親が彼に気を遣って言葉をかける姿すら苛立ちの対象になった。でも直接文句は言わなかった。なんだか負けた気がするから。いろんなことを考えながら二人して無言でにらみ合っていた。彼も同じだった。険悪な空気だけが濃くなってゆく。
 彼の親はカメラを手にこの旅行に来ていた。私の親はお弁当を持ってきていた。中には彼の好物のホットケーキもあった。子供ばかりが年相応に振る舞った。つまらないことで張り合って、言葉もどんどん少なくなった。
 そのうちに家族たちも、私たちに構うのにうんざりしてくる。悪循環だ。どうしようもない。だって悪いのは相手なのだ。私が引く理由にはならない。なるわけがない。刻一刻と、張りつめた雰囲気は怒りや悪意を孕んだものへと変質してゆこうとする。
 私と彼は、その空気のおかしさに気づいていても無視して、ひたすらに罵り合っていた。目的地への到着まで放っておかれることになった。私たちは家族の視界から外されたのだ。二人ぼっちになったのではなく、ひとりぼっちが二人になった。
 こんな状況が即座に改善されるわけもない。
 行き先も知らないまま連れて行かれた高原だか牧場だか、私たちはとにかく草がいっぱい生えた場所へと降り立った。車から抜け出すと、狭苦しくて息が出来なかったことが嘘みたいに、解放された気分になった。
 でも、隣には嫌なやつがいる。
 晴れかけた気分はどんどん曇ってゆく。
 だから呆れた親たちの目が、自分たちの楽しみへと移るのは当然だったと言える。遊べるものは何かしらあったはずだ。わざわざ計画したのだし、何もない場所を選ぶとは思えない。
 お隣同士の両親にとって、誤算だったのは、ぶーたれていた私たちがいつの間にか、連れだってその場から黙って動いてしまったことだった。
 どんどん進む私。
 黙ってついてくる彼。
 まるで、決闘場にこれから向かう戦士みたいな顔をしていた。笑うなかれ。本人たちとしては、これでも真剣だったのだ。
 で。
 どうなったかと言えば、迷った。なにしろ高校生の腰くらいの高さがある草だらけの原っぱだ。幼い子供の視界など、すっかり遮られてしまう。無謀な子供自身は、かき分けているうちに自分の位置を見失って、そのまま不安に埋もれた。
 でも、どうしてか、私たちははぐれなかった。
 なんでだっけ。
 呟くと、傍らで黙っていた彼が、顔を上げて、ふてくされたようにこう答えた。
「お前が先に行って、俺が置いていかれそうになったから、無理矢理手を繋いできたんだろうが」
「そうだったそうだった」
 懐かしいねえ、と私は笑った。
 変わらないよなあ、と彼は肩をすくめた。


 前が見えない以上、仕方なしに空を仰いだ。さっきまで青かった気がしたのに、いつの間にか夕暮れが空を彩っていた。
 それだけならまだいい。山に近かったのだ。それがどういう結果をもたらすか。天気は変わる。くるくると、私の表情みたいな早さで。
 みるみるうちに頭上を雲が覆い尽くした。灰色がのっぺりと広がっていった。そして足下も覚束ないほど暗くなったのだ。
 こうなると、勢い任せに動いていた子供であっても、恐怖を覚えるようになる。


「おぼえてる?」
「何を」
 うん、何をだろうね。自分が何を言い出すのかと私自身分からないまま話を続けている。
「あの木の根っこで私が転んだこと」
「けつまづいたのは俺じゃなかったか」
「そうだっけ」
 言いながら記憶と照らし合わせる。そうだったような。どうだっただろう。ううん。
「ああ、そうだ。確か、俺が倒れたのに巻き込まれて、下敷きになったまま、ふくれっ面でお前が言ったんだ」
「なんて」
 彼は鼻をかいた。一言一句、確かめるような速度で、言った。
「『そんな格好じゃさむいでしょ。あんたのこと、嫌いだけど、いっしょにいてあげるから』ってな。手を握ったままで、顔を真っ赤にしてた」
 私は、うーん、と首をかしげて考え込んだ。記憶とは少し違っている。でも、手を握っていたことは、その通りだ。だから一緒に倒れ込んでしまって、それから、それから?

 なんだっけ。
 とても大事なことを思い出そうとしている。
 えっと……

 二人の家族が、はぐれた私たちを見つけたのは、ずいぶんと時間が経ってからだった。私たちが悪いのだ。眠っていたせいで、呼ぶ声なんかとんと無視していたから。
 あとであんな状況でよく寝ていられたなあと笑われた。もちろん無事だったからこその笑い話だ。
 でも、眠っている私たちは、とても仲がよさそうだった。そのときを映した写真がある。彼はずいぶん嫌がっていたけれど、私は教えて貰ったその日に、焼き増しをお願いした。
 新しい宝物になった。
 ふたりぼっちの私たちがいた。我ながら、ひどく可愛らしい寝顔だった。
 それから……考えて、考えて、うめいてみる。
 それから?
 違う。この先は、変わってしまったあとのこと。
 もっと前。
 私は手探りで、闇の中を進んでゆく心持ちになる。彼はいきなり口をへの字にして悩み出した私に、どうかしたのかと声を掛けてくれた。私は答えない。なんだっけ。だんだんと焦ってくる。私は何を忘れているのか。彼の顔をまじまじと近距離から見つめて、その瞳の奥にある光を眺めて、しばらく息をするのも忘れて、思い出そうと努力する。


 通ってきた草原の緑が、急速に色褪せてゆく。遠くの山のなだらかな稜線がほつれて溶けて、平べったい空に連なると、その境界はやがて曖昧になる。世界は緩やかに明度を落とし、段階的に暗闇へと没してゆく。それは真の闇ではない。太陽の沈んだあとの、ひとのいない夜の暗さだ。だがそれもいつしか完全な暗黒と化してしまう。光という光が失われてゆくのを感じた。夢の終わりだ。目覚めは近い。
 彼はこの終わりがおそれるべきものではないと、本能的に悟っているのか、騒ぎ出す気配はない。私だってそれくらいは分かっているけれど。


 世界の端から崩れてゆくのを感覚として得る。そうして闇が増えてゆく。……違う。
 ほんとうは、すべては暗闇のなかにあるのだ。そこに光が当たったときだけ、私たちの目に映る。ずっと見えなかっただけで、何もかもがそこにあった。だから迷うことはないのだ。道など見えなくとも、進んでゆくべき方向を今なら知っている。歩いていけばいいのだ。ただそれだけで、たどり着ける。
 そして私は見上げた。大樹を。
 本当は、こんなふうに緑葉が茂っているはずもない。あれは冬だったのだから。いいや、それ以前に、この木はもう朽ちていた。枯れゆくその途中だった。正面から見たなら気がつかない場所。後ろ側に回ってみる。ぽっかりと空いた穴がひとつ、ひどく深い闇をその奥底に湛えている。明るく青かった空はもうない。豊かな緑も黒で塗りつぶされてしまった。光源も無いのに仄明るく輝きを発しているこの木に、真剣な私の視線が集中する。
 中には何が入っている?
 違う。
 そこに何かがあるというのなら、中に入れたものが存在して、誰かが入れたということで、それを思い出そうとしているのだから、つまり私が何かを持って行って、そこに隠したのだ。


 そして私は思い出す。
 夜の青を閉じこめた、うつくしい宝石を。


 それは、木の根もとで転んで、二人一緒に倒れ込んで、起き上がったとき。
 私は言った。
「そんな格好じゃさむいでしょ。あんたのこと、嫌いだけど、いっしょにいてあげるから」
 ふん、とそっぽを向いて。
 彼は私の言葉に、すぐさま言い返してきた。
「不安なら、なにかしゃべってやるよ」
 少しの沈黙。
 だって、何を話せばいいのか、分からない。
 寒さのせいか凍えていたけれども、耳まで真っ赤になっていたのは二人ともだ。どちらからともなく、旅行に持ってきたものを見せ合った。
 私はポケットの中から、空っぽの宝石箱ひとつ。もちろん、おもちゃの箱だ。指輪を入れるのよりは大きくて、本物の宝石入れと比べものにならないほど小さい。
 ふと、車中でふてくされていた理由も思い出した。母に騙されたのだ。この中に入れるのに相応しい、綺麗な石が売っている場所に向かうって。
 私はそんな弱味を、つぎはぎな言葉で語った。こんなところに来たくなかった。つい、そう漏らしたのだ。
 彼はポケットの中を探って、しばらくごそごそとやっていたかと思うと、親指くらいの大きさの青くて透明な石を取り出した。私に見せつけるように、彼は天に翳した。ほとんど雲に隠れてしまった月の光が、何の偶然か、私たちの真上に降り注いだ。
 石は、暗く透明な光で、煌めいた。
 彼は私に手渡してきた。
 雲の裏側にある、晴れた日の星の瞬く夜空そのものを閉じこめたみたいだ。重さなんか感じなかった。本当に空みたい。
 私は、彼に対する敵意も何もかもそのとき忘れて、手の中の石の綺麗さを素直にそう褒め称えた。
 夜の青。
 彼はうん、と言葉少なく手を出した。
「宝石箱、貸して」
 私はどうしてと問うこともせず、箱を渡した。
「石も」
 うん。
 言われるままに返した私の見ている前で、彼は箱の中にその石をしまい込んでしまった。なんで、と疑問符だらけになっている私に一言、こんな言い方をして、箱を戻した。
「開けると、もう光ってくれないから」
 このまま放っておくとまたすぐ普通の石に戻ってしまう。箱の中にあるうちは、そのまま輝いてくれる。とぎれとぎれの口調で、そんなふうに説明された。
「開けちゃダメだぞ」
「うん」
 でも、私は自分のことをよく知っていた。きっと、すぐに箱を開けてしまうだろう。そしてせっかくの魔法が解けてしまうのだ。それから後悔しても遅いのに。
 色んな話をした。それまでなら考えもしなかったようなことまで喋ることが出来た。会話をしながら、私は箱をぎゅっと抱きしめていた。腕の中で押さえつけるように、抱きしめていた。
 やがて子どもの寝る時間が来る。
 緊張は己が忘れさせていた疲労が頂点に達すると、眠気を増幅させる暴挙に出てくる。幼子は場所もわきまえず、置かれた状況も気にせず、不安を置き去りに、睡眠を取ろうとする。
 彼が先にまぶたを降ろした。
 私は少し長く起きていた。
 あっちから見て、こっちから見て、彼のことを見つめた。そのうちに箱に意識が向いた。堪え性がない。どうしたものかと途方に暮れた。木を見た。大きな木だ。何か、解決策を知っているかもしれない。声に出さずお祈りをしてみる。何が起きるわけもない。私は眠気に耐えながら、ぐるりと一周する。
 そして見つけてしまう。最高の隠し場所。きっと誰にも見つからないと、子供心に考える。もちろん、誰だって思いつきもしないだろう。そこに子どもの宝物が入っているなんて。でも、子ども自身だって忘れてしまう。直後に、何か嬉しいことでもあったら、すっかり失念して。
 そうして私は、一番の宝物を、自分の手の届かない場所に隠して……失ったのだ。


 私は木のうろの中に、懐かしい箱を見つける。でも、手を伸ばさないでそのままにした。
「何があったんだ」
 彼は聞く。
「思い出、かな」
「ふうん」
 それ以上は言わなかった。私の行動を不審に思った素振りも見せなかった。見せなかったのだ。私は、どうしてか嬉しかった。
「じゃあそろそろ、帰ろっか」
「いいのか」
 そもそも、もうここから行ける場所など無かった。あちこちから青白い光が吹き出していて、道なんかとうに消え去っている。
 どうやって出ればいいのやら。
 さてさて。
 腕を組んで、考え込む。
「ところで」
「うん?」
 彼が訝しげに私の顔を見下ろした。
「たとえば、眠れる森の美女が夢から覚めるとき、必要なものってなんでしょう」
「またそれか」
「うん、また。そろそろ、決心ついた?」
 ここまできたら覚悟を決めてもらいたいものである。
 でもさ。でもさー。自分で自分を囃し立てる声より、引き留める声の方が強かったりもする。
 ほんとうは、乙女心ってやつは、女の子にしか分からないものじゃなくて、女の子自身だってよく分からないものっぽい。
 あーあ、なんで好きになっちゃんだろう、とか。なんで、こんなささいなことが、恥ずかしくて仕方ないんだろう、とか。
 そんなの知らない。
 私だって、どうすればいいのか分からない。どうして。なんで。こんなにも、こんなにも、私ばっかり悩んで、考えて、私から告白みたいな真似をしなきゃいけないんだ。
 だんだん腹が立ってきた。
 彼はとぼけた表情で、ふるふると拳を震わせている私の顔をまじまじと、不思議そうに見つめてる。
「そっちからキスしてくれる気はある?」
「う」
 照れられてしまった。
 おーけーおーけー。
 そういうつもりならと、私は、
「届け、この想い!」
 こう叫んで、腕を、まっすぐに突き出した。
 てやっ!
 自分でも惚れ惚れとするような軌跡を描き、小さな拳は彼の顔面に突き刺さった。固いものに打ち付けた感触と、衝撃が、指先から伝わって、痛かった。こんなことしたくなかったけど。胸の奥まで痛かったけど。
 好きなひとのために、してあげる。それが愛かもしれない。
 この衝撃は、曖昧であやふやな夢をうち砕くのに十分な威力があったみたいだ。あたりの崩壊が早まっていくのを感じた。
 ただ、自分のためにも、この優しい夢のためにも、叫んでおかなければならない。
 息を吸い。吐いて。落ち着いて。頭空っぽにして。それから力を込めて。
 弱気になっている自分を叱りとばすために。
「このアホーっ! だいたい、こんな都合の良い夢がそうそうあってたまるかぁーっ!!」
 突然、支えを失ったみたいに、空が落ちてきた。透明な世界が音も立てずに崩れてゆく。
 そして、視界の隅で、もはや遠い記憶の果てにあるはずの、あの夜の青が、ひっそりと輝いた。……そんな気がした。

 あの日から私は。
 ずっとずっと夢のなかにいるみたいで。
 でも、人間にとって夢っていうのは、つまり現実のことだ。どこにも繋がっていないだけの。そのときだけ輝く、一瞬の。
 それをぎゅっと掴まえて、強く握りしめて、ただ離さないでいるだけ。結局のところ、私に出来るのはそれくらいなのだ。




 開け放たれたドアが見えた。変わらぬ朝の光が揺れていた。
 目が覚めた彼と私は、互いの顔を見合わせる。
 今のが夢だったんだってことを確認するような、夢じゃなかったんだって決めつけるような、どちらとも言えない表情で。
 ちょいちょい、と私は人差し指でこっちに来てと彼に伝える。
 今さっき殴られたことを忘れたような素直さで、彼はこちらにまっすぐ顔を近づける。
「おはよう」
「……うん、おはよう」
 まだ夢心地なのか、彼はぼんやりと挨拶する。
 そして私は、現実では、これまで私の方が、ずっと恥ずかしがっていてできなかったことをする。
「きみのことが、好きです」
 そう言って、私は彼に顔を寄せる。顔は赤くなる。他の言葉なんて出てこない。だから。
 返事はもう、待たなかった。


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