三学期の終わり。
 静かに日々は流れ、雪色に染まっていた校舎を誰もが寂しげに見上げている。
 もうじき卒業式がやってくる。
 どこか春の色を運んできたかのような、冷たくも優しい風。吹かれて髪を散らされた。
 木々は枯淡とも表せるような閑寂と共に。

 誰もが、待っていた。
 この空気が終わるときを。
 暗く冷たい、凍える今が終わることを。
 悲しくも涼しげな、冬の季節が去ることを。


 移ろう季節を祝うように、最後の宴が燃え上がる――







    『duelist』 作者:yoruha







 この学校では、三年生に上がりしばらく経った後、卒業前に大きなイベントが存在する。
 例として挙げるとするならば、年度の終わりごろに行われる大規模な舞踏会。みなタキシードにドレス、華美な格好をして着飾って自らを示すものだ。これに参加する者は自主的に学校へと向かい、会場へと入ればいいことになっている。規則を作ったのは生徒会だった。
 学校内の全ての行事は、予算編成から最後の後かたづけまでが、生徒会長の許可と指揮によってのみ執り行われる。
 そこには教師たちの介入する隙はない。この学校における生徒会は、独立した一個の学内機関なのである。生徒会そのものが組まれた予算は学校が出しているものではなく、生徒達の献金によるものでもない。生徒会そのものに対して多額の収入がある、という事実があるからだ。収入、支出の出納は内部の監査役に任されているし、部活動への資金注入等々。しかも、正式に認められているのだ。最高機関。学内規則の認定廃止から校内購買の予算まで。

 まさに、凶悪なまでの専制君主による独裁政治、とレジスタンスは罵った。

 この生徒会における会長たる久瀬。名前はまだ無い。……もとい、名前を付け忘れられた可哀想な少年というわけではないが、生徒会長の職に就いたころから、いつしか誰も呼ばなくなったがために完璧に忘れ去られた久瀬の名前に関しては――それはまた別のお話。なにはともあれ久瀬、とにもかくにも久瀬である。彼はどうしようもなく焦っていた。
 彼が焦る原因はただひとつ。もうすぐ卒業していく三年生たちの行動如何によって、現生徒会長である久瀬は、あるいはただの一般生徒へと陥れられかねないのだ。
 何故、と普通は思うかも知れない。しかしここは政界の黒い裏につながりのある学校である。だからこそ。だからこその生徒会の執政なのだ。
 ならばその生徒会の頂点である限り、久瀬にとっては全く心配なぞ要らないではないか、と賢明な諸君等は思われるであろう。
 しかし、少しだけ待って欲しい。その理由はすぐにでも明らかになるのだ。もうしばらく語り手のおしゃべりに付き合ってもらいたい。
 さて、そんな権力志向のなかにおける独裁能力を持った生徒会長であるが、彼は『選ばれて』なった生徒会長ではない。『選ばせて』造り上げられた張り子の虎でもない。選択肢など存在しない。ただ筋書きに載せられてなった職だ。職務を全うするのは久瀬の意地であり、誇りであり、そして使命であった。
 選挙で受かったのではない。他になるべき全ての候補者達が辞退したために、たった独り会長職に就いたという、ただそれだけのことだ。すでに卒業した先輩の、推薦ひとつだけが彼の背景だ。生徒会副会長だった人物には、次の生徒会長を推薦できる特権がある。そうして、ただ一人生徒会長の座を約束されてしまった。断れるわけがない。
 それはどうしようもなく辛かった。そう、彼は辛かったのだ。
 久瀬は生徒会長として、学校全てを自らのものにしなければ気が済まなかった。誰と争ったわけでもなく、ただなってしまった。その事実がどれほど彼を傷つけたのだろう。もはや知るものもいない、その真実に。誰もが忘れてしまった、この事実のせいで、どれほど彼の――
 学校では二年で生徒会長を降りなければ、三年生の秋ごろまで続けることが出来るという奇妙な風習があった。自ら職を辞すことの出来る機会は二回。二年生時の冬か、三年卒業間近の秋。
 久瀬はそれを利用した。利用、しなければならなかったのだ。そうしなければ、彼の職務は危険にさらされてしまうのだから。初めは与えられた役職だったとしても、自らが望んで学校を守ると誓ったのだから。
 生徒会本部室。学校内でも奥深くの地に存在する秘密会合の部屋。別名職員室の先にあるトワイライトゾーン。肉体派体育教師達の汗にまみれる異界を抜けなければそこに辿り着くことは出来ない。生徒会関係者以外で向かったことがあるのは、おそらく倉田佐祐理嬢のみであろう、と言われている。教師も近寄らないほどの場所。突けば書類が崩れ、生き埋めになりかねないほどの危険な場所。迷惑千万な生徒会。聖域にも似た安息の地。
 だが、ここにいるべき久瀬の姿はない。
 生徒会の人間たる誰もが、ここにはいなかった。時期的には、くだらない行事の整備をしているわけでもないというのに。
 不明瞭な暗幕は開かれているが、それでも曇った空気が部屋を満たす。濁った澱のように沈殿するのはこの部屋の主に向けられた悪意か。

 ガタンッ! とドアが乱暴に開かれた。
 続いて地面を踏み抜くような乱暴な足音三つ。がん、と大きく部屋が揺れた。
「止めろっ。この部屋を壊す気かお前らっ!」
「うるさいわね。あたしたちは、貴方を助けてあげる、って言ってあげてるの。分かる?」
「そうそう。美坂がこんなにも協力的に微笑んでるんだからちゃんと手伝ってください、とお願いしとけよー」
「北川、美坂さん。……頼むから出ていってくれ」
 そこに来たのは三名。生徒会長たる威厳を何処かに置き忘れたかのように震える久瀬と、美坂香里と北川潤。
 睨み付けるように久瀬は、じっと見ていたが、しばらくしたら顔を下に向けた。こぶしは力一杯握りしめられ、ただ振り下ろす場所が無い。
 一年生時、彼らは同クラスだった。久瀬一人が二年生になってから別れる羽目になり、彼らとはそれ以来疎遠だった。久闊を叙す、という雰囲気ではないが。
 生徒会の仕事は、常に忙しい。空き時間の少しもあれば旧交を温める、などと洒落込むことも出来たのであろうが。
 この学校における生徒会とは、全てを司る最高機関の別名でもある。
 あまりに忙しく、会う機会も無くなった久瀬を責めるつもりなど北川も香里も一切持ち合わせていなかった。彼らはむしろ、助けに来たのだ。
 危機に瀕した、久瀬を。
 香里がふぅ、と息を吐いた。北川が動く。
「久瀬。いいのか? レジスタンスに狙われてるんだろ?」
「いいんだ。これ以上はどうせ耐えられそうにない。分かっているのだろう? 僕にはもう、あの人数と戦える力なんて無い」
「――ったく、だから、オレたちが助けてやるって言ってるんだぞ」
 北川が呆れたように肩をすくめた。生徒会室はどこか騒がしい空気に塗り替えられたが、しかし主自身には笑みの一つもない。疲れたような表情で口を開く。
 マホガニー製の机に置かれた安っぽい置物を久瀬は持ちあげ、手でもてあそぶ。
 開かれれていたドアが風に押されたか、激しく叩き付けられたように、閉まった。うるさかった。
「君たちに助けて貰うわけにはいかない。だいたい、相手はあの倉田さんと川澄だ。勝てると思うか?」
「ふん。生徒会長がそんなに弱気でどうするんだ。ふたりとも、別に悪人でもないだろうに」
「だからこそ、困っているんだ。あれで悪人ならば僕だって別に、卑怯な手のひとつやふたつも使える」
 ひょい、と重たそうな置物を北川に投げつける。
 久瀬としては、あまり深く関わらないうちにふたりに帰ってほしかった。
 北川は片手で受け止め、ちらりと一瞥。そのまま机の上に戻す。手を置いて、息を吐き出した。
「あの、ガラス……だったか? 誤解だったんだろ? だったら敵対する理由ないじゃんか」
「いいか北川。彼女たちは、単にレジスタンスの連中に頼まれているだけだ。おおかた僕が、また川澄舞を退学させる気だから、それを止めるために徹底的に叩かないといけない、とか言ってるんだろう。だが、それは解けない誤解でもない代わりに、僕が解くべき誤解でもないんだ。確かに一度、退学寸前に追い込んだのは事実で、それをやったのは僕自身だ。これはツケだと思って、潔く払わなければならない」
 香里は黙ったまま耳を傾けているのかいないのか。薄暗い空を見上げるように、ガラスの窓を見つめている。鉛色が久瀬の心情を表しているみたいに重苦しい。どこか寂しげな校舎の風景。ひとの姿は消えていて、もはやどこにも人影はない。本来、今日は休日なのだ。久瀬がときおり生徒会室に篭もって書類整理をしているのは周知の事実であった。
 そして、そこに来たのが北川と香里の両名というわけである。
 コン、と香里の覗いている窓に近づいて叩く久瀬。校内を憂う翳りある顔。冷たい目に、どこか不安げな色を滲ませ、それを掻き消すように決意の色を塗り固めたような瞳の光。北川が見つめていた。悲しげな顔。寂しげな笑み。学校を見る久瀬の視線だけが優しかった。
「――仕方ないんだ。僕は、生徒会長として彼女たちに真っ向から」
「久瀬君」
 口を閉じたままだった香里が、ここに来て久瀬の言葉を遮った。
「あのね。貴方がどうであろうとあたしは構わない。ただし――」
 一度そこで言葉を止め、嬉しそうに校舎に目を向けてから、久瀬に向かってにっこりと笑いかける。
「ただし、栞が進級できるという件に対しては、お礼をしないとあたしの気が済まないの」
「いらない。あれは彼女の事情と、努力についての報酬だ。僕がどうこうしたわけじゃない」
 即答して、久瀬が振り返る。
 美坂栞の病については、久瀬は理解を示した。快方に向かった栞の学力に関してのみ進級試験を行うことを決めたのは、彼の判断だった。
 香里に勉強を教わっていたおかげで学力はかなりのものだったため、無事に合格した美坂栞は二年生に進級できる。来年度からは元気に登校してくることだろう、と久瀬は書類に判を押しながら笑っていたらしい。――という話は、校内でも大珍事として有名であるし、事実でもある。
「学力があって勉学に励もうとする人間をふるいに掛けて落とすほど、僕は馬鹿になりたくないんだ」
「ふぅん。でもね。あたしとしても貴方がどういうつもりでこれまでの校内整備に取り組んできたか知っているの。徹底的な制御と風紀の正常化、ね」
 トン、と一歩踏み出す香里。
 久瀬が今までやってきたことは、全てが校内の空気を変えるためだった。更正の可能性のない者には、かなりの調査をしたうえで、それから粛正へと走っていたし、やっていたことそのものは学校のため、ただそれだけだった。更正できる者には、幾度もの機会を与えていた。
 締め付けが強すぎたこと、急ぎすぎたことが、新聞部の調査と考察の結果である。
 しかし彼の行動は、川澄舞の件での失敗によって、それはあらぬ方向へと誤解を招くことになってしまった。
 久瀬が望んだのは、こんなことではなかったのだ。
 彼女の行動は、久瀬にとってはレジスタンスの先鋒であったようにしか思えなかった。間違いだと思い知ったのは佐祐理の後々の行動と、彼自身が目撃してしまったことによる。久瀬は事実を知り、皆勤を捨て一日休みをとって、舞の家に謝罪に向かっていた。会話は無かったが、久瀬が頭を下げたことについてはすでに校内に知れ渡っている。
「レジスタンス、どうするつもり?」
 校内に組織された、対久瀬、反生徒会という看板を掲げた一個の塊。これが、久瀬にとっての極めて厄介な、それでいて逃れられない悪意だった。
 彼らは久瀬の行為全てに対し反抗した。曰く、不良の退学は生徒会権限における権力暴走である。曰く、久瀬生徒会長はその権能を自らの私利私欲のために使っている。曰く、久瀬は暴君である、故に我らに権力を明け渡せ。曰く、生徒会は暴圧を以て我らを制圧するのであるからして、極めて迅速に糾弾せねばならない。
 嫉妬だったのだろう、と久瀬は思う。さらに冷静な立場から見るならば、単なる子供の我が侭ですらあったのかもしれない。レジスタンスの中心たる人間が何を考えているのかを知る術はなくとも、それくらいは予想が付く。権力に対して多くの人間は反感を覚えるものなのだから。
 初めに存在した権力機構は、次に生まれた組織にとっては邪魔になるのだ。当然のこと。
 それでも久瀬が今まで生徒会を運営してこれたのは、やっていたことに筋が通っていたからだ。失敗はしない。間違いは犯さない。あらゆる悪を滅ぼせ。これぞ久瀬生徒会の方針だった。そして権力に逆らう者とは、学校内の風紀を乱す悪である。
 だとしても。
 川澄舞は悪ではなかった。むしろ校舎を守っていた。知ってしまった今となっては久瀬は最早、合わせる顔もない。
 困り焦って迷い惑って、こんな事態が起きてしまったのだ。
 だが、善良であった川澄舞と違い、善良を装っていたレジスタンスは本来正義ではない。
 すなわち――

「クーデターなんて、本気で起こるとは思ってなかったわ。起こそう、なんて考える馬鹿がいるとは思ってなかったけれど、やられるのも間抜けよね」
「言わないでくれ。思いっきり実感しているところなんだ」
 途端に情けない顔になる久瀬に、北川が突き放すような声で訊いた。
「んで、味方のいない正義の久瀬生徒会長殿はどうするつもりだ? オレたちの他に手助けしてくれる人間がいると思うか?」
「……だが、」
「『だが、』なんて格好つけている場合じゃないの! やるの? やらないの?」
 すごむ香里。
 怯える久瀬。
「しかし、」
「『しかし、』とか言っても、オレらがいないとそろそろここもヤバイんじゃないのか?」
 真剣に北川。
 考え込む久瀬。
 逃げるように久瀬が一歩退いた。考え込む。確かにもうすぐ限界だ。
 彼は頭を抱えた。がくがくと体が震える。正確には香里に肩を揺さぶられてカクンカクンと頭が前後に振れていた。
 どこかで、プッツン、と何かが切れる音がしたかのように、ふたりには聞こえた。
「……君たちは僕にどうしろと言うんだっ! 助けを乞えとでもっ!? それとも逃げ道でも用意してくれているとでもっ!?」
「あ、キレた」
 久瀬が絶叫し始めた。だんだんと表情は人間味を帯び、声は早口気味に、顔は真っ赤だった。
「川澄のときの失策のせいで信頼も地に墜ちた。仲間であるべき生徒会の連中は僕に不満があったんだろうな、さっさと消えた。ここにはもはや誰もいない。僕ひとりで立ち向かうにはあまりにレジスタンスは人数が多い。荒事専門の連中がほとんどだぞっ! 今更逃げる? 逃げてたまるかチクショウ!」
「おーい久瀬くーん」
「学年主席である美坂さんの考えでこの絶体絶命で四面楚歌、八方塞がりのこの現状を打開できるのか? 無理だ。不可能だ。ああ、僕だってこれでも学年二位の成績を取れるくらいの思考能力と知能はある。だいたいあっちには倉田さんがいるんだ。単純な能力差でも駄目だ。しかもどう考えたところで圧倒的に敵が多すぎる。無茶苦茶な手段でも使えそうにない。権力を持たない権力者なんて、金を持たない金持ちと同じくらいに無意味だぞ。政治的駆け引きは拮抗状態にこそ威力を発揮するんだ。こんな襤褸をまとって特攻するくらいしか選択肢が無いような現状で勝てるか!」
 久瀬には時間が残されていない。
 もうすぐ行われる選挙でおそらく失脚させられるのは確実だ。どれほどに汚い手段であろうと、そうなってしまってはもう遅い。しかも、それまでに対策を考えるにしても捕まってしまうわけには行かないのだ。姿を現してしまえば捕まる。しかし表に出なければ手も足も出ない打ちに被選挙者不在の不正選挙となるだろう。選挙ではないか。不信任投票かもしれない。後釜に収まるのは反生徒会の一人に決まっている。久瀬は頭を抱えた。
「もしかして、壊れ気味だったりするのかしら?」
「心意気で戦えるか! 根性で勝てるか! 努力するには時間が足りない! さあどうする? どうするどうする…」
 ほとんど言い尽くしたらしく、最後の方は声が小さくなっていった。
「で?」
「……で?」
 冷めた顔で訊いた香里に、久瀬が不思議そうに聞き返す。
 彼女のやれやれ、と言いたげな表情。
 そのまま混乱する。なんで美坂さんは冷静にこちらを見ているのだろう、と。
「誰が、あたしたちふたりだけだなんて言ったかしら? 久瀬君」
「ま、そーゆーワケだ。お前さんが絶望的な状況なのは知ってるさ。それでも助けてやる、と俺たちが言ってるんだ」
「どうするのか早く決めなさい。貴方は逃げるのかしら。それとも、あのレジスタンス連中をどうにかしたい?」
 狭い生徒会室に、声が響き渡る。香里は自信を持った笑顔で。北川は不適な笑みで。そして久瀬は、子犬がすがるような顔つきで。
 じんわりと、熱が篭もる言葉。
「……君たちは、なんで」
「これじゃあ、栞が学校に来られないのよ。全く、良くもまあこんなに馬鹿ばっかりいっぱいいるわよねぇ」
「あー。実はな、相沢とかが人質に取られてるんだよ。レジスタンスに」
 レジスタンス。彼らは表向き、反生徒会の崇高な目的を持った集団、として活動している。
 だが裏では危険な裏取引――試験問題の売り買いや校内暴力等々のもみ消しなど、生徒会に敵対するために黒い部分の人間が集まってしまったのだ。
 だから、生徒会は強力化した。
 だから、レジスタンスは凶悪化した。
 どちらが正義というわけではない。どちらも正義というわけではない。
 彼らは絶対の敵として生徒会を相手と定め、久瀬はひとり、学校を守ろうとしていただけなのだから。
 ただ、川澄舞のことだけが気がかりだった。知ってしまえば、謝らなければならない。そうしなければならないのだ。
 彼は誇り高かった。間違いを間違いだと認めるほどには。
 どうしようもなく不器用だというのに、彼は逃げるわけにはいかなかった。
「だから、川澄先輩や倉田先輩もお前さんと戦わざるを得ない、というワケだなこれが」
「……なに?」
「あのふたり、相沢を人質に取られてるんだってば。そうじゃなきゃわざわざ争わないだろ?」
「そうか……。ならば――確かに」
 久瀬が静かに首肯する。退学処分後に、夜の校舎で川澄を見たのがきっかけだった。退学させた理由と、あれほどまでに頑なだった原因。
 今でもあれがなんなのか、久瀬には分からない。けれど、確かに彼女は校舎で戦っていたのだ。得体の知れない、悪夢のようなものと。
 それを見てから、考え苦悩し、思考しつくして下した結論は、彼女の退学取り消し、だった。
 正統な理由ではなかったから、久瀬は打ちのめされていた。だが、退学を取り消したことでレジスタンスの連中が勢いづいてしまった。
 奴は弱気になっている。今ならその権力すらも脆いのではないか、と。
 失策……失敗だった。
 久瀬は、川澄舞の退学を取りやめさせたことは間違いだとは思わない。
 だが、それを細工せずに行動したことで、レジスタンスに弱みと思われてしまったのだけが後悔だった。
「倉田先輩、喜んでたんだぞ……『久瀬さんがようやく舞に対しての誤解を解いてくれましたーっ。あははーっ』ってね。別に川澄先輩も怒ってないらしいし。相沢がしつこく聞きだした情報だから確かだしな」
「そうか……」
 絶句。久瀬は苦悩する者の表情で、北川の言葉を反芻していた。
 このままでいいのか、と久瀬が自問する。
 彼に向けて北川が笑いながら言った。
「な。分かったろ? そういうわけで、俺たちはお前さんに協力してやる。どうさ、まだ駄目だと思う理由はあるか?」
「……ふむ」
 落ち着いてきたらしい。薄暗い部屋のなかで、静かに答えを待つふたり。久瀬はしばらく顔を背け、見せないようにしていた。
「どうやら、断る理由が無くなってしまったらしい……」
 背中を向けたまま、ぽつり、と。
 香里と北川は、互いに顔を見合わせ手をたたき合った。よっしゃ、と口に出さずに笑みで表す。
「で、どうするつもりなんだ? 彼らは、直談判なんて聞きそうにない相手だ。僕を権力の座から引きずり落とすために、教師達を懐柔してあるらしい。どうやってか知らないが、三日後の放課後に不信任投票をするという情報はあるにはあるが……ほとんどの生徒が彼らを恐れて言いなりだ。ちなみに。レジスタンスの誰かが生徒会を乗っ取った場合、まず確実に僕の専制とやらよりも酷い恐怖政治が待っているだけだろうな」
 饒舌気味に、久瀬が告げる。今の時点では打つ手がない。だからこそここに立てこもっているのだ。
 暴力を自らの武器と勘違いしているレジスタンス。彼らの武力派連中が久瀬を捕らえるのも時間の問題だった。
 ここではそう言ったやり取りが日常茶飯事なのだ。表面化する争いは氷山の一角でしかない。

 しかし、ここに来て全面対決の機会となった。久瀬生徒会長一人対、裏で彼を疎ましく思っていたレジスタンスの面々。
 表向きは生徒会の独裁を打ち崩すために、という名目。権力を持った瞬間にはあまりに危険だ。
 ならばどうするか――この問題を表面化してしまえばいい。それも、レジスタンスの悪行全てを掌握した上で。

 それくらいは香里が考えていないわけがなかった。久瀬に微笑みかける。
「とりあえず、倉田さんが関わっている以上、裏の大きなのは動かないわ。だから、あたしたちは表でレジスタンスを叩きつぶせばいいの。簡単なことよ。証拠なら今、相沢君の友人数名が集めているし。最悪でも相沢君さえ取り返せば良いわ。倉田さんたちは彼の身柄があるから、レジスタンスに従っているに過ぎないしね」
「しかし、放送室は押さえられているし、今は教師も頼れない……いや、彼らも身動きが取れない、が正解だな。後々、僕が権力の座から蹴落とされた途端に強大な権力機構である生徒会が奪われてしまうわけだから……大きな場が必要、ってことか」
「そうね。まあ、相応しいのが明日あるから良かったわね。タイミング的には最高でしょ? 企画主催者さん」
「あ」
 香里の言葉で、彼は今更のように気付いた。
 そう、準備を終えた会場が、体育館にある。
 適切な、最も相応しい、そして思いも寄らなかったイベント。
 彼が学校全体にアンケートをして、今年もやることになっていた、舞踏会が終わった後の最後の大行事。

 学校の歴史としてはまだ十数年か二十数年といったところだろう。
 だが、その歴史に燦然と残る、最も偉大なる初代生徒会会長にして、現在では永久名誉会長でもある彼女。
 生徒会室に飾られた彼女の言葉が目に入った。
 それにはこう書いてある。『舞踏会があるのですから、武道会があってもいいのではないでしょうか』と。

 文武両道。天衣無縫。完全無比。そう称されるあのひと。
 歴代の生徒会長に尊敬され、崇拝され、あらゆる意味で無敵であった、初代。
 優しさと強さの代名詞。
 伝説的な初代生徒会長。
 生徒会長就任のときにわざわざ学校に出向いてくれて、祝辞と共に言われた言葉を、久瀬は覚えている。
 エプロン姿で彼女は言ったのだ『あなたはあなたの信じるもののために戦ってください』と。
 久瀬は思った。学校を守ろう。自分が生徒会長である限り、守ってみせる。
 そのひとが創り出したふたつの行事。
 舞踏会が終わった後に行われる武道会は、明日に迫っている。
 すでに多学年にまたがって広がったレジスタンスを全てうち負かせば、それだけでもダメージを与えられるだろう。
 なるほど。場としては最適だ。勝ち上がっていくたびに、闘いを注目する観戦者の数は増える方式でもある。
 これは舞踏会とは違い――、観客としてでも全員参加の巨大企画だ。今回の場合、久瀬本人が予算を組んで造り上げたのだから間違いない。
 ここのところの反乱と騒動によって、すっかり頭の中から抜け落ちていたが、舞台はとうに整っている。
 ならばそこで優勝すればいい。
 細々と叩いても、久瀬を降任させるための選挙には間に合わない。
 しかし、最後の最後の注目を集めた瞬間にこそ――レジスタンスたちを一掃し、我らが学舎を取り返すチャンスがやってくる!

「そうだった。……ああ。それでいこう。メンバーは二名もしくは三名、だったな」
「なら――勝ち上がるのはあたしたちに任せなさい」
「そういや久瀬って、戦えるのか?」
 む。と顔をしかめて考え込む。しばらく迷った揚げ句、生徒会室に転がっていた木刀を手に取った。
 振ると、かなりの風圧が北川の髪の毛を揺らした。触角がぴょこん、と跳ねた。
「剣道なら、二段だが……ルール上は構わないということになっている。武器は調達できるだろう」
「あら。武器は大丈夫だったの……。だったら、」
「メリケンサックは無しだぞ」
「ちっ」
「舌打ちするなよ……」
 苦笑して諫める声。冗談よ、と香里が笑った。
 と、思い出したように久瀬が口を開いた。
「あ、いや……相手が認めれば良いことになってるな。確か」
「まあ、誰が認めてくれるんだ、っていう問題になるけどな」
「違いない」

 打倒レジスタンス。
 香里は栞のために相応しい環境を取り戻そうと。
 北川は友人たちのために。
 そして久瀬は、学校を守るために。

「じゃあ、頼む。手を貸してくれ――」
「友達に頼まれたらイヤとは言わないのがオレの良いところだ」
「自分で言うな」

 三人は、決意を互いに告げて、笑みを向け合ったのだった――




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