さて。
 ここで彼女たちに話を移してみよう。
 彼女たち――つまり、倉田佐祐理と川澄舞のふたり。あと、おまけとしての相沢祐一。

「で、俺を人質にしてどうするんだ?」
 ガムテープでぐるぐる巻にされて、逃げられないように体育倉庫に連れ込まれた祐一。
 目の前にいるのは、反生徒会の中心人物のひとり。祐一は彼女の名前も知らなかった。とらわれの身のお姫様役をやるには少々可愛げが足りないのは誰の目にも明らかだったが、変わりがいない以上、祐一で我慢するしかなかった。
「彼女たちの能力は知ってるでしょ……? 学年主席の頭脳と、学年最強の暴力。あのクソ生徒会長を引きずり落とすのにこれ以上の配役は望めないし」
「性格悪いって言われないか?」
 ほとんど睨み付けるような視線で祐一が見ていると、彼女はくっ、と嗤った。
 体育倉庫の薄暗さと相まって、よほどの悪女に見える。実際は、ただ性格が悪い不良といったところだろうか。
「知ったことじゃないわね。だいたい倉田さんが始めたことなのよ?」
「……ああ、それなら大体予想ついてる。どうせ自分たちのやってることの隠れ蓑にするために、舞を助けようとしてた佐祐理さんを矢面に立たせた、ってところか。反生徒会の象徴だとかいうのはつまり盾だろ」
「ふぅん。君ってただの馬鹿じゃないんだぁ」
 本当に感心したように言う彼女。困ったように手を組んだ。あんまりグダグダ言ってると、その口もガムテープで塞ぐぞ、と目が語っている。
 しかし祐一は黙らなかった。しばらく黙ったあと、ふてぶてしい笑みを浮かべて言い放つ。
「卑怯者に言われたくないぞ」
「わぁ格好良い。でもね、お嬢様方お気に入りの相沢祐一君」
「なんだ?」
「私たちって、多少ヤバイことをやれる人間はいっぱいいるっていうのは分かったでしょ?」
「……まあ、な」
 やっていることはれっきとした拉致監禁である。それなりに危険を冒してでも生徒会の権力というのは魅力なのだろう。特に、こういう腐った根性の人間には。そう祐一がぼんやりと考えていると、ちらりと彼女が視線を動かした。同じ方向を見る祐一。そこにいたのはやはり見知らぬ誰かだった。
 小声で話すふたり。耳を傾けてもほとんど聞き取れない。祐一は興味がないフリをしながらも耳に神経を集中させていた。
「……久瀬が……」
「…………倉田……は……」
「……っ!」
 しばらく話していたふたりは、そのまま祐一を見もせずに出ていった。
 体育倉庫に錠が落ちる音が響く。これでガムテープを外しても出られなくなったらしい。祐一は憂鬱な表情になって、それから口をへの字にして押し黙る。
 ぼんやりと考えた。どうしてこうなったのだろう、と。
 久瀬のせいだ。あの根性悪生徒会長と反生徒会組織の対立に巻き込まれたのだ。どう考えても俺がこんなところで捕まっているというのは腑に落ちない。絶対に原因になる人間がいるに違いないのだ。そして思いつくのはただひとり。あの憎たらしいエリート風お坊ちゃんの皮肉を言っているときのやたら嬉しそうな顔。ああむかつく。
「うっわ。めちゃくちゃ腹立ってきた……」
 つぶやいて、祐一はごろりと転がった。先ほどまでは話しやすいように跳び箱に背をもたれていたのだが、もはや彼女たちもいない。
 誰に見とがめられることもなく、背中から床に倒れ込む。
 すぅ、と息を吐いた。どうにもここは埃っぽい。つまらない抗争なんぞどっか遠くでやってくれ、と祐一は真剣に思う。
 佐祐理さんたちは大丈夫だろうか、と思いを馳せた辺りで意識がどこか遠くへ飛んでいく。
 闇に沈んだ思考の行き先には争いが無いといいなぁ、と考えていると、おぼろげな視界がぐにゃぐにゃと歪んだ。
 空腹のままに、眠りに落ちていく。あるいはそれは気絶だったのかもしれないが、相沢祐一、ここに無念のうちに倒れる。
 ばたり。
「くー」

 案外、彼だけは幸せそうだった。二日間何も食べていないだけで倒れるとはなにごとだ、と馬鹿みたいな台詞が夢のなかで跳ね回っていた。
 とはいえ、あくまで寝顔だけは、幸せそうである。
 ただし、彼の出番は当分無いので……いっそのこと、ここでさらりと忘れてもらってかまわない。さて。

 重要なのは彼女たちである。
 倉田佐祐理、川澄舞の両名は、作戦を練っていた。
「……でも、どうしよっか」
「佐祐理……祐一を助けるのは……?」
 ふたりがレジスタンスに協力せざるを得ない理由は、相沢祐一が囚われているから、というただ一点に過ぎない。
 出来ることならこんな学校内革命などという馬鹿げたことに付き合っていられない。
 敵もふたりの思いを多少なりとも理解しているのか、手を貸せと要請している最中に脅迫をしていた。
 彼の無事は、あなたたちの肩にかかっていますよ、と。
 それからは早かった。佐祐理が冷静だったために、あっさりとレジスタンスの要求を呑み、現在に至る。祐一の居場所が分からない以上、うかつな行動をするよりは盲目的に従った方が上手くいく。チャンスなど伺ったところでそうそう生まれない。必要なのは、一瞬に生まれたチャンスを掴み取れるように気を付けておくことだけだ。
「んー。祐一さんがどこに捕まっちゃってるか分からないと無理だよー」
 校内地図を見ながら佐祐理。目を走らせると、生徒会室の位置が微妙に入り組んだ位置にあるのを思い出す。出来うる限りの平和的解決として、彼に直談判して大人しくしていてもらう、という案は却下。次善策として、どうにか久瀬を捕まえるというレジスタンスの提案を考え始める。
 無理だろうか、と佐祐理は持っていたボールペンをあごに当てながら思案した。校内風紀の正常化のためならやりすぎても構わないと、自らの思想を語っていた久瀬生徒会長。彼は佐祐理が頼んでも、レジスタンスに権力が渡るくらいなら妨害してくるだろう。しかし、絶対的に不利なのは久瀬だった。祐一の安全を最優先するのなら、有無を言わさずに捕まえなければならない。彼はもしかして、まだ校内にいるのだろうか。
 いいや、とボールペンを回しながら佐祐理は首を振る。自分の考えた取り留めのない思いつきとはいえ、そんなことはないだろう。どうやっても逃げられないと分かっている状況で、わざわざ捕まる危険性の高い校舎内にいるとは思えない。まして直前に迫った選挙を――
 動きが停まった。訝しげに舞が佐祐理を見つめる。うー、と少しうなってからにっこりと笑みを浮かべる佐祐理。
「そっか。舞、明日ってイベント……だよね?」
 こくり、と舞の顔が上から下に降りる。どこか無表情に見えるが、実際のところ祐一がどうなっているのか不安だった。見るものが見れば彼女が焦っていることがあまりにも分かる。当然、佐祐理にも舞の焦燥が手に取るように伺えた。
 佐祐理は笑った。
「なるほどー。久瀬さんらしい……」
 にっこり、と。相手の動きを読み切ったような得意満面の笑顔。これで祐一を取り戻せる算段はついた。あとは行動するだけだ。
 と、その佐祐理の笑顔に向けて、舞がつぶやく。
「……戦う」
「そうだねー。祐一さんを頑張って取り戻そうね、舞」
 言いながら、佐祐理はまだ考えていた。それでも少しだけ厄介なことが残っている。
 レジスタンスを台頭させてしまう原因を作ってしまった自分が、明日の後、どうしてそのままでいられるだろう。
 これから出なければならなくなったイベントである武道会。そのような名前を採用されてはいるが。
 それはすなわち決闘だ。
 三名で構成されるチームが、相手と一対一の戦いをする。
 勝った者は何度でも戦えるが、負けた人間はその時点で同試合には二度目を出られなくなる。
 ルールは簡単。
 なんでもあり。武器も刃などが付いていて殺傷力があるもの以外は、相手が認める限り全て良し。
 そして、優勝者には。

 生徒会副会長の職を与えられる。
 無論、普通の学校であれば、副会長などただの称号や役職としての名前以上の意味を持たなかっただろう。
 しかしここでは、生徒会の権力は絶大だ。
 副会長は生徒会長には及ばないが、それに次ぐだけの権能を有している。

 そして、久瀬にとっては最も厄介なことに。
 生徒会長を糾弾するという大義名分を以て、生徒会長不信任案を出すことが出来るのだ。
 副会長不在の現在の生徒会内では、これを優勝出来る人材はいない。
 祐一の身柄返還の条件として、ふたりがレジスタンスに求められたのが久瀬を倒す、という結果である。佐祐理にはいくつか手段があった。しかしそれでも卑怯な真似をするのは避けたかったのだ。
 しかし、ここにきて正統な方法で久瀬と戦い、そしてうち負かすことができる機会。
 彼は間違いなくその場に現れるだろう。佐祐理たちも、その武道会に出場してしまえばいい。あわよくば、そこで勝てれば良い。
 あるいは勝てなくても。
 いやむしろ、佐祐理たちが負けてしまったとしたら――?
「あははーっ。佐祐理はちょっとだけ、いいこと思いついちゃったかもしれないよー」
「佐祐理……?」
 不思議そうに顔を見つめる。今、彼女たちがいる場所は三年生の溜まる階段の踊り場。校舎内には誰もいないはずだが、佐祐理はふと人影を見た気がした。
 やっぱり、と喜色を顔に浮かべる。どうやら祐一を助けるのはそう難しくないらしい。
「じゃあ、舞、ちょっとだけここで待っててねーっ」
 返事も訊かず、佐祐理は走り出した。
 視界の隅に映ったあのふたりの元へと。 

 空気が凍り付いた、と後に北川潤は語った。
 彼の意識は全て、鋭く眼前の三年生に注がれている。幼い少女のようにたおやかに笑う彼女。倉田佐祐理のことを、彼は少しだけ、知っていた。
 北川の友人である相沢祐一と、よく行動を共にする三年最高の頭脳。香里が学年主席を取ってもそれほど目立たなかったのは、その前年に一年時より全科目満点という怪物のような成績取得者がいたからだ、と聞いている。それが彼女だと知ったのはいつだっただろうか。
 久瀬が教えてくれたのだ、と思い当たる。彼はどうやら憧れていたらしい。今はどうだか分からないが、少なくとも一年生のときは、その勇姿に目を輝かせていた記憶を北川ははっきり覚えていた。何度か話したことがある。笑顔が可愛らしいのは北川も認めるところだった。
 さてどうしようか、と香里を見ると、視線を合わせたまま動けないらしい。さすが、と感心したが、いまこの時点で久瀬を捕まえられてしまえば色々とこちらとしても困るのだ。均衡状態を崩してしまえば、多少は事態が好転するのだろうか。
 未だ生徒会長室に篭もりっぱなしの久瀬に対して、明日までそこで身を隠せと言ったのは正解だった。
「……倉田先輩」
「はいー? ええと、美坂香里さん、ですか?」
「あたしの名前、どうして知って」
「どうして知っているか、というと祐一さんに聞いたからですよーっ」
 あははー、と気楽に笑ってはいるが。香里は少しだけ戸惑った。隙がない。なるほどこれならば味方に付けるだけの価値があるだろう。
 フェンシング世界大会では決勝まで進んだという噂は本当だったか。ふところに忍ばせておいたメリケンサックを、知られないように指に嵌める。武器を使っても勝てないかもしれない。それほどに強大な相手だ。香里は、本能的に理解した。この女性に本気での戦いを挑んでしまえば――生か死か、どちらかしかあり得ない、と。
 佐祐理は微笑んだ。
 釣られるように香里もまた、笑みを浮かべた。多少引きつってはいたが、まあ上出来だろう。
 見ていた北川は口を挟めない。木の葉が舞うような気分。ただ流されるだけ。空気はどちらに向いているのかを、肌に感じる。
 恐怖、と言い換えられる感情を押し殺し、香里は聞いた。
「倉田先輩。相沢君を人質に取られているのは分かっています。やはり、退いていただけませんか?」
 率直に。これ以上ないほどに真っ直ぐに。
 押しつぶされそうな凶悪な意志に抗いながら、眼前に在る、王者の風格を備えた人物に対して問いをぶつけてみた。
 単なる期待。出来ることなら戦いたくない。笑顔がこんなにも怖いと思ったのは、あのひとにオレンジ色のジャムを食べさせられたとき以来なのだ。
 ぶるり、と背筋が震えるのを隠す。
 冬に吹き付ける、匂いのない風が香里の回りを舞った。生徒会室を出てから回り道して中庭に出てきたのは失敗だったのを、今更ながらに後悔する。
 こんなにも寒い。こんなにも冷たい。そして、彼女に見付かってしまったことを悔やんでも悔やみきれない。
 あたしでも逃げ切れるか、と香里は焦りゆえに緊張を強めた。雪は溶けてはいるが、凍えるような空気。空は鈍色。鉛のように重苦しい。
 黙ったままの北川に視線を送り、最悪の場合に備える。こんなところで捕まってしまっては久瀬を助けるという話以前だ。
 一歩だけ。香里は、足を下げた。
 一歩だけ。佐祐理が近づいてきた。
 距離は変わらない。だが、確かにこれで圧される形になってしまった。香里が唇を噛んで、しまった、と口の中だけで呟いた。
「……あのー。香里さん? えっとですねーっ」
 制服が風に揺られた。
 顔をぎりぎりまで近づけて、佐祐理がゆるゆると微笑んだ。
「やっぱり、久瀬さんは明日のイベントに出るつもりなんですね」
 はぁ、と嬉しそうにため息。――困ったように、ではなく、しかもため息。どういうことだろうか。北川と香里は顔を見合わせた。
 怪訝そうに、聞いてみる。
「どういうことですか?」
「いえいえ。それなら話が早いなぁ、と思っちゃいました。佐祐理、すっごく頭悪いんで考えるの苦手なんですよー」
 嘘つけこのアマ。と香里はツッコミを入れたい衝動を抑えた。かなりの苦痛だった。しかしこんなところで話を途絶えさせるわけにはいかない。まだ全てを聞き終えていないうちに情報を自ら捨てるなどという愚行を冒すわけには行かないのだ。
 俺はどうなるんだよぅ。と北川は泣きたいのをこらえた。とてつもなく悲しかった。だとしても香里が必死にたえているのを横目で見てしまえば、何もいえやしない。ひくひくと動いて今にも暴れ出しそうな口の神経をかみつぶす。痛い。
「よかったぁ。じゃあ、久瀬さんにお伝え下さい。佐祐理たちを倒して、ちゃんと優勝してみせてくださいね、って」
「それは、挑発、ですか?」
「佐祐理たちも、祐一さんが人質に取られちゃっている以上手を抜くわけにはいかないんですよー。あははーっ」
 かなり憎らしかった。わざわざ味方になれるかもしれない、と少しだけ期待した香里は余計にそう思った。わざとらしいことこの上ない。
 そう、彼女とは共同戦線を組める可能性があったのだ。あくまで彼女はレジスタンスに取っては協力させられている立場であっても、中心人物ではないことを知っている。相沢祐一の存在だけが、香里達と戦う理由なのだ。
 ならばこちらの計画を話してしまえば、どうにかして手を貸してくれるのではないか。そう考えたのである。
 しかし、この会話で香里は理解した。この相手は本気で久瀬と久瀬に組みする者を倒す気だ。そうに違いない。彼の身柄を取り返すためならなんでもやるというのか。ならばこっちだって容赦してやることはない。つぶし合おうではないか。この人物は、敵だ。
 佐祐理が必要以上に香里のことを挑発している。どこか不自然なのは、見下して嘲笑う、という行為に慣れていないためだろう。そう、わざわざ彼女はこちらを嘲笑っているのだ。香里はそう確信した。
 久々に、血が燃えた。
 香里は隠し持っていたメリケンサックを使うのはやめる。とりあえず捨てるついでに投げつけて、いきなり攻撃を仕掛けた。
 佐祐理は予想していたのか。にっこりと微笑みながら鉄の塊を避け、すぐ後に続いた香里の一撃を受け流した。素手のままで。
「……っ!」
 フェンシングだけじゃなかったのか、と香里は唇を歪めた。くっ、と笑って拳を固める。

 久しぶりに、本気になろう――

 トン、と足音が響いた。空気を横に走らせる。風が、薙いだ。
「ハッ!」
 吐息と共に腕が伸びる。顔面を狙った一撃。香里の足が地面を蹴った。距離がぐんぐんと近づいて詰まる。
 すぅ――、と音もなく佐祐理は避けた。
 紙一重。尖った拳が髪だけに触れたらしい。手応えは一切無く、佐祐理は深く笑んでから、ほとんど零に近い距離を、一歩踏み出した。
 息を吸い込む香里。せいっ、と蹴りを繰り出しながら後ろに下がる。当てることが目的ではない。逃げなければやられる、という本能的な行動だ。空気。冷たくて凍ってしまいそうな空気が、肺に送り込まれる。足りない。まだ足りない。
 無言のままに手のひらを無造作に近づけてくる佐祐理。眼前に――迫る。
 顔を思いっきり逸らして、香里が逃げる。距離の狭さのために、すれ違うように避けきった。地面に足を叩き付けるような、豪快な音がして、踏み込みと振り返りを一瞬で行う。裏拳で思い切り良く風を切った。
 ざしゅっ、と靴が地面の土を削ったのが感触で分かる。勢いが強すぎたせいでバランスが崩れた。香里の放った裏拳は、手の甲をそのまま佐祐理に弾かれる。まずい、と心の底から香里は焦った。佐祐理の片手が空いている。対して香里は反撃するには間に合わない。

 それは一瞬だった。

 吐き気が生まれる。みぞおちを正確に狙って、突き刺さった拳がわかる。
 空気の冷たさを感じているのは、体が火照っていたからであろう。おそらく刃にも似た冷たい緊張が背中を走り抜けていく。香里の頬に当たる風は、どうしようもなく気持ちよかった。こんなことを考えていられるほどの余裕なんて、もう残っていないというのに。
 佐祐理が目を細めた。微笑んでいるのだろう。こんなときにも笑みを絶やさないなんてすごいひとだなぁ、と香里はちょっとだけ嘆息したかった。もう、肺のなかには息が残っていないので無理だったが。空気ひとつも自由にならない。髪の毛が邪魔だ。だんだんと壊れていくような視線の先から、香里に向かって佐祐理の腕がゆっくりと伸びてくるのが分かる。あの腕に取られてしまったら、もう逃れられない。香里が最後の悪あがき、とばかりに手を振り回す。
 余裕、だったのだろう。時間すら遅く感じて諦めている香里に向けて、佐祐理はただゆるやかな一撃を当てただけだった。香里の耳がまだ音を捉えられる状態だったのなら、コン、と小気味良い音が聞こえたのかも知れない。だがもはや。
 ぱたり、と膝からくずおれた香里に向けて、佐祐理は少しだけ目を伏せた。すでに意識が無い香里に向けて、佐祐理は、口のなかだけで聞こえぬように。ごめんなさい、と言っていたように聞こえたのは――北川の気のせいだろうか。違ってもいい。彼にはそう聞こえたのだから。
 そして、そう聞こえた声を信じて、北川は佐祐理に向かって話しかけた。
「……なぁ。倉田先輩。どうしてこんなことを」
「すみません。……ちょっとだけ、楽しんじゃいました」
 てへ、とばかりに舌を出す佐祐理。北川は内心舌を巻いた。とんでもない食わせ者だ。まともに戦ったら手も足も出ないに違いない。あの挑発はこのためだったのか? ほんの少しでも期待したのは、見込み違いだったのだ。まずい。この相手はやばすぎる。
 香里は気絶しているだけだ。仇を取りたいところだが、この場から香里を連れて逃げ出すのでさえ難しい。
 どうすればいいんだ。北川は余裕ぶった笑みを浮かべて、皮肉げに言葉を吐き出そうとして――詰まった。何を言ったところでこの倉田佐祐理嬢には通じない。祐一のため、という理由ひとつでここまで冷酷になれるのか。ぶるり、と震える自らの体を抱きしめそうになるのを必死に止める。
 弱みを見せたら、殺られるかもしれない。できるだけ強気で。話を優位に。大丈夫。友人がやばいことに巻き込まれたときに何度も修羅場をくぐってきたんだ。このくらいで負けてたまるか。
 北川は、取り留めもなく久瀬のことを考えた。――お前は、見る目があった。ただ、惚れる相手としては倉田先輩はあまりに大きすぎるぞ……。
「で、あのー。北川さん。少しお話しませんか?」
「……はい」
 断れるわけもない。逃走経路は何気なく押さえられているし、香里は気絶したままだ。当分目を覚ましそうにない。上手く調節したのだろう。目に見える傷になる部分には一切当てていない。修羅場をくぐったという点では、彼女に軍配を上げるべきだろう。なんていう強敵。北川は、本心から恐怖を感じていた。
 明日の武道会。彼女に決闘で勝てるのか……? 剣で倉田先輩に勝ったと言われる川澄先輩は、どれほどの手練れなんだ――!
 がくがくと足が震えるのを、北川は自制しようとしたが止められない。緊張で手すらまともに動かない。汗が流れる。


 倉田佐祐理は、
 悪戯を思いついた子供のように、
 楽しそうに、
 北川潤に向けて、

 ひみつのはなしをするように。

「――ふふっ」

 にっこり、と可愛らしく無邪気な笑みを浮かべた。



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