新学期に入った。
 春の日の、麗らかな陽光が差し込んでくる。

 着替えを終えて、鏡の前。
 笑顔を浮かべる。
 大丈夫。わたしは笑っている。
 朝の少ない時間に、わざわざこんな風に笑顔を作ってまで。
 笑顔の練習。笑っている。笑わなくちゃ。笑っていれば。
 こわばっていない。ぎこちなくない。
 大丈夫。わたしの顔は、嬉しそうにしている。
 祝福しているはず。祝福していなければいけない。

 ……何故だろう。
 悲しくなんてないのに。

 涙が溢れて、もうひとりのわたしのほほを、滑り落ちた。
 崩れない笑顔を、何度も何度も零れていった。
 完璧な笑顔。
 どうしようもないくらいに、笑顔。
 作り物じゃない、本当の笑顔。

 眠気に誘われて落ちたはずの、雫。
 自分のにこやかな姿を見つめると、簡単に止まった。

 さあ、行こう。
 このドアを開けて、朝の清涼な空気の中に一歩を踏み出して。
 祐一の幸せそうな笑顔を見ているわたしは、幸せなのだから。

 そしてわたしは朝を迎える。
 笑って、楽しそうにしていれば、このままでいられる。
 笑いながら、階下に走る。
 祐一の、笑顔。
 すごく楽しそうな、すごく嬉しそうな顔。
 だからわたしは、いつもより元気に挨拶をした。

「祐一。おはようございます、だよっ」

 でも朝は、いつもの風景を繰り返すように。
 やっぱりすごく、これ以上ないくらい、本当に慌ただしかった。









 「笑顔」 








 登校風景。
 わたしひとりが、歩いている。
 別に、わたしが遅刻しそうで置いていかれたわけじゃない。
 祐一は、あの娘と一緒に途中の道を行きたいだけだ。
 だからわたしは、気前よく先に行っていいよ、なんて言葉で笑って身を引いた。
 たったそれだけのこと。幸せそうな祐一を見ているだけで、充分だった。
 少なくとも、辛そうにしているよりも何倍もいいと思う。だから、嬉しいのだ。

 ……最近はどうにか、そんなふうに思えるようになった。

 わざわざ笑顔でいるのは、きっと。
 この失恋を、諦め切れていないから。
 知らない間に、祐一はわたしとは別の女の子と一緒になっちゃった。
 ううん、知ってはいたけれど……、わたしだけは知らない。そんな時間に。
 だから、告白なんていまさら。いいや、もう二度と。どっちにしたってもう遅い。
 この恋は、他の誰かに持っていかれてしまったのだから。
 自分を誤魔化して、このまま生きていけるのだろうか。
 わたしがわたしであるかぎり、きっと、この笑顔でいないといけないのに。

 諦め切れない。
 でもやっぱり、もう遅いんだ。

 強がっているように見えないくらい、自然に笑う自分がいる。
 スタートラインにはわたしがいて、ゴールにはもう他の女の子がいて。
 わたしは走り始めることもせず、たった独り、立ち止まっていたんだ。
 勇気を持たないで、動こうともしなかった。
 昔、辿り着けなかったゴールは、果てしなく遠くて。遠すぎて。
 ……こんな自分が、嫌いになった。
 だからせめて、笑っていようと思った。
 自分がいられない、祐一の隣りにいられるひとを祝福しようと思った。
 まだ、言葉にすることも出来ないけれど。

 辛い、ね。
 こんなに笑ってることが辛いなんて思わなかった。
 悲しいときに泣けないことが、痛いのは知っていたのに。
 なんでこんなに笑っていることが、辛いんだろう……。

 学校に着く。
 いつものように友人達に挨拶をして、玄関へ走る。
 ゆったりと歩いていたせいで、いつもと同じような時間。遅刻するほどではないけれど。
 見回せば、人気は少ない。
 廊下を走る音は騒がしいけれど、わたしのとなりには誰もいない。
 急ごう。

 ホームルームはざわめきに染まっていた。
 眠気に、うつろな表情のひと。疲れに机に突っ伏したひと。楽しげに話すひと。
 香里はぼんやりと窓の外に目を向けている。北川くんは祐一を冷やかしている。
 そんな教室。騒がしくて、活気があって、笑顔があった。
 なんとなく、そんなひとときを黙って見つめていた。
 わたし自身、ぼんやりとしたままで。


 時間は何事もなく流れゆく。
 それでも、夢見がちな少女の想いを、その流れに埋もれさせてくれない。
 冷たい時計の音が、教室を叩き続けている。
 わたしはそのなかで、ただ緩やかに他の誰かと同じように過ごす。

 望んだもの。
 特別な誰か。たったひとりの。でも、そんな存在にはなれなかった。

 不意に、寂しさにおそわれて。
 横を見ると、真面目に授業を受ける祐一の顔。
 その顔はやっぱり、楽しそうで。
 この幸せそうな顔を壊したくなんてなかった。
 机につっぷして、小さく息を吐き出す。ため息。寝ているように見えるなら、そのほうがいい。
 笑顔が疲れる。でも、悲しい笑顔は見せないように頑張ろう。
 そんなことを考えながら、わたしは鉛筆と時計の針の硬質の音のなかで眠りに落ちた。
 せめてもう少し、幸せな今を夢だけでもいいから見よう、と。

 真っ暗なだけで、何にもない休息の時間は終わった。
 夢も見られないくらいに、浅い眠り。次の時間も、その次の時間も。
 どうしようもないくらいの脱力感に、今日の気力を奪われた。
 まだ、終わりは遠い。
 じっと、無言でノートを綴る。
 そうしていれば、何も考えずに笑っていられると信じて。

 お昼は、香里と北川君との三人。
 でもふたりは、全然気にしてなんていない。
 祐一の付き合いの悪さを、どちらも笑顔で許している。
 曰く、幸せそうならそれでいいじゃない、だそうだ。微笑ましく思っているのだろう。
 本当に楽しそうに彼女のことを語る祐一を見ていれば、まあだいたい、いいことだとは思う。
 いつものメニューを選んで、いちごを食べたら、少しは楽に笑えるようになった。良かった。

 午後の授業を疎ましく思うのは学生の習性だろうか。
 そんな、どうでもいいことを考えながら机に向かう。いつも通りに。
 満腹感に勝てないくらい、わたしの眠気が強くなっていた。おやすみなさい。くぅ。
 自分の寝息が聴こえなくなって、夢に堕ちる。

 全てから、逃げられるわけではないけれど。
 夢になんて、逃げるつもりもないのだけれど。

 目覚めると放課後。
 なにもかもどうでも良くなるくらい、夕焼けが綺麗だった。
 差し込む夕陽にまぶたの裏を刺激されて、その真っ赤な光に目を覚ます。まぶしい。
 教室の窓から外を見ると、雲が染まっていた。真っ白だった雲が、はっきりと朱く、幻想的に。
 空の蒼は、燃えるように紅く拡がっている。だんだんと暗くなる前の、明るさ。
 ろうそくの灯が、最後に華々しく輝くように。真っ赤。

 振り向くと、同じように遠くの空を見つめていた顔。
 親友の顔。香里の、やさしげにこちらを見つめる顔。
 ゆるやかに近づいてくる。わたしはここで座ったまま、その顔に笑みを向ける。
 ほがらかに、訊いた。
「香里、こんな時間までどうしたの?」
「あんたが起きないから、わざわざ待っててあげたのよ」
 恩着せがましい言葉だけど、口調はこちらを伺うように。心配、してくれているのだろう。
 実際、この親友が、わたしの様子に気付かないはずもなかったんだけど。
 うー、どうやって言い訳しようか。
 少し困って、考える。
「……名雪、なにか、あった?」
 一語づつ、顔を真っ直ぐに見つめてくる香里の目に、どうしようか迷った。
 迷った挙げ句、わたしは小しだけ笑みを深くして、答えを告げた。
「なんでもないよー」
「……はぁ、あのねぇ。嘘が下手なんだから、わざわざつまらない嘘なんてつかないの」
 ひとことで見破られた上に怒られた。
 たぶん呆れられてもいる気がする。ため息まで吐き出してるし。
 どうしたものかとしばらく黙る。何を言っても、今のわたしじゃ嘘にしかならない。
 自分の気持ちも、全然分かってなんていないんだから。
 どうして本当のことを言えるのというのだろう。
 きっと、嘘でいっぱいの自分が、どうしようもないくらい怖いから。
 それを自分に気付かれないために、笑顔でいるのかもしれない。
 そんなことに気付いてしまったら、笑顔でなんていられない。
 耐える。笑顔のままで。崩さないように。壊さないように。
 そんなことないよー、なんて……困った顔で言えば大丈夫。
 でも、こっちを優しい目で見る香里の顔が、ものすごくまぶしかった。

 一筋。零れてしまったら、もう。

 ……涙が、止めどなく溢れて。
 香里の顔が見えなくなるくらい、にじんだ。
 
「ほら名雪。聴いてあげるから吐き出しちゃいなさい。溜め込む辛さは知ってるつもりだから」
 香里の声が、胸を貫くように響いた。
 誰もいない教室。
 夕陽に照らされて、涙で前を見られないくらい。だんだんと目が痛くなってきた。
 目の前が真っ暗な感覚。立っていられなくて、香里の胸に、しがみついた。
「うぅっ……」
「あんたは、たまには泣いたほうがいいの」
「…………ッ!」
 もう、涙を止めようなんて思わなかった。流れるままにして、枯れるまで。尽きるまで。
 ずぅっと、ずぅっと。声だけを押し殺したまま、嗚咽を漏らし続けて。
「って、こらっ! あたしの制服で鼻水を拭くんじゃないっ」
 勢いが付きすぎたみたい。ごめん香里。でも、謝る言葉よりも泣き声のほうがどんどん出てくる。
 しばらくそのまま。動けない香里に、もうちょっとだけ寄りかかる。
「で、言えないこと?」
「……うん。そう、かも」
 小さく言葉にする。わたしの頭を軽くはたく香里。
「仕方ないわね」
 泣き腫らしたわたしの顔を、じっと見つめている。目を見る。
「後悔、したくないんでしょ?」
 わたしは頷く。まだ少し、声は震えているから。黙ったままで。
 その様子に、香里の方が口を開いてくれている。
「だったら、ちゃんとやるべきことをやりなさい」
 微笑む香里。わたしはその笑みの中にある真剣な表情に、頷くだけで答えた。
「あたしみたいに後悔したくないなら、早くしなさいよ……?」
 ぽんぽん、と頭を叩く。出来の悪い子供に諭すように。あるいは自嘲気味に。
「辛かったら、吐き出したっていいんだから。名雪の親友はここにいるんだからね。
 このまま嫌な気持ちを持ったままで、こころを塞ぐのは絶対に止めなさい」
 涙も、もう終わった。
 ぐちゃぐちゃになった顔を、香里の腕の中に埋もれて隠す。
「うん……うんっ!」
 頷いて。言葉に出来ないくらいの感情を、頷くことだけで表す。
 今まで、どんなに救われたのだろう。この親友が本当に大事なのは、誰よりも近かったから。
 きっと、香里は悲しみを知っているから。強く、強く。
 形は違っても、こんなにやるせない願いを、想い続けてきたのだから。
 そしてまた、救われた。包み込むような優しさに。
 香里が、口を開いた。
「ほらほら、名雪。あんたの台詞でしょうが……ふぁいと、だよっ! ってね」
 笑いながら。
 わたしの悲しみを吹き飛ばすように、香里が言った。


 帰り道。
 香里と別れてからしばらく。商店街を歩いて、百花屋の前を通る。
 祐一と彼女が、椅子に座って笑っていた。向かい合って。
 とりあえず、見て見ぬ振り。そそくさと離れる。見つかっていないはず。たぶん。
 彼女がおいしそうに食べているイチゴサンデーを、少し羨ましそうに見ている自分が、窓ガラスに映った。
 ……どうやら、気付かれなかったみたいだ。安心して、無意識に走っていた足を止める。
 ふたりで、デートかな?
 当然のこと。あのふたりは付き合っているんだから。
 そのくらいはしてる。してないほうがおかしいくらい。
 でも、見つからないように逃げた自分の臆病さに、吹っ切れていないんだ……なんて自覚してみる。
 楽しそうなふたりのいる百花屋をはるか後方に、わたしは、家に帰るために歩き出した。

 お母さんと祐一とわたしの住む、あの家に。

 家に帰れば、祐一はいなかった。
 当然だ。さっき百花屋にいて、わたしより先に帰っていられるわけがない。
 ……そういうことじゃなくて。デートだから、夕飯はきっと外で食べてくるのだろう。
 お母さんは笑っている。わたしの迷いも、苦しみも、辛さも、全て知っているかのように。
 こちらを見るお母さんの目に、励まされているような気がした。でも、口には出してくれない。

 きっと、これは。
 これだけは、わたし自身の問題だから。

 わざと、黙っているんだと思う。
 たぶん、ずっと笑って見守ってくれている。
 昔、泣いていたころの痛みとは違う、もっと締め付けられるようなこの想いが、ひとつの形になるまで。
 それは例えば、ひとつの終わりが来るまで。
 結末が、悲劇的になることは決まっている。祐一があの娘を選んだ瞬間に。
 それでもこの役から逃れられないのを、わたしはもう、とっくに知っているのに。

 祐一が帰ってくるまで、長い。わたしは明日のことを考えながら寝ることにした。
 ご飯はお母さんが用意してくれていたから、ちゃんと噛みしめながら食べた。
 美味しいご飯を食べると、幸せになれる。無理もせず笑える。
 こうしていると、笑うだけなら簡単なことだと思った。
 ごちそうさま、と言って、お皿を洗おうと持っていく。
 すると、袖をまくってお皿に手を掛けたところで止められた。
「いいわよ名雪。あとはやっておくから」
 微笑んで、エプロン姿になって、わたしよりも早く、お皿を手に取ってしまった。
 洗い場をふさがれてしまったので、仕方なしに頷いておく。
 やることが無くなってしまった。見たいテレビもない。宿題もない。
 ぼうっとしていれば過ぎていってしまう時間のなかで、明日のために寝ることにした。
 階段を上がり、部屋に入る。
 パジャマに着替えて鏡に向かってみた。目が赤い。少し顔が腫れている気がする。

 自分で、決めないと。

 ベッドの上に寝転がる。
 朝に止められた目覚まし時計のスイッチは切ったままにしておく。
 部屋の明かりを消した。真っ暗。何も見えなくなった。
 祐一はまだ帰ってきていないと思う。顔を合わせるのは、明日の朝にしよう。
 起きないといけない。祐一よりも先に。けじめだから。
 明日の朝、決着を付けることにしたから。
 目を閉じる。

 勇気をください。
 誰か、わたしに。
 この恋を諦める勇気を。
 
 これで、最後にするために。
 この後悔を、終わらせるために。


 暗転。


 朝起きると、太陽が昇り始めてすぐだった。
 薄暗い外の世界を、カーテンを開けた自分の部屋のガラス戸から覗き込む。
 寒い。目が冴えてきた。
 怖い。どうしようもないくらい、怖い。
 なにもかも、終わってしまうような気がして。胸が詰まる。
 ぐるぐると、頭の中を不安が巡る。心の中を、焦燥が蝕んでいく。
 制服に着替える。鏡に向かう。臆病なわたしがそこにいた。
 ドアを開けて、音も無く閉める。起こさないように、足音をできるだけ静かにして歩く。
 廊下を歩く。そこは、近すぎて、あまりに遠い。キィッ、とドアを開ける。暗い。
 初めて、祐一の部屋に黙って入った。
 寝息すら聴こえてくるほど、静か。
 寝息すら聴こえてくるほど、近くに。
 明かりを付けないで、祐一の側に寄っていく。
 起きる様子はない。眠っている祐一の顔を見つめる。

「ごめんね……」
 言葉が漏れた。
 祐一の瞑ったままの目も見ずに、
 わたしはそのくちびるを奪い取った。あの娘から。一瞬だけ。

 誰に謝ったのだろう。
 そんなことは分からないけれど、これでやっと諦められる。
 わたしは笑顔を浮かべることすら忘れて、安堵の息を吐き出していた。
 と、祐一の目が、薄く開いてきた。
 浅い眠りだったのか、起こしてしまったらしい。ぼんやりとこちらを見てきた。
「……あれ? 名雪?」
 戸惑った顔。困った顔。祐一は状況を把握しようとしているみたいだ。
 ちょっとだけ、待つ。
 目が覚めてきたころを見計らって、祐一のおでこにわたしのおでこをつける。
 いまのわたしに出来るだけ、近づいて話したかったから。
 焦る祐一。慌てている姿に、わたしは吹き出しそうになった。
 こちらの笑いをこらえた顔に、少し安心したのか、祐一が声を掛けてきた。
「どうしたんだ? 名雪がこんな時間に起きてるなんて」
 だいぶ、驚いた顔。
 訊かれた質問には答えてあげない。少し意地悪をしてみる。
 きっと向けられても困るだけ。そんな勝手な想いを。

 たった独りのひとに向かって、告げる。

「わたし、祐一のこと、……ずっと好きだったんだよ」
 なんだ。こんなにあっさりと言えたんだ。
 でも、祐一は真面目な顔で応じてきた。
「ああ、知ってたよ」
 辛そうに、言う祐一。
 なんだ、祐一も気にしてたんだ。
 ごめんね。
 わたしの気持ちのせいで悲しい顔にしてしまって。
 でも、そんな言葉は口にできない。
 わたしは一応、訊いてみる。
「でも祐一は、あの娘が好きなんだよね?」
「ああ」
 しっかりと頷いた。
 この返事があるなら、祐一は大丈夫。
 わたしは、ぎこちない笑みを浮かべることが出来た。
 嘘みたいな、本当の笑顔。
 やっと、笑えた。
 その笑顔で、祐一に告げる。
「わかったよ。じゃあ、わたし、諦めるからね」
「……」
 祐一から、わたしは離れた。
 重い沈黙が満たす室内。
 でも、わたしは明るくぺこりと一礼。
「わたしに、恋というものを教えてくれて、本当にありがとうございました」

 ……やっと、祐一が笑った。
 わたしは、ちゃんと笑みを浮かべたままで、祐一に背中を向けることができた。

「じゃあ、もう行くね」
 わたしの、初恋の人へ。
 わたしの、大切な人へ。
 笑顔を。

 でも涙は、枯れずに残っていたらしい。
 部屋から出て、廊下へ。後ろ手にドアを閉める。ドアに寄りかかって、大きく息を吐き出す。
 これで終わり、と言わんばかりに。
 用意されていた朝ご飯を一人で食べて。玄関を一人で出て。
 わたしは独りっきりで、学校へと走った。まだ、充分に時間が余っているけれど。
 風を切って、走った。全力で。
 
 
 ホームルームの始業ベル。
 きんこんかんこんと、とりたてて珍しくもないチャイムの音。
 わたしは、それを教室以外で聴いていた。
 さぼっちゃったなぁ。
 初めてだよ、自分からさぼってしまうなんて。
 仕方ない、と学校の敷地から出ていく。今日はもう、授業に出る気がしなかった。
 寂しげな中庭をさっさと通り抜けて、外へ。
 まだほんの少しだけ雪の残る道を、強く踏みつけて、歩いていく。

 と、背中を叩かれた。
 痛い。

「こらっ! さぼってるんじゃないっ」
 にっこりと笑って、香里がそこにいた。
 どうして。
 香里が、ここに。
 ぼんやりと香里の顔を見つめるわたし。
 そんな表情のわたしに、微笑んで答える香里。
「まったくもうっ」
 あたまをぐしゃぐしゃとされた。
 少し乱暴に髪を触って、香里は戸惑い気味のわたしに告げる。
「あたしは、自分からさぼったのなんて初めてなんだから、ちゃんと責任取りなさいよ?」
「わたしも初めてだよ……」 
「じゃ、仕方ないわね」
 肩をすくめて、こちらを見る。
 静かに、黙ったまま。見守るような、瞳で。

「……ごめん。香里。ちょっとだけ泣かせてくれるかな」
「いいわよ」

 人気のないこの場所で。
 わたしは、昨日よりも激しく、わんわんと泣いた。
 宝石みたいに綺麗じゃないけれど。
 ただ、流れ続けるままに。尽きるまで。
 この悲しさを洗い流してしまうくらい、強く。泣き続けた。

「落ち着いた?」
「うん」
「それで、終わったの?」
「うん。結構あっさりと、終わっちゃったよ」

「悲しくて。辛くて。痛くて。涙がまだ、溢れ続けてきちゃいそうだけど」 

「これで、本当に終わりだよ」
「そう……」
「永かった初恋も、これで終わり――」

 少しだけ、涙で顔が腫れて、ぎこちない笑みだけれども。
 祐一にちゃんと告白して、ちゃんと振られて。
 わたしはやっと、本当の笑顔を作ることが出来たんだ。
 だから、これでおしまい。
 結末はこんなだったけれど、ゴールまで走りきることは出来たから。
 自分の足で、たどり着くことは出来たんだよ。そのことに、笑顔。

 先にゴールに行ってしまった祐一とあの娘を、祝福してあげないといけないね。

「あとで……あの娘と祐一にイチゴサンデー奢ってあげることにしたよ」
「へぇ」
「おめでとう、って言ってあげるんだ」

 これで、笑顔で祝福の言葉を言うことができるよ。


 見上げると、青空。
 薄く拡がった雲間から、真っ白な光が漏れている。
 柔らかな日差しに包まれて、目を細める。

 横を見ると、同じように空を見ていた香里。
 そんな自分たちの姿が、なんだかおかしくて、ふたりで笑い合った。

 永い時間、凍ったままだったわたしの笑顔。
 これでやっと解け始めたんだと思う。


 春の色に染まりゆく、この雪解けの街のように。 




 Fin.



戻る
inserted by FC2 system