無明の堕天か。
 賢者の愚行か。
 あるいは、それこそが運命なのか。

 残月に煌いて。
 黎明までを走り抜けた。
 閃いたその軌跡は、冷たく。
 切り裂いた残光は、熱を帯びて。
 影と影の重なった瞬間が、幾度も。
 響き渡るのは、無音と沈黙。
 退屈な静寂と、迷宮のような夜の帳。
 虚ろな闇は、壊れかけた世界を駆け抜ける。
 鮮明なほど、拡散していく意識を知覚させて――

 無限を知っている。
 永遠を知っている。
 けれど、それに意味が無いことを知っている。

 楽園に在れば、闇は遠く。
 痛む傷も無い。
 疼くのは、傷の亡い痛みだけ。
 消えるのは、此処にいない誰かだけ。
 
 アーケイディア。
 エデン。
 エリュシュオン。
 名前は幾つ在るのか。
 例えば、ソドムかゴモラ。
 あるいは、ノートルダムだろうか。
 バベルの塔の上には、在ったのかもしれない。
 何処かに有るのか。
 何処にも無いのか。
 それとも、何処にでも在るのか。
 それは、造られた箱庭。
 望まれすぎた夢の彼方。

 けれどここは楽園。

 死に近いものだけが存在を赦される。 
 黄昏だけが入り口の。
 
 楽園の果実は、甘く。
 無限の世界に、永遠の眠りを求める。

 死者達の眼に映るのは、赦されざる楽園。

 つまり、死者にとっての楽園は。
 
 罪人達の煉獄ではなく。
 歓喜せし聖者の天国でもない。
 それらの底にある、この世界。
 生きているモノ達の現実。
 悪徳と享楽と、少しばかりの美しさ。

 それを見つめるその眼には、
 昏い闇か、それとも虚無か。
 睨み付けた視線の先の、空洞。

 その瞳に在るのは、

 ――――優し過ぎるほどの、殺意だった。










 『永遠の夢』 作者:yoruha










 出会いは唐突だった。
 壊れかけたモノと、壊しかけたモノ。
 危うさのなかで、守れた。
 造り上げられた世界と、消えかけた夢と。
 だからきっと、出逢えたことは偶然ではないだろう。
 あまりに唐突過ぎて――――、

 出逢いだなんて、考えることもなかったけれども。


 ◇


 レクイエムのように。
 軽やかに、静かに、厳しく、なだらかに、激しく。
 唐突に音を失ったステップ。
 地に叩きつける音は、連続した。
 カランカラン、と硬い鈴の音が響き渡り、ドアを開ける音が続く。
 入ってきたのは、学生らしき影。
 数人連れで、先頭に立っているのは眼鏡を掛けた少年。
 店内には客は少ない。これもまあ、仕方ないことなのかもしれない。
 味はいい。
 雰囲気もいい。
 おそらく、店主の趣味で作られた喫茶店だろう。その分、暖かさがある。
 コーヒーも紅茶も、並の店よりもずっとおいしいと評判だ。
 ただひとつ。
 人を待つには向かない、というジンクスを除けば、だが。
「たまにはちゃんと来たまえ。私が奢るなんてことは、そうそうないぞ」
 自慢にならないことを、胸を張って言わないでほしい。
 そういうことを言うなら、仕事した後に入るお金をちゃんと給料で払ってほしいものだ。
「ええ、それはわかってますけど。なんで急に?」
「幹也。コイツにそんなこと訊いたって無駄だよ。思い付きさ」
 横から口を出してきたのは、両儀式。
 一応、恋人、ということになるのかもしれないと思う。
 胸を張って言ったら、式に一回つねられたから、あんまり人前では言わないけれど。
 そして、幹也というのは僕の名前である。
 黒桐幹也というのが名前だ。
 妹もいるが、とりあえず席に座っているのは話し掛けてきた人と、僕と式の三人である。
「こらっ、式。一応、橙子さんは雇い主なんだからそういうことを言わないでくれよ」
「黒桐、一応、とはどういう意味だ?」
 ジト目で見てくるが、今回に限っては強く言わせてもらおう。
 生活が掛かってるんだ。
「今月まだ給料もらってません」
 一言で橙子さんはうろたえた。
「う。」
「それから、先月立て替えた煙草代、ちゃんと払ってください」
 凛、とした雰囲気から一転、何処かに目を逸らしている。
「いやまあ、そのうち入ってくるから。少し待っててくれ」
「解りました、ホントですね」
「ああ」
 煙草を加えたまま、返事をする。
「安心しました。眼鏡を掛けていない橙子さんが奢ってくれる、なんて言うから。
 ……ちょっと疑心暗鬼になってたみたいです」
「まったく」
 苦笑。
 余裕を取り戻して、既に運ばれたコーヒーを飲む。
「で、幹也。なんでここなんだ?」
「そうだね。なんでここなんだろうね」
 橙子さんに視線で問い掛ける。
 美味しそうに煙草を吸っていたこの人は、即答する。
「ん? ああ、ここのケーキは美味いと鮮花から聴いていてね。一人で来るのもなんだったからな」
「なるほど。タイミングが良かったみたいです。何故かここに来たくなってまして。
 ただ、僕はこの店に来ようとするたびに用事とか邪魔とかが入って、あまり来れないんですけどね」
「黒桐、……それはかなり頻発するのか?」
 眼鏡をつけてないままの状態で、こっちを凝視されると、少し睨まれているような気がする。
「ええ。来れるのは、他にお客さんのいないときばっかりです」
「抑止力でも働いているのか?」
 皮肉っぽくくちびるを歪めて、次の煙草に火をつける。
「えっと、前に話してた、なにか拙い事をやろうとすると世界が勝手に修正を加えようとする、ってやつですか?」
 少し考えて、それから口を開く。
「そう、だな。厳密にはもう少し説明が要るが。黒桐にはそのくらいの認識で充分だ。
 偶然が偶然足りえるのは、……まあ、理由がないからだな。
 偶然性なんてものは、本来は存在しないんだ。この世には絶対しかない。
 それがどれほどくだらないものでも、何らかの理由があるものだし、それは必然になる。
 お前さんがこの店に来れないのも、何か理由があるのかもしれないぞ」
 くっくっく、と魔女のように含み笑いをもらす。
 そういう不吉な台詞はやめてもらいたいものだ。
 魔女、あまり大差ないか。
 なんせ、この蒼崎橙子という人は魔術師なのだから。
「ふむ。そういえば、私もあまりこの店に来る機会がなかったな。誘うのは簡単だったはずなのに」
 む、と不思議そうな顔をする。小さく空気を吐き出して、横から声が掛かる。
「それは、単に面倒くさがりなだけだろ。人を使ってばっかりで、あんまり外に出ないからだぜ」
 男口調で、式が橙子さんに言った。
 ……式は、女の子である。男口調をしているのは癖であるが、本当は優しくて可愛らしい。
 こう言うと、式は照れているのか怒ったようになるし、妹の鮮花に至っては機嫌が本当に悪くなる。
 なぜだろうか。
「社交性のない人間に言われたくないな。いや……むしろ何故、今日来る気になったのかが奇妙だ。
 ……しかし、不意に思いついたにしては出来過ぎだな。気を付けておけよ黒桐」
 冷たい瞳をこちらに向けて、忠告らしき言葉を告げてくる。
 基本的には自分に関わり無いことには無関心だったりすることの多いひと。
 だけど、やっぱり今日はおかしい気がする。
 眼鏡を掛けてないときの橙子さんは、冷たいひと、なのだから。
 なんでも、眼鏡を掛けているときと掛けていないときで性格を切り替えているそうだ。
 掛けているときは優しい人なんだけど。今は別に緊急事態でもないし、普通。
 今日は、若干眼鏡を掛けているときの性格が混ざってる、とか。
「……なにを考えている?」
「いえ、なにも」
 考えを読まないでほしい。
 時々、見透かしたような顔をするけど、まあ、大体の場合はこの人のことを尊敬している。
 造ることに関しては、この人よりすごい人を知らない。
 オカルト関係の話はさっぱりだけど。
 そういう話も、最近は式があんまり関わらないでくれてるから少し、嬉しい。
 そう、式も色々、厄介なことに首を突っ込みたがる……。
 と言うか、むしろ厄介事が自分から歩いてくるのか解らないけど、巻き込まれやすい。
 心配なんて、する必要がないことが一番だと思う。
 まあ、それはともかく。
「橙子さん。なんで僕が?」
「お前さんが一番身を守れそうにないからに決まってるじゃないか」
 即答して、煙を吐き出す橙子さん。あまり日本では見ない銘柄の箱が見えた。
「そうそう。鮮花も呼んであるぞ。まあ、それでも黒桐が一番身を守れないだろうが」
 鮮花は、僕の妹である。
 黒桐鮮花。
 主にお嬢様学校と呼ばれるところに通う、優等生である。
 ……何故か、橙子さんに弟子入りしているが。
「なんか、これから厄介事に巻き込まれるって確信してませんか?」
「そう嫌そうに言うな。滅多にないことばっかりなんだから」
「……え」
 なんか、今。
 ものすごく、不穏で不安な台詞が聞こえたような。
「どういう、意味ですか?」
 訊けば訊くほど落とし穴に落ちていくような気がしてきた。
 見ると、先ほど入ってきた数人は僕らと言うか、橙子さんの後ろのテーブルに座って珈琲と紅茶を頼んでいる。
 数人、……じゃないか、二つに分かれていたらしく、テーブルを二つ使って座っている。
 うーん、なんと言うか、こっちの席の座り方に似ている。
 男一人に女の人たち、なんて構図はあんまりないから、かなりの偶然だろう。
 そちら側に目をとられていると、式が小さく呟いた。
「……アイツ」
「ん? どうしたの」
 なんかその口調に緊張が含まれていることに気づいて、わざと惚けた声を出した。
「……まあ、いいか。オレには関係ない」
「自己完結してるところを見ると、放っておいても大丈夫かな」
 ……独り言にも反応しない。
 なにか、式の気を引く何かでもあるのだろうか。
 ガタンッ、と他の客が逃げるように勘定を払って消えていく。
 あそこの席は、違う雰囲気だ。関わらないほうがいいと判断したんだろう。
 ……背筋を凍るような、そんな寒気がした。目を逸らして、話に戻る。
 普通に見えるけど、なにが式の眼に止まったんだろう。
 よく解らない。 
「まあ、いいか。それより何が食べたい? ここのショートケーキが美味しいっていう話だったけど」
「ん」
 式が頷く。
 雰囲気に耐えられなくなったお客さんの最後の一人がドアを開けて出て行く。
 りぃん、と涼やかな音。
 からんからんと鳴る音。
 そして、ドアが閉まる音。
 幽かな、錠を閉めるような、音。
「……鍵の音?」
 それはおかしい。ここは喫茶店だ。
 未だ昼間だし、お客さんがいるのに鍵を閉める店なんておかしい。
 橙子さんは愉しそうに口を歪めた。式が訝しげな顔を橙子に向ける。
 苦笑しているような、抑えきれない笑いを無理矢理にに殺しているような表情だ。
 なるほど。これなら式のあの訝しげな顔も不思議ではない。
 黙りこくって視線を集める数人の姿。珍しく、困ったような顔に見えなくもない。
「橙子さん、……どうしたんですか?」
 至極当然な問いに、橙色の魔術師は答えた。
「天然の罠だか、歪だかに巻き込まれたぞ」
「ひずみ……ですか?」
「無限の鎖、そして、世界の枷としての無限回廊」
 声に乗る色は無く。ただ淡々と紡がれる言葉の渦。動揺の色は見えない。
「無限回廊……」
「永遠の世界蛇。終わりは始まりに、始まりは終わりに還る」
「それはどういう……意味、ですか」
 僕は言葉の波を受け止めきれないままに、訊いた。
 言霊というやつなのだろうか。しかし、その全てを表す存在を知らない。
 カタチのない、檻のようなものなのだろうか。

「あるいは――、胡蝶の夢か」
 夢が視る夢を表す言葉。
 ……なにが可笑しいのか、意地悪な魔術師は含み笑いをした。


 ◇


 嫌な予感は、大抵当たるものだ。
 カウンターのほうを見る。
 と、橙子さんの後ろに座っていたひとのうちの一人も異変を感じたのか、奥を覗き込んでいる。
 あっちはいいか。
 直ぐに後ろのドアを開けてみる。強く引っ張ってみるが……開かない。
「橙子さん。開きませんよ」
「そりゃそうだろう」
 先程、訊いたときと同じ口調で、至極当然、といったふうに返してくる。
 落ち着いているところを見ると、大した事はないのかもしれない。
「で、どうなってるんです?」
「ん、ああ。何と言うか……」
 躊躇うように、あとを濁す。
 橙子さんらしくない。
 このひとは、言いたくないときはしっかりと嘘を吐くか、突っぱねるから。
 さて、どうしたものか。
「そんなに厄介なことなんですか?」
「と、言うか。黒桐に説明するのが難しいだけだ。起こっていること事態は単純だよ」
 煙草のけむりを吐き出して、少し、手で弄ぶ。
「じゃあ、出られるんですね?」
「いや、ちょっと無理かもな」
 あっさりと諦めの言葉を吐く。
 現状と矛盾するその冷静な姿に、言葉を失いかける。
 どうにか、疑問を続けられた。答えが返ってくるかどうかは自信がない。
「なんでですか?」
「さっき言った言葉を聞いてただろ? 天然の歪だからね。
 時間が経てば出られるかもしれないが、下手に出ようとするととんでもないところに飛ばされる。
 こんなところ――普通の喫茶店で起こるなんて、まず在り得ない。
 なにか原因はあるはずなんだが、まあ、原因が解ったからと言ってどうにかなるものでもないな」
 天然のひずみ。
 なんだろう、それは。僕の疑問に答えてくれる気なのか、橙子さんは黙っている。
 気が変わらないうちに訊いておこう。
「……隔離されている、と言うことですか? 結界、とかそういう」
「まあ、間違いじゃない。ただ、天然モノだからな。
 何処に造られた、というモノでもないんだ。だから、巻き込まれたという表現が一番しっくり来る」
「じゃあ、このままここにいるしかないんですか?」
「んー、そうなるかな」
 美味しそうに煙草を吸う橙子さん。
 その横で、コーヒーを優雅に飲んでいる式。
 最後まで飲み終えてから立ち上がった。そのまま窓の近くへと向かう。
「……まあ。そんなに慌てても仕方がないのは確実だからね。
 とりあえず、座ってお話でもしていよう」
「あのですね所長。
 僕たちはまあ、慣れていると言えば慣れているけど。あっちの関係ないお客さんだっているはずです」
「幹也。……あんまり慌ててないみたいだぞ」
 コンコン、とガラスを叩いていた式が座りながら、視線を別の席へ向ける。
「それにアイツ等、なんか」
「あんまり気にするな。式。こっち側の人間ではないからな。争う意味もないぞ」
 ……式も橙子さんも物騒なことを言っている。
「闇は闇に。そして、類は友を呼ぶ。そんなことが真理というものさ。
 闇の中では幽かな光ですら、対称を成す別のモノが無ければ、最も明るい。
 まあ、真実の闇であるなら、光なんぞ視ることは出来ないがね」
 皮肉な口調、冷たい目は、式とガラスの外を見ている。
 なんか、あっちがわに座っている人はちらちらとこっちを見ているだけで、
 それほど慌てている様子も無い。落ち着いているようだ。
 放っておいていいんだろうか。
 こういったことに巻き込まれやすいのは、ここの二人が原因だろうに。


 ◇


 からんからんと音が鳴る。
 美味しい美味しいと評判の、アーネンエルベだ。
 独語で遺産、という意味らしい。
 当然ドイツ語なんて知らないからあってるかどうか解らない。
 とりあえず、美味しいと評判だから、日ごろの感謝を兼ねてみんなを連れてきたのだ。
 なかなか来れない場所だったのに、いきなり機会が出来たので全員呼ぶことになった。
 誰かに呼ばれたみたいに、連れ立ってここを目指して歩いてきた。
 ぞろぞろと、おそらく目立つ集団を連れているのは仕方があるまい。
 足音は揃わずに、案内されたテーブルへと分かれて座る。
 ……二つに分かれたりしたら、こっちじゃない方から冷たい視線が。
 若干、テーブルを近づけよう。
 命は惜しい。
 しかし、本当に目立つ集団だ。
 金髪が一番目立つ。
 真祖の姫君。
 白の吸血姫。
 アルクェイド=ブリュンスタッドがにこにこしながら席に座る。
 一見しても、まあ、誰も吸血鬼とか解らないし。
 適当に注文を済まし、しばらく待つ。
 店員さん以外は、誰も近寄ってくる様子は無い。
「で、アルクェイド、なんか言ったか?」
「うん。嫌な気配がしたんだけど……。まあ、大丈夫だと思う」
「嫌な気配って……」
「ん。ああ、シエルと同質の嫌な感じ」
「……ケンカ売ってます?」
 シエル先輩が、危険な目つきで睨んでる。
「うん」
 アルクェイドが迷わずにうなずく。
 どうしてこう、仲良く出来ないんだろ。
 運ばれてきたカップを置いて、戻っていく店員さん。
 それを気にもせず、シエル先輩が告げる。
「解りました。買います」
「あーあーっ、ケンカしないでくれって」
 この二人を近づけると、大変なことになるのは解ってたんだけどな。
「志貴……とりあえず、シエルのことは気にしないけど。妹の視線はどうにかならないの?」
「え……?」
 横目で覗き見ると、目を細めてこちらを向いている。
 ちょっぴり睨まれている気もする。フォローするのも、案外大変かもしれない。
「あー、秋葉は……」
「兄さん。どうしたのかしら?」
 にっこりと笑いかけられた。
「いや、こういう所はよく来るのか?」
 うっ、と少しだけ言葉に詰まる。
 その様子にたたみ掛けるように言葉を連ねる。
「いままで喫茶店なんて、わざわざ寄ることもなかったと思うんだけど」
「……そうですけど」
 少しだけ、すねたようにくちびるを尖らせる。
「来たことくらいはあります」
 そんな台詞をつぶやいて、横を向いて視線をそらす。
 慣れていないというのは、正解だったようだ。
 とりあえず、痛い視線は消えたようなので安堵する。
「秋葉さまのご学友の方はよく見かけますけどねー」
 琥珀さんがフォローなのか違うのか、よく解らない言葉を発した。
 えーと、それは。
「ちょっと待ちなさい琥珀。……それは、この店?」
「そうですよ? おひとりで紅茶を飲んでいらっしゃったり、色々と」
「……そう」
 なんだか少しいじけている様子の秋葉。
 立ち直るのはすぐだろうから、あえて突っ込まない。
 それよりも気になるのは、琥珀さんのほうだ。
「琥珀さんは喫茶店とか来るの?」
「うーん、そうですねー。機会があれば、と言う事で」
 答えてないです。
 まあ、主人が来てないところで常連さんやってる、なんてのもマズイんだろう。
 そのお金がどこから来ているのか知りたいけど。
 黙って紅茶を飲んでいる翡翠にも話を振ってみる。
「で、翡翠は?」
「……あまり、この周辺には来たことが無いので」
 紅茶のカップを置いてから、答える。
 メイド服のままというあたりが、色々目立つ気もする。
 もしかしたら、琥珀さんも上着を着てはいるが、中は割烹着姿のままなのかもしれない。
 考えていると、シエル先輩が小さく漏らす。
「この店にはカレーは無いですね……」
 さすがにそんなものは無いです。
 先輩は、惚けた台詞を吐きながらも、何故か別のテーブルに目を向けている。
 同じ方向に視線をずらしてみると、黒っぽい服装が目に入った。
 黒いズボンに黒い服、黒いコート。
 前髪を少しだけ伸ばしたことが、さらに黒一色を浮き立たせる。
 その顔には、人のよさそうな笑顔が浮かんでいる。どう控えめに見ても善人だろう。
 シエル先輩が注視するほどの事もないと思う。
 同じテーブルについている人たちは、なんと言うか……美人ばかりだ。
 じろじろ見るのも悪いと思って、視線をそらす。
「ま、今日はゆっくりと過ごそう」
 面々にそう告げて、自分の前に置かれたコーヒーに手を伸ばす。
 異様な雰囲気など全くない。
 せいぜいが、このメンバーでこの店に来ることができたことだけだ。
 なぜか、俺がここに来ようとすると邪魔が入るのに。
「しかし……タイミングが良かったのかな」
「はい? 何かおっしゃいましたか兄さん」
「いや何も。いきなりの提案だったのに皆良く来る気になったなぁ、と」
「それは兄さんが呼んだからでしょう」
 ……ん?
 かすかな違和感を感じたが、横から声がかかった。
「志貴さま……お砂糖はいくつ入れましょう?」
「あ、うん……二つくれるかな」
「どうぞ」
 翡翠が砂糖を珈琲に入れる。
 わざわざ立って来るあたり、もうちょっと気楽にして欲しいけど。
「アルクェイド、珈琲でよかったのか?」
 なんだか悩んでいたアルクェイドが、俺と同じ物を選んだのが気になった。
「うん。志貴と同じのが良かったし」
「そうか」
 軽く照れる。
 突き刺さるような視線が復活した。
「ケーキとかは頼まないのか?」
「えっと、ちょっと選んでる……」
 アルクェイドの言葉が終わった瞬間を狙って、秋葉が口をはさんでくる。
「兄さん……どうして私は紅茶なんですか?」
「い、いや、紅茶を飲みたそうな顔だったから」
 う、と図星をさされたような表情になる。
 アルクェイドの言葉に反応しただけらしい。
 いまさらコーヒーが飲みたかった、なんてことは言えないようだ。
 あっさりと黙り込む。反撃にでないらしい。助かった。
 琥珀さんが楽しそうにメニューを見ているのを恨めしそうに見て、紅茶を飲むのを再開する。
 シエル先輩は味にうるさそうだけど、ここのはおいしいらしいから大丈夫だろう。
 珈琲に口をつけて、ちょっとだけ笑ってしまった。

 ……この瞬間が、途方もなくかけがえのない一瞬に思えて。

 楽しくなってしまったから。
 中途半端な感慨を、笑みに変えてみる。
 うん、やっぱり楽しい。
「それで、ケーキはなにか頼んだ?」
「ええ、先ほど選んでおきましたよ」
 琥珀さんが答える。
 まさしく気の利いた行動だ。秋葉にも見習って欲しい。
 そんな考えを読んだのか、秋葉がこちらを見ていた。
「どうした?」
「いえ、何でもないです」
 ぷいっ、と拗ねたように別の方向を見る。
 そのまま紅茶に手を伸ばして、気付いたようにカップを見る秋葉。
「時代物のコップのようね……」
「ええ。そういうところには、ものすごく凝ってるらしいです」
 琥珀さんが解説を加える。
「ここの建物の造りも、洋風の感じより、若干古風さを優先させているらしいですし」
「へぇ……」
 感心しているアルクェイド。
 その言葉にツッコミが入る。
「貴女の城の方がよほど古いです。なに感心しているんですか」
「えー。うちの城なんて誰も来ないから寂れる一方だし……」
 言いながら、ちょっぴり考えるアルクェイド。
 そのまま思いついたように続ける。
「あ、そうだ」
「なんですか?」
 先輩が、何気に訊く。
 その疑問に、アルクェイドが答えた。
「んー、志貴を招待してあげようと思って」
 うんうんと、頷きながら自分の考えにご満悦。
 ふたりの問答の様子を見ていた秋葉が、ちょっとだけ声を大きくする。
「兄さん。日本から一歩でも出たら……解ってます?」
 秋葉、それは脅迫かな。
 訊いてはいけないと解っているので、珈琲をすすって誤魔化す。
「遠野くん、アルクェイドの甘言に騙されたらいけないです」
 先輩が、じぃっとこっちの目を覗き込みながら忠告している。
 催眠でもかけられているような気がする。
 あわてて目を逸らす。
 その視線の先には、琥珀さんが笑っていた。
「みなさん、志貴さんを困らせていはいけませんよ」
 まったくもう、と呟きながら、珈琲を頼んでいる琥珀さん。
 ブラックで飲むのかと思ったら、意外と砂糖は多めに入れていた。
「それに、決めるのは志貴さんですから」
 そんな締め方でみんなを黙らせてしまった。
 なんとなく、口を開きにくい。
「あの……」
「ん? 翡翠、どうしたんだ?」
 これまで黙っていた翡翠が、おずおずと口を開いた。
「何処に行くにしても、私は志貴さまにお仕えさせていただきます」
 態度は遠慮しがちなわりに、やけにきっぱりと言い切った。
 それに琥珀さんが反応する。
「翡翠ちゃん。怖いひとたちには気を付けるんですよー」
 琥珀さんは、翡翠の耳元に口を近づけて、この場に聞こえるようにささやいた。
 ちら、と脇を見ると、三人が睨み合っていた。
 収拾がつきそうもないので、やはり珈琲を飲もう。
 視線から逃げるように、珈琲を手に、どこか遠くを見てみる。
「ふぅ……」
 単なる現実逃避で、解決になってないことにすぐ気付く。
 ためいきも、少し恐ろしげな雰囲気にかき消されていた。

 誰も、このテーブルに近寄ってこない理由が、なんとなく解った。
 
 と、他の客が少なくなってきていた。
 お客さんがひとり出ていく姿が、視界の端をかすめた。
 リィン、という鈴の音。
 カランカランという、続く音。
 最後に、ドアを閉める音。
 かしゃん、と錠のかかったような音。

 鍵の音のする喫茶店があるはずがない、と意識の隅で考えて。
 その瞬間に横を見ると、先輩がドアを見て硬直していた。

 とてつもなく、嫌な、予感がした――

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