平穏な日々が好きだった。

森を駆け抜け、風になるのが好きだった。

あきれかえるほどの退屈が好きだった。


そして、人の感じることのできる、温もりを知ってみたかったのです。

(「THE WARMTH OF HUMAN U」より)







 すべては終わった。そこは廃墟だった。人間の姿は失せ、過去に犇めいていた亡者も消え去った。あるいは生きて逃れた。留まる者はいなかった。何もかもが失われた。あまりに過酷な記憶が棄てられて、やがて。
 やがて忘却される。永劫に。
 始まった物語はいつか終わる。それだけのことだ。
 死と隣り合わせの悲劇を越え、少女は生きて光の元へと抜け出した。真実は闇の中に潜んでいた。深く冷たい闇を彷徨った彼女は、最後まで挫けずに立ち続けた。目指した場所を支配していたのは狂気だった。残酷があった。誘惑があった。悪意があり、苦痛があり、恐怖と絶望が蔓延っていた。彼女には己を救えたかどうか分かりはしない。「月」がいったい何だったのかも詳しく知らない。ただそれが彼女にとって悪夢そのものであり、幻惑であり、自分と母の絆を断ったものであったのは確かだ。
 すべてを終わらせたのは彼女だった。そうして再び日常を取り戻した。未来を手に入れた。進んできた道は、目指した場所は、そのためにあった。平穏な世界へと帰り着いた。日々を始めた。新しい今を始めた。自らのための幸福な現在を探し始めた。いつか母と過ごしたような温かさ。愛しき家族を得る未来は遠くなかった。
 そうだ。彼女は生きる。彼女はやがて娘を生む。自らに似た、そして母の面影を宿した赤子を。その元気の良さに手を焼きながらも、我が子を育てる喜びを知るようになる。幼子が成長し大人になるまでの日々を温かく見守り、慈しみ、愛し、優しさで未来を満たす。苦しみを分け合いながら、最後まで自分の温もりを与え続ける。
 彼女は母となる。愛しきものに惜しみなくすべてを与えるものになる。
 誰がそれを疑うだろう?
 苦しんだぶんだけ、ひとは幸せになれる。そんな保証はどこにもない。世界は理不尽で不公平だ。生命は運命という偶然と、重力という必然に翻弄され続ける。それでも苦しみの果てに喜びはやってくる。彼女は生き続けるに違いない。生き続け、死の瞬間まで、ひたむきに生きようとするに違いない。
 それは願いだ。そうであれ、という希望でしかない。
 すべては終わっているのだ。
 だからこそ語ろう。
 これは、おまえたちの物語なのだから。


 宗団があった。一時は話題となったその名も、今となっては口にする者はいない。おまえは――おまえたちはそこに囚われた。おまえは飼い慣らされず、しかし最後まで逃げなかった。そして死んだ。
 おまえたちを捕らえたのは「月」だった。同族。けれど似て非なるもの。
 おまえたちは共に森で生きていた。空より降りてきたおまえたちは、命に溢れた豊穣なる森を住み処として世界を生き始めた。おまえたちはひっそりと暮らした。獣と呼ぶにはあまりに人間じみていた。人間と呼ぶには違いすぎていた。ひとの形にもなれた。おまえたちは姿を変えられた。おまえたちには力があった。神のごとき恐るべき能力が。
 森は平和だった。おまえたちは森の生き物たちと争わない。おまえたちは何も傷つけない。
 あるときひとつの異物が生まれた。生まれたという言い方は正確ではないかもしれない。長い時間を生きたおまえたちの中のひとつが変わってしまった。それは強大な力でおまえたちの自由を奪った。
 おまえたちは森を走ることが好きだった。素早く駆け、風となることを好んだ。平穏を好んだ。退屈を愛した。
 だが「月」はおまえたちを知り尽くしていた。自由を。光を。命を。意思を。あらゆるもの、つまり魂を手中に収めた。逆らうことができぬよう、そして利用するために、形のない枷をはめた。森に分け入ってきた人間と「月」が手を組んだのだとおまえたちが理解したのは、多くの仲間が捕らえられたあとのこと。
 おまえたちにとって人間は憎むべきものだ。
 最初、おまえたちは逃げた。おまえたちは争いを好まない。ひとつが狂ったところでおまえたちは数多くいた。逃げればそれで済む。そう思っていたのだ。おまえたちはひどく孤独だった。おまえたちは仲間であったが家族ではなかった。
 いつからか人間がおまえたちを追い始めた。人間はおまえたちを効率よく捕獲した。まるで獣が獣を追い立てるように。人間はおまえたちを獣のように檻に入れた。利用価値のある益獣――否、家畜として扱った。
 おまえたちは己の能力を人間に分け与えることが出来た。それはひどく都合の良いことだった。人間にとってか、それとも「月」にとってか。その答えをおまえたちは最後まで知らない。知る必要もない。ただ奪われた。奪われ続けた。おまえたちは切り離された。仲間と顔を合わせることなく死に絶えた。苦しみと哀しみのなかで魂を失った。おまえたちは森を愛していた。森は心の在処だった。心こそが命だった。だから、おまえたちは失われた。
 一人、おまえだけが残った。いや、もとよりおまえは独りだったのだ。
 おまえは自らの終焉を想像した。死というものについて眺めた。そこには何もなかった。


 おまえは、森を逃げていた。森の中を。
 森とおまえは繋がっていた。森を離れては生きていけない。
 「月」が人間を導いた。おまえを知悉していた「月」が。狩人たちは着実におまえを追い詰めてゆく。耳に届く葉の音はどこかあやうい響きがあった。木々のざわめきが森の異変を伝えた。狩人がおまえに狙いを定めていることを森に棲むものは理解した。だがおまえは逃げることしかできなかった。
 おまえは何も傷つけられない。
 いつしか森は平和な場所ではなくなった。罠と敵が蠢いている暗闇と化したからだ。おまえは逃げ場を失った。居場所を失った。帰るべき場所を奪われたのだ。
 悪意は増殖し、周囲を満たし、おまえは森から出ることはなく、しかし森を必死に逃げ延びようとした。使っただけ力は失われた。回復しようにも休まる場所は残されていなかった。気を抜けばおまえの背後に敵が現れた。本来眠らなくとも生きていけるはずのおまえが睡眠を必要とするほどに疲弊した。
 ときに運命は巡り合わせの悪戯を好む。禍福を表裏にしながら、生きるものを惑わせもする。
 おまえは出逢った。おまえは、出逢ってしまったのだ。
 敵ではない、人間と。


 獣の姿で逃げまどっていたおまえは、眼下にそれを見た。小さな人間だった。母親と共に森に遊びに来ていたのだ。なんと無邪気な追いかけっこか。自分の現在と比較するようにおまえは動く人間たちを眺めていた。何をするでもない。そういう人間がいるとして視界に入れた。
 不意に体中から力が抜けたのをおまえは知る。おまえは樹上から落ちたのだ。仲間と共に逃げている最中のこと。力尽きたのだ。仲間はおまえを助けなかった。おまえが生き延びられないと悟ったか、それとも迫り来る悪意を感じ自ら誘き寄せる囮となったか。
 諦めがおまえを支配した。暗く冷たい闇がおまえを覆い尽くした。逃げ切れないことは分かっていた。おまえは人間を殺さない。人間はおまえを捕まえる。それは一方的で卑怯な追跡劇だ。悪辣な現実がおまえをその内側に留め置こうとしていた。視界は闇に奪われている。おまえは地に墜落し、倒れ伏している。
 おまえは苦痛と絶望を味わった。
 そのとき、何が起きたか、おまえは覚えているはずだ。
 声がかけられる。子供の声が。おまえは動けないながらにそれを知る。おまえは苦しんでいた。おまえの身体には痛みがあり、おまえの精神には憎悪があった。おまえが苦しめられているのは「月」のせいであり人間のせいだった。人間はおまえを苦しめることに躊躇いなど覚えなかった。獣、家畜、それ以上のもの、欲望の糧。すなわち人間から滲み出るおぞましい精神がおまえを蝕んだ。おまえは緑を拠り所にし、魂を依らせて生きるものだから。
 不可視なるもの。魂。心。意思。強靱なるそれは力となる。それは鞭打たれ痛めつけられ死を前にして、より鋭利に研ぎ澄まされる。刃物のごとく鍛え上げられる。美しいものは瑕のついていないものだ。だがそれでは力は弱い。他者を傷つける力はもっと醜くなくてはならない。
 おまえは憎しみを以て自らを追う人間達を見つめる。人間は皆穢れている。欲にまみれたものども。森の、木々の、花の清浄さを糧とするおまえにとっては、あまりに不気味な生き物がそこにいる。ゆえに「月」は人間に与したのだ。「月」もまた穢れを力とするものだったとお前は知る。
 本来の魂の在り方とあまりにかけ離れたもの。だがおまえもまた、追われることによって少しずつ汚染された。
 おまえにとって人間は憎しみそのものだった。
 しかし苦痛に苛まれるおまえに、無防備なまま人間が近寄ってきたのだ。おまえが我を失って少女を殺すことは十分ありえた。そうだ、殺すに足る理由もあった。おまえの本来の温厚さはすでに失われている。手負いの獣じみた凶暴な精神がおまえを狂わせていた。殺すのは簡単だ。赤子の手を捻るよりもなお容易い。おまえにとって人間はひどく壊れやすいものと見えていたはずだ。
 そして、それが起こる。
 なんということだろう。少女は恐れずおまえに声をかけた。少女はおまえの痛みを知った。少女はおまえの苦しみに共感した。少女はおまえに優しさを与えた。そこには脅えもなければ穢れもない。純粋におまえを心配する気持ちがあった。
 少女はおまえに触れたのだ。そっと。痛みを半分に分けるように。
 声に。指先に。魂に。
 温もりがあった。そこには陽の光に似た、あたたかなものがある。おまえはそれを知った。

 少女はおまえと再び会う約束を告げて、森を離れた。その森を大好きだと口にして。またくると言って。おまえは答えない。答えられない。
 その直後、おまえは。
 身動きのできないおまえは、あまりに易く敵に捕らえられた。それから長い時間おまえは闇の中で過ごすことになる。無為な時間だ。退屈なのではなく薄暗い虚無の時間だった。明滅を繰り返す淡い希望はひどく平坦な絶望にすり替わった。おまえは何も望まなかった。少女のことを思い出すこともなかった。
 ほんとうに?
 答えるものはいない。闇の中で、ほのかに灯った熱は悉く奪われた。利用されるため死ぬまで繋がれているだけの生涯。おまえの魂は緩やかにすり減っていく。傷ついた魂は強くなる。けれど壊れやすくなる。あるいは心が。それは鉛筆に似ている。削らねば使えない。削りすぎれば脆くなる。おまえは自分の死が近いことを知る。「月」はおまえの終わりが近づいていることを知る。「月」はおまえを使って自分が得るに相応しい魂を求める。


 犠牲者たちがいた。何人も。何十人も。おまえが犠牲者たちを作り出した。ただ己のためだけに狂気を撒き散らした。増え続ける。いったいどれだけいるのだろう。数多の狂気を孕んだ世界が広がっていく。狂気はより深く濃さを増した。正気を失わずにいるものはさらなる苦しみに蝕まれていく。
 気が触れるという言葉がある。何に触れるのかをおまえは知っている。 
 決してひとが辿り着いてはいけない場所へとおまえが導く。赤黒い子宮を通り抜け胎盤へと還る儀式。しかし生まれ変わるのではなく変質のための。
 何に変わる。
 獣ではない。もっと別の何かに。
 何に変わる。
 言うなれば、怪物に。
 おまえとの接触はすなわち不可視の力を得ることと等しい。力を増大させるためには狂気の深みに降りてゆかなければならない。深淵へ。地獄へ。魂を鍛えよ。自らの過去を見せつけられることにより。自らの醜さを膨れあがらせることにより。
 触れろ。
 何に?
 傷だ。痛みを蘇らせる。それだけのために用意されたのは幾度もの苦痛の再現だ。肥大化した投影は己そのものだ。たとえ歪んだ鏡であろうと映ったものは紛れもなく自らの過去だ。ひとは自身の過去から逃れることはかなわない。記憶はそれほどまでに枷となる。ひとは自らに縛られる。己の分身は過去にいるのではなく未来にある。酷薄な機械たちが無機質に人間の型を取る。過去へと引き戻す。心との対話。そんな生やさしいものではない。傷口を開かれた人間は丸ごと裏返される。中身は外側に、外見は内側に。内臓が空気に触れる。直截に触れられる場所に晒された内臓たちはグロテスクな形状を余すことなく他人にも自分にも見せつける。目をそらすことは許されない。たちまち痛みが人間を支配するからだ。痛みは危険を知らせる信号で、それによって人間は生き存えさせられる。
 奇形の精神。死が近づいてくる。恐怖。そして傷は増える。現実という茨の世界に触れれば触れるほど外側にあるものはなおも傷つき血を流してゆく。流れれば流れるほどまた死に近づく。精神の血。魂の死。虜囚の身となり果てた末、暗闇の中でおまえは多くのことを考えた。魂は分け与えるもの。心は命の外側に創られる。そして意思は、肉体や力、あらゆるものを動かす方向であるのだと。
 部屋に人間が入ってくる。人の姿となったおまえと性交することによって、力が与えられた。おまえはその女を犯した。女は目から血を吹き出して死んだ。痛みに悶え苦しみながら呪いの言葉を吐き出して痙攣しながら息絶えた。そうだ、おまえが殺したのだ。
 時間が流れる。おまえは自由を奪われている。死ではない。死は常におまえの傍に寄り添っている。おまえは囚われていた。森から引きはがされたおまえにとって生き続けていることこそが不自然な状態だった。
 時間は流れる。おまえの元に送り込まれた人間は試された。試され続ける。力を持てば人にとっては歪みとなり意思はねじ曲げられてしまう。そうはならない精神を持った人間が求められた。しかし精神の強さと意思の方向が重なるわけではなかった。従順であることと、凶暴であることは等しくなかった。だが決して矛盾しなかった。むしろ矛盾こそが傷を深くした。深い傷を持つ者は権利を与えられた。掃き溜めの世界で安寧を手に入れることが出来た。無論その安寧は無辜ではない。他者の不幸を気に止めないものだけが力を振るった。
 不可視の力、女性だけが得ることのできる能力だ。力の制御が出来ないものは失敗作として処理された。力は強ければ強いほど制御が難しくなる。暴走したものは死んだ。使えない人間は塵芥とされた。棄てるほどに男がいた。女がいた。性欲の処理に使われた女は傷の浅い者だった。欲望を果たさせることと苦痛を深めるという二つを備えた合理の判断だった。陵辱は行われた。時には拷問もあった。一部の者の個人的な欲望も満たしながら、特別なものにはなれない者たちは虐げられ続けた。狂気。狂気だけがこの世界の基準だった。
 失ったものが大きければ大きいほど、人間は傷を、精神を深くした。おまえはまた理解を深めた。心の形とは傷そのものだ。傷つけば傷つくほど磨かれる自我はやがて壊れもする。ひび割れれば命に至り、死に瀕する。
 おまえによって力を与えられた人間がいた。彼女も壊れた。彼女も壊れた。彼女も壊れた。何人も狂って死んだ。おまえはおまえ自身の望みを果たすため犠牲とし続けた。おまえはまだ生きていた。おまえの足下で何十人もの女が柔肌を晒して無惨に朽ちている。
 日々は過ぎてゆく。壊れた人間。壊れた肉体。壊れた精神。壊れかけたものを抱えて生きているものたちがいる。「月」は試している。それを知りながらおまえは繰り返す。そして呪う。同族を殺し尽くした忌むべき「月」を。こんなにも哀れで弱く愚かな人間たちを。
 どちらもが己の暗闇を広げようと闇のなかで蠢いている。狂気が怪物を生み出す。血肉を喰らい骸と屍の山で更なる狂気を育てている。おまえはその闇に飲み込まれながらいつか死ぬまでここで死に続けている。すなわちおまえは自らの意思を半ば棄てていたのだ。悪意の体現者たちに利用されながら、おまえは自動的に犠牲者を生み出す。おまえの呪いを身に宿したものたちを。
 おまえによって力を与えられた人間がいた。その女は死にもせず、壊れもしなかったが、元より生きていなかった。
 日々は失われてゆく。人間達は痴態と憎悪の坩堝で踊り狂う。心は蝕まれてゆく。肉欲も絶望も恥辱も混沌も、無明のなかでまぐあい、溶け合う。あらゆるものが腐ってゆく。誰も自らを救えない。誰も他者を救おうとしない。ゆえに汚濁を繰り返す。吐瀉物と糞と尿と血と汗と垢と精液の敷き詰められた部屋を温床として。
 放心。
 また狂気が生まれる。永遠に続く悪夢においては狂気こそが救済ともなろう。誰も己を救ってなどくれない。それは自明のことだ。たったひとつ守るものを決める。命を守るため心を棄てる。心を守るため命を棄てる。命の代わりに誇りや未来を棄てるものもいる。友の代わり、母の代わり、子の代わりに己を棄てる。逆もある。なべて正気でいることは苦痛を引き延ばすことに他ならない。
 おまえは幾度となく同じことを繰り返す。穢れた魂の結末を、おまえは知らない。ただ、己がしていることの意味を永遠に似た空虚のなかで考える。たったひとつのことを切望する。まるで人間じみた愚かさで。

 長い時間の果て。凍り付いた心の涯て。おまえは時を数えない。おまえは自らの行いを記憶しながら希望を持たない。おまえは厭いた。そして、すべての終わりが悪夢に彩られた世界に訪れる。本当ならそれは希望だった。だが、おまえにとっては新たな悪夢のひとつだった。そうでなければならなかった。だからおまえは植え付ける。
 呪いを。
 力を。








 人間が部屋に入ってきた。おまえの部屋に。力を得て狂気に陥り己の意思を失う。その儀式のために。女だった。いや、少女と呼んでもかまわない。ひどい既視感に襲われて、おまえはいつか出逢った少女を哀しみとともに思い出す。遠い記憶だ。はるか昔に存在する幸福だ。
 もはや過去形でしか語られないもの。彼女もまた犠牲者となる。「月」の贄にか、そうでなければ狂気の住人にか。違う、おまえの犠牲となるのだ。おまえは意識する。彼女は自らの意思でここにやってきた。彼女は他の犠牲者と同じように自らの闇に向かった。粘り着くような己の醜さと対峙させられるために。
 心。
 それを直視する。身体は無意識に悶え見苦しくのたうちまわる。荒い息。血走った目。自分が見ているものの正体も知らず古い傷は再び開いた。容易く癒せないよう二度三度と斬りつけられるような痛みが蘇る。おまえはそれを見る。おまえは呪いを植え付ける苗床が育つのを楽しみに待つ。
 ひとは記憶を糧として意思に力を与える。だから意思は穢れに容易に染め上げられる。強い意思はその元に理由を求める。復讐。憎悪。絶望。悲哀。数知れぬ負の感情は連鎖する。循環する。こうして培われた呪いは様々な媒介を求める。命や心、肉体や言葉へと。
 おまえはあきらめなかった。
 最後まであきらめなかったから、望みが果たされるときがやってきた。おまえは喜んだ。おまえは愛おしんだ。
 人間という存在の愚かさを嘲笑った。
 一方で彼女は心の鍛錬と称した悪意に晒される。それは拷問だ。痛めつけることによって鍛えられるのは意思ではなく傷の深さだ。ゆえに痛みばかりが増大する。彼女は淫乱を露呈させられる。彼女は性欲を肯定させられる。彼女はそれらが自分の中にあることを否定できないことを悟る。そして受け入れる。
 恥。
 死に繋がる弱さの克服。だが、それは強さだろうか。傷ついて傷ついて傷ついて傷つき続けて慣れてしまっただけの心。傷は過去ばかりにあって、やがては未来にある痛みを恐れなくなるに過ぎない。
 闇は均一に漂っている。彼女は闇に同化してしまうだろうか。おまえが答える。偽善のように。もし、弱さを切り捨ててしまえば。けれど弱さとは痛みを持っていることではないとおまえは理解していた。痛みから目を反らすことだ。彼女は過去こそが自分であると知る。自分を作り上げてきたものであることを認める。
 彼女はおまえと話した。おまえは言葉を交わした。触れ合った。
 おまえは彼女の犠牲をいたく喜んだ。そうだ、おまえは勝った。真実、賭けに勝ったのだ。
 ほんとうに?
 本当に。
 だが、おまえはどうして躊躇した。おまえは戸惑った。望みが叶うときになって、おまえは生まれくる悲しみの正体に気づいた。
 ひとときの慰め、奇跡のような劣情。腕の中でおまえはひそかな熱を感じる。彼女はおまえと肌を合わせた。おまえと交わることが呪いであると、おまえは完全に承知している。彼女もおまえの犠牲者となる。おまえは他者の未来を顧みず、利用して目的を果たす。そのために。そのためだけに。
 無意味な感情がおまえを支配する。おまえは魂を分け与えた。命を遺した。
 とうとう、おまえの望みが叶う日がやってきた。
 終わりが近いことをおまえは知る。そして、おまえは静かに自分の来た道を思い返す。明日などいらなかった。未来はどこにもなかった。絶望の声が未来ではなく過去から聞こえてくるのを知る。そこにいるのはおまえだった。昨日と明日が同じものではないと未だ知らない、たったひとりのおまえだった。
 どこにも答えなんてなかった。誰にも答えることなどできなかった。
 だが、おまえは生きることをあきらめなかったはずだ。なのになぜ、おまえはあんな呆気ない死を選んだのだ。
 あのとき、おまえは何を希った。




 闇は深さを増してゆく。溢れ出しそうな狂気は殖え続け、現実へと浸みだす。
 地下へ。地下へ。無限にも思えるいくつもの闇を通り抜け、循環から外れ、さらなる底へと下ってゆく。彼女はおまえの代わりに扉を開く。おまえの死が近いと知り、急がなければという焦りに支配される。暗闇の世界に咲いた花々が彼女の手により散った。彼女はひたすらに美しい花をむしり取った。おまえはもはや腐りゆく死骸に過ぎなかった。
 おまえは死んだ。少女はおまえに託されたものを抱きしめた。
 何を。
 生きることを。
 生きるとは、どういうことだ。
 意思を持つことだと……おまえが、そうだ、おまえが答えたのだ。

 おまえは自由を得た。おまえは風となった。おまえは自らの終わりを知った。終わることを喜びさえした。答えを得たからだ。ひとの温もりを得たからだ。
 彼女はおまえの願いを知る。おまえが消えたことを知る。
 感じるものはおまえの名残。彼女は喪失の衝撃に意識を失う。曖昧を彷徨い悲しい夢を見る。闇の中、立ち尽くしたおまえの姿を視る。彼女は自らの為すべきことを理解する。もはやおまえはどこにもいない。ここは森ではない。おまえの愛した森ではないからだ。そして。
 そして、おまえはすべてを失ったはずだ。
 なぜ、おまえは笑ったのだ。



 おまえは知っている。戦いの末、彼女が己の影たる「月」を滅ぼすことを。闇の中にいたあらゆる人間はさかしまの世界が崩れるのを感じる。醒めない夢の終わりが訪れたことを、明けない夜の終わりが始まったことを意識する。誰も遠くには行けなかった。無貌の狂気はすぐそばに潜んでいた。あきらかにされた闇は消えるしかない。けれど明日になれば、夜が明ければ、ひとつの永遠が始まる。
 過去という名の永遠が。
 そう、「月」は記憶の底に安住の地を見つけたのだ。「月」は人間の淋しい心に似ていた。おまえと「月」は同じものから生まれた。たとえば憎悪と愛情が、同じ心の表裏、異なる形の真実であるように。
 すべては終わった。「月」は夜に溶け、闇に消えるだろう。だが、木々が枯れようと森はその命続く限り再び蘇る。あらゆる命は生まれ、生き続けようとする。
 おまえは「月」ではない。
 ならば、名も無きおまえはどこにいる。
 おまえは望みをかなえたのか。
 それは「わたし」の願いが褪せて見えるほど素晴らしいものだったとでもいうのか。

 そして、おまえは。
 死の瞬間、満足げに笑ったおまえは。

 おまえは、ほんとうは、何を……いったい何を手に入れたのだ?












すべては終わっている。
やがて、悲劇の跡を緑が覆う。新たな生命が、終焉を過去として葬り去る。
季節は巡る。時は流れる。
ある晴れた日、二人の人間が森に遊びに訪れる。
母と、娘と。
少女は走る。森の匂い。動物たちの声。葉のこすれる音色。懐かしい気配たちを感じながら。
楽しくて、嬉しくて、風になって駆ける。
母は娘を優しく見守っている。不意に、頭上から落ちてくるものがあった。
驚いた母は何ごとかと思って目を向ける。娘はびっくりしながらも、その落ちてきたものに近寄る。
娘が心配そうに触れる。

ねえ、大丈夫? 痛いの? ……うごける? お母さん、はやく助けなきゃ!

母は娘の言葉に頷く。
頷きながら、目から涙が溢れ、頬を滑り落ちるのを知る。
森のどこかで、また、新しい花が咲いたのを知る。


そして今こそ、おまえたちの物語が始まる。