すべては偶然だった。
 舞台は五月雨堂で、役者が導かれるように集ったことのすべては。
 店主、宮田健太郎。彼の大学時代の同級生が、知り合いを連れて遊びに来た。
 友人の名は藤井冬弥と森川由綺。彼らの後ろを、興味津々の体で付いてきたのは緒方理奈と英二である。
 緒方英二曰く、『何事も経験だから一緒に連れていって欲しいな』とのことで、少々不安を覚えながらも冬弥は快く頷いた。何分骨董屋、アンティークショップという種類の店に入るのは彼も初めてなのである。
 また、五月雨堂は来栖川芹香御用達の店でもあった。芹香は、店内で先日運良く見つけた大古美術品を取りに来ていたのだが、折角だからと綾香も連れていた。
 当然セバスチャンがお供に付いている。だが、普段入らないような店に来たこと、姉が珍しく自分を誘ったこと、この二点に綾香は機嫌を良くしていた。
 綾香は社交界でのお世辞に疲れ切っていて、逆にこういう店の空気には憧れすら抱いていたのだ。加えて、なにせ二人とも目利きである。良品が揃っている店であれば気分を害されることもない。そんなお嬢様方が、店主と値段の交渉を始めようと店内でじっと待ちかまえていた。
 さらに後ろから入ってきたのは、昔、家族が城から持ち出した一品を求めて五月雨堂に辿り着いたエビルだった。現在の名前は江美と名乗っているが、先祖代々の生業として、家業を継いだ高位の死神である。
 店を探り当てたのは、強い魔力の匂いに寄ってきたためだった。
 尚、余談ではあるが、魔界での友人であり主君でもある代々吸血鬼の貴族を排出している名家、デュラル家のルミラと共に暮らしていた。が、彼女の屋敷が先祖の借金で競売に掛けられるという不運に見舞われたため、他数名の友人と人間界に出稼ぎに出ているのであった。
 現在は月四万の安アパート住まいで、ぎゅうぎゅう詰めの清貧生活を強いられているエビルではあるが、生活費を稼ぐためのCD屋でアルバイトに、そこでのバイト仲間城戸芳晴とのロマンスに、と大忙しの毎日だ。ちなみに朝には新聞配達もやっていて、同じ配達所で働く雛山理緒をバイトの達人として尊敬していたりする。理緒は、バイト歴が他に比べ抜きんでて長いのだ。それだけ貧乏生活が続いているという証でもある。すでに十年は新聞配達を続けているらしく、なんとも涙を誘う話だった。
 そんな彼女たちがここに集まったこと。これらはみな、真実の偶然であり、本来は何事も無くすれ違うだけはずだった。
 そして、店へと続く道を一人の少女が歩いている。名を美坂栞という。二ヶ月後に大手術を控えているが、その手術が成功する可能性は果てしなく低い。それは生命を永らえさせるための苦肉の策として行われる。治癒を望めないからこその、一時しのぎの方策であった。率直に語ってしまえば、治す手段が無い難病を栞は患っているのである。有り体に彼女の立場を表すのは絶望の単語で事足りる。そう、美坂栞は絶望していたのだ。
 彼女が通院から帰りがけにふと思い立って遠出し、今日このときに五月雨堂の敷居をまたいだこと。それもまた、ひとつの偶然であった。死を目前にして、せめてもの思い出作りに奔走していた彼女を責めることはできまい。姉と仲違いをしたことが最後の記憶であるなどと、栞でなくとも誰が認められるだろう。
 ちなみに隣の喫茶店では、生き別れの姉妹と巡り会った感動の再会を演出して、胸の薄さがまさしく血族として迎えるに相応しい結花と遺伝上の奇跡すなわち次女梓を入れ替えようとする陰謀が刻々と進められていた。柏木姉妹の長女千鶴が、母校の後輩にして生徒会長且つシスコンの月島拓也と結託し共謀し画策したのだが、それはまた別の話であるため割愛する。これもまた一種の偶然であったが本編には一切関係ないので了承してもらいたい。ただ血の惨劇が起こっていたことだけを此処に記しておこう。
 さて、本編に戻る。

「こんにちはー」
 栞が挨拶をした。きょろきょろを見回すと物珍しいものたちが大量に、しかし整然と置かれている。店内は栞の想像したものから考えると、それなりに広かった。よく掃除もされているらしく、埃ひとつも見当たらない。
 アンティークショップというのは、もっと古くさくて狭いものとばかり思っていたのだが。なんとなく惹かれて入ってはみたものの、何に目をやっていいのか、栞はよく分からなかった。つい、と目を高そうな絵画へと向けると、横から優しそうな声が聞こえた。
「あ、はい。こんにちは。なにかお探しですか?」
 にっこりと笑いかけた健太郎は、どこか風格すら備わっている。このとき宮田健太郎は二十六歳。帰還したスフィーを生涯の伴侶とし、五月雨堂の主となってはや数年。どこに出しても恥ずかしくない、目利き老練にして評判の店主だった。
 さらに別の方向から、なぜか聞き慣れていた声が栞の耳に届く。
「へー、最近はこんな可愛い年の子も骨董品に興味を持つんだね」
「はっはっは、森川さんも五年前に懐中時計買ってたじゃないか」
「あら、由綺の時計ってここで見つけたんだ……ふぅん、この店、けっこういいわね」
 栞は声のほうを振り向き、目を疑った。そこにいたのは大好きなアイドルだった。しかもふたりである。これで驚かずに何で驚けというのか。栞はいささか呆然とした表情でしばしの間見つめていた。
 森川由綺と緒方理奈。いつか見たあのドラマの主役達がそこにいた。そればかりか緒方英二までが古風な楽器を弄っている姿さえ後方に伺える。栞は、少々ぶしつけに、まじまじと見てしまった。そのうちに他の声が彼女たちと店主を振り向かせた。
「あ、健太郎。俺たちのことは気にしないでくれよ。お客さん、もう一人待たせてるんだろ?」
「そうか。ま、冬弥もゆっくりしてってくれ。あんまり骨董品に興味ある友達なんて少ないからさ、久々の顔見知りだしな。誰も来ないからさぁ」
「お言葉に甘えさせてもらうよ。英二さんもやけに真剣に見てるし」
「いやはや、しっかし……有名人ばっかりだな。お前さんの近くって」
「いいだろー。待てよ、たしか健太郎、結婚したって言ってなかったか」
「……んー。結婚する、が正解だな。ようやく色々動き始めたところだからさ」
「で、誰と」
「あれ」
 あれ、と指差した先にはスフィーがいた。年は健太郎と同じくらいに見える、外国の生まれだろうと思わせる、透き通った瞳と肌。にっこりと笑んだ顔は綺麗とも可愛いとも言える。少なくとも幼さは見えない。
「あれって言うなっ!」
「ということで、スフィーだ。で、こっちは冬弥」
「よろしくねっ」
「ああ、よろしく」
 冬弥に挨拶だけしてからぱたぱたと店の外に出ていった。外では姉弟だろうか、子供がふたりじぃっとウィンドウから剣を覗き込んでいる。彼女たちに話かけに行ったようだ。
 ふたり――スフィーも会わせて三人になったが、見ている先にある剣の柄に彫り込まれている銘は、鳳凰の二文字だ。
 過去に絶えたとされる剣術の一派、影花藤幻流と呼ばれる流派に伝わるものであり、たまたま本来の所有者が旅をしている最中に手放すことになったのだが、処分に困った。捨てるにはあまりに愛着があり、また想いと重みが篭もっている。そんなある日、彼はふと五月雨堂に立ち寄り、店主を気に入ってこの一振りを預けていったのだ。というエピソードと共にこの剣は飾られている。値段が付いていないところを見る限り、本当に売り物ではないらしい。と、刀剣愛好家達の注目と羨望の的になっている一品であった。
 閑話休題。
 栞にできたのは、気安く話しているところから友人らしいと察することだけだ。アイドルとはいえプライベートの時間をこうして覗き見続けるのにも気が引けた。サインを貰おうかと一瞬考えたりもしたが止める。名残惜しかったが、あえて背中を向けて、ゆっくりと店内を回ってみることにした。栞にしてみれば、一目本物の彼女たちを見ることができただけでも満足だった。こんな機会に恵まれたのは、それこそ素敵な偶然だと、栞は思ったのだ。
 しばらく店内を目的もなく回ってみる。罅の入った壺、皿、グランドピアノに刀に槍、巻物に時計に鏡にグラスに絵画。なんでもあるように思えて、栞は見ているだけで楽しくなってきた。これらはみな、長い年代を経てここに集まってきたものたちである。見られるために生まれ、実用に耐えてきた。すべては価値を持っていた。美しさがあった。大切にされてきた想いがこもっていた。
 栞は、誰ともなく胸のうちで問い掛ける。なんのために生まれてきたのだろう。何年も前にも、そして今も、答える者はいなかったが。
「おい、そこのお前」
「はい?」
 突然ぞんざいに声を掛けられた。が、腹は立たない。誰にでもそんなしゃべり方をするのだと、声だけでもそれが分かった。栞が振り向くと、三人の女性がいた。全員がどうしようもないくらいの美人だった。なかの一人は鋭い目付きで栞を見ている。彼女が声の主だ。
「エビル……じゃなかった江美、もう少し言い方考えなさいよー」
「……ああ、芳晴にも言われたな。次から気を付けるとしよう。そういうことで綾香、後で教えてくれるか? どうも私はしゃべり方が固いらしい」
「それはいいんだけど、そこの彼女に話あるんでしょ? そのあとでね」
「ああ、そうだった」
「ええと、なんでしょう」
 栞が向き直ると、少し険しい表情で江美が告げた。といっても、江美としては精一杯眉をひそめて厳しい顔にしているつもりだったのだが。
「そのままだと、もうすぐ死ぬぞ。体調に気を付けた方が良い」
 言葉が発せられてすぐ、空気が凍り付いた。え、と半ば呆然とした表情で綾香はその顔を見つめる。江美が死神だということを、かつてのガディム騒動のときから綾香は知っていた。ゆえにその言葉はとても正しいと悟ったのだ。栞がもうすぐ死ぬことは運命と言い換えられた。また、江美の性格もある程度だが理解している。彼女は冗談を言わないタイプの人間、もとい魔物であった。
「……」
 隣りで鏡に目をやっていた芹香も、妹にだけ届くよう声を発した。死相が出ています、と。この姉も嘘を付かない。綾香はじぃっと栞の表情を注視する。
 そう、なんでもないことだとでも言うように、にこにこと笑っている栞の顔を。
 翳りのない、ただ微笑みだけを浮かべる少女を。
「ねえ……どうして怒りもせずに笑ってるのか、そこんとこ教えてくれない?」
「そうですね。きっと、ドラマみたいで現実味がないから、ですよ」
 驚かずに、栞はゆっくりと答えた。きっとこういうふうに分かるひともいる。それこそドラマみたいなものだ。初対面の人間から死の予告を受けてしまうくらい顔に出ているのかも。
 栞はそんなふうに思って、もう一度楽しそうに笑う。その笑い方が綾香のかんにひどく障った。栞の笑顔は完璧だった。一点の曇りもない、まっさらの笑顔。苦しみや悲しみを隠しきることに慣れてしまった、あきらめから生まれた微笑み。
 吐き気がしそうだった。綾香はこんな笑顔の作り方をよく知っている。何もかも希望を失って、それでも周りに気を遣うような、そんな人間が浮かべるものだ。閉ざされた未来を持った弱い人間だけが、こうして嫌な笑顔を貼り付けるのだ。
「へえ……そのわりには落ち着いてるように見えるけど」
「さっき、大好きなアイドルさんを生で見ましたから……ちょっとだけ浮かれてますけどね」
「あなた、名前は?」
「栞です。美坂栞。えっと、そちらは?」
「来栖川綾香、あっちは姉さんの芹香。それからさっき不吉な予言したのが江美。よろしく、栞ちゃん。ってことで、ねえ……友達にならない?」
 唐突すぎて、さすがに笑顔が崩れた。栞はその意味を取るまでに時間が掛かった。ようやく頭まで行き着いたのか、その瞬間に声を漏らしてしまった。
「……え」
「と・も・だ・ち。フレンド。友人。どれでもいいけどねー」
「なんでですか?」
「友達になるのに理由っているの?」
 逆に聞き返された。
 栞は困ったように答えを考える。かすかに詰まりながら、
「……いりません、けど」
「まあ、あえていうなら……なんか腹立つから」
「えっと」また答えに淀む栞。詰め寄りながら、綾香が目を細めた。声を低くする。
「栞ちゃん……ちゃん付けって面倒だから栞でいいわね」
 その呼び方に、栞は胸が痛くなった。いつの間にかさっきの笑顔はなりを潜めていて、綾香の顔を知らず見つめている。が、栞の小さな表情の変化など綾香は無視した。勢いよく「栞、あなた本当にそのままだと死ぬわよ? 江美も姉さんも、そういうことで嘘は吐かないから」と続けた。
 栞はその剣幕に言い返せない。
 綾香は一転、今度は笑いかけて「だから、事情を話しなさいよ。なんとかできるかもしれないから」と締めた。
 ふたり、しばらく黙る。栞は気圧されていたが、はぁと息を吐き出して、すぐ吸い込んだ。うん、と無言でうなずいてから「奇跡でも起きないかぎり、私の病気は治らないらしいです」
 そんなふうに栞は語り始めた。
 別段、治ることなど期待していたわけではない。どんな力であろうと、医者をしてさじを投げさせた難病だ。症状の軽減も手術でできるかもしれない、という程度。常に死の恐怖は隣り合わせだった。絶望しなければ、希望の重さに押しつぶされそうだった。だから治癒などあり得ないと栞は考える。それこそ奇跡を願うに等しかったのだから。
 ただ……綾香の言葉に真摯さを、真剣さを感じ取ったから、応えてみようと思っただけだ。たぶんこのひとは、姉と同種の人間なのではないだろうか。そんな他愛無い考えも一瞬掠めた。一緒にしては失礼だろうけど、きっと強くて優しいのだろう、と。
 しばらく訥々と話していると、知らぬ間に理奈と由綺、英二に冬弥、それから健太郎とスフィーまでが集まってきていた。だが栞は気にせず話し続けた。むしろ、ドラマチックに話を盛り上げてみたりもしてみる。一人に話すのも二人に話すのも同じだし、こうして自分を覚えていてくれる誰かの存在というのを求めていたのかもしれない。栞自身も気づかなかったが、やはり寂しかったのだ。
 聞かされた病名と、症状のいくつか。学校に行けなかった悔しさと悲しさ。病院での生活。雪だるまをつくる夢。ドラマが好きだった。これまでのこと。そして、もうすぐ死ぬという事実。死すら選ぼうとした決意と失敗までを語り終えた。不思議と、そういうことを話す恥ずかしさは感じなかった。
「あ、そういえば綾香さん、来栖川ってあのカッターから美しい淑女まで、の来栖川グループですよね」
「普通は靴下から潜水艇まで、とかだと思うんだけど、なんでカッター? しかも美しい淑女?」
「安いし、切れ味もすっごく良かったです」
「……聴かなかったことにしていい?」
 そうしてすべてを静かに話しているうちに、栞は自らの願いをようやく理解する。姉である香里との仲直り。それをせめて最期に、死ぬ前にしたかったのだ。香里を傷つけたくはないけれど、栞が過去になったとき、ちゃんと悲しんでほしかった。
 栞は誰にでもなく言葉を漏らす。栞が旅と称して遠出したのも、姿が見えないことで気にしてくれれば、そんなささやかな企てだった。
「ほんとう、私ってわがままですね……それでもお姉ちゃんは泣いてくれるって、ずっと信じているんですから」
 妹などいないと目を逸らした姉が、傷ついてでも。
 いつか栞のことを思い出とできるように。そのとき、後悔が生まれないように。そう願った。優しい姉が泣くこともできないなら、それはきっと私のせいだから、と。
 栞は泣かなかった。しかし回りで黙って聴いていた彼らは泣いた。由綺がぐすっ、と鼻をすすりあげている。スフィーにいたっては、顔をぐしゃぐしゃにして目を潤ましたが、そのうちに、だばだばと涙を流し泣いていた。ハンカチを取り出して顔を拭いている。涙声のまま横の健太郎に話しかけた。
「うぅっ……けんたろ……どうにかできないの?」
「俺に言われてもな……」
 途方に暮れていた。横では、「やっほー、理奈。久しぶりに逢ったわね」と綾香。「あら、綾香じゃない。本当にお久しぶり」と理奈。西音寺女子学院の同窓だったふたりはこの時点で初めて互いに気づいたのだった。
「最近見かけないと思ったら、こんなところで逢うなんてね、どうしたの?」
「ああ、そこの冬弥君と店主さんが友達らしいの。それで、私もアンティークに興味があったから付いてきたのよ。あなたは?」
「私は姉さんの付き添い。奇遇ねー」
「そうかもしれないわね。……ところであの子の病気、どうにかならないの? 天下の来栖川でしょ。手伝えることがあるなら私も手を貸すし」
「……うーん、どうしよっかなあって考えてたんだけど、それなら可能かもしれないわ。ちょっといい? 相談あるんだけど」
 手招きして、綾香は全員を一箇所に集めた。力を抜いて店の椅子に座り込んでいた姿に向けて「栞、あなたはちょっと待ってて」とだけ告げて、他の皆に声を掛ける。確認のためだ。
「ええと、いまの話聞いて、栞の望みを叶えることに反対のひと手を挙げて」
 誰もいなかった。それから綾香はじゃあ、と話を続けた。
 簡単な自己紹介。ぐるりと一巡したのを見計らって、綾香自身で思いついた案を出してみる。説明が終わると緒方英二がにやりと笑っていくつか変更を申し出た。思案してから大きく頷く綾香。
 指をぱちんと鳴らすと、唐突にセバスチャンが背後の壁から出現した。恭しく頭を下げている。
「いいわ、それでいきましょう。長瀬さん、ちょっと動いてくれる?」
「はい、お嬢様。それから私はセバスチャンとお呼び下さいますよう」
「……セバスチャン、お願い」
「かしこまりました」

 そのとき美坂香里の頭の中は、真っ白になっていた。
 栞はどこにいったのか。今日は通院の日だったはずなのに、時間を過ぎても帰ってくる様子がない。
 寄り道しているのかと電柱の影に身を潜めつつ探し回ったが、どうにも見つからなかった。近所の犬にまで吠えられてしまった。仕方なく家に帰って無言でテレビを見ながら困り果てた。香里はこれでも混乱しているのだ。口でなんと言おうとも心配だった。
 ニュースを横目で眺めながら、しかし見てはいない。意識は遠くにあった。手に汗を握り、握りしめすぎて血の気すら失せている。
「……さきほど」
 唐突に緊急速報が入った。香里が深く考えず目を向けると「郊外の骨董品店にて立てこもり事件が発生しました。人質は」テロップにはやけに大きく美坂栞の文字がある。
 他三名の名前は目に入らなかった。珈琲の注いだカップに口をつけて落ち着き、すぅはぁと深呼吸。
 もう一度ブラウン管に映った文字へ。
 間違いようもなく、香里の妹の名が変わらず載っていた。
 人質は美坂栞さん。
「は?」

 香里が到着したのと、緒方英二が周囲の人間たちに説明し終えたのは同時だった。他にもいくつかの準備があったのだが、そこは読者の想像の通りである。
「栞っ!」
 声は激しかった。周囲もその剣幕にざわめきを止める。もはや栞の存在を無視していたことなど忘れていた。もっとも、これこそが綾香たちの計略であり、すでに成功したと言って良い。残るは充分焦らした後、姉妹の感動の対面を演出するのみだった。
 五月雨堂の前に集まった人波を掻き分け、香里が滑り込む。
 入り口には紳士然とした老人が覆面をして仁王立ちしていた。
「喝ッ!」
 大迫力である。
 しかも覆面の下から髭が飛び出ているのが妙に可笑しい。
 香里は気にしてられなかった。怯むことなく「どきなさいっ!」と叫ぶ。一瞬その鬼気迫る表情に彼ですら気迫負けしそうになった。香里が店の窓から中を見ると、栞と他数名の人質がいるようだ。どうしたものか。真っ直ぐに飛び込んでしまったことを幽かに後悔しながらも思考する。冷静に観察した。敵は四人だ。

 店の内部には、表に展示されていた剣に興味を示して見ていた弟と、保護者風の姉が紛れ込んでいた。どちらも幼く、子供ながらのあどけなさを顔に浮かべていた。姉は弟をぎゅっと抱きしめながら、耳元にささやく。このときはまだ薄い胸に、弟らしき少年の顔が埋もれていた。
「そうちゃんは……私がまもるから」
「ね、姉さん…くるしいよ……く、くるし…息ができな……」
 幼いなりに今後が予想できるふたりだった。
 ちなみに、たまたま資料集めのため、子供二名と同じように店を覗き込んでいたら、突然巻き込まれた千堂和樹。栞は和樹に絵の描き方で指導を受けていた。
「なんというか、その、芸術だな」
「みたいですね。本当、楽しいですー」
 ちなみに和樹のコメントは栞の絵に関してであり、栞のはこの騒動についてである。話は逸れるが、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランチスコ・ド・ポール・ジャン・ネボムチェーノ・クリスバン・ クリスピアノ・ド・ラ・ンチシュ・トリニダット・ルイス・イ・ピカソは幼少のころより精緻と美麗で表される絵画を描いていた。後に本質を描こうと、キュビズムの源流へと移行したために、ゲルニカなどの距離感や配置をわざと消し去った絵が後世に評価されるようになったのである。すなわち本質を描ききっているのであれば、それは天才と同質の意図を持って書かれた絵画として評価されるべきであって、題材となった冬弥が犬、由綺がそれに鎖を繋げている飼い主という構図に見えなくもない栞の絵は、もしかしたら本当に才能の現れであったのかもしれない。が、本筋には一切関係ない。
 脱線はこれくらいにして話を戻そう。

 覆面二人目(額に諸田真と書いてある)は香里に向けて高笑いをした。
「オーッホッホッホ、栞ちゃんを返して欲しくば這い蹲って服従のポーズを取りなさい! ポチと呼んであげるわ!」
 ノリノリだった。
 三人目の彼女もそれに続いた。
「くっくっく、我らが秘密結社『彼を返してー』の要求が通らないかぎり人質は解放しないから覚悟したまえー、いい? 香里ちゃん」と、いかにも悪役の口調だ。
 葉巻などふかしてみる。ごく少数の読者はお気づきかもしれないが、彼らの正体は秘密で願いたい。まさに日曜の朝にやる特撮の古い悪役幹部である。しかも最初のほうにやられる類の。
 さて、ここで四人目登場だった。
 ちゅんっ、と地面に穴が空く。銃だ。すぐさま彼女は銃口を香里に向けて突きつけた。銃刀法違反であると冷静に突っ込む人間はここにはいない。
「そういうわけだから美坂香里さん。ここからさっさと消えなさい。栞は私がもらってあげるから」
「えっ……」
「ちょ、ちょっと」
「お嬢様っ!?」
「……どういう意味? 栞をどうするって?」
 計画と違う。こんな発言は台本にない。混乱している他の人間と違い、香里だけが醒めた視線で彼女を強く見つめた。
「言葉通りよ……ってこれはあなたの口癖だったっけ」
 挑発されているのは香里にも分かる。だが、なぜそんなことを知っているのかにまで頭が回らない。それほど頭に血が昇っていた。
 ゆっくりと、香里はもう一度問う。
「栞を、どうするって?」
「私がもらうわ」
 再度、即答。
 状況が二転三転しているのでなにがなんだか、といったふうの他三名を無視し、香里がいきなり四人目に殴りかかった。
 冷静な香里なら決してしない行動だ。普段なら、せめてもう少し躊躇するはずだった。四人目はあっさりと攻撃を避ける。そのままひどく静かな、そして冷たい声で香里の耳に囁いた。
 それは断罪の声だ。
「香里さん、あなたに文句を言える理由があるのかしら」
 答えてみなさい、と嘲るように冷笑する。これも、あからさまな挑発だ。しかしいまの香里は怒っていた。どうしようもなくこらえようもなく、ただただ怒っていた。
 栞をこいつにとられる? そんなことは許してはならない。
 なぜ? そんなことは決まっている。
 ずっとずっと決まっているのだ。
 なぜなら、
「妹よっ! 栞はあたしの大好きな妹だから、……だから可愛い妹を奪うやつなんて死神だろうが強盗だろうが殴ってでも取り返してやる!」
 それは、どこからどう見ても、妹を取り戻そうとする姉の姿だった。
 愛する妹のために危険を冒そうとする姉の叫びだった。
 横合いから四人目に声がかかる。江美だ。
「綾香、私は殴られるのか?」
「うーん、とりあえず大丈夫じゃない? ここまでお膳立てして栞を蔑ろにするような姉だったら体育館裏に連れ込むけど」
「その場合、彼女はどうなるのだ?」
「あーゆー子だったら、寺女時代に大量に断ってた『お姉さま』って呼ばれるの、けっこういいかもしれないわね。とりあえず、挨拶はごきげんように決まりだけど」
「……あなたたち?」
 訝しげな声。
 香里が目の前にいるというのに、世間話などしているわけにはいくまい。覆面姿の四人目、つまりは綾香が指をぱちんと鳴らした。
「長瀬さん、ちゃんとテープレコーダーで録音したわよね?」
「お嬢様、セバスチャンとお呼び下さいと何度も。さておきテープに関しては無事、三十名が保存完了しております。また録画も私の馬鹿息子が設計した全世界で盗撮可能な高機能衛星より完璧に」
「よし。それじゃスタッフ撤収!」
 レフ板、カメラ等を構えていたほぼ全員が一瞬で整然と去った。取り残された香里が呆然としている。走り去っていくテレビ局の取材車らしきバンには来栖川グループと黒ででかでかと刻印されていた。
「ということで仲直り完了っと。みんな、お疲れさまー。撤収!」
 ぞろぞろと店にいた人間たちも散り散りになっていく。何事も無かったかのように。
「はぁ、いっときはどうなることかと」
「ごめんごめん」
「理奈ちゃん帰ろー。冬弥君もほらほら、ね?」
 由綺が優しく声を掛けた。これからのことに気を遣ってのことに違いない。理奈も冬弥もそれが分かったから大人しくこの場から離れていく。
 綾香の目的は栞の望みを叶えることだったのだ。だから、もうやることは終わった。あとは彼女たち次第だ。
「ちょ、ちょっとあなたたちっ」
「なに?」
「今までのは何だったのよ」
「そうねー、とりあえず、人為的な奇跡ってのもアリかな、ってね」
「は?」
「栞と姉妹仲良くしなさいよ。じゃあねー」
 猫のような笑みを浮かべて、綾香は振り向かずに颯爽と車の中に消えた。それこそ今までの騒ぎが嘘だったかのように、五月雨堂だけがぽつんと静かに存在していた。
 それから、栞が出てきた。
 五月雨堂の店内からゆっくりと歩いてきたのだ。にっこりと笑っている。
 そこでやっと香里が思い当たる。綾香の狙いが分かったのだ。大声で叫んでいた内容が脳裏をよぎる。人目も気にせず思いっきり、なんということを言っていたのか。しかも録音されてしまった。わざわざ口に出して言ったのはこのためだったのか。
 香里はもはや見えない綾香に舌を出した。悔しい。
 が、急に恥ずかしくなって、火を付けたように香里の顔が赤くなった。照れている。栞にも聞かれていたのだ。
 栞と目が合うと、もっと照れた。何を言えばいいのか。ごめんなさい、と言おうとした瞬間、栞が望んでいるのは違う言葉だと分かる。
 栞はやっとの思いで笑みを浮かべた。
 ぐしゃぐしゃに濡れていて、涙をこらえようと歪んでいて、それでも嬉しそうなことがはっきりと分かる、そんな笑顔だった。
「……栞」
「私もね、昔から、いつだって、ずっとずっと大好きだったんだよ。これからも、大好きなんだから……ね、お姉ちゃん」
「あたしも……栞をきらいになったことなんて、なかった。栞は、大好きなあたしの妹なんだからっ」
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」
「こちらこそ」
 久々に、ふたりで泣いた。
 栞の合格通知をどきどきしながら見たとき以来だった。すごく嬉しくて、勝手に涙が溢れて、安心してしまって、いつか、ひたすら泣いていたころと同じように。

 こうして、偶然と偶然を組み合わって結晶は形を成した。筆者としては、さらに偶然と人為の一欠片を付け加えることで彼女たちの未来を示したい。

「うぅっ、よかった、よかったよぅ……」
「彼女の病気、治してやれないのかな」
 鼻水でぐしゃぐしゃのスフィーと、外の様子を見ている健太郎に、まだ店内にいた芹香が告げる。どことなく楽しそうに。
「え? 力を貸します? 江美さんの同意もさっきのうちに取り付けてある?」
 こくり。頷く芹香。
「あ」彼ははたと気づいた。そう、死人になった健太郎を生き返らせたものは魔法。しかもスフィーの能力は、数年前とは比べものにならないほど強力になっている。
「スフィー、魔法でなんとかなるんじゃないのかっ!」
 魔力が足りなくとも、なんとでもなる。死者を蘇生させることに比べれば多少は楽なはずだ。芹香も手を貸すつもりだった。へ、とスフィーは不思議そうに考えたあと、
「あっ、そうか……そうだねっ! よぉし、このスフィー=リム=アトワリア=クリエール、一世一代の大魔法と行きますかっ!」
「ああ。もし、ちっちゃくなっても……それはそれで」
「こらぁっ、けんたろのロリコンー!」
「自覚してたのか……」

 そして運命から人の手に渡った物語に、幸せな奇跡は起きる。

「せ、先生ッ、月宮さんが目を覚ましましたーっ!」
「隣室の氷上さんの病状も規定値まで戻ってます。これなら治るかもしれませんっ」
「おはようございますっ」
「……ひぃぃ、うっ、動いてるっ!? 医学はっ、医学の常識はどこに行ったのだあッ!?」
「ええと、僕はまだ生きてるのかな」
「こっちもっ!?」
「ああそうだ」
「うんうん。言っておかないとね」
「ボクたち」
「友達だよね?」
「いやそれはゲーム違う」
「あれー?」
「……私は夢を見ているのか。筋肉も衰えきって動けないはずの患者が動き、あまつさえ意識を失っていた期間に出たゲームのネタを使って漫才をしている――ああ、もうだめだ」
「先生が倒れたーっ!? だれかっ、だれか先生を診察室へ連れていってくださいっ」
「もうっ、騒がしいなぁ」
「やれやれ、まったくだね」

「長瀬ちゃん、電波届いた……?」
「あのさ、瑠璃子さん。月島さん……ああ先輩の方がまた企んでるみたいだけど」
「うん」
「いいの?」
「甘えんぼうなんだから、って一言呟けばオちるから」
「……そっか」
「うん」

「川澄ぃっ!」
「……なに?」
「……ぼ、僕と付き合ってくれないか」
「え」
「わぁ、久瀬さんたら大胆ですね。あははー、舞ったらいきなり剣で突き刺そうとしちゃだめだよぉ?」
「号外っ、号外っ、生徒会長ご乱心ーっ!?」

「おーい、エビルっ」
「……ん」
「ふふふ、宝くじ当たったわよ。なんと十万円っ!」
「わあルミラ様さすがですっ」
「アレイ、あんた今日のおかず一品追加してあげましょう」
「よっ、太っ腹」
「イビルのおかずをアレイにずらすわ」
「なっ、あ、えーと、ルミラ様ぁ、ごめんなさいー」
「……とりあえず、しばらくの食費が浮く。良かった」
「良かったにゃ」
「たま、あんた何もやってないから今日はメシ抜きよ?」
「うにゃーっ!?」

「ものみの丘には、きっとあの子たちの仲間が……」
「あのさ、天野」
「はい?」
「仲間が、五十匹くらいこっちに向かってるようだが」
「……ええ」
「真っ直ぐに天野の家に向かってるんだが」
「そうですね」
「帰ってきたみたいだぞ」
「……せめて、感動したかったんですが……」
「まあ無理だわな、これじゃ」
「はい」
「真琴もそー思う」
「……あ、空からお菓子まで降ってきた」
「メルヘンーっ!?」
「なんか違う気がするが」

「あー、今日ほど幸運な日は無かったよ。良かった良かった」
「……えーと、よかったね、お兄ちゃん」
「世界が救われたみたいです」
「まあ、地震は不可抗力だし……助かったぁ」
「というかあの亀姉はどこ行ってるんだか分かったもんじゃない。……ああ、なんか寒気が」
「梓、風邪か?」
「いや、……なんかイヤ〜な予感がね」
「って見て! 料理が触れたちゃぶ台が溶けてるよ……」
「なあ、初音ちゃん」
「なぁに、お兄ちゃん」
「俺たちは、生きて明日の陽を拝めるぞ」
「うん」
「そしてまた花火をやるんだっ」
「うんっ」
「そのあとちょっとこの前の続きを」
「……う、うん」
「照れるな照れるなっ、というか可愛いすぎるぞ初音ちゃんっ」
「……あ、梓お姉ちゃんが後ろで」
「スケベは死ねっ!」
「おっと、甘いっ」
「ていっ!」
「あ、千鶴さんの料理が足下に」
「うわああっ!?」
「何でできてるんだろうな、コレ」
「知らないほうがいいこともあります」
「……そっか」
「……はい」

「秋子さんがノーベル平和賞受賞にーっ!?」
「え」
「えええっ!?」
「……何故でしょうね。思い当たることと言えば……ジャムくらいしか」
「……」
「……」
「あら? どうしたんですか祐一さん。名雪まで黙っちゃって」
「いえ」
「なんでもないよー、うん」
「そう?」

 スフィーの力が強すぎたため、栞の病気どころか周囲にあった悲劇にまで影響し、それらを幸運な方向に無理矢理ひっくり返す現象すら起こったが……それはまあ愛嬌として大目に見て頂きたい。

 完。
 


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