草を踏む音。
 無数の虫の声も、だんだんと大きくなっていた。

 陽も落ちて、世界は闇に染まる。
 木々の狭間をすり抜けて、ふたりは互いに武器を持つ。

 静謐に落ちていく感覚。
 灯りは、空に浮かんだひとつの銀月から。

 見守るように、ふたりを照らしている。

「さて、始めましょうか」
「そうですわね」

 生き物たちの声が消えた。虫たちも黙りこむ。
 風が踏み荒らした低い草が、悲鳴を上げる。
 ざぁざぁ、ざぁざぁと騒ぐ木々。

 張りつめていく空気。

 トウカは、その白刃を静かに抜き放った。
 カルラは、手に持っていた巨刃を軽く持ち上げた。

 疾く、闇を裂く。
 風を斬りて、夜を砕く。

 凍り付くような煌めきは、ただ――










 『ひとやすみ』










 ――斬。

 斬、と風が途切れる。
 斬、と光が生まれる。
 身体が反転した。
 切り返し、踏み込む。
 斬閃は途切れることなく。
 疾風のように、一撃。

 煌めきが、真一文字に闇を断つ。

 銀色が揺れる。弾く。
 ふたつ、音が響く。
 ひとつ、静寂が割れる。
 そのままに、流れる刃。
 稲妻のように、通り抜ける光。
 吐息。
 あるいは怒号。

「――せいッ!!」

 吐き出した空気と、声と、焦燥。
 激しい連撃が闇を薙ぐ。
 耳障りな金属の音がして、全て弾かれる感触。
 衝撃で手がしびれた。
 トウカは左手の小指に力を入れ直した。

「ふふっ。速さは充分ですわ」
「なんのっ!」
 ぎぃん、硬い響きが跳ねる。
 目に見える火花が、音と共に散る。
 声がもう一度、暗闇の中から聞こえた。
「でも、力を持っての一撃の重さというものも大切ですわよ?」
 からかう声に、トウカは一歩引く。
 切っ先を下に力無く降ろす。

 闇の奥、眼光が月明かりに輝いた。

「……ならば、」
 鞘に戻る銀色。
 息を吸いこみ、丹田の位置に力を込める。

 数秒、あるいは数瞬の間。

「はぁあああああああああッ!!!」
 気合い。
 強い声が、木々を震わせた。

 叫びは、夜の森を打ち砕きて。
 鞘鳴りは高らかと響き渡りて。


 ――――しゃらん。

 冷たくも美しい音。
 刃は一瞬で抜き放たれ、深く切り込む。
 空を切れば、すぐさま袈裟切りに切り替えた。

 轟音と共に振り降ろされた、カルラの武器。
 トウカは、さらに防がれる瞬間に、踏み込みをずらす。

 二つ目の声。

「――はっっッ!!」
 吐息が短く音を成す。
 下から上へ、氷刃が跳ねる。
 浅い踏み込み。一転、真横に薙ぐ。

 反撃が来る。

 巨大な質量。
 振り下ろされる重い鉄の風圧に、一歩下がる。
 その風圧を顔に感じながら、紙一重で避けきる。
 髪の毛が、数本散った。

 さぁ、ここまでは予測通り。
 トウカは、そんな笑みを浮かべた。

 鉄に擦るように、刃を逸らす。
 鎬に当たる、弾かれる。
 なんて嫌な音。
 魂が削られたかのような、刀の声。


 そして。

「疾ッ!!」

 トウカは充分な力を載せて、鉄板のような剣を蹴る。
 踏み入れる。圏からは逃れない。
 カルラの間合い。
 その内側に入り込んで、自らの鞘を手に取る。

 三閃。
 虚ろに風切りの音が響く。
 斬閃は、刀身に月光で満たしたまま。
 受け流されえぬ、神速の薙。

 更に、もうひとつ。

 身体を無理矢理捻り、腕を伸ばす。
 真っ直ぐに貫く蒼光。

 月影に染め上げられて。
 迷い無く突き出され、カルラの急所に向かう。

 吐息が漏れた。

「ふぅ……」

 トウカがため息のように、安堵の息を吐く。
 それに少しばかりムッとした顔で、トウカがつぶやく。
「なかなか、嫌な技ですわね」
 喉元に残ったままの銀光には目もくれず、言葉では褒めている。
 多少疲れたような身体を、ぴくりとも動かさない。
「いえいえ。力では敵わないのは分かり切っておりますゆえ」
 トウカがにこりと微笑んだ。

「力云々と言って挑発したのに、速さで勝負してくる。
 ちゃんと融通が利くようになった証拠ですわ」

 トウカは、つきつけた刀を引いた。
 その瞬間、突き出される腕。
「でも、甘いですわよ」
 トン、と手刀が喉に軽く押しつけられる。
 カルラが、笑う。
「素手でも危ない相手もいるから、気を付けた方がよろしいですわ」
「……かたじけない」
 真面目な口調で礼を言うトウカ。
 

「しかし、たまには本気を出すのも悪くないですわ」
「ええ、修行に付き合ってくださり、某、感謝しておりまする」
 刀を手に、座り込むトウカ。
 その隣りにカルラも座る。

 雲も薄く、隠れない月が浮かんでいた。

 その月を見上げながら、カルラがつぶやく。
「全く、近頃の男は手応えが無くてつまらないんですもの」
「……まあ、先ほどカルラ殿が殴り飛ばした野党はそれなりだったような」
「あの程度なら、まあ」
 ぼんやりとその月を見て、小さくこぼす。
 トウカが驚いたようにカルラの顔を見る。
「何故そこで黙るのでっ!?」
「なんでもありませんわ」
 カルラはそんな風に言いつつ、軽く笑う。

「ところで、さきほど、岩場で温泉を見つけたのですけれど」
「湯ですか……」
「汗を流しませんこと?」
「ふむ。最近は熱い湯にかかることも無かったですし、よろしいのでは?」
「じゃあ、」

 途端、立ち上がるカルラ。

「先に行きますわ。荷物、ちゃんと持ってきてくださいな」
「へ?」

 トウカが聞き返したときには、すでにカルラの姿は無かった。


「カ、カルラどのっ!?」
 慌てて腰を上げるトウカ。
 刀を腰に差し、カルラの後ろ姿だけが見えた方に向かって走る。
 木々の間を抜けていくと、足跡があった。
 足下の太い根を踏み越えながら、立ち止まる。

「……見失った」

 トウカが視線を回すと、木々が薄暗く影を落としているだけ。
 月明かりも遮られ、極めて暗い。
 さてどうしたものかと、考えながら歩みを進める。
「近くに川があるはず。探さねば、本当にはぐれてしまうか」
 つぶやいて、歩調を早くするトウカ。
 羽のような耳をかたむけながら、川音と虫の声を聞き分ける。
 踏みつけた地面から、枯れ葉のくしゃりという軽い音も聴こえた。

 しばらく歩くと、他とは明らかに違う、水の流れる音が大きくなった。
 その方向へと足を向けた。
 しばらく歩くと、大きな川が流れているのが見える。
 足下に気を付けながら、近づいていくトウカ。
 急流に足を止めて辺りを見回す。
 岩を削るかのような水流の強さに、飛沫がトウカの顔に跳ねた。

「うわっ、冷たいッ」
「……なにを遊んでますの」
 トウカの声に、カルラが気付いたらしい。
 のんきな声が死角になっている上流の岩間から聞こえた。
「カルラ殿がさっさと行ってしまうから探すのが大変だったのですよ」
 ちょっぴり怒った声で、トウカが言う。
 カルラは聞こえなかったフリをした。
 声の元へと、トウカは歩く。
 ゴツゴツとした無骨な岩の上を勢いを付けて乗り越える。

「よっ、と」
「気持ちいいですわよー」

 にっこりと微笑むカルラの言葉に、とりあえず荷物を置く。
 するすると着ている服を脱いで丁寧に折り畳む。
 刀と一緒にまとめて岩の上に。
 若干恥ずかしそうに身体を隠しながら、トウカが湯に足を入れる。
「これは……」
「ほらほら、お入りなさいな」
 湧き上がる湯と、地下岩に熱された川の水が丁度良い温度にしていた。
 おそるおそる、底が深そうなその湯の中に身を沈める。

 と、本当に深かった。

「うわっ、わわわわっ」
 運悪く一番深い部分に足をつけようとしたらしく、水面に手だけが出ている。
 ぶくぶくと泡が浮かび上がってきた。
「まったく……」
 微笑ましげに、けれどやはり呆れたように。
 カルラがその手を掴んで、比較的浅い方に引きずった。 
「かたじけない……某としたことが」
「いいですわよ、別に」
 ぽんぽん、とトウカの頭に手を置いて笑う。

「ううぅ……恥ずかしいです」 
 トウカは、赤くなった顔を水の中にうずめた。


 ちゃぽん。
 雫が跳ねる。
 ぶくぶくぶくぶく……
 泡が生まれ、散っていく。

 ちゃぷん。
 水面が揺れる。

「……ふぅ」
 悩ましげな声。

「……はぁ」
 甘い吐息。

 ――ぽたん。

「ひゃっ!」
 驚いた声が、湧き出る湯に乗って流れていく。
「なっ、なっ……」
「どうしたんですの?」
「……カルラ殿ッ!! 背中に水をかけないでくだされッ!!」
 心底焦った顔で、怒鳴る。
 言われた方は、澄まし顔。
 手をひらひらとさせながら、カルラは気楽に答える。
「油断大敵ですわ」
「……いや、そんな笑顔で言われても困りますれば」
「知ったことじゃありませんわ〜」
 水を弾く裸身を晒して、カルラが立ち上がる。
 湯の中を、ゆっくりと歩いていく。
 カルラは、岩の上に置かれた荷物に手を伸ばした。
 ごそごそと音を立てて、なにやら引っ張り出す。
 取り出してきた丸い盆。湯の表面に浮かべた。
 徳利を持ち、少し大きめの盃に、ゆっくりと液体を淹れる。
 とくとくとく。
「ふぅ……」
 盃をかたむけ、一気に飲み干した。
 こつん、と硬い音。盃を置いた。
「やっぱり温泉っていいですわねぇ」
 言いながら盃をもう一個。
 何も持っていなかったはずの手から、取り出す。
 それを見て、トウカが不思議そうに聞いた。
「もしや、あの荷物の中には酒が?」
「あら、知らなかったんですの?」
 手でもてあそんで、そのままトウカに渡す。
 困ったような顔で盃を手に取るトウカ。
 そのまま突き返すわけにもいかず、持ったまま固まる。

「いや、某は、」
「そんな堅いこと……言いっこなしですわよ?」

 しばらく迷った様子で、うなる。
 トウカは、ぽつりと言った。
「……では一献だけ」
 言うと、少し手を持ち上げてカルラに近づける。
 トウカの手の中に注がれる透明な液体。

 こくり。
 トウカは静かに飲み込んだ。
 喉に焼け付くような酒の、人肌の温度。
「……どうかしら?」
「ふむ、美味しい酒ですな」
「良かったですわ」
 カルラは言いながら、徳利を持つ。

 こぽこぽ。
 小さく口を付けてから、カルラはトウカに話しかける。
「……たまには、こうやって飲むのも悪くないですわね」
「たしかに」
 頷くトウカ。
 少し、顔が赤い。
 湯気に遮られるような視界から抜け出して、あたりを見る。
 そびえる木々は拓けて、川の側の岩場。
 そんな真っ暗な世界から、夜空を見上げる。

 星々の煌めく天空が、其処には在った。

「綺麗な景色です……」
「なかなか風情がありますわね」
 ふぅ、と感嘆のため息を吐き出す。
 ふたりは小さく笑い合った。
「さて、と」
「どうしましたの?」
 トウカが立ち上がると、カルラが訊いた。
 湯に満足したのか、笑みを浮かべたまま答えるトウカ。
「そろそろ某はあがりまする。カルラ殿はそのままで」
「あら、もう?」
「充分に堪能しましたので」

 にこり。

 そのまま湯から出る。
 岩に囲まれた中で、カルラはそのひとつに寄りかかった。
「ふぅ」
 持ち込んだ手ぬぐいで、汗を拭く。
 背中に感じるのは岩肌の冷たさと、湯の熱さ。
 火照った身体。
 脱力して、深く息を吐き出した。

「こんなのも、たまにはいいですわね……」

 カルラのつぶやきを訊きながら、トウカは着替えを羽織る。
 そのまま、側にある柔らかそうな草の上に寝ころんだ。
 トウカは小さく目を細める。
 眠るわけでもなく、ただ四肢から力を抜いた。
 暗幕を降ろされたような、夜空を見上げる。

 ぽっかりと浮かんだ、空にひとつだけの月。
 しかし、小さな星々の輝きに囲まれている月。

 ひとつでは寂しそうだったのだけれど。
 とても嬉しそうに輝いていると、トウカには見えた。

「本当に綺麗な月ですよ。聖上――」

 くしゅんっ。
 酔っているのか赤い顔。トウカの声が、響いた。



 ……静かに。
 虫も静寂を壊さぬように、黙っている時間。
 きぃきぃと騒ぎ立てる彼らも、もう眠ったのだろうか。
 夜の風が、頬を撫でる感触でトウカを目覚めさせた。
 頭を振って、冷え始めた空気を吸い込む。

「眠ってしまっていたのか……」
 トウカが体を起こす。
 すぐ真横から声がかかる。
「あら、起きましたの?」
 カルラが草の上に座ったまま、トウカの顔を覗き込んだ。
「ええ」
 トウカは頷いて、息を吐き出す。
 そのまま天上の月を、視界の隅にとらえた。
 流れてくる深い雲が、だんだんと光を隠していく。
 身じろぎもせず、魅入られたように空を見ているカルラ。

 月が、雲の後ろに消えた。

 雲間は無く、途切れないまま伸びる。
 辺りの全てが暗くなっていく。
 その黒い世界を見上げながら、カルラは小さく呟いた。
「……今日は、野宿ですわね」
 膝を伸ばして、ゆったりと立ち上がる。
 トウカがそれに続いた。
「カルラ殿、あれは雨雲では」
「仕方ないですわね。巨木の一本もあればいいのですけれど」
 背後に拡がる森に向かって歩き出す。
 軽々と荷物を持ったカルラ。
 そのまま遠くを見る。
 鬱蒼とした森の奥へ入ると、川音は遠ざかっていく。
 さくりさくりと音を立てて踏んだ土。
 どこか湿り気を帯びていて、足が少し沈んだ。

 それでもしばらく歩き続ける。
 ふたり、無言のままで。 

 ぽたり。

「……あ」
 トウカが声をあげた。
 木々の間から、雨粒が跳ね落ちてくる。
「雨ですわね」
「そのようですな」
 はぁ、とため息を吐き出した。
 まだ弱い雨水の勢いも、だんだんと強くなっていく。

 どちらからともなく言った。

「雨宿りしたほうが」
「良さそうな気がしますわ」
 見上げるふたりの視界には、黒々とした空。
 暗雲が増えていく様子が、目に見える。
 吹き付ける風も弱く、しばらく雲は流れそうにない。
 何かに気付いたように、カルラが視線を止める。
「……あそこに炭焼き小屋がありますわ」
 指差すカルラ。
 灯りも無く、真っ暗な森の中心部にあった小屋。
「少し雨を避けるくらいなら持ち主も許してくださる……でしょうか」
 トウカが若干自信なさげにつぶやく。
 話している間にも、だんだんと雨粒は大きくなっている。
 さっきから頬に感じる冷たさも、絶え間ない。

「大丈夫ですわ」
 カルラは逆に、自信満々に言い放った。
 そのまま小屋に向かい、トウカが止める間もなく戸に手を掛けた。

 ――――ガラリッ。

 木製の戸を横に滑らせる。
「すみません……どなたかいらっしゃいますか?」
「少々雨をしのがせていただけますかしら」
 無言が返ってくる。
 人の気配もない。
 生活の匂いも感じられない。
「……いない、みたいです」
「ふぅ」
 そのまま入るカルラ。
 トウカが、その後を追うように室内へ。
「旅の疲れをとるのには、屋根のあるところはいいですわね〜」
「先ほどの温泉も気持ちよかったですし、今日は運が良いようです」
 ふたりとも、相手の顔を見合わせて笑った。
 カルラは勝手に火鉢に手を伸ばす。
 火付け石と鉄を強く打ち付けて、火を付けた。

 ちりちり。
 
「……静かですわね」
「そのようです」
 爆ぜる炎の色が、部屋を満たす。

 ぱちんっ。

 小さな炎が、弾ける。
 雨が屋根を激しく叩く。
 音と共に、天井から雫が落ちた。
 トウカが見上げると、若干の雨漏りがあった。

 仄暗い部屋を、影が動く。

「ところで、カルラ殿」
 火鉢を中心に、カルラの正面に座りながら言った。
 自分の服を触って、濡れている部分を確かめるトウカ。
 嘆息と共に頷き、そのまま訊く。
 トウカは小さく口を開いた。
「某たちは、いつまで迷子なのでしょうな」
 正面に目を向ける。
 いつの間にやら、カルラの手には酒瓶があった。
 カルラは雨の鳴る外を見つめて、トウカに顔を向けずに答えた。

「……あるじ様が還ってくるまで。ずっと、ですわ」
 胡乱な目つき。
 少しだけ寂しげに、透き通る酒に口付けていた。
 トウカは、その真剣な答えに目を伏せる。
「そう、ですね」
 こぶしをぎゅっと握りしめ、力を入れる。
 強く噛み締めたくちびるから、薄く血の味がした。


 宵を通る雨音。
 いつまでも続くような、悲しくて寂しい、雑音。
「さて、と」
「どうなされた?」
「もう寝ますわ。なにかあったら起こしてくださいまし」
 ひょい、とカルラは部屋の隅に向かう。

 湿った空気が、トウカには重く感じた。

「……ふむ」
 トウカも仰向けに寝ころんだ。
 そのまま体から力を抜く。
 大きく、息を吐き出した。
 狭い室内の天井が、とても広く感じられた。
 静かな空気に、つぶやきが響く。
「カルラ殿は、聖上が還ってくることを信じている……」

 ……安堵の吐息。

「よかった。某だけではなくて――」

 ほんの少しの不安が薄くなる。
 そのままトウカは、誘われるように深い眠りに落ちた。



 まだ、日の昇らない時間。
 トウカが目が覚めると、ひそやかな虫たちの声だけがあった。
 仰向けに、天井を見つめながら。
 ふと、その静けさに不安になって。
 枕元に置いてある刀を手に取り、胸に抱えた。

 ずしり、と。
 刀の重さを感じる。
 はるか幼き日にも、感じたこの重み。
 いまはもう、まるで消えかかっていたほどの。

 かすかに残るその記憶に、トウカは思いを馳せていた。

 過去の日々。
 剣に慣れるために、ものごころ付く前から剣に触れていた。
 訓練。試合。修行。
 毎日のように、修練を繰り返していたあの頃。
 強くなることを望まれ、自らも望んだ日々。
 強さだけに意味があると信じていた、幼い自分。
 懐かしの故郷。

 振るう剣の意味を教えられたことを思い出す――――



 カチャリ。
 鍔鳴りの鉄の音。
 練習用の刃を落とした刀とは言え、その重さは本物と変わらない。
 トウカは小さな手に、姿とは不釣り合いなその刀を強く握りしめていた。
 
 自らの父に向かい、挑む姿。
 ともすれば押しつぶされそうな自分に、気合いを入れる声。

「はっ!」
 声と共に、仰々しく刀を抜く。
 勢いを付けなければ、鞘の途中で引っかかりそうな不安定さがあった。

 しゃぁあああんっッ――!

 静謐な空気に、使い込まれた刀を抜いた響きが拡がる。
 本来、人を斬るための剣。
 あまりに綺麗過ぎる刀は、あたかも芸術品のような煌めきを残す。
 魅入られるようなその美しさ。
 人を傷つけるためだけの凶器であるにもかかわらず。

 トウカは、急いで構えをとった。

 これから挑む偉大な相手は、鞘から抜かず勝てる相手ではない。
 居合いは、技術だ。
 それはあまりに違いすぎる力量を知ってのことか。
 トウカは、居合いでは勝てる見込みの無さを自覚していた。
 慎重か、あるいは臆病になれば、先の先で打ち払われる。

 ならば、速度の差だけでも埋めよう、と。

 並の技では、どう足掻こうとも勝てはしない。
 剣の業とは、そういうものだ。
 生死を賭けた戦いを経験した父に、居合いで勝てる見込みなど無い。

 ゆらり。
 トウカの父は、一歩だけ近づいた。
 トウカは構えを保ったまま、同じだけの距離を保って下がる。
 間合いを広くして、逃げていく。
 厳しさのみが見えるその父の顔を見ながら、充分な間合いを取る。
 それは、恐怖だろうか。
 それとも、畏怖だったのだろうか。
 トウカには、やけに……その姿が大きく見えた。

 離れるトウカ。
 一歩。
 踏み込みで逃れられる最後の、境界。
 一撃のみでやられないための、知恵。
 抜きはなった刀をそうと知られぬよう、強く握りしめた。
 腹に力を入れるために息を吸う。

 ひとつ。
 ふたつ。
 みっつ。

 間隔を開けて、意識の死角を待つ。
 擦った足の音すらも、耳に残っていた。
 小さく、小さく近づいていく。

 今だ、とばかりにトウカは踏み込んだ。

 刃の無い刀でも、充分な力を持ってすれば凶悪な威力を持つ。
 本気で振るった刃は、とてつもなく重かった。
 トウカは、勢いに負けそうなのを無理矢理に耐える。
 制御されていないため、あまりに危うい一閃。
 真っ直ぐに振り下ろされた刀の軌跡を、トウカの父は無造作に。

 ――ただ一撃で打ち砕いた。

 からんからんと跳ねる刀。
 トウカが走る。
 そのまま刀を手に取り、父に向ける。
 悔しそうな顔のままで。
 勝てないと悟ったのか、自分からは仕掛けない。
 それでも、睨み付ける。
 それだけが、自分の出来ることだと言うように。

 トウカの父は、優しく、しかし強く声を掛けた。
「……トウカ。強くなりたいか」
「はい、父上」
 少しだけ、目に涙を浮かべて。
「誰にもまけないくらい、つよくなりたいです」
 こくり、と。
 泣き顔ではなく、涙を堪えている顔で強く頷いた。
 静かに、巌のように問う声。
「なんのために」
「わかりませぬっ」
 トウカは父を見上げながら、声を吐き出した。

「それでは強くなれぬよ。トウカよ、自らの刃の重さを知れ」
 嘆息するような、重い声。
 黙ったまま、トウカはその声を聞いている。
「……」
「刀を振るう意味の重さ。それを知れば、自ずと強くなる」
「それは、……どういうことでしょうか」
「いいか。我らのこの力は、容易く人の命を奪い取ることができる」
「はい」
 素直に頷く。
 刀に視線を向け、その冷たい鋭さに自らの顔を映す。
 声は続いた。
「だが、なんのためにある力か」
「つよさはそこにあるだけでは、だめなのでしょうか」
 トウカの、疑問。
 ただ憧れた強さは、意味がないとでも言うのか。
 諭すように、声が返る。

「駄目だ」
「どうしてですか」

「振るう刀には、それを収める鞘が必要だ」
 チャキッ、と音を立て、刀を収める。
 涼やかな黒塗りの鞘が、トウカの目の前に置かれる。

「そして、ただ闇雲に力を求めれば、待つのは破滅だ」
「つよくても、でしょうか」
 トウカが、不思議そうに聞いた。

「強いからこそ、だ」

 黙る。
「……」
「意味も持たず振るう剣では、持ち主は振り回されているだけとなる」

 トウカは、その言葉を必死に理解しようとつとめている。
 ただ、真剣な顔。
 まっすぐに、刀を見つめる。

「そして、なにより」
 父は、トウカの頭に手を置いた。
 そのままかがんで、トウカの目に視線を合わせる。
 
「守るべき者を持った剣士は、どんな者よりも強いのだ」

 優しい目。
 優しい顔。
 トウカに向けられたその表情は、父が娘を愛おしく思うからこそ。
 
「トウカよ、覚えておけ」

 静かに。
 父が子に伝えるべきこと。
 
「我らエヴェンクルガは、守るためにこそ存在する」

 そして、厳しい声。
 行く末を見守るのみの、父のひとつの助言。
「それこそが、命を奪い取る武器を振るう者の持つ、唯一の意味だ」
「……はい」
 トウカが、にこりともせず頷いた。
 武人の表情で。
「刀を振るう意味の重さ、決して忘れるな」

 揺れる視界に、煌めく刃が映った。
 トウカの涙の雫が、透き通る刀身に跳ねた。



 ――――と、夢想に浸るのを邪魔される。

 こつん、と頭をつつかれて。
 トウカは小さく息を吐きだしてから、叫んだ。

「いきなり何をするのですっ! カルラ殿っ」
「別になにもしてませんわ。ただ小突いただけですわよ?」

 からからと笑うカルラ。
 少し、感傷的になっていたのだろうか。
 トウカは、目の端に浮かんだ雫をぬぐった。
 手に持った刀をの重さを確かめるように、握りしめる。

 じっと、その刀を凝視したまま動かないトウカ。
 カルラが声を掛ける。
「どうしましたの?」
「カルラ殿……カルラ殿はなんのために力を振るっておられる?」
「決まってますわ」

 トウカは、視線をカルラに戻す。

「あるじ様のためだけに」

 その答えを満足げに言うカルラ。
 当然のように。
 必然のように。
 全てはハクオロのために。
 それこそがカルラの力の意味だ、と。

 トウカは小さくつぶやいた。
「某も……いい主に出逢えて、本当に良かったです……」

 刀の重さを感じて、心細さがわき上がっていた。
 守るため。それは、なんと難しいことか。

 トウカは思う。
 今このとき、何を守っていればいいのだろう、と。 
 すぐさま、至極簡単な答えに気付いて声に出した。

「我らは、全てを守るためにある……」

 望む限り、なにもかもを守り抜く。
 それこそが、トウカの刀を振るう意味なのだから。

 愛しき主の不在を汚す、あらゆる者を討つために。

 トウカは、命と同じだけの重さを持ったその刀。
 想いを載せて、強く握りしめた。

「……さて、そろそろ行きますわよ」
「そうしましょう。もう雨も止んでいるようですし」

 ふたり、微笑んで小屋を出る。
 朝露が光る草むらを抜けて、どこか知らぬ場所へと歩んでいく。
 迷子たちは、時が来るまで彷徨い続けている。
 未だ戻らぬ主の側だけが、彼女たちの帰るべき場所なのだから。

「一休みしたから、少し張り切って悪党退治と行きたいところですわね」
「しかし、もうこの辺りに山賊だの夜盗だのはいないようですが」
「なら、もうちょっと遠くまで行けばいいんですわ」


 どうやら。
 もうしばらくの間は、彼女たちの旅は続くようだ――




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