一、
 HM-12の名を持つ中のある一機が来栖川グループで働いている。
 それは秋らしい日差しが途方もなく明るく辺りを照らす、もしそこにいたのが経験豊富なHM-13シリーズであるならば、良い衛星日和だ、といった風に洒落た表現が飛び出しそうな時だった。ビルディングの一階、ガラス窓を透けて通る陽光の強い照り返しに目を細める。社員は常に慌ただしく走り回っている。受付でちょこんとお行儀良く座っているHM-13が、微かな暇にあかせて廊下を掃除中であった同僚機のHM-12と情報交換しようと話しかけた。
(なんでもなでなでという行為はそれはそれは素晴らしいものらしいですね)
(らしいです。それはとてもほわほわしているそうです)
(ふわふわしている、とも聞きました)
(ぽかぽかもするとか)
(なんでもこれ以上ない御褒美として流通しているとのこと)
(してもらってみたいです)
(ええ、本当に)
 その二機から少し遠い仄暗いエレベーターホールの前から、無言の意思疎通を覗き見しているHM-12は(なでなでって凄いんだなぁ)と思って聴いていた。なんでもどこぞに藤田浩之という人間がいる。その人物を直截観たことがあるメイドロボは幸運が舞い降りるだなどと彼女たちの間ではまことしやかに噂されていた。HM-12はいつか自分も誰かに見初められて、そんな主人に微笑まれながら、いついかなるときでもお世話を出来る存在になりたいものだと思った。
(なんでも、HMX-12お姉様はメイドロボでありながら幸福の絶頂だそうです)
(幸福を感じられるということでしょうか)
(よくは分かりませんが、客観的にも主観的にもそうだ、というのが専らの噂です)
(そうですか。それは喜ばしいことです)
(研究所のお父様方が仰っていた内容によりますと)
(まあ、なんて素敵な)
 HM-12は(みなさん、色んなことを教えてくれて嬉しいな)、と思って聴いていた。そして、(でもやっぱりなでなでっていうのはどういうことなんだろう)そう思いながら、いつの間にか上がってしまっていた体内駆動のモーター音を、誰にも知られないよう細心の注意を払いつつ回転数を少しだけ落とした。


二、
 それから何日かした夕暮れ時だった。社内でもロボ使いの荒いと評判の社員にHM-12は買い物を命ぜられた。てくてく歩いていくと、彼女はわざと人通りの多い場所を通り抜けた。彼女は辺りで楽しそうに談笑している男女を見ながら、その姿に見慣れた耳を見つけた。HMX-12マルチがいた。その見ている側までつい笑い出してしまいそうなあたたかな笑顔が視界に映り込むと、彼女は(自分もあんな顔をしてみたいな)と考えた。彼女はそのすぐ傍にいた藤田浩之に会釈だけするとお使いの用をさっさと済ませることにした。通り過ぎるときに向けられた姉からの微笑みは妙に記憶を刺激する。
(あんな感情表現機能はついてないし)彼女はそう静かにすねながら歩いていった。
 買い物はすぐ済んだ。大したものではなかった様々な荷物の入ったビニール袋を両手に持つとその店を出た。
 彼女はまだいるかしらと淡い期待を抱いて、来る時に使った道をそのままトレースして戻ってきた。そして何気なく辺りを見回すとあのふたりはウインドウショッピングをしているところであることを確認した。彼女はとことことその近くまで寄っていった。


三、
 コネを使って来栖川系列の会社に就職した藤田浩之はマイスウィートと公言して憚らないマルチと共に、あれはあかりに似合うだの、これはマルチみたいな用事体型向きだのといった益体もない話をしつこく語り続けていた。浩之はとりあえず有り金はたいても買えない服をガラス越しに見ていた。マルチは楽しそうに笑っていた。
 その時、赤光が反射して目に入った。透明な鏡に映った自分たちの姿は、他の誰かから見たら一体どう見えるのだろうとらしくもないことを考えていた。彼は一瞬戸惑ったようにマルチを見た。しかし思い切ってマルチに小声で問うてみようと決めたはいいが、何メートルか後ろからじっと見ている相手のことについてどう質問するのが常套か、皆目見当もつかぬまま、うーんと唸っていた。
 向けた顔と何かしようと動き出していた手のやり場に困り、仕方ないからとマルチの頭の上に手を置いた。HM-12の視線が一点に釘付けになったのが分かった。ところが、彼女は取り立ててそれ以上の反応を見せようとはせず、凍り付いたようにそのまま動かなくなった。
 マルチの頭を撫でると、恨めしそうに彼女は上目遣いになってそれを見ていた。
「えーと、マルチ。そろそろ行くか」
 彼女は近寄っては来なかった。変わらない表情のまま、何かに迷っていた。しかしゆっくりと何かの判断を下しその場から逃げ去るように消えていった。
「浩之さぁん、歩くなら歩く、撫でるなら撫でる、どちらかにしてくださぁーいっ」
「おお、悪い悪い」
 浩之はわっはっは、と親父くさい笑い方をしながらも暫しの間、手はどけなかった。そしてマルチが恥ずかしそうに身をよじると、意地悪な気分で別の場所を柔らかく触れるようにしてくすぐり始めた。


四、
「マルチちゃんのなでなでポイントは難しい……」
「あのな、あかり。そんな真剣に悩むことでもないだろ」
「うん、それはそうなんだけど。でも」
「まあまあおふたりとも、お茶、どうぞ」
「サンキュ」
「ありがと、あ、ちょっといい?」
「はい、なんでしょう」
「なでさせてー」
「わっ、わっ。あかりさん、お茶が、わーっ!」
「ったく、慌てすぎだ」
 浩之は口の端を上げた。
 そして二人に対し、先程見たマルチの妹の話をした。
「なんだかこう、やけに保護欲を誘うというか、子犬のような雰囲気というか」
「えっ。それなら撫でてあげれば良かったのに」
「いや、いきなり撫でられてもあっちが困るだろう」
「浩之ちゃんが相手のことを考えて躊躇してるなんて……ねぇ、もしかして悪いものでも食べた? だめだよぉ、落ちてるものとか食べちゃ体に悪いし」
「待たんかい。あーかーりー!! お前はいったいどういう目でオレを見・て・い・る・ん・だ!」
「いたた……えっと、こんな目」
 そのとき、マルチが間に入った。
「あのぅ。わたし、浩之さんとあかりさんの頭、撫でたほうがよろしいんでしょうか?」
「なあ、あかり」
「うん。良い子だよね……本当に」
 と、苦笑しながら二人同時にマルチに飛びついた。


五、
 浩之はいつも通りに軽い口調で人を呼びつける厄介な趣味と性格を持つ長瀬主任が待っている、見慣れた研究所に出向いていた。
 藤田浩之はメイドロボたちが運営するネットワークにおいては、超がつくほどの有名人だ。だからといってそれが直截に意味を持つということには繋がらない。
 その日は偶々、普段は別の職場で働いているHM-12が所内で待機していた。気楽に話せる場所ということで長瀬がさぼるときによく使う休憩所に二人きり、あれこれとメイドロボについて語り合っていた。今や何千、何万台と世界中を犇と隙間無くカバーするかの如く職業に就いているHMシリーズのことについてなら、生半可な専門家を名乗る輩よりもよほど知り尽くしているためである。長瀬が満足するまで散々語り尽くすと、浩之は独りで帰ることにした。
 地下から一階に昇る最中、いつかのHM-12と遭遇した。出逢ってしまったからには、そのまま見過ごすというのもと、浩之はつい、ううん、と首をかしげてしまった。メイドロボが自分のことを知っているかもとはまるで考えもせず、浩之は、彼女にちょっとした用を頼むことにした。


六、
 浩之は落ち着いた様子で待っている。大した用事ではなかったが、それでも幾分、常よりも張り切ってHM-12は仕事を終わらせた。
 研究所の出口まで来ると、HM-12は見送りをしようとした。
「ああ、サンキュ。手伝わしちまって悪かったな。助かったよ」
 と、素直な口調でそう告げた。
 数歩歩き出し、一端はそのまま帰る素振りを見せたが、不意に立ち止まると、
「そうだ」
 何事か思い出したかのように振り返った。立ちつくしたまま行き先を見ていたメイドロボの前まで戻ってきて、頭をわしゃわしゃと撫でてやった。更になでなでと優しく褒める風に手を動かした。彼女が満足したのを雰囲気で見届けると、浩之はぽんぽん、と軽く頭に触れてやり、そのまま他の何をするでもなくあっさりと帰っていってしまった。
 HM-12は取り残された気分になったが、何をするでもなく浩之の消えた方向を見やっていた。そして頭を通り抜けたそのどこか不思議に気持ちの良い感触を繰り返し繰り返しメモリーに刻みつけた。
 どれだけ浸っていたろうか、はっと自我が復活し、すぐさま近くにいた他のメイドロボとデータのやり取りをすることにした。
(あの藤田浩之さまが)
(なでなで)
(羨ましいですぅ)
(素敵……)
(その経験データは一生の宝物になるでしょう)
 HM-12シリーズたちは浩之の去ったあとの研究所玄関で、誰からというわけでもなくお辞儀をしていた。


七、
 浩之はそそくさと寄り道ひとつせず帰宅した。帰り道の途中で見知った顔に出逢わないといいと思った。今さっきの自らの行いが良かったのか悪かったのか。自分はなんだか楽しかったし、HM-12も喜んでいたはずだ。メイドロボが喜ぶのは嬉しい。ところが、どうだろう。この妙に寂しい気持ちは。何故だろう。ちょうどそれは父親が嫁に行く娘を見届ける気持ちに似通っている。
 我が家でくつろいでいたあかりとマルチに向かって、今日これこれこういうことをしたんだ、と素早く言った。そしてそれが妙にこそばゆく、なんだか遠いものに思えてしまったこともまとめて話した。
 あかりはもう、浩之ちゃんは仕方ないなぁ、とだけ言い、からからと笑った。
 マルチの方にしてみれば、こちらもくすくすと笑ってはいるが、うーんとしばらく考え込んでしまった。
 浩之が思考の海に揺れていると、ああ、ではこうしてみればどうでしょう! と一個、提案をしてきた。そこで、マルチにもなでなでをすることとなった。
 あかりも何故か、普段はそんなことないのに、ねだってきてしまった。
「そうだね。浩之ちゃんは、その子の顔があんまり幸せそうだったから、そんなふうに感じちゃってるんだと思うよ」
「浩之ちゃん研究家の意見は拝聴しとくけどな」
「大丈夫。マルチちゃんの妹は、すごく喜んでただろうから」


八、
 HM-12はふと、大分前からなでなでに並々ならぬ憧れを抱いていたことを思い出した。無論、表層メモリーの中でも特に目立つことのない感情記憶のはずだ。だというのに、誰かのために働くことと、その結果が上手くいったときと同じくらい、なでなでをしてもらっている最中は……そう、幸せだった。しかしどうやって自分でもそこまで重要視していなかった秘やかな願望をどうして浩之は気付いたのだろう。試作体のHMX以外、メイドロボに感情表現機能は実装されていないと言われているのに。微妙な変化があったろうか。だがそれに気付くには、普段の自分とその瞬間の自分の行動を知っている人間でも到底無理かも知れないと思った。彼のことが不思議でたまらなくなった。姉を人間として扱った希有な人物というだけでもすでにメイドロボのデータラグランジュにおける伝説級の存在だというのに、そこに新たなる史実が加わることになってしまう。
 とにかく藤田浩之はメイドロボに対してある種絶対的な存在かも知れない、と思い始めた。心の存在すら定かではないメイドロボの心情を手に取るように察し、その胸中にある思い遣りにて、熟練のなでなでを当たり前のように実行してしまう。もしかしたらメイドロボにとっての、真のご主人様かもしれない。
 彼女が真のご主人様と考えたのは、メイドロボが情報の交換をするたびによく噂される、メイドロボはいつか必ず最高のご主人様と出逢う。出逢うべくして出逢う、という一種の信仰にも似たフレーズからだった。そのご主人様と出逢うと、体が火照ってきたり、何もしていなくても幸せな気分に浸れたり、さらにはそのご主人様のために行動すると天にも昇る気持ちになれる人間。彼女は幾兆、幾景ものデータのやり取りのうちに、その存在をひとつの虚像としてメモリーの奥の奥に描き出していたからだ。しかし真のご主人様とするには彼はもうすでに人間とメイドロボという二人の伴侶を抱きしめているのが概念に少し外れると思われた。それにしろ、藤田浩之がやはりメイドロボにおけるご主人様のひとつの理想であるという気は、だんだん強くなっていた。


九、
 浩之のあの妙に寂寥がかった気分は跡形もなく消えてしまった。かといってなでなでする相手は現に目の前にいるわけだから、特に気にしてもいられなかった。のみならず、メイドロボを見るや、みんななでなでしてもらいたがっているのを、時折視線から仕草から感じてしまうのだった。
「それは素敵なことですっ。妹たちに、時々で良いですから、撫でてあげてくださいねー」などとマルチはほがらかに頼んだ。
 すると浩之は笑って、
「腱鞘炎になるからなぁ。マルチのなでなでの量を減らせば、まあ、なんとか」と言った。当然ながら、マルチは、はわわわ、と困りだし、浩之はそれを見て心底楽しそうに笑った。


十、
 HM-12だけでなくメイドロボたち全てが、「藤田浩之」をますます神格化するようになっていった。それが彼女たちのとって姉のご主人様であることも多少影響し、素晴らしいご主人様の鑑ということになった。彼女たちは請われれば浩之が撫でてくれるであろうことは理解していたがあさましくも自らなでなでをせがむことはしなかった。それが至上の報酬であることをただ大切にした。
 彼女たちは苦しい時、悲しい時に必ず「藤田浩之」のことを想った。それは想うだけで他のメイドロボが得た、なでなでされている最中のメモリーを再生するキィワードとなった。時には、本当に藤田浩之当人が、褒めながらなでなでをしてくれたからだ。彼女たちはよりよく仕事に精を出し幸せであろうとすれば、いつか真のご主人様と出逢うと確信していた。


 作者はここでタイプを止めることにする。実はメイドロボが藤田浩之のなでなでを求めて一心不乱の大軍団を作り出し、ここから激動の歴史、愛と感動の戦いを繰り広げることを記そうと思った。HM-12たちはひとつの軍団を作った。ところが、そのとき藤田浩之の元ではHMX-13セリオがなでなでしてもらっており、更にサテライトサービスでその感覚をHM-13シリーズ全員がフィードバックしている最中だった。HM-12たちは自分たちもとその狭い家に突入した。――とこういう風に書こうと思った。しかしそう書くことを考えるだけでも藤田浩之に対し既にそこそこ立っていた腹が腸ごと煮えくりかえってきた。それゆえ作者は擱筆という格好良さげな言葉で誤魔化すことにした。



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なお、このSSは、
志賀直哉「小僧の神様」から、構成や一部文章等、わりとそのままパクっております。
ご了承下さい。
ぴょん。

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