ヒーターから出る暖かな風のおかげか、周囲は満たされている。
 俺は深くため息を吐いた。思いの外大きく聞こえたようだ。催促と勘違いされたか、台所の方から声が飛んできた。
「もうしばらく待っていてくださいね」
「すみません。いつも」
「こっちからお誘いしているんですから、謝らないでくださいお義兄さん」
 焦って返事をする。声の主に見えないのを確認してから、弟をにらんだ。はははと笑い返された。わざとらしいため息はお前に聞かせるためだったんだ、と目で語る。弟はまだ笑っている。
 こうして弟の家に上がり込み、夕食を馳走になって帰ることが最近多い。寝食の不規則な生活を心配されていることが原因だ。仕事を変えればいいと言われれば、正しくその通り。だが同業者にも規則正しい日々を送る連中がいると聞く。とすれば自身のだらしない性格こそが問題なのであって、職業のせいばかりにもできない。
 とまれ、ため息の理由は別にある。この義妹の世話焼き、旦那である弟がいい顔をしないなら、それを言い訳に逃げようもある。だがそういうわけでもない。好意を素直に受け取るしか道がないのだ。
 気が引けるのは事実だが、この家に来るのは悪くないのもまた事実なのだった。ささやかながら見つけた楽しみもある。
 ところで姪の名前は凛という。なかなかどうして話すとしっかりしている。思い立ったが好機である。腰を上げて、居間から台所をかるく覗く。いない。母親の料理を手伝っているわけではないらしい。
「凛なら部屋だよ」
 弟の声はやたらと大きい。台所にいた佳奈さんがこちらの会話に振り返ったくらいだ。俺は天井に目を向けた。
「あ、もうすぐ晩ご飯だからついでに呼んできてくれるとありがたいんだけど」
 手で諒解を示しながら二階に向かう。階段の手前で足を止めた。空調がここまで届かないようで廊下は低い気温に支配されている。足の裏は痺れるほど冷たい。
 凛の部屋は二階に上がってすぐに位置している。廊下の窓が目に入る。外は暗くなっていた。凛の部屋のドアを叩いた。少し待つと、中から声があがった。
「どうぞ。鍵は開いてるから、勝手に入って」
 ノブを回しドアを開いた。部屋に足を踏み入れて一歩二歩と進む。机に向かった凛の後ろ姿が見えた。手を伸ばしても届かないくらいの距離だった。無造作に近寄ると、凛が振り向きもせず話しかけてきた。
「こんばんは、おじさん」
「ああ、こんばんは」
 おや、と俺は僅かに首をかしげた。ドアの前で声を出していないはずである。どうして俺だと分かったのか。
「驚いたな。どうして分かったんだ」
「教えてあげない」
「足音か、それともノックの仕方か」
 いや、足音はそんなに立てなかった。ノックだって、単調に拳を二度ほど打ち付けただけだ。特定できるほどの特徴は無い。
 本に囲まれた室内には秩序めいた静寂がある。暖房はつけていない。勉強中か、何やら熱心にノートに書き込んでいた手を止めた。凜はぐるりと椅子を回転させ、身体ごと振り返った。俺は口を開かなかった。しばらく待ったあと、凜は時間切れ、と呟いた。
「どうしても分からなかったら、解答は教えるけど」
「いや、自分でゆっくり考えてみる。それよりまた、良い本はないか。前回のはラストがよかった。お薦めじゃないけどって渡された本は大当たりだった」
「それって暗に私にとってはお薦めじゃない本を出せって言ってるの?」
 問われ、答えに窮したら笑うしかない。ストレートな性格は母親似だ。
「俺と凜だと好みが合わないのかもしれないな」
「……好みが合わないって言えば、煙草、やめないの?」
「佳奈さんからは禁煙しろとしつこく言われてるけど、どうにもなあ。そういや凛も煙草嫌いを公言してたか。そんなに嫌か」
「うん。大嫌い」
 仕事仲間も交友関係がある連中も、周囲が全員ヘビースモーカーだらけなので、感覚が多少ずれているのかもしれない。いくらなんでも姪の部屋に来て吸うのは自分でもどうか思い自重した。ポケットに手をいれて箱を触る。口寂しい。手持ちぶさたなのは苦手なのだ。
「ところで。おじさんの話、また聞かせてほしいんだけど」
「なくはないんだが、あんまり細かいことはバラせないぞ。何しろ仕事に関わることだからな」
「そう言いながらいつも教えてくれるのに?」
「あのな凜。ちゃんと秘密にしてくれよ。内容が外に出ると俺が怒られるだけじゃ済まないんだから。まあ、言うなれば職務上の秘密ってやつだな」
 ふうんとあごに指を当て、わざとらしく聞いてくる。
「それ、守秘義務ってこと?」
 俺はまた、笑って誤魔化した。


 凜と一緒に階段を降りてくると、視界に飛び込んできたのは佳奈さんが皿に盛りつけている様子だった。
 テーブルに着くと次々に運ばれてくるのは中華料理だ。漂ってきた甘い香りは酢豚のようだ。箸が進みそうな色で、見た途端に腹が鳴るった。白い皿に盛られた麻婆豆腐がいかにも辛そうに見えた。
 最後に、茶碗に盛られた白米が登場した。ふわりとたった湯気が鼻孔をくすぐる。
 いただきます。手を合わせ、箸を持った。あとはひたすらに食べていた。眼前にコップに入った水が置かれている。一口で飲み干した。辛いものを食べたら、冷たい水が欲しくなるのは当然のことだ。大きく息を吐く。
 すごい勢いで食い尽くした俺を、まだ二口目くらいの凜が呆気にとられた顔で凝視していた。弟は笑っている。佳奈さんは嬉しそうに綺麗になった皿を見回したあと、コップに水を注いでくれた。どうもと言って俺はそれを受け取った。
「兄さん、そんなに腹減ってたのかい」
「美味いから仕方ない」
「そりゃ良かった」
 料理が美味いのはお前のおかげじゃなくて、お前の奥さんのおかげだ。拳を握ってこづきたいのをぐっと堪える。
「佳奈さん、ごちそうさまでした」
「いえいえ、おそまつさまでした。量、足りなかったですか。少しなら残ってますけど」
「あ、お気遣いなく」
 慌てて食べ過ぎた。口の中がひりひりして痛かった。火傷したかもしれない。黙って三人が食べ終わるのを待った。見ているだけというのは実に空しかった。静けさに浸っていると、ふと煙草が愛しくなる。
「煙草吸うなら、外出るか、みんな食べ終わってからにして」
 凜が先回りして言った。反論を許さない言葉だった。
「はいはい、分かったよ。外に行ってくる」
 外で吸い、屋内に戻ってくると、こんなに暖かい場所だったとはと驚嘆した。身を切られるほどの寒さに震えていた身体にとって、ぬくぬくとした空気は気持ちよくて涙が出そうなくらいだ。家路につくのが億劫になるだろうと思った。人間、幸せな今を捨ててまで辛い道に行くには相当の覚悟がいるものである。
 三人は、すでに居間のテーブルに移動していた。俺の湯飲みも用意された。凛が言った通り、茶が入っている。空いた椅子に自然と滑り込むと、凜がこちらに目を向けた。
「さ、おじさん」
「ここでか?」
 弟が口を挟む。
「おや、凜にはいつも甘いのに……珍しく渋い顔だね」
「ほう。お前も話を聞きたいのか」
 俺の口振りから何の話かを理解したが早いか、弟はいやいや、と首を横に振った。
 どこから話したものか迷う。凜は俺の逡巡を読み取り、言葉少なに助け船を出してくれた。
「やっぱり、事件の話?」
「あー。凜、確かにそうだが、聞いてからいつもと同じじゃん、とか言うなよ。傷つくからな。俺はデリケートなんだ。うさぎみたいに寂しさに弱いんだぞ」
「えと、言わないけど、おじさんがうさぎ……?」
「うさぎだ」
 鷹揚に頷き返してやる。凜は俯いてしばらく沈黙していたかと思うと、困り切った様子で顔を上げた。隣からくすくすと笑い声が漏れ聞こえてくる。実に変な受け答えに見えたことだろう。凜の淡々とした声が笑いを誘ったのは否定しない。
「お前は笑いすぎ」
 この家の主は、さっきからずっと笑い続けていた。ため息混じりに俺は弟を小さく睨んだ。凜は少し恥ずかしそうにした。


 ここからが本題である。
 弟は逃げるように自室に戻った。願いが通じたのか、佳奈さんも洗い物のために台所へと向かってくれた。
 凜を相手取っては同じような形で何度か話をしている。慎重に話さないと、正確なところも伝わらない。
「さて」
 名探偵一同集めてさてと言い、なんてフレーズが頭に浮かぶ。
「今日のように暖房が欠かせないくらい寒い日のことだ。ある事件が起きた。死んだのはうら若き女性だ」
「名前は?」
 いきなり口を挟まれた。俺はあまり考えずに答えた。
「仮に、……葉子とでもしておこうか。気になる部分があったら突っ込んでくれ。必要な情報は揃えてあるはずだから、聞かれれば、出来る限りは提供する」
 言い訳がましい俺の言葉に、こくりと頷く凜。
「葉子は睡眠薬を用いて自殺した、というのが警察の見解だ。睡眠薬を大量に飲んでという方法じゃない。どちらかと言えば最近流行の……というと不謹慎だが、練炭自殺のが正しいな。眠っている最中、一酸化炭素中毒に陥って死亡した。まあ、死因はこれで確実だと思われる」
「そこは疑わなくていいんだ?」
「ああ。遺書が残されていないということで事故や他殺の可能性も疑われた。解剖まで行ったんだ。結果として胃の中から睡眠薬が検出された。他に死因らしき痕跡は何も残っていない。綺麗なもんだ。争った形跡は本人の身体にも部屋にもなかった。パジャマ姿で死んでいたことから、発作的にやったのかもしれない。遺書が残っていないのはそのためだろうと言われている」
「じゃあ、事件にならないじゃない」
「このままだと、状況的に自殺の可能性が極めて高い、というだけだ。三角関係の噂も流れていたしな。葉子自身が悩んだ末に自殺を選んだと考えるのが自然だが、何か不自然な点があれば、ひっくり返ることもありえる」
「容疑者は限定されているの?」
「二人いる。というか犯人でありえるのは二人しかいない。しかも三角関係の噂の張本人たちだ。仮に……仮の名前が思い浮かばないな。んんー。一番と二番でいいか」
 適当すぎたらしい。凜が俺のセンスを疑うような強さで視線を寄越す。
「とにかく、犯人であり得るのはたった二人しかいない」
「どうして」
「現場の島にはその三人しかいなかったからだ。物理的に、外部の人間が入ってくることが出来ない場所だった」
「ふうん、具体的にはどんな場所だったの。まさか無人島とか言わないよね」
 さらりとした口調で牽制され、俺はぎくりと身をこわばらせてしまった。がくりと肩を落として、ゆるゆると言葉を返す。
「そのまさかなんだ」
 顔を上げると冷ややかな目に見つめられていた。安直な、と言いたげな視線だ。言葉にしない分余計に突き刺さる。
「正確には無人島内の研究施設で起きた話だ。練炭は施設内で入手するのは容易だった。専門とは違うが、研究員は化学物質の知識も豊富だ。薬剤のたぐいは数量など管理されているが、場所が場所だけに厳重ってほどでもない。調査したところ、練炭が微量だが減っているのが確認されている。施設内の人間なら誰でも持ち出せたってことだ」
「でも三人だけで研究をやってるって変じゃない?」
「元々十人程度しかいない小さな研究所なんだよ。その上、その日……というか、前後三日間のあいだだけは、三人しかいなかった。他の研究員や上司は報告や研修で出払っていた。人数が足りなかったから大規模な実験なんかは出来ないんで、他の人員の大半は久々の休暇ということになった」
「どうしてその三人は残っていたの」
「同僚の証言によれば、被害者の葉子は個人的な用事とだけしか伝えていない。誰も聞かなかった。休むためには理由が必要だろうが、出てくる分には上司なんかも気にしないだろう?」
 納得した顔で凛が話の続きを求めた。
「そもそも事件が発生するのは誰にとっても予想外だ。あと、島自体が孤立した場所にあるせいで、警備員も不要と雇っていなかった」
「あとの二人がいた理由は」
「容疑者二番は、ええと、一人でも出来る実験をするつもりだったと口にしている。一番は言葉を濁していたが、葉子と一緒にいるつもりだったらしい、みたいなことを他の研究員が証言した」
「性別は?」
「ああ、言ってなかったか。一番は男、二番は女性だ」
「じゃあ、一郎と二子って名前に変えたら」
「分かりやすいならそれでいいけどな。一郎は葉子と恋愛関係にあったと言う話だ。結婚も間近だったとは本人の弁だ。休む理由も無いから一緒に出てきたらしい。職場恋愛は一応禁止されているが、有名無実だったみたいでな」
「二人が疑われるのは理解できなくもないけど、外部犯がありえないって言うのはどうして」
「さっきも言ったが三日間のあいだ、島には三人以外いなかったんだ。しかも海が荒れていた。外からは誰も来られなかったんだ。時限装置のたぐいは見つかっていないし、遠隔操作が可能な機械なんかもない。現場は地下の個人スペース……寝室だった」
「他にいなかったのは確かなの? たとえば、外から来ることは出来なかったけど、三人以外にずっと島にいた人間がいて、そいつが犯人で、しかも嵐の中を逃げて海の藻屑になったとか」
「絶対だ。物品の管理はおざなりだったが、この手の施設は情報が財産だからな」
「どういう意味」
「外堀から埋めておくが、三日目の夕方には嵐が止んでいる。島には連絡を受けた警察がすぐさま向かった。建物周辺には足跡らしきものは一切無かった。また、外から入ってきた人物、及び中から出ていった人間は存在しない」
 これが一つめ。
「無論、三人も三日間のあいだは外に出ていないし、他者が屋内に侵入した形跡も皆無だった」
「でも、それは誤魔化しようがあると思うけど」
 そして二つめを説明する。必要だから、ちょっと詳しく話しておこう。
「この施設はIDカードが無いと身動きがとれないんだ。本人のIDカードでドア横の認証ロックを解除しないと、自室のドアが開かない仕組みになっている」
 一度区切る。凛が思案顔になった。
「研究室や建物の玄関も同じシステムを使っていて、こっちは職員なら誰でも入れるようになっている。もちろん、自室や研究室、どっちの場合もドアの開閉はきちんと記録に残る。そのせいでカメラが不要って判断されたのが失敗だったな。ここの欠点だ。それさえあれば話は早かったんだろうが」
「つまり、出ていった人間が全員、分かるってこと?」
「ああ、三日間のあいだ島にいた人間は三名だけだ。出入りの記録と照らし合わせれば、そこに疑いは無いことが分かる」
「IDカードはどんな仕組みなの?」
「電車の改札で使われているものと似ている。読み取りのセンサーから一センチ以内に近づけると情報を読み込んで、記録を残すようになっている」
「ああ、なるほど」
「わりと前に設置されたから、タイムカードと鍵をくっつけた機能、というだけの色合いが強いけどな。機械的に認証するから、あれと同じように、使用時に本人確認をするようなことはないわけだ。つまり必要なカードさえ持っていれば当人の部屋への出入りは自由ってことでもある」
「この手のシステムに必須のマスターカードみたいなやつは?」
「使われた形跡は微塵もない。葉子が発見されるとき使用されただけだから、考えから除外していい」
「葉子は、どういう状況で発見されたの?」
「いわゆる密室だ。IDカードが無いと入れない本人の部屋の中で床に倒れていた。二日目の夕方までは無事だったと一郎、二子共に証言している」
「夕方以降、姿を見ていない、ってこと?」
「そうだ。三日目になり、一郎と二子は、葉子が二時間経っても会議に来ないことを訝しんだ。内線電話で彼女の部屋と連絡を徒労としたんだ。これに応答がなかったことから二人は一緒に葉子を捜し始める。室内にいないから、施設内のどこかにいるだろうと考えたわけだ。といっても三人とも移動出来る場所は限られている。研究室や、資料や資材のある倉庫、それから食堂、台所、手洗い、それから細々としたスペースがあるが、隠れられそうな場所はすべて探したようだ」
「一緒に?」
「そう。お互いに、不審な動きは無かった、と言っている。ともに行動していた際、隙を見て何かしら証拠を隠滅できたとは思いにくい」
 考え込む凜に、俺は続ける。
「最終的には、部屋に入ったままで出てきていないと考えるに至った。異常事態だと確信したんだ。マスターカードは役職を持っている者以外には持ち出せない。ということで特別な回線を通じて外部に連絡を入れ、その夕方ごろ警察と出張中だった上司がとんぼ返りで島に到着した」
「どうして持ち出せないの? 緊急事態だったのに」
「上司の部屋に置いてあるんだよ。つまり上司のIDカードが無いとマスターカードに近づけもしない。ちなみにリスク管理ということで、各自の持っているIDカードの予備は島の外だ。施設の本社に保管されている。こっちも異常なしだ」
「なるほど」
「警察と一緒にマスターカードでドアを開き、死んでいる彼女が発見された。部屋は荒らされていなかった。また、警察の到着待ちのあいだは、二人は研究室に入ってそこから出ていない。室内を検分している最中も二人は別室に閉じこめられていた。すなわち」
「葉子の部屋は、そのままの状態だったってこと?」
「その通りだ。IDカードが使用されると、管理コンピュータにドアの開いた時間と、どのカードが、どの部屋を開くのに使われたか記録が残る。これが施設内に三人しかいなかったことの証明だ。そして自殺と判断された最大の理由だ」
「葉子の部屋に他人が侵入することは出来なかった。そして今のところ自殺を示す状況を覆しうる証拠は見つかっていない。そんなところ? ドアの開閉に関して、記録は信頼できるの?」
「ああ。ありがちだが、効果は絶大だよ。いちいち記録を取られるのでサボり防止にも役立つくらいだ。どこを出て、どこに入ったかが記録に残るってことは、現在位置まで知られるってことだ。外部の人間が入れないんだから、むしろそっちが最大の利点だな。一部の職員からはトイレに席を立つタイミングが記録されるからと廃止を訴えている者もいたらしいが、これは余談だ」
「トイレまで? うん、嫌かも」
「続けて良いか」
「どうぞ」
「えーと、葉子の部屋のドアは二日目の二十一時五分、及び二十一時五十分と五十四分ごろ、葉子自身のIDカードを使って開かれた記録が残っている。先に釘を刺しておくが、時計が狂っていたって事実はないからな。調査済みだ」
「分かってる」
 ちょっと考えていたようで、素っ気ない返答だった。
「翌日マスターカードで開閉されるまで、ドアが開けられた記録はない。また、十九時半ごろ、一郎、二子ともに研究室内で葉子と会話をしている。三人が別れたのがその直後だ。だが一郎と二子は葉子がまだ自室に戻らず、別室で資料整理をしていたと証言している。しかし二人は相手の姿を確認していないとも言っている。つまりどちらかが、そのタイミングに、何らかの理由で葉子の部屋に向かったとしても、互いに分からないってことだ」
 いつの間にかメモにちまちま書いている。用意が良いことだ。
「残りの二人が自室に戻ったのは、一郎が二十時十分、二子は二十時三分だ。二子は、二十時十分とその五分後、自室のドアを開いている。本人によればトイレに向かったという話だ」
「部屋にあるのに、なんでわざわざ」
「トイレットペーパーが切れていたから、共用トイレの余っている分をもらおうとしたらしい。筋は通っているな。トイレは室内にひとつ、洋式便器が設置されている。それと研究室の近くや、廊下の端にも共用の個室トイレがある。トイレ入り口ドアの開閉記録までは流石に残っていない。まあ、そんな場所にまで取り付けるのは金の無駄だと思ったんだろ。人権侵害で訴えられそうだしな」
 ここまで話してから喋るのではなく、全部文章にしてそれを読ませるべきだったかと思い始めていたが、かぶりを振った。身内相手とはいえ詳細をここまで話した以上、証拠が残るのは大変よろしくない。それに書くなら最後まで書かないと意味がない。最後まで書いたのを読まれたら考えて貰う意味がない。自家撞着である。
「開閉記録から分かることがもう一つ。さっきの二子のお手洗いへの往復からも分かるとおり、出入りがセットになるんだ。補強する情報として翌朝のドア開閉記録に、一郎が八時九分、二子が五時三十分というのがある。つまり、自室に戻って眠り、起きてから外に出た、ということが窺える」
「二子がやけに早いのは」
「胸騒ぎがして早く起きたから、と本人は弁解している。その後、研究室に向かった。記録も残っている。五時三十八分だな。距離的にも八分ほどで、別のことをしている余裕はないだろう。さっきも言ったが葉子の部屋はマスターカードで開かれるまでそのままだったんだ。二子が何かしたなら、この記録と矛盾しないように考える必要がある」
「もらえる情報ってまだあるよね?」
「問題の葉子自身のIDカードは、部屋の中、葉子のそばに落ちていた。そしてこれがこのセキュリティシステムの優秀……あるいは欠点なんだが、部屋の中からドアを開ける場合であっても、IDカードは必要だ、ということが挙げられる。どうしてか分かるか」
 どんな問題が起こりうるのかはすぐ思い浮かぶだろう。まぶたを閉じ凛は答えた。
「ホテルフロントの手間いらず?」
「それと同じだ。鍵を部屋に置いてきてしまう。ドアはオートロック。出ることは出来ても、中に戻れなくなるという事態が発生するのは避けたいところだな。この施設は対処として金をかけずに出来る方法をとったわけだ。さあ、どうなる?」
「鍵が無ければ、入ることはおろか出ることさえできないようにした。これなら鍵、つまりIDカードの持ち運びを強制できる。室内に置き忘れる、ということができない」
「万が一鍵だけが外に残るような事態が起きて、室内に取り残されて出られなくなったとしても、内線電話で急を知らせることが出来るようになっている」
 メモ書きが上手くいかないのか、ちょっと待ってと手で制される。話す速度を遅くしておく。
「ちなみに葉子は時間の記録が残りそうな機器を自室には置いていなかった。具体的にはパソコンとかだな。これは寝室のスペースがインターネットと切り離されていることに起因している。他方、研究室はかなり金がかかっていて、必要機材なんかも、ほぼすべてが研究室に設置されている」
 静かに立ち上がる。熱心に書き込んでいる凛の背後から、そっとのぞき込む。時間の部分を強調して太くしていた。気配に驚いたか、勢いよく振り向かれた。俺はそっぽを向いて椅子まで戻っていく。心なしか凛の口がへの字に曲がった。
 無言で向かい合う。俺は話を再開した。
「死亡時刻はおおよそでしか判断できない。午後八時以降、十時以前だ。最終的な一酸化炭素の濃度は、数分室内にいるだけで死亡しかねないくらいになっていたんだが、最初からそうだったとは思いにくい。長ければ一時間以上吸い込んでいた可能性がある」
「部屋の様子はどんな感じ?」
「そんなに広くない。もちろん生活に困らない程度の大きさはある。部屋の内装にはあまり手を入れてない。ベッド、机、冷蔵庫が各一つずつ。窓も存在しない。冷暖房に関してだが、エアコンすら取り付けられていない。各自でストーブやら温風器やらを取り寄せていたようだ。そしてここが何より大事なことなんだが、空気穴はすべてガムテープで塞がれていた。すきま風程度に空気が行き来した可能性はあるが、換気がほとんど出来ない状態になっていたんだ」
「それは、一酸化炭素中毒で自殺する用意を前もってしていたなら、別に不思議じゃないと思うけど」
「付け加えると、これは部屋の外側から塞げるものじゃない。天井にある穴から建物内のダクトか何かを通るような形だからな」
「もし他人によって塞がれていたとしたら、普通は気づくんじゃないのかな」
「だな。部屋に入った時点で、すでに意識が朦朧としているような人間でない限り、そこが塞がれていることに気がつく。そのくらい目立つ場所にある。四カ所もあるし、ベッドに横たわれば嫌でも視界に入るな。さらに言えば他人が先に部屋に入って、そういう仕掛けをしておいたとするとドアの記録と矛盾する」
「ガムテープの透明なやつを使用した場合は、気がつかない可能性がある?」
「ある。但し、現場からは見つかっていない」
「じゃあ自殺?」
「警察が不可解な点として二つの疑問を挙げている。穴を塞いでいたガムテープや、自殺に用いられた練炭、IDカード、ドア。どこにも指紋がついていなかったのが一つ。一郎ともうすぐ結婚すると決まっていた葉子の抱えていた悩みで二つだ」
「そうかな。本当に不自然なんだったら、警察が自殺と判断するわけがないよね」
「警察がこの件を自殺と解した理由は、ひとつには悲観的な本人の性格だ。もうひとつには葉子の死体は手袋をしていたことが挙げられる。それも無理矢理着けられたような形跡のない綺麗なものをな。もちろん実験中でもないのにそんなものを着用しているのは普通は不審に思うだろうが、納得できる理由があった」
「どんな」
「火傷の痕だよ。葉子は子供の頃にひどい火事に巻き込まれて、そのときついたものらしいんだ。親しいひとにも見せないで常に手袋で隠していたそうだ。二子も十年来の付き合いのうち、数度しか見たことがないと証言している」
「なるほど、起こった事実をそのまま並べれば、自殺と判断するのが妥当なんだ」
「密室の問題も、自殺なら別に不思議じゃない。方法だってシンプルだ。道具を入手するのも彼女なら容易い。他の二人には、それを偽装してまで殺人を犯す動機は表面上には見あたらない。しかも、このタイミングで殺すのはリスクが大きすぎる。自殺に偽装する計算高さは、もし発覚した場合に容疑者の範囲を狭める今回の状況と相反している」
 しゃべり疲れて、ノドががらがらだ。
「こっちは大体の情報は出したからな、あと聞きたいことを教えてくれ」
「じゃあ、二人の証言の詳細を」
「ちょっと待ってろ。ええと」
 手帳を取り出す。あれこれと事細かな情報が書かれているマイ手帳である。ここに記された文章はたとえ身内であろうと軽々と読めるようなものではないので、隠しながら内容を読む。別に字が汚いから恥ずかしくて読ませられないとかではない。
 覗き込もうとしてくる影があった。先ほどの逆襲かと思い、さっと伏せた。
「見せないぞ」
「あら、見せてくれないんだ。ケチね」
「……佳奈さん、何やってるんです」
「二人が楽しそうに話しているから、ちょっとお邪魔しようかと思って」
 俺の後ろに立った母親の様子を、凜が上目遣いに窺っている。
 さすがに、どっか行ってくれとは言えず、しかもにこにこと笑っている相手を前にしては、ここでおしまいとも言えず、俺はうううと閉口するのだった。


 うむうむと唸っていても、逃げられないし誤魔化せそうにないので、仕方なく話を続けることにした。
 いつの間にか珈琲カップが三人分、テーブルの上に置かれている。佳奈さんは凜の隣にすっと腰を下ろした。凜がこれまでの経緯をざっと話す。要点を押さえた話で、佳奈さんも素早く理解してくれたらしい。
「じゃあ、一郎の話からだ。一回しか言わないからよく聞けよ。
『葉子と俺とが恋人だった? なんですか、その目。おれを疑ってるんですか。あいつ自殺だったんでしょう。自殺だって聞いて、悔しかったけど……そうかもしれなくて、やるせないです。だってあいつ、最近めちゃくちゃ悩んでるみたいでしたから。
 はい? 睡眠薬? 葉子が使ってるのは見たことないです。
 喧嘩なんて無かったですよ。おれとのあいだに問題なんて何もありませんよ。ありませんでした。絶対。
 そう。だから、もうすぐ結婚するって約束、してたんだから。おれ、順調だったと思ってたんですよ。本当は、まだ秘密にしておいてってあいつからも言われてたけど、仲の良い職場の連中に教えちゃってましたからね。黙ってたりしたら悪いですよ、やっぱり。
 いや。おれから言い出したんですけど、あいつも結婚にも乗り気だったはずですよ。だって愛されてましたから、おれ。え、三角関係? どういうことですか。
 おれが? 誰と? 二子ちゃん? ふざけてんですか。
 おれは葉子だけです。そうじゃなきゃ、結婚なんて言い出しませんよ。は、二子ちゃんね。あの子は良い子だけど、そういうふうに見たことはないんで。いやほら、葉子の親友だし、あいつと結婚するって報告、いの一番にしたくらいです。
 喜んでくれましたよ。なんて言ってたかって? 良かったね、良かったね。葉子ちゃんが幸せになってくれると、私も幸せになれるって。涙まで流して。
 おれも泣きそうでした。それなのに。あいつ、どうして自殺なんか。そりゃ不安定だったかもしれないけど。……え、葉子の方が浮気? そんなわけ。噂? 誰がそんなこと言ってるんです? 馬鹿馬鹿しい。あいつはおれ以外の他の男に近寄らないくらい、いつだって、めちゃくちゃ気を遣ってくれてたんですよ。
 今時珍しいくらい物静かで、貞淑とか清純って言うんですか。おれ以外の男とは絶対に二人きりにならなかった。それに、おれがめちゃくちゃ嫉妬深いこと知ってたから。
 ……違いますよ。おれじゃないです。
 なんでそんな。自殺じゃないんですか……あいつが自殺じゃないんだったら。おれ。おれ、あいつを殺したやつぶっ殺しますよ……なあ、どういうことだよ!』
 と、ここまでだな。話を聞いていた警官に掴みかかったようだ。泣きながら大人しくなった。その後、練炭に関して尋ねられとき少し顔を青くした。詳しく聞けば、もしかしたら葉子がそれを持ち出すのを手伝ったかも知れない、と来たもんだ」
「それってつまり、一郎が手引きして本人が自殺するための道具を用意させちゃった、って意味?」
 凜が発言の意図を明確にさせようと、質問する。
「すっかり忘れていたそうだ。だとしても、自分が葉子の死を間接的に助けたと思ったんだろう。完全に血の気が引いていた」
「ふうん。普通の睡眠薬なら持ち込むのは難しくないか。葉子の私物だったの?」
「実のところ、この施設は出るときはともかく、入るときはあんまりチェックが厳しくないんだ。情報を持ち出しうるものには厳しいが、他のものは素通りらしい。睡眠薬くらいならいくらでも持ち込めただろうな。一つ二つと言わず、大量に」
 そこで佳奈さんが楽しげに俺を見た。
「さっきの一郎の証言って、わざわざ演技したの?」
「どうです。ニュアンスは伝わったでしょう?」
「かなりお上手。じゃ、その手帳って台本なんだ」
「どーも。芸人ならネタ帳ってところですね。じゃあ次は二子の話にしましょう」
 手帳をぱらぱらとめくる。一気に読んでしまったほうがいい。肺に空気を吸い込んで、吐いて、素早く言葉にした。
「こっちは今にも泣きそうな顔で話し続けていた。聞いている警官が止めないとと思うほど辛そうな顔で、ゆっくり、一言ずつ口に出したんだ。
『葉子が自殺だなんて、今でも信じられないです。そんな罪深いことを、どうして葉子がしなければならなかったのか。
 でも、葉子なら。そういうこと、あるかもしれないって思いは、たしかにあります。葉子、とても繊細だったから。葉子はいつだって、何か困ったことがあったとき私に相談してました。だけど最近は……。深刻そうにしていたのを何度か見たけど、私には何も言ってこなかった。
 私はずっと葉子と一緒にいたから、なんでも理解出来るって思ってたけど、思いこんでいただけなのかな。ちゃんと話してくれていたなら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
 私の部屋、葉子の部屋の近くなんです。いつもと違うことは分かっていたから、ほんの少し注意していれば……葉子は死ななくて済んだかもしれない。
 ……さっきから私、かもしれない、って言ってばっかり。タラレバなんか、今となってはなんの意味も無いのに。
 あの子は生きられなかった。そう思うと、やるせないです。知っていること? ありません。お役に立てそうなことは知らないです。そういえば、一郎さんともうすぐ結婚する予定だって聞きました。葉子は幸せになれるかもしれなかったのに、なんでこんなことになったのか。
 睡眠薬を使っていたかどうか? いえ、使っていないんじゃないでしょうか。ああ、葉子は最近、貧血気味でしたし、眠れないって零してました。
 え、練炭を部屋の中で見たかって?
 あったかもしれないけど、気に留めませんでした。あ、ええ。手に入れるのは難しくないと思います。
 だって……うちの施設には色々揃ってますから。
 趣味の品とかだって揃えて貰うのも難しくなかったですよ。場所が場所だけに、手に入れにくいものも結構ありますから……。
 そうそう。みんな船で外に出たら、煙草とか山ほど持って帰ってくるのが習慣になっているんですよ。いえ。私は吸いませんよ。葉子が吸ってたのを思い出しただけです。最近になって、すっかりやめちゃってたみたいですけど。
 ええと、だから、ものなんて帰りにいくらでも持ち込むことは出来たでしょうし。持ち出すときは色々うるさいですけど。
 たとえば……そうですね、私の部屋にあるイチジクの木。あれって葉子が昔くれたものなんですよ。もう何年も一緒で、ここに来るときに持ち込んだんです。誰にも何も言われませんでしたし。
 え、一酸化炭素が何です? ……この施設にある薬品で練炭以外に何か思い当たることはないか、ですか? ああ、一酸化炭素の性質なんて基礎です。一般の方だって知っているでしょう? いくらでも方法なんかあります。……練炭じゃなくったって、不完全燃焼さえ起こせればいいんですから。
 はい? 葉子がなぜ自殺をしたか? だから、さっきも……はあ、思いつくことならなんでもいい? そう、ですね。たとえば、恋人とのあいだに何か重大な問題が発生したとか。そんなことは無かったって思いますけど、葉子が悩むようなことって他に考えつきません。
 仕事上も順調でしたし、ああ、そうですね。
 じゃあ、やっぱりそういう理由じゃないんでしょう。ああ……なんで死んでしまったんでしょうね、葉子は。自殺なんて、決して許されることではないのに。あの子のことを思うと、とても、辛いです』
 このくらいか。……疲れるな、この口調」
「わざわざなりきらなくてもいいのに」
「正確を期すためだ、と言っただろ」
 佳奈さんが俺と凜の言い合いを制するため、口を挟む。
「ええと、二人の部屋から何か不自然なものとか、引っかかるようなものは出てきてないのかしら」
「怪しいものは特にありませんね。指紋がつかないようにするのも簡単です」
 佳奈さんは手にしたカップに目を遣る。中の液体はすでにほとんど残っていない。傾けた水面に、眉をひそめている表情がぼんやりと映り込んだ。
 天井に目を向け、佳奈さんが言葉を探す。
「科学的に、そういう物的証拠を隠滅するのに、痕跡を残さない方法ってありえます?」
「ええ、あります。ただ……例を挙げると、硫酸で死体を溶かすのと同じようなものなんです。ドラム缶一杯の硫酸と、終わったあとにそれを捨てる場所さえあれば、何もなかったかのように見せかけることはできる」
 佳奈さんが得心の言った顔をして、確認を取る。
「その場合、完全犯罪が成立するってことね?」
「見えないものと、無くなってしまったものの区別はつきませんからね」
 凜はため息混じりにまとめた。
「つまり、おじさんの言葉を信用するしかないってこと。それが無いって言うのなら、全面的に受け入れるしかできない。私たちには現場を見に行くことが不可能だから」
 直で言われると気が重い。こらえていた冷や汗が背中を伝う。なるべく注意深く話しているつもりだが、どうしても隙というのは生まれてしまう。人間とはそういうものだと言ってしまえば、これまたその通りと頷くしかないのだけれど。
 凜は、あ、と口を軽く開いて顔を上げた。俺に向かって。何か思いついたのか、顔つきが真剣さを帯びている。少しずつ言葉にした。
「ドアの開閉記録って、内側から開かれたか、外側から開かれたのかまで分かるの?」
「残る記録からだと、開かれたかどうかしか判別できない」
「じゃあ、内外どちらからでも、ドアがどのIDカードによって開かれたか、それしか記録に残らないってこと、施設内の人間はみんな知っていた?」
「内部の人間は知りえた事実だな。積極的に調べれば、誰でも知ることはできた」
「これで情報は出そろったの?」
「言える範囲は、ほぼ全部言ったつもりだが」
 思い返す。偽りを口にせず答えられたはず。断言しなかった部分には多少の幅を持たせてある。
 佳奈さんが笑みを浮かべた顔が視界に入った。何やら思いついたらしい。 
「分りました?」
「ええ。そうね。これなら筋が通るっていうのを思いついたわ」
 凜も何か考えついたようで、一緒に頷く。
「今までの情報を総合したうえで、矛盾しないシンプルな話を考えてたら、こういうふうに考えられることに気がついたの。まず、IDカードっていう邪魔な壁を取っ払う方法からね」
「どんなのです?」
「簡単なことよ。IDカードの持ち主同士が、直前に自分たちで交換しておけばいい。でしょう? 必要なのは葉子の部屋に、最後に葉子が残っていること。それでつじつまは合うわ」
 たしかにそれは上手い手だし、言われてみればひどく現実的な解決策だった。IDカードは本人確認をしない。お互いに持っていれば閉じこめられることもない。俺は慌てて言葉を継ぐ。
「でも、誰と。どうして」
「普通に考えれば、恋人かしらねえ。自分の部屋に素直に招き入れる相手は。ま、気の置けない相手と考えれば長年の親友も決してありえなくはないかも」
「どっちですか」
 俺はその先を聞きたかった。今まで語った情報からはこうも考えられることを、すっかり失念していたのである。持っている情報量が少ないからこそ、語られない部分を自由に描くことが出来ることもあるのだ。
「まあまあ。ところで二子がイチジクの木を葉子から貰ったって言ってたわね。なんで言及したのか、考えてみたの。そしたらね、しばらく前にね、イチジクの樹液で指紋が溶けるって話をやっていたのを思い出したのよ。なんとか言う酵素の働きで、タンパク質が分解されちゃうんだそうよ」
「指紋の問題を解決するために、それを使ったと?」
「まさか。言ってみただけよ。指紋を付けたくなかったらハンカチで済むことだもの。それで、なら話の続きね。まず犯人がカードを渡しながら、こんなことを言うの。『私の部屋で待っていてほしい』とね」
「なるほど」
「犯人は二子だと思うから、そういう前提で話すけどいい?」
「かまいません。そう推理した理由は知りたいですが」
「女のカン」
「さいですか」
「冗談よ。でね、葉子は別に断る理由なんて無いだろうから、……無いわよね? ええと、時間まで研究室にいたあとで、ごく普通に二子の部屋へと向かう、でしょう。そこに罠があるだなんて思いもせず」
「罠?」
「素直に想像すれば睡眠薬入りの飲み物ね。後々、二子自身も自室に戻れるのだから、それを処分するのは簡単だった。自殺と思われる可能性が高くても、疑わしいからと解剖される可能性はある。実際そうなったのだし。この場合、食べ物に混入していたら自殺という判断は覆るでしょうね。だから飲み物かなって。ま、冷蔵庫にそれしかなければ誘導をするのは難しくないわ。使った方法は手品みたいなものでしょうね」
「手品?」
「知らない? 一見、選んだものは自分の意思に見えるのに、実際は他人に巧妙に仕組まれているようなマジック。自由に選択したはずなのに、少しずつ行動の範囲を狭められていって、結果として選ばされていることになるのよ」
「たとえばどんなふうにです」
「例を挙げると……そうね、部屋を高すぎる温度まで暖めておくとかすれば、飲み物を手に取る可能性は高くなる。辛いものを食べたら何か飲み物を欲しくなる。その前に、長距離を走らせたり、別の飲み物がある場所に近づかせなかったりすれば、選択肢はさらに減るわね」
 佳奈さんは滔滔と語る。魔術師が自らの術のタネを明かすように、鮮やかに。
「飲まないという選択肢は塗りつぶされて、どれを飲むかしか考えなくなる。趣味嗜好を熟知していればさらに容易い。用意された環境がすでに仕組まれているの。そうやって行動の範囲は狭められていき、最後には仕掛けた人間が望む形で動いてしまう」
 言われて、俺はさっき食べた麻婆豆腐のことを無意識に思い出していた。確かにあれだけ辛ければ、目の前に出された水に何も考えずに手を出すだろう。そこに睡眠薬が入っていたら? 毒が入っていたら? そこまで疑いを抱くような相手と日常生活を共にはしないけれど、当たり前に置かれた罠を回避するのは難しい。
「それが行われたと?」
「今言ったみたいに、暖房をがんがんにつけておくだけでも効果はあったと思うわ。それに、機会は一回限りじゃない。睡眠薬入りの水を自分の冷蔵庫に常備しておいても、誰にも怪しまれない。自分と狙っている相手以外が部屋に入ることは無いのだし」
「なるほど。それなら確かに、睡眠薬を自分から飲ませるのは簡単だったでしょうね」
「飲むかどうかは、偶然に頼ったってかまわないんだけどね」
「どうしてです」
「その場合は、偶々殺せるタイミング……いえ、自殺に見せかけられるチャンスだったからその日に殺したのよ。殺すだけなら手段なんていくらでもある。他の日でも良かったはずだもの。人目につく可能性は多少高くなるけど。そして最後に、自分のIDカードは眠っている葉子から取り上げる。葉子の扉が開いた瞬間、廊下に出ながら振り返って中に投げ込めば、それで片が付くでしょう?」
「筋は通ってますけど、動機はなんです?」
「二子が一郎に恋心を抱いていたから、というのはどうかしら」
 ありうる話だ。俺は頷く。
「普通に考えれば、切っ掛けになった出来事があったはずね。一郎の証言にも、二子自身も語っている通り、葉子は一郎と結婚をする予定になっていた。そして葉子は、一郎にまわりの人間にはまだ黙っていてくれと頼んでいるわ」
 凜が唇を尖らせたが、最後まで黙って聞くことにしたようだ。
 俺は、今までした話と矛盾しないかどうかを脳内で照らし合わせた。大ざっぱには可能という結論が出てきた。最後まで聞く価値はある。佳奈さんは俺ではなく、凜の反応を確かめている。凜はじっと動かず、耳を傾けている。
「葉子はね、二子も一郎に気があったことをちゃんと悟っていたのよ。長年の親友で、お互いの心が通じ合っていたとしたら、それくらい見抜くのはわけないわ。でも二子にしてみれば……親友の恋人でしょう。二子はずっと耐えていたのね。葉子が幸せになるならいい、実際にそう思っていたんでしょう。ずっと。ずっとね」
 俺は無反応を決め込み、黙って聞いている。
「けど人間って矛盾する生き物よ。葉子が結婚すると聞いた瞬間に、今まで自分で考えていた以上に心が痛んだ。そして現実的に結婚を阻止する手段を思いついてしまった。葉子が死ねば一郎が結婚することはなくなる。短絡的かしらね」
 一端区切った。想像を膨らませ、情景を鮮明に思い浮かべながら話しているからか、だんだんと感情がこもった声で語られるようになり、そして語気が強まる。
「いいえ、そうは思わない。だってそうでしょう? 恋人が自殺して弱気になっている一郎を籠絡できるチャンスが生まれたんだもの。これは言い過ぎかも知れない。初めは単なる嫉妬だったかもしれないわ。でも、その衝動に身を任せたんだったら同じこと。一郎の方は葉子を失って押しつぶされそうになっている。あの証言が良い証拠よ」
 突飛な想像だった。しかし流れるように喋る佳奈さんの声のせいで、情感たっぷりに思い浮かべられた。己のIDカードを渡し、死の待つ部屋へと向かわせる二子の微笑み。何も知らず素直に従った葉子。二人が会話を交わす場面が目に見えるようだった。
「イチジク。そう、イチジクの木があったわね」
 ぽつりとささやくような声で、佳奈さんがその単語を繰り返した。
「イチジクの花言葉には、子宝に恵まれる、実りある恋、裕福、平安などがあるわ」
 不意に、暖房の音がずっと響いていたことを思い出した。重苦しい沈黙をなおも際だたせる静かな音だった。
「ねえ、二子の部屋には、葉子から送られたイチジクの木があったでしょう。二子は毎日それを見てどう思ったのかしら。ずっと一緒だった親友が、自分の好きな男と一緒になろうとしている。どんなにみじめな気持ちになったことでしょうね。許せない、と思うのが自然じゃないかしら」
「確かに、そうかもしれないですね」
 俺はようやく反論の糸口を見つけた。
「だけど練炭の問題はどうするんです? あればっかりは湧いて出てくるわけにはいかないでしょう。もし葉子の部屋にあったとしても、まず、わざわざそれを手に入れてくるのは奇妙です」
「ええ。そうね。でも、殺すだけなら別に練炭じゃなくたって良いし、手に入れたのは葉子だけと限らないわ。二子本人が発言したように、一酸化炭素を出すものなんていくらでもある。練炭は後で設置したってかまわない。中毒死するくらいの量、一酸化炭素が発生してくれさえすれば」
「どうやって」
「どこの部屋にだって、暖房器具くらいあるでしょう? ちょっとだけ弄れば済む話じゃない。そうね、暖房が、古い石油ファンヒータやらストーブだったりしたら更に都合が良いわ。酸素不足になる条件さえ揃えば、大抵の古い機器は不完全燃焼を起こす。昔はみんなそれが分かっていて換気には気をつけたものだけれど、最近のひとはエアコンに慣れきってるから、あまり気にしないようになっていたかもしれないわね」
「空気穴を塞いでいたガムテープについては?」
「睡眠薬で眠らせてからでも、塞ぐのは十分間に合うんじゃないかしら? 警察は葉子の部屋しか調べていないんでしょう? 違う? だとしても雑巾か何かで詰まらせてしまえば跡は残らないわ。そうだ、透明テープ。葉子の部屋で使われたのはガムテープだったけど、二子の部屋に仕掛けられていたのは透明テープだったかもしれない。それなら気づけなくても仕方がないわよ。あ、練炭の入手方法とかもあったわね」
「一郎が手伝って、葉子が盗んだとしても二子の手に渡るものでしょうか?」
「むしろ葉子の部屋で練炭を見つけたから、一酸化炭素中毒にして殺すことを思いついた、という順番だと思うけど」
「なら葉子は何のために練炭を手に入れたんです?」
「二子が欲しがっていたから、葉子が入手してあげたとも考えられるわ。可能性ならいくらでもある。誤解されがちだけど、本来、練炭は自殺のために使うものじゃない。常識的な用途は七輪なんかで何か焼くための燃料よ。ただ、練炭を入手するためにこそこそ動いていたんだから、やっぱりそれ相応の用途だったかもしれないわね」
「たとえば」
「もちろん自殺に見せかけて殺すためよ。この場合は、葉子が二子を、ってことになるけど」
 うん、と大きく頷く。
「葉子がそこまで危機感を覚えていたとも思えないし、この考えは難しいかも。葉子が二子を殺そうとするだけの理由があったなら話は別だけど……。さ、これで私の推理はおしまい」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、俺と凜を見渡した。
「どう? 筋は通っていたんじゃないかしら」
「そう、ですね」
 細かい部分で怪しいところはあるが、大筋は矛盾していない感触がある。
 けれど、これでは答えがひとつ足りない。その答えは今までの情報から確実に読み取れるものではないが、核心の部分であることは否めない。それに触れていない以上、これを完全な正解として認めるわけにはいかなかった。
 もちろんそれは俺の我が侭以外の何物でもない。
 佳奈さんが言及したイチジクは、花の無い果実と書く。しかし本当に花が無いわけではない。花は内側に隠れている。外から見えないだけに過ぎない。見えるものは明らかに存在している。ただ、見えないものがすべて存在していないわけではない。


 気がつけば話し始めてから結構な時間が経っていた。そろそろ帰り支度をすべきだ。しかし話に決着がついていない。
「さてと、凜。そろそろお前の話を聞かせてもらいたいな」
「ん」
 頷いたが、佳奈さんに視線を送った。頷き返された。
「まず最初に、睡眠薬について話しておくけど、お母さんは誤解しているみたい。そんなに上手くいくものじゃないよ」
「そう?」
「うん。説明に困るくらい大量に飲んでいたり、自分から進んで眠ろうとしていたなら話は別だけど」
 声の高さは違うが、口調というか、言い回しがそっくりである。
「だから、それだけじゃ説明が付かない。葉子が見つかったときの服装、覚えてる?」
「たしかパジャマ姿……あ」
「つまり、寝間着だよね。研究室から直截、二子の部屋に向かったって説明はちょっと厳しいものがある。死んだあと着替えさせた、なんてのも考えにくい。パジャマは自分で着たんだと思う」
「私の推理、いきなり雲行きが怪しくなっちゃったわね」
「あと、お母さんは一郎が犯人じゃないと考えてから、ほぼ無視していたみたいに聞こえたんだけど、どうして一郎が葉子と結婚しようと思ったのか、考えた?」
「切っ掛けってこと? 二子が葉子を殺そうとした、みたいなタイミングの話?」
「あったんだと思う。だからこの事件は起きたの。だからこそ葉子が悩んでいたという証言が出てくる」
「でも、その理由ははっきり口にされなかったでしょう」
「ううん。口にされなかった、ということが鍵なんだと思う」
「どんな」
「葉子は、たぶん、妊娠していたの」
 俺に目を向けた。俺は口に出さないことで凜への返答にした。無は自らは何も語らないのだ。だけど無がそこにあることによって、別のことがらは推察できる。
 語られなかったということに意味がある。佳奈さんはあららと口だけですねた。
「ヒント、あった?」
 俺が口を開くより先に、凜がさっと答えた。
「二子は知っていたんじゃないかな」
「どうしてそれが分かるの」
「証言中に二回出てきた、あの子って使い方、なんだか不自然じゃなかった? それから煙草をやめたっていう情報。唐突に禁煙を始めたと考えるよりは、何か理由があったと考えた方がありえる。それに、女性が煙草をやめるとしたら、妊娠が発覚した場合が多いんじゃない」
「……あ」
「あの子のくだりはどっちにでも取れるから除外してもいい。だけど煙草のことは見逃せない。警察が自殺だと判断したのは、マリッジブルー以上に、その事態で不安定になっていたことを察したから。憂鬱から衝動的な行動に走った、ってふうに」
 これは余計な想像だけど、と前置きして続けた。
「妊娠してた事実を一郎が全く知らない可能性もある。余計にショックを受けるだろうからってみんな黙っていた、みたいな。それに葉子に大きな変化があったと考えないと話に歪みが残る。なくてもパズルの全体像には辿り着ける。でも、ひとつだけピースが足りていないっていうのはなんだか嫌な感じ」
「どんなピースが足りないの」
「三人の関係。一郎の恋人は葉子。でも三角関係という噂が正しいとしたらどう」
「二股をしているってことになるわね」
「だけど、一郎が、二股をかけていないとしたら」
 佳奈さんが目を丸くした。
 答えへの道を見つけられてしまった場合、素直に敗北宣言をせねばなるまい。
「そうだ。葉子のもう一人の恋人は、二子だ」
 佳奈さんは手で口を覆った。驚いている驚いている。そうでなくては。
「だよね。なら動機も予想がつけられる。積極なのか、消極だったのかが」
「積極って?」
 佳奈さんが聞く。
「犯人が葉子の裏切りを許せなくて殺そうとした場合」
「じゃあ、消極はなに」
「葉子に殺されそうになったせいで犯人が反撃とした、あるいは二人とも死の危険に晒されて、運良く犯人だけ助かった場合」
「凜はどっちだと思っているの」
「後者の別パターンかな。部屋の交換というのは良いアイデアだよね。葉子の部屋に、先に恋人たる人物が入るのは不思議じゃはないし、別の部屋に呼び寄せるのも隠蔽と実用を兼ねている。着替えの問題も、恋人の部屋にパジャマを置いておいたと考えれば、ありえなくはない」
「じゃあ、決め手になったのは」
「もし積極だったとしたら、犯人は自分の部屋に呼び出したほうが殺害しやすいし、証拠を隠すのも容易い。部屋で話したい、そう持ちかけたのは葉子からじゃないと変。葉子が加害者を呼んだ形がしっくりくる。練炭とか、睡眠薬とか、呼ばれた側が突発的に犯行に及ぶには不向きなものが揃ってるし」
「つまり葉子が殺そうとして失敗した?」
「ううん。むしろ室内で心中をはかった、というほうが説得力がある。さっきの寝間着姿にしろ、睡眠薬にしろ。一酸化炭素中毒を用いるというのは、怨恨や憎悪よりも比較的穏やかな方法だから。苦しまずに死にたい、或いは誰かを殺さざるを得なかったのかも」
「その場合、心中相手は一郎?」
「一郎には葉子と心中する理由がない。じゃあ葉子には? あると思う。さっきお母さんが言ったイチジクの花言葉、あれが引っかかった。葉子が結婚を黙っていてほしかったのは二子に知られたくなかったから。でも本当に気がつかれたくなかったのは、結婚じゃなくて、妊娠したことだったんだと思う」
「どうして二子が葉子を殺したいと思うの」
「葉子の口から真実を聞けなかったから。好きなひととの子供が欲しいって気持ちなら分からなくもない。でも……女性同士じゃそれは不可能。だから」
「葉子が二子と心中したい、っていうのは?」
「葉子はきっと最後まで言わないままだった。言えなかったからそういう手段に出るしかなくなった。でも、逃げ道が見つからなかった。自分だけ幸せになっていいはずがないと感じた。全員が幸せになる方法が無くて死に救いを求めた。なまじ妊娠してしまったせいで……もっとずっと後になると思っていたことが、あるいはすべてが、動き出してしまうのを感じて、未来が怖くなった」
「どんなことが起きたのか、説明してみて」
「葉子は部屋に二子と一緒に入ったんだよ」
「招き入れたのでも、IDカードを交換したのでもなく? 単純に同時に部屋に入ったってこと?」
「そう。だから練炭も用意されていたし、ガムテープもすでに貼られていた。あとは睡眠薬を飲んで、一緒に死ぬだけだった」
 凜が書き記していたメモには、開閉記録の時間が並んでいる。佳奈さんが指摘した。
「ええと、ドアの記録と矛盾している気がするんだけど」
 葉子、二十一時五分、二十一時五十分、二十一時五十四分。
 一郎、二十時十分、八時九分。
 二子、二十時三分、二十時十分、二十時十五分、五時三十分。
「どこが」
「まず二子。二十時十五分に部屋に戻っているんだから、葉子の部屋に向かうときにもドアが開かないとおかしいんじゃ」
「おかしくない」
「ど、どうして」
 凛の即答に対して、佳奈さんが困惑の声を漏らした。
「偶然だったんだと思う。葉子は、トイレから戻ってきた二子を丁度見つけて、ドアを開いている最中に話しかけた。葉子の部屋に向かう前に、二人はどこかで時間をつぶしていた。それまで葉子がいたっていう資料室が妥当かな」
「……だったら、ええと、葉子の部屋から二子が出たのが二十一時五十四分……だとしても、五時三十分に二子は部屋から出ているんじゃないの?」
「出てないんでしょ」
「へ?」
「だから、ドアは開いただけ。誰も通っていない。二十時十五分のドアが開いただけなのと同じ。そのときは偶然だったけど、五時半の場合、二子は考えた末にそうするしかなかった。きっと延々とトイレにでも籠もっていたの。時間が早すぎるのは、下手を打って発覚するのを恐れたから睡眠も取れず、かといって深夜にドアを開閉しても疑われる。通路にいては、何かの拍子に一郎が出てきて遭遇するとも限らない。だから隠れていて、朝になったら一番にドアを開けて、即座に研究室に向かった。理由は……」
 声も出ないようで、佳奈さんは必死に考えている。
「自分が犯人だと思われるのを、何としてでも避けたかったから。あるいは葉子と共に心中をはかったことを誰にも知られるわけにはいかなかったから。自分は心中の結果として生き残っただけだと分かっている。でも他人から見れば、それは殺人と見られる可能性があるのは言うまでもない」
「二人は互いに心中を行い、その結果、二子は死ななかったってこと? いったいどうして」
 俺は黙ってその答えに耳を傾ける。
「……正確に言えば、同じだけの時間、一酸化炭素で満たされた部屋にいて、葉子は二子よりもずっと早く死んでしまった。二子はきっとものすごく驚いたはず。……ねえ、お母さん。一酸化炭素中毒がどうして起きるか知ってる?」
「窒息する、んだったわよね」
 致死性であることは知っていても、その厳密な理由まで答えるのは厄介だ。自身なさげに俺を見てくる佳奈さん。俺は軽く頷く。
「もっと細かく言って」
「血液が酸素を運べなくなる……って前にテレビでやってたのを見たことはあるわ」
「そう。血液中の赤血球……その中にあるヘモグロビンは、本来は酸素を運ぶはずのものだけど、酸素に比べて、一酸化炭素と結びつきやすい性質を持ってる。ざっと二百五十倍ほど」
「それが?」
「一酸化炭素とくっついたヘモグロビンが増えるのは、血中のCO濃度が上がるということ。濃度が高くなれば、人間はやがて死に至る」
「軽ければ問題無いの?」
「煙草を吸っているひとは、慢性の一酸化炭素中毒患者とも言うけど。つまり、すでにCO濃度が普通の人より高い状態」
 口を挟まず俺はひたすらに聞く体勢を取る。
「……妊婦は、貧血を起こしやすい。貧血を起こす原因には、鉄分不足が多い。鉄分を元にヘモグロビンは作られる。血中のヘモグロビン自体元々少ない状態の人間が、一酸化炭素を吸い込むと」
「運べる酸素の量が、普通のひとよりも更に少なくなる?」
「そう。だから同じ時間、同じ場所で、同じ量の一酸化炭素を吸い込んだとしても、妊婦はより大きな危険にさらされる」
「……なるほど」
「お互いに、睡眠薬を飲んだのかもしれない。すぐに眠れなくて、曖昧になっている二子は、目の前で亡くなった葉子を見て、怖くなったんじゃないのかな」
「怖くなった?」
「混乱したのかもしれない。入ったときから一時間以上経って、葉子の部屋のドアが二度開かれているのがその証拠。逃げだそうと思った二子は朦朧としながらも、葉子のIDカードを持って慌てて外に出る。それが一度目の記録。でも廊下に出て数分して、自分がこのIDカードを持っていることがどんな結果をもたらすか、冷静に考えられるようになった。そうして、再びドアを開き、IDカードについている自分の指紋を拭き取ってから、投げ入れた」
「はー。そこまで説明されると、納得するしかないわね」
「だとしたら……もしかして二子は葉子が死んだあとに、妊娠していると気がついたのかも」
「……へ」
「一郎は葉子の妊娠を知らなかった。二子は結婚するとしか教えて貰っていないし、お腹が大きくもなっていないで、いきなり妊娠を疑うのは難しいような気がする」
「そうかしら」
「分からない。でも、そうだとしたら寂しすぎる話だよ」
 凜は淡々と続けた。
「葉子が妊娠した事実を教えてもらえず、自分の恋人が他の男と結婚することを知っていて、それなのに葉子の言い出した心中に素直に付き合った二子は、いったいどれくらい葉子のことを愛していたんだろうって……そして死んだ葉子を置いて逃げ出して、いったいどんな気持ちになったんだろうって」
 神妙な顔で佳奈さんに目を向けた凜は、聞き取れないほど小さく声を漏らした。
「そう考えると、あまりにも、ね」
 寂しげに言う。凜は更に話を続けようとした。まだ先があるのだ。俺の戸惑いの視線が届いた途端、ほんの少し本気で睨まれた。
「蛇足があるよ。イチジクについてなんだけど。もし、二子が口に出したことに意味を求めるとすれば、聖書の一節からかな」
 驚いた俺が、反射的に問いかけた。
「なんでその場面で、聖書が出てくると思うんだ?」
「二子はキリスト教の信者じゃないの?」
 俺は絶句する。それまで驚いてばかりだった佳奈さんが、俺の状態を見て、溜飲が下がったようにころころ笑う。
「キリスト教、特にカトリックが自殺を禁じている宗教なのは有名。二子は証言の中で自殺を罪深いとか許されないと言っていた。心中といっても状況によって左右される。大人しく殺されるのと、葉子が死んだあともそこに留まって死ぬのとじゃ、心理的な抵抗が随分と違ったんじゃないかな。だから慌てて逃げ出した。心中をはかったのを知られることを二子は何よりもおそれた。そして真実を隠した」
「……なるほど」
「それから、葉子の名前は仮名だったよね」
「ああ」
 凜が透徹するような瞳で、俺を見据えた。
「おじさんは一郎や二子の名前は適当につけたくせに、葉子だけは自分であっさりと決めた。イチジクの葉がどんな場面で使われたのか、それが頭の中に残っていたから、名前について悩まなかったんじゃないの?」
 詩を吟ずるかのごとく、凜は、ささやいた。
「アダムとイブは、蛇に誘惑されて禁断の実を食べると、自分たちが裸であることを知った。恥ずかしさをおぼえた。ゆえに、葉で隠した。そのとき使われた葉は、イチジクの葉だと言われている」
 俺は無言でその声を聞いていた。娘に向けて、母はひとことだけ告げた。
「この話、いったい誰に罪があったのかしらね」
 凜は目を細めた。そしてこう口にして、天を見上げた。
「他人が抱えている気持ちなんか分からない。もしかしたら誰にも分からない。きっと本当は、誰も、誰かのことを分からないで生きているんじゃないかな。……でも、さ」
 静かな独白。幼さに立ち向かうような、優しい声だった。
「歪かもしれないけれど、愛はあったのかもしれない。たぶん、彼女たちには、彼女たちなりの。それは煙草みたいな幸福だった。無ければもっと自由に生きられたのかもしれない。だけど依存してしまえば、身を滅ぼすくらいの毒を持っている。その毒は心地よい痛みと、束縛で出来ている、刹那だけの幸せに過ぎないもの」
 一郎は最後まで気づくことがなかった。葉子は最後まで言うことが出来なかった。二子は気づいたけれど生きていくために逃れた。だからすべては無かったことになった。生まれてくる未来には罪なんてなかったのに。誰も、何も、得たものはなく、哀しみだけが残された。
「葉子も投げ捨てれば良かったんだよ。そんな愛なんか」


 というわけで三人揃って、お茶菓子なんかを頂いている。
 俺は言った。
「こういう場合、犯人が自供しなければ、全部うやむやになりそうな気がしないか」
「証拠は何も残っていないとすればね」
「限りなく黒に近いけれど、それは黒と断定できない。犯人が認めさえしなければ、それはあくまで単なる推理に過ぎず、そのまま曖昧ななかに隠してしまえる。それもまた風流だと思うんだが」
「犯人自身なら、そう思うのも分かるけど。周りは納得しないんじゃないの」
「ま、それはそうだな」
「おじさんの場合はもっと別。そもそも問題として出した以上、採点の義務があるんじゃないかな」
 語尾が上がる。逃げられないと予感させる口調だった。
「それも、そうだな」
 重々しい足音が響いてくる。話が終わったことを察して廊下に出てきたらしい。弟の部屋は一階にあるのだ。佳奈さんがさりげなく台所に消えた。菓子とお茶を持ってくるのだろう。
 心なしか陰鬱な顔をしている。どうしたのだろう。二時間ほど前まではあんなにも素敵な笑顔を振りまいていたというのに。
「どうした」
「凜の声ってよく響くんだよね……」
 お前に似たんだ、とは言わない。
「ところどころ、聞こえちゃってさ。中途半端に知るのが嫌で逃げたのに……ああもう……二階に行ってれば良かった。そうすれば一階の音はまったく聞こえなかったのに」
 ざまあみろ、とは言わない。
「安心しろ、きっちり最後まで二人には話しておいたからな。聞けば間違いなく事細かに内容を教えてくれるぞ」
 内容を外に広められると、後々ものすごく困るのは俺なのだが、二人はそんな真似はしない。佳奈さんが戻ってきて小声でささやく。
「あんまりいじめないであげてくださいね。お義兄さんの大ファンなんですから」
「知ってます」
 弟のことはさておき、凜の表情を窺う。
「夕食前に出した問題の答えは分かった?」
 何故、凜は部屋に入った人間を即座に断定できたのか。音ではない。厚い天井で隔てられているから。ゆえに弟のでかい声も届いていない。部屋の前に立ったとき何かしただろうか。いや、それならば扉を開く前に呼んでいたはずだ。
 そもそも、どうして俺だと特定できたんだろうか。
 そうじゃない。俺だったから、凜は分かった。
 俺が手がかりをばらまいたように、凜もヒントを出した。好みが合わないことから、どうして煙草へと飛躍したのか。それは違ったのだ。それこそが答えだったのだ。
「匂い……か?」
「ん、当たり」
「そんな単純な理由だったか」
「単純だけど。ひとは慣れる生き物だから。自分とか、空気とか、匂いとか、あるのが当たり前のものに対して、いつしか慣れて、慣れすぎてしまう。まるで時間が経つたび色んなことを失っていくみたい」
 数メートルの距離。俺は自分の身体が煙草臭いだなんて、まるっきり気づきもしなかった。いや、今でもそうは思わない。凜が、鏡のように、その表情で映し出している。
 俺は凜の瞳のなかに、傷ついている自分を見つけ出す。
「おじさんは自分で分からない。当たり前のものだから、そう感じてしまうから、それが当たり前でない人間がどう思うかにまで考えが至らない。……でも、誰だってそうじゃないのかな?」
 凜は、答えないでいる俺に向かって、少しだけ子供っぽい仕草を見せたあと、じっと覗き込んでくる。見透かされそうで、でも何も見ないでいてくれるような視線。
「ね、私の解答は何点だったの?」
 俺は息を吐いた。ポケットから煙草の箱を取り出し、ゴミ箱に投げ入れた。それから高い天井を見上げる。
 答えてほしいから、ひとは問う。そこには分かって貰おうとする想いと、理解しようとする意思がある。
「……ああ、百点だ」 
「良かった」
 ほうっと息を吐き出すと、凛はそのままテーブルに突っ伏した。疲れたらしい。
 あっという間のことだった。俺の目の前でぐっすりと眠ってしまった。
 さて、そろそろ帰らなければ。そう思いながら、しばらくのあいだ、凛のどことなく楽しげな寝顔を見つめていた。 (了)

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