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「――あたしって、本当にばか、なんだから」
それが、こんなにも透明過ぎたからだって、思った。
通り過ぎてゆく雲は、銀色に輝いている。
あたしは、青い世界を見た。頭上でやんなるくらい果てなく広がってる、その場所を見つめた。
だからたぶん。誰に語るでもなしに小さく呟いた、この言葉を聞いてほしかったんだ。
そう。分かってる。自分でも分かってる。そんなの……そんなのは、
……とっておきの、嘘だった。
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ふたりが付き合いだしたのがいつだったか、それはまあ、考えるほどのことでもない。
朋也とことみは、お互いに好き合っていた。
そのことに気付いたのは……最初からだ――なんて言ってしまっても、渚も椋も賛同してくれるんじゃないだろうか。というか、気付いてなかったのは本人たちくらいなものだ。
いや。もしかしたら、それこそ……朋也の方だけだったのかもしれない。
だいたいにして、子供みたいな恋愛ごっこのようで、その実、ことみはとんでもなく真剣に想っていたのだ。それくらい、誰でも、ふたりのやり取りを見ていればすぐに分かることだった。
朋也がはっきりとことみに恋愛感情を抱いているのを知って、そのとき、もうあたしじゃ勝てないって、気付いた。
諦めたのは、そのときだったと思う。
応援してあげようと思ったのは、あれ……えっと……なんでだったっけ。
不思議なことによく覚えていない。
忘れたかったのかも、しれない。
まあ、うん。今となっては、どうでもいいことなんだけど、ね。
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あたしが朋也と恋人同士になれるなんて夢みていたこと、おそらく朋也には気付かれていないだろう。それに、もし気付いていても……アイツにも、言わないくらいの分別はあるはずだ。
勢いで椋が想っていたことは教えたけれど、それだってあの子はすぐさま、別に彼氏を見つけてしまったのだ。まったく、あっという間のことだった。看護師になると進路まで決めたあたり、実はあたしよりも行動力旺盛らしい。椋のことは誰より分かっていたつもりなだけに、びっくりするやら、寂しいやら。
で、断言するけど、朋也はにぶい。それはもう、どうしようもないくらい、にぶいわけだ。
付き合いもそれなりに長いから、断言できる。間違いなく鈍感の極みだ。色恋沙汰には特にそう。……そういえば、恋の色って何色なんだろう。そんなばかみたいなことをふと考える。
いや、それより朋也のことだ。いろいろあからさまな好意が投げかけられていても、あるいは無意識のうちに好かれていても、朋也は気付かない。正面きって言わないとまるで気付かないのだ。そういうヤツだったのだ。
他人からですらそうだったのだから、まあ、自分の抱いている好意に、なんてのは余計に無理。朋也らしいといえば、らしい。だからまあ、仕方ないのだと、思っていた。
なのに自分以外のことだと妙に執着して、お節介のひとつもやきたがる。なんだかんだと理由を付けるあたり、素直じゃない。そのくせ自分のこととなると、途端に臆病になる。一歩、つい、退いてしまう。格好つけて、自分が欲しかったものでも、誰かに譲ってしまいがち。意地になって、好きなものからも、離れたがる。
……もちろんこれは、朋也のこと。
そう椋に言ったら、笑われた。
どうして笑ったのかあたしもなんとなくは分かるけれど、あまり、考えたくない。
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楽しいばかりの夏を越え、めっきり秋も深まった最近、なかなか面白い風景が見られるようになった。朋也の方だ。最初は保護者然として振る舞っていたはずなのに、いつの間にか一丁前の彼氏の顔をしているのだ。
あたしは肩をすくめて、
「まったく、見せつけてくれちゃって……」
なんて、多少呆れた声で告げてみる。からかうつもりで。
朋也といえば、ことみと上手くいっているらしく、余裕まで出てきたか、
「おう。ラブラブだからな」
なんて。こんな返しをされたら、あはは。もう何も言えないでしょうに。
「うん……ちょっと、照れるの」
と、ことみがそれに続けてくる。こっちとしては、もう勝手にやってくれと苦笑するしかない。
ことみ自身、子供っぽい言動も微妙に落ち着いてきた感がある。言葉はさほど変わっていないが、突飛な行動は減ってきた。正確に言えば、周りに合わせることが出来るようになってきた、とでも言おうか。
それもそのはず。頭が良いのだから、経験を吸収するのはわけないのだ。悪い傾向ではない。別に、会話や他人への慣れによって、ことみが別の人間に変わるわけではないのだし。
ただまあ、多少気になることもある。朋也の影響を受けすぎないかどうか。あれで良いところはいっぱいあるけれど、悪いところもあるので……友達としては不安なところだ。贅沢を言えば、両方がお互いに良い影響だけを与え合ってくれれば文句なし、なんだけど。
――ま、あれで照れるくらいだから、まず大丈夫かな。
ふたりにとっていつまでも友達であること。今は、それを大事にしようと、思っている。
今は、だってさ。それじゃ前は違ったってことよね。どうなのと自分に問いかける。けど、どんなに待っても答えは返らない。
あたしは素直になったのだろうか。それとも、もっと素直になれなくなってしまったのか。よく、分からない。分からないし、分からなくてもたいして困ることもない。
……日々を笑って過ごせているんだから、いいや。なんて。
ひとつ言えるのは、ことみや、渚たちと一緒に行動することが多くなったのは、あたしには喜ぶべきことだった、ということだ。
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渚と話すたび、首を傾げたくなることがある。
なんとなく、見抜かれているような、そんな気がする。
気のせいかもしれない。おとぼけ娘ばっかり周りにいるのは、楽しい分、自分も妙に影響されてるんじゃないかって心配にもなる。ツッコミにくい反応には、一瞬、戸惑ってしまう。
渚やことみのことは、それも含めて、気に入ってるんだけど。たまにはため息のひとつもつきたくなるのだ。
ある日、率直に質問してしまったときのこと。
「ねえ、今さらなんだけど――渚さ、朋也のこと好きだったんじゃないの?」
「えっ。あ、はい。好きですよ」
「……んー?」
「杏ちゃんも、ですよね」
「……まあ、そうね。でも、恋愛感情として? それとも友達として?」
「たぶん、杏ちゃんと同じです」
さて。
どう受け止めるべきなのか、迷う。
正直者さんめ。あたしみたいな天の邪鬼は、こういうときどうしていいか、ちょっと困るもんなのだ。こんな素直過ぎると。つけこまれるわけもないのに、出来るだけ弱みを見せたくない。こう考えてしまうのは、あたしの悪い癖だった。それも、こういう嫌いになれない相手だと、特に。
「ことみのこと、どう思う?」
「好きですけど……そういうことじゃない、ですか? ……えっと、幸せになってほしいです。すごく」
「まあ、渚らしい答えよね」
「だって、素敵ですよね。岡崎さんがことみちゃんを幸せにして、ことみちゃんが岡崎さんを幸せにして……それを見ているとわたしも幸せになれますから」
「……いいわよ、それ以上言わなくても。そうね……あたしも、同じだと思うから。……うがー、それにしてもっ、あんたってどーしてこう子供っぽい幸せな笑い方するかなぁーっ! このー!」
むにゅー。とほっぺたをひろげる。
「うゅー。やべてくだざいー……」
しゃべれないようだった。楽しいけど、適当なところでやめてあげる。
「ま、いいや。さあて、今日のところは帰るわ。またね」
ふわりとした笑み。渚はうなずく。
「はいっ」
姿が見えなくなってから、あたしは、ちいさなため息ひとつ。
渚は強いわ。やっぱり。
/
なんだかんだ言ったところで、ふたりにはそのまま上手くいって欲しいと、あたしも本心から思っているのだ。
でも、このデリカシーのなさはどうにかならないのかとも、真剣に思う。
「で、朋也。買い物に付き合えって理由までは、一応、分かったわ」
デートにひとを巻き込むなと。ほら、あたしが勝手に入り込んでくるのならともかく、自分から邪魔を推奨するってのはあんまりだ。乙女心をなんと心得る。ったく、このバカ。
横を見れば、ことみも怒って……るわけないか。
にこにことあたしと朋也のやり取りを見ている。毒気を抜かれる。
朋也は苦笑している。承知の上らしい。
「まあ、あたしもことみのおしゃれに協力する分には労力は惜しまないつもりだけどねぇ……」
「悪いな。休みの日に呼び出して」
それに関しては、あとで文句は言うからいい。
「予算は?」
「ああ、……まあ、こんくらい」
こっそりと聞かされた財布の中身は、それなりだった。なんでもバイトしているらしい。そのお金も、主にことみの庭の整備に消えているらしい。最近、陽平とふらふら遊んでる姿を見なかったことを思い出し、あたしは納得してしまった。
「オッケー! じゃ、行きましょっ」
歩き出すと、朋也もついてきながら、
「おう。頼んだ」
などと言う。ったく、このアホッ!
「なぁに他人事のような顔してんのよ。ほら、あんたが選ぶのよ、あんたが!」
「……無茶だ」
「と〜も〜や〜……ことみの服を選ぶのはあんたの役目でしょうがっ。あたしは手伝うけど、あくまで選ぶのはあんただからね!」
ことみ、半分置いてきぼり。
ととととっ、と足音たてて追いかけてくる。後ろも向かずに朋也は歩く速度を緩める。あたしはそれを見てほくそ笑む。もちろん朋也に見えるように、多少仰々しいくらいの笑い方だ。
あたしは、冷静に、微笑んだ。
ことみの方も振り向いて、この幸せ者めっ、そんな言葉でからかって。
褒め言葉と受け取ったことみがにっこりと笑うのを見て、すっとする。良かった、なんて自然と思う。
もう、あたしのおせっかいは必要ないのだ。どっからどう見ても、恋人同士。
この距離。近いくせに、なんだか、前よりずっと遠い。
わざと、あたしは一歩分下がる。ふたつの影がすっと繋がる。いいな、って感じても、口に出してなんかやらない。
「あーもうっ。歩くの遅いわね。女の子の買い物って時間かかるんだから、もっと急いで行くわよっ!」
「わっ、待て、あぶな――」
そして、一気に前に走らせるように、ふたりの背中をぐいぐい押してやる。
朋也は、やっぱりコイツに頼まなきゃ良かった、とか小声で言っているはずだ。ことみは慌ててバランスを取ろうとして、無意識にでも朋也にしがみつくだろう。そしてあたしはワンテンポ遅れて、息を切らせているふたりに向かって、ごめんごめん、って笑って謝ろう。
秋晴れの空、まだ陽は高い。一日はこんなにも長いのだ。
だから、焦ることはない。
抜けるような青空が、見ていて気持ちよかった。
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あれこれと口出しをして、ようやく買い終わったのは陽が落ち始めたころだった。
「……疲れた……」
と、朋也。
「なに言ってんのよ。デートの最後にそんなセリフ禁止。だらしないわねー。ほれ、ことみを見てみなさい」
「……ぐったり……」
これはことみ。若干目がうつろなのは、気のせいではない、のかもしれない。
「あれ?」
「杏。お前なぁ。なんつーか……はしゃぎすぎだ」
「うっ。――あ、でも、とりあえず良いもの選べたでしょ? ことみに似合ってるやつ。あんただって絶賛してたじゃない」
張り切ってことみ向けな洋服店をハシゴしたし、休憩入れずに何時間と歩き回ったけど……
あー……やっぱりあたし、はしゃぎすぎたかも。
でも、ふたりだってわいわい楽しんでたのも確かだ。
「それとこれとは別だっ」
お約束なやり取りに、ほっとする。怒ってるわけじゃないのだ。いつもの掛け合い。
それで、あまり体力がなさそうなことみのことを、朋也の先回りして気遣う。
「それよりことみ、なんか飲む?」
「ううん。いいの。あと朋也くん、怒ったらダメなの」
「いや、こういう場合は文句をだな」
「杏ちゃんに色々探してもらって、嬉しかったの。だからありがとう、なの」
「……はぁ」
ずん、とその肩にのしかかる疲労があたしにも見えた。あんたが選んだ苦労よ、それ。口には出さない。表情には出たかも。
少し吹き出しそうになった。ぐっとこらえて、あたしはそれから表情を整えて、告げた。
「どういたしまして。で、それはさておき」
「さておくな」
「さておき! そろそろ暗くなってくるけど、どうする? ここらで解散?」
デパートやらショッピングモールやら、あちこち足を向けた。もう近隣には、あたしのレパートリーがほとんど無い。というわけで、ひとここち付けようと、駅前あたりまで戻ってきたのだ。
「ま、目的は果たしたしな。ことみはそれでいいか?」
朋也の手には二、三の紙袋。何十軒と回ってこれだけか、と朋也は考えていることだろう。が、ことみはけっこう胸があるから、似合う服を探すのは意外に難しいということに気付いたのは、収穫というか、なんというか。大人びた洋服だと、アレだし。かといって子供っぽすぎるのも、アレだし。ねえ? ……などと思ったわけだ。
結果が、この通り。とはいえ、ことみが嬉しそうにしているのは見れば分かる。良かった。
ことみは朋也の問いにこくんと頷く。
あたしは、一回ゆっくりと息をのんでから、口を開いた。
「んじゃ、おじゃま虫はここらで消えるとしますか」
付け加えるように、ひとこと。
「そうだ、朋也。あんまりえっちいこと、ことみに教えんじゃないわよ?」
返事の代わりに、苦笑で返された。ことみも、なんとなく、もじもじしているような気がする。気のせい、……じゃなさそうだ。まったく。
置いてきぼりな気分。
なんか、寂しいような、哀しいような。
「はいはい、何も言わなくていいから。……はぁ。若くていいわね」
息を吐いて、朋也から目をそらす。すると声が聞こてくえる。朋也にしては珍しく、素直な感謝の言葉だった。
「今日はサンキューな。助かった」
「どういたしまして。でも、次からは自力で選んでみなさいよ。ことみにもそのほうが良いと思うし」
「分かってるって」
本当に分かってるのかな。まあ、後は、ことみの役目だ。あたしはここまで。
「じゃ、またね」
「ああ」
朋也に促されて、ことみが歩き出す。一緒に。
あたしはひとりでここで立ち止まったまま、見送る。
夕陽があたりを照らしていた。真っ赤に染まった夕焼けのなかで、ふたりの影がひとつになって、長く長く伸びていた。
目の前にはもはや太陽しかない。オレンジ色の逆光に、ぼんやりとしか前が見えない。
声だけが聞こえてくる。目を細めて、あたしは答える。
「杏ちゃん、また明日なの」
「ええ、また明日……って、ことみ、前見て歩きなさいっ! もうっ。ほら、気をつけて帰りなさいよー!」
「――うんっ」
ゆっくりと離れていく。ふたりの背中が、小さくなって行くのが分かった。
遠ざかってゆく。遠ざかって、いった。
ねえ、ことみ…。
あんたには、この夕焼けが、どういうふうに見える?
この世界が、どんな色に、見えてる?
そう、心の中だけで問いかける。だけど答えが聞きたいとは思わなかった。下を見て、顔を上げて、あたしは、うーんと腕を上げて伸びをした。
それからやっと思い出したみたいに、リズム良く、タタンと三歩、前へと足を進めておいて。
息を吐いて、飲み込んで。微笑みをつくる。去りゆく朋也たちの背中に向けて、これ以上ないってくらい、心から笑いかける。
ことみの後ろ姿は楽しげで、可愛らしい。ちゃんと前を見てるから、なにげに格好良かったりもする。
やっぱり、ことみのこと、あたしはすごく、好きになってたみたいだ。
だから。ちょっとだけ、胸の裡だけでこぼしておこう。
ほら、頑張んなさいよ。お似合いのカップル。
あたしもさ、本当に嬉しいんだ。幸せになんなかったら、絶対、承知しないからね。
あんたらが幸せになるのは、ちゃぁーんと分かってんだから……ねえ、そうでしょう?
まだ小さな後ろ姿が見えるのを確認して、それから、ことみたちとは別の方向に歩き出す。
すぐ、足を止める。
ううん。勝手に足が止まったんだ。息が詰まったみたいな苦しさが一瞬あって、それを飲み込む。
振り返った。ことみたちのもういない道を見つめた。かるく顔を上げ、空へとゆっくりと目をやる。
どこからか流れてきた、いくつかの薄雲を小さくにらむ。晴れ渡った空だった。でも、さっきまでの空は消え去っていて、橙と紫のグラデーション。それは、すごく綺麗な色だった。
でも。
そんなの、知ったことではなかった。そんなのは、どんなに素敵でも、あたしには関係のないことだった。
あとはきつく目を閉じるだけ。音はなかった。遠いどこかの風の音も聞こえなかった。透き通るような空気が、こんなあたしをそっと包み込んでくれるのが分かる。
空の向こう。静寂の果て。すべての色はとうに夕陽に溶けている。
沈みかけの太陽があるべきその場所を、あたしは、ひどく穏やかな気持ちで覗きこむ。
一面の青だった。どこまでも鮮やかな青が広がっている。
そこでは、何もかもが輝いていた。
あまりにもまぶしくて、
まぶしすぎて、
今まで見たどんな空よりも青く、優しかった。ほんとうに、優しい青だった。
どうしてか、まぶたを開くことができなかった。
たぶん、嬉しいからだ。……この気持ちは、嬉しいからに決まってる。
泣かない。絶対に泣かない。涙なんか流さない。でも、あたしは目を開けられないままに。
もう、ふたりをまっすぐに見れないんだって、思った。
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