i 個のボール』


 グラウンドに白球がひとつきり、寂しげに転がっていることに気がついた。そのボールは真っ白で、反射の関係か、地面の上では光の塊みたいに見えた。
 あたしは手が汚れることも気にせず、ボールを拾い上げていた。
 首をかしげる。使っていた誰かが、ひとつだけ片づけ忘れたのだろうか。
 あたしが後ろを振り返ると、灰色の校舎がそびえ立っている。見慣れた風景なのに、どこか不思議な印象を覚えるのは、この静けさのせいだろうか。
 空を仰いだ。広がる一面の青は風に揺れることもなく、夏めいて眩しくて、その目に痛いくらいの光が遠慮無く降り注いでくる。
 そうだ。頭上にあるのは、ろくでもなく明る過ぎる空だ。
 あたしが歩き出した。音のないグラウンドから、ひとのいない校舎へと。動くものはどこにも見あたらず、進むべきつま先の方向には、立体的な静寂が当たり前の顔をして、いくつもいくつも並んでいる。
 虫の声もなく、鳥の歌も聞こえない。あるべき雑踏はとうに失われていて、あたしの後ろから申し訳程度の空気が、ゆっくりと追いかけてくる。
 ああ、だれもいないんだ。
 独り言は青空に吸い込まれていった。
 そして、あたしが唇を噛んだ。強く、血が滲むくらい。ようやく気づいたのだ。ここがもはや消えてゆくだけの世界であることを。


 燦然と太陽光があたりを照らす。遮る雲は流れているのか、いないのか。くたびれた足取りで校舎へと向かっていたあたしが、逃げ込むみたいに建物の影に潜り込んだ。
 通い慣れている道のりだ。あたしは玄関口で靴から履き替えようとして、上履きでグラウンドに出ていたことに気づいた。
 苦笑いする。誰に見られるわけでもないのに、照れてみたりもする。その仕草はまるで……まるで、なんだろう? あたしの挙動に注目する者はいない。だから、どうでもいいことだっていうのに。
 とりあえず足の裏側についた土を払い、あたしは足早に校内に入った。廊下を覗き込んでみるけれど、ここまでと同様に誰もいなかった。あたしは予想通りといった表情を浮かべて、沈黙した昼の校舎に足を踏み入れる。
 それまであたしが授業を受けていた教室に顔を出した。あたしの席はどこだったか。机の上には何も置いていなかった。黒板右にある日付の欄も、そのすぐ下にあるはずの日直の名前も、ご丁寧に消されていた。
 黒板消しが落ちていた。チョークの白い粉が近くに散乱していた。あたしはわざわざ元通りにして、箒にちりとりまで持ち出して、掃除までしてしまった。
 そんな必要なんてないのに。それから、あたしは満足げに頷いて、教室を軽やかな足取りで出ていった。


 次にあたしが向かったのは男子寮だった。さすがに一瞬躊躇したものの、窓から中を覗き込んでみた。ひとの気配は窺えなかった。不用心にも、窓は開いたままだった。
 今更入り口まで引き返すのは面倒くさかった。だから窓枠に足をかけて、さっと飛び込んだ。何度か目にした覚えのある、誰かの痕跡。それが誰のことだったかを、あたしはきっと知っている。
 なんとなくそのベッドに入り込んで、ごろごろとし始めた。あまつさえ瞼を閉じて、そこに残ったかすかな匂いを嗅いでみたりなんかする。恥ずかしい行為だ。端から見ればちょっとおかしくなっていると言っても良い。自分でも分かっているのだろう。頬に射した朱は恋する乙女のそれだ。自覚しているのだろう。そのくせ、止められない。どうしようもなく、恥ずかしいあたしがそこにいる。
 だけど意味はないとやがてあたしは気づくのだ。のろのろと起きあがり、泣きそうになるのをこらえてその部屋をあとにする。
 あたしは一度振り返る。何かを期待して。
 だけど、この部屋は当たり前のようにがらんとしていて、どこにも体温がなくて、これからも笑い声が聞こえてこない。そう。何もないくせに、いや、何もないからこそ、息苦しい。あたしがここにいる理由なんてない。それをありありと見せつけられている。
 ここには、なにもない。
 口に出して、あたしが目を伏せる。馬鹿みたいだった。というかマゾだ。分かりきったことを声にして、そうするたびに痛む胸の奥にあるものを何度も確かめて。
 空っぽだってことが、こんなに辛いなんて知らなかった。
 でも、たぶん、言い訳だ。
 廊下に出て、あたしは顔を上げて、歩き出した。
 とても格好悪い、未練たらしい歩き方で。


 屋上に出ていくのには苦労しなかった。ドライバーもいらなかった。
 あたしはため息を吐き出して、高い場所から遠くを眺めた。学校の周囲は不透明なガラスを通したように、何か白くふわふわとしたものとしてあたしの目に映る。
 何もないというよりは、消えてゆく過程なんだろうと気づく。だんだんと遠くにあるものから形を失ってゆく。それを留めていた力が消滅したせいだ。世界はほつれて、やがて夢の果てに霧散する。
 分かっていたことじゃないか。
 元々、ここには何にもなかった。誰かの認識が、この世界をあるものとして捉えた。だからあたしはその認識に滑り込んで、欺いて、信じて、信じられて、そして存在していた。だけど根拠無き架空の存在は、同じ虚構へと解けて消えゆくことだろう。
 物語は始まり、そして終わった。
 すべては夢だった。
 それでいいじゃないか。
 でも、あたしが遠くを眺める姿は、孤独を強調するように空疎だった。ゆるやかに崩れてゆく青空に、距離感さえも曖昧になってゆく空間に、その向こうに何かを見ようとして、あたしは視線を送る。青空は靄のごとく解けて、残るのは透明でさえなく、色すらもはや分からなくなる。光が届かなくなってしまったのだろうか。それでも、あたしはたぶん、見えないものを見ようとしていた。
 学校の周りが、ついにかき消えた。ぼんやりとした壁が周囲を覆っている。
 あたしは、無言のまま、校門からぼろぼろと崩れてゆく校内の様子を見届ける。
 ふと、掴んだものは何だったのかと、手のひらに目をやった。
 グラウンドから持ってきてしまったボールは、あたしの手には少し大きかった。手持ちぶさたに、その白球をいじってみる。
 すべては、夢だったんだ。
 あらゆるものは消え失せる。過去は過去に還る。
 そして、あるべきものは、在るべき場所にと戻ってゆく。
 あたしは歌う。
 聞いたこともない歌を。ありもしないメロディを。
 静かに口ずさむ。
 あたしの歌。
 誰も知らなかったはずの。誰にも届かないはずの。


 そして、最後まで、あたしが泣いている。ひとりきりで。屋上で。
 全部、ぜんぶ、夢だった。
 あたしは叫ぶ。そうだ、全部、夢だったんだ。なにもかも。そう、たとえば、バス事故なんて起きなかった。だって、みんなは本当は出逢わなかったからだ。
 リトルバスターズだって、実は結成されなかった。直枝理樹の両親は死ななかったし、だからナルコレプシーにもならなかった。誰も傷つくようなこともなくて、誰も悲しむことなんてなくていい。親しいひとの死も、離別もなかった。出逢うことなんて、なかった。
 だって夢だったんだから。
 それでいいじゃない。
 そしたら、悲しいことはないよ。だって誰もいないんだから。誰もいなければ悲しいことなんてないんだ。何も起きなかった。
 悲しいことなんて、なにも。
 救われるために、悲劇を与えられる必要なんて、ないのに。
 どうして苦しいんだろう。
 あたしは、どうして、泣いているんだろう。
 足下まで消失してゆこうとする屋上で、たったひとりのあたしが、虚空を睨む。すでに視界は意味を成さない。あらゆるものは虚構の役目を終えて、無に帰ろうとしている。終焉をもたらす光の波はあんまりにも眩しくて、直視するのも辛いはずだ。それなのに、あたしはまっすぐにその場所を見据えて、叫んだ。
 見えるはずもない、ありもしない、届くはずのない、その場所に向かって。
「ふざけんなあああっ! バカやろおおおーっ! だいたい、あたしがこんな場所で消えたいわけないじゃないっ! だって理樹くんに好きって言わなきゃいけないのよ! こんなところで立ち止まってる暇なんてないのよっ! どっかで笑ってるあんたたちが羨ましいわよ、ねたましいわよ、ついでにむちゃくちゃ嫉妬しまくってるわよ! こんなところで死ぬなんってまっぴらごめんだっての! やってやろうじゃない。理不尽なんてねじ曲げるわよ! 結末なんて知ったこっちゃないわ! つーか、あんまり恋する乙女をなめんじゃねええーっ!」
 肩で大きく息をして、消えかけた屋上のコンクリートを踏みしめて。
 大きく振りかぶって、あたしが投げる。
「うおおおおおお、おんどりゃああああああーっ!!!!!」
 力一杯放られたボールは、やがてどこかに届くだろうか。綺麗な放物線を描いて、いずこかへとボールは消えてゆこうとする。
 いや、あたしの目は、ボールの行方を最後まで追うことはなかった。
 あたしのいた屋上は光の中に溶けて消えたからだ。
 いなかったはずのあたしが、そこに無かったはずのボールを投げた。
 それだけのことだった。





 グラウンドに白球がひとつきり、寂しげに転がっていることに気がついた。そのボールは初めは真っ白だったが、土にまみれるうちに、あちこちが茶色になってしまった。
 みんなで頑張って片付けて、もう落ちていないことを確認したはずなのに。
 不思議がっていると、どこかから、歓声が聞こえてくる。声の方向に目をやると、体操服姿の女子たちが真剣な表情で集まっていた。あれはソフトボール部だろう。そっちから飛んできたのだろうか。そんな動きは無かった気がするが。
 空はオレンジ色の闇を湛えていた。だんだんと昼間が短くなっているとはいえ、太陽が沈みきるまでにはまだ時間がある。雲間から射している鮮烈な赤光が、いくつもの影を長く伸ばしてゆく。
 近づいてきた人影が、そのボールを見つけたらしい。さっと拾い上げた。
「よぉし! これで回収完了〜」
 なにしろ借り物のボールである。紛失するのはまずいので、毎回、練習が終わると数えているのだ。というわけでひとつ、ふたつ、みっつ……とカゴに投げ込んでゆく。
「ん? うん? あれえ?」
「どうかした?」
「なんか、一個多い〜」
「お岩さん?」
 いや、あれは足りない方だったか。
「えええぇっ!? 怖いこと言わないでよぉ」
 困った顔でこちらを見てくる。しばし沈黙、やがてカゴに向かって、指を差した。
「じゃあ、見なかったことにしよう」
 うんうん、と頷いて、
「おっけー?」
「増えてるのは変わらないけどね」
「……うううぅ」
「……いや、オッケーよ」
 泣きそうな顔で見られた。
「う、うん。それじゃあ、見られなかったことにしよう」
 脇から理樹くんが顔を出した。
「え、何を?」
「増えたボール」
「……だから、それを言わないでぇ〜」
 涙目で言われたが、結局、見なかったことには出来なかった。
 このやり取りに釣られて、メンバー全員が集まってきてしまったのだ。増えたボールの正体について、ああでもないこうでもないと、好き勝手に推論をぶちまける面々。当たり前だが結論は出なかった。すでに太陽は半分ほど地平線に隠れてしまっていた。
 紺青の夜空に、かすかな赤みが残っている。
 少し離れていた恭介が、足取りも軽やかに戻ってきた。ソフトボール部のものではないと確かめてきたのだ。
「つまりこれは、俺たちとは無関係なボールなんだが……」
 理樹くんに聞いた。
「なぁ理樹、お前はどうしたい?」
 言って、理樹くんにボールを投げて渡した。
 理樹くんは、かすかに汚れたその白球を眺めて、それから夜空を見上げた。空に鏤められた星たちが、夜の色を増すごとに瞬きはじめている。
「無関係でも、いいんじゃないかな」
「……だが、もしかしたら、俺たちがボールを盗んだと誰かが怒鳴り込んでくるかもしれない。あるいはこれは不幸を呼ぶボールで、さりげなく押しつけられたのかもしれない」
「持ち主が現れたら返せばいいし、不幸を呼ぶボールなんて信じないよ。ねえ、恭介」
「ん?」
「何か起きるとしても、それはきっと楽しいことだよ」
「……そうだな」
 恭介が眩しいものを見るように、小さく頷いた。
 ボールを手に、理樹くんは笑っていた。その表情は、やっぱり男の子のものだった。
 
 
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