花を育てる




 花を育てる者は、虫を殺すことを躊躇わない。
 佐竹綾子について考えるとき、真っ先に思い浮かぶのはそんな言葉だ。偶然か腐れ縁か、家が近いせいなのか、小学校から大学まで同じになったが、ともあれ小さなころからの長い友人である。また、ここ数年は、我が親友である三ツ木慎太郎の恋人でもある。
 綾子は優しいとよく言われていた。古い付き合いである俺から見ても、そう形容するのがもっとも正しい気がする。
 大人しくて、真面目で、心優しくて、頭が良い。声を荒げて怒ったりもしない。
 可愛らしい笑顔が特徴で、整った顔立ちと性格のおかげで、高校時代はクラスメイトから愛されていた。
 三ツ木はそういうところに惹かれたのだと聞いた。まあ、惚気話ではあるが。
 容姿も気性も良いという、昭和のアイドルめいた清純さがあった。中学、高校と近くで見てきた俺の感想だが、同級生の大半からすれば、大なり小なり気になる存在ではあったのかもしれない。
 俺はしかし、綾子に恋心を抱いたことは無かったように思う。
 いつだったか、何の用だったかは、いまいちよく覚えていないが、おそらく中学生の時分だと思われる。俺は綾子の家に遊びに行ったことがある。そして、彼女が育てている花に芋虫が這っているのを発見した。
 植物にとって害虫であるとは知っていた。親切心から指摘すると、綾子は少し哀れむような顔をしたが、その芋虫を指で摘んだ。
 どうするのかと思いぼんやり眺めていたら、綾子は芋虫をコンクリートの地面に置いた。それから、土いじりのため手にしていたシャベルで、二度、三度と、上から力強くすり潰したのである。綾子の行為を残酷だと考えた俺は、非難がましく告げたものだ。
「そこまでしなくてもいいんじゃないか」
 綾子の反論はこうだった。
「でも、ここでしっかり殺しておかないと、他の元気な花もなめられてしまうわ。枯れてしまうのよ」
「そうかもしれないけど」
「綺麗な花を咲かせるためには、仕方ないの」
 仕方ない、か。
 それ以上反論はしなかった。価値観の相違について争っても何ら益がない。むしろ円滑な人間関係にとっては損のが大きいと、当時の俺は考えたのだろう。
 人間の考え方は言葉くらいでは容易く変わらない。三つ子の魂百までとは、よく言ったものである。
 どこまでが仕方ないの範囲に入るのか。俺には分からない。自分のことですらその場しのぎで考えを変えるのに、ましてや他人の胸中にある境界線にまで踏み入れることなど。
 とはいっても、想像はできる。
 一匹の綺麗な蝶が空を舞っているとしよう。綾子はおそらくその蝶を殺すことはしない。蝶の美しさを見て、感動さえするだろう。
 しかし、芋虫なら、大切にしていた植物の葉を無惨に食い散らされていたなら、眉をひそめて、憐れみの言葉でもをかけながら、錆びたスコップの刃先で胴から両断する。
 当たり前のように。
 だが、こうしたことは綾子に限らないとも思うのだ。
 何かを愛するということは、それ以外を愛さないということである。優劣の一番上に置かれたもののために、二番目以降が蔑ろにされるのは、むしろ当然のことなのだ。


 遠い足音の残響に耳を澄ませ、ため息を吐き出した。
 俺はしがない大学生である。就職活動に失敗した、可哀想で間抜けでどうしようもない四年生である。
 あと一週間後には夏休みになる。何の予定もないが、休みというだけで楽しい。楽しんでいる場合ではないのだけれど。
 明後日以降は前期テスト期間の予備日が残っているだけだ。
 半年後には、嫌でも卒業しなければならないと思うと、少し憂鬱である。暇に飽かせて単位は有り余るほど取ってしまっていた。就職浪人まで後もう少しという感触がある。
 それがどうした、と開き直れてしまうのは、たぶんこの楽観的な性格のせいなのだろう。就職も決まっていないのに卒業するのは、あまり賢い選択とは言えない。
 まだ時間なら山ほどあるじゃないか、と思われる向きもあるかもしれない。
 断言しよう。そんなことはない。時間なんてものは、いくらあっても足りないのだ。
 大体にして、こんな時期に内定も貰えず、そのくせ怠惰に過ごしている大学生である。どっかしら救いようが無いほど悪い部分があるに決まっている。
 要領が悪いか、見た目が悪いか、頭が悪いか、そうでなければ運が悪い。間違いなくこのどれかに当てはまっているはずである。自覚は無いが、俺はもしかして相当に格好悪いのではないかと、最近気がついた。
 思い返せば、人生ただ一度としてモテたこともない。
 というか女の子と付き合ったことがないのである。告白したりされたり、といった甘酸っぱいイベントはとんと縁がない。そのままずるずると大学生になって、ずるずると一人きりを続けている。
 人付き合いを面倒くさがったせいだろう。サークルにも入らず、ゼミでも飲み会に出ないようにした結果、なんとなく独りぼっちになった。便所飯まで到達していないことがまだしもの救いか。友達も少ないことに今になって気がついた。まあ、わびしかろうと無為に過ごしてきた自分が悪いのだから、仕方ないとは思うのだが。
 そんなこんなで、俺は世間から取り残された気分になった。事実がどうとはか関係ない。そういう気持ちになっているのが問題なのだ。
 面倒くさいという思いはやる気を減衰させ、やる気の無さは面倒くささを加速させてゆく。他人と関わることから離れると、他人が近づいてくるのさえけだるさを感じるようになる。泥沼というか、底なし沼というか。坂道を転げ落ちてゆく真っ最中というか。
 まさしくダメスパイラル。くわえて文系の学部に入ってしまったものだから、楽をしようと思えばいくらでも出来てしまう。ケツを叩かれるか、ニンジンをぶらさげられるかしなければ走り出さないのは、ダメ人間の証拠である。
 いいんだ。ダメ人間だって。アメンボとか、なんかそれ系の虫が友達になってくれるから。生きていればいいんだ。
 そこはかとなく後ろ向きな考えに支配されつつ、ほとんど誰もいなくなった教室で前方の黒板を眺めた。
 準教授が消し忘れた意味のない文字たちが、隅っこのほうで白く輝いている。
 ひとの姿は無い。テストはとうに終了しており、結構な時間が経っているのだ。これからこの教室を使うこともあるまい。窓の外を見れば、ゆるやかに日が傾いていくところだった。雲が赤く染まっていた。本来なら俺がここに留まっている理由もないのだ。
 なぜ俺はここにいるのだろう。
 哲学的な問いに与えられる答えは無かったが、代わりに誰かの足音が近づいてくる。
「皐月さん」
 後ろから声を掛けられた。聞き覚えのあるような、ないような声だ。ゆっくり振り返ると眼鏡の女の子がすまなそうな顔でこちらを見ていた。
「皐月、省吾さん」
 呼ばれたのは俺の名だ。その顔に見覚えはあるのだが、名前は覚えていない。少し困って返事をしないでいると、彼女は大きな瞳を輝かせてこう言った。
「付き合ってくれませんか!」
「どこまで?」
「一階の売店まで……ってそんな古典的な!」
 俺はため息ひとつ吐き出して、頬をかいた。
「何か用か」
「いえ、ですから」
 付き合う? 誰と? なんで? 表情にはてなマークを目一杯浮かべてみたのだが、彼女はじっと待っていた。
 五分が経過した。
 ふたりで無言でいると、なんだか実に虚しい気分になれる。
 思いの外、辛抱強かった。沈黙に耐えきれなくなったのは俺が先だ。
「ところで、名前は」
「……え?」
 ひどっ、と口が動いた。俺は悪いとは思ったが、しかし思い出せなかったのだ。諦めついでに肩をすくめた。
「ゼミで一緒じゃないですか」
 俺の反応が芳しくないことを悟り、彼女は続けた。
「いなみです」
「いなみさんね」
「砂原いなみ。四月の自己紹介のとき、聞いてくれなかったんですか」
「ええと。砂原さん、と」
「名前でいいです」
「名前さんと」
 彼女は目を細めた。呆れ半分、苦笑半分といったところか。
「皐月さん、わざとですよね」
「そんなことはない」
 苦笑い。砂原いなみは首をかしげた。丁寧に切りそろえられた、オカッパ頭の髪の毛がさらりと流れる。大きな目。それを守るような黒い縁の丸めがね。
 俺には女性の容姿についてとやかく言う資格は無いのかも知れない。しかし思うことはやめられない。
「地味だな」
「……声に出てますよ」
「特に、服が」
「ええっ。これでも明るい色を選んだつもりなのに!」
「黒のどこが明るいんだ」
「……あ、ゴメンナサイ。明るい色は、下着でした」
 さっきよりもずいぶんと深い息を吐き出して、俺は天を仰いだ。天井は灰色で、蛍光灯は薄汚れていて、薄い埃が舞っているのが見えた。
 硝子窓を透けて入り込むのは、どこまでも寂しげな色合いの陽光だった。埃に反射してちらちらと光が舞っている。
 ちっぽけなものでも、強い光を受ければ眩く輝くものだと、そんなことを思う。
 いなみに視線を戻した。
「で、何のようだ」
「ループしてます」
「ええと、いなみさん?」
「年下ですから、いなみ、で」
「じゃあ、いなみ」
「はい、あなた」
 調子に乗られた。俺は疲れた声で告げた。
「そういうのは勘弁してくれ」
 いなみは少しすねたように唇を尖らせて、目を伏せた。
「あの。皐月さん、どなたか待ってるんですか。それなら、今日のところは席を外しますけど」
「よく分かるな」
 まあ、こんな寂れた教室に、この時間まで残っているのは物好きか、人待ちくらいなものだろう。俺は後者だ。
「誰でも分かりますよ。……じゃあ、また明日。この教室で」
「俺は明日は来ないかもしれないぞ」
「あれ? ゼミの飲み会って聞いてますけど」
「じゃ、パス」
「パス不可です。中原先生の提案なので」
 ゼミの担当教授の名前を出されたが、俺はその手の脅しには屈しない。
「教授命令でも俺はパス」
「な、なら、私からのお願いでは、どうでしょう?」
「パス2」
「う、ダメですか」
 いなみはしゅんとしてしまった。俺はゼミにこんな子がいただろうかと考えていた。いたかもしれない。基本的に俺は隅っこに座って消極的に参加しているだけだ。つまりは周囲のゼミ生の顔なんて見なくても全く問題がないのだ。
 発表っぽいこともやったが、さらっと終わらせたことを思い返す。ツッコミが入りにくいネタを使ったのは正解だった。教授もさぞかしコメントに困ったことだろう。
 まあ、告白? らしきことをされるくらいだから、二言三言くらいはいなみと会話もしているのだろう。俺が覚えていないだけで。
 しかし、敬遠されこそすれ、好かれる理由は思い当たらない。
「とりあえず、これ、私の電話番号です」
「悪いな。俺は携帯持ってないんだ」
「あ、そうなんですか。じゃあ、公衆電話からでも大丈夫にしておきます」
「……信じるのか?」
「え、嘘なんですか」
「いや、本当だが」
 俺はどういったら良いものか、思案していた。すると教室のドアが盛大に開いた。
「省吾、いるか!」
「おう」
 三ツ木が暗い顔で入ってきて、俺を見て、正面にいるいなみを見て、そのまま俺に視線を戻した。
「彼女か! お前にも、ついに彼女ができたのかっ! よし、赤飯炊いてやろうか?」
「炊くなよ。っていうかそいつは彼女じゃねえよ」
「妻です」
 いなみが横から割り込んだ。三ツ木が驚愕に身体を震わせた。
「け、結婚してたのか……なぜ式に呼んでくれなかったんだ!」
「さりげなく嘘を吐くな。そして信じるな」
「だ、だよな」
「では、私はこれにておいとまさせていただきますね。皐月さん、おつきあいの件、真剣に考えておいてくださいね。色よいお返事お待ちしておりますー」
 るるらるんららーとよく分からない歌を口ずさみながら、いなみは去っていった。
 確信した。変人だ。間違いなくあれは変人のたぐいだ。口をへの字に曲げて、後腐れ無く断るための口実を考えた。
 三ツ木が気遣わしそうに俺を見た。
「わりぃ。おれが邪魔しちまったか」
「大丈夫だ。それより単位の方はどうだ」
「ギリギリだな。鈴木のやつを落としたらアウトだ」
「三ツ木。せっかく大企業に内定が決まったって言うのに、卒業できないかもしれないってのはどうなんだ。夢だったんだろ? なんでそんなギリギリになるんだよ。真面目にやってりゃ四年の単位なんて一つ二つ取れば済むはずだぞ」
 現に、俺は三年の後期の時点で卒業に必要な単位はすべて取得済みだ。つまりは俺はもうわざわざ来なくても良いのに、暇つぶしに勉強しているようなものなのだ。
 我ながら、馬鹿だなあと思う。この有り余った時間を活用して、就活すればいいのに。
 でもする気が起きない。
「お前を一緒にするなよ」
 冷たい目で見られた。
「綾子はどうだ」
「あいつはお前と同じようなもんだ。去年、鈴木に落とされたから再履修してるけどな」
 俺と三ツ木の言う鈴木とは、毎年、三年四年から憎悪を一身に受けている鈴木教授のことである。卒業に必要な必修科目を受け持っているくせに、悪辣な問題を出して毎年多数の落伍者を増産している。その単位だけがネックになって卒業できなかった学生が何人いることか。
 だから、サークルの先輩やら友人やらから情報を貰っている人間は同じ科目でも別の優しい教授の講義に偏るのだが、みんな考えることは同じらしい。
 人数が集中すると、講義を受けられる学生は抽選ということになる。抽選だと、必然的にそこから漏れる不運な人間が出てくることになる。
 三ツ木と綾子は二年連続でその不運に引っかかったわけだ。しかし、三ツ木はともかく綾子が不可を貰うとは。あいつなら、水も漏らさぬ解答とレポートを提出すると思うのだが。
 鈴木の話をしていると、うんざりしてくる。
 いつしか俺は、葉っぱの裏側にへばりついている、毒のある芋虫を思い浮かべた。あの手の気持ち悪さがある人物だ。なるべくなら、近寄りたくないというのが俺と三ツ木の見解だ。
「鈴木ねえ。あのおっさん、色々と悪い噂があるけど……クビにならんのかな」
 俺が言うと、三ツ木は渋面になった。
「女子学生に手を出したってやつか? 噂だしなあ。警察沙汰にならない限りは難しいだろ。被害に遭った側も、名前を出されるのは嫌だろうし」
「だよなあ」
 益体もない話をしつつ、綾子のことに触れた。
「どうだ。上手くやってるか」
「ああ」
 返事に元気がない。
「ん? 何かあったのか」
 そういえば、以前ほど惚気話をしなくなった気がする。安定期に入ったのか。それとも熟年夫婦じみた倦怠期に突入してしまったのか。別れ話にはまだ早いと思うのだが。
 三ツ木は俺の疑念に気づいたのか、慌てて綾子のことを話し出した。
「いや、おれの方はなんともないんだ。ただな、綾子が最近、なんか悩んでいるような感じでな」
「俺を呼んだのは、そのことを相談したかったのか」
「話が早くて助かる。何か聞いてないか」
「つってもな。最近、学内で綾子と俺はほとんど話してないぞ。学科が違うからな、時間も微妙にずれるし。もしかして浮気を心配してるのか? 一応言っておくが、浮気はありえないぞ。綾子がお前のことをどれくらい好いてるか、お前は自覚してないかもしれないけど……」
「分かってる。それ以上言わないでくれ」
「そうか。分かってるならいい」
 俺と三ツ木は窓ガラス越しに、薄暗くなった空を見て、息を吐いた。
「それよりさっきの子なんだが……」
「考えたくない」
「いいかげん女性嫌いをどうにかしろって」
「聞きたくない」
「お前は猿か」
 聞かざると言いたいらしい。俺は鼻で笑った。
「着飾ってないけどな」
「わかりづらいボケをするなよ」
 太陽が沈みきるまで、俺たちはひとのいない教室で、くだらない話を続けた。


 翌日の空き教室は、前の日よりも混雑していた。テストの最終日だからではなくて、単純に時間が早かったせいだろう。同じ時間帯になれば、もっと閑散としているはずだ。
 昼休みになって、俺は一階の売店でパンを買った。駅前まで歩けば牛丼屋があるのだが、そこまでする気力がなかったのだ。
 次のテストがある三階の教室に向かう途中、隣を覗いてみた。なにやら騒がしかったためである。廊下にひとが溢れていたが、目で追うと、大半が階段を下りてゆくのが見えた。
 ごっそりとひとのいなくなった教室は、ひどく寂寞とした気配を漂わせている。
 昨日三ツ木と話していた鈴木のテストのはずだが、ひとの姿はない。テストが終わったというより、そもそも始まらないようだ。黒板にはでかでかと、鈴木教授ご不在のためなんたらかんたらと雑に書いてある。
 トラブルでもあったのか、時間がずれたのか。普段の講義は突然休講になることも珍しくないのだが、テストでドタキャンというのは普通はありえない事態である。
 何かあったのだろう。俺には関係のないことだが。
 空っぽの教室で佇んでいた女の子が振り返った。目が合わなかった。
「あ、皐月さん」
 背中で声が飛んでいたが、俺は何も聞かなかった。
「待ってください。昨日のお返事を」
 服の裾を摘まれた。素早い。さっきまで座っていたはずだ。じろりと見ると、ひゃんと身を退かれた。俺の面相はよほどひどいのだろうか。わずかに落ち込む。
「それより、何かあったのか」
 じっくり見ると、なにやら不気味な静けさがある。単なるテスト中止にしてはやけに空疎だ。まるでこの教室の中にいることが不吉だとでも言いたげな。
 暇な学生が時間つぶしに空き教室で雑談してる光景を見慣れているだけに、余計に際だっている。
「それが」
 いなみがささやくような声で語ろうとしたとき、喧しい足音が後ろから近づいてきた。
「省吾!」
「どうした三ツ木。ああ、そういえばお前も鈴木の……」
 言いかけて、顔の青さに気がついた。血の気が引いている。目が血走っている。慌てているのか、恐怖するようなことでもあったのか、唇が震えているのが分かった。俺は三ツ木が落ち着くのを待った。
「何かあったのか」
「綾子が」
 声が小さくなる。奇異の視線を向ける周囲に気がついたのか、三ツ木はもう一歩俺に近づいて、回りに聞こえないよう、小さくつぶやいた。
「綾子が、鈴木を殺しちまった」


 幸い、場所ならある。誰もいない教室に足を踏み入れて、俺と三ツ木は横並びに座った。
 なぜかいなみが後ろに腰掛けた。
「あ、邪魔はしません」
 存在自体が邪魔と断言する気にもなれず、俺は無視して三ツ木に向き直った。
「それで、どういうことなんだ」
「どうもこうも……」
 何から話し始めればいいのかと迷っているらしい。俺は気になっていたことから尋ねた。
「まず、確かなのか。鈴木が殺されたっていうのは」
 深い嘆息。本当らしい。三ツ木は疲れ果てたように、まぶたを抑えた。
「鈴木の自宅から、綾子が警察に電話して、自首したって」
「自宅? なんで鈴木の自宅なんかに行くんだ」
 そもそもの前提が狂っている。
「悪い。ちょっと待ってくれ。順を追って話す。おれも混乱してるんだ」
「なら落ち着いて喋れ」
 三ツ木が俯いた。それを見計らってか、いなみがペットボトルを差し出した。
「どうぞ。口付けてませんから」
「あ、すまない」
 受け取って、飲み干す。一リットルのペットボトルの半分ほどで喉を潤したら、ようやく顔色が戻ってきた。
「まず、綾子なんだが、今は警察にいるらしい。逮捕されたのは間違いないし、それが早朝で、さっき連絡があった」
「直接?」
「ああ。心配をかけるといけないからって、電話させてもらえたらしい」
「……やけに甘いな」
 警察の対応としては、少し不可解な気はする。俺の疑問顔をいなみが見て取ったか、横から口を挟んだ。
「現場で、すぐに自主したんですよね。だからですよ。協力的な被疑者で状況がはっきりしてて、共犯とかの可能性もなくて、なおかつ証拠品を隠される心配もないなら、そういうことはありえます」
 三ツ木がびくりとした。被疑者、という単語にだろう。
「省吾。お前は綾子がやったと思うか」
「やったんだろうさ。あいつがやってないことをやったと言い張るとしたら、お前を庇ってくらいしかない。お前がやってないなら、綾子が自分でやったんだろう」
「……そうか」
「そうだ。それで、なんで鈴木なんかを殺したんだ」
 三ツ木の表情は翳った。いなみの顔色を窺っているのだと気づいた。俺はいなみに席を外してもらえるよう頼むつもりだったが、いなみがあっけらかんと言った。
「鈴木先生の噂なら知ってます」
「……なら、言うが。何かの理由で呼び出されて、飲み物に薬を盛られたらしい。睡眠薬だろうとは言ってたが……意識が朦朧として、このままじゃヤバイと感じたんだろうな。襲われそうになって、反撃しなくちゃと考えていたら、近くにあった置物で反射的に殴ってたそうだ」
「そのまま警察に電話したんですか?」
「いや、それが昨日の晩。綾子はそれからすぐ薬のせいで意識を失って、目が覚めたら朝だった。横には鈴木の死体。自分は置物をしっかり握りしめてた。まず間違いなく犯人だと自覚して、鈴木が死んでいるのを確認して、警察に電話という流れだそうだ」
 疑いようもなく、綾子が犯人だろう。
 そこに他人が介入してくる余地はない。三ツ木には悪いが、誰かが家に忍び込んで、気絶しているだけの鈴木にとどめを刺した、なんて都合の良い話はありえない。
 そう告げる俺の言葉に、三ツ木は大げさにうろたえた。そういうストーリーなら良いと考えていたらしい。
 三ツ木にしてみれば綾子が無実ならと今も考え続けているだろう。俺に話しに来たのは少しでもその可能性を見つけ出して欲しいからではないのか。
 だが俺は探偵でもなければ、頭が切れるわけでもない。せいぜい情状酌量で減刑されるように走り回れと言おうとして、いなみの目が悲しげに揺れているのが見えた。
 何だろう。その視線は、ひどく不安そうだった。
「もしかしたら、三ツ木さんの卒業をエサに自宅に連れて行かれたのかもしれません」
 いなみは言った。
 三ツ木は唖然とした顔になった。
「は?」
「友達から聞いた話ですが、鈴木先生の手口は、本人や、その子と仲がよい誰かの単位をエサに自宅に連れ込んで、クスリを使ってその女の子を辱めるものだそうです。女の子の方も対面がありますし、単位を身体で買おうとしたと言い回されると困るので、ほとんどの場合、泣き寝入りしてしまうんです」
「……そんな」
「鈴木先生がその手段を繰り返せていたのは、そういうギリギリの状態で困っている学生だけを狙うのと、単位取得の約束はきちんと守るので、黙っているほうが得だと、女の子たちが思ってしまったからです。本当は声を挙げなければ別の子が被害に遭うので……そうすべきだとは思うのですが、それは自分からはやりたくないのでしょう」
 声もなかった。
 いなみは、淡々と告げる。
「嫌な話です」
 俺はいなみの口調に苦しげな響きを聞いた。
「けど、鈴木先生が殺されたことで、綾子さんを擁護する声が出てくるかもしれません」
「……被害者の女の子達の?」
「はい」
「三ツ木さんがすべきことは、そういう子たちから証言を貰うことです。綾子さんを助けたいなら、急いだほうがいいかもしれません。これから夏休みに入りますから、そうなると、後期が始まるまで連絡を取るのが難しくなるでしょう」
 三ツ木の顔は、すっかり真剣になっていた。俺はいなみと三ツ木の顔を見比べて、息を吐いた。
「助かった。この話の礼は、そのうち」
 三ツ木が去ると、いなみと俺は天井を見上げた。テストが始まるチャイムの音がして、俺はどうしたものかと迷った。
「行かないんですか」
 いなみが微笑んだ。
「必要な単位は足りてるからな。別に全部落としたってかまわない。それよりお前の釈然としない顔の理由が聞きたい」
 俺は、いなみの微笑みが強ばっていることを不思議がっていた。ろくでもない話だったが、救いはある。九死に一生を得るような、不幸中の幸いとでも言うべき話のはずだ。
 しかし、いなみの顔が別の言葉を物語っている。


「皐月さんは、完全犯罪の定義って分かりますか」
「いや」
 分からなくもないが、否定しておく。
「簡単に言ってしまえば、犯人や事件そのものが見つからないとか、立証できないという理由で、犯罪が犯罪として成り立たないことです。犯罪の形にならないとか、露見しないとかで、誰も追及することができない。そういうものです。だから綾子さんの犯行は、完全犯罪と呼ぶべきではありません。が、それに似たようなものかもしれません」
「どのへんが」
「さっきの話だけでも分かるように、綾子さんは本来は完全に被害者の側にいます。たまたま反撃したときに、当たり所が悪かったから鈴木先生は死んでしまっただけで、同情すべき点が山ほど在ります」
「ああ」
「たぶん、不起訴になるでしょう」
「……え?」
 そんな馬鹿な。同情するべき点が多いと言っても、ひとが一人死んでいるのだ。そこまで単純な話だとは思えない。
「鈴木先生が亡くなったのは不幸な事故です。殺すつもりはなかったと綾子さんは言うでしょう。まず鈴木先生の用意したクスリによって、綾子さんの意識がもうろうとしていたせいで、加減など出来る状態でもありませんでした。そもそも鈴木先生によって襲われていた、あるいは襲われることが確実な状況だったことは間違いありません」
「正当防衛になるってことか?」
「最悪のケースでも、過剰防衛止まりでしょうね。一般的な常識で考えてみてください」
 ゆっくりと、子供に諭す様に、いなみは語った。
「若い女性が、逆らうと不利になるくらい立場が上の人間の自宅に連れ込まれました。そこで薬をもられて、襲われそうになったので、仕方なく対抗しようと意識が曖昧なまま反撃をしてしまいました。そうしたら、偶然当たり所が悪かったようで、相手は倒れました。その時点では息があったかもしれないけれど、若い女は、その人物にもられた薬のせいで、前後不覚の状態になっていて、救急車を呼ぶことも、応急処置することもできず、そのまま知らないうちに相手が死んでしまって、目覚めてから即座に警察を呼んだんです」
 言葉を句切って、俺を見つめた。
「……素直に考えたら、責任が発生する状況じゃない、か」
「さっきの話には出てませんでしたが、たぶん頭を一発殴っただけで、他には何もしていないはずです。綾子さんは最初から殺すつもりは微塵もなかったんです。ましてや計画的でもありません。あきらかに自分を守ろうとしての一貫した行動です。責められるべきは薬を盛った悪辣な人物でしょう。その後の対処も完璧です。逃げ出したりもせず、ちゃんとすべてを警察に語ってしまえば、悪印象をもたれることもありません。つまりこれは殺人ではなくて、事故に過ぎないのです。過失ですらありません。意識をもうろうとさせて、心神耗弱の状態に陥らせたのは、被害者の方なんですから」
 綾子は加害者である以上に、被害者である。教授の悪い噂に関しても、警察の情報収集能力を鑑みれば、即座に裏を取れるだろう。
 それは分かる。
 不運な事故だった、で済まないのがなぜだかが、分からない。いなみは何を俺に告げたいのだろう。
「この話には……綾子さんは、運が悪くひとを死なせてしまっただけ、という背景が透けて見えています」
「ああ」
「でも、もしかしたら、違うのかもしれません」
「え?」
 何を言い出すのかと思った。いなみは、普通に喋っている。
「未必の故意という言葉があります。綾子さんは殴るとき、鈴木先生が死ぬかも知れないことを自覚して、鈍器で狙ったのかもしれません」
「なんでそうなる。今の話じゃ」
「たまたま、ではないかもしれないというだけです。死なないかもしれないけど、それならそれでかまわない。別に死んでも良かった。結果が変わらないのだから……というのはどうでしょう」
「意識がもうろうとしてたのは本当なんだろう?」
「そうですね。おそらく、警察も血液検査くらいはしたはずです。睡眠薬の成分が血液中が残っていることは確認したでしょう。綾子さんが事件後、気絶していたというのも真実だと思います」
「じゃあ」
「私が不思議に思うのは、どうして彼女は鈴木先生の自宅を訪れたのか、という一点です」
「連れ込まれたんじゃ?」
「綾子さんが言っているだけです。鈴木先生が死んでしまった以上、それを確かめる術はありません」
「……ふむ」
「私の知っている噂ですら、手口があきらかなんです。綾子さんもそらくらい知っていたと考えるのが自然です」
 いなみは、そこで小首を傾げた。
 俺に尋ねてくる。
「綾子さんは、どういう方ですか」
「ええと……」
 どう説明したものかと考えて、俺はずっと昔の、花についた芋虫の話をした。花に注ぐ愛情と、そのために芋虫を殺すことの一連の流れ。
 女性の現実的な側面を見てしまった、とでも言い表せばいいのだろうか。
 いなみは納得したような顔で、俺を見た。
「なるほど。だから女の子のことが苦手なんですね、皐月さん」
 そういうわけでもないのだが。俺はあえて何も答えなかった。
 こほんと咳払いをして、いなみは再び語り出した。
「別の見方をすれば、綾子さんの一撃で、鈴木先生は運良く死んでくれた、ということになります」
 どういう意味か。沈思黙考にあって、俺は無意識に声を漏らした。
「死んでくれたほうが都合が良かったから、か?」
「はい。もしあれで死ななくてもかまわなかったと思います。間違いなくテスト出来る様な状態じゃありません。事件が発覚した時点で退職確定コースでしょうね。そして別の、おそらくことをうやむやにするために甘い採点をしてくれる教授が割り当てられる……リターンは減りますが、それ以上にリスクも減ります。正当防衛を主張するには十分以上。もし死んでしまったならば、前科がつくぶんのリスクが増えますが……それだけです。実刑にはならないでしょう」
「そんなことのために?」
「いえ。これはあくまで、ついでの範疇かと」
 俺は言葉に詰まった。
 いなみが何を言いたいのか、さっぱり分からない。
「綾子さんは、綺麗な花を咲かせたかった。そのために虫を殺してもかまわないと考える。皐月さんはそんな印象を持っているんですよね」
「もう少しオブラートに包んだつもりだったが」
「鈴木先生は、あまりに運が悪かった。ひとを見る目が無かった、って言ったほうが正しいのかもしれません。自分から殺されても文句が言えないような状況を作ってしまった」
「ああ」
「完全犯罪というのがなんでもてはやされるか、分かりますか」
「美学とか?」
「そういうトチ狂ったひとは除外してください」
「……平穏な日々のため?」
「はい。犯罪が発覚しない。あるいは発覚しても捕まらなければ、それまでと同じ生活を送ることは可能です。上手くやればやるほど……あとの面倒の無い手段を取れれば最善ですが……リスクは減り、リターンは大きくなります。殺人なんてものは、目的を達成するための手段なのです。殺さなくても同じだけの結果が得られるのなら、ひとは他人を殺しません。少なくとも、目的と損失を天秤ばかりにかけられる程度にマトモなひとなら」
「綾子はマトモだと?」
「これ以上ないくらいに。あくまで、鈴木先生は手段として殺されてしまったんです。食虫植物が虫を捕まえるみたいに、花を育てるための栄養として」
 言って、あまり良い表現ではありませんが、といなみは付け加える。
 俺は静かに話を聞く。
 そうすることしかできない。
「完全犯罪を狙う、それ自体のリスクっていうのもあります。上手くやれれば平穏に日々を過ごせますが、捕まるような状況になれば、計画殺人として起訴されることになります」
「なんでだ」
「周到な準備と、後始末。情状酌量を求めるには、ちょっと玉に瑕ですよね」
 玉に瑕という言葉が合っているのかどうか。だが、このリスクに対応するリターンは、メリットとデメリットの均衡とは意味が異なってくる。そして、行動には対価が必要である。
 いなみは、一度目を閉じて、それから見開いた。注がれる視線の意味を、俺は考えないようにする。
「殺しても仕方ないという理由を山ほど作ってから、その相手を殺してしまう。捕まっても無罪になれば……それが一番ですが、普通の生活をしていてそんな境遇に陥ることは滅多にありません。殺すだけなら闇夜で後ろからブスリ、で十分じゃないですか」
「いなみ」
「はい、なんですか」
「じゃあ、綾子はどうして殺したんだ?」
「花を育てるために芋虫を殺す。それは残酷かもしれません。でも花に興味がない男のひとだって別のものを……。たとえば、蝶なら心穏やかに、あるいは手放しで愛でるのに、その時点では醜い芋虫ならば、嫌悪して踏みつけても気にしないってところ、ありませんか」
「あるかもしれないが」
 蝶と芋虫ははっきりと区別をつけるだろう。蝶は殺さない。蛾や、芋虫なら踏みつけても気にしない。愛するに足る価値を見いだせないからだ。それを他のものより優先させる必要を感じないからだ。
「話の概要を考えてみれば、三ツ木さんはこう受け取ることになります。綾子さんは、恋人である自分のために鈴木先生を殺すことになった。それを知ったら……もう、二度と手放せないでしょう」
 そして三ツ木は、囚われたのだろう。
 倦怠の末、綾子は三ツ木の生活にとっての芋虫に成りはてる前に、蝶に孵化した。愛でられるに値する存在に、身を変えた。
「そうさせてしまったという罪悪感。共犯者意識。呼び方は色々あるでしょうが、綾子さんは三ツ木さんの心を捉えて、逃さないようにしました。同情すべき被害者としての立場。汚されることを拒んだ、愛しのひと。世の中において、恋愛というものがイベントによって盛り上がるものだとすれば、これ以上ないくらいにユニークで、強烈で、二人の絆をかたく結びつけることになった。……皐月さんは、そうは思いませんか?」
「鈴木は……そのために殺されたのか」
 俺の声は、思った以上に固かった。しかしいなみは首を横に振る。
「だから死ななくても良かったんです。綾子さんにしてみれば、たまたまの、単なる結果に過ぎません。ともあれ、これで三ツ木さんは卒業するための単位取得が容易くなり、綾子さんはこれまでいた大勢の被害者たちの英雄となり、そしてまた恋人の愛を強くすることができた……かくして花が一輪、咲き誇ることになりました。鮮血に彩られた大輪の花。あるいは愛という名の」
 いなみは付け加えた。
「でも、これはあくまで推論に過ぎません。真実は綾子さんの頭の中だけにあるでしょうし、正しかろうと、間違っていようと、この話が認められることはないでしょう」
「……なんで三ツ木には話さなかったんだ」
「言う必要なんて、ないじゃないですか。あなたの恋人は、わざと罠に引っかかって、綺麗に殺害して、上手く言い逃れきりましたー。そんなことは言えません」
 いなみが机の上を指でなぞり、きゅい、と音を鳴らす。
 俺の顔はたぶん、少し引きつっている。
「今の話は、あくまで鈴木先生の浅慮が原因なんです。手を出さなければ何事もなく過ごしていたに違いありません。花を育てるため芋虫を当然のように殺すといっても、それは自分の花の傍に来たからです。余所の敷地にまで出向いて……なんてことは誰もしません」
 そしていなみは微笑んだ。
「まあ、今の話が単なる邪推なら良いと思いますけどね。本当にたまたま話がうまくいきすぎただけかもしれませんし」
 俺は俯いた。思い浮かぶのは、昨日のことだ。
 減った惚気話。三ツ木の態度。
 三ツ木と綾子の関係に、少しばかりの変化があった。
 そのことを、いなみは知らないはずだ。ただ、与えられた情報から推測を紡ぎ出したに過ぎなかった。離れようとする心を捉えて離さないようにする。
 綾子なら、そうするかもしれない。否定しきれないのは、俺はいなみの話を真実だと受け止めたからではないのか。
「好きって、むずかしいですね」
 いなみの声は、やわらかく空き教室を満たしていた。


 綾子がどういった意図で鈴木宅に向かったのか。噂を知らなかったのかもしれないし、覚悟の上だったのかもしれない。途中で気が変わったのかもしれないし、いなみの言うとおり、火に飛び込んでくる夏の虫を見つけた気分だったのかもしれない。
 たまたま鈴木が仕掛けた罠が、さらに大きな災厄を呼び起こしてしまった。
 綾子の意思が介入していようといまいと結末は同じだ。鈴木教授は死に、綾子は二重三重の無罪となりうる理由を手に入れた。
 善良な一般市民には、通報の義務があっただろうか。なんにしても、今の話を警察にするのは躊躇われた。推論に過ぎないと言うこともある。
 何より、俺は恐かった。
 花にたかる芋虫は、殺されても仕方がない。
 花のためなら、蝶でないのなら、その存在は無意味である。
 文字通り殺される可能性だってあるのだ。ひとのいない教室で、いなみが三ツ木の座っていた席に移ってきた。ちょこんと浅く腰掛ける。
「どうしました?」
「いや、今の話でへこまないほうがおかしいだろ」
 綾子は友人だった。
 長い付き合いの。そして同じく友達である三ツ木の恋人だった。
 これからの付き合い方を考えずにはいられない。顔に出さず、普通に話すことができるだろうか。
「いきなり避けるようになったら、ヘンに気取られそうだしなあ」
「大丈夫ですよ」
 いなみは軽い口調だった。
「さっきも言った通り……男のひとも、もしかしたら誰だって、おんなじなんです。綾子さんが特別ってわけじゃありません。ただ、そうできるときに、そうしただけのことです」
「だから怖がる必要は無いって?」
 理屈になっていない。自分の愛のために、夢のために、目的のために、それ以外の存在を蔑ろにする。誰もがそうだとしたら、世の中は、ひどく生きにくいものではないのか。
「現実的に物事を考えられる相手なら、気に障るようなことをしなければいいんです。相手が触れられたくないものから遠ざかり、自分を弁えてさえいれば、マトモなひとは何もしてきません」
「そんなもんかね」
 どんなに美しい花もいつかは枯れる。それならばまだ良い。だが、もし蝶だと思っていたものが、本当は毒蛾だったと気づいたなら……。
 そして誰にとっての芋虫だったのか。蝶ならば、また別の花に移ろうこともあるだろう。今日何度目かになるため息を吐いた。いなみはちらりと目を輝かせた。
「脈絡のないひとより、ずっと安全だと思いますよ」
「でもなあ」
「……それじゃあ、いい手を教えましょうか」
「どんな」
「女のひとと急に疎遠になってもおかしくない理由を作っちゃえばいいんです。たとえば、嫉妬深い女の子とつき合いだした、とか」
 上目遣いの視線が、俺の表情を窺っている。
「どうですかね」
 俺はまじまじと目の前の女の子を見た。
 いなみは、さりげなく顔を近づけている。期待が透けて見える。計算高いのか、それとも大まじめなのか、俺には判断つきかねた。
「よそよそしくなっても、それなら疑われません」
 いなみは、にっこり笑んだ。
「そういうのもなあ」
「えー。私の何が不満なんですか」
「さっきの話を聞いて、誰かとつき合いたくなる心理がわからん」
「うーっ。それは、ちょっと失敗しましたね」
「だいたい、お前は俺が好きなのか」
「そうですよ?」
 あっけらかんと言われて俺はどうしたものかと顰めっ面になった。何年も縁の無かった異性からの好意だ。ありがたいと思うべきなんだろう。分かってはいるのだが、素直にはいと頷く勇気がなかった。
 いなみはしばらく考えていたが、やがて、ぽんと手を打った。
「じゃあ! お試し期間ということで、明後日あたり、デートとかいかがですか?」
 誰かの胸中にある思いなど、知る方法はない。知りたくもない。真相は闇の中に隠したままで良い。
 とはいえ、俺はなんだか心細かった。嫌な話だ。本当に。
 ついでに、三ツ木の今後を考えると恐ろしくもあり、かといって喜ぶわけにもいかないという、なんとも曰く言い難い気分になる。
 あれこれの感情や思考が綯い交ぜになって、自分の判断力が疑わしかった。我ながら目の前の女の子が好きなのか嫌いなのか、まるで判然としない。
 理由のあとに、行為があるのか。行為のあとに、理由が生まれるのか。もはや確かめる術はない。
 だからまあ、気の迷いということにしておこう。
 話を聞いてしまった以上、何もかもが今更だ。すべては、やがて過去になる。手の届かない場所へと遠ざかってくれる。
「とりあえず、一回だけな」
 いなみは子供のように顔をほころばせて、叫んだ。
「やった!」
 なんとはなしに、いなみの頭の、その向こう側にある窓を見つめた。
 ガラス窓に区切られた一面の青は、ひとつの雲もないのに、いやに涼しげに、寂しげに、淡く優しく揺れていた。
 
(了)

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