大好きな、あのひと。
浩平君の顔だけが見られない夢。
見たい――けれど、見ることが出来ない。
夢の中では、他の全てが見られるというのに。
悲しくて、苦しくて、とても辛い。そんな夢。
夢のなかはいつも同じ。変わらないからこその夢。
記憶に残る、過去の世界を舞台にしているらしい。
なにもかもが積み重なって、繰り返しになっていた。
けれど、そこはどうしようもなく自由だった。
嘘の世界だとしても、わたしにとっては綺麗な場所。
見たいものが見える。想像の中からも生まれる景色。
かすかに残る思い出から、引っ張り出してきたのだろうか。
雪ちゃんとか、先生たち。お母さんにお父さん。友達たち。
みんなの顔が見える。みんな楽しそうに笑っている。
知らないはずの顔もわかる。
けれど、浩平君の顔だけは、ぼんやりとしていた。
霞みがかっているかのように、薄墨で消されたように。
なにも、見えなかった。
手で触った感触。
目、鼻、口、耳、眉、顔立ち。
表情、口調、笑顔、声、全てを知っている。
けれど、わたしの記憶には何かに塗りつぶされたイメージだけがある。
想像なんてものは無い。しても、すぐに何かに掻き消されてしまう。
浩平君は浩平君。他の誰でもない、たったひとりの折原浩平。
脳裏に焼き付いているのは、どんなものとも違う色。
闇の中、ただ一片の光だった。まぶしいほどに、輝いているような。
切望と呼ぶべき感情。どこまでも願い続ける意志。
夢の中ですら、勝手に映像を創ってしまうのを嫌がるほどに強く、想う。
真実でしかない気持ちを吐き出せないままに、立ち止まっている。
彼の顔はどうなっているんだろう。どうすれば知ることが出来るのか。
見たい。見られない。見たい。すごく見たい。
見ることが不可能なことだなんて、理解している……
いや、見られないからこそ、わたしはそれを一番に望んでいるのだろう。
わたしには、目の前の闇に夢を映していることだけが精一杯。
映像なんて、もう、夢でしか見られないのだから。
影だらけの視線や、空虚しか無い眼前。見えない、という事実。
そして、埋められた胸の奥の空洞に、ずっと響いている浩平君の声。
言葉。愛しさがこころを満たしていく。消えてしまわないものがある。
あり得ないからこその全て、求めてはいけない永遠を闇に視る。
浩平君の顔が、どうしても見たいと、わたしは望んだ。
還ってきた恋人の顔を見ること。
それが、わたしの夢。
眠りから覚めると、横に人の気配があった。
わたしが起きたことに気付いて、ベッドに歩み寄ってくる。
浩平君だ。
わたしには判る。歩調や靴音の響き具合。止まり方。踏み出すの足音。
ちょっと黙ってから、言葉の内容を考えているような、一瞬の間。
その間に、わたしは顔を浩平君に向ける。当然だけど、見えるはずもない。
目が見えない。それは、はるか昔に受け入れている現実だ。
視界がないとはいえ、病室に入り込む光くらいは判別出来る。
見えないのは、映像が無いだけのことだ。明るければまぶしさも感じる。
目の前が陰る。浩平君がわたしの顔の前に立っているのは間違いない。
「みさき先輩、見舞いに来たぞ」
「うん。ようこそ浩平君。あ、美味しい匂いだねー」
なにか食べ物がある。果物だろうか。
むしろ、そういったものを持ってくるのは、雪ちゃんだと思う。
「よく分かるな。さすが」
「さすが、って……その後はなにかな?」
「いやいや」
誤魔化しながらも、気遣ってくれる彼。
わたしは微笑んだ。
顔は見ることは出来ないけれど、浩平君は笑っていると確信していた。
絶対に、楽しそうに笑っているに決まっている。
微妙な声の響きから。あるいは言葉や雰囲気からも、様子が感じ取れる。
それくらい、見えなくたって分かるのだ。簡単に判断出来る。
浩平君のことならば、わたしよりも分かるひとはいないだろう。
「ところで、なんで『先輩』なのかな?」
「んー。ほらやっぱみさき先輩は先輩だから」
「わたしは、きっちりかっちりこれ以上ないくらいちゃんと卒業したよっ!」
「俺もちゃんと卒業したってば……留年するかしないかギリギリだったけど」
「だったら先輩じゃないほうがいいよー」
「でもなぁ」
しばらくの沈黙。
浩平君がひどく真剣な口調で、言葉をつむいだ。
「……せっかく慣れてる呼び方を変えるってのはなんか負けた気分で嫌だぞ」
真剣なわりには、すごく我が侭な台詞を吐いていた。
そっちがそういう気なら、とわたしも静かな声でつぶやく。
「浩平君っ、今の間はなにかな。……年増、とか思ったでしょ」
「そ、そんなことはないぞ」
慌てているらしい。
わたしは、少しすねたような声を出した。
「ひどいよー、浩平君」
「お、大人びた雰囲気を醸し出しつつ素晴らしくアダルトチックなみさき先輩にめろめろさ」
「……あ、浩平君がどもったー。いま、内容考えつつ喋りながら誤魔化そうとしたよね」
「だからそんなことはないぞっ」
必死に、次の言葉を考えている様子の浩平君。
このまま放っておくと、いつまでたっても終わらない気がしてきた。
「さて、と……このくらいにしてあげるよ」
「ふぅ……ありがと先輩」
「ただし、学食のカレー10杯」
「ちょっと待て先輩。とっくに卒業しただろっ」
「大丈夫だよ。わたしは入学する前から学食で食べてたからね」
「すごく釈然としない気がするが……わかりました。ちゃんと奢らさせていただきます」
しくしくしく、と泣いているふりをする彼。
そのままベッドの脇に置いてあったらしい椅子に腰掛けた。
ぎしっ、と今にも壊れそうな古いもの特有の音がする。
こんなやり取りが、どうしようもなく楽しい。
幸せだった。
一度は消えてしまった浩平君が、今、ここにいること。
全てを諦めてしまいそうなくらいに、胸が痛すぎた日々は遠い。
手術で目が見えるようになる、そういう可能性を言われたこともある。
でも。
浩平君のいない世界なんて、どうでも良かった。
だから、そのときのわたしは逃げた。拒絶して。逃避して。
永遠の闇の中に、浩平君の思い出だけを閉じこめておけば、幸せ。
そう思った日もあった。帰って来ないという、絶望に覆われていたときのこと。
ふと、ときどき考えることがある。
信じることを止めていたらどうなっていただろう、と。
きっと、わたしたちの道を繋いだものは、信じることだったのだ。
浩平君が帰ってくる。
それだけを、わたしは信じていたのだから。
ひとつ望みが叶えば、その先のことを望んでしまうものらしい。
本当に。人間という生き物は欲深い、と思う。
それとも、わたしだけがこんなにも望みすぎるのだろうか。
顔が見たい。
わたしのささやかで、なによりも大きな夢。
愛しい恋人の笑顔が見たい。そんなことを求めるのは当然だと思う。
わたしは決心した。確率は低くても手術を受けよう、と。
しかし簡単に行われるわけもなく、準備が整うまで、それなりに時間は掛かった。
浩平君が帰ってくるより前に舞い込んだ、手術の話はとっくの昔に消えていたのだ。
自業自得と言われてもかまわない。また、機会が巡ってきたことに、感謝しようと思った。
難しいことは良くは解らないけれど。大変だということは理解している。
完全に視力を失った目を、見えるようにするのだ。すごく自然じゃないと思う。
失敗する危険なんて、大量にある。むしろ上手くいく可能性の方が低い。
思い通りにいかないかもしれない。
それでも、浩平君の顔を見るのは、わたしにとっては夢なのだ。
成功するかどうか、わからないけれども。
浩平君が目の前にいる。これすらも夢のような時間。
もう、来ないかも知れないと諦めていたような、素敵なひととき。
生まれた感情。愛おしい。好き。恋しい。大好き。すごく。
衝動。
その名の通り、衝き動かされるように。
ただ、思いっきり抱きしめる。
「……みさき先輩。どうかしたか?」
心配げな浩平君の声。優しい。いきなりだったから驚いてはいるみたいだ。
わたしは、ただ、ぎゅっとしがみつく。ベッドの上から逃げるわけにもいかないけど。
「うん。ちょっと、こうしたかっただけだよ」
「ああ……。なら、ずっと、いくらでもいいぞ」
「ありがとう」
とくん、とくんと、浩平君の心臓の音が聞こえる。あたたかい。
怖い。怖くないわけがない。手術をするなんて、とても怖い。
わたしは弱い。どうしようもないくらいに、恐がりで、弱くて、寂しがり屋だ。
側に誰かがいてくれないと、きっと今にも泣き出してしまうに違いない。
それくらい、不安。震えそうな体を浩平君に支えてもらって、やっと落ち着く。
どんなに強がっても、怖くないと思っていても、勝手に震えてしまうものだ。
すっ、と抱きしめていた腕を離す。浩平君は、もういいのかと訊いてくる。
その静かな声に胸があたたかくなった。わたしは、うん、と頷く。
「もう少し寝ておく?」
耳元から声が聞こえた。
わざわざ近づいて話しかけてきたようだ。
「そうだね。……うん、そうするよ」
もう、どこにも行かないでほしい。
見上げた先の闇には、浩平君の姿なんて映らなかったけれど。
彼がいるのは確かなこと。
身体に触れていた部分に残る熱が、わたしを包み込んでいた。
浩平君の手に誘われるように、ベッドにゆっくりと倒れ込む。
ぽすん、と枕に弱く顔を埋めて、浩平君のいる方向に話しかけた。
「ここにいてほしいよ……浩平君」
「ああ。分かってる」
応える声が聞こえて、わたしは目を閉じた。
ずっと、側にいてくれているのを、流れる空気に感じながら。
美しい景色が流れるように、静かに夢へと移ろう意識。
誘われた夢の中で、何もかもが見えている。
記憶通りの世界がある。
そこを自由に歩けるのが、楽しい。
浩平君がいた。
……けれど、手の感触で覚えたはずの顔は、やはり無い。
こういう顔なんじゃないか、と何度も何度も考えても、形にならない。
夢では適当に映像が創られるものだ、と聴いたことがあるけれど。
幻ですら、浩平君のことだけは思い通りにはなった試しがない。
無意識にでも想像してしまうのを怖がっているのかもしれない。
映像は黒く虚ろ。わたしが何も考えていないからだろう。
それとも、ここが夢の中だということに気付いているせいか。
誰も見えなかった。消えてしまった。光もない。目に映らない。
現実に似た夢なんてものに、なんの意味があるんだろうか。
見えない。
現実と同じように、愛しい誰かが消えてしまう。
思い出す。好きなひとが消えるという、これ以上ないほどの恐怖。
浩平君がいなくなることが、怖い。感情の奥底に沈む澱のよう。
じっと残り続けているおそろしさが、わたしを不安にさせている。
手術の怖さよりも、ずっと。染みこんだ痛みは、胸の奥にある。
いつ、いなくなってしまっても。
わたしにはそれを知ることも、探しに行くことも出来ない。
夢に堕ちる前に感じていた空気だけが、今のわたしの拠り所だった。
目覚めたなら、そこには現実がある。
起きた先の世界には、浩平君はちゃんといてくれる。
それを意識して、安堵のため息を吐き出す。闇に溶けていった。
進むべき道は真っ暗だけれども、わたしは前に進む。
恐れずに。
意識が冴える。闇を歩いた記憶が残っている。
進んだ先には夢の終わりがあったのだろう。唐突に光が満ちた。
目覚めると浩平君の気配が無かった。怖い。……こわい。
また、いなくなってしまったの?
口に出せない問い。不安がわたしに降り注ぐ。暗い。気持ちが揺れる。
わたしは、単にベッドの上にいるだけ。
出歩けないわけじゃないから、いまから探しに行こうか。
まだ、手術までには時間がある。時計が見えないから、あと何時間かは知らない。
怪我しているわけじゃないから、歩くこと自体は大丈夫だろう。
手探りで、降りる。
寝ていた体が悲鳴を上げる。伸びの一回でもしておけば良かった。
うーん、と足を伸ばしながら、スリッパを探す。
足の裏をすりながら、しばらく横にずらしていくと見付かった。
踏みつけないように、静かに足を入れる。左足はスリッパを履けた。もう一足。
バランスを取りながらベッドに手を掛ける。シーツを掴むと滑るから、寄りかかるだけ。
右足も床に着く。スリッパはどこだろう。あった。左と同じ手順を繰り返した。
さあ、浩平君を探しに行こう。
一歩。
踏み出した瞬間。
がちゃりとドアの音。
聞き慣れた足音と、歩幅を調節する間。視線を感じた方向に顔を向ける。
浩平君のはずだ。よいしょ、とベッドから離れる。近づくと、彼が慌てたように来た。
「先輩! わざわざ起きるような用事があるなら俺が行くって」
「ううん。浩平君を探しに行こうと思っただけだよ」
差し出されたらしい手を取る。と言うか、手を繋がれた。
ははは、と困ったように笑う浩平君。
「……あー、そうか。ごめん」
「うん」
わたしはうなずく。
浩平君は、罪悪感たっぷりの声色で。
しかも、それを徹底的に隠すつもりの明るい声で話しかけてくる。
「もう、勝手にいなくなったりしないから」
「かんちがい、しないで欲しいな」
わたしの言葉に、む、と考え込む彼。
それは、不安なことで、抱えきれないくらい怖いのだけれど。
違う。
不安や恐怖に負けているわけじゃない。
いつも胸にある影。
さっきの一瞬は、大きくなったけれど。
そんなものよりも、もっともっと強い感情がある。
「……ずっと一緒にいたかっただけだよ」
愛しさゆえに、そう告げる。
探しに行きたかったのは、浩平君の側にいたかっただけ。
浩平君が、また消えてしまうことに対しては、まだ震えそうなくらい怖いけど。
自分からいなくなってしまうなんてことは、絶対にないことを知っている。
好きなひとのことを信じていなくて、なにが愛するということだろう。
どうしようもなく好きだから、一緒にいたい。
それだけのこと。
音もなく。
小さく微笑みを交わして。
わたしたちは、黙って抱きしめあった。
目蓋の裏から、陽光が突き抜けてくる。まぶしいくらい。
怖い。逃げ出したくなるけれど、わたしは待っている。
もうしばらくしたら、手術の時間らしい。
お母さんたち(つまり友人たちも含む)は、浩平君に遠慮したらしい。
浩平君が言われたのは、恋人達の逢瀬の邪魔はしたくない、だそうだ。
照れながらも、わたしたちは言葉に甘えた。
ありがとう、と浩平君に伝えてもらった。
さて。
浩平君と一緒に、そのときを静かに待つことにしよう。
怖くはないけれど。
怖くはない……、つもりだけれど。
手術は怖いものだ。誰だって、怖いと思う。
現実的な恐怖。つまらない感傷でも、頭に響くほどには強い。
幻想的な恐怖。目覚めたときに、愛するひとが見えないなら。
それでも。
だから。
浩平君と一緒に生きたい。
浩平君と遠くへ行ってデートをしたい。
大好きな浩平君の笑顔を、しっかりと見たい。
その他もろもろも含めて、主に、
「浩平君との、もっとらぶらぶな未来のためにっ!」
叫んだら……浩平君がずっこけたみたいな凄い音がした。
時間が来たらしい。
わたしは微笑んだ。
彼に、微笑みを返されたのを感じた。
「じゃ、いってくるよ」
「ああ。いってらっしゃい」
そんな、新婚夫婦のような台詞を言い合って。
わたしは、手術室へと向かった。
麻酔で意識が沈んでいく。
手術は寝ている間に行われるらしい。
眼の手術を、起きていて出来るとは思っていなかったけれど。
あれだけ寝ていたわりに、あっさりと眠れたのは良かったと思う。
また、明晰夢。
わたしが夢だ、と理解している夢。
嘘みたいに明瞭に見える暗闇。
いつもと違うのは、ぼろぼろと壊れていく世界。光が漏れ出す。
記憶と同じだったはずの色は消えて、何も見えないだけの夢になる。
実際は見えないからこそ視えていた、色鮮やかな純粋が溶けていく。
知ってしまったら、もう、戻れないのだろう。
想像と空想、幻と記憶の欠片。今までの、自由な夢。
それを創り上げていた幻想が、綺麗な光を発し――砕け散った。
手術は終わったらしい。
目覚めると純白のに輝く布の上だった。なんとも文学的な表現みたい。
ごわごわしている顔。手をやると、ぐるぐると巻かれた包帯。
昔、光を失ったときと同じ巻き方だった。
でも、それほど気にはならない。差し込む光で朝か、昼だと判った。
手術が終わってから、一日くらいは経っているのかもしれない。
えっと、この包帯ってまだ外しちゃいけない……のかな。
ずっといてくれたらしい浩平君が、動きが止まったわたしの疑問に気付いた。
答えが告げられる。
「あー、とりあえず医者の指示あるまで取らないように、だってさ」
「わかったよ」
ぐるぐる巻き。ちょっと気になる。
口のところは開いている。当然だけど、安心してしまった。
ぐぅ、とお腹が鳴った。
「……浩平君。食べ物、あるかな?」
「ん」
すぐにがさごそと音がする。
ほのかに香る、カレーの匂い。
病室に持ってきていいものかどうかは知らないけれど。
浩平君は隠して持ってきたのだろう、と納得してみる。
怒られないといいなあ、と思いながらも、黙る。
そのまま浩平君の動きを待った。
「……先輩、あーん」
「あーん」
恥ずかしげもなくスプーンを口に運んでくれる。(と言うか、わたしは嬉しかったけど)
浩平君、実はなんとなく照れているような気がする。
かすかに触れた手が、ちょっとだけ、いつもよりも熱を持っていたみたい。
浩平君らしい。
わたしは、そのまま食べ続けて、ごちそうさまと言った。
お腹いっぱい。
「ふぅ……でも、」
顔に手をやっても、少しきつめに締められている包帯は動かない。
「ミイラみたいだよー」
「そんな大食いのミイラがいるかっ」
「浩平君、容赦ないよ……」
しばらく話を続けて、いくつかのことを彼に訊いた。
手術はかなり難しかったものだったらしい、とか。
ちょっと麻酔が効き過ぎたのか、緊張のせいか判らないけれど。
わたしは二日間も寝っぱなしだったそうだ。
浩平君が、これ以上ないくらいに誇張と脚色して説明してくれた。
それでも成功した、という話だけはちゃんと聞いた。
ただし、それが本当のことかどうかまでは判らない。
包帯を取り去って、浩平君の顔を見るまでは安心しないようにしよう。
わたしが目を覚ましたので、彼は一度、家に帰るらしい。
ちょっと疲れた様子なのが、声から判ったので心配になる。
大きなあくびをしている浩平君に、わたしはベッドの上から声を掛ける。
「寝てないなら、ちゃんと寝ないとだめだよっ」
「んー。ふぁぁあ……安心したら眠くなってきただけだってば」
声の調子は、彼が笑っていることを示していた。
けれど、何かあったときは、浩平君は無理するような人間だ。
だから、気を付けてないといけないという気分になる。
本当に大丈夫だろうか。
でも。
「……うん」
嬉しいけれど、心配でもある言葉だ。
わたしのせいで、わたしのため。
浩平君にありがとう、と言おうとした瞬間、彼の方から先に声が届いた。
「ちゃんと大人しくしててくれよ、お姫様」
一瞬だけ、言葉の意味を考える時間が必要だった。
「……え?」
浩平君は、振り返るような音も無いままに、さっさと帰った。
お姫様。
だったら、それを迎えに来てくれるのは。
「さすがにわたしでも、すっごく恥ずかしいよ……」
去る姿も見えないけれど、その後ろ姿らしき方向に向けてつぶやいた。
手術から一週間後には、包帯を取ってもいいらしいと聞いている。
担当の、厳めしい顔つきと評判らしいお医者さんは、静かに言った。
「もう少しだけ我慢してくださいね」
その言葉には、はい、とだけ答えた。
検診だけして、様子を調べて、そのまま病室から去っていった。
静かな足音に向かって、わたしはぺこりと頭を下げた。
手術から一週間――明日だ。
毎日お見舞いに来ては、わたしが寂しがらないように話を持ってくる浩平君。
きっと、わざわざ面白い話を仕入れてきているに違いない。
眠そうな彼の声を思い浮かべる。大丈夫だろうか。
浩平君に、とても無理をさせているような気がする。
明日、包帯を取ったなら。
真っ先に、浩平君の顔を見たい。
すでに消灯されていて、真っ暗な世界に倒れ込む。
目蓋は初めから閉じたまま、シーツをかぶって闇を重ねる。
暗いと、すんなりと入り込むことが出来る。
夢の中へと。
見ていた夢は、色を失っていった。
どんどん消えていく形。色彩。風景。人間。
新しい記憶に塗りつぶされる用意でもしているのだろうか。
夜空のような黒が拡がる。単調な暗黒に染まる視界。
闇に沈む。色は枯れていく。どこにも、誰も見えない。
見えないけれど、見える。
ここには何もないのだ。
それが見えるようになったから、誰もいないことに気付いた。
創られていた映像は、所詮は幻。
夢は夢。
夢でしかない。
ただ、何も映らない世界は怖いから、そこに生み出していただけ。
薄れていく記憶に呼応して、同じように消えていくだけ。
最後に残っていた顔の無い浩平君が、透き通っていった。
どこか、久遠の彼方に去っていくように。
記憶の中には、いないはずだった。
そんな夢の中の彼は、微笑んだような気がした。
何もかも消えた夢が終わると、自然と目が覚めてきた。
シーツにくるまったまま、わたしは重みを感じてみじろぎした。
室内の温かさは、昼間を表しているのだろう。ぽかぽかとした陽気だ。
そう言えば浩平君は、いつもは朝には来ているはずだけど。
はて。
この重みが彼みたいな気がする。
耳を傾けると、寝息が聞こえてきた。絶対に浩平君だ。
やっぱり疲れていたらしい。
たまたまわたしが起きていなかったから、寝てしまったのだろう。
起こさないように、わたしは黙ってじっとしている。息をひそめておく。
「すー……」
「……あっ」
気配を感じて、ドアの方に顔を向ける。
ガチャリ。
音がして、すぐに担当のお医者さんの声がした。
単刀直入というのが信条なのだろうか。すぐに本題に入るお医者さん。
「川名さん。包帯、取りましょうか」
「……わたし、見れるんですよね」
包帯を取ること。
少しだけ震える声で、静かに聞いた。
「ええ。手術は成功しています。……包帯を取るのが、怖いですか?」
「いえ……あの」
しーっ、と指を口に持ってくる。
わたしは声を小さくした。
不思議そうな顔をして、すぐに理解の色を声に浮かべてくれた。
「なるほど」
「ひとり……じゃなかった。浩平君とふたりっきりにさせてください」
「おやおや……ははぁ」
うんうんと頷いてお医者さんは了承してくれた。
何か、勝手に納得してくれたらしい。物わかりの良いひとだった。
「彼、ずっとそこにいたんですよ。よっぽど愛されているんですねぇ」
「はははっ」
わたしは笑うしかない。
「まあ、気持ちは解らなくもありません。
いいでしょう。ただし、一時間後にはまた来ますからね」
がちゃりとドアが閉まる。
これで、ふたりっきり。
わたしは、するする、するすると包帯を取っていく。
まだ物理的に光が届かなかったけれど、明るさのなかに帰るとまぶしい。
まだ、目を閉じたまま。
彼は、まだ起きていない。寝息が届く。
小さく、出来るだけ小さくした声で確かめる。
「浩平君?」
「すー……」
まだ、起きていない。
ゆっくりと。
わたしは、目をあけた。
閉ざされていた闇のなかに、光が差し込んでくる。
白やんだ視界に、少しずつ色が生まれてくる。
緩やかな輪郭。
世界が形になっていくのが、分かる。
室内が光に溢れていた。
記憶にある、どんな白よりも白く見える。
静かに、ぼんやりとしていた視界がはっきりと。
だんだん、見えてくる。
幸せそうに眠る、彼の顔。
わたしは夢を叶えた。
瞳に映る顔は、大好きな浩平君の顔。
夢のなかでも、もう、二度と隠れることのない顔。
心奪われるほどに、大好きすぎて。
わたしは、顔をじっと見たまま、動けない。
感想としては。
可愛い。格好良い。子供っぽくて、優しそう。
でも、そんなことは関係ない。
彼の愛しい笑った顔。きっと良い夢を見ているのだろう。
わたしの好きな浩平君の顔。
忘れることなどないほどに、しっかりと見つめてから。
「大好きだよ……」
わたしは小さくそう言って、
夢を見ている王子さまに、静かに口づけをした。
Fin.
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