放課後の図書室に射し込む光は眩しくて、透き通るような白いカーテンを橙色に薄く染めていた。
いつもなら数人くらいは椅子に座って静かに本を読んでいるのだけれど、今日に限ってひとがやけに少なかった。というか図書委員しかいなかった。
こうなると静謐を旨とする図書室内であっても歓談に興じるのは自然な流れと言える。読書の邪魔をしないための静寂である。誰も読んでいないのなら、口を閉ざしている理由はない。
先輩が頬杖をついて、眠たげに話しかけてきた。
「カナちゃん、今日は暇だねえ」
「ですね」
カウンター内でやることといったら、本の貸し借りの受付と仕分けくらいなものなのだけれど、今日やるべき仕事は大方終わってしまっていたわけだ。
ともあれ図書室は規定の時間まで開けておく必要があった。さっさと鍵をかけて帰るわけにもいかないのだ。限りなく時間の無駄である気もするが、それが我ら図書委員のお仕事なのである。
喋って暇を潰そうと思っていたのだが、横に座っている先輩が何やら面白そうに読んでいる。絵本に見えるのだが、先輩の肘で半分ほど隠れてしまっている。
「先輩、何読んでるんですか」
「ああ、これ? はい」
受け取った本のタイトルを見た。手書きの小さな丸文字で『凍り姫』と丁寧に書いてあった。
表紙には、まだ幼くも可憐な少女が、やわらかな筆遣いで描かれていた。この娘がくだんのお姫様なのだろう。
豪奢な部屋の中央には、天蓋付きの大きな寝台がある。
そして寝台ごと包み込むような、ひっそりとした灯りに反射し煌めく氷の塊が、彼女の全身を自らの内側に閉じ込めている。
水晶に似て冴え冴えとした輝きを放っている。手で触れることを躊躇わせるような透明さで、眩く冷たい。
氷の中に、彼女が穏やかに眠っている。
彼女は目を瞑り、苦しみなど知らないかのように、横顔に優しげな微笑を浮かべている。
絵本は子供の読むものだ。偏見かも知れないが、私はそう思っていたので、それ以上めくってみたりはしなかった。
「いえ。内容だけ教えてもらえれば」
「大した量じゃないでしょ。少し読んでみれば?」
先輩が熱心に薦めるので、最初のページだけ開いてみた。
台詞も何もないのだが、しばらく眺めていると、なんとなく違和感をおぼえた。次のページをそっと繰ってみる。その次のページも同じように。
一瞬、部屋も少女も変わらないように見えた。だが光と影の濃淡で色合いが変わる。やがて繊細な線がそれまでとは別の熱を帯びてゆくのを知る。
絵の善し悪しなんて分からない私だが、かすかな違いをこうも上手くかき分けるのが難事であることくらいは理解できた。見ても分かるか分からないかくらいの、微妙な差異。それだけだ。なのに同じものが、明らかに違ってしまっていた。
元には戻らない。ただ進んでゆく。
だんだんと氷が溶けてゆくのと比例して、お姫様も少しずつ老けてゆくのだ。
最初のページは可愛らしかったお姫様も、顔立ちが凛々しさを増してゆき、花開くような柔和さを得て、十ページ目を過ぎたころには高貴な中年女性といった表情を見せていた。
手前から差し込んでいるのは、暖かな陽光だ。仄明かりめいて色は淡く、部屋の隅々までを照らして影が散っている。
氷は長い時間をかけて溶けてゆく。周囲に配置された高価そうな家具も、同じ速度で古ぼけていった。先へ。先へ。氷から外に一歩も出ることもなく、ただ緩やかに年老いていくお姫様の姿が続いてゆく。
一ページごとに、長い時が流れ去ってゆく。
残酷なほどの速さで。
いや、私がページをめくるたびに、時が過ぎる。
静かに、しかし確実に、時間が過ぎていった証拠が絵の中にはいくつも残っている。
もはや、彼女を見て姫と呼ぶことはかなわない。
空気は鈍く沈殿しており、積もった埃は明るい灰色で、何もかも動くこともなく、寝室は寂しげな影で満たされている。その中央にある姿は、元の面影をほとんど残していなかった。最初は僅かな変化だけだったはずなのに、いつの間にこんなにも変わり果ててしまったのだろう。
不意に、怖くなった。この先を読むべきなのだろうか。
あと数ページで終わる頃合いになって、ふと、横でにやにやと笑っている先輩を見た。結末を知っているのだ。先輩はお手洗いとささやいて、図書室から足音を立てずに出て行った。
そろそろと息を吐き出した。絵本から手を離そうとしない自分がいる。指先が汗ばんで湿っていて、紙の感触がいやにざらついて感じた。
あと二ページ。ゆっくりと、めくった。ここまで来れば、絵本の一ページが何年かを表していることは承知していた。だが、ラストシーンがどうなるかは、予想も付かなかった。
考えたくなかったのかもしれない。
いつしか家具は壊れ、風化し、すでに見る影もなかった。形の残ったわずかな鉄製のものを除いて、大半が粉々になって黴の生えた絨毯と一体化している。その絨毯も色褪せて、汚らしく破れ、ほつれて朽ち始めていた。天井に穿たれた穴から、幾重にも細い光が射し込んでいる。
修繕されることのない部屋だった。誰も訪れることのない寝室だった。そして、お姫様は老婆となって、ついに氷から解き放たれようとする。
残り一ページ。
私はめくる。
氷は溶けきった。背景の部屋、家具たちは役目を終えたかのように砂と化し、いっさいが光の中に消え失せようとしている。
いつかは少女だったはずの老婆。彼女だけが、影のようにぽつんと一人で、その場にぼんやりと佇んでいる。
取り残されてしまったように。
そのお姫様は、正面を見つめたまま、こう口にする。
眼窩の奥底に闇を湛えて。
「ページをめくらなければ、永遠でいられたのに」
台詞なんてどこにも書いていないのに、その声が絵本の中から聞こえてくる。肌がぞわりと粟立つのを感じる。
私が彼女を見ているのか、私が彼女に見られているのか、よく分からない。
彼女に表情はなかった。すでに死んでいるようでもあり、未だ生きているようでもあった。あまりに暗く、醜いばかりで、昔話に出てくる魔女めいて恐ろしかった。それがあの美しかった、優しげな少女の結末だと思うと、どうしようもなく悲しかった。
あの匂い立つような華の気品は、ほのかな可憐さは、今や、どこにも見あたらなかった。見下すような、恨めしそうな、虚無の瞳がこちらをじっと覗き込んでいた。
震える手で、絵本の最後のページに触れた。その先には何もなかった。何もないはずだと思った。だが、一枚、ぴったりと張り付いたページがあるような気がして、慌てて本を閉じた。
汗ばんでいる。指先が触れたときの、紙の感触を思い返す。
裏になっていた絵本を、私は静かにひっくり返した。
氷の中、目を瞑ったまま正面を向いて微笑する、あの美しい少女の描かれた表紙を眺め、安堵から深く息を吐き出した。
そして気づく。少女の顔が、さっきまで隣にいた先輩と同じだと。先輩? そういえばあのひとはなんて名前だったっけ。いや。そもそも、本当にあのひとは図書委員だったのだろうか。
何だかとても寒い。図書室の中が、まるで凍りついてしまったみたいに。まわりには誰もいない。誰も来てくれない。あれからどれくらい経っただろう。
私はだれなんだろう。
あれ?
突然、わからなくなった。
なにもわからない。わたしはどうすればいいんだろう。ねむくなってきた。とてもさむくて、めがひらかない。つめたくて、さみしくて。
「ページを最後までめくればよかったのに」
そんなこえが さいごにきこえた