花刃抄


一、
 小柄な青年が闇夜を駆けている。森を抜けようと更に足を速めた。無尽に木の根が這っており、気を抜けば足を取られることは必至であろう。下方前方に注意を向けることを忘れない。
 天はひどく不安定であった。山の天候が変わりやすいことを鑑みても、いやに空気が重いのを肌に感じる。湿った風がそよぐならまだしも、冷たくも乾いた息吹が膝にまとわりついている感触があった。仰げば雲の色が不安を誘うほど色を濃くしている。
 昼間はあんなにも晴れていたというのに。葉の隙間からは細かな景色が覗けど、夜天には星ひとつ見えもしない。
 じっとりと玉の汗が額に浮かぶ。暑さではなく何か嫌な雰囲気が漂っているのを感じ取ったせいである。踏みしめた足の裏で大地の感触を確かめる。地の堅さは、ともすれば脅えがちな自分を安心させようとしてくれているかのようだ。霧がかかったかのごとく前が仄白くぼやけて目に映る。
 彼は走る。おそれながら。足を止めないでいても、暗闇を鏡にして不鮮明な記憶が蘇る。そういえば最近村を訪れたあの商人が気になることを吹いていたな、と。
 曰く、近隣の街道では滅びた國の亡霊が彷徨い歩いている。未練に思いし果たせなかった誓いを守らんと日ごと夜ごと、旅人を斬り伏せてはその血を剣に吸わせているというのである。まさかそんなことと笑い飛ばすことができぬのは、事実、周辺の村落で姿を消す若者が幾人もいるためである。そもそもこうして走り続けているのだってこの異常を國守りへと伝えるためだ。
 とはいえここまでひどく脅えてしまっているのは、彼自身の性格も多分に関わっているのだろう。同い年くらいの村の若者衆から小心者と囃されるのを厭って、こんな役目を押しつけられたのだ。今となっては後悔が募る一方である。言わせたいやつには言わせておけばいいのだ。今更ながら、宵闇の不気味さとつまらぬ矜持を秤にかけた己の浅慮を悔やまずにはいられない。乱れがちな呼吸を整えようとするが、歯の根が合わずに、肺から空気が抜けてゆく。
 こんな夜にはきっとよくないものが現れる。
 子供を叱りつけるときによく使われた、あの悪神の名を思い出してしまう。嫌だ嫌だ。化け物に喰われてしまうなんてごめんだ。今から引き返そうか。ダメだ。こうなったら急いで役目を果たして、明るい時間まで待った方が良い。だけどこのまま進んで良いのか。目の前の暗闇は質感を増したようではないか。何かが潜んでいる。おぞましい何かが。敏感な耳が物音を察知する。聞こえた。気のせいだろうか。気のせいなら良いが、もしそうでなかったら。喉の奥から悲鳴が漏れそうになる。無理矢理抑えつける。
 刹那、身体を支える膝が、その力を失った。地面が変質した。そんなふうに思った。やわらかい感触。木の根ではない奇妙な感覚をおぼえて、彼はたたらを踏み、止まりきれずさらに硬質なものに躓いた。
 緑に生い茂る樹木に手をついて、闇に慣れ始めた目をこらした。月影も無い暗夜にあってはいまいち確信は無いが、棒のように見える。槍にしては短く、剣にしては反っている。形状からして刀と呼んだほうが正しいようだ。刀。なぜこんな森の奥で刀が視界に入るのだ。いや、どうして刀だと断定した。それは鞘から抜かれた、その白刃の煌めきが彼の思考を縫いつけたからだ。声が出ない。
 がさりと草むらが鳴った。刀に視線を向けていた彼は反応が遅れた。ひっ、と悲鳴を上げる。ざざざざざと草が鳴る。葉がこすれる音が響き渡る。きぃきぃとどこかで虫の声がする。しかし人間の気配は無い。闇から芒と人影が這い出てくる。ざわりと蠢く闇。暗黒に溶けたそれはまさしく悪意そのものの姿をしていた。
 眼前にいたものに目をこらす。おそらく山賊と出逢ってしまったのだ。彼は自分の後悔と恐怖が形となって現れたのだと思った。それが間違いであったと気づくまでにいくらかの時間を要した。山賊ならばまだ救われた。これは何だ。人間の姿をしている。姿をしているだけだ。これは人間などでは無い。自分と同じものなどでは決してない。歯が鳴る。打ち鳴らして、震えて、かみ合わず、恐怖が体中を凍えさせた。
 この若人は小さな集落から出て使いに走っていたところだった。身軽に動けるようにと一人でいたのが災いした。彼以外の者も同じように周辺の村落へと使いに出ることは幾度かあった。
 これまでは危険な事態に出くわしたことが無かったから、誰もこんなものと出くわすことなど心配していなかった。油断したとも言える。だが、平穏に慣れていたことを責める声はない。助けに入ろうという気配も窺えない。一人だった。意思を通じさせるものは、彼を救いうるものは、誰もいなかったのだ。そう、彼は一人きりだった。誰が彼を諫めることが出来るだろう。後悔と恐怖に身を竦めている青年は、はしっこいその身体を震わせた。
 逃げられない。賊は彼をぐるりと取り囲んでいた。
 諦めの気持ちが足下から染みこんでくる。凍り付いたように感覚の鈍い足先は、冷たく、すでに力を失ってしまっていた。逃げることはかなわない。助かる見込みは無い。みっともなく命乞いをしようか。無理だろう。何故なら、これは人間ではないなにかだから。獣に言葉が通じないように、それらには意思が見えない。ただ深淵が広がっているだけだ。不気味なまでに深い虚無が漂っているだけなのだ。ああ、怪物だ。これは理解の外にいる、決して自分と同じ位置に立つことのない存在なのだ。諦めは絶望に変わる。恐怖は哀しみに変わる。
 そのためか、彼は自らを今から死に至らしめようとする者たちを凝視する――もはや無事には帰れまい。せめて自分を殺すものを理解して死にたい――そして驚いた。
 あろうことか、怪物どもが身に纏っている装束には見覚えのある。
 戦場の格好だ。それも遠方にあっては盛國、近隣にあってはウィツアルネミテアの加護を受けし神都と名高き國。トゥスクルの兵士の姿である。其の國の者は争いを好まぬ穏やかさと、ひとたび戦となれば一切を打ち倒す強靱さを持ち合わせると言われている。
 勇猛果敢にして洗練された強者たちの國家。強大な國々をも従えたトゥスクルの噂はあまねく広がっていた。一種、憧れにも似た気持ちで若者たちは他國に訪れる使者の装束を見上げていた。
 なんということだろう。怪物どもがそのような兵の姿をしているだなんて。戦いから醜くも逃れてきたか、倒れ伏したる死体から一切をはぎ取ったか。知性など見えない。瞳の奥にあるのはただの漆黒。茫洋とした暗野無明の世界が覗き込めるというのに、何故人間の似姿で現れたのだ。
 考えたくないことだったが、もしかしたら正規の兵士だったのかもしれない。そうであれば、彼の思いはあまりに悲しく打ち砕かれることになろう。
 どちらにせよ、彼の命運は尽きたことにはかわりない。怪物たちには躊躇する様子が全く窺えない。臆さずに逃げ道を探していたなら、あるいは彼がもう少しだけ観察眼を養っていたならば、奇妙なことに気がついたかも知れない。死に絶えたかのごとき昏く深い瞳の色と矛盾するかのように、不可解なほど統率の取れた滑らかな動作。
 胡乱にも青年は逃げることを忘れ、喉元に迫る剣先の美しさに目を奪われていた。鍛えられた鋼は鮮やかな軌跡を描き、痛みを感じる暇も与えないほど素早く彼を貫いた。かくして絶叫することすら許されず、緩やかな動きで地に伏したのだ。あとに流れ出るはずの血流はどこにも見あたらない。生命の証たる赤の液体は大地にしみこみもせず、切り裂かれた衣服の端々にのみ、名残がかすかに覗けるだけだった。ならば彼はどうなったのか。致命傷どころか即死であった彼は。何と言うことだろう。彼は安らかに眠ることすら許されなかったのだ。
 意識が消え失せる直前、自分は斬られる前からすでに殺されていたのかもしれない。そんなふうに、ぼんやりと考えた。
 村では二晩の後、彼が帰ってこないことを心配した村民たちが森の捜索を始めた。変わり果てた青年の姿は発見されることなかった。異常を知らせる届けを近くの関所に届け出た。関所の番人は訝しげにしながらも、それを上へと報告した。
 まつりごとを一手に引き受けていたその國の忠臣たちは揃って顔を見合わせた。ここ数日、同じような報告を毎夜ごとに受けていたためである。調査の手を差し向けたが一向にらちが明かない。オンカミヤリューの使者と相談を交わして更に数日、トゥスクルまでその知らせが届くのにもはや時間はいらなかった。





二、
 当初は小國であったトゥスクルが各國を平定して数年が経っていた。戦渦の残り火が未だ熾いていた國々も、ほとんどが平穏を取り戻したころである。
 無論、大神ウィツアルネミテアの真実は民衆には伏せられたままであったが、そのような付加価値など無くともハクオロはすでに賢君の名で慕われていた。好色皇とも呼ばれたが、貶み半分であった以前と比べれば現在のその呼び方はどこか長閑で、好意的ですらある。子をもうけることは王の義務、とは國を憂う者がよく口にする言葉であるが、その観点から見ても後宮のごとき皇の寝所の賑やかさは喜ばしいものであろう。
 さて、トウカの話である。遊行の名目で幾度も旅に出ていた彼女は、大國となればなるほどその隅や山林の奥深くに位置する過疎村落の荒廃を直に目にしていた。貧しさから盗賊に身を落とさざるを得ない者もいれば、村一丸となって旅客の身ぐるみを剥がすという救いようのない場所もある。すべて他國の話であるが、三晩にも及んだその報告をとくと聞き届けたハクオロはしばし思案した。
 ぽつりと声に出す。
「トウカ。豊かさの定義とは何だろうか」
「は。それがしが思いまするに――懸命に生きられることかと」
「懸命とは」
「日々を、よりよくしようという思い」
「……ふむ」
 また悩んでいるような表情。トウカは傍に控えた侍大将ベナウィにちらと目配せする。彼は涼しい顔で先を促すように目で返事を返した。
「聖上、どうなされました」
「いやな。アルルゥが」
「アルルゥ殿が」
「最近、胸がとんと豊かになってしまってな。しかも……いちいちエルルゥに見せつけるから、こう、私に被害が来るんだ。どうにかならないか」
「……。……聖上っ!」
「まて。怒るな」
「それがしは真面目な話をしているんですっ」
「私だって真面目だ」
「は」
 口を閉ざす。見えてはいけないものが見えてしまったような気がした。トウカはどうしたものかと思いつつ、ハクオロの声に耳を傾ける。
「全員が同じだけ豊かならいい。しかし、周りにだけあって自分のところに無い場合、それは毒だ。その毒は別の名前で呼ばれることになる。たとえば嫉妬、ねたみ、そねみ、あるいは怒り、憎しみ。自らもその豊かさを得ようと努力するならまだいい。しかし理不尽だとばかり考えて他人の豊かさを奪おうとすれば、それは捨て置けない行為と化す」
「……ベナウィ殿」
 呆れた視線を向けようとしたら、どこから取り出したのか紙束を持ち出してくる侍大将の無表情にトウカは頭を抱える。二人してなんとまあ回りくどいことを。
「交易や村民の数、それと周囲におかしなものがないか、調査してきていただけますか」
「おかしなもの……とは」
「分かりません。妙な報告が増えているので、とりあえず気に掛かるものすべて、です。但し危険を感じた場合は即座に離れてください。あくまで調査が目的ですので」
「わかり申した。ところで聖上」
「ん、なんだ」
 一呼吸置いて、言えずにいたことをようやく言葉にした。
「エルルゥ殿が背後に」
「な、待て、誤解だエルルゥ、やめ……! とめろベナ……私を置いて逃げるなっ! ま、胸が……痛っ……トウカどこに……わっ、かむな……っ」
 トウカは危険を感じたので、下賜通りに即座に離れたのである。いわんや怒れる正妻殿に逆らえる者などこの國にはカルラくらいしかいないのだ。あとにはただ悲鳴が残るのみ。合掌。廊下を遠ざかるトウカはハクオロの悲鳴を聞きながら、すでにアルルゥに負けたであろう己の胸に想いを馳せるのであった。





三、
 トウカは北上した。早足に隣國を通り抜けさらに強行軍で五日が経ったころ、ようやくその村にたどり着いた。
 いくつかの村々の様子を垣間見ながらの旅ではあったが、貧富の差と人々の笑顔とは比例していないことに気がついた。たとえばトゥスクルでは、基本的に様々な地から逃れてきた者を受け入れている。逃れる者がそうそう財産を背負ってこられるわけもない。しかし彼らは皆一様に落ち延びた先がこの國で良かったと言う。
 しかしこの小國ではどうか。多少の財を成したものの顔と、道行く人々の顔は色からして違う。それは永らく続いてきた差なのだろうし、これからも変えない限り続くのだろう。
 ハクオロの取り入れた制度のおかげか、税に対しての意識も國によって違うようだ。ひたすらに搾り取られるだけのものから、國という己を守ってくれるものへの参加費、という考え方へと移行している。集めた税の使い方に透明性があることも幸いしたのだろう。
 自分たちに還元されないというのに多量の富を奪われ続けるのは苦しい。そうでない、という保証ひとつあるだけで相対的にも実質上でも生活が楽になっている。
 傘下にあるわけでも、協力関係にもない他國にあっても、その形を真似しつつある。もちろんまだ制度としてのつたなさは否めないが、それでも以前ほどひどいことにはならない。状況を理解出来る人間が上に立ちさえすれば、その程度には國はまとまるらしい。ここではまだその真似事にすら行き着いていない。戦に負けた國のような、陰鬱な空気がどことなく漂っているように思われた。
 トウカの感触では、トゥスクルから離れた先、それも影響がほとんどない場所――すなわちこの村のようなところ――が影のごとく見落とされているようだ。改善されたといっても、税収の足しにならない場所は当然のように後回しにされているのが実情らしい。この貧しさがいかに崖っぷちにあるかは、自分の眼で見て回らねば分からぬのであろう。
 自らの視線が光であるとはトウカも考えないが、それでも知っているべきだとは思う。ハクオロのように、と。どうしても基準の中心に己の主を置いてしまうのは悪い癖かもしれない。しかし民の目線と、皇の資質とを併せ持っている者はあまりに少ない。弱さに惑わされず、強さに振り回されないこと。この國でも、それこそが必要とされている。
 為すべきことはなんであろうか。
 道を歩きながら、トウカは自分の格好がどう見られているか、わずかに意識している。戦装束というわけではない。単なる旅装である。しかし布の質はこのあたりを行き交う人々の目を惹いてしまっていた。今に至るまでまるで気にしていなかったものがこのような形で注目されると、いささか据わりが悪い。
 頭上に青空が広がっている。ならされていない道を踏みしめるたび砂利の小気味よい音がした。村人の陰口が聞こえる。ひそやかに話しているように見せかけて、その実トウカに聞こえるようにだ。身なりの小汚い子供が二人、走り抜けていく。一人は手にした木の枝を振り回して、もう片方の子供を叩いている。叩かれている側は痛そうにしながらも文句も言わず、あえて腕に当てさせて我慢しているように見えた。
 路傍の女性がこちらを睨んでいる。向けられる視線の内容は、羨望というよりは、憎悪に近い。こざっぱりした旅装で、商人には見えないからか。行脚する裕福な剣士とでも思われたか。感情というものは割合直截にぶつけられると疲れるもので、特に平時における小さな悪意ほど面倒なものはない。戦場での殺意は黒くはあるが真っ直ぐで、意味をいちいち考えなくても相手を倒すだけで済むからだ。
 つと、違う意図の込められた意思が感じられた。若い男だ。トウカの携えた刀に気づいた様子で、一直線に近寄ってきた。悪感情は認められない。何か頼み事があるらしいことは理解できたが、身分も何も明かしていないのだ。この自分を頼ろうとは何事であろうか。
 トウカははっとした。不意に思い出したのだ。自分がエヴェンクルガであったことを。今の今まで忘れていたとすら言える。そしてそれは恥ずべきことではないのだと、思考の片隅で、記憶のなかで、心許せる誰かが笑っていた。以前のトウカであれば、自分がエヴェンクルガであることを誇りの中心に置き、忘れてしまうことなどありえなかったろう。
「お主、それがしに何用か」
「……エヴェンクルガの方は、皆武人として素晴らしい腕をお持ちと聞きます」
 目の奥にはひたむきな光。頼まれれば何もかも頷くわけではないにしろ、追い詰められている若者を諫めるのは先達の務め。愚行に走らぬよう気を遣うことは必要か。トウカは安心させるように声色をゆるめた。
「ふむ。助力を求めていることは分かった。話を聞こう。近くに茶屋などあるかな」
「いえ……」
「ならば、ここでよいな」
「はい。村に無関係の話でもないので、大丈夫です」
「……」
 立ったまま話を始めた青年に周囲の視線が突き刺さる。しかし彼はかまわない。老人が諫めるような声も遠くから挙がったが一向にかいさないでそのことを口にした。
「山賊が出る、って話があります」
「この村で?」
「あの山のあたりです。もちろん山賊を見た者がいるわけじゃないんです。でも何故か噂が広まっていて、剣士の幽霊だとか、化け物が出たとか、そんな話もあります」
「噂だけならそこまでせっぱ詰まった顔はせんだろう。何かあったのだな」
「はい。うちの村の、俺の、友達が」
「殺されたのか」
「いえ、姿を消しました。……他の村に行く使いを頼まれて、そのまま帰ってきませんでした」
「探したのだな」
「村人総出で。でも、見つかりませんでした。いえ、服の切れ端だけ、見つかったんです。血の付いたものが」
「……なるほど」
「他の村でも同じようなことが起きていて、國の皇になんとかしてくれって頼みに行きました。昨日には調査に来てくれる話だったのが、到着しないままで、みんな不安がっているんです」
「理由は」
「分かりません。森に出るなというお触れだけして、あとは黙りです。調査のものを再び差し向けるって回答だけは貰えました。再びってことはもう、一度は来たんですよね。……きっと殺されちまったんだ。俺たちはあいつを探そうと思ってたんですが、村の連中はもう放っておけって。森にさえ入らなければ、大丈夫だからって」
「それがしにして欲しいのは、その者の捜索か? それとも賊退治か?」
「あいつが生きているなら助けを。あいつが殺されていたなら……どうか、仇を」
「その重大事、旅をしているこんな余所者風情に頼んでいいのだな」
「俺も、行きます。あいつが一人で使いに出たのは俺が煽ったせいなんです。だから!」
「……その意気やよし。それがしに任せよ。我が名はトウカ。トゥスクルのトウカだ」
 変わってしまったのかもしれないとトウカは黙考した。今の自分が名乗るとすれば、トゥスクルのトウカである。エヴェンクルガであることが誇りなのではなく、エヴェンクルガである自分が何を成したか、それこそが誇りとなる。
 背後から、不意にしわがれた声をかけられた。晴れていた天に重々しい暗雲が立ちこめるのと同時のようだった。雨になるだろうか。
「やめておけ、ヤナワゥ」
 呼んだのは青年の名だろう。老人が底の見えない真っ黒な瞳でこちらを見据えている。
「村の一大事にそのような不審な者を関わらせるわけにはいかん。あるいはその者こそ悪鬼かもしれんのだぞ。見よ、その動き。いくさばで何百、何千という敵を殺して殺して殺し続けたことが目に見えるようだ! トゥスクルといったな、あの國は神都などと持て囃されているが他國を喰らって生き延びた國ではないか!」
「ご老人」
 やんわりと反論しようとするも、老人はつばを飛ばして先を続けた。どこか痛々しささえおぼえる仕草だ。
「大神ウィツアルネミテアの加護だと、笑わせてくれる。ウィツアルネミテアなんぞがいるから争いが起きたのだッ! お前のような剣を手にした者はみな血塗られている。呪われればいいのだ」
 棘だらけの言葉にトウカが二の句に迷っていると、青年が叫んだ。
「村長っ!」
「……ふん。礼を失したのは儂か。来い。茶くらい出してやる」
 老人は、感情の吐露を面倒になったか。空は灰色に染め上げられている。間もなく雨が降るだろう。いやに湿った風が頬を撫でた。背筋を走り抜けた悪寒は、あるいは戦場で撃ち放たれた矢を耳元で感じたのととても似ていた。
 村の奥にその家はあった。不自由ない暮らしを送っているとはお世辞にも言えない。村の長ですらこの生活では、どれほどの不便を強いられているのか想像に難くなかった。
「茶だ。飲んだらさっさと帰るがいい」
「……ありがたく頂戴します」
 丁寧な受け答えがさらに癇に障ったか、老人は微笑んだ。好意など微塵もない、空々しい笑みだった。
「トゥスクルのトウカ殿。お前はこの村をどう見る」
 同行している青年、ヤナワゥは視線で口出しを封じられている。立場も何もかも、この村長が上にあるらしい。
「……貧しい村です」
「そうだ。貧しい村だ。この貧しさは見棄てられたがための貧しさではない。元から持っていないがゆえの貧しさなのだよ。性根の貧しさ、心の卑しさ、そういったものをエヴェンクルガ族のお前は許せないだろう。義によって動くと言われているお前は、この村を救いたいだなどと考えているのかね。やめておけ。無駄だ。己の救われなさは、他人に救われたところで何も代わりはしないのだ」
「長殿、それは貴方の意見ですか」
「儂の信条だ」
「ならば、捨て置けません。それがしを動かすは義。止めるものもまた、義でしかない」
「そうかね。お前の國もいつかは崩れ落ちるだろう」
「何故」
「民は、やがて打ち倒すべきものを求めるようになるのだ。敵が欲しいからだ。己に降りかかる理不尽を誰かのせいにしたいからだ。鏡に映った己のせいだなどとは思いたくないからだ。己を敵にする勇気があるものなどいまい」
 ため息。
「さあ、敵は誰が良いだろうか」
 手振りで指さすのは、目の前にいるトウカだ。
「我々は考える。無い頭で必死になって考える。誰かのせいであってほしい。相対するのなら、できるかぎり強大なものがいい。残虐でなければ更に良い。都合の良い敵がいる。ハクオロだ。不満のぶつけどころとしては最適だろう。暴虐でもなく、残忍でもなく、冷酷でもない理想的な皇だ。もし逆らって失敗しても命だけは助けてくれるかもしれない。さあ戦いを挑もう。弱い者は強い者に逆らっても良いのだ。何故か。弱いからだ。弱いということは免罪符になる。弱いから仕方ない。弱いから助けてやろう。弱いから、強い者が持つ責任に負ぶさっていればいい」
 トウカは黙っている。
「もう一度言ってやろうか。鏡に映った自分が醜いことなど、誰も認めたがらないのだよ。己の不遇を他人のせいにしたいのだ。そしてそれをするのはひどく容易い。弱さは、強さの足かせとなるからだ。たとえそれが自分の弱さだとしても、強き他者の足かせになってくれるからだ」
「貴方は弱さが許せないのですか」
「己の弱さをか。それともこの村の者たちの弱さをか。笑わせてくれるな。ここはそれすらも出来ない連中の吹きだまりだ。悪にすらなれない塵芥。誰に対しても、何に対しても逆らわない。お前は道で見なかったか。ただ通り過ぎるだけの旅人を憎しみながら、自分がここで生きて死ぬことを恨みながら、石のひとつも投げつけられない卑屈な女を。ここで漫然と生きて、飢えて死にたくないなら、どこか他の場所へ逃げればいい。それすら諦めて不満だけを募らせている連中だ。ここにあるのは弱さですらない。単なる空虚だよ」
 さあ、どうかね。老人は呵々と笑った。憎しみの混じった、ひどく楽しげな笑い声だった。それはとても救われたがっている哀れな老人の言葉にも思え、トウカは顔をしかめた。
「それでも、こんな村の連中を助けようというのか」
 無言でトウカは立ち上がる。
「それが同情ならやめておくがいい。憐憫なら尚更だ。感謝を求めているのなら筋違いというものだ。彼らは助けてもらったことなどすぐに忘れるぞ。まずお前の着ている服の上等さに目をつけ、次にその刀を売り払えばいくらになるかを算段し、殺すために必要なのは表面上の好意と毒と人数であることを思いつくだろう。早く帰るべきだな。お前は強い。だからこそ、弱さを許せないだろう。義とは何だ。弱さから来る悪を断罪出来るのか。強さが正義なのか。何が悪で何が正義なのか、自分で決められるとは片腹痛い。お前にあるのは義などではない。ただの感情だ」
 滔滔と語られた。いわば呪いにも似た言葉の毒をトウカはかすかに目を閉じ、受け流した。ゆっくりと、用意された湯飲みに目を落とす。淹れてもらった茶が揺らめきながら澄んでいる。そこに映った自分の顔はどこか清々しく微笑んでいた。
「村長殿、長々とご高説賜り感謝します。ですがそれがし、考えるのはあまり得意ではないのです」





四、
「さて、これはどういうことであろうな」
「……トウカさん」
「安心めされよ。但し、それがしの後ろに退がって決して動かぬよう」
「はいっ」
 あの日の若者のように、二人は取り囲まれていた。
 山賊、という呼び名はふさわしくない。それは兵士のような統率された動きを持ちながら、すでに人間であることをやめた者たちだった。妖術の一種か、あるいはこの地に伝わる下法であろう。ならば彼らは生前はたしかにトゥスクルの兵であったはずである。憐れみもおぼえたが、今は生き延びることだけを考えねばならない。ふと見覚えを感じた。過去、このような下法を用いて死者を兵とした邪悪がいた。理屈は同じであろう。青年は僅かにおびえを隠せずにいる。当然だ。目の前にいるのは明らかに人外と化した悪意の産物である。このような奇怪な怪物を前にして落ち着いていられるのは、よほどの修羅場をくぐった者だけだ。
 しかしそれにしても、とトウカは思考する。山に入ってしばらく、奥まった場所に入り込んだ途端にこの歓迎ぶりである。どう考えても待ち伏せされていたとしか思えなかった。ヤナワゥの手引き、にしてはやり方が中途半端だ。老爺がトウカたち二人をまとめて陥れようとしたと疑ったほうがしっくりくる。
 あのとき他に行く手を窺っていたものがいただろうか。さて。そもそもヤナワゥの行動が困ると判断したのであれば、もっと以前から目をつけられていたとも考え得る。ならば考えても仕様のないことだ。
 死人が群れを為して、やってくる。トウカは静かに待ちかまえた。
「無念だったろう。お主ら……永久に眠れ」
 剣士たちが無数に現れ、各々が意思を持ってトウカへと迫ってくる。青年には目もくれない。上から振り下ろされる刃。下から突き上げられる槍。振り抜かれた刃が他の兵にあたろうとかまうことなく、ただトウカの命を絶やさんとし続ける。亡者の群れはまるで失った命を取り戻そうとするかのようだ。奪われたものを取り返そうとするのは自然なことだ。だが、再び生を得ることがかなわぬことをトウカは知っている。大人しく殺されてやるつもりはない。
 忍びないとは思えど、トウカは彼を守りつつ切り結ぶことを続ける。恐るべきは耐久力である。腕を切り落とされようと、足をもがれようと、決して止まろうとしない。あまりに生命の機構とかけ離れている。あるいは生者が感じる痛みこそが、命の本質であるのかもしれない。トウカは顔をしかめ、疾風の速度で切り結ぶ。一人、二人、三人、数えながら物言わぬ塊と化していくのを苦々しく思う。
 人体から油が極端に失われていることだけが救いだ。切れ味が鈍らない。但し斬っても血さえ出ないから、感覚がおかしくなりそうだった。突如、狙う先を変える兵士たち。幽鬼のように青白い顔、ヤナワゥが恐怖に目を見開いた。
 無理矢理な体勢からトウカが割って入る。
 足りない。時間と早さが。
 剣が振り下ろされる。常人の力ではない。限界を振り切ったものの、凶悪な腕力だ。
 刀で受け止める。辛うじて耐え抜けたのはカルラのそれがもっと強かったおかげだ。日々の修練は無駄にはならない。しかし受け流すわけにもいかず、歯を食いしばる。力負けしてしまえば更に背後から迫っているもう一人が槍を突き出す瞬間に対応できない。
 拮抗状態になった。
 いつしか雨が降り始めていた。足下は泥のようになっている。やわらかな大地は踏み込めば幾ばくかの重さを飲み込むだろう。足場は最悪だった。力を込め続けるには、少々分が悪い。
 トウカ一人であれば、ここを抜け出すのは難しくはない。しかし若者は戦を知らぬようで、震えているばかりだ。懐に忍ばせていた短刀でどうにか加勢をしようとでもいうのか。無理だ。トウカは一瞬で力量を悟る。この亡者たちは強い。少なくとも個々が精錬兵並みの能力を持ってしまっている。元々の技量はさほどではないが、怪力と無痛という二つを備えているだけでここまで悪辣な存在に変わるのか。
 奥歯がきしむ。
 と、嫌な予感がした。
 力を緩めつつ、身をよじる。突き出されたのは短刀。背後に守っていたはずの青年の手に握られている。
「くっ」
「トウカさん、避けちゃだめですよ」
「あの言葉、嘘だったか!」
「嘘ではないです。ただ、ここで生き延びられては困るんです」
「……貴様、誰だ」
「ヤナワゥと申します」
「後ろに……操り手がいるな。……なるほど、亡者ではないらしい」
「よくおわかりで」
「その所行、許せん」
「……お前にできるのか。この身体の持ち主は何も悪くないのに。ただ友人のためにこんな森まで来ただけなのに。腕の立ちそうな旅人に勇気を出して助力を頼んだだけなのに、それなのに、それだけなのに、こんな理不尽な目にあっているのに、こうして殺されてしまうだなんて不幸なことだ」
「黙れ」
「さあ、どうやってこの理不尽な苦難から逃げ出す。死ぬか? 殺すか? これが運命というものの本質だ。正しさを求める者はみな、いつだって身勝手な誰かの尻ぬぐいをさせられる」
「黙れと言っている!」
「ははは。エヴェンクルガよ。お前の大好きな戦だ。戦いだ。争いだ。武人は戦ってこそ生きている実感を得ると聞くぞ。わざわざこんな戦いの場を与えてやったんだ。感謝するがいい。ああそうそう。この者が探していた男はそこに混じっているぞ。安心しろ、すでに死んでいる」
「……なるほど、戦を求めるのは武人の習性かもしれぬな。だがそれは穏にして危を求む愚かさだ。危にあって穏を望むが武人たる。見くびるな、下衆」
 取り囲むは多少削られたとはいえ未だ何人も残っている亡者の兵。眼前には操られているだけの未来ある青年。
 トウカは息を吸い込む。
「秘したる剣は、ゆえに奥義と呼ばれよう。使いこなせば技、繰り返せば業、過ぎれば徒となる」
 指先の感覚は十全だ。
「すでに死んでいる貴様らを哀れみはせぬ。それがしが手厚く葬ってやろう。エヴェンクルガの手によって打ち倒されたこと、武人として誇りに思え」
 カッ、と世界を強く見た。そこにあるのは、すべての敵の姿。雨粒のひとつひとつさえ把握することを可能だった。一閃が三人の心臓を貫き、戻る刃が青年の短刀をはじき飛ばした。ひとつ振るえば色のない腕が三つ地に落ちた。ふたつ振るえば色あせた顔ごと首が斬り飛ばされた。三つを数えぬ間に、トウカによって抜き放たれた刀は、縦横無尽に悪意も亡者も切り裂いて、闇夜に銀の花を咲かせた。灯りもないというのに、刀身は煌めきを仄明るく映し出した。
 百花繚乱。
 滑らかな断面。斬り飛ばされたいくつかの腕は、掴むものを失ってかすかに揺れている。
 額に汗が浮かんだ。
 嘆息をつく。肩で大きく息をする。青年は意識を失い、足下から崩れ、樹木にもたれかかっている。
 トウカは闇の奥を見据えて、呟く。息を吐く。いくらか傷ついた身体から流れる血、そして眩むような血流の熱さ。これは迷いではない。血の匂いに酔っただけだ。己にそう言い聞かせる。
「まだ終わっていない、か」





五、
 村に戻り、トウカは先ほどの家屋へと急ぐ。青年は道ばたで睨み付けてきていた女性に押しつけてきた。慌てふためく女性の仕草に、ほんの少し救われた気分になる。
 雨はとうにやんでいた。けれども、ぬかるんだ泥はへばりついてとれないままだ。陽光が雲間からわずかに覗く。時折、視界を明るくするそれは、手を翳したくなるほどに眩しい。
 戸を押し開ける。刀を抜かないまま、老人に詰め寄って距離を保つ。
「気配は隠していたつもりだったが、エヴェンクルガをここまで怒らせるとは儂もなかなか上手くやったものだ」
 村長は、言い訳も隠れもしないといった風に答えた。
「他者の心を軽んじる者は、他者の命さえ容易く天秤にかけるだろう。放置できぬ」
「ほう。なかなか良いことを言う。だが、ありもしないものを軽んじるも重く見るもないな」
「……理由を聞こうか」
「虐げられる者のために剣を研いでいたのだよ」
 トウカは眉をひそめる。
「亡者の剣か」
 大げさに頷く村長。自分自身には武人と争う力は無いらしく、反抗の気配は窺えない。
「死者は死者でしかない。冒涜だ、などと言われる筋合いは無いな。滅ぼしたのはお前だ。それに、お前も争いを欲しているのではないか。幾たびもの戦のなかに武勲は生まれ、死と隣り合わせでこそ生を感じることが出来る。お前もそうではないのか。刀を収めている者には、誉れなど与えられない」
「その饒舌、何のためにある」
「ふふ」
 疲れ切った笑みだった。
「よく回る口だ。使い方次第では、余程まともな未来を手に入れられたろうに」
「言葉に力などありはせんよ。他者を従えるに足る力だけが、己に降りかかる理不尽に対抗する唯一の手段だ。たとえばこの村の住人、全員を人質に取るというのはどうだ。何も知らない善良な民だ。哀れで弱々しい空虚な民だ。お前の國とは無関係な彼らのために命を捨てられるか。愛すべき愚直で優しい人々がここには生きているのを、お前はもう知ってしまった。さあ、儂がここで一声挙げれば一瞬でみんな死んでゆくのだ」
「……それがしは、口べたなのだがな。まあ……お主が理不尽理不尽と嘆こうが叫ぼうがかまわない。だが、生もまた天によって身勝手に与えられるものだ。死と同じく、ひどく理不尽なものではないのか。己に不都合なものを排除したいだけなら、山にこもって一人で死ねばいい。それをしないのは、ただ自分の不幸を他者に背負わせようとしているに過ぎぬ」
「戯れ言を」
「それから……武人の誉れは、与えられるものではないのだ。誓いを自らに課すことで、その誓いを果たしたときに得られるものだ。我らエヴェンクルガを戦闘狂とでも思っていたのか。無用な争いは壊すことしかできぬ。作り上げるものにこそ意味があると、我らは知っている。それを守るために強きを求めるのだ」
 老爺は微動だにしない。
「もはや……聞く耳持たぬか。義とは正しき道を守るための意思だ。我が義は我が心のままにある」
「儂を殺すか」
「お主次第だ。心を入れ替えるつもりはあるか」
「無いな」
「だろうな」
 ため息をつく。
「さらばだ、村長殿。近いうちにお主は捕らえられるだろう」
 静かに背中を向けるトウカ。
 老爺は心中でニヤリと笑い、しかしそんな素振りをおくびにも出さず、先ほどまでと変わらぬ調子で声をかける。
「どうした。抜かないのか。トゥスクルのトウカ殿?」
 一度だけ振り返ってトウカは答える。かちり。鯉口を切る音がうすく鳴る。
「それがしの刀は、ただ悪のみを断つ」
 老人は隠し持っていた銃で撃とうと腕を上げ――腕が落ちた。腕だけではない。ありとあらゆる場所が切り裂かれている。老人は痛みさえ断絶された瞬間、ようやく理解した。残った腕も筋肉を断たれ、足の骨は完全に砕かれている。一方の耳がずり落ちたのが感触で分かった。ぬるりという血の温かさ。鼻も、削がれている。迸る血の色は赤。生者の証だった。
 されど気づけば目が見えない。もはや、あらゆるものが暗闇に没していた。
 死者を操る力を持っているのであれば、自らが不動となってもしばらくは生き続けるだろう。その力は強大だ。四肢を砕くか首を刎ねるか、さもなくば両断せねばなるまい。制御しえぬほどの強さだったとしたら、力に振り回されただけかもしれない。トウカは悼む。死にながら生き存えた者の明日を。生きながら死に続けた者の昨日を。そして彼らに殺された咎無き無垢の人々を。
 他者の血を見ることでしか、己の生を実感できないとすれば、それはもはや戻り得ぬ狂人の振る舞いだ。身を焦がされそうな不満に焼き尽くされた挙げ句、その熱さなどもはや感じていないというのに、火傷の記憶に苦しむばかりの。
 ならば老人は狂ってなどいなかったのだろうか。己に対し、己の正しさを求めるのは当然のことである。
 心さえも食らいつくされるような闇の深さに気づかず、くらい尽くす欲に身を任せた老人だった。空っぽの場所を埋めようとした末路には、業苦の生がふさわしい。どうせ短い残り火だ。しかし単なる優しさでそれを吹き消してやるほど、トウカは甘くない。
「な」
 ふとした疑問を思い出した。トウカは聞こえないかもしれぬと疑いながら、その問いを発した。
「ああ、そうだ。お主が出してくれた茶……毒を入れていなかったのは何故だ」
「……」
「あの茶は、美味かった」
「入れ忘れた……だけだ……あのとき……殺しておけば……よかった……」
「そうか」
 トウカは目を閉じる。耳を澄ませる。老人の荒々しい呼吸が聞こえてくる。後悔などしていないと言いたげな、その潔さ。一匹の悪たれと、己を外道と貶めた老人は地獄の底まで、明るい世界を呪い続けてゆくことだろう。
 鏡に映ったもの。その前で己が刀を抜けば、姿見に映る敵もまた、刀を構えている。だが鏡面に影を覗くことができようと、鏡像には自ずから光を作り出すことが出来ない。老人も分かっていたのかもしれない。分かっていても出来ないことはままあるけれど。
 進むべき道を正すには遅すぎた。正しさに眩んで、あまりに多くの骸を積み上げてしまっていた。生かしておくわけにはいかない。正しさを決められるのは、己だけであるはずだ。己だけの正義を振りかざして他者を犠牲にしていいはずがない。
 すべてを飲み込もうとする影は、一条の光によって打ち払われるべきだった。
 トウカは正中に構えた。持ち上げた鞘に左手を、柄に右手をかける。
「これは情けだ」
 その瞬間、迷い無き一閃が、斬、と最後まで悪であろうとした老人の思考を完全に断ち切った。

 崩れ落ちそうな襤褸の家を出ると、青年を家に運んだらしき女が通りに出て、まだおろおろしている。トウカは一言だけ伝言を頼んだ。
「仇は討った、と伝えてくだされ」
「あんた……」
 何か言いたそうにしている女を振り切るように、トウカは村を出た。関所の門番に一応の決着がついたことを知らせると、一路、トゥスクルへの道を急いだ。
 早く、あたたかなあの國へと戻りたくて仕方がなかった。





六、
「カルラ殿は、戦いが恋しいと思ったことはございませぬか」
「あら、な〜ぁにを仰ってるのかしら」
 くすくすとおかしそうに笑われる。いかん、相談する相手を間違った。トウカは跳びすさりつつ、逃げようとした。
 逃げられなかった。
 仕方なしに話を続ける。カルラはそんなトウカを覗き込むように見つめてくる。
「それがしは……」
「愛する者のためならば、どんな戦いも美しく輝くものですわ」
「……」
「ほら、いらっしゃいましたわよ」
 屋根裏である。ハクオロが一献傾けにやってくるのを知っていて、カルラはトウカを逃がさないよう片手を掴んでいた。涼しい顔をしてえげつないくらい強く握りしめている。
 トウカは自分の落ち込んだ顔を見られるのを嫌がっている。それを承知でやっているのだから始末が悪い。
「……聖上」
「話は聞いた。言うな」
 天には数多の星が散りばめられている。彼はトウカに笑いかける。
「ふむ。これは……両手に花だな。さあ、楽しく飲もうじゃないか」
 漆黒の天を彩るように、幾億の小さな花々がきらきら光を放っている。三人は静かにその空を見上げた。闇が深ければ深いほど、明るさを増す輝きたち。
 瓶を持ち上げ一気にあおるカルラを尻目に、そっと杯を干すトウカ。いささか辛い酒だった。それでも美味いと思った。
 深く息を吐き出した。夜は長い。今しばらくはこの時間に浸っていよう。ハクオロの腕に寄りかかりながら、トウカはそんなことを思った。
 秘すれば花、いやさ、秘してこそ花。
 抜き身の刃など危ういだけ。
 夜は穏やかに更けてゆく。訪れる朝のまばゆさに目を細めるようにして。


 翌朝、トウカが飲み過ぎに頭を振りつつ目覚めようとすると、ハクオロに膝まくらされていることに気がついた。というか先に起きたハクオロに髪と耳を優しく撫でられていたのである。さわさわと触れられていて気持ちよかった。しばし甘えるようにはにゃーと寝ぼけたままのふりなどもしてみた。
 意識がはっきりしてくると、真っ赤になったトウカは「それがしはなんということを……! なんということをー!」と叫び部屋から飛び出して、二日酔いに響いた自分の声のやかましさにぶっ倒れることになる。
 加えて何日もの間カルラにからかわれることになるのだが、まあ、それはまた別の話である。



 花刃抄――、了