やさしい猫


 最近、おれの住んでいるアパートに、ひとりの若い娘が引っ越してきた。
 おれを手なずけようとしているらしい。こまめに持ってくる皿に残り物の小魚が並んでいる。おれはかまわず脇を通り過ぎた。
 後ろから呼ぶ声を無視する。
 道路に出る。角に設置されたミラーに、おれの姿が大きく映り込んでいた。くすんだ茶色の毛には、砂糖をまぶしたような白が覗いている。
 このあたりも物騒になった。
 野良猫は飼い猫たちを馬鹿にして、昨日も今日も、つまらない喧嘩を続けている。
 飼い猫は利口だ。餌を食いっぱぐれる心配もない。わざわざ自分から喧嘩なんてしない。
 それでも売られた喧嘩は買う。猫だからだ。
 おれはそんな連中の諍いを後目に、長く住んだ町をあてもなく歩き回る。
 日が昇り、また落ちるまでのあいだ、静かな時間を求めて、人間も猫もいない場所を探し回った。
 もちろんそんな場所はそう多くない。今日も代わり映えのしない一日を終える。


 腹を空かせていたおれは、物音に気付いた。深夜だ。注意深く足音を消している人間がいる。その動きを事細かに観察した。
 暗がりのなか、街灯の光が男の横顔を映し出した。背の高くて細い目をした男だった。ひとの気配は他には窺えない。おれが見ている前で、そいつはゆっくりとアパートに近づいた。
 好奇心というやつは、おれの悪い癖のひとつだ。
 男はポストの前に蹲った。持ってきていた小型の懐中電灯で手元を照らした。そこには数字を合わせるタイプの錠があった。おれはそのナンバー錠がつけられた場所に、誰の郵便物が入っているのか知っていた。
 あの娘のものだ。
 見ているうちに様子が変わった。錠は役目を果たさなかった。中身を取り出した男は、入れ替える形で別の手紙を置いた。
 目的を果たしたのだ。静かに扉を閉める。振り返りもせず、当たり前の雰囲気を漂わせて曲がり角に消えていった。
 男のした一連の動作、その手つきには、どこかぎこちないものを感じた。
 おれはピンと張ったヒゲを緩ませながら、この出来事に何の意味があるのかとしばらく考えようとした。
 ふと、あくびが出た。眠ることにした。


 このごろ昔の夢を見ることが増えた。
 人間の女とおれが一緒に暮らしていた時期があった。
 彼女はおれに名前をくれた。毎日欠かさず餌もくれた。外の世界に憧れながらも、おれは片時も女のそばを離れなかった。
 たぶん、そのとき、おれは幸せだった。
 彼女には、捨てられた仔猫を見過ごせない善良さがあった。おれが生き延びられたのは、ひとえに彼女のおかげだった。
 家族として扱ってくれた。おれも彼女を好いていた。おれは、それだけで十分だった。
 彼女は、おれだけでは物足りなかったのだろう。人恋しさにぬくもりを求めて何人かの男と付き合った。誰とも結婚せず、悲しい別れを繰り返した。
 いつも別れを切り出してくるのは男だった。
 いいひとだったのよ。
 それが彼女の口癖だった。おれは黙って聞いた。彼女は何度となく泣いた。それでもおれに八つ当たりをすることは無かった。
 ただ、あまりに優しかったのだ。
 そんな彼女が、悪い男に引っかかった。言われるままに金を貸して、短い別れ話のあと、彼女はいろいろなことを諦めた。返ってこないことも分かっていたのだろう。
 暗い部屋のなかで、声を殺して泣く彼女のそばにおれはいた。寄り添うことしか出来なかった。
 そうして一晩中涙を流し続けた彼女は、赤く腫れた目のまま靴を履き、いつものように車で会社に向かった。その途中で事故を起こした。
 彼女は帰らぬひととなった。
 おれは、誰もいない部屋のなかに残された。
 彼女の親戚だという年老いた男が、何日か経って、慌てた様子で部屋を尋ねてきた。白髪で、柔和そうな顔つきだった。
 飢え死にせず済んだ。もう戻らないつもりで部屋を出た。
 おれは彼に助けられたのだ。そう考えると、多少のことは目をつむろうという気になった。
 彼はおれを撫でた。おれは身を任せてやった。猫を好いているのだろう。楽しげにしている。
 そんな彼の後ろをついて、おれは歩いた。そして、あのアパートにたどり着いたのだ。
 彼はそこの大家だった。部屋を提供してくれると語った。彼の申し出自体は、素直に嬉しかった。だから、おれは友人として振る舞った。
 場所が気に入ったこともあって、おれはアパートの片隅に居を置いた。彼が退屈なときには話し相手になってやった。
 時が過ぎて、となりに腰を下ろした彼が、おれの額にそっと触れた。
 懐かしがる口調で、こんなことを言った。
「もう、あれから何年か経ったなあ。ひどく早いもんだね。こういうふうに思ってしまうのは、ちょっとばかり悲しいけれど」
 耳を傾けていると、在りし日の彼女の姿を、アパートの片隅に見つけた気がした。
 瞬きする間に、そのまぼろしは消えてしまった。
「あの子は、見ているこっちがつらくなるくらい、いっつも優しい子だったねえ」
 おれは横目で彼の表情をのぞき見てから、
「にゃあ」
 と、一声鳴いた。
 彼はわずかに目を丸くした。
「まあ、ちょっとドジなところもあったけど。お前さんも、あの子のことは好きだったろう。ううん、やっぱり、あの子がいないっていうのは、どうも寂しいねえ」
 今度は、おれは何も答えず、目を細めるばかりだった。


 散策を終えて住処に帰ろうとすると、お節介な娘がおれに視線を向けた。どこか沈んでいた様子が一変、表情が晴れやかなものになった。
 避けて去ろうとした。彼女は追いかけてこなかった。
 様子がおかしい。関わり合いになる気は無かったが、どうにも放っておけない気分になる。
 そういえば、とおれは疑問に思った。なぜアパート前にいて、部屋の中に入らなかったのだろう。
 彼女はおれの前に座り、こちらの瞳の中を覗き込んできた。
 おれは目を逸らした。残念そうにされたが、見つめ合うのはおれの趣味ではない。
「ねえ、ねこさん」
 彼女は手を伸ばすこともなく、しかしおれに向かって語りかけてくる。
 おれは視線を戻す。聞いてもらえるものと思ったのか、真面目な顔つきで口を開いた。猫に喋っても意味など無かろうに。
「あなたも住んでるんだよね」
 彼女の目に隈があることを知った。
「いいところだよね、このアパート。わたしね、丁度良く空いてるときにここに巡り会って、ここに住もうってすぐに決めたんだ」
 あたりには背の低い住宅街と、狭い道路と、古ぼけたアパートが一軒。情緒あふれるとは言い難い。しかし、ここは明るい雰囲気のある場所だ。
 道路に面していることもあって、ひとの出入りは目立つ。安全に関してもさほど心配することはない。
「せっかく良い部屋に越してこられたんだから、もう逃げるのはイヤなんだけどなあ」
 あーあ、と彼女はため息をついて、うつむいた。
 おれは何も言わずに眺めていた。彼女は地面に目を向けたまま言葉を漏らした。
「なんでまた、こんなことになっちゃったんだろ」
 肩を震わせているように見えた。涙声になっているように感じられた。だがそれは、おれが勝手にそう思っただけに過ぎない。
 実際のところ、彼女は言ってすぐに顔を上げた。その顔から泣いた痕跡は見いだせなかった。
「ああっ、ごめんね。会ったばかりのひと……じゃなかった。ねこさんにこんな話聞かせちゃって。あのね、ようやく止まってくれたっていうか、逃げないでいてくれたから、ついつい嬉しくなっちゃって」
 一気にそこまで声にして、勢いよく立ち上がった。おれはその場に佇んで、彼女の顔を見上げた。
「わたし、カナエって言うの。よろしくね、ねこさん」
 返事を待たず、彼女――カナエは部屋に戻っていった。盛大に音を立ててドアを開け、中に入った。
 風に押されてか扉が閉まって、数秒後、
「わあーっ! シチューが焦げてるうーっ!!」
 そんな叫び声がアパート中に響き渡った。


 風の強い夜だった。
 おれはアパートの裏手に回った。葉が擦れあってさざめいている樹が一本、まっすぐに伸びている。その樹を駆け上った。
 月は出ている。しかし時間が時間だからか、ほとんどの部屋の灯りは消されていた。よく見えなかった。唯一カーテンの隙間から中の様子を探れたのは、カナエの部屋だった。
 おれは目を光らせた。点けっぱなしのテレビからは、深夜番組の不規則な笑い声が流れてきている。
 カナエは立ちつくしていた。握りしめた茶封筒に視線を落とした。そのとき電話が鳴った。びくりと震えたカナエは、受話器を取ろうとはしなかった。
 電話の相手に対し、合成の音声が留守を告げる。用件を録音しようとする。声が聞こえてくる。録音時間が終わるまでのあいだ、カナエはそこから動くことも出来ず、震えていた。
 一度切れたあと、また、電話が鳴った。三度、四度と同じことを繰り返して、カナエは動いた。電話線を力任せに引っ張った。受話器が床に落ちた。
 テレビの音だけが無駄に明るく騒がしかった。
 風が吹き付けた。窓を大きく揺らした。小さく悲鳴のような声を挙げたカナエは、窓ガラス越しにおれの姿を認めた。
 一瞬驚いた顔をして、硬直して、そして安心したような顔を見せてきた。
 おれは顔を背けた。カナエが窓際に寄ってきたのが、僅かに見えた。声を掛けられる前に樹から下りた。
 小さな枝がぶつかる音が、いやにうるさかった。


 近くの家の台所の、キィキィとうるさい換気扇から、焼いている秋刀魚の匂いが漏れてくる。
 音もなく夕焼け空に伸びてゆく煙を眺めているうち、おれは無性に駆け出したくなった。
 昔はよく食べたものだ。久しく遠ざかっているうちに、味を忘れてしまった。美味かったことだけが、記憶にある。
 大家とカナエが挨拶を交わしている場面に出くわした。若い娘だから、ことのほか気に掛けているらしい。
 おれは二人の様子を静かに見守っていた。
 カナエは自分の身に迫っている出来事を相談しようと、幾度となく口を開いた。が、間が悪い。そのたびに別の話題に流れていってしまった。
 その一方で、大家も違和感を覚えたか、顔色から読み取ったものがあるようで、カナエが話を切り出すのを待っていた。
 おれはため息の代わりに、威嚇の声を挙げてやった。大家は飛び上がって驚いたし、カナエは口をぱくぱくと開いた。
 決心がついたのか、カナエがついに語り始めた。去るおれの背中に聞こえてきた声は、危険を感じているという内容だった。
 ストーカーがいる。隣町に住んでいたときからあったこと。警察には相談したが、しかし目に見えた被害がほとんど無いから、どうにもならないとのこと。
 断片的に聞こえてきた話は予想通り過ぎた。おれは今度こそため息をついた。


 翌朝、カナエがおれを見つけて、小走りに寄ってきた。いつもと同じように、おれは通り過ぎようとした。
 しかしカナエは手を振っただけだった。
 片手に皿を持っていた。焼きたての秋刀魚が一尾、丸々乗せられていた。おれのために用意したのは、一目で分かった。
 だが、おれは近寄らなかった。
「やっぱり食べてくれないかあ……。大家さんもあなたは食べないって言ってたけど、ちょっと寂しいな」
 仕方ないね、と呟き、そのまま持ち帰ろうとする。カナエは戻る途中で、振り返った。皿をアパートの出入りの邪魔にならない場所に置いた。
「もし良かったら、どうぞ」
 おれに声を掛ける。
「わたしね、また、出て行くことになりそうなんだ。あなたと友達になりたかったけど、……なかなかむずかしいよね」
 おれは静かに相づちを打った。
「にゃ」
「うん?」
「……にゃ」
 秋刀魚に口をつけた。しょっぱかった。カナエはその場で膝を曲げて、おれが食べるあいだ、黙って見ていた。
 時間をかけて食べ終えた。皿から離れる。カナエはその皿を手に取った。何も言うべきことはなかったが、美味かったとだけ伝えることにした。
「にゃあ」
 おれは女の泣き顔が苦手だ。


 おれは動かなかった。日が昇り、雲の彼方へと落ちてゆく。それをただ待っていた。おれの目に映った空は、オレンジ色の闇で満たされている。
 夕闇はやがて燃え尽き、紺青に澄んでゆく。
 太陽は去り、月は雲の裏側に隠れている。星も見えない。吸い込まれそうなほど濃い黒に、空は塗りつぶされた。
 夜が頭上を覆う。おれは息を殺す。身じろぎせず、ただその瞬間を待った。
 アパートの住人も帰宅し、白熱灯の光が消される。カナエも疲れ切っているのか、早々と部屋の明かりを落とした。そして誰もが寝静まったころ、その男は再び現れた。
 距離を取ってアパートの様子を窺っていた。あたりに誰もいないことを確認した。横顔を観察する。瞳の奥が炯々と輝いている。目の中に映り込んでいるのはカナエの部屋だ。
 音を立てないためか、取り出す手間を惜しんだのか、鍵をすでに手に持っている。
 どうやって手に入れたのか。そんなことはどうでも良かった。
 おれは躊躇せず、男の目を狙って飛びかかった。
 男は、当たる寸前に身を翻した。おれの爪は首筋をわずかに掠めただけだった。手応えは無かった。血が滲んだ程度だ。おれは己の失敗を悟った。
 一撃でやれなかった。
 おれと人間の男とでは、体格に差が有りすぎる。不利はこれ以上ないほど分かり切っていた。真正面から立ち向かって、かなうわけがないのだ。
 隠し持っていた刃物が取り出される。何の用途で身につけていたのかは言うまでもないだろう。
 男は少しずつアパートから遠ざかった。道から見えない位置に移動する。
 自身を鼓舞するため、おれは強い叫び声を挙げたが、静寂を破るには足りなかった。
 だが、動く契機にはなった。男がおれの身体目がけて、ナイフを振り下ろした。身をよじり、前に避ける。
 おれは、なんでこんなことをしているのか、自分でも分からないまま、必死に叫んだ。膝を曲げ、男に向かって地を蹴った。


 名前も知らなかった。敵であることだけは分かっていた。
 顔を爪でひっかいた。痛がっている。二度、三度とおれは噛みついた。怖いのは掴まれることと、ナイフが当たることだ。それ以外は考えないようにした。
 何度、噛みつこうとも、男には降参する気配はなかった。最後までやらなければならないようだった。
 近づいて、爪で傷つけて、離れる。
 腹のあたりに鋭い痛みが走った。ナイフにだけ気を取られていたから、もう一方の手で殴られたのだ。しかし、おれは怯んでいられなかった。
 そのときだ。
 やかましい音が突然、響いた。こんな深夜だというのに、場違いな金属音が何度も鳴り響く。
 おれは顔をしかめた。そいつはまるで気にしていなかった。
 ナイフがまたも振り下ろされようというとき、男は驚いたようだった。
 男の目は、おれの背後に向いていた。そこから前ふりなく投げつけられた目覚まし時計が、はるか頭上を通り越して、男の顔面を直撃した。
 叫んだ。うずくまった男へと、まっすぐ向かっていった。
 遠くで音がしていたのを聞いた。不安や警戒を煽る音が、おれの耳にも届いていた。
 闇夜を切り裂いたのは、一条の赤い光だった。土の上には血で染みも出来ていた。おれのものか、男のものかは知らない。
 静寂をうち砕くサイレンの音が近づいてくる。そばには青ざめた男の顔があった。なんでこんなことに。小さく声を漏らしたのをおれは聞いた。
 攻撃を仕掛ける必要もなかった。もう、おれのことを見てはいない。視線が宙をさまよう。何も見ていなかった。体中から力が抜けていた。
 終わったのだと、おれは息を吐いた。
 なにもかもが悪い冗談のような、ふざけた夜だった。にわかに騒がしくなりつつあったアパート前の道路を、そっと抜け出す。誰にも見咎められることはなかった。
 カナエは、そこにいた。他の住人も、大家も、この近くに住んでいるものたちも、騒ぎを気にしてか、みな外に出てきている。
 倒れ伏して何事かをぶつぶつと呟きながら、男は肩を落としていた。気味悪そうに見ながらも、住人たちは、遠巻きに、彼を取り囲んでいる。
 カナエが不安そうにしながらも、近づき、声をかけた。
「あの、大丈夫ですか……?」
 おれと男以外、何が起きていたのかを誰もしっかりとは分かっていなかった。力一杯投げつけた目覚まし時計も、カナエは当たるとは思っていなかったのかもしれない。
 男は、ひっかき傷でぼろぼろになった顔を上げた。だが、一言も喋らなかった。
 警察が到着するまで、そう時間はかからなかった。
 おれは人混みの中へと、さりげなく紛れ込んだ。警官のひとりが大家に話しかける。男に視線をやり、顔をしかめていた。警官が男の腕を掴み、パトカーの中に運んでゆく。
 集まっていたひとたちには明日事情を説明する。そう約束して解散となった。散り散りになって皆が部屋に戻ってゆく。
 なんとはなしに空を仰ぐ。重く、暗い雲の隙間から、月のか細い光が漏れ出していた。


 朝になり、大家が各部屋を回って事情を説明していた。
 カナエが、話しかけようとしてきた。そのタイミングを見計らったかのように、大家と一緒に、中年と、若い男の二人組がカナエに近寄ってくる。
 挨拶もそこそこに、大家から警察だと紹介されていた。
 不安は取り除かれたのだと、彼らの話を聞くにつれて、カナエの顔に理解の色が浮かんだ。
 最後まで聞き届けると、大きく息を吐き出した。
 あの男は洗いざらい供述したそうだ。被害者に詳しい話を聞きたいということだった。
 男は聴取の最中、こう言ったという。
「あの子は、俺なんかにも優しかったんだ」
 しばらく前、駅で倒れそうになっているときにカナエに肩を貸してもらったのだそうだ。誰もが遠巻きにしているのに、カナエだけが近づいてきてくれた。親しくなりたかった。でも、どうしたらいいか分からなかったのだと。
 ずっと謝っていたと、警官は嘆息しながら語った。
 カナエの目に涙が浮かんできた。ぼろぼろと、大粒の雫が頬を滑っていった。


 カナエが落ち着いたところで、年上の警官が世間話を始めた。若い側は手帳に細かく書き込んでいる。
「ところで、さっきのは飼い猫ですか。何というか、妙にかっこいい猫ですな」
「……ああ、飼っているわけじゃないんです。なんというか、色々相談に乗ってもらっていたというか」
「は?」
「いえ、その、友人みたいなものです」
 慌てて、あっちはそう思ってないかもしれないんですけど……と恥ずかしそうに付け加えた。
 中年の警官はああ、と納得した様子で笑った。
「猫ってやつは、こっちが思う以上に賢いですからな。まあ、大切にされるといいでしょう。猫は、悪さをするネズミの一番の天敵とも言いますし……」
 あの男の顔につけられた傷について、彼らは言及しなかった。どうでもいいことだったのだろう。
「では、またお話を伺うことになると思いますが、今日のところはこのくらいで失礼します。ご協力ありがとうございました」
 大家とカナエが笑いながら、話を続けている。
 カナエが申し訳なさそうな顔と、嬉しそうな雰囲気のない交ぜになった表情で、ぺこぺこと頭を下げた。
 どうやら彼女は出て行かなくて済んだらしかった。
 話の区切りに、大家がおれをちらりと盗み見たことに気づく。カナエもつられておれに視線を向けた。
 おれは黙って、カナエの部屋の前まで歩いてゆく。そしてドアの近くに陣取り、丸まった。ここで眠ることにしたのだ。
 カナエが不思議そうにこちらを見つめていたが、おれは、まるで気にしなかった。

(了)
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