「うん、簡単に説明するから聞いていてほしいの。もし……たとえば今、この瞬間、この宇宙全体における粒子全ての状態を知ることができる存在がいるとするなら、きっと未来に起こるあらゆることも計算できることになるだろう。これは、19世紀のフランスの数学者、ラプラスが提唱した理論なの」
 一呼吸。よく手入れされた庭は、数ヶ月前には荒れ果てていたことなど微塵も感じさせないほどに綺麗だった。そよぐ風が運んだか、緑の匂いが鼻に届いた。
「もちろんこれは20世紀になったら量子力学の見地から否定されてしまったけれど、すべてを認識できる能力を持ったその子のことを、ラプラスは悪魔と呼んでいたの。過去と未来は、すべて計算によって知りうる、そんなふうに運命を司っているなら、きっとその存在は悪魔であろう、って」
 ことみは目を伏せて、かるく首を振った。横に。穏やかな表情で。
 庭では草が優しげに揺れている。風が気持ちいい。一人だけの聴衆が、ことみの声を聞いている。純白のテーブルで向かい合ったことみの瞳には映った朋也は、難しいことを考えるのは苦手だとでも言いたげに、肘をついていた。
 そんな朋也を楽しげにのぞき込んで、ことみは続ける。
「悪魔の証明っていう言葉があるの。ものや行為における存在の有無をめぐって、『ない』っていうことを証明するのは非常に困難であるとする考え方で、世界のどこかにはいるのかもしれない。あるのかもしれない。だから、そうやって悪魔の不在は否定されてしまうの。確実な証明手段が無い限り、そんな存在がいるかもしれない、ってことになるの」
 言葉は挟まない。木々の葉がこすれ、木漏れ日と影がまだらに地面に落ちる。
 静かな気配。朝の空気があたりを満たしている。チリンチリンと自転車のベルが鳴った。子供の声が遠くから聞こえてくる。
「でも、もし本当に悪魔がいるとするなら。その子は宇宙の外側にいなきゃいけないことになるの。かみさまであってもそれは同じ。サイコロを振る誰かは、必ず外から見ることの出来る力を持っていなければならないの。そうでなければ、内側にいる誰にも、選択肢を選びうる権利が存在しないことになってしまうから」
「俺は自分の意志で色々なことをやって、決めてきたつもりだけどな……そういうのも運命で決まっていた、ってことになるのか」
「ううん。今いったのは、もし世界がひとつだけであるならば、っていう仮定のお話なの。朋也くんが選んできたものは、世界そのものなの」
 しばらく考える表情が返ってきて、テーブルについたままだった肘が上がる。
 ことみのやわらかい笑みに向き直ってから、自信なさげに朋也は問いかけた。
「じゃあ、世界はひとつじゃないって?」
「そうなの。ラプラスの悪魔はすべてを知っているがゆえに、何も決定することができないの。そもそも知ることによって決定されてしまうこともあるの。存在は、どんな影響も与えずに存在し続けることはできないの。知るということと、選ぶということは別のことだから」
「だんだん頭が混乱してきた……」
「あ。朋也くん、ちょっと待っててほしいの。紅茶を入れてくるから」
「サンキュ」
 家のなかに入ることみの後ろ姿を見送る。夏のまばゆさと、爽快な空気に溶けている陽光が目に入った。大きく深呼吸して、周囲を見回すと往来をどこかに消えていく近所のひとの姿が見受けられた。
 目があったので、一応会釈しておく。人の良さそうな顔で手を振られた。
 どうやら最近、完全にことみの恋人としてあたり一帯では有名になってしまったらしかった。恥ずかしくもあり、照れくさくもあり、どうにも、かすかにではあるが、誇らしくもある。朋也は大きく伸びをした。背筋が軋むような感覚があった。
 ときどきこうして泊まりに来ているわけで。
 半分同棲寸前といった風情なわけで。
 ふたりは彼氏彼女の関係になってからも、あくまで、とりあえずではあるが、そんなに激しいことはやっていない。時間の問題であることは言うまでもないことだが。
 閑話休題。
 ことみがポットを手にして戻ってきた。カップも温めてきたようで、盆にひとセットまるまるで重そうだった。慌てて朋也は庭先まで走り寄って、受け取る。
 テーブルに運ぶと、一息吐いた。
 真ん中に置かれたアップルパイの皮が、どうにも輝いて見える。そういえば朝ご飯を食べていなかった、とふたりで顔を見合わせる。
 くすくすと小さな声がした。どちらからともなく漏れた笑い声だった。
 ひとしきり食べて、飲み終えると、ことみは話の続きを始めた。
 朋也はまた聞く体勢を作る。
「世界のなかにある、いくつもの可能性について、朋也くんは選択することができるの」
「俺だけがってわけじゃないだろ」
「そう、他の誰もが様々な可能性を選択するなかで、あらゆる事象はそれ単体では存在してはいないの。人間もそう。動物も、植物もそう。原子や、素粒子も同じように、すべては繋がってできているの。音があって、空気が振動して、風になって、世界を駆けめぐって……朋也くんと私もそうなの。私たちが可能性を試しながら生きているように、杏ちゃんも、椋ちゃんも、渚ちゃんも同じ。他の存在すべてもこの宇宙という世界のなかで、ひとつの流れを作り出しているの」
「でも、世界はひとつじゃないんだろ」
「うん。幾百、幾千、幾憶の星々みたいに、どんなに似ていても世界はひとつひとつ、別に存在しているの。ときには重なり合うこともあるけれど、それは過去であったり、未来であったりして、誰かの見た夢のなかかもしれないし、私たちが知らないどこかかもしれなくて……でも。星空をじっと見たなら、きっとそれ単体だけでは語ることができないんだって、ちゃんと分かると思うの」
 今は青空。見上げたそこは雲一つ無い晴天が広がっているばかりだ。
 夏の日射しが少々強くなってきたと感じ、朋也は黙って屋内に向かった。一分も経たないうちに戻ってきて、ことみに麦わら帽子を手渡す。
 ありがとう、とことみは受け取って被った。横目で見ると縁側に置いておいたくまのぬいぐるみも、いつの間にか日陰に入っている。
「どんなに遠く離れていても?」
「距離も、時間も、いつかはたどり着けるから大丈夫なの」
「それにしても自信満々だな。根拠はあるのか」
 朋也は息を吐く。
 ことみは、そんな朋也に笑いかける。
「だって、私たちはひとりじゃないの。ひとりじゃないから、世界はこんなにも素敵なの。太陽の光が月や、色々な星に反射して輝くみたいに。世界は一本の透明な弦だから、綺麗な音が響けば、きっと他の世界にも届いてくれるの」
「ん? 他の世界って?」
「たとえば……たとえば、朋也くんがいま、ここにいないような世界」
「考えたくないな、それは」
「ううん。大丈夫なの。その世界でも、朋也くんは優しいの。そして、朋也くんはちゃんと誰かを幸せにしているの」
「おいおい。その場合、俺が優しくない世界もあるだろ」
「それは……絶対に、ないの」
「どうして?」
「信じてるから、大丈夫なの」
 理屈になっていないことを胸を張って語ることみに、朋也は口元をゆるめた。
 ことみは首を傾げて、朋也の次の言葉を待ってみる。
「そこはセオリー通りに行けば、愛してるから、とかじゃないのかっ」
「うん。だから、朋也くんのことを信じてるの」
 最も大切なことを、ことみは知っていたから。
 風が吹いた。
 世界中を巡って、ふたりの元までやってきたような。
 そんな気持ちいいくらいの強風が、麦わら帽子を吹き飛ばす。
 反射的にことみが手を伸ばした。立ち上がって朋也が手を伸ばした。ふたりの両手は少し及ばず、宙を舞いながら離れていったその帽子は、くまのぬいぐるみの手に引っかかる。
 何事も、出逢いは偶然からかもしれないけれど。
 世界はこんなふうに優しくて、こんなにも美しいのだ。
 風のいたずらに苦笑している朋也に向けて、

「――すべては信じることから始まるの」

 そういうと、ことみはにっこり微笑んだ。


 (了)



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