ラストソング



 私は何を手に入れて、何を失ったんだろうか。
 頭がぼーっとする。ぬくい炬燵に肩まで入り込んで、取り留めもなくそんなことを考えている。
 夢うつつな時間、この微睡みに浸っていられるのはきっと幸せなんだろうって少し思う。うつらうつら。ぼんやり。見る気もないのにテレビが付けっぱなしになっている。誰か知り合いが出るからと思ってリモコンを手に取り、その番組のテレビ局に合わせたまでは良かったのだけれど、あんまり面白くなくてそのまま寝入ってしまったようだ。
 帰ってきてからどれくらい時間が過ぎたんだろう。よく分からない。時計の音はテレビから聞こえてくる騒がしい笑い声にかき消される。本当ならずっと鳴り続けているはずの秒針のカチ、コチ、という小さな音。それは耳に届く前に、どこか手の届かない場所に消えてゆく。
 一秒ごとに次のカチコチ。私の耳が捉えなかったら、あってもなくても変わらない音。
 私がいなくても音は鳴り続けるだろう。時計というのは見ていなくても動くからこそ、意味があるのだから。
 そういえばこんな言葉があった。諺だったか詩だったか。ひとが見ているときにだけ働くもの、ひとが見ていないときだけに働くもの。どちらも泥棒であると。
 言い得て妙だ。だけどそれはとても正しい。正しいと思うのに、そんなことを考えている自分の頭が不思議だ。どこからそんな風に思考が飛躍してしまったんだろう。
 唐突に、音もなくこたつ布団が持ち上げられて、ひゅううと冬らしい風が入り込む。
 文句を言おうと意識がちょっとだけはっきりする。あるいは寒さのせいかもしれない。
 するっと入ってきて。
 ピタ。
 冷たい。
「ひゃっ」
「わ!」
 足だ。当たり前だけれど。顔を見るまでもなく相手は分かる。
「冬弥君。私の足に触りたいなら、次からはもう少しあったまってからにしてくれる?」
「ごめん理奈ちゃん」
 まあ、気づかなかったんだろうけど。
 おかげで、すっかり眠気が覚めてしまった。このどちらでもない時間を手放さないでいたい、という儚い希望はあっさりと終わりを告げた。
 ひとのゆめ。
 それは本当に儚いんだろうか。と、なんとはなしに考える。さっきの益体もない考えが頭を離れてくれないらしい。何かを手に入れること。何かを失うこと。
 そこにはどんな繋がりもない。
「で、どこ行ってたの?」
「いや、前にさ、英二さんがくれるって言ってたお酒。取りに来いって言われたんで行ってきたんだ」
「もしかしなくても、ウイスキー?」
「そ。理奈ちゃんも好きだって聞いたから」
「ふうん」
「飲む?」
「まだ早いわよ。いくら今日は暇だからって」
 息を吐いて、失ってしまったものについて考える。あるいは、手に入らなかったもの。きっと最初から望むべきではなかったことさえ、この手に掴めると思っていたあのころ。
 想像する。私たちにはそれが許されている。あるいは動物にも同じようなことは可能なのかもしれないが、人間ほど顕著ではないだろう。幸福な未来だとか、夢だとか、自分がそうあるべき姿を想像する。
 その一方で、自分がそうなりたくない姿までも想像できてしまう。
 頭の中だけで作られた身勝手な妄想で疑ったり、思い込みで傷ついたり、痛みを覚える。その痛みには意味も無ければ、価値もない。ただそうだろうと思ったから、そうなったという結果であるに過ぎない。
 もう一度息を吐き出す。寒さからではなく、ため息だ。
「……やっぱり飲む」
「じゃあ、グラスは用意するよ」
「お願い」
 冬弥君が少し笑った。見当違いの理由で私の心変わりを「想像」したのかもしれないし、案外私の内心の機微ってやつを理解してくれているのかも知れない。自分の心さえ分からないのに、ひとの心なんて分かるわけもない。
 だから私たちは勝手に想像する。
 自分の都合の良いように。それから、想像を現実のものに変えようとする。言葉や行動を後付の根拠にして。
 私は、冬弥君が私のことを好いていると考える。冬弥君は、私が冬弥君のことが好きだと考える。好かれて嫌なひとはあまりいない。どちらが先かはあまり関係がない。好きになられたら、好きになる。好きになったから、好きになってもらえる。まるでかみ合った歯車だ。好き勝手に動き回って、自分とかみ合うまでぐるぐると彷徨い続ける歯車。
「ありがとう」
 ホットウイスキーにしてくれたらしい。確かに外の寒さはかなり厳しいから、温めるのも悪くない。炬燵でぬくぬくしてた身としては、ちょっと悪いかなあという気分にもなる。
 まあいいか。
 口を付ける。飲む前に鼻に届いた香りは、なかなかに華やかだ。これを初めて飲んだのは、兄さんが飲まないからとくれたお歳暮に入っていたものだったろうか。
 脈絡もなくそんな話をして、冬弥君と兄さんの性格について議論を交わす。一応擁護側に回ってくれる冬弥君は優しいというよりは、兄さんを怖がっているんだろうなと想像させる。やっぱり一発殴られていると違うらしい。逆に私が殴ってショック療法、というのはどうだろう。考えてみただけだけど。
 冬弥君がツマミを作ってくると言って台所に向かった。私はさっきから全然動いていなくて、グラスを両手で持ってほっこりしている。このままではダメなひとっぽいのだけど、どうにも今日は動く気になれない。何か足が炬燵に食べられてしまったみたいだ。
 炬燵の魔力についてはさておいて、ふと幸福のことにまで考えが及んでしまう。
 幸せってなんだっけ。
 よく覚えていない。スポットライトの下で歌っていたときには、分かっていたんだろうか。
 今になって忘れてしまったのか。初めから知らなかったのか。私にはもうその区別も付かないのだ。
「お待たせ」
 冬弥君が戻ってきたとき、私は炬燵の天板に顔をぴったりとくっつけていた。我ながらなんとだらけているのだろうと驚きだ。
「んー」
 冬弥君は見なかったことにしたらしい。華麗なスルーだ。私としても期待していた木製のひんやり感が無かったため、続けているのが馬鹿らしくなってきた。
「チーズだけど、食べる?」
「いただきます」
 ツッコミ待ち。
「で、蜜柑もあるけど」
「それはあとで」
「晩ご飯はどうしよう」
「あとでー」
 ああ、これがあのトップアイドルだった緒方理奈であろうか。見る影もない。と、追っかけのファンでもいたら泣きそうな顔で言われるんじゃなかろうかと想像してしまう。
 もう緒方理奈はいないのだ。
 と、いやいやちゃんとスタイルは維持しているし、なんだかんだでボイストレーニングその他のレッスンも続けてはいるのだけれど。
 未練がましいと、自分でも思う。今更アイドルでもない。最近の芸能界には、戻るだけの価値があるようにも思えない。その証拠に、兄さんは事務所を完全に人任せにして、別の趣味に奔走しているようだ。今も面白い場所だと感じているのなら、決してそんなことはしない。何をしているんだかは知らないし、知りたいとも思わないのだけど、数年後に東京湾に浮かんでいる、なんてことにならなければいいとは思う。あのひとは恨みを引き受けすぎるきらいがある。ほどほどにしておけばいいのに。
 由綺はトップアイドルになって、数年後、絶頂期に芸能界をいきなり引退してしまった。伝説的な、いわゆる「永遠のアイドル」になりかけたのだが、なにぶん近くに私という困った前例がいたために、半分伝説、といった具合の扱いになっている。
 ああ、それでか。兄さんの扱いが、売れるとアイドルが引退する芸能事務所社長、というありがたくない存在になったのは。
 なかなか微笑ましいことである。
 含み笑いをしていると、冬弥君が顔を覗き込んでくる。鼻が近い。
「元気?」
「うん」
「風邪気味でしょ、理奈ちゃん」
「ねえ冬弥君」
「なに」
「ちゃん付け止めてって、私、前に言ったわよね」
「そうだったかな」
「そうよ」
 名字が変わるときに。
「でも理奈ちゃん、俺のことはずっと君付けでしょ」
「それはいいの」
「なんで」
 むー、と頬を膨らませて、
「なんでも!」
 とちょっと怒って答えてみる。冬弥君は参りましたと笑った。酔いが回ってきているらしい。頭がぼーっとする。顔が熱い。
「……あのさ。理奈ちゃん」
「なに」
「また、歌いたい?」
 言葉を失った。
 どうして冬弥君が、そんなふうに聞くのかと。運命の足音が聞こえてくる。いつの間にかテレビは消していた。カチコチと秒針の刻まれる音に混じって、分針が少し大きくカチリと動く音。
 やけに響き渡る心臓の音。
 静けさが、ふたりぶんの沈黙を、大きくする。
 アイドルとは言葉通りに偶像だ。ひとがイメージ――想像をその対象に投影するための装置だ。私たちは想像させるために歌い、想像させるために動く。私という存在を通して、あなたという誰かの想像に具体性を与える。
 ライトの下に出来る影。
 それがアイドルの正体だ。中身なんて本当は関係ない。外側の、輪郭だけをなぞったって、きっと同じものができあがる。輝きを作るためには太陽である必要なんてない。反射させるだけの綺羅を纏うなり、鏡を身につけていれば、ごまかせてしまう。
 息が詰まる。
 いや。胸が。
 息苦しくなって、冬弥君の顔をじっと見て、見つめる。
「英二さんがさ、言ったんだ。理奈ちゃんがやりたいのなら、舞台は用意するって。今度はアイドルとしてじゃなく、ただの歌手として。世界を舞台に、戦うための場所を作ってくれるって」
 幸福とは何だっただろう。
 くだらないプライド。つまらない人生。奪い取った恋の記憶。
 あるいはすくいきれないほど粉々になった夢のかけら。
 そういったものの残滓。掴み損ねてしまった何もかもの、ほんのひとつまみの穏やかさ。
 私は。
 今度は何を失い、何を手に入れるんだろうか。
 誰かの歌声が聞こえる。 
 想像してごらん。
 凶弾に倒れたジョン・レノン。
 歌で世界は変わらない。誰も彼もが知っている。歌っているだけで幸福なんてことはない。だけど幸せに歌うことはできる。
 想像なんて、しなくてもいい。
 きっと何かを失ってゆく。ありもしない痛みにおびえて、手に入りもしないものに憧れて、そうやって少しずつ、今の平穏と引き替えに栄光を勝ち取るだろう。
 私は何かを得るために、今握りしめたこの手を離すことになるかもしれない。
 あの日、由綺から奪い取ったときのように。
 私もまた誰かに奪われてしまうかも知れない。不安になってしまう。きっと昔なら、こんな日々を知らなかった私ならば、何も考えずにその天へと通じる階段を駆け上ろうとしたはずだ。
「冬弥君は、どう思う?」
「理奈ちゃんがしたいようにすればいいと思う」
「思った通りの答えね」
「でも」
 少しトゲのある言葉を返したのに、冬弥君が、優しく言う。
「え……?」
「俺は、歌っているときの理奈ちゃんも好きだよ」
 呼吸。
 足の先にじんわりと触れるあたたかな体温。冬弥君がそこにいる。変わってしまったこと。変わらなかったもの。手に入れたもの。失ったもの。それらすべてが、私を変えた。
 しばし目を瞑り、ゆっくりと自分に問いかける。
 私は、私であり続けられるだろうか。
 藤井理奈として、戻ってこられるだろうか。
 決めた。
 私は告げる。心のままに。
「冬弥君」
「うん。じゃあ、英二さんには伝えておく」
「……まだ答えてないわよ」
「そうだね」
 炬燵を挟んで、見つめ合う。
 想像する。この日々がずっと続くことを。それはとても容易かった。だけど簡単であるからといって、それだけを選ぶのは難しかった。
 そして私たちは、些細な幸せを見つけた子供のように、二人して顔を見合わせて、いつまでもいつまでも笑い続けたのだった。 

 (了)


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