始業式から数日が過ぎて、波乱も無いままに時間が流れていく。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 春の柔らかい光が降り注ぎ、空気は冷え冷えとしている。内側に喧噪と静寂を取り混ぜたような校舎から、真美は出ていった。
 淡い緑の木々の隙間をすり抜けると、楽しげな歓声が遠くから聞こえたり、慌ただしい足音が脇を通ったり、真美と同じ新入生のお喋りが耳に届いたりした。
 さてと、どうしよう。
 新入生の放課後は、どうやら部活動の選択でみな忙しいようだった。何もやりたいものがない以上、もちろん帰宅部を選ぶのが真美にとっては正しい選択である。
 中等部にいたころも、やりたい部活は特になかった。体力には自信がない。運動部は端から諦めていた。嫌でもどこかに所属しなければならなかったから、適当に文芸部あたりを選んでいた記憶が蘇る。その部活も決して嫌いではなかったが、熱心とはいえない部員だった。
 クラブハウスの方向に目を向けてみた。コンクリートの建物の上には、鮮やかなスカイブルーが広がっていた。澄んだ空気に、立ち止まって息を吸い込む。
 何度も、笑顔で歩く生徒の姿ばかりが視界を横切った。みな生き生きとしていて、その顔は希望に満ちている。
 そんな陰のない表情を見てしまうと、なんだか悔しくて、情けなかった。なによりも、もどかしかった。
 知らず力が入ってしまい、手元でくしゃりと音が鳴る。はっと気づいて握りしめた手を開くと、しわだらけになった校内新聞があった。持っていたことすら、今のいままですっかり失念していた。
 教室から出て、昇降口近くの靴箱で、帰り際に配られていたものを受け取ったのだ。
 すなわち、新聞部発行のリリアンかわら版である。
 全ての部活紹介が載っていて、その部の特徴やら部長のコメントやらが、紙面をびっしりと埋め尽くしている。演劇部に写真部にテニス部に茶道部に剣道部に……
 見るのも一巡し終えた。だからといってさしたる感慨はなかった。入らないと決めた部活ばかりが載っているのだから、単なる確認作業である。多少気になることがあって、二巡目、三巡目と注意深く読んでいく。
 が、やっぱりなかった。
 真美は、ここに来てようやく、中等部にはなくて、高等部にだけ存在する部活の存在に初めて気づいたが、何故か記事には見つからない。目を皿のようにして四巡目を始めた瞬間、紙に影が差した。
 くしゃくしゃなリリアンかわら版から顔を上げると、そこにいたのは上級生だ。リリアンでは意外に珍しい、ポニーテールの、気の強そうな、カーディガンを肩にかけたまま鬼のような形相をしている人物であった。
 真美は少し怖かったけれど、動揺をわざわざ顔には出すようなことはしない。視線の先は真美の手にあるものだ。不意に、彼女は相好を崩した。
「ごきげんよう。何かご用ですか」
「ええ、ごきげんよう。あの、そんなに熱心に記事を読んでどうなさったのかしら」
「いえ、ミスがあるような気がして」
 真美は、目の前の人物にそんなことをさらっと答えてしまった。笑顔が凍り付いているように見えるのは、きっと気のせいなんかじゃなかった。
「ミス、ですって」
 硬直した原因はその単語が耳に届いた瞬間だろう。
「どこに、かしら」
「あの、この部活紹介には新聞部が載ってなくて」
「――あ……、だから今年は新入部員が全然こな――じゃなくて」
 とまで声を漏らしてしまってから、眼前の女性はごほんと誤魔化すように咳払い。
「いいえ、これは……その……新聞部の紹介はこのリリアンかわら版そのもの、ってことなのよ!」
 力説されてしまった。かえって嘘くさい。
「でも」
「新聞部の部長が言うのだから間違いないわ」
 真美は、やっぱり嘘だな、と確信した。
 それから耳にした言葉をオウムのように繰り返す。
「新聞部の部長」
「……ええ、築山三奈子と言うの。あなた、お名前は?」
「山口真美です」
 真美は答えてから数秒後、しまったと思った。三奈子が、にやりと笑ったのを見たからである。嫌な予感というのは、かなり高い確率で当たるものだ。
「――ねえ、あなた」
「嫌です」
「……そ、即答しなくても」
「無理なお願いごとでなければ聞きます」
 む、と腰に手を当てて考え込む三奈子。上手い説得の言葉を探していたようが、結局はストレートな言い方をしてきた。
「新聞部に入らない?」
「一日、考えさせてください」
「……普通は、ちょっと迷ってから考える時間を欲しがるものなんだけどね」
 苦笑いして言われてしまい、真美はそれもそうですね、と答えた。
 答えを引き延ばすための返答だった。しかし、そういった種類の返答を即答されたのは初めてだったようだ。唖然とした表情。それから油断したことを恥じるようにポーカーフェイスを無理矢理作った。
 一部始終を真美は鼻先で見ていたわけで、だからもう遅いのだが。
 ゆるゆると言葉を紡ぐ。
「さっきは部室がどこにあるのか、探していたんですけれど」
「それじゃあ」
 三奈子は、ぱぁっと顔を輝かせた。真美は「でも」と先に三奈子が言おうとした台詞を遮った。
「少し、出鼻をくじかれてしまったので、入部は考え直させてください」
 真美はその原因であるところの人物に対して、まっすぐに理由を告げる。
 三奈子の方も、さきほどのやりとりを忘れていなかったようだ。刹那、目が泳いだ。なのに間をあけることなく微笑んだ。内心、気にくわない下級生だと思っていることだろう。
「ふふふ、真美さんたら、お冗談が上手ね」
 新入部員に飢えているのは間違いなかった。そうでなければ、こめかみにうっすらと青筋が浮かんでいるというのにこうも自制しないはず。予想するに、新聞部の部員があまりに少ないとか、もしくはどんなに多くても人手が足りないとか。
 実のところ、この時点で真美の気持ちは決まっていた。そのうえで三奈子の表情を観察しながら、笑顔で言葉を付け加えるだけにとどめた。
 子供じみた嫌がらせみたいだ、と真美は自覚してはいたが、止めるつもりは起きない。
「いえ、まぎれもなく本音です、三奈子さま」
「……そ、そう」
「では、ごきげんよう」
 言い返せなかった三奈子に頭を下げて、振り返った。背中に受けた視線も気にせず、前に向かって歩き出す。
 不作法な新入生を気取るつもりはなかった。ほんの少しだけ、冷静さの仮面が崩れていたのだ。それは真美にとって新鮮で、驚くべきことだった。

 ――たとえば中等部から上がってきた生徒であったなら、高等部に存在する姉妹の誓いに夢見ることは、そう珍しいことではなかった。むしろ大半がそうだといえる。
 中等部の学舎、その一階の通路は大勢の生徒が通り抜けていく場所だ。
 廊下の掲示板には、週に一度、新聞部発行のリリアンかわら版が貼られ、まだ見ぬ高等部の情報を逐次仕入れることができるようになっていた。数枚の写真からも窺えるその華やかさ。記事の端々から覗ける輝かしい世界。
 上級生たちの麗しきお姿に思いを馳せて、ため息を漏らすこともしばしば。
 リリアン女学園は、他の学校に比べればわりあいに閉鎖的な環境である。幼稚舎から一貫して教育を受けてきた生徒にとって、学園内にある変化など些細なことでしかない。
 とはいえ箱庭で育つ彼女たちにも――いや、だからこそ好奇心というものが肥大する。なまじ真っ直ぐな道があるために、うわさ話などは大きな楽しみのひとつになる。
 ドラマチックなできごとの中心に来るのは、やはり個性に恵まれた人物ばかりだ。話題に上る一握りの生徒たち。彼女たちの活躍を目にしては胸を躍らせながら、何の疑問も無くマリア様のお膝元で過ごしていく日常。たとえ平凡な自分とは無関係な輝きでも、遠巻きに見ることによって、平和な日々に満足することができる。
 そういった中心から外れた、いわゆる平均的な生徒のなかにも、やはり変わり者はいるものなのだ。例を挙げればキリがない。単純な意味合いでも、複雑な見方にしても、環境の有無に関わらず、適宜、多岐に渡る人材というものは育つものらしい。
 その変わり者のひとり。
 山口真美は、几帳面な性格で、しっかりものであった。
 人当たりも悪くない。積極性という観点で見れば、まあそれなり、といったところ。どちらかと言えば地味。普段の生活で派手な行動を起こしたことは今までなかったし、これからも無いだろう。少なくとも中等部のころからの友人たちが認識する限りにおいては、それは間違いないことだった。
 つまり、真美は、いつでも隙がなかった。
(たぶん、私は冷めているんでしょうね)
 その事実を真美は自覚している。何かに夢中で打ち込むこともこれまでなかった。別に器用貧乏というわけではないけれど、何かに心酔したり、熱中したりといった感覚がよく分からないのである。
 今までがあまりに恵まれていたおかげかもしれない。そんなふうにも思う。自分に欠けているものも分からないくらいに。自分が持っているものも知らないくらいに。求めているものなんて、真美はほとんど考えたことがなかった。
 思い返せば、くだらない時間を過ごしてきたものだと気づく。
 たぶん、本気で怒ることもしてこなかった。だって先が見通せてしまうから。割に合わないことはしない。深い部分に干渉すれば、気まずさとか、虚しさとか、嫌な気分ばかりがわき上がるものだと知っていた。
 本気で怒ったらだめだ。ふざけて、適当に流して、今までの通りに過ごせばいい。関心など持たなくていい。傷つく必要なんて無い。本気でつきあうこともなくていい。何も知らないまま幸せに過ごせたならそれでいい。だって、そのほうが楽なんだから。
 いつでも冷静でいるとは、そういうことなのだ。それも完璧ではないから、そんな自分にもひび割れが生まれる。虚しさが漏れだすのは当然のことだった。それでも別に良かった。学校生活を平和に過ごす分には、何ら問題はないのだ。
 高等部の華やかな世界を、そこにいる人々を、アイドルのように感じて、熱中するというのは苦手だ。興味はあっても、陶酔したりはしないのが真美だった。
 そんな彼女も、高等部の校舎を目にしてからは、どうにもそわそわして落ち着きがない。
 居るべき場所が無いことに今更のように気づいたのである。中等部のころならば苦もなく探り当てていた、静かで、居心地の良い空間はもう見あたらない。
 何もせずに感じられていた小さな満足。
 勝手に流れていく時間を意識せずに過ごせる幼さ。
 それすらもどこかへ行ってしまった。何かしなければ。それだけが思考を空回りさせる。けれどどこに手を伸ばせばいいのかが分からずに、真美はぼんやりとしていた。
 高等部に入って、山百合会の面々に懸想できる友人たちが、ひどく羨ましくなった。真美にはできないことだ。そういった欲求は湧いてこない。
 よく考えてみれば、姉妹という関係にも、それほど憧れを憶えなかった。
 これから先、お姉さまと呼べるような相手が、果たして自分にはいるのだろうか――現実を見据えた疑問が、生まれた。いっそ疑惑と言っても良い。自分に対するものと、リリアンの高等部という環境に対するものへの、ふたつの疑いだった。
 どうでもいいと思っている人間では、必要以上の好意には応えられない。
 つかず離れずのような関係性。
 孤独でいてもかまわないと思えってくれる相手。
 溺愛されるような人物を相手にしても、真美では妹は勤まらない。愛情というのは、一方向では意味がない。自分と相手、その双方が与え合うものだ。少なくとも、真美はそう考えた。
 だからだろうか。ある種の退屈が真美の周囲で漂っている。
 なんとなくつまらない。なんにもないことがつまらない。何かやっていたいという焦燥があるのに、何もやりたいことがない。
 小さな虚無感が、胸に染みとなって広がっていった。埋めるための何かを探して、突き動かされるように校舎を見上げる。
 夕陽に赤々と照らされた学舎の窓には、未だ教室に残って騒いでいる同級生たちがいた。彼女たちが話している内容など聞かなくても分かった。入る部活をどうしようとか、山百合会の幹部の話題とか、そんなことに決まっているのだ。真美も気にならないわけじゃない。だけど何かが違うのだ。真美がやりたいことは、もっと――
 何かが、じりじりと胸の裡で焦げ付くようだった。
 本当の自分は、冷静なんかではないのだ。
 真美は自覚をかき消すために、くちびるを噛んで否定した。実際に隙が無い人間であったなら、こんなふうに思い悩むことはないではないか。
 何か小さなことでいい。変わるきっかけを見つけたなら、多少強引にでも付いていってやろう。
 真美は、意地を張るのが好きだった。やっかいな性質だとは自分でも理解しているが、今更それを直すつもりもない。運動能力はからっきしでも、根性には自信があった。そして気力は体力をときに凌駕するのだ。
 意思は、貫き通してこそ意味があると信じていた。
 七三に分けた髪を弄びながら、真美は高等部の校舎から目を離した。振り返り、マリア像に視線を向けた。
 奇跡とか、縁とか、そういうものを頭から否定したくなかった。だって本当にあったら、それはきっと嬉しいことだから。
 なにせここはリリアン女学園なのだ。マリア様の思し召しくらい、期待しても罰はあたるまい。
 新学期が始まってもう数日が経ったのに、ぜんぜん楽しくなくて。だから、このままこうしているつもりはまるでなかった。これだと思うものがあれば、なんでもよかった。
 ただ、出逢いが欲しかった。
 だからこの邂逅こそは、きっと望んでいたものだった。


 新聞部の朝は早い。
 特に三奈子の朝は、下手な運動部の人間よりもよほど早い。
 西に新事実が浮かび上がれば朝ご飯を摂ることも忘れて、食らいつくように記事にする。東に山百合会が親睦のために会合を開けば、薔薇さま方に表から裏から交渉して記事にする。南に何も事件が無ければ、数日張り込んでうわさ話を集めて記事にする。
 記事は自ら転がり込んではこないのだ。三百六十五日、一日一歩、二日で三歩、とにかく歩いて走ってかけずり回って、幸せを探しに行くのが必要なのだ。
 幸せというのはもちろん、衝撃的なスクープのこと。
 新聞部はリリアンにとってなくてはならない存在――とは三奈子の弁である。面白い記事を書くことと、徹底的な取材をすることにかけて、現在の新聞部で三奈子の右に出るものはいなかった。
 部員の誰もがスクープを求めて取材する記者の役回りを負う。そして現在のところ自分が最も実力のある人材であるという自負が、三奈子にはあった。
 部長が代替わりしてから、新聞部の活動が活発になったことは事実なのである。その最も顕著な例は、山百合会への熱烈な取材活動にあった。強引と言い換えてもいい。
 先代までが気後れしてしまっていた薔薇の館の人々たちにも、三奈子は恐れることなく挑んでいく。
 ロサ・キネンシスが好意的に受け入れてくれるから、多少の無茶も利くようになったこともある。ともあれ、三奈子が部長になって以降、リリアンかわら版の記事に、山百合会についての内容が多くなったのは確かだ。
 そして、リリアンかわら版は生徒たちにとても喜ばれているのだ。目覚ましい活躍は読者の求める情報を提供できている。一部の生徒には煙たがられてでも、新聞部のエースとして素晴らしい実績を収めている。
 三奈子は遠慮も躊躇も臆面さえ無く、胸を張って語ることが出来た。
 読者のニーズに応えてこそ新聞は華。
 そう、三奈子は新聞部の極めて優秀な部長であり、編集長であり、記者なのだ。
 だから面白そうな人材の電話番号は暗記しているし、取材メモには部活動、クラスの主要人物などの情報がびっしりぎっしり隙間もなく書き込まれている。
 あちこちをかけずり回って、頼み込んで、泣き落として、多種多様な手段を使って手にしたこれらの情報は、すべて記事を形にするために必要で。さらに付け加えるなら三奈子の好奇心のためには欠かせない。
 知りたかった。そして皆に教えたかった。
 素晴らしい記事を生み出すためなら、たとえ火のなか、水のなか、ついでとばかりの薔薇の館のなかさえも。
 三奈子のリリアンかわら版にかけてきた時間を糧にして、当然の如く生まれたものたち。すなわち完璧な記事!
 最高のインタビュー! 何より早い情報! そして誤謬無き真実をここに!
 すべてはリリアンかわら版に注ぎ込まれる情熱と共にあった。
 そんな三奈子の朝といえど、自然に眠気が消えるわけではない。
 寝ぼけ眼をこすりながら、机の上で作業を続ける。どれほど校正に気を遣っても、そう簡単に誤字も脱字も消えてくれない。
 虱を潰すには、虱潰しにするしかないように。誤字や脱字を修正するためには、一文字一文字きっちり見ていかなくてはならないのだ。
 今朝のうちに、記事の最終チェックを終わらせたかった。なにせ今週は、これからが期待できる新入生への突撃取材がわんさか溜まっている。
 特に、野球でいえばドラフト会議で全球団から指名されそうな人材が大勢いるのだ。監督は山百合会の幹部だろうか。とにかく、彼女たちの情報はとっくに集まっている。三奈子としても、彼女たちのインタビューは喉から手が出るほど欲しかった。
 たとえばその人柄から振る舞いから、すでに衆目を集め出している藤堂志摩子。ロサ・フェティダ・アン・ブウトンと親しいという島津由乃。おそらく山百合会と深く関わるであろう彼女たちとは、早々にコンタクトをとらねばならない。
 読者が読みたいのは、知りたいのは、彼女たちのようなスターなのだから。
 だからせっせと記事を書くのである。なにはともあれ事件の渦中、話題の中心は常に彼女たちが先頭を切ることになるのだ。三奈子はそう確信している。
 同じように朝から顔を出していた部員のひとりなど、目に隈を作ってまで今週のリリアンかわら版を完成させようと躍起になっている。
 休みも返上して必死の作業。この時期を過ぎればしばらくは大きな行事もないし、それなら根性入れてこの記事を増ページで、というのが新聞部員、全員一致の意見だった。いま部室にいるのは作業が残っている二年生の三奈子と佳也子の二名だけだ。
 先代の部長を始めとして、三年生たちは基本的にもう手を出さない。別に手を出しても誰も文句は言わないし、物好きな三年生は卒業するまで頻繁に顔を出すのだが、やはり大学受験などで忙しくなる以上、部活ばかりに力を入れているわけにもいかない。
 しかし、この時期は人手が足らないことが分かっているので、例外的に放課後などは善意で手伝ってくれるのが慣習だ。三年生は当然ながら仕事が早い。すでに作業の残りは二年生の担当分のみになってしまっていた。
 ちなみに昨日、真美に指摘された部分は今週の埋め草として、半ページ使って大々的に載せることにした。気取られないように無駄に豪華にしておいた。
(あの新入生、やっぱり来ないかしらね)
 三奈子はペンをあごに当てながら、ぼんやりと天井を見上げた。かぶりを振って、すぐさま机に向かった。
 春といえど朝は寒くて、指先と、文字が小さく震えた。さきほどまで行っていたチェックとは別に、ちびちび書き始めた記事だった。しばらく黙々と文字を連ねていく。あとでワープロで打ち直すから、いくらか雑な書き方で大急ぎ。
 背後では小型の印刷機とデスクとその他の機器のせいで狭苦しい部室。がたんごとんとプリンタがやかましい音を立てている。
 振り返ればどこにでも紙が散乱しているし、ゴミ箱にはねじこまれたレポート用紙がいつしか積もって山と化している。そもそも部屋が魔窟と呼んでも差し支えない状況で、なのに誰も紙くずを拾う様子はなかった。
 どこに置いても同じことだと悟って――もとい、開き直っているのかもしれない。
 慣れない人間が踏み込めば、あっという間に埋もれそうだ。掃除する手間暇があるなら、その手と労力を記事につぎ込め、といったところなのだろう。猫の手も借りたい。新入部員は喉から手が出るほど欲しい。おまけに手練手管で部員を集めたい。
 無意識のうちに、中空に三奈子の手が伸びていた。当然、そこには何もない。
 何もなかったのだが、
「あの、新聞部の部長さんはいらっしゃいますか」
 ドアの向こうから、あまり抑揚のない声が掛けられた。部員で三奈子の同級生、佳也子は怪訝そうな顔をするが、三奈子には聞き覚えがあった。
 真美だ。
 なぜか間違いないと思った。昨日、ちょっと話しただけなのに。
「今忙しいから勝手に入って」
「はい」
 真美は躊躇せずに足を踏み入れてきた。へえ、と三奈子は関心してしまう。この部室に来ても驚かないなんて、相当肝が据わっている。
 薔薇の館とは対照的に、雑多で足の踏み場もないこの部室。もっと簡素な言葉にすると、汚い部屋なのだが。
 現場で揉まれたこともないお嬢様育ちには、なかなか入るには険しい場所のはずなのだ。三奈子の内部で、真美の評価が上方に修正された。
「ごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう。何かご用?」
「ごきげんよう、ええと、初めまして、よね?」
 三奈子と佳也子で、交互に声を掛ける。すると真美は、ふたつの質問への返答の意図で首を縦に振った。
「それで用は」
「入部届けを出しに来ました」
「そのようね」
 至急の文章の校正作業は終わっていたから、三奈子は多少余裕ができていた。まだ三十分くらいは時間がある。休憩も兼ねて、話してみることにした。
「あなた、姉はいる?」
 げほげほっ。三奈子の背中で、佳也子がお茶を吹いた。咳き込んでいる。
「騒がしいわよ、佳也子さん。あなたが動揺するようなことじゃないでしょ」
「そうですけれど……どうしましょう」
「何か言いたいことがあるなら、どうぞ」
「……なんでもないですわよ。まあ、私が口を出すことでもありませんから」
 佳也子も自分の作業が終わったので休憩していたらしいが、三奈子が真美に向けて、これから何を言うのかに気づいたらしかった。やはり新聞部の記者として鍛えられた洞察力は、しっかりと備わっているのだ。まったくもって勘のいいことである。
「いえ、いませんが」
 何のことか分からないだろうに、真美からはさらりと回答が帰ってきた。
「それはラッキーだったわ」
「部長」
 佳也子が呼び方を変えて、三奈子を窘めようとした。顔には苦笑が浮かんでいた。
「あ、佳也子さん、お茶をくださる?」
 三奈子がにやり、と笑みを返すと、佳也子は困ったようにポットに向かった。言っても聞かないことを悟ったのだ。部室の奥のほうに消える。間もなく来客用のカップを手に戻ってきた。真美は渡されて、どうも、と頭を下げた。
「そのへんに勝手に座りなさいな」
「はい」
 頷いて作業用の机の前で、椅子に座った。
「私はなんだかおじゃま虫みたいね。しばらく作業引き継いでやってますわ」
 佳也子が申し出てくれたので、記事の方をありがたく任せてしまった。それから真美に正面から話しかける。
「入部動機は?」
「楽しそうだったからです」
「……嘘ね」
 きらん、と三奈子は目を光らせた。嘘と、とりあえず決めつけて。
「本当の理由は?」
「いえ、本当なんですけど」
「嘘よ」
「本当です」
 はぁ、とため息を吐いて、真美に向かって手をのばす。三奈子が見つめて、何か言おうとする。真美は見上げて、その途端、ゆっくりと肩を掴まれた。
「分かったわ、ええと……山口真美さんだったわね。――この際、もし万が一、あり得ないと思うけれど、そういうことが億に一つ、兆に一つの奇跡のように起こったと仮定しましょう」
 三奈子の目は、笑っていなかった。
 休憩に入った途端、気が緩んで、ネジが一本外れたらしい。
「でも嘘ね?」
 目の前では、三奈子が凄絶な笑みを浮かべている。真美は逃れようとしてみるが、肩に食い込んだ指はがっちり固定されていて、当分は動きそうになかった。
「……あの」
「ええ、大丈夫よ。私は怒ったりしませんから。おそらくあなたは、私の生命を狙った暗殺者とか、もしくは我が新聞部の秘密を探り出そうとするスパイね? そうなのね? やっぱりそうだったのね? ええ、分かってます。分かっていますとも。ここ最近の活動がちょっと過激だからってそんな私に嫉妬して送り込まれたのね? こんな部室に躊躇無く踏み込んできたことも証拠よ。そう、そうに決まっているわ」
 真美はどうしたものかと、別の方向に顔を向けることにした。
 無関係なフリをして黙ったまま作業している佳也子がそこにいた。資料を片づけている最中だったし、止めてくれる気もないようだった。
 流暢にも、絶え間なく生まれ続ける三奈子の疑心暗鬼を完全に聞き流して、真美は佳也子に問いかける。
「……この方、いつもこうなんですか?」
 演説はまだ続いている。
「まあ、いつもってわけじゃないわ。ただ、部長もここんとこ疲れが溜まってるから、落ち着くまで待ってちょうだい。ええと、真美さん? ごめんなさいね。あと三奈子さん、あまり一年生を弄ぶのはよくないんじゃないかしら」
「それもそうね」
 佳也子はフォローに回る役らしかった。でも今にも逃げだそうとしていることを、真美は見逃さない。面倒なことになりそうだったが、どうにかする手段も思い浮かばない。
 嫌な予感がした。
 その通りになった。
「――にならない?」
「は?」
 三奈子も落ち着いてきたらしく、トーンを落とした声が聞こえた。
「聞いてる?」
「すみません。よく聞こえませんでした」
 真美の目を見て、はっきりと言う。どこまでが本気で、どこからが冗談なのか。
 今までの暴走はわざとなのか。真美にはよく分からない。
「じゃあ、もう一回言ってあげるわ。入部を許可します。それであなた、ついでに妹にならない?」
 分からないが、三奈子に圧倒されていたのは確かだ。さすがに思考が停止して、真美はのろのろと首を戻した。
「えっと、三奈子さま?」
「ついでに、私の妹にならない?」
 繰り返された。それは重要なことではなかろうか。というか、こんなにあっさりと提案されることじゃない気がする。思考停止からようやく抜け出して口を開いた瞬間、三奈子は真美の言葉を遮るようにして続けてきた。
 もう佳也子はドアから抜け出していた。
 真美は取り残されて、部室に三奈子とふたりきり。逃げられもしないし、そもそも逃げるつもりなど毛頭なかった。
「考えておいて」
「理由は」
 問いを紡ぎながらも、真美にはもう答えの予想が付いていた。よく聞く一目惚れとか、三奈子が考えているのは、そういうものじゃないなんて分かり切っていた。
 姉妹になるために必要なことなんて、それほど多くはない。姉になろうという意思と、妹としてロザリオを受け取る意思。このふたつで十分なのだ。
 断ることも、受け入れることも、真美の意思次第でどうにでもなる。実際に断った妹というのは、真美も今までほとんど聞いたことがなかったが、不可能ではないのだ。
 そして目の前にいる三奈子の性格が、どうしてだか、手に取るように理解できた。
 これから告げられるだろう言葉が、真美の頭のなかに自然と浮かんだ。
 投げかける言葉とは裏腹の、穏やかな三奈子の笑顔。ああ、このひとはこんな顔もできるんだ。真美は顔に出さないように笑った。
 なんだか楽しくて、心のなかだけで、笑った。
「理由はね――戦力になりそうだったからよ」
 まるで容赦のないそんな答えは、真美が考えていた以上に気持ちのいい返答だった。
 考える暇を与えてもらったが、昨日の放課後とは違って、真美はあっさりと答えを返した。決めるとか、迷うとか、受けるとか、そういうことは考える必要などなかった。
 断ることはたやすかった。真美はこれでも、意地は張り通すほうなのだから。
 けれど、こくり、と真美は頷いた。
 逆に三奈子の方が驚いてしまったようだった。
「あ、あら……本当に?」
 勢いで言ってしまったことに真面目に返されたみたいな、狐につままれたような顔。そう、たとえるなら玉砕覚悟の告白をOKされた少年のような表情だった。
「三奈子さまは、疑り深いんですね」
「いえ、まさかこうもすんなり行かれてしまうと、私としても心の準備が」
「自分で仰っておいて今更『やっぱりやめた』とかは無しでお願いしたいものです」
「……ぐ」
「三奈子さま、覚悟を決められまして?」
 真美は、そんなふうに問いかける。うっ、とたじろぐ三奈子。
「え、ええ」
「なら、決まり」
「そういえばまだ言ってなかったけど、新聞部はものすごく大変よ」
「大丈夫です。がんばりますから」
 脅しをかけるような声色にも、涼しい顔で答えを投げ返す。真美の嫌がる顔が見たかったらしくて、三奈子は矢継ぎ早に言葉を添えた。
「ふふん、本当に大丈夫かしら。予想してるよりもずっと時間をとられるから、学園生活のほとんどを部活に捧げる覚悟はあるのか、って聞いてるのよ」
「ええ、もちろんです、お姉さま」
 そう呼ばれた瞬間、三奈子は不思議そうな顔をした。一瞬遅れて自分のことだと気づき、動揺を隠そうと声を荒げた。
「ロザリオは今、渡すわね」
「私は、放課後でもかまわないのですが」
「今渡すと決めたのよ」
「今知ったのですが、お姉さまはものすごく強引です」
「それがこの新聞部部長、築山三奈子の取り柄だもの」
「分かりました。ではこれから、ご指導ご鞭撻のほど、どうかよろしくお願いします」
「それじゃあ、真美」
 制服の内側に手を入れて、三奈子はチェーンを外した。
 今のいままで作業していたせいか、インクで黒く汚れた手で、銀色に輝く小さなロザリオを取り出した。首にかけられるのではなかった。
 ゆっくりと差し出されるのを、真美はじっと見つめていた。
 汚れるのはかまわなかった。
 だから真美は静かに手を伸ばす。繋がった瞬間、三奈子の手は、ほんの少し冷たかった。軽く握りしめると、同じくらいの力で握り返されて。
 離れたとき、真美の手のひらにロザリオが置かれた。
 姉妹の儀式というより、信頼を誓った握手にも似ていた。なのに姉から妹へ受け継いでいくものも、そこには含まれている。
 言葉が聞こえた。見上げた顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
 そのときこそ、空っぽだった真美の胸の中に、何か熱いものが生まれた瞬間だった。

「新聞部へようこそ、真美」




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