真美は思った。
 没原稿をくしゃくしゃにして頭を抱えるのは新聞部員の宿命のようなものである。
 宿命だと言い切れないのが悲しかった。
 たったいま紙屑と化した元原稿から目をそらすために、かるく視線を上げる。
 隣の写真部と新聞部を遮る壁がよく見えた。安普請というわけでもないのだろうが、やけに薄い。ここで声を張り上げるような真似はしてはいけないと三奈子が主張するので、基本的に小声でしゃべることになっている。基本的には。
 当人がノリノリだったりすると原則なんて無いのと同じだ。話し合っているうちにエスカレートすると、三奈子が自然と大声になることがあるから、あまり意味はない。
 明文化されているわけでもないため、文句を言われる筋合いもなかった。ただ、真美は規則を守るタイプであるから、黙って作業している。
 鉛筆のコツコツという音や、ボールペンのインクが出なくて紙に押しつけてぐりぐりしている動作、原稿が進まなくて暴れそうになっている部員を他の部員が止める姿などは、ある種、新聞部の名物であるかもしれない。
 今日締め切りの担当分が白紙なら、まあ、確かにそうしたくなる気持ちも分からなくもない。少なくとも、真美は入部して初めて見た光景だった。
 引きずられてどこかへと消えていくのは慣習なのだろうか。連行する側が黒服だったら笑えたのに。というのが真美の感想なのだが。
(――って、もしかして退出する、させるフリしてサボったんじゃ……)
 はっと気づいたが、影も形も見えなかった。戻ってくるのはいつになるやら。
 兎にも角にも、室内は静かだった。詰まっているときというのは、静けさでさえ気に障るものだ。真美は声に出さずに唸っていた。
 休憩を兼ねて作業を中断する。今日までのことに思いを馳せることにした。三十分ほど同じ体勢でいただけなのに、なぜこんなに疲れているのやらさっぱりだった。
 だからこの行為は、俗に言う現実逃避である。
 真美が新聞部に入部してから、すでに二週間の時が流れていた。
 中等部のころと比べると、やはり勝手が違うことが多々ある。いちいち挙げるのはキリがないが、予想が外れるのは意外にも楽しい。
 良い悪いは別として、大きく想像と異なっていたことがあった。それは、姉妹がそれほど始終べたべたしているわけではない、ということだ。真美が知らないだけで、これはその姉妹ごとでまるで違うのかもしれない。
 島津由乃のことを例に挙げれば分かりやすいだろうか。由乃は高校の入学式を休んでしまったが、自宅で寝ているところに、支倉令がロザリオを握らせたそうである。
 一週間ほど前に行った取材の際、ロサ・フェティダ・アン・ブゥトンは、穏やかに、その様子を粛々と語られたのであった。
 内容から真美が察するところ、それはそれは微笑ましいエピソードである。派手さには欠けるであろうが、情景の美しさでこれに勝る話はそうは無い。
 三奈子の手によって、記事はこんなふうに書かれていた――なんと素敵な姉妹の儀式であろうか。これこそまさに想いが通じ合っているからこそ、そのような形でやったのだ――とかなんとか。
 過分な誇張が混じっているかもしれないが、大筋はそんなところだった。
 由乃が風邪を引いたとのことで、取材当日は欠席していた。そのため令のインタビュー内容のみを参考に、三奈子が記事に書き起こしたのである。美談に過ぎる気はしたが、彼女たちのイメージはぴったりだ。特に問題はあるまい、と部員一同の総意で決定された。
 ロサ・フェティダは、そのブゥトンからプティ・スールに至るまで安泰。こんなフレーズを最初に言い出したのは誰だっただろう。真美もそのことに異論はなかったが、同級生にあたる由乃を見ていると、いささか違和感を覚えなくもない。
 外から見る限り、理想的な姉妹に見える彼女たち。
 支倉令と島津由乃のような姉妹の姿が、リリアンで一般的なのかどうか、そこまでは分からない。分からないが、他の生徒から姉妹についての様々な話を聞くにつけ、自分たちは少し違う、と真美は思うのだ。それが良いとか悪いとか、そういうことではない。
 姉妹という形とは微妙に異なるのではないか。三奈子と真美にとっては自然な関係とは何なのであろうか。ロザリオを受け取って以来、真美はとりとめもなく思考を続けていた。
 新聞部の活動を始めてから、強く実感したことがある。
 何をするにも時間が足りない。部室で記事を書いているだけで、いつの間にか外は暗くなっていて。あれやこれやと考えを巡らせているうち、家に帰らなければならなくなる。
 気持ち次第で時間の速度は変化するというけれど、まさにその通りの現象だった。
 楽しいひとときほど、一瞬に思える。
 時期がらなものもあって、毎日欠かさず、他の部員たちと顔を突きつけ合わせてああでもない、こうでもないと言い合っている昨今。部長である三奈子が作業しているときに、妹が何もしないわけにはいかない。そうなると、作業量がだんだんと増えていく。
 作業が増えれば慣れるのもそれなりに早い。
 慣れれば先輩と負担を分散できるようになる。
 このような経緯のうちに、真美は二年生と同じ仕事をこなすようになってしまった。
 誰に言われたわけでもない。単なる役割分担の結果であった。
 高等部に上がってから時間も経っていないのだし、いくらなんでも、いきなり即戦力とはいかないのが実情であろう、と真美は思う。思うのだが。
 考えているうち、はたと我に返った。作業を再開する。
「佳也子さま、この構成はこれで良いのでしょうか」
「問題無しですわね。それより真美さん、ここはこんな感じでどうかしら」
「ええと、もう少し表現を和らげたほうがいいと思います。佳也子さまの取材内容だと、この方が見栄えしますし」
「そ、そう?」
「はい」
「やっぱり頼りになりますわぁ」
 真美としては、まだ仕事覚えるだけで精一杯、なつもりだった。――のだが、二年生の部員にはすでに一人前扱いされていて、少し困ってしまう。聞きに行った先で必ず意見を求められるというのもどうなのか。
「真美さん真美さん、この内容は」
「先生方の許可が欲しいところです。ええと、とりあえず部長の指示を仰いでからのがよろしいでしょうね」
「分かりましたっ」
 一週間前に入部した、他の一年生にまで頼られている始末。たかが一週間違うだけ……のはず。それなのに、現実はこうなのだ。
 机に戻っていく同級生の姿に、はたと思い至る。時計を見る。真美は近くにいた先輩へと問いを投げかけた。
「あの、うちのお姉さまはもう取材に出かけたでしょうか?」
「……はてな。知香さん、三奈子さん今日見た?」
「えっと、部長はホームルーム終わってすぐ、今年の演劇部の活動方針を聞きに行かれたんじゃなかったかしらね」
「あの、演劇部に向かったんですね?」
「そうだけど……どうなさったの? 真美さんたら、そんな怖い顔して」
「はあ」
「何か言いにくいこと? 気にせず仰いなさいな」
 それでは、と真美ははっきりくっきり喋った。
「お姉さまは本日の四時に、ロサ・キネンシスに取材の約束を取り付けてあったはずなのですけれど」
 唐突に、静寂が新聞部部室内を隅から隅まで凍り付かせた。
 どうやら他の部員たちも、この会話に聞き耳を立てていたらしかった。そうでなければ、いきなり全員の動きが止まるなどとは考えられない。
 盗み聞きは新聞部員が意図せず会得しているスキルであった。主に三奈子が得意としているのは有名である。
「……」
「……」
「たったいま、ものすごく不穏で危険な発言が耳を通り抜けていったような気がするのですけれど、できればもう一度、仰っていただけないかしら」
 嫌な沈黙の中で、知香がなんとか勇気を振り絞って聞いた。
 返ってきた真美の答えは、全く同じ言葉だった。
 できれば聞きたくなかった、と真美以外は後悔した。聞いてしまった知香も含めて、そう思わずにはいられなかった。
「お姉さまは本日の四時に、ロサ・キネンシスに取材の約束を取り付けてあったはずなのですけれど」
 真美は律儀に繰り返した。数秒、先輩たちは沈黙していた。
 世の中、知らずに済めば幸せで済んだこともある。
 この場合、聞かなきゃ良かったと、全員一致の表情は、分かりやすいことこの上ない。
「……ろ、ろさ、きねんしすに?」
 震える声で一年生が聞き返してきた。
「はい、薔薇の館で」
「蓉子さま、とですって?」
 不安な声で二年生がつぶやいた。独り言のようだったが、真美は答えた。
「はい、今日の放課後。四時なので、あと十五分ほどで約束の時間です」
「真美さん、ど、どどど、どうしましょう」
「――急いでお連れする以外にはないように思いますが」
 先輩方は焦った。
 山百合会の幹部を相手に、三奈子さまがドタキャンなんてしてしまったなら、それはまさしく新聞部存亡の危機である。実際にはそこまでいかないと分かっていても、薔薇さまを怒らせるようなことがあってはならなかった。
 山百合会の幹部が、それもロサ・キネンシスが直々に取材に応じてくれるというのだ。こんなチャンスはそうそうこない。
 不思議と薔薇の館には近寄りがたい迫力があるし、大きなイベントはここしばらくはないのだ。この時期にはのどから手が出るほど欲しい取材の機会。
 まさに砂漠に投げ入れられた水の入ったペットボトル。干からびそうな現状では、これほど潤うものもない。
 なのに、あの編集長はどうしてこういうタイミングで、こんな大ポカをしてしまうのか。真美は頭を抱える代わりに、足早に歩き出した。振り返って固まっている四人に頼む。
「部長を急いで連れ戻してきますので、何かあったら誤魔化しておいていただけません?」
「何か、って」
「間に合わなかった場合、ロサ・キネンシスがお怒りになられるかもしれません」
 そんなことはまずありえないだろうけど、と真美は思うのだが。
 一年生の部員たちはおびえている。
 二年生の部員たちは、聞かなかったことにしようと目をそらしている。露骨に耳をふさいでいる者もいた。
 都合の悪いことは見聞きしなかったことにする。これは、新聞部員が上手く活用すると三奈子のようになれる素敵スキルその二であった。
 この場合、まったく無意味なのだが。
「真美さん、は、早く部長をお連れしてっ」
 想像するだにおそろしかったようで、部室にいた三名の先輩は蒼白な顔になっていた。怒らせてはまずい方と正確に認識しているせいだった。
 一年生は、現実逃避のためにせっせと仕事に向かうことにしていた。
 着手しているのは、ロサ・キネンシスへのインタビューが失敗に終わった場合を想定した、穴埋め記事の作成である。ある意味では最も正解の選択肢なのかもしれなかった。失敗を予定している以上、方向性はこの上なく間違っているのだが。
 真美はすでにドアまで移動していたから、一応、振り返って皆を見る。
「それじゃ、いってきます」
「――いってらっしゃいませ」
 と、二年生の部員は全員、火打ち石でも持ってきそうな勢いでお見送りしてくれた。
 仕事しろよ、と真美はほんのちょっぴり、先輩共を睨んだ。

 お見送りの効果があったのかどうか。
 演劇部の部室ではなくて一瞬焦ったが、体育館で見つかった。
 他の場所でなくて、本当に良かった。出てきた瞬間の三奈子を、どうにか捕まえることが出来たのは僥倖。すれ違いにでもなっていたらと思うと、さしもの真美も安心を隠せない。
 その喜びを表すよりもやることがある。三奈子に近寄った。
「失礼します」
 勝手に三奈子の手を掴んで、真美は歩き出す。
 当然、妹にこんな真似をされた三奈子は、むっとした顔になる。真美は足を止めない。
「真美、いきなりどうしたのよ」
「今日の放課後に予定していた、取材の約束をお忘れではありませんか」
「取材? 取材って……あ」
 完璧に失念していたようで、さぁぁっと顔から血の気が引いていく三奈子。真美は呆れるでも怒るでもなく、ただ前を見た。静かな口調で姉に告げる。
「お姉さまは、一度何かに集中すると、他のことがおろそかになるように思います」
「う」
 と、小さくうめいて黙り込んでしまう。二週間も一緒にいるのだから、真美にだって三奈子のことが少なからず理解できてきたのだ。
 反論が返ってこなかったところを考えると、自身でも分かっていたに違いない。姉が気分を害しただろうと分かってはいたが、真美は続けた。
「フォローはしますが、もう少しお気を付けください」
 詰まるところ、真美は三奈子のことを真美なりに心配しているのである。情熱があるのは分かるが、行き過ぎてしまうこともありうる。大きな失敗をする前に、できれば自分で軌道修正をかけてくれるのが一番いい。
 必要が無くなって、真美はゆっくりと手を離した。涼しい風が、少し汗ばんだ手のひらを撫でていった。歩みをゆるめると、三奈子は速度を合わせて、真美の横に並んだ。
「お姉さま?」
「……まったくもう、しっかりしすぎの妹ね」
 肩をすくめて、苦笑い。
「まあ、それでこそ選んだかいがあるのだし、最初から分かっていたつもりだったけど――あなたって本当に遠慮が無いわね。まったく可愛くないったらありゃしない」
「はい」
 即答で返した。
「お姉さまが、こういうのを望んでおられるのかと思いまして」
「真美らしいわ」
 不意に、三奈子の歩く速度が変わった。置いて行かれそうになって、真美も足を速める。
 もうすぐ薔薇の館が見えてくるはずだった。時間は大丈夫だろうか。校舎に掛かった時計を見上げようとした瞬間、三奈子に手を強く握りしめられる。
 その手の感触に、真美の心は弾んだ。そんなふうに感じるなんて思いも寄らなかった。でもそういうこともあるのだろう、と真美は黙って握り返す。
「時間が無いみたいね。急ぐわよ」
 さきほどのお返しとばかりに、いきなりだった。放心しかけていた真美は、抵抗するまもなく、ぐいっと引っ張られた。
「――はい」
 走り出した三奈子の隣りで、真美も必死に足を動かした。約束の時間に間に合わせなければならないとはいえ、運動が苦手な真美にはたいした距離でなくとも、なかなかに大変だった。
 薔薇の館の入り口につくと、どちらからともなく手を離す。その場で息を整えていると、玄関の扉が開いた。出てきたのはロサ・キネンシスだった。笑顔で告げられる。
「ようこそ、三奈子さん」
「は、はい。あの……遅れてしまったでしょうか?」
「いえ、約束の時刻丁度よ」
 もうそんなに時間が経っていたのかと、真美はひとりで驚いてしまう。三奈子といえば、ほっと胸をなで下ろしていたところだった。ポニーテールが一緒に上下した。
 約束したのは三奈子だけだし、真美にはロサ・キネンシスに面識があるわけでもない。姉が紹介しなかった以上、中に入らないことにした。分を弁え、見送りだけにとどめる真美。
 案内されて、三奈子は館へと入っていく。
 真美と三奈子のあいだには、一本の線があった。見えない線が。
 時の流れるのは本当に早いもので、特に、楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。真美には今までの会話が一瞬に感じられた。でも、たった一瞬では足りないとも思った。
 自分たちのような姉妹では、こんなふうに手を繋ぐ機会はそうは無い。でも、自分から線を踏み越えてまで、それを言う気にならない。
 だから。
 扉が閉まる直前。姉の背中に向けて、真美はそっとつぶやいてみる。
 決して聞こえないように、扉の閉じる音にかき消されるくらい小さく。――もう少し、手を握っていたかった、なんて。




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