「――というわけで、黄薔薇さまの恋は現在もつつがなく進行中である。我がリリアン女学園高等部の学校新聞『リリアンかわら版』はこの号外にて、前号掲載の小説『イエローローズ』における騒動の顛末を記すものである」
 ひとつのスクープがあった。三年生たちはもうすぐ卒業を控え、日々を和やかに、あるいは慌ただしく過ごしているころ。
 ロサ・カニーナの事件では、蟹名静嬢に衆目のほとんどを完璧に奪われたと言って良い。話題の中心を持って行かれたのだ。ヴァレンタイン企画はかなり盛り上がったが、新聞部としてはまだ不満が残る。追跡取材もそれなり、といったところだった。
 つまり、このころは派手な出来事がまるで無かったのである。
 そんなときに手に入れた情報から派生したこの騒動。
 それが事実なのか、それとも何らかの見間違いなのか。部員たちと三奈子が、数個の目撃情報を得て、なんとか組み立てた推理により、ひとつの小説が制作された。
 執筆者は築山三奈子。この小説、イエローローズは、見事リリアンかわら版に掲載される運びとなった。噂は噂を呼び、話題はリリアン女学園高等部の噂を一息で塗り替えた。
 真美は小説を書くことに反対したが、それを三奈子は押し切ったのだった。
 その結末がこれだった。三奈子の目論見は、完全に失敗したのである。
「……とまあ、こんな感じでよろしいでしょうか。お姉さま、チェックだけお願いします」
 三奈子の手によって書かれた小説の経緯と、ことの顛末、更に読者へのお詫びを加えたものを、たったいま真美が書き終えたところだ。
 小説イエローローズではないが、ドキュメンタリー風にしてあるのは、三奈子が前回やってしまったことをうち消すために気を遣ってくれたのだ――などと、三奈子自身が思ってしまったのは、真美に対していささか幻想を抱きすぎているのだろうか。
 三奈子はこの号外に関わるわけにはいかなかった。
 ロサ・フェティダこと、鳥居江利子が夜間に兄弟とデートしていたことから、学園長室でプロポーズするに至るまで。三奈子が書いた記事もどきからは、かけ離れた結果だった。推測と事実は、まるで違うものだったのだから。
「――いいと思うわ。真美、お疲れさま」
 ひどく落ち込んだ声だった。それはそうだろう。部長権限で押し通した結果が、あんなことになったのだ。
 三奈子でなくとも、打ちのめされるのは当然のことだった。そもそも三奈子以外、誰もあのようなことはやらないとはいえ。
 憶測で記事は書いてはならない。それは、原則だ。この原則が守られていない記事には、真実は期待できないのだ。
 だから、と小説という手段を使った三奈子に生まれたのは満足感などではなく、苦々しい後悔の念だった。結局、何事もなかったから良かったようなものの、あのまま学園側がデートクラブ云々といった内容と信じ込んでしまったなら。
 事態が大きくなった際は興奮で薄れていた罪悪感。事実を突きつけられた今になって、三奈子に巻き付いて、きつく締め付けていた。
 三奈子にしたって、何もロサ・フェティダに迷惑をかけたかったわけではない。しかし面白おかしく囃し立てることを、無責任な手段で、自分勝手な考えで、極めて性質の悪い心根で行った。三奈子の心情がどうあれ、その事実が変わるわけではなかった。
 ペンは剣より強いと言われるほどに、その影響力は強い。そもそも読者を騙したようなものだ。それに気づいた三奈子は、自分で自分を責めていた。
 止められなかった? ――いいや、自分が正しいと思っていたから。
 何のために? ――読者のために。
 それは、本当だろうか? ――その答えは出てこなかった。
「正しければいいってもんじゃないって、分かってたのに」
「お姉さま」
「読者のせいにしちゃ、いけなかったのに」
 なんという傲慢さだろう。自分が情けなかった。泣きたいほど、嫌になった。黄薔薇革命のときとはわけが違う。やってしまったことも、それに対しての気持ちも。
 三奈子は、自分から騙そうとしたのだ。
 憶測でしかないと分かった上で、それが正しいと確証もないのに信じ込んで、欺くために小説として書いたのだ。誰かが傷つくかなど考えもせずに。読者を偽ったのだ。
 なんのためにスクープを追い求めていたのだろう。真実を読者に提供して喜んで貰うためではないか。自ら今までの努力を全て否定するような行為を、やってしまったのだ。
 なんて愚かなことを。少し考えれば分かることなのに。あまりに馬鹿馬鹿しいく、笑いすら零れてきそうだった。三奈子が今までやってきたことのツケが、こうして巡り巡って回ってきただけのことだ。何もかも自業自得なのだ。
 みんなは止めてくれていたのに。ちゃんと、制止してくれたのに。真美だって、こんな記事にするべきではないと忠告してくれていたのに。
 誰のせいでもない。すべて三奈子ただひとりの責任だった。その結果がこれだ。
 記事のふりをしたこの小説を書いている高揚感で、部員たちの不安げな顔にもまるで気づかなかった。
 でも、そんなことは全部、言い訳なのだ。
 分かっている。
 分かっているけれど。
 書いている最中、あんなに孤独だったではないか。胸の詰まるような息苦しさで、心臓は早鐘を打つようだった。その動悸を誤魔化すために一心に文章を綴っていたのではなかったか。自分すら偽って書いていたのではないか。
 そんなことは、分かっていた。
 分かっていたのに。
「あーあ、本当、馬鹿みたいなことしちゃったわ……」
 三奈子は、自嘲せずにはいられなかった。毒の混じった声に、真美は何も言わず三奈子を見つめた。
 いつだって、三奈子は自信満々だったのだ。落ち込んだ三奈子に、部員たちは掛ける言葉など見あたらなかった。誰より責めているのが三奈子自身なのだから、誰にも、どうにもできなかった。
 行くところもなくて、三奈子は新聞部の部室でぼんやりとしていた。ただ、真美だけが寄り添うように、隣りで黙って記事を書いていた。
 窓から覗く景色は秋から冬の色へと変わっていた。空は曇っていて、青もどこかくすんで見えた。
 さきほど記事を書き終えた真美が、顔を伏せて黙り込んでいる三奈子を、じっと見つめている。きっと周りからクレームでも来ているのかもしれなくて、真美は文句のひとつも言いたいのだろう。
 周囲の人間にまで三奈子の気分が移るから止めてほしい、とか。落ち込むならさっさと家に帰るなり、外に行くなり、とにかく部室にいないでほしい、とか。しかし、三奈子の知る真美ならば、そんなことを思っているならさっさと言うはずだった。
 三奈子は自分の思考が悪い方へ、悪い方へと傾いていることに気づいた。自虐的になっている自分も気にくわなかったし、こういうときに黙っている真美に苛立ちをぶつけたくなって、なんとか自制する。そこまで落ちぶれてはいないと自分に言い聞かせて我慢する。
 そして突如、疑念が、三奈子の胸の奥の深い部分から湧きだした。ひとたび吹き出れば、その想いは、三奈子を支配するほどに強いものだった。
 今まで、自分はちゃんと読者のことを考えていただろうか? 一年前のロサ・ギガンティアの噂のときだって、梢に止められなければ同じようなことをしようとはしていなかったか? いったい何のために記事を書いている? 自分は、どんな記事が書きたかったのだ?
 いっそ他人から糾弾されるよりも鋭い、自らの内部に凝った暗い澱を見たことで生まれた自責の念。これこそは、断罪の声だった。
 消せない汚れのごとく、胸の底に溜まった濁り水。水面をのぞき込めば、映り込んだ顔は霞み、歪んでいる。
 ガラスの檻の如く、黒曜石の暗く透明な柵が、三奈子を思考の闇に閉じこめていた。
 後悔。
 みっともなく泣いてしまいたかった。ため息も漏らす気力さえ尽きていた。黙ったまま石になりたい。何もしたくない。
 三奈子は考えることを止めたかった。けれど、思考が止まることはなかった。
 今の自分は、どれほどひどい顔をしているのか。鏡を見たくないほど、悲惨なことになっていることだろう。きっと、ブサイクなことこの上ないに違いなかった。
 よろめきながら立ち上がって、三奈子は短く告げた。リリアンかわら版を、早いうちに届けなければならない。
「薔薇の館に行ってくるわ。これでいいかどうか聞いてくる。よければすぐにプリントアウトするかから、真美、できれば用意しておいてくれる?」
「……はい」
 声が沈んでいる、と三奈子は思った。果たして三奈子と真美の、どちらがより悲壮な声だったのか。それすらもよく分からなかったけれど。
 ただ、靄がかった目の前の暗さだけが、三奈子の憂鬱を映し出している。


 ドアを抜ければ、三奈子はひとりっきりになる。
 眩暈がした。
 足下が揺れていた。こんなにも落ち込んだのは、たぶん初めてのことだった。大スクープを取り逃がしたときの悔しさとも、単なる取材ミスで記事がガタガタになった情けなさとも違う、最悪の気分。
 空気の冷たさが不快だ。時間が胸の痛みを加速させていく。
 身動きするたび、喉から溢れそうになる苛立ち。
 何がどう悪かったのか。明確に分かっていることがひとつの救いであり、より一層自分を責めたくなる理由でもあった。
 孤独に押しつぶされそうだった。クラブハウスの入り口を抜け、ふらつく足を真っ直ぐに薔薇の館へと向ける。動きが鈍かった。足が鉛で出来ているような、という形容が当てはまる重さ。
 際限なく暗い感情が積もっていく。わけもなく叫びたくなる。振り返っても、整然とそびえ立ったクラブハウスは崩れたりしないし、三奈子の過去が消えることもありえなかった。
 校舎の隣りを歩いて、昼休みを楽しげに過ごす生徒たちの声を聞く。下を向いたまま進んでいった。顔を上げる気にはならなかった。前を見ることすら面倒だった。
 どれほど歩いただろうか。気が重い。ずっしりと背中から押しつけられているようだ。まだ着かないのか、と三奈子は思ったが、時間にしたら十分も歩いていなかった。
 いつもは気が付けば知らないうちに到着しているほど近い距離のはず。館までの距離が、やけに遠かった。ふと気づくと、真っ直ぐ歩いていたつもりが、歪んだ曲線を描いている。真美の書いた原稿のコピーを手にしたままで、校門の方向へと逸れていたのだ。
 いっそこのまま出ていってしまおうか。
 三奈子が思いついた瞬間、靄が広がっていた視界の足下だけが、急激にぱぁっとクリアになった。わざわざそこだけが選ばれたように、目に入る。
 上履きを履いたままでは、帰ってしまうこともできない。
 みじめ過ぎる。
 顔を上げた。マリア像がいつも通りにそこにあった。穏やかな顔をした聖母に見つめられているうち、三奈子は顔を背けそうになって、こらえた。
 祈ろう。たとえ届かなくとも。
 三奈子は目を瞑り、静かに祈りを捧げた。リリアンに通う全ての人間が敬虔であるとは言い難いが、それでも皆、毎朝しっかりと手を合わせている。
 無論、三奈子も例外ではない。この行為で赦されるなどとは思わないが、それでも優しく見守られているという感覚は、形の無い不安を少し軽くしてくれた。
 これほど熱心に祈ったことは初めてかも知れなかった。
 祈るのを止めた。前を見て、薔薇の館へと足を向ける。
 しっかりと目的地を見据えて歩けば、あっという間に着いてしまう。きっと、たどり着くことを避けていたのだ。三奈子は自分を鼓舞しようとしたが、盛り上がるような言葉が頭の中からは、すんなり出てこなかった。
 扉の前で立ちすくむ。恐れることなどない。そんなことは分かっているけれど。
 二階の人影を見上げたまま、三奈子は動けなくなった。普段なら理由がありさえすれば、堂々と入り込んでいる場所だというのに。
 三奈子は、館の前でうろうろとさまよっていた。躊躇しては決死の表情になって、扉の前に立っては離れて。そんな間抜けなことを何度か繰り返して、立ち止まる。
 息を吸い込んだ。
「ご、ごめんください」
 ようやく言葉が出た。張り上げるつもりだったのに、出たのは弱々しい声だった。
 扉が内側から開かれる直前だったから、聞こえたのかどうかはよく分からない。出てきたのは祐巳だった。
 おや、という顔になってから、祐巳の笑みが正しく向けられた。
 三奈子はどもった。普段の不遜は見る影もない。
「こ、これをロサ・フェティダに見ていただきたくて、持ってきたのだけれど」
「あ……はい。リリアンかわら版の号外ですね」
「第一稿だけど、これでよろしければそのままプリントアウトするわ。よろしいかどうか、伺っていただける?」
「分かりました。ロサ・フェティダに伝えておきます」
「よろしくお願いします……あ、祐巳さん」
「え。あ、なんでしょうか、三奈子さま」
「山百合会の方々に、ご迷惑おかけしました。ごめんなさい。それじゃっ――」
 頭を下げて、三奈子は逃げるように背中を向けた。
 原稿を受け取った祐巳の視線は決して責めるものではなかったけれど、でも、だからこそ逆に三奈子には辛かったのだ。
「あの、ごきげんよう」
 背中に掛かった祐巳の声に、三奈子は逡巡して、振り返った。
「……ごきげんよう」
 それだけ告げて、祐巳の顔も見ず、部室に戻るために歩き出した。
 今から部室に行っても、すぐ昼休みは終わってしまうだろう。もう真美があそこにいる必要はない。だとしても、三奈子は部室へと向かった。
 道のりは来たときと同じ。原稿を渡したことで、微妙に気が楽になったのか、三奈子の時間の感覚は元に戻っていた。苦しさは、いとも簡単に増殖していく。
 忘却も出来そうにない。 
 あっという間に着いた。足早に玄関口から中へと。
 薔薇の館のような古さとは違うが、クラブハウスの建物にも年月を経て作られた色というものがある。コンクリートに覆われた外見に比べ、内部は意外にも人間味に溢れているのだ。
 クラブごと荷物が廊下に飛び出ていたり、連絡用の掲示板が大量にあったりする。
 部室周辺となると特徴がはっきり分かれていて、場所によっては一目で活動内容が分かる場所も多い。
 過去の新聞部は、常時、雑多な荷物に埋もれている部室だった。紙束や機材、没原稿を投げ捨てた際にゴミ箱に入り損ねた紙屑の山など、数え上げればきりがない。真美が入部してからは、整理整頓が週に数回、確実に実行されていた。
 現在は、以前とは比べ物にならないほど綺麗な室内である。
 今、戻ってきた三奈子がドアを開き、部室に足を踏み入れると、室内の雰囲気に戸惑った。最初に感じたのは一抹の寂しさだった。
 真美はもう帰ったのだろう。当たり前だ。昼休みもそろそろ終わるうえに、三奈子が戻ってくるかどうかも分からない。それで待っていてくれるなどと思うほうがおかしい。
 整然と並べられた書類や原稿の白さが、どこか冷たかった。人間がいない部屋から音などするわけもなく、三奈子の周囲で空気だけが揺らいでいる。
 空に雲があったとしても、昼である以上はそれなりに明るい。窓から差し込んだ薄い光が三奈子の視界を広げた。
 誰もいない部室なんて見慣れていた。三奈子は部長なのだ。誰よりも先にこの部屋に来ることが多い。全員が帰ったあとに一人きりで残ることだってよくある。取り残されたような感覚など、今まで受けたことの無かった場所だ。
 静かで、誰もいないだけの部室なのだ。
 それなのに。
 ここで一人で立ったまま、呆然としてしまった。
 誰もいない。ただそれだけのことを意識した途端、寂しさは膨れあがった。
 三奈子は、見捨てられたような気分でいた。もの悲しさが部屋には漂っていた。単に部員はお昼休みを堪能しているだけで、真美だって普通に作業を終えて教室に戻っただけなのだ。それだけのことだ。……ただ、それだけのことなのに。
 別の階にある部室だろうか。遠くの喧噪が風に乗って、三奈子の耳に届いた。とても楽しそうな騒がしさと、はしゃいでいる声だった。
 なのに、三奈子は泣いてしまいそうになる。言いようのない不安にくじけてしまいそうだった。自分はこんなに弱かっただろうか。自問しても、答えは出そうにない。こんな負け犬みたいな自分は知らない。
 三奈子は自分の机の前で座った。机の上には何も乗っていなかった。
 壁に掛かった時計を見上げた。あと十分ほどで昼休みは終わる。
 教室に戻るのも億劫だった。
(いっそのこと、さぼっちゃおうかな……)
 何もやる気がない。三奈子がほおづえで机に肘をつけた。それから気怠げに、腕に顔を埋めた。背後で音がしたような気がしたが、きっと空耳だろう。
「お姉さま、帰ってらっしゃったんですか」
「え」
 慌てて体を起こすと、そこには真美の姿があった。三奈子は、自分がドアを閉めていなかったことにここで初めて気がついた。
「……ま、真美? どうして」
「どうしてと言われても困りますけど」
 腰に左手を当てて、右手はあごに。ふーむと考える素振り。
「待っていれば、お姉さまが戻ってくるかな、って」
「でも、今までどこにいたのよ」
「……おトイレに」
 一瞬、沈黙する。
「そ、そうだったの」
「はい。それでどうでした?」
「何が」
「ロサ・フェティダには許可いただけました?」
 今思い出したかのような口調に、三奈子も同じテンポで返した。
「薔薇の館にいなかったけど、放課後に読んでもらえると思うわ。早ければ明日中には返事をもらえるでしょうね」
「分かりました。じゃあ、そろそろ教室に戻りませんか? あと五分ほどで授業が始まってしまいますし」
「……ええ」
「お姉さま」
 三奈子の様子に腹が据えかねたのか。真美がじっと睨んできた。
 ため息を一つ、大きく吐かれた。
 呆れられているようだった。
「……ね、真美」
「なんですか」
「私、引退しようかしら」
 三奈子は、さきほどまで頭の隅で考えていたことを口にしていた。
「……は?」
 予想外の言葉だったのだろう。真美はぽかんと口を開けて、まじまじと三奈子を見つめていた。
「新聞部の部長、真美に明け渡そうかな、とか思ってるのよね」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
 真美が激しく動揺したのを見て、三奈子は暗い興奮を覚えていた。いつか真美を驚かせてみたいとずっと思っていたが、こんな形になってしまうなんて。自分自身にも呆れながら、三奈子は小さく嘆息をこぼした。
 それでも、言葉は止まらなかった。
「ほら、今回の……いろいろと迷惑かけちゃったから、責任を取るみたいな意味合いで」
「お姉さま」
 落ち着きを取り戻し始めた真美は、冷たい視線を投げかけてきた。
「いいのよ。真美。馬鹿な姉だと笑ってやってちょうだい」
「自虐は似合いません」
「真美も、そのほうがいいでしょう?」
「……もう、時間です」
 時計を指さした。
「お姉さま、放課後、時間をいただけますか」
「どういう意味」
「私につきあってください。平たく言うと、デートしてください」
「……な」
 絶句。
「私たち、姉妹になってから、そんなことをまともにした覚えが一度もありませんし、良い機会ですから。校門で待ち合わせましょう。ちゃんと来てくださいね」
 早口に言って、部室から出ていった。
 走らなければ授業の開始に遅れる時間だ。いや、走っても間に合わないかもしれない。
「……真美」
 ひとりきりで取り残された部室は、さきほどよりも広く感じた。
 今度こそ、三奈子は本当に孤独だった。
 寂しさではなく、悲しさがわき上がった。
 取り返しのつかないことをやってしまったのだと、三奈子は思った。真美は諦めたのだろうか。見損なったのだろうか。この情けない、どうしようもなく愚かな姉を。
(――とうとう見捨てられて、ロザリオを突き返される、とか)
 最後に姉妹らしいことをして、それを思い出にするつもりかもしれない。
 そんな言葉が不意に思いついた。頭の中で渦を巻く想像は、こびりついてしばらく消えそうになかった。
 お腹が鳴った。お昼ご飯を食べていなかったことに今更に気づいた。それが切っ掛けで三奈子は我に返った。
 結局、全力で走ったが授業に数分ほど遅れた。真美が間に合ったのかどうかは、よく分からなかった。
 午後の授業には、まったく集中できなかった。


 担当場所の掃除を終わらせ、急いで校門に向かう。
 真美はすでにそこにいた。暇そうに三奈子の来るのを待っているようだった。
 三奈子はポニーテールを揺らしながら、速度をゆるめる。制服のままなのはこの際仕方ないだろう。真美が着替えてくることを望んだなら、それくらいは了承するつもりだったが。
「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう」
「ちゃんと来ていただけて嬉しいです」
「そう……」
 会話が止まる。真美は一歩前に踏み出した。三奈子の手を取った。
「お姉さま。まずは、喫茶店にでも行きませんか」
「別に、構わないわよ」
「では決まりですね」
「あっ」
 引っ張られて、つんのめりそうになる。真美はくすりと笑った。
「まったく、いきなり引っ張らないほしいわねっ」
「早く行きましょう?」
「はいはい」
 楽しげな真美の声に、三奈子は面食らっていた。今までこうも素直に、妹として振る舞ったことがあっただろうか。なかったかもしれないし、あったかもしれない。三奈子の記憶にある限り、無かったように思う。でも。
 これはまるで、仲の良い姉妹の姿ではないか。性に合わないったらありゃしない。
 昼休みに三奈子が考えた、最後の思い出のためのデートという予測を裏付けるような、いつもと違う真美の様子。気分は際限なく沈んでいった。
「真美、なんか楽しそうね」
「三奈子さまは、楽しくありませんか?」
 お姉さま、ではなく三奈子さま。
 別に強制しているわけではなかったが、小さな言い回しが、やけに三奈子の気に障った。真美が離れたがっているように感じてしまうのは、些か考えすぎかもしれないけれど。
 表情に浮かんだ翳り。真美は気づいたが、それには触れずに喋った。
「お姉さまって、思いこみがやたら激しいですよね」
 ぐさりと敏感になっていた胸の奥に、いきなり突き刺さった。悪気は無いのだろうが、にこやかに語られてしまって、三奈子は歯を食いしばって耐える。怒らない。怒らない。
「それは私が単純って言っている、そう思っていいのよね?」
「はい」
 即答された。さすがに腹が立った。
「良い方向にも悪い方向にも、一度思いこむと信じ切っちゃって誤解しやすいその癖、早いうちに直したほうがいいと思います」
「それは自覚してるわよ」
 不機嫌な声になっても、仕方ない。三奈子は隣りを歩く真美を横目で見た。
 三奈子は、いつの間にか喧嘩腰で話している。真美までが普段と違って挑発的だった。
「本当でしょうか?」
「ええ」
「私が楽しそうにしていると思います?」
「楽しいんじゃないの? 明るい声だし」
「もちろん」
 あはは、と真美は笑った。笑い声が聞こえなくなった。
「怒ってますよ」
 じろり、といつもの表情より険しい顔で、三奈子は睨まれた。
「楽しくしようと思っている横で悲惨な顔されてたら、誰だって嫌です」
「……う。そりゃそうだけど」
「世界の終わりが来たみたいな顔でじぃっと部室にいられても困ります」
 反論できなかった。三奈子はうつむいた。真美はさらに続ける。
 線を踏み越えようとしているという自覚があった。
 我慢ならなかったのだ。
 もう一歩近づいて、真美は三奈子の腕を取った。
「おおかた、お姉さまのことだから……『このデートで楽しく過ごしたフリして、綺麗なままの思い出ってことにして、真美は後でロザリオを私の顔面に叩きつけるに決まってるわ!』とか考えてたんじゃないですか?」
「なぜそれをっ……って、少し違うけど、ど、どうして」
「お姉さまのことくらい、分かりますよ」
 飄々と語られてしまった。
「だいたい、私がそんなに素直に見えるんですか?」
「……は?」
「お姉さまは私を甘く見すぎです」
「で、でも」
「さあ、喫茶店に入りましょう」
「真美」
「今日は一日、つきあって貰いますから。覚悟してください」
「……分かったわよ」


 外は寒く、喫茶店に入ってすぐ、真美は珈琲を、三奈子は紅茶を頼んだ。
 ただ何もせず、お喋りをして過ごしていた。
 運ばれてきた珈琲に口を付け、真美が窓に目を向ける。陽は沈み、あたりを染める夕暮れが、赤さを増していく様子が見えた。
「追跡取材なら、よく一緒に尾行してここも来たけど……」
「そういうの無しで来たのは、初めてですよね」
「まあ、そういうものだけどね」
「そういうものですか」
「そうよ。新聞部たる者、スクープ探して、なんぼのもんよ。何か記事になりそうなもの見つけたら、とりあえず追いかけながら考えなきゃいけないでしょ」
「ですね」
 妙な沈黙があった。カップを傾け、三奈子が紅茶を飲む。
「ねえ、真美」
「なんですか」
「珍しく、回りくどいわね。何か言いたいことがあるなら早くいいなさいよ」
 真美がカップを持ち上げたときの、珈琲の薫りが心地よかった。緊張で乾いた喉を潤してから、おそるおそる口を開く。
「引退するって、本気ですか」
「そう、ね」
「三年生になっても、卒業するまでは部に籍を置いていても問題ないのに?」
「……記事」
「記事?」
「記事が、書ける気がしないのよ。また、同じこと繰り返しちゃいそうで」
「お姉さま」
「こんなこと初めてなのよ。だから、ちょっとね」
「……そうですか」
 それで黙った。ずずぅ、と啜る音。向かい合ったふたりは、互いに視線を下に落としていた。
 店内にいる他の客たちは、リリアンの制服を着たふたりを気にしていないようだ。
 三奈子はぼんやりと別のことを考えた。買い食いは校則で禁止されていなかっただろうか。よく、覚えていない。
 真美は深く息を吐いた。
 もどかしさがあった。手を伸ばせば届くような場所にいる三奈子。なのに声が届かない気がする。間を保たすためにカップを置いて、窓に目をやった。
 人波が流れていく。
 そのなかに、不意に、見覚えのある顔を見つけた。
「あれって……ロサ・フェティダなんじゃ」
「え」
 三奈子が息を呑んだ。慌てて真美の視線の先を追った。真美は手で指し示した。いずこかへと遠ざかっていくロサ・フェティダと、もうひとり。
 遠目だから確実とは言い難いが、あれは花寺の非常勤講師、山寺先生のようだった。
 立ち上がりかけて――三奈子はそのまま動けなくなった。いつもの三奈子なら、すぐさま会計をすませ、とうに店を出ていた頃だ。考える暇もなく走って追いかけていたはずだった。しかし、今は腰を浮かせた体勢で凍り付いている。
 迷っていたからだ。
 三奈子は窓から顔を逸らした。真美と視線があった。
 真美は、自分から目を合わせた。
「追いかけましょう」
「でも」
「ちゃんとした取材なら、かまわないはずです」
「……私は」
 真美は、深々とため息を吐いた。
 目を背けようとする三奈子に向かって、告げる。
 ずっと、それ以上踏み込まなかった線を、真美はとうとう越えたのだ。
 声に険しさはない。
「まったく、お姉さまらしくもない。お姉さまは、どうしたいのですか」
「あ……」
 自分は、どうしたいのか。
 三奈子には、やりたいことがあったのだ。素晴らしい新聞を作ること。リリアンの読者たちを喜ばせること。真美に勝てないと思わせるような記事を書くこと。
 何のために。
 そんなもの、決まっている。
 三奈子自身がやりたかったからだ。誰かのためと称して誰かのせいにしない。自分のためだなんて驕りもいらない。失敗のひとつやふたつでこの気持ちを止められるわけがなかった。諦めるなんて、今までやってきた全てのことが意味を失ってしまうところだった。
 間違えたことを悔やむのなら、もう間違えなければいいのだ。
 それだけのことを、なんで自分は一人で馬鹿みたいに考え込んでいたのだろう。
 答えは、こんなにも近くにあったというのに。
「私は、いつだってお姉さまの味方です。さあ、いつまでもぐずぐずしてないで、しっかりしてください!」
 真美の声は小さかったが、それ以上に力強かった。
 短く叱咤された三奈子は一瞬、体を震わせた。
 真美がそう言ったことに、心から驚いたのだ。そして、とても嬉しかったのだ。声に込められた想いが伝わったような気がした。気のせいだろうか。ただ、三奈子は気のせいではないと思った。それで十分だった。真美の声で、自分から動くことができたのだから。
 妹に向けて、こくり、と頷いた。
 枷が外れたような、呪いが解けたような、そんな軽快な動きで歩き出す。
 背中に掛かる声は、あまり感情の篭もっていないように聞こえた。それなのに、ひどく優しい響きだった。
「会計は私が済ませておきますから、どうぞお先に」
 紙を手に真美も立ち上がる。レジに向かい、自分の姉の後ろ姿を見送った。


 三奈子はロサ・フェティダに追いついた。その姿を、真美は遠くから見守っていた。
 長い時間を引き留めるつもりは無かった三奈子は、見たところアンバランスなふたりに対して、直撃取材の形でいくつか質問するだけにとどめた。
 夜の帳は降りていて、すでに陽は完全に沈んでいる。
「……待っててくれたの?」
 質問には答えず、真美は問い返した。
「どうでした?」
 夜道を先に歩き出す真美。三奈子が普通に答えながら、横に並んだ。
「快く取材を受けてもらったわよ。まあ、山辺氏が答えた内容を、ロサ・フェティダが面白がってたから、問題は無いでしょうね。謝罪記事の文面も、あれでよろしいそうよ」
「分かりました。明日中に印刷します」
「よろしく」
 黙ったままで、駅への道をゆっくりと行く。
 月は柔らかい光を発していた。道を挟むように備え付けられた電灯のおかげで、足下もあまり暗くなかった。
 風の音が耳に届く。まだ春と呼ぶには早すぎる季節。寒さが和らぐわけではないが、三奈子は真美との距離を縮めた。
 傍らで顔を赤くしているのは、きっと、真美の見間違いではない。
 駅まではそれほど遠くないから、すぐに着いてしまう。三奈子は自分から真美に話しかけることにした。
「ねえ、真美」
「はい?」
「あなた、私のこと、嫌いじゃないの?」
「まだそんなこと仰ってるんですか」
 呆れたように言われてしまった。
「いつだったか、梢さまも言ってましたけど……私たちは、きっと似ているんです。素直じゃなくて、不器用で、やりたいことには何より真剣になる。そういう人間なんです」
「言うわね」
 苦笑いして、先を促す。
「嫌なことはやりませんよね。お姉さまだってそれは同じでしょう? お姉さま、かなりワガママですから」
「嫌になるくらい率直ね」
「はい。だから、私がロザリオを受け取った。その事実を信じていただければ、十分じゃありませんか?」
「……そう。そう、よね」
「でも同じではないから、誤解することだってありますよね。人間なんてみんな、結局はひとりひとりが違うんですから。完全に分かり合えることなんて、ないから」
「そうかもしれない、けれど」
「だから、私は、きっと仲間が欲しかった」
「仲間?」
「ひとつのことに、真剣に協力しあえるような仲間が、欲しかったんです」
「それで、ロザリオを受け取ったの?」
「最初は別に、誰でも良かったんです。そういう繋がりもあるんだって、単なるシステムなんだって思っていましたから」
 声もない。
「戦力になりそうだったから――そんな理由でも、私は嬉しかったんです」
「そう、だったわね」
「ここのところ、ずっとお姉さまらしくなかった」
 三奈子は、じっと見つめた。
「私は、お姉さまの力になりたかった。こんなに手間の掛かるお姉さまだとしても、私にとっては仲間だったから」
「……ええ」
「三奈子さま」
 真美が、呼び方を変えた。すぅと息を吸い込み、落ち着いた声で告げてきた。
「負け犬のような引退の仕方をされるのであれば、ロザリオをお返しします。私は、お姉さまには胸を張っていてほしいから」
「……真美」
 昔、梢が語ってくれた言葉。今、真美に伝えられた言葉。
 揺れない真美の声に、三奈子は耳を傾ける。
 三奈子はロザリオを受け取ったときを思い出していた。いつかの記憶。一人きりではないのだと、最初に教えられたあの日の思い出。
 忘れていた。初めて知った。どちらだろうか。どちらでもないのかもしれない。
 分かることは、ひとつだけ。
 叱られるということは、誰かが叱ってくれるということだった。自分の間違いを止めてくれる誰かがいてくれる。それは、なんて素晴らしいことなのだろう。
 三奈子は泣きたくなった。
 今はただ、嬉しくて。
「まだ、まだ引退はしないわよ。ええ、そう、未熟な妹に任せておけるもんですかっ」
「……お姉さま」
「分かってるわよ。その……ありがとう」
 照れくささを隠すように、そっぽを向いて、三奈子は言った。
 
 駅前に着いて真美と別れる。家に帰るために、三奈子は別方向に足を踏み出した。人混みを嫌って、淋しい空間へと逃げまどう。
 真美の姿も見えなくなると、三奈子はひとりきりになって。
 三奈子の周りだけ、人の流れから抜け落ちたように空白があった。
 なのに部室で感じたあの寂寥は、もう、どこにもなかった。




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