長谷川千雨という少女がいる。同年代に比べると少し大人びていて、周りからは変な子、嘘つきなどと思われていることを除けば、おそらくは何の変哲もない小学六年生だった。
 だった。過去形である。
 十一歳だった。これも過去形だ。千雨の主観では十二歳である。当てにならないカレンダーとはいえ、日数はメモを取って計算していたし、毎日数えていたから間違いない。
 十代の少女にとって一年という時間はあっという間に過ぎるくせに、その実あまりに長く、その意味はおそろしく重い。
 わずか一年。たった一年。それでも十歳なら人生の十分の一である。大事で、大切で、かけがえのない時間だ。そうした時間に培われた経験は希なる宝石のようなものだ。磨けば輝くし、蔑ろにすれば曇る。
 そう。
 宝石のような時間だった。
 見たことも無い世界。出逢うはずの無かった人々。そこにあったのは確かに宝石だった。
 千雨のことを知るものが、今の彼女を目の当たりにすれば驚くだろう。
 その笑顔は眩しかった。
 つい先ほど別れを経験して来たばかりだというのに、胸の奥にはあたたかなものがあった。
 今の千雨には何者にも侵しがたい強さがあった。


 感慨に耽るのもそこそこに、千雨は周囲をゆっくりと見回した。
 麻帆良学園の巨大な樹が視界の片隅に映り込んだ。
 ここは桜通りの近くだ。空がオレンジ色に染まり始めていて、だんだんと夕焼けの赤が広がってゆく。
 あのときと同じだった。景色が歪んで見えた場所。周囲にひとの姿は見あたらない。
 急に人気が少なくなったと思ったら、千雨は何かに引きずり込まれた。このあたりに理由があったのだろう。とはいえ一年も経ってしまえばその理由はすっかり消え去ってしまっているに違いない。
 原因はいくつも考察出来た。教わったこと。自分で考えたこと。色々あった。けれど肝心の「こちら側」の様子が分からなかった以上、どんな考えも机上の空論でしかなかった。だから考えることは後にしよう。うん。
 もう一度、視線をあたりへと彷徨わせた。
 誰もいない、夕闇の麻帆良学園。普段なら人通りの絶えることのない桜通りの真ん中で、そばにあるベンチに座り込んだ。座り込んで、手に持っている袋を抱きしめて、千雨はそっと膝を抱えた。
 誰もいないことが今だけは嬉しかった。
 嗚咽とか、安堵とか、込み上げてくるものを抑える必要がなかったから。
(――帰って、きたんだ。ようやく)


 およそ一年前、あの日のことははっきりと覚えている。忘れられるわけがない。
 最近パソコンを始めて、ネットに繋いで、電波越しではあっても常識の範疇にある日常が楽しくなって。
 思い立ってネットアイドルとして、コスプレでもやろうかと思って衣装を買い込んだ日の帰り道に――あの「歪み」に引きずり込まれたのである。
 みんなおかしい。非日常なんてうんざりだ。誰も分かってくれない。
 そう嘯いていた自分を別人の仮面を被ってはき出せる場所を作ろうとした当日に、あんな目に遭ったのだ。
 結局、分かったことはひとつ。
 日常とは自分の属している側のことで、非日常とはそれ以外のことだと。
 自分が非日常の側に回る日が来るとは思っていなかった。
(とりあえず、誰だか知らないが……原因を見つけたら一発殴ろう。それくらいの権利はあるよな)
 千雨の決意は固かった。


 泣きはらした目を隠すように顔を伏せて、しばらく黙り込んで静寂を聞いていた千雨だったが、ふと自分の置かれた立場について考えを巡らせた。
 考えてしまった。
 神隠しに遭ったように、丸一年姿をくらましていたのである。自分の意思ではなかったにしろ、これは大事だ。いくら異常だらけの麻帆良学園といえど、小学生が行方不明になったら大騒ぎするはずである。
 ……するに違いない。
 本当に……するだろうか?
 だんだんと疑問になってきた。探されていない可能性に思い至ったのである。
 あちら側にいたせいで麻帆良学園には何かしらの異常が働いていることだけは確信していたが、何が変で、何が正しいのかに関しては、嘘つき呼ばわりされていた自分の記憶だけが頼りである。
 ひとつの異常が理解出来たからといって、もうひとつもまた理解できるなど烏滸がましい考えだ。千雨は考えを改めた。情報を集める必要がある。少なくとも自分が何をすべきで、何をしてはならないかが分かるくらいには。
 とりあえずは不在の一年に対しての言い訳を考える必要がある。
 家出。誘拐。
 前者は自分の立場が悪くなる。後者は今後社会的にキツイ。とりあえずあんな世界にも関わらず最後まで貞操が無事だったのは喜ぶべきことだが、自分の手にこびり付いた血生臭さに関してはそれどころではない。
 そもそも家出ならどこで暮らしていたかとか、どうやって、という話になる。後者はもう少し追及はマシだろうが、根掘り葉掘り聞かれることは間違いない。警察が出張ってこられても面倒だ。いっそ何事も無かったかのように振る舞って、記憶喪失のフリで同情でも引くべきか。
 この手の手練手管が上手くなっても全く嬉しくない。
 ため息ひとつ。
 まあいいか、と空を見上げる。
 いつの間にか人の気配が戻ってきていた。遠くからは部活動の騒がしくも楽しげな大声が響いてきている。間抜けな鳥の声に、大学の方面から爆発音。まだ明確な人影は見あたらないにせよ、久しく遠ざかっていた平穏がそこかしこに覗けた。
 いつもの麻帆良だ。
 突飛で、ヘンで、脳天気な麻帆良だった。
 麻帆良学園はこんなにも平和だ。それで充分。今はそれを甘受しよう。
(毒されているよなあ……わたし)
 苦笑する。必要だったとはいえ、わずか十一歳で死ぬような目に何度も遭ったのである。まあ同い年のリルムが近くに居なければ早々にめげていたことは間違いない。
 というか実際は何度か瀕死にはなっているのだ。いくら心臓が止まったくらいなら蘇生が利くからといって、死にかけることを前提に戦闘するのはもう勘弁である。
(つまりは……意地っ張りだったってことか。良いのやら、悪いのやら)
 最終決戦には同行出来なかった。それだけが心残りではあったが、仕方ないといえば仕方がない。ストラゴス曰く、三闘神を倒せば幻獣は消えて魔法は使えなくなる目算が非常に高い。つまりは千雨の帰還する手段が失われるということでもあった。
 除け者にするつもりは、なかったのだろう。
 千雨は、自分が寂しさに弱いことを自覚している。自覚せざるを得なかったからだ。
 だから「ここ」に戻ってくることを躊躇った。
 孤高を気取るつもりはない。ただ孤立しているに過ぎない「ここ」に帰る意味があるのかと。
 あんな世界でも。あんな世界だからこそ、孤独はより強く蝕む毒となる。
 だから繋がりは重く、優しく、甘やかだった。ひとたび重なった絆はそう容易く断ち切られることはない。
 ひとの生き死にが近いくせに、その重さは「ここ」と何ら変わりないのだから。

 あるとき師匠はこんな風に言ってくれた。
「お前は見抜く力を持っている。惑わされず、自分という基準によってひとを計ることができる。それは得難い才能だ」
 いつもはこちらの喋ったことを繰り返すだけのくせに。
 声には何の色もない。ただ淡々と、語りかけてくれる。
「だが、ものまね師としては生きられない。もう一つの才能が致命的なまでに欠けているからだ」
 完璧に上手くやれるとは思っていなかった。だけどそんな風に言われるとは思っていなかった。だいいち弟子になれと言ったのは師匠の方からだった。拗ねたようにこの一年、ずっと一緒にいた師匠の顔を見上げる。
 黄色い民族衣装のような不思議な格好。顔に巻かれた布の奥に隠れている顔はどうしてか覗けない。
 ただ目だけが、見えている。
 それなのに。
 師匠は千雨が見つめるのと全く同じように、瞳の中に相手を映し込んで口を開く。
「それは、自分を捨てる才能だ。自分を無にして、他者の鏡としてのみ機能する。そういう心の在り方。……チサメには、出来ないだろう?」
 こくり、と素直に頷く。
「俺はものまねだけをして生きてきた。こうして世界を救うことも、彼らのものまねをしているに過ぎない。もしかしたら俺にはそうしたい、という想いがあるのかもしれない。だが俺自身にはそれが分からない。俺はそういうものだからだ。他者があって初めて俺が存在できる。ものまね師は、行動によって導き出した結果でのみ意思を表す」
 再現するもの。
 擬態するもの。
 男なのか女なのか。少年なのか老人なのかも分からない。
 ものまね師ゴゴ。
 それが千雨の師匠だった。
「チサメ。お前は違う。最初にあったとき、群衆に紛れ込んでいた俺に気づいたお前には才能があると思った。物事の本質を表層ではなく本質で捉える在り方。だが次の瞬間、お前には才能が無いだろうと考えた。最善を自分の頭で導き出そうとする表情をしていたからだ。俺には分からなかった。その生き方では辛いだろうと感じたからだ。ものまね師として生きていく道を提示したのはそのためだった」
 千雨は黙っていた。ただその不思議な声に耳を傾けて、目を瞑っていた。
「お前が持っていたあの服は、見たこともない造りだった。あれでお前はなりきるのだ、と言ったな」
「……あー。えーっと」
 コスプレ用に買い込んだ衣装だった。初めて会ったとき、ゴゴには全てを語っていた。
 目にした見知らぬ土地。荒廃して鉄色に崩れていた町。混乱する頭をそのままに、必死になって周囲を観察しているとき――出逢ったのだ。道行く人々のなかに、露店に集まる通行人の群れの端に、一人だけ「溶け込んでいる」存在を。
 それが答えだと思った。
 何を頼ればいいのか分からないその一瞬のなかで、唯一指し示された道しるべだと確信していた。
 ゴゴに言わせれば、それが本質を見抜くという行為だったのだと。
 自分の混乱を。わけのわからぬ場所に突然放り出された不安を。目にするもの全てに対する疑心を。そしてそれら全てを内包して自分の身柄を守ろうとする保身さえも。
 賢しく、伝えた。
 千雨はリスクの高い行為は嫌いだった。だが、リスクとリターン。メリットとデメリットを秤に掛けられる。自分のなかに天秤を持っている。だから踏み切った。
 そしてその決断は、振り返れば正しかったと胸を張っていえるものだった。


 ゴゴはまるで酒場で誇らしげに語るトレジャーハンターのごとく振る舞った。自分もまた、次元を渡ったことがあると。別の世界からやって来たのだと。そして出逢った彼らと旅をしているのだと。
 ときには気障で洒落た王のごとく微笑んだ。表情も見えないくせに、その仕草は気高く、見る者を安心させるものだった。素敵かもしれない、などとすら思ってしまって顔を赤くした。
 彼の所作が仲間たちの「ものまね」であると知らされた千雨は、愕然として膝からくずおれたものだったが。

 ゴゴを見いだしたとき咄嗟に話しかけたが、すぐさま言葉が通じたことは最大の収穫だった。彼らが直接英語や日本語を使っているとは思えなかった。だから非常によく似た言語体系なのだと考えられた。
 驚くことに、会話がそのまま通じたのである。
 最初、文字はさっぱり読めなかった。
 興味深いことに、文字には日本語との互換性まであった。熟語やスラング、ことわざなどの慣習による言葉はさすがに通じないものが多かったが、単文字は何故かかな文字で復号出来たし(千雨にしてみれば、暗号解読をやっているみたいで割と面白かったのである。漢字から来ている「かな」と相似の言語という時点で不思議ではあったが)、単語に当たる箇所は英語にかなり近かった。
 書き言葉は日本語と英語をちゃんぽんにして、この世界の文字に入れ替えればわりと文章になったのであった。
 まあ、識字率がそこまで高くないのか、代筆屋なんて商売も見かけたものだが。
 幻獣の名前に関してはツッコミきれなくて苦笑で流した。ファンタジーのお約束、フェニックスやらリヴァイアサンの名前からして、どこかに相似の神話大系でも存在しているのかもしれなかった。
 モナリザの絵が柄に刻みこまれた絵筆もあった。ダビンチの筆という名称だそうだ。
 まさかいるのか、レオナルド・ダ・ヴィンチ本人。
 また、仲間のひとりの使っていた武器には目を丸くした。刀である。どう見ても日本刀であった。その世界に日本は存在しなかったというのに。
 村正である。正宗である。菊一文字である。自分と同じように刀匠でも飛ばされてきたのか、と驚くより先に呆れた。ドマという東方の国の武器らしかった。
 東方て。
 おまけに愛用してるとカイエンから見せられたのは、天のむら雲という名前の刀である。
 んなアホな、と千雨は頭を抱えた。
 天叢雲。つまり草薙の剣である。なんでこんなところにあるんだ。というか壇ノ浦で水没した後にこっちに落ちてきたのか。なるほどそれなら理解出来るかも……って、できるかーっ!
 千雨は叫んだ。スルーしきれなかった。この時つっかかった相手のカイエンに優しくなだめられたのは良い思い出である。……たぶん。
 まあ、それらに比べれば、仲間うちに変な口調やら語尾やら変人そのものが多いのは許容範囲であった。
 とあるギャンブラーに「それは大きなミステイク」みたいな言い回しをされたときは流石にげんなりしたが。

 そして合流した青魔道士ストラゴスかく語りき。
 この世界には「デジョン」という呪文がある。次元の狭間を開き、敵に落とし込む魔法であると。千雨がこの世界に引きずり込まれたのは、それと似た働きが起きた……すなわち、何らかの要因で「元の世界」の時空間が無理矢理ねじ曲げられたためではないか、と。

 さて「魔法」である。千雨の常識には「魔法」なんてトンデモなものは存在していなかった。とはいえ非常識な経験をしたばかりなので、それが「ある」ということには異を唱えなかった。否定しても始まらないからである。非常識の側に立てば、常識は入れ替わる。ここでは平和な国にいた、という千雨のほうが異邦人であり、誰よりも異常なのだと自覚したのだ。
 と、ここまでならば千雨も困った顔で聞いていられたのだが、そもそもこの世界でも魔法が希有であること。むしろ失われてたはずのものであること。幻獣がいるため魔法が使えるのだとか、幻獣は死ぬと魔石になって……。
 と話を続けられ、もとの世界に帰るためには千雨自身が魔法を獲得しなければならない、と話が締めくくられたのである。
「は?」
 これが千雨の反応だった。
「つまりじゃな、チサメ嬢ちゃんが魔法を使えるようにならんと帰れないゾイ」
「んなっ」
 こほん。咳払い。こちらは教えを乞うている立場である。千雨としては尊敬できるであろう目上に対して、礼儀はなるべく持ち合わせていたいものなのである。
 変なぬいぐるみを着込んでいるじいさんであったとしても。
 大学の教授とかは変人が多いと聞く。専門家はみんなこんな感じなのだろう。うん。
 無言で納得する。しておく。そうしないと話が進まないためである。
「あ。いえ。どのように、でしょうか」
 さっき失われた特別で強力でやばい力だって爺言ってただろ、と内心思いつつも、なるべく丁寧な口調でもう一度聞き返した。
「そうじゃな。……さっき言った魔石を身につけて、モンスターと戦うしか無いじゃろうな……」
 愕然とした。
「厳しいようじゃが……こればっかりは代わってやることはできんゾイ。自分で戦わねば、経験は身につかぬ。いや、あるいは戦わずとも何十年も掛ければ可能かもしれんが……生憎そんな時間がないんじゃゾイ」
「なっ。……ど、どうしてですか」
「この世界は死に絶えようとしているんじゃゾイ。わしらはそれを止めようとしておる。ほれ、あれを見るんじゃ」
 瓦礫をかき集めたにしては、不気味な雰囲気を醸し出している、いかにもな塔があった。その頂上にほど近い場所から何か凄まじい光が煌めいたかと思うと、その光線が直撃した家屋が焦熱と衝撃で粉砕されていった。
 その家屋と周囲の何軒もの家々が、あっという間に炎に巻かれた。遠くからでも聞こえる悲鳴。おそろしい怒号。耳鳴りのように、空耳のように、どこからか響き渡る気味の悪い高笑い。
「裁きの光じゃよ。神気取りの道化師がな、あの塔の頂上からわしらを見下ろして笑っておるんじゃ。放っておけば何もかもを壊してしまうじゃろうな」
「あんなの、どうやって」
「どうにかして、じゃゾイ! わしらには魔法があり、力があり、意思があるんじゃ! 今すぐは無理でも、なんとかしてケフカを倒さねばならんのじゃぞい」
「くそじじーが盛り上がってるけど、チサメにはその辺は関係ないってこと分かってる?」
「なんじゃいリルム。良いところで」
 千雨と同年代の少女が割り込んできたのだった。聞けばストラゴスの孫だという。血が繋がっているかどうかはさておき、家族であることは見れば分かった。
「うちのおじいちゃんは知識はあるけど……たまに暴走することがあるから聞き流してね。それでチサメ。本当はリルムたちがデジョンを使えば、飛ばすだけなら出来ると思うよ」
「飛ばすだけってのはどういう意味だ……ですか」
 なまじ同い年くらいなため、口調に迷ってしまった。リルムはにやりと笑った。
「いいよ、口調はふつーで。えっとね、デジョンは次元に隙間を空けて、そこに敵を引きずり込んでバイバイ! って魔法なの。出口の設定もある程度はできる。でもね、失敗したらチサメはそのまま閉じ込められちゃう」
「……」
 ぞっとした。
 ストラゴスの表情を見るに、リルムの言葉は正しいらしい。
「自分でも使えるなら行くも進むも調整が利くけど、そうじゃないなら戻ってこれない。リルムはオススメしないよ」
「つまり、他に選択肢はない、ってことか」
「チサメは運が良かったと思うけどね」
「この状況で?」
「うん。普通なら次元の狭間に落ちたら、どこにも出られないもん」
「……へぇ」
 他の面子の表情を観察する。ゴゴは分からなかったが、どうやらそれも真実らしい。九死に一生を得た。あるいは不幸中の幸いということだった。非日常どころか、災厄に巻き込まれた感じだが、それでも最悪ではなかったと聞いて、千雨は口元をにやりと歪めた。そうでもしなければやっていられなかった。
 その場にいた数名の男性は、千雨の表情に感心したような反応を見せた。
「じゃあ、私が今やるべきことはひとつですね」
 一呼吸。
 もはや日常がこちら側である。それは受け入れよう。魔法だの幻獣だのも仕方ない。おまけに魔導文明に神の裁きと来た。もうどうしようもないくらいどっぷり浸かっての、異常極端不可解の満漢全席だ。
 割り切れ。生き延びろ。自分を守れ。
 帰るんだ。
 そのために、覚悟を決めよう。
「……私は長谷川千雨と言います。私が帰るために、皆さんの力を貸してください。お願いします」
 なけなしの勇気を振り絞って、そう口にした。
 人見知りの少女が、顔を赤くして、声を震わせて、それでも目を逸らさずに告げたのだ。
 次元の隙間から抜け出した。ゴゴという蜘蛛の糸にしがみつけた。帰る手段も目処がついた。だからあとは、彼らの優しさに縋るしかない。魔法が使えるのは、頼れるのは、彼らだけなのだ。この崩壊した世界のなかで、何ひとつ持たず、何も出来ない長谷川千雨という少女が元いた世界に帰り着くためには、彼らを信じるしかないのだ。
 彼らにはきっと何のメリットもない。何のリターンもない。長谷川千雨という一個人はお荷物にしかならない。少なくとも今は何の役にも立たないちっぽけな少女に過ぎない。
 だから出来ることは心から頼むことだけだった。
 深々と、頭を下げる。


 どれほどの時間が過ぎたのだろう。長かった気もする。短かった気もする。
 ただ最初に聞こえたのは、軽薄そうに聞こえて全くそうではない、どこか格調高くさりげない男性の声だった。
「顔を上げてほしいな、小さなレディ」
 素直にそうすると、微笑んでいる顔が見えた。
 自然な声だ。まるで声優がそうするかのような台詞のくせに、当たり前に流れてくる。
「エドガー。……口説くなよ」
「ははは。彼女が美女であることは間違いないだろう? 美しさに年齢は関係ない。……まあ、あと五年もしたら結婚を申し込んでいてもおかしくなかったがね」
「まあ、悪くねえな」
「というわけでレディ。……いや、チサメ。我々と一緒に行くかね?」
 千雨は逡巡もなく、即答した。
「行きます。お願いします。一緒に連れて行ってください」
 エドガーは真剣な眼差しを向けてきていた。それが千雨のためを思ってのことは確かだった。
「ケフカと対峙する以上、我々はモンスターとの戦いだけではなく……他の様々な争いに巻き込まれるだろう。直接的な暴力だけではなく、いくつもの悲しみと直面するかも知れない。私たちが歩んでいるのはそういう道だ。戦ったこともないお嬢さんには辛く苦しいばかりの場面が続くだろう。それでも?」
 言葉は軽くはなかった。
 だからこそ、千雨は先ほど答えたと、強く力を込めて繰り返した。
「私は、行くって言ったんだ」
 優しい眼差しに対しての返答は、にらみつけるようなものだった。
「ほら、悪くねえだろ」
「……リルムといい、最近の美少女は美しいだけじゃなく、強いのかな?」
「女の子は強いってことよ」
「女の子ね。おいおい、そこに自分を入れてないだろうな」
「……ロック。ちょん切るわよ」
「どこを!?」
「ああごめんなさい。言い間違えたわ。……ねじ切るわよ」
「ゴメンナサイ」
「よろしい」
 くすり。
 いきなり始まった漫才のようなやり取りに、千雨はつい笑ってしまった。それまでの緊迫感が一挙に薄れたからだった。そしてそれが彼らの優しさによるものだとも気づいていた。
「ありがとう」
 礼を言って、自分のまなじりに溜まっていたであろう小さな涙を拭き取ろうとして気づいた。
 眼鏡をしていなかった。
 伊達眼鏡。緊張状態だったから気づかなかったのか。それとも気にしなかったのか。
 どちらにせよ、素顔のまま笑顔を浮かべたのは千雨にとって久しぶりのことだった。
「……美少女は笑っているほうがいい。至言だな」
「兄貴。手を出すなよ」
「五年後は分からんが、今は信用しろ!」
 そうして千雨は彼らの仲間となったのだった。


 千雨には希有な才能があった。ゴゴが本質を見抜くと告げたその性質。そして己を消さずして「ものまね」の真似事を出来てしまう、という在り方。
 鏡ではない。溶け込むのでもない。
 言葉通りに、そのものに「なりきる」のだ。「ものまね」によく似ていて、しかし決定的に違う。似ているということは違うということだからだ。
 擬態という意味合いでは同じ。
 再現という手段としても変わらない。
 なのにそれはゴゴの「ものまね」とは異なる在り方だった。
 最初に覚えたのはストラゴスの「ラーニング」だった。青魔道士の行うそれ。見て、感じたものをそっくりそのまま自分で再現するという行為。ゴゴに促されて「ものまね」をしてみたのだが最初は上手く行かなかった。ゴゴは千雨がものまねを出来ると確信しているかのようだった。
 それからは試行錯誤の連続だった。
 ストラゴスと話して、その技を目の当たりにして、所作や思考を把握しようと努めた。
 ついには格好だけでもとストラゴスの普段使っているような衣服を着込んでもみた。
 ような、である。そのものではない。ゴゴのように、ストラゴスのものまねをしている最中は、本人のように見えるというわけではなかった。
 だというのに、千雨は成功させた。
 出来たのは「ものまね」ではなく「ラーニング」だった。面白がったロックが「ぬすむ」を実演してみれば、やはり最初は上手く行かない。
 しかしロックの行動をつぶさに観察して、盗賊っぽい格好に着替えてみると、どんどん上達していった。
 いつもの千雨のままではあまり上手く行かなかった。
 ストラゴスに。ロックに。その人物になりきって実行した場合にだけ精度と成功率が跳ね上がったのである。とはいえ、それは厳密なものではなかった。
 ぬいぐるみを着ていても魔導士然とした衣装であってもストラゴスの青魔法は再現出来たし、千雨が普段着のままでも「ぬすむ」は使えるようになっていた。つまり「なりきり」に服装は必須ではなかったが、それでもそれらしい格好をしていると成功しやすいことは確かだった。
 見せてもらったゴゴの「ものまね」に関して言えば、衣装は完全に無関係だった。(そもそも直前に他者の使った大魔法を自分の消費無しで再現する「ものまね」……引き起こされた現象や事象を含めた一切を丸ごと再現しているのだ。格が違う。カイエンの必殺剣を普通に真似る場合には刀を用いる必要があったが、直前にカイエンが行った必殺剣を「ものまね」する場合に限ってはゴゴは素手でも再現できてしまうのである。いくらなんでも反則過ぎる。世界を丸ごと騙しているとしか考えられない)
 衣装という観点でみれば、千雨の場合も同じだろう。
 つまり、これは単に心の問題なのだ。
 千雨がその人物になりきって、そう振る舞えるかどうか。ただひたすらにその一点のみに左右される。
 だから盗賊風の格好をしている千雨には「ぬすむ」が簡単に再現できたのだった。
「あのな。俺はトレジャーハンターなんだ。盗賊じゃない」
「え?」
「ティナさんや。今の『え?』はどういう意味だ?」
 ティナは無言であった。ロックは気分を切り替えてか、バンダナ姿の千雨に視線を向けた。
「チサメ。今の格好は何を意識してやってる?」
「とう………………、と、トレジャーハンター、かな?」
「分かりやすい答えをありがとよ。でも、俺は宝を求めてさすらう冒険者さ……」
「ロックが拗ねても可愛くない」
「セリスまで!」
 ゴゴは「ものまね」は現象ごと繰り返す。しかし千雨のそれは微妙に違うのである。
 ゴゴは他者が魔法を使ったあと、自分の消費無しに「ものまね」で利用出来る。アイテムを使用した場合であっても消費すらしないで効果だけを再現できる。
 千雨の場合、それが出来ないのだ。MP(いわゆる内包魔力だろう。ストラゴスに言わせれば、幻獣によって生み出された魔法力を自分で使うために消化し、蓄積しておける量だそうだ。RPGでよく見る概念だけに、千雨は感覚で理解した。魔石によって使えるようになった『魔法』も感覚に拠った。幻獣の力に少しずつ慣れていってあるとき自分の中に回路が出来たことに気がついたのだ。魔力とはガソリンのようなもの。周囲に漂っている魔力の素となる力を取り込んで、自分の身体を媒介に抽出、精錬し、回路に流し込んだのちに呪文の詠唱によって着火し、意志によってその凄まじい力の行き場を制御、運転するのだ。)もアイテムもきちんと消費してしまう。
 コストを無視出来ないのだ。つまり直前の行動であれば、無尽蔵にものまねを繰り返せるゴゴと同じようには出来ない。それが千雨の「なりきり」の限界であり、だからこその可能性でもあった。
 完全に同じではないということ。
 それはつまり、別のかたちに発展させる余地があるということだ。
「つまりじゃな……ゴゴの『ものまね』が繰り返すことだとすれば、チサメ嬢ちゃんの『なりきり』は利用することなんじゃゾイ。自分を消すものと、自分を残したままにするもの。同じように出来ないのは当然じゃな」
「えっと、じいさんは結局何が言いたいんだ?」
「現状だと単なる劣化版『ものまね』じゃ。今ンとこむしろわしの青魔法に近い。精進するしかないんじゃぞい」
「りょーかい」
 話を横で聞いていたゴゴが何を考えていたのか、千雨には分からなかった。


 あるときゴゴは言ったのだ。何かを懐かしむかのような、静かな声で。
「チサメ。ものまね師の極意が何かは分かるか」
「相手と同じことをすること、ですか」
「そうだ。だから俺はお前をものまね師とは呼ばない。だが、その技を賞賛しよう。拙いながら「ものまね」をそんな風に真似されたのは初めてだ。『なりきり師』とでも名乗るが良い」
「……ありがとうございます、師匠」
「なりきり師はお前の世界では『コスプレイヤー』と呼ぶんだったな?」
「ちょっ」
 千雨が慌てたのを見て、ゴゴはやわらかく口にした。
「冗談だ」
 がさり。咄嗟に構えてその方向を睥睨する。物陰に隠れていたと思しき自称トレジャーハンターがばつの悪そうな顔で出て来た。素直に顔を見せたところを見ると、悪いことをしたとは思っているらしかった。
 千雨が冷たい視線を向けた。
「で。盗賊さん、そんなところで何してたんだ」
「俺はトレジャーハンターだッ」
「盗み聞きなんかするヤツは盗賊で充分だろ」
「返す言葉もございません」
 ロックは即座に土下座の体勢になった。こちらでも膝を付けて謝るのかと千雨は驚いた。後で聞いたところによるとカイエンの故郷の風習らしい。お国柄ゆえか、多少の共通項はあるようだった。
「しっかし。なんで音を鳴らしたんだ? 気づかずに去れただろうに」
「いや。ゴゴが冗談を言ったのを初めて見たんでな。動揺したんだ」
「は?」
 視線を向けると、ゴゴの様子はどこ吹く風だった。
「そもそもほとんど同じ言葉を繰り返してくるだけだしなあ。会話が難しくて」
「いや、師匠、わりと普通に喋ってくれるぞ?」
「その対応、チサメだけだぜ」
「そうなのか?」
「そうなのか?」
「……ほれ、この調子だ」
「……ほれ、この調子だ」
 肩をすくめたロックと、全く同じタイミングでゴゴが肩をすくめていた。
「ロック……からかわれてるんじゃないか?」
「ロック……からかわれてるんじゃないか?」
 千雨とゴゴの言葉が重なってロックに向けられた。
「あー、遊ばれているのはいまキッチリ理解した」
 意外と仲が良いんじゃなかろうか、と二人を眺めて千雨はほくそ笑むのだった。


 大切な思い出だった。思い出にしてしまうのがもったいないほどだった。だけどそれらはもはや過去のことなのだ。どれほど愛おしい時間だったとしても、すでに手を離れてしまった世界での日々なのだ。
 だからせめて得たものを大事にすることにした。
 彼らにはそのつもりはなくとも、いろいろなものを与えて貰ったのだ。
 千雨は夜闇に薄れていく赤を見つめて息を吐く。
 彼らに対して、私は何かを残せたのだろうか。少しでも何かを返せたのだろうか。
 出逢えて良かったと、そう思ってもらえる自分であれただろうか。
 そうであればいい、と思った。
 ここに幻獣はいないだろう。ならば、あの世界で得た「魔法」はもう使えないかもしれない。
 もし、たとえ「魔法」が再び使えたとしても、あの世界に再度足を踏み入れることは叶わないのだ。
 帰り道だけのデジョンだった。
 あの世界にどうやって行くのか、もはやその道を知る術は存在しなかった。
 それでも。
 二度と出逢えないけれど、大切な人々であることは間違いない。そういう相手がいるという幸運を千雨は噛みしめた。もはや次元という壁を隔てて、同じ空の下ですらない彼らの無事をそっと祈った。


 回想なのか現実逃避なのか、いまいち判然としない。感傷に浸っていると表現するのが一番近いのだろう。千雨はのろのろと腰を上げ、家路に目をやった。
 自分でもすっかり忘れていたようだが、千雨はまだ小学六年生であった。本来であれば今頃中学一年生として寮生活を送っていた頃合いである。
 それが良いか悪いかはさておいて。
 深々と嘆息する。都市に似合わぬ、非常に重苦しいため息だった。
(卒業式には出られなかったけど、初等部に留年は無い……よな。でも中学生でいきなりダブりかぁ……)
 命のやり取りに比べれば何と些細な悩みだろう。
 が、千雨は遠い目をした。
 彼女にとっては一大事なのである。
 およそ一年の経過。もっと正確には370日間、すなわち一年と5日を向こうの世界で生き抜いた。
 時期を考える。メモを見なくても分かる。
 今日は西暦2001年11月11日のはずだ。
 とはいえ、場合によっては若干のずれはあるかもしれなかった。
 あちら側でも一日が24時間だったと思ったのだが、もしかしたら微妙に違う可能性がある。その場合は数日くらい前後していてもおかしくはない。
 季節は合っているから、浦島太郎にはならなくて済んだということだろう。それだけは僥倖だった。
 肌寒いが、まあ野宿することも多かった日々を思えば大したことではない。むしろこんな時間帯にこれだけ明るい都市が懐かしくてたまらなかった。
 向こうには学園都市の奥の区画、女子中等部の建物が泰然と佇んでいる。初等部も自宅も逆方向だ。電車を使えば済む話なのだが、何かこう違和感が拭いきれない。違和感の正体に思いを巡らせているうちに、一陣の風が吹いた。
 新聞が、冗談みたいに顔に張り付いた。
 べりっとはがして一面を読み進める。すぐに裏返して番組欄をにらみつける。
 新聞紙を握りしめた指先がかすかに震える。抑えきれない動揺が喉の奥からせり上がってくるのを感じる。
 天を仰ぐ。雲間から月が見え隠れしている。唇を噛みしめて、今度は視線を紙面の上方へと滑らせていって、果たしてそこに目的の数字を見つけた。
「はははは……何の冗談だ、こりゃ」
 新聞の上段。
 2000年。11月6日。月曜日。

 2000年。

 この世界から飛ばされたその日。
 その当日。
 忘れられない日付だった。これだけは間違えるはずがなかった。
 この新聞が一年前に発行されて、それがちょうど千雨の顔面目がけて飛んできたなんて不幸な偶然が起きていない限り、あれからこちらでは時間が経っていなかった、ということになる。
 あの日々が、まるで何の意味もなかったと突きつけられた気分だった。
 そんなはずがない。
 千雨はここにいる。帰ってきたのだ。あの日々は夢なんかじゃなかった。
 でも、ここは何も変わっていなかった。
 誰の目にも触れなければ、誰の記憶にも残らなければ、それは無かったことと同じになる。ここでは何も起きなかったと。それと同じだと、変わらぬ世界が、そんな風に物語っているかのようだった。
 千雨は、うつむいた。
 悲しさだとか、寂しさだとか、悔しさだとか、色々な思いがぐるぐると胸の奥で渦巻いて荒れ狂っていた。
 ほんの少し泣きたい気分をこらえて、身じろぎひとつせず、激しい感情の波が何処かへと去るのを待った。
 秋の終わり、冬の初めの冷たい風の吹くのをそっと聞きながら、じっと、その場に立ち尽くしていた。


 
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