千雨が我を取り戻したのは数分後のことだった。それを早いと取るか、遅いと取るかはさておき、彼女自身の混乱はあっという間に収束しつつあった。
 完全に予想していなかった展開ではある。
 だが千雨にとっては好都合でもあったのだ。
 自分が次元の狭間に引きずり込まれた瞬間か直後に戻って来られたということは、つまり「ここ」には日常の続きが残っているということである。何食わぬ顔をして帰宅すればいいのだ。
 気分を切り替えるのは素早く。迷うのは始まる前か終わった後に。彼らに学んだことのひとつだ。カイエンやマッシュに言わせれば迷いながらの一撃は鈍るとかなんとか。ロックが「えー。俺は別のこと考えながらでも上手く盗れるぜ?」と茶化していたのはもう忘れた。
 すべてを聞いたわけではない。だが、彼らには抱える傷があった。後悔だとか、苦悩だとか。誰もがそれらを捨てることは良しとしなかったのだろう。消せないものは抱えたまま進むしかない。吹っ切ったつもりになって目を逸らすべきではない。前を見ないものには、自分の足下にある落とし穴はそうそう気づき得ないものなのだ。
 若干残った動揺をすっかり胸の奥へと収めて、そそくさとその場を去ることにした。


 想定していないことは続くものだ。
 なぜか人通りの皆無だった桜通りの脇、少し大きめの樹木の裏側から、妙ちくりんな格好をした少女が気まずそうに出てきたのだ。
 ヘンだ。
 明らかにおかしかった。
 明らかに短いスカート丈に、あちこちキュイキュイと音の鳴るメカメカしい謎の服。SF漫画でよく見るパワードスーツ的なイメージである。あの世界でも見たことがないような不可解な格好だった。年齢としては同年代。にしては妙に大人びている表情だ。困ったなと口にしそうな雰囲気は一般的な小学生や中学生の醸し出せるものではなかった。
 人のことは言えないか、と千雨は口元をゆがめる。
「……こんばんわ。良い夜ネ」
「……あ、ああ。こんばんは」
 夜と呼ぶにはいささか早い時間帯ではあったが。
 そして目が合った。
 どちらも動けなかった。奇妙な沈黙が舞い降りたのだった。
「ところで……その格好はなにカナ?」
「は?」
 言われて千雨も気がついた。自分の格好が人のことを言えたものではないことに。
 なにせローブを着こんでいるのだ。しかも中に着ている衣服は、上下とも、向こうで普段使っていた装備である。
 帯剣こそしていなかったが、ファンタジー映画に出てくる魔法使いのロッドまで腰に差している。
 奇妙と言えばこんな奇妙な格好はそうない。
「チサメサンは、その、ネコミミ好きカ?」
 改めて自分の装備を思い返してみる。導師が着るようなローブを着こみ、頭はネコ耳付きのフードですっかり覆っている。手には魔法使いめいたロッドを握りしめ、胸には燦然と輝く三つ星のバッジをつけてある。
 デジョンは本質的には次元の扉を開く呪文である。次元を渡るときにトラブルがありうることも考えて、普段使っている装備を身につけておくのは当然の備えだった。
 今回は裏目に出たらしい。
 普通の常識人は、秋葉原でもどこかの会場でもなければ、こんな格好をしているはずがないのだった。
「……」
「……」
 無言は互いの牽制である。
 眼前の少女はいささか長い髪を後ろでまとめている。瞳には覚悟と決意と悲しみが綯い交ぜになった不可解な色が見える。それは切り捨てて来た者の目だ。こんな年端も行かぬ少女が見せてはいけない瞳の色だった。
 退いたのは千雨の方だった。
「あー。……コスプレだ」
「……私もネ」
 嘘付け。そう思ったが、そこを追求すると面倒なことになると気づいた千雨は先んじて白旗を振った。
 少なくとも彼女は千雨の言葉を全く疑っていなかった。まるでコスプレが千雨の趣味であると知っているかのような振る舞いだった。
 ちらりと疑念が脳裏を掠めたが、表情には出さずに話を進めた。
 大きく嘆息して、懇願するように少女の顔を覗き込んだ。
「誰にも言うなよ」
「そうネ、私の方も、共通の秘密ということでお願いするヨ」
 少女の瞳には悪戯っぽい光が浮かんでいた。ようやく年相応のものが見えた気がした。


「それにしてもチサメサンのコスプレは……その、妙に本格的ネ。ホンモノかと思ったヨ」
「世話になったひとからの借り物でな。いや、お下がりか。くれるって言ってたしな」
 口調を取り繕うのは早々に諦めた。そういう相手ではないと感じたからだ。
 直感は大事にしろ。どこぞのへたれギャンブラーの忠告である。素直に従うのは癪ではあったが、宝探し屋に言わせれば経験からくる理屈を省略した答えでもある。
 迷いは大事にしろ。良い言葉だ。
 面倒見の良い大人ばかりだった、ということだろう。
「そうそう、私の名前はチャオ・リンシェン。留学生ネ。春からあそこに見える中等部に入学する予定ダヨ」
 少女は落ちていた枝を拾い、名前を漢字にして足下に書き記した。
 超鈴音。
「スズネ? ああ、それでリンシェンか。中国っぽい読み方だな。超が名字でいいのか?」
「オヤ。私、中国人に見えないカ?」
「ん、中国人だったのか?」
「イヤ、私は火星から来た火星人ネ! これはトップシークレットだヨ! 秘密を共有したチサメサンだからこそ教えるネ」
「長谷川千雨だ。ってことは同い年か」
 可哀想な気がしたので、スルーしてやった。
「ム。チサメサンはなんだか小学生らしくないネ」
「お前が言うなよ」
 落ち着いた様子で余裕たっぷりに喋るこの超がランドセルを背負っている姿を想像して悶絶しかけた。面白すぎる構図である。その妄想を一瞬でやり過ごした千雨は笑みをこぼした。
「それもそうネ」
 と口にした超に、盛大に首をかしげられた。
「ナルホド。百聞は一見にしかずてやつネ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味ヨ。ン、チサメサンは面白いネ!」
 ふふふふふ、と意味ありげな含み笑いなんかして、それから超はにっこりと笑んだ。
「きっとこれも何かの縁ネ! チサメサンと友人関係を結びたいガ……いいカナ?」
「ああ、いいぜ」
 ほっとした表情だった。どうして安堵したのかは尋ねても教えてくれないだろう。それでも良かった。千雨にはその気持ちが痛いほど分かったからだ。
 あれは勇気を出したときの顔だった。孤独な者が強がって一歩を踏み出し、手を伸ばしたときの顔だった。
 自分と同じだった。
 だから差し出された手を振り払うなんてことはできない。したくない。たとえそのことでいつか千雨自身に痛みが降りかかるとしても、その手を離すつもりはなかった。
「フフフ……。チサメサンとはきっと同じクラスになれるハズ。そんな気がするヨ」
「友人としてひとつ忠告してやる。そういう黒幕っぽい喋りしてると友達増えねーぞ」
「そうカ?」
「そうだ」
「ムムム……。気をつけるネ」
「何がむむむだ!」
「待て慌てるナ! コレはチサメサンの罠ネ!」
「じゃあお前は馬謖役な」
「……チサメサンは意外とヒドイナ。私は泣いて斬られる運命カ」
「私はどっちの意味で泣いて斬るんだ?」
「もちろん正史ネ」
「演義だと思ったが」
「……自分の不明を恥じて泣くチサメサンより、私を惜しいと思って泣いてくれるチサメサンのが好みネ」
「超。私に百合の気はない」
「おお、気が合うナ!」
 デコピン一発、超の額に当てておく。意外に痛かったのか、超が顔をしかめて涙目になった。唸りながら額を抑えてうねうねと痛みをこらえる仕草をしている。
「悪ぃ。軽くやったつもりだったんだが」
「ヤ。気にしなくていいヨ。私が油断したのが悪かたネ……」
 息を整えて、超はすぐに平静を取り戻した。動きからすると武道でもやっているらしい。中国人めいた振りをしている以上は、中国武術か何かだろう。そのなりでカポエラとかブラジリアン柔術に手を出しているとも考えにくい。
「ま、こんなところか……なあ、着替えてきていいか? これ以上誰かにこの格好を見られたくないんだ」
「私もそうするヨ。で、チサメサン、今度私と一緒に漫才コンビでもやるカ?」
「そうだな。今すぐは答えられないから持ち帰って上司と相談することにするよ」
「流石ネ! 日本人的迂遠なお断り台詞、チサメサンに似合ってるヨ」
「褒めてねーだろ!」
 くすくすと笑い合った。千雨は、帰還してすぐのこんな時に、こんな風に馬鹿話出来るとは思っていなかった。
 超と別れる間際、自分から連絡先を尋ねた。携帯電話の番号を教えて貰うのだ。ここでは親しい友達といえる相手がいない千雨にとって、それは初めての経験だった。
「すまないネ、チサメサン」
「悪ぃ。馴れ馴れしすぎたか」
 距離感を間違えた。そう判断して、すぐさま愛想笑いに切り替えようとした。
「違うヨ!」
 咄嗟の言葉だった。超の慌てた表情は見物だった。声を荒げたことを謝りつつ、超は恥ずかしそうに笑った。
「実は私、まだ携帯持てナイヨ……番号とアドレスを教えてもらえるなら、入手次第こちらから送るヨ」
「……そーいや留学生とか言ってたな。今日日本に着いたばかりとか?」
「到着はホントについさっきネ」
 千雨は苦笑した。
 中等部に背を向けて、二人で並んで歩いてしばらくすると、
「私はこっちネ」
「……その、なんだ。話してて楽しかったぜ。……またな」
「ウム。再見っ!」
 超は颯爽と去っていった。張り詰めていたものが少しほぐれたというか、肩の力は抜けていたように見えた。
 本当にありがたいことに、トイレで着替えるまでのあいだ、結局誰にも遭遇しなかった。

 結局、千雨は最後まで指摘しなかった。超が顔に出さなかっただけで、内心かなり動揺していること、そしてそれを悟られまいと必死になっていたことに気づいていたからだ。
 大人ぶっているつもりはないが、千雨には背伸びしている少女をいじめる趣味は持ち合わせていないのである。
 たとえば名乗る前に、名前を呼ばれたこと。
 ここの中等部に入るだなんてこと、言った覚えはないこと。
 普段の彼女なら注意深くこちらに与える情報を取捨選択出来ていたはずだ。それくらいの才覚は見て取れた。つまり普段通りでいられなかった理由がある、ということだ。それはおそらく……
 そこまで考えて千雨は思索を中断した。細かく考える意味を見失ったからだった。
 友人を見透かして楽しいはずもない。
 ちなみに超から連絡先を記したメールが届いたのは翌日の夕方のことである。


 超と別れてからは寄り道せずにまっすぐ帰宅した千雨は、玄関で「ただいま」と小さく口にした。
 両親は気づくだろうか。麻帆良に住んでいる人間はそのほとんどが物事に拘らない性質を持っている。おおらかと呼べば聞こえは良いが、細かいことを気にしないことがいつでも美徳であるとは限らない。
 気づかれたくなかった。面倒になることは分かりきっていたからだ。でも気づいて欲しかった。そう思ってしまうのは止められなかった。
 一年はあまりに長い。幼い子供が成長するには十分過ぎる時間だった。
 内面もそうだし、外見上も微妙に変化しているはずだ。毎日付き合っている自分の身体である。自覚し辛い変化に千雨自身が気づいている以上、傍目には雰囲気もがらりと変わっていると感じられるに違いなかった。
 だから千雨がこの地に帰ってきて、初めて使った「なりきり」の相手は、一年前の自分だった。
 何も知らなかった自分に「なりきる」のだ。
 袋から取り出した愛用の伊達眼鏡ひとつで、十二歳の千雨は「十一歳の長谷川千雨」になっていた。

 自分でも思ってみなかったほどの懐かしさに急かされて、しかしそれを気取られることを恐れた千雨は、とりあえず自室に向かうつもりで居間を横切った。
「遅かったわね。買い物してくるとは聞いてたけど……ご飯の支度はもう出来てるわよ」
「千雨、どうした? 妙に落ち着いちゃって」
「あら、なんだか身長も伸びたような?」
 一目で気がつかれた。父も母も目を丸くしていた。千雨は自分の表情が引きつったのを自覚した。
「……ちょっと竜宮城に行ってたからかな」
 なんと答えたものかと迷った挙げ句の、苦しすぎる言い訳だった。
「へー。乙姫様は美女だったか? 水着着てたか? タイとヒラメは美少女に変わってたか?」
「あなた」
「じょ、冗談だよ母さん。千雨がおびえてるじゃないか」
「千雨……泣いてるの?」
「笑顔で泣くなんて器用な真似をしてるな……あ! まさか玉手箱を持ってきたんじゃ……! いかん、いかんぞ。開けなければそのうちもう一回招待してくれるはずだ! というわけで次は父さんも一緒に連れて行ってくれるな? 乙姫様は二十代後半くらいか? まさか十代じゃないよな……」
「あなた。ちょっと黙っていてくださる?」
 こくこく。父は沈黙した。
 バカみたいな会話だった。本当にくだらないやり取りだった。それさえも嬉しかった。麻帆良のなかにあっては話が通じないことが多すぎた。ありえないことをありえないと指摘すると、それを嘘つき呼ばわりされたこと。わかり合えないことの多さは両親ですらそうだった。分かってもらえないこと。理解してもらえないこと。どれだけ言葉を尽くしても、そこにある断絶を埋めきれなかったこと。
 その経験があってなお、千雨はひとを、言葉を、心を欲していた。
 そばにいる他者と何の心配もなく、ふれあえないということ。それがどれだけ苦しいことか。
 一年前の千雨にも自由はあった。
 誰にも手が届かないという、何の意味も無い自由が。誰からも求められないという空っぽの自由が。それはあまりに寂しいことだった。そうでない時間を、素直な言葉で話せる誰かを知ってしまった今ならば、その空虚な寂寞にはきっと耐えられない。
 一瞬。
 唇を噛みしめて、拳を握りしめて、少しだけ息を漏らす。
 自分から手を伸ばすべきだった。それを諦めてはならなかった。そうしなければ掴めないものがある。誰かのせいにして自分を諦める必要なんてないのだ。
 まぶたを閉じ、また開く。変わりない景色。両親が、千雨の言葉を待っていた。
 心はどこか穏やかだった。
 真剣な表情。もしかしたら初めて見たかも知れない、あるいは諦めていたから千雨自身がこれまで気づかなかっただけで、実を結ぶことが無かっただけで、以前から話を聞いてくれようとはしていたのかもしれなかった。
 一年前は素の自分を切り離したくて付けていた伊達眼鏡。
 今は、変わった自分を隠すための仮面としての道具だった。両親相手に仮面を付けたまま話すのは苦痛だった。
 テーブルの隅に眼鏡を置いて、まっすぐに二人を見つめた。
「話したいことがあるんだ」
 千雨はゆっくりと語り出した。


 それはどう控えめに言っても信じられないような冒険譚だった。一年前の千雨自身が他者から聞かされたなら鼻で笑っただろう。周囲の誰もにそうされたように。
 語るべきではない部分は端折ったにしろ、それだけの大冒険をしてきたという娘の言葉を両親は黙って聞き届けた。
 物語る言葉はいっそひそやかですらあった。静かな言葉で淡々と語る壊れた世界の情景は暗く美しく色づいていた。
 崩壊した世界。神のごとき力を振るう狂った魔導士。魔法の力。幻獣の存在。出逢った人々。そして仲間たち。死ぬような目にもあったし、必死の戦いの連続だったことも伝えた。伝説に出てくるような化け物と殴り合い、神話で語られるような魔法をその身に受け、誰かを救い、誰かに守られ、そうやって一年という時間を過ごしてきたのだと。
 そして、ようやく帰り着いたのだと。
 すべての話を聞き終えて、父は目頭を押さえながら頷いた。母は嗚咽を飲み込み、そっと口を開いた。
「よく、頑張ったわね」
 千雨は何か言おうとした。肩が、手が、震えていた。涙は勝手に流れてきて、止められなかった。
 もう。何も。何も声にならなかった。


 すっかり落ち着いてから、千雨は赤く泣きはらした目をこすり、長く息を吐いた。
「信じてくれてありがとう」
 顔が熱い。耳が赤くなっているかも知れなかった。
「千雨。……この話は、聞かなかったことにしたほうがいいのか?」
 父は聡かった。これまでの物わかりの悪さが信じられないほどに。この地で異常な物を目にした千雨が何を言っても当たり前のものだと信じ切っていた姿とは比べようにならなかった。
 ぞわりと、背筋に悪寒が走った。
 レジストした? いや、逆だ。
 ありえないことを、ありえることと認識させる力が働いている。一足飛びにその結論に至った。この場所には信じられないものを当然のものと認識しやすい誘導が存在しているのだ。
 つまりは、千雨自身が、その力に抵抗していた。だから他者との認識にすれ違いが発生した。だから誰もが千雨の言葉を受け入れようとはしなかった。
 麻帆良ならそんなことも起こりうるのだと。
 何が起きても不思議ではない。だから今の話も真実として受け入れられたのだと。
 怒って良いのか、それとも悲しむべきなのか、千雨は気持ちの置き場に困った。なるほど、非常識に足を踏み入れた人間にとっては都合の良い状況だ。そして望んだわけではないにしろ、そちら側に転がり落ちた千雨にとっても、助かる事態ではある。
 しかしそれがこれまでの人生における痛みを帳消しにしてくれるかと言えば、そんなわけがない。
 そんなわけがないのだ。
「千雨?」
 それでも、怒りに我を忘れたりはしない。
 この場所のことを詳しく知らない自分が激高したところで何も始まらないからだ。
 今は。少なくとも今は秘めておくべきものだった。
 千雨には、いくつかの推測があった。あるいは善意かもしれなかった。大きな力を持つことは争いを呼ぶ。そんなことは身を以て知らしめられている。神代の怪物さえ下した彼らにしても、町中ではみだりに力を誇示したりはしなかった。強すぎる輝きは災いを呼び込む。誘蛾灯のように。身の程知らずに光に誘われて引き寄せられた蛾は、触れ得ぬ炎熱に焼き尽くされて身を焦がして地に落ちるのだ。
 それを秘することで守られるものもあるのだろう。
 つまり……不都合なのは千雨にとってのみであって、他の大多数にとっておそらくは都合の良い状況だったのだ。巻き込まれないように、危険なものに手を伸ばさないようにと、そうして守ってくれているのかもしれなかった。
 その庇護のなかに自分がいなかっただけ。
 守ろうとする手の平から、こぼれ落ちて気づかれなかっただけ。
 それだけだ。
「……なんでもない」
 母の気遣わしげな視線に、素っ気なく答える。
 納得しきれるかと言うとそんなわけがない。それでも、僅かばかりの感謝はしよう。
 過去は消せない。過去は変えられない。それは今の自分を否定することと同義だからだ。辛いことはたくさんあった。でも嬉しいこともあったのだ。彼らに出会えた。自分に気づけた。ここで友人だって出来たのだ。
 そうしたすべてを今更無かったことになんて出来ないし、したくない。
 今の自分を形作るものすべて、今の自分が関わったものを、過去の痛みだけを理由に壊してどうする。得たものが、失ったものより小さいのならともかく、確かに大事だと、大切だと言い切れる自分の思い出すべてと引き替えになんかできない。
「千雨。本当に大丈夫?」
「ん。ちょっと考え事してただけだって」
「ならいいけど」
「さ、そろそろ食べようか。千雨にとっては一年ぶりの母さんの味か。……食べながら泣くなよ?」
 夕食はすっかり冷めてしまっていた。さすがにもう泣くことはなかった。
 三人で囲んだ食卓は、温かかった。そしてとても美味しかった。


 食後の話題は、千雨の成長ぶりだった。苛烈な戦闘の話はされたが、その内容やら仲間たちの強さの詳しい部分についてまでは説明していなかった。だから千雨が何が出来るのか、いまいち分かっていないらしかった。
「なりきり師、だったかしら。それはどういうことが出来るの?」
「……どういうことって言われても難しいんだけど」
「侍のひとがいたらしいじゃないか。そのひとの真似は出来るのか? 奥義とか秘剣とかは!?」
 父が目を輝かせていた。時代劇が好きなのだ。剣客だの剣豪だのと聞くと興奮する性質だそうだ。好きな剣士は柳生十兵衛、ただし山田風太郎版。いくらなんでも無茶振りである。
「あと剣が無いと技はちょっと難し……」
「木刀ならあるぞ! 昔な、京都で買ってきたんだ。本格的な道場から卸したらしくてな。ほらここ、神鳴流って書いてあるだろ。いかにもな名前じゃないか。きっと必殺技は雷をまとっての大ぶりな一撃に違いない!」
 有無を言わせず手渡されたのは、使い込まれた木刀だった。
 握りしめると本物の風格が漂っている。特に木刀の切っ先がアレだ。スッパリ綺麗に斬り飛ばされているのだ。木刀で真剣と斬り合った結果のような印象を受ける。
 売り物じゃなくて、勝手に持ち出された品じゃないのかこれ。千雨の怪訝な視線に気づいた素振りもなく、父ははしゃいでいる。
「よし、近くの公園に行こう。昔買ったサンドバッグがあるからそれも木につり下げよう」
「……使ったの見たこと無いけど」
「三日で飽きた、というか諦めたのよ」
 母がこっそりと耳打ちしてくれた。


 
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