あたりは暗くなっていた。中等部や高等部の生徒はまだ部活をしている者もいるかもしれないが、道場とは区画が違う。距離的にも大分外側の方に位置する自宅そばの公園にひとの気配はほとんどない。
 麻帆良学園には無数の部活動が存在しており、さんぽ部を始めとして校外に出てあちこちを回るような生徒は多い。加えて武術系の部や同好会も多く、さらにそういったグループに属さないで孤高を気取っている武闘家や武術マニアもわんさか存在している。
 少し広い公園や開けた場所にはそうした弱小グループの一部が練習に明け暮れていたりもするのだった。但し女子中等部を始めとして寮生活を送っている生徒の方が割合として多いため、夕刻を過ぎるとあっという間に方々に散って姿が消えてゆく。
 そんなわけでひとけが少なくなるのを待って、父がいそいそと支度を始めるのを横目で見ていた。台車で運んだサンドバッグがそんなに重いのか、枝に紐をひっかけたあと、顔を真っ赤にして持ち上げようとしている。
「出来たぞー!」
 いやはや。千雨もあんまり見たことのない父の一面を垣間見ることになり、何とも言えない複雑な気持ちだった。母はそんな様子を楽しげに眺めている。
 周囲からの視線が無いことをしっかり確認すると、着替えてジャージ姿になった千雨は木刀を構えた。
 呼気を整え、ぶら下げられたサンドバッグを凝視する。
 なりきる相手はカイエン。東方の国ドマの侍。不器用で優しいひとりの男。
「じゃあ行くぜ――《牙》」
 僅かに下げた木刀の切っ先がぴたりと静止し、鋭く狙いを定める。人間ならば心臓だが、この場合は中心付近だ。木刀を手にした腕をわずかに引いて、少し離れた位置から目標へと飛び込み、狙い澄ました一点へと突き立てられる。
 ザシュッ!
 その名の通り、獣の牙が食らいつくかのごとき一撃だった。
 雷光に似た速度で突き抜かれたサンドバッグは、ちょうど木刀が貫いた部分にぽっかりと空隙を作っており、一呼吸遅れて膨大な量の砂がざあざあと重力に従って落下し、作られた穴から地面へと大量にこぼれ落ちてゆく。
「……砂?」
 千雨が首をかしげた。普通、サンドバッグに本物の砂が入っているとは思わない。
「サンドバッグなんだから、中に入ってるのは砂じゃないと!」
「お父さんが張り切って、中身の布を抜いて入れ替えたのよ。それで殴ったら拳を痛めちゃって」
 実際のところ「なりきる」精度にはいくつかの段階があった。
 せめて衣装を侍風にしておけば口調は自分のままで技を使えたのだが、ジャージ姿のカイエンの姿がどうにも想像出来なかったため、「なりきり」の土台が足りなかった。
「……カイエンさんとやらは、まことの武士だったのだなあ」
 と父が先ほどの《牙》を思い返しているようで、感嘆の声を挙げていた。実はドマの侍ならみんな使えるという基本的な剣技であるという事実は口にしない方が良さそうだった。
 主に、父の夢を壊さないために。
 見世物的に技を振るうのをカイエンが好まなかったこともあって、先ほどの一撃は不出来にもほどがある。木刀を壊さない程度の威力で抑えて撃ったとはいえ、本来の威力であれば後ろの樹木ごと跡形もなく消し飛んでいるところだ。
 本来の《牙》は相手の防御を無視して、その空間こと抉り穿つ、おそるべき『必殺剣』なのだ。
 最も基本的な技だけに、熟練の達人が用いればその一撃こそ必殺となる。カイエンがもっとも好んで使っていただけあって、使いやすさは他の技とは比べものにならない。まったく溜めなしで撃ち放つ、防御しえない牙である。
 完全に再現しようと思ったら、当人の格好と、当人の思考や口調も必要となる。この場合は刀も必要だった。弘法は筆を選ぶのだ。使い慣れない武器、貧弱な装備で強大な相手と戦うなんてのは愚者のすることである。
 達人が武器を選ばないなんて言葉を吐くのは、たいてい準備不足の言い訳である。
 この「なりきり」では《烈》も《月》も《龍》も使えまい。衣装も口調も思考も千雨のままで撃ち放ったのだ。
 使えたとして《舞》が限度といったところだろう。しかも単なる技のみの模倣。それは型をなぞるだけの、張りぼてのような剣技である。単純に身体能力で無理矢理再現したに過ぎないとも言える。剣の理とはほど遠い。
 すなわち「なりきり」としては微妙すぎる出来であった。
 まあ、もともと両親に見せる技で公園ごと消し飛ばす威力の秘剣なんぞ出せるわけもないのだが。
 千雨が自嘲気味に笑う。我ながら毒されすぎだ、と。
「しかし見事でござるな」
「そうか?」
「そうでござるよ。まさか同年代でこれほどの使い手を目にすることが出来るとは驚きでござる」
 聞き慣れぬ声だった。千雨はすでに木刀を構えてその方角に視線をやっていた。
 両親もそちらを見た。
 三人で黙り込んだ。
「……な、なんでござるか」
「おお、忍者だ!」
「あらあら、忍者ね」
「忍者だよな、どう見ても」
 まさに忍者であった。
 着こんでいるのは忍者装束である。糸目である。若い少女だが背が高く、いかにもな雰囲気を纏っている。千雨と同年代である一点のみが不思議な印象を与えるのだが、これを忍者でないと言い張るのは尋常な神経ではあるまい。
「せ、拙者は忍者じゃないでござるよ?」
「ふうん。伊賀から来たのか?」
「いや、伊賀はお隣さんでござる」
 あっさりと口を割る自称忍者ではない忍者少女。伊賀のお隣さんなら、まず間違いなく甲賀である。
「やっぱり忍者じゃねーか!」
 ツッコまずにはいられなかった。
「……拙者が忍者というのであれば、そちらはサムライでござろう?」
「いや、違うな」
 千雨が、忍者少女のやり込めた顔に対して、不敵に笑いかける。
「む。しかし先ほどの剣の冴え、さぞ名のある……」
「本物はあんなもんじゃないからな。さっき私が見せた技は……精々形をなぞっただけさ」
「なんと……今の世にそれほどの方がいるとは! 一度お会いしてみたいものでござる。不躾で申し訳ないが……紹介などしてはもらえぬものでござるか?」
 一瞬、千雨は遠くを見つめた。もう渡ることの出来ない、隔たれた世界の果てを。
「悪ぃな。私も、もう会えないんだ」
「そちらの事情も知らず……申し訳ないことを口にしたようでござるな。あまりひとに見られたくないと知りながら覗き見た非礼は詫びさせてもらうでござる。しからば、御免!」
 咄嗟にその腕を握った。
 逃さなかった。
「勘違いされると困るから言うが、死んだわけじゃない。ただもう会えないってだけだ。つまり……あんたは悪いことを言ったわけじゃないから、気にするな」
 細かった目が、少し和らいだ。
「……優しいのでござるな」
「違う。勘違いで悔やまれるとこっちももやもやするだろ! だから」
「それを優しいというのでござるよ。……ああ、名乗りもせず失礼した。拙者は長瀬楓。先ほど見抜かれた通り、甲賀の忍びでござる。一応口外しないでもらえると助かるのでござるが」
「言わねえよ。言わなくてもバレバレだと思うが」
「そうでござるか?」
「天然か?」
「養殖の忍者というのは聞かぬでござる」
「へぇ。甲賀の里には天然の忍者ならいるのか」
「……いないでござるな」
「おい!」
 突っ込みきれない。千雨は両親とアイコンタクトを交わし、頷いた。
「まあ、言わないから安心してくれ。私は長谷川千雨。そっちは両親」
 父です。母です。と挨拶したあと、時代劇、時代小説、そして山田風太郎好きな父が矢継ぎ早に質問を繰り出し始めた。なにしろ目の前にいるのは忍者である。甲賀である。世情に疎そうな感じもしている。調子に乗った父の質問攻勢は留まることを知らなかった。
 一応同年代と名乗った以上、楓は中学生か小学生であろう。そんな少女に詰め寄っている父の姿は、何ともいえない大人げなさを漂わせていた。
 娘としては、非常に恥ずかしい光景である。母の笑顔も怖くなりはじめていた。
 父の質問の内容もだんだんと危険な領域に手を突っ込み始めている。里の規模だの今活動している場所だの、知ったら口封じされかねない内容である。
 楓が糸目をさらに細くしてニンニンとうめいた。困り果てているのは見て分かったので助け船を出してやることにした。
「で、結局何の用だったんだ?」
 助かった、と微笑む忍者娘はなんとか年相応に見えた。


「うむ。実は拙者、次の春よりこちらの中等部に入学する予定でござってな。下見に来ていたのでござるよ。が、今宵の宿を取るのをすっかり忘れており、いざ野宿出来る場所は無いかと方々さまよっていたところ……偶然先の光景が目に映ったのでござる」
「つーことはあんたも同学年か」
「も?」
「いや、さっきここに入る予定の留学生と出くわしてな。……しっかし、どっちも小学生らしくねえな」
「はっはっは。千雨殿がそれを言うのでござるか」
「……自覚はしてる」
 さもありなん、と楓はニンマリと笑んだ。やはり小学生の貫禄ではない。おかしい。
「ああ、一応人目に付きたくないようだったので人払いは仕掛けてござる。鳴子で囲ってもおいたゆえ、それでも入ってくる者がいればすぐそうと知れよう」
 納得した。先ほどのサンドバッグを貫いた一撃はけっこうな音がしたのだ。その割に誰も様子を見に来なかった。楓の言う人払いは神社仏閣に仕掛けてあるのと似て、なんとなく近寄りがたい、意識から外れるような光景にしてあるのだろう。
「最初から見てたわけだ。世話になったってことか?」
「仕掛けも覗き見もこちらが勝手にやったこと。文句は言われても、礼を言って頂くことではござらん」
「で、望みは」
「軽く手合わせをしていただければ、と。もちろん、無理にとは申さぬよ。断られたからといって先ほど見せていただいた技量を吹聴するようなこともござらぬ」
 落ち着いた様子ではあるが、性根の部分ではバトルマニアらしかった。うわ面倒くせえ、と千雨は表情を隠さなかった。楓はその千雨の顔色を眺めても黙ったままで、気長に返答を待っていた。
 様子を窺うと母は心配げに、父は目をキラキラさせてこのやり取りに見入っている。
「……軽くなら、いいぜ。ルールは?」
「急所には寸止めで。腕や足には……行動不能になる程度の威力で当たったら。それで良いでござるか」
「ああ」
 千雨はゆっくりと周囲を見回した。公園の電灯の光は思いの外明るく、白々とあたりを照らしている。
「結果がどうあれ、私がこんなことが出来るってのは黙っててくれよ」
「了解したでござる。安心召されよ。忍者は口が硬いでござるよ」
「じゃあまずその格好をどうにかしろよ! 忍者だとバレバレだろ」
「なんと! 通りで奇異な目で見られると不思議だったのでござる。まさかこの格好ゆえとは」
「本気で天然かよ……」
 頭を抱えた。わざとやっているとばかり思っていた。


 千雨は少し考えて、楓を見つめた。期待しきっている顔に応えてやりたくなったのだ。
「本物には遠く及ばないが……さっき言った侍には会わせてやる。少し待ってろ」
 良い機会だった。両親の目があるのも含めて。自分のこと、自分が他者からどう見られるのか、それを知るには好都合だとも考えた。
 瞑想のような集中。
 千雨の得た「なりきり」という力。それは一緒に旅した彼らの技にどこか似ていた。
 ストラゴスの「ラーニング」のごとく他者のことを理解するのだ。ティナの「トランス」のごとく自らの内側から力をくみ上げるのだ。そしてガウの「あばれる」のごとく「他者そのもの」として振る舞うのである。
 師匠であるゴゴの「ものまね」が引き起こす事象丸ごとのトレースだとすれば、千雨のそれはエミュレーション。模倣、再現という力の行使としては同じ。
 だからこそ、カイエンが長き修練の果てに得た技ですら、この手で繰り出すことが出来る。
 見る者が見れば分かるだろう。その所作に、その気配に、千雨の姿に重なるようにして、かの名高き武士の姿があることを。そこにいるのは千雨でありながら、同時にカイエンという人間であった。
 なんという風格か。ひとかどの剣士にとどまらぬ、歴戦を経たおそるべき古強者がそこに存在している。
「拙者はカイエン・ガラモンド……いや、長谷川千雨にござる。さあ、若き忍びの娘御よ……存分に仕合おうぞ!」
「手合わせと言ったが……これは! ふ、ふふふ。千雨殿、胸を借りるでござるよ!」
 先ほどの形だけのものではない。
 その身にカイエンという存在を降ろして、真の意味で、千雨は「なりきって」いた。
 さあさあ遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ!
 ここにあるはドマの侍。剣によって立ち、剣によって生きた剣聖。妻子を失い、国を守れず、世界を留め得ず……それでもなお他者を守らんと欲す、もはや迷い無き、一切の悪を断ち切らんとするもののふなり!
 目を見開いて、楓が構える。いつの間に用意したのか、両の手には木製のくない。千雨の木刀に合わせたのだろう。口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「甲賀下忍長瀬楓。では……参る!」
 風が吹いていた。千雨の両親は遠巻きに観客をしている。余人の目はない。
 いっそゆるやかな雰囲気が公園内に満ち、やがて一筆書きの勢いで闘争の気配に塗り替えられてゆく。
「いざ尋常に――」
「――勝負でござるッ!」
 戦いが始まった。


 攻防は一進一退だった。
 楓の手により、ほとんど間を置かず繰り出される無数の斬撃を、千雨は手にした木刀で丁寧にいなしてゆく。縦横無尽に打ち据えようとする手なりの攻勢の合間に、距離を離しての楓によるくないの投擲が一瞬で混じる。あえて致命打になりえないフェイントの一撃に重ねて、完全に急所狙いの猛攻が付け加えられる。
 なにしろ忍者である。残像に加えて、実体のある分身までもが一斉に飛びかかってくる情景はいっそ冗談みたいだった。何より冗談じみていたのは前後左右上下表裏から微妙にずれて撃ち込まれた乱撃を、静かな足捌きですり抜ける千雨の動きの方だった。
 躱されたという感覚もないのに当たらなかったのである。
 だというのに、楓の浮かべた表情は驚愕だけではなかった。
 フ、と楓が笑う。獰猛な笑みだ。
「打ち込んで来ないのでござるか」
「そうさせてくれないのは誰でござる」
 千雨のぼやくように答えた。
 大きな隙を作れないため、なかなか反撃しづらい状況なのである。多対一という状況が不慣れというつもりもないのだが、十人以上に分身してそのうち数体からは本体とほぼ同じ攻撃が飛んでくるのだ。封じ込めの手段としてはあからさますぎて清々しいくらいだった。
「拙者も必死なのでござる、よッ!」
 しかし楓にはそこまでの余裕はなかった。油断などしていない。していなくとも、わずかにでも攻勢を緩めた瞬間に得体の知れない斬撃が飛んでくるのが肌で理解出来ていた。
 大上段に剣を構えるほどの隙。それを与えた瞬間に真っ二つにされる。そんな情景が脳裏に思い浮かんでいたに違いない。
 それは正しかった。今はただ隙を窺う暇もあらばこそ、千雨は手にした木刀を護りにのみ使っていた。
 じゃり、と足下で音が聞こえた。
 それはあのサンドバッグからこぼれ落ちた無数の砂。知らぬ間に位置を動かされていた! 楓の驚きの顔を観察するのもそこそこに、千雨=カイエンは茶目っ気たっぷりな笑顔を見せる。
「素晴らしいでござるな。その若さで、よくぞここまで修練を積んだ。お主に敬意を表して、この技で決めるでござる……」
 楓の直感が叫んでいた。
 逃げろ、と。だがつかず離れずの現状だからこそ、この妙なる剣士に未だひとつとして技を繰り出されていない状況である。避けるも防ぐも難く、その時間は与えてはくれまい。
 先ほどその視認した《牙》であれば防ぐのは愚の骨頂。あれは守りごと消し飛ばす荒ぶる獣の一撃である。
 別の技であれば想像も付かない。どんな風に、どれほどの威力の、どんな技を使われるのか……その想像に動きが鈍った、この刹那、楓は自分の失敗を悟った。滑る砂の上で、普段と同じ速度で飛び退ることは不可能だった。
「――《舞》」
 声が聞こえた。その時点で、すでに一撃が腕に絡みついていた。本体の腕に。分身には目もくれず、痺れるような鋭い打撃。
 見抜かれていた!
 回避を!
 その思考より早く二撃目が足を打ち据えている。痛みよりも驚きよりもなお早く三撃目が背中に迫る――!
 楓の身体が訪れるべき未来を予期したのか、当人の意志とは無関係に萎縮する。が、それ以上の攻撃はいつまで待っても襲いかかっては来なかった。目は閉じていなかった。だから背後に千雨が回り込んでいたことにも気づいていた。
 流麗にして絢爛、まさしく舞うかのような滑らかな動きだった。腕は右に抜ける一振りで、足は左からの打ち払い、背中に至っては、正面から来たと思った瞬間に背後からの殺気に転じている。
 背後の気配を辿るまでもない。木刀の切っ先部分が背骨に沿うようにして突きつけられている。
「寸止めでござったな」
 楓はそろそろと息を吐き出し、全身を弛緩させた。いくつ身につけていたのか不思議な得物が砂の上にいくつも転がる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……散々投げつけられたのにまだ八つも持っていたらしい。
 忍者相手である。武装を解除しても最後まで油断はしなかった。
「……参った」
 楓が降参した。勝敗は決したのだ。
 緊張状態にあった身体から力が抜けると、彼女は感激したように目を瞬かせた。
「千雨殿……!」
「なんでござるか」
 口調が戻っていないのは副作用である。深く「なりきり」を使用すると、その考え方やら何やらあれこれの影響から抜け出すのが割合大変なのだった。
 今、携帯電話を弄ったらあっさりと壊す自信があった。
 思考や性格までも「なりきる」ため、機械が苦手という弱点もそのまま付与されてしまうのだ。
「是非、拙者を弟子に! ……と言いたいところでござるが、千雨殿は頷いてはくれないでござるな?」
 その通りなので首肯した。面倒ごとはご免だ、とそれまで散々態度で表しているのである。ここで強行に願い出ても千雨が引くだけだと楓も理解しているらしい。
「では、いつかまた手合わせしてもらえぬだろうか」
「……いいぜ。そのうちな」
「なんと! 良いのでござるか!」
 ようやく口調が戻ってきて、千雨は安堵の息を吐く。素に戻るとござる口調はなかなか厳しいものがあるのだ。普段からの言葉遣いとして楓がござるござると口にしている姿を見ると、社会生活送るのに大丈夫かと他人事ながら心配になってしまう。
 そんな心配はよそに楓は全身で喜びを表していた。
「たまには動かないと身体がなまるしな。あのくらいならやり過ぎる心配もないし」
 千雨の言葉にしたり顔で楓が頷く。負けたのは当然と思っている顔だった。
「拙者、自分の未熟を痛感したでござる。先ほどは……遊ばれていたのでござろう?」
「いや。そんなことはないぜ。ただまあ……カイエンのおっさんは五十歳くらいだからなあ。十代のガキとガチでやり合ってる時点で大人げないような気もするな」
「ああ、千雨殿に重なって見えたあの御仁はそんなお年でござったか」
「あとは得物の問題もある。木刀じゃあの技の本領発揮とは言えない。さっきの技は《舞》って名前だ。カイエンのおっさんが編み出した必殺剣でな。書いて字のごとく、必殺の剣だ。必ず殺すための技なんだよ。まず真っ先に相手の武器を持ってる腕を斬り飛ばして、即座に逃げられないように膝下を切りつけて、背後に回って背骨ごと切り裂いて動きを止めて、最後にトドメを差すために首筋をずんばらりん、って技だ。寸止めって言ってるのに、いくらなんでもそんな技を全力では使えないだろ」
 喋っていて千雨も首をかしげた。あの人柄なのに、用いる技はとんでもない必殺の剣である。
 ちなみに今語ったのは《舞》の基本形に過ぎないため、相手によっては両腕の手首だけを執拗に狙う四連撃になる場合もある。どんな相手でも片手が残れば反撃はありうるし、それを封殺することで確実に殺害する布石とするためだ。必要なのはあの動きと四つの斬撃。必中を旨とする《舞》という技にとって、肝要なのはそれだけだった。
 などと語ると、楓はそろそろと息を吐いた。
「……それはまたなんとも……凄まじい御仁でござるな」
「武士の剣技は徹頭徹尾、人斬りの技だぜ。突き詰めればいかにして殺すか。それだけだからな。まあ、カイエンのおっさんに言わせれば『どんな力も使い方次第でござる。人を殺すための剣も、人を守るための剣も、その鋭さに違いはござらん』らしいが。普段使ってる包丁だって、殺す気で刺せば人は死ぬ。薬だって使いすぎれば毒になる。だろ?」
「然り。……千雨殿」
「なんだ」
「それがカイエン殿の技であるとは理解したでござる。だが、千雨殿はいったいどうしてこれほどの――いや、これこそ差し出口でござるな。先刻より我が儘を聞いてもらってばかりの身。今のは忘れてもらいたいでござる」
「長瀬」
「なんでござるか?」
「『そして、強さだけでは守れぬものがある』。さっきのカイエンの言葉の続きだ」
「身につまされる言葉でござるな。……精進するでござる」
「まあ、これから中学生になろうってガキが理解すべき話じゃないと思うがな」
「……千雨殿は優しいでござるな」
「さて、どーだか」
 鼻で笑ってやった。楓は忍びには似合わない、華やぐような笑みを浮かべた。頬を緩めると、ぐるりと周辺を、公園でさきほど行った戦闘のあとを視界に収めた。
「……これは……片付けるのが大変でござるな」
「くないは自分で片付けろよ。こっちの砂は自分でやるから」
「分かったでござる」
 無数に散らばったくない型の木片を手際よく拾い集める楓を余所目に、千雨は地面の土とは違う色の砂をかき集めていた。箒とちりとりは千雨の父の手によりいつの間にか用意されていた。楓と鼻先を突きつけ合わせて、地面を睨みながらの後片付け作業は、先ほどまでの激闘とはまるで遠ざかった空気を醸し出してくれていた。
「手伝うでござるか?」
「じゃあ頼む」
「ひとつ聞きたい。……《牙》は、本来はどのような?」
 サンドバッグの残骸を丸めながら会話していた。本来の《舞》がえげつない技と知って、楓は《牙》のことも気に掛かったのだろう。詳しく手の内を明かすのはどうかとも思ったが、千雨はまあいいかと説明した。
「頭とか心臓とかを、防御無視の一撃で抉り穿つ、超高速の刺突だな。つまり……」
「牙突でござるか!」
「あー。そうなるか」
 楓が言ったのは、かの有名な壬生の狼、斎藤一の必殺技である。牙突は漫画の技ではあるが、本気のカイエンが《牙》を使うとだいたいそんな感じとなる。千雨が初めて見たときの第一印象も『牙突・弐式じゃねーか!』だった。実際には左片手一本突きの理屈に近い。
「漫画、読むのか。忍者のくせに」
「漫画を読むことと忍者は関係ないでござろう!?」
「好きな漫画は?」
「るろうに剣心、落第忍者乱太郎、伊賀の影丸、仮面の忍者赤影、子連れ狼、ワタリ……これくらいでござるな」
「……」
「伊賀ばかり持て囃される風潮はどうにかならんものかと、常々思っているのでござるが」
 分かりやすすぎるラインナップだった。狙い澄ましたかのように名前を挙げられた。千雨も一年のブランクがあるとはいえサブカルチャーには一家言ある。告げられたタイトルの全てを読んだわけではないが、おおよその内容は知っている。
 他にも面白いものはいっぱいあるだろ、もっと読めよ! と胸中では忸怩たるものが渦巻いていた。
「千雨殿、なにゆえこめかみを押さえるのでござる?」
「忍者ハットリくんは読んでないのか?」
「ハハハ、拙者の人生にはそのようなものは存在しないでござるよ」
「そうか」
「そうでござる」
 楓は真顔だった。
「ちなみに長瀬、カエルは苦手か?」
「何故それをっ!?」
「トノサマガエルが特に苦手とか?」
「……千雨殿には読心の心得まであったでござるか」
 驚愕の表情で恐れおののく楓を見て、心の中ではハットリくんと呼ぶべきかと、千雨はかなり本気で迷っていた。また十字手裏剣型のおねしょをしてたりはしないか、とは怖くて尋ねられなかった。


 空気になっていた両親が、すっと割り込んだ。
「それで……楓ちゃん、だったわね」
「ちゃん付け……」
 くわっ、と楓が目を見開いている。
 いやそんな衝撃的なことじゃないだろ、と千雨が小声で突っ込むが、誰も聞いてはいなかった。もしかしたら初めての呼ばれ方だったのかも知れない。
「うちに泊まらない? あなたみたいに可愛い女の子が野宿なんて危険なことはしちゃダメよ」
「お気遣いはありがたいのでござるが、拙者は山育ちゆえ野宿には慣れて――」
 びゅう、とタイミング良く北風が吹いた。
「ほら、こんな寒い時期でしょう? せっかくうちの千雨とお友達になったんだし、親睦を深めると思って」
「友達」
 ひとこと、繰り返した。
「友達、でござるか」
 小さな声だった。そこにささやかに混じった響きは、ひどく揺らめいているように思われた。完璧に忍びである。山里の閉鎖された隠れ里にでも住んでいたのだろう。そうした事情を察することは可能だった。
「なんだよ、私と友達になんかなりたくないってか」
「千雨殿は……拙者と友誼を結んでくれるでござるか」
「大したことじゃないだろ。友達になるくらい」
 と口にした瞬間、千雨は自分の言葉でダメージを受けた。よく考えたら友達なんてほとんどいない。あの世界や、ネットの向こう側ならともかく、この麻帆良においては、ついさっきの超しか思い浮かばなかった。
「……一般的には、大したことじゃないだろ。友達になるくらい」
「言い直したでござるな」
「よく考えたら大したことだったんだよ! 私にとっては!」
 叫んでおいた。まごう事なき照れ隠しである。
「逆ギレとはまた、千雨殿にも昨今の若者らしいところがあったでござるか」
「どういう意味だ」
「そのままの意味でござる」
「あん?」
「ニンニン」
 などというやり取りを笑顔で交わした。終始笑顔だったのだ。千雨は肩をすくめた。
「ま、こんだけ話してあんなことして、それで友達じゃないなんて言い張る意味は無いわけだ」
「うむ。では……ふつつかものでござるが、どうぞよろしくお願いするでござる」
「その言い回しはヤメロ」
「おや? 里の者は気に入った相手が居たら、三つ指突いてこう言えと助言してくれたのでござるが」
「分かっててやってるだろ」
「はて、何のことやらさっぱり分からぬでござる」
 素知らぬ顔でぬけぬけという楓の所作は、どこか楽しげだった。
 結局、断り切れずに楓は千雨の家に泊まっていった。翌日、帰るために出立するまでのあいだ、千雨の母から女の子らしい振る舞い方を指南され、挙げ句の果てにはフリフリの可愛らしい服装を着せられていた。
 父は女同士の話には邪魔だということで、家を追い出されて早朝から会社に追いやられた。
「……千雨殿の母上は凄まじいの一言でござるな」
「ああ、私も最近気づいたんだ」
「もはやこれまで……無念でござる」
 疲弊しきった楓の面相は、目にした者に強い憐憫の情をもたらすには充分だった。次に着替えさせられそうな衣服を見た途端、死地に赴くかのごとき形相となったのである。
 楓の視線の先に燦然と鎮座ましましているのは、ピンクで、キラキラで、フリフリな服だった。
 いくらなんでも、長身の楓にゴスロリを着せるのはどうかと思う千雨であった。
(まあ、下手に止めると私が着せられる羽目になるし。私のために犠牲になってくれ、友よ)
 聞こえないように呟いたのだが、楓はしっかり聞き届けていたようだった。
「ち、千雨の薄情者ーっ!」
 それ以降、千雨に対する敬称が抜けた。関係の距離が縮まったことだけは間違いなかった。


 里に帰る楓の見送りをするため、母と二人で駅まで付いてきた。意外にも楓の荷物は少なかった。
 曰く「物はなくとも、山があればそれなりに生きて行けるものでござるよ」だそうだ。忍者らしからぬ洋装を押しつけられた楓は、着慣れない服になんとも居心地の悪そうな様子ではあったが、千雨の母からの好意を無碍に断ったりは出来なかった。
 基本的に善人であるという証左だろう。
「というかあの格好のまま麻帆良に来たのか」
 あの格好というのは、昨日楓が来ていた真っ黒な忍者装束である。あれぞザ・忍者といった格好のまま、まさかとは思うが、滋賀から埼玉くんだりまで電車を乗り継いで来たんじゃないだろうな、と千雨が目で問うと、楓は慌てて視線を逸らした。
 したらしい。
「し、しかし、誰も拙者が忍者だなどとは指摘してこなかったでござるよ?」
「コスプレと思われたんだろ。堂々としてたら、あんまり指さして笑ったりもしないし」
「……拙者、忍者なのに……」
「忍者と思って欲しいのか欲しくないのかどっちだよっ!」


「上手くいけば来年の春には再会となろう。そのときはよろしくお願いするでござる」
「ん? 麻帆良の女子中等部に入るんだろ?」
「の予定でござる。もともとは長から里の外で学んでこいと背を押されていたのでござるよ。しかし、外で生活するには里で中忍の資格を取らねばならぬのでござる」
「なるほどな。許可制だから、それで合格しないと入学の話も立ち消えか」
「千雨には感謝してるでござるよ。拙者などまだまだ。外の世界の強者なぞ、どれほどのものかと慢心してござった。ゆめゆめ精進は怠らぬよう、邁進するのみでござる」
「あんまり気張らない方がいいんじゃないか」
 楓はニンマリと目を細めて、手を振った。
「楓ちゃん。荷物の中に昨晩見せた服を入れておいたから、気が向いたら着てちょうだい」
「ありがとうでござる……ニンニン」
 母の仕業であった。いつの間に。
 千雨も楓も気づかないうちの早業であった。楓の表情が微妙に引きつっているのはおそらく気のせいではなかった。
 そうこうしているうちに電車がホームに入ってきた。ドアが開き、その中に楓が足を踏み入れる。
「では名残惜しいが……これにておさらばでござる」
「ああ、またな」
 楓の明るい表情が、去ってゆく電車の窓の向こう側に覗けた。


 見送ったあと、すっかり日も昇って、学生の姿がどこにも見えなくなったころのこと。
 母は小首をかしげた。
「ところで千雨、学校は?」
「あ」
 長谷川千雨、未だ小学六年生である。
 本日は2000年11月7日火曜日。
 晴天。そして、普通に小学校で授業のある、少し肌寒い平日であった。
 すっかり縁遠くなった小学生の日々を思い返しつつも、無自覚に行ったのはずる休みである。らしい生活ってなんだったっけか、と僅かながらに疑問を抱く。今更小学生でござい、と授業を受けるのは気恥ずかしい。
 かといって、登校なんてようやく取り戻した平穏な日常の象徴である。容易くは棄てがたい。
「……長瀬のやつ、もしかして小学校行ってないのか」
「忍者学校とかあるんじゃないかしら」
 ふと気になって口に出すと、母からありえなさそうな単語が出てきた。
「まさか」
「寺子屋なら?」
「……否定出来ないな」
 何も考えていない会話を母と交わすのは楽しかった。空気は穏やかで、空はどこまでも青く眩しかった。
 平穏な日常の続きが、千雨を待ってくれていた。


 
前へ / SS置き場へ / 次へ


inserted by FC2 system