巨大な学校といえど、基本的な流れは変わらないらしい。
 2001年4月6日。
 麻帆良本校女子中等部の入学式の日のことである。

 入学前に送付されてきた資料によると、千雨は1−Aに所属することになる。
 三年間同じ教室を使うそうだ。
 A組教室のある三階まで階段で上るのは意外に時間がかかる。
 周囲の生徒も新入生特有の雰囲気を身に纏っているためか、前も後ろもどこかそわそわとして、初々しさに溢れた気配でいっぱいだった。
 入学式の前に一度自分の教室に新入生全員で集まって、まとまって動くのだ。スケジュールとしては教室で顔合わせ後、入学式、学園長の長い話を聞いたあと、在校生が何か喋って、厳かに式典終了の運びとなる。
 で、金曜日に入学式が設定されているのは、式の後にオリエンテーリングの時間が長めに取られているためだ。
 寮生活を送る生徒のために、土曜日と日曜日が作業時間として割り振られている。いきなりの休日だが、大方は先に送っておいた荷物を紐解くので精一杯だろう。

 三階A組教室に足を踏み入れた千雨は、動きを止めた。
 バラエティ溢れる教室内で真っ先に目にしたのは、自称火星人でも、忍んでない忍者でもなく。
「……また仏頂面してんのな、ガキ」
「なんだと?」
 一瞬驚きに染まった瞳の色を瞬時に消し去ると、その少女は面倒そうにこう言った。
「失せろ」
「つーかセンパイじゃなかったのか?」
 千雨は嘆息した。
 マクダウェル、と言っただろうか。まさか同級生とは。
 不可解であった。
 何か理由はあるのだろうが、こんな場所で出くわすのは千雨にも想定外だった。
 どう見ても年上には見えないのだが。
 小学生でも通じる体躯、白磁のように美しい肌の色、そして窓から射す陽光に眩く映える黄金色の長い髪。その表情は人形の容姿とは裏腹に皮肉げで、いつぞや見た儚げな様子とはずいぶんと様変わりしていた。
 やはり外国人留学生なのだろうが、口も悪く日本語を滑らかに操るさまは、容姿とは異なり自然すぎて何か不自然だった。
 この口の悪さが、以前出くわしたのが同一人物であるという証明にもなるのだが。
「……いや待て。貴様、なぜ覚えている?」
「なぜって言われてもな。一ヶ月経ってないことを忘れるほど記憶力弱くねーよ」
「そういう意味ではないっ」
「ああ、泣き顔は忘れてほしかったってことか」
 千雨が納得して呟くと、
「あのときも泣いてなどおらんわ!」
 と睨まれた。年の割には迫力のある視線と声色で、ああそんなにも気にしていたのかと千雨は頷く。
「分かった。そういうことにしておく」
「貴様ッ!」
 声を荒げた少女のせいか、周囲の目が二人に向いていた。
 なんでもないと手を振って視線を散らせる。何やら毛色の違う好奇の目がいくつか混じっていたのだが、取り立て的にするほどのことではないと千雨は捨て置いた。
 少女の方も同じ気分だったのか、それでも衆目を集めることを厭って声を落とした。
「……後で話がある。……名前は?」
「長谷川千雨だ」
「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだ」
 少し考えてから、エヴァンジェリンはにやりと笑った。
「長谷川千雨。後で茶々丸を迎えに寄越す」
「は?」
「茶々丸。こいつを後で家まで案内しろ」
「はい、マスター」
「お、セリオっぽいメイドロボか。もう動けるんだな」
「……待て。色々と聞きたいことが増えたが、なぜ茶々丸のことを知っている?」
「超のヤツが関わってんだろ? 前に来たメールに添付されてた写真で見た。ああ、そういやメイドロボって書いたらガイノイドだヨ! って事細かく違いを書き連ねた返信が来たな。私からすると、どう見てもメイドロボなんだが」
「……あいつは何をやっているんだ……」
「ところでマスターってのはマクダウェルのことか」
「肯定です、長谷川さん。私はマスターと葉加瀬、超の手により作成されたガイノイドですから」
「なんで中学生やってるんだ?」
「情操教育の一環だそうです」
「……このクラス、上下問わず年齢詐称が多すぎるな」
 千雨は教室内のクラスメイトたちに視線を向けた。中学一年生と説明されても素直に頷けない何かがあった。このやり取りを利きつつも口を挟まなかったエヴァンジェリンは、見れば頭を抱えていた。


 超は入学前から学内であれこれやっていたし、ここ数ヶ月で何度か顔を合わせている。
 視線が合うとニーハオと言われた。
「いや、お前今までそんな挨拶したことなかっただろ」
「アイヤー。千雨サンは厳しいアルねー」
「そうアルよー」
「超。お前今まで語尾にアルなんてほとんど付けてなかったよな。あとそこの中国からの留学生。語尾にアルをつける必要は皆無だぞ。日本語でも中国語でもないだろ、その語尾」
「キャラ付けが大事って利いたアルよ」
「そうだナ。古、自分のキャラを確立したければ千雨サンに聞くといい。こう見えても千雨サンはコス――」
「うるさい黙れ」
 超を締め上げて物理的に黙らせておいた。
「おおっ。見事なチョークスリーパー! 千雨サンにはプロレスの経験がアルか?」
「ねえよ!」
 楓は視線だけで挨拶を交わした。まあ、年賀状で中忍試験に合格したというのは伝え聞いていたから、特に驚かない。同じクラスになりそうだ、というのは予感していた。
 前よりは忍んでいる。
 が、自分よりずっと小さい双子に話しかけられて、ニンニンとか呟いている。
 超が必死な様子で締め上げる腕をタップしてきた。
「降参するヨ! うう、千雨サンは心が狭いヨ……別に趣味のコスプ――」
 ぎろりと睨むと、超は距離を取った。さすがに懲りたらしい。
「……むっ。アレはまさかニンジャ!? 超! 私、行ってくるアル!」
「惜しいナ。時間切れヨ」
 教師である高畑が入ってくると、教室内が俄然騒がしくなった。
「あれはデスメガネ!」
「知っているのか雷電……じゃなかった、朝倉!」
「広域指導員にしてこの女子中等部の教師。笑いながら不良どもをなぎ倒していく姿から、ついたあだ名はデスメガネ! 年の割には老け顔なことも含めて、このあたりじゃ知らないヤツはいない名物教師だね」
「で、あそこで騒いでるのは?」
「神楽坂明日菜。初等部から内部生。たしか高畑先生が保護者やってるって話」
「よく知ってるな、朝倉」
「ちなみに見れば分かると思うけど」
 と指し示された明日菜の表情に、周囲一同はみな一様に納得したという反応を示す。
 目にハートマークが見える状態だった。分かりやすすぎる。
「という状態。ちょっかい出すのはほどほどにねー」
「アスナさん! 騒がしいですわよ!」
「げっ。いんちょ!」
「げ! ではありません。そもそもまだ顔合わせも済ませていないうちからこんなに煩く騒いで……」
「あーはいはい。それで高畑先生がこのクラスの担任ってことでいいんですかっ」
「ははは、まあそうなるね」
 高畑はパンパンと手を打ち鳴らすと、若干静かになって教室内に声を掛ける。
「それじゃみんな、これから入学式の会場へ移動だ。一番から順に列になって――」

 会場で、壇上の学園長の長話を聞き流しながら、ふと思い返すのは卒業式のこと。
 といっても千雨のではない。つい先月に行われた、この麻帆良本校女子中等部の卒業式である。



 さて、つい数日前にとうとう小学生という立場から離れられた千雨であった。
 小学校の卒業式というものはそれほど感動的とは言い難い。感傷に浸れるほど精神的に成熟してもいなければ、教師にお世話になった、という感覚もなく、相応の感慨が湧かないからだろう。
 それでも友人と離れることに涙する者がいないわけではなかったが、麻帆良の小学校を卒業した児童は大半が持ち上がりで本校の中等部に入ることになる。
 つまり、別離の悲哀もほぼ皆無なのである。これで緊張感が続くほうがおかしい。あくまで一区切りにしか過ぎない卒業式はつつがなく終わってくれた。途中、若干会場が騒がしくなったりもしたが、麻帆良の風景としては平常運転である。
 三月後半の平和そのものな日々を謳歌していたのだ。
 冬も終わり、季節は春に彩られ始めていた。
 道行く人々の顔には新しい生活に対する希望が溢れ、足下に生い茂る緑の芽吹きもそれに倣っているかのようだった。基本的に脳天気な住人や学生ばかりの麻帆良である。新生活に向けての支度に準備にと大忙しで、憂鬱を感じている暇など無いのだ。
 だというのに千雨の表情は晴れなかった。
 嬉しくはあるのだ。小学校より、中学の方が、同年代の精神年齢は上がるだろう。だから楽にはなるのだ。
 なのに。
 ここ最近、何やらトラブルの現場に出くわすことが増えた気がしていて、どうにも素直に喜べなかった。
 いや、以前からその傾向はあったのである。
 気づいていなかっただけで、実際はかなりの頻度で目にしているらしかったのだ。

 まず、一昨年の十二月のことである。
 竹刀袋を持った女教師が、険しい顔をしてどこかに走り去ってゆくのを見たことがあった。
 師走だから女教師が走っている。ここまでならおかしくはない。いくら妙齢の女性であっても、校内にて変事あらばスカート姿のまま構わず駆け出すことだってあるだろう。
 だが、今になって思い返してみればずいぶんと色々なことが分かるのだ。
 あの立ち振る舞いや隙の無さからすると、尋常な腕ではなかった。
 腕の良い剣道家ではなく、実戦に赴いて真剣で斬り合うことを厭わない、そういった日常からほど遠い鋭さがあった。
 竹刀袋に入ってはいたが、竹刀ではなかった。演劇部か何かの小道具ですらなかった。おそらくは真剣だ。

 去年の夏の出来事には、こんな情景もあった。千雨も驚いたために、割合鮮明に思い出せる。
 遠くの道路に陽炎がゆらゆらと浮かび上がるほど、蒸し暑くてうんざりする日のことだった。
 公園で遊んでいる子供の頭の上に、いきなりスズメバチが数匹飛んできたのである。
 近くに巣でもあったのだろう。
 問題は、そこにかけつけたのがグラサンに髭を生やした、どう見ても堅気とは思えない強面の教師についてである。
 後で知ったがヒゲグラ先生とかグラヒゲ先生とか呼ばれているらしい。広域指導員としては特に有名な死の眼鏡(デスメガネ)と一緒で、あだ名以前に何かが激しく間違っている気がしてならない。
 話を戻すが、もちろんスズメバチがいたことも、ヤクザっぽい風体が問題なのでもない。
 ヒゲグラ先生が遊んでいた子供達を遠ざけた後、一匹だけ子供に狙いを定めて近寄ってきたスズメバチが、いきなり弾かれるように風で吹き飛ばされたことだった。
 普通に考えてハチは危険だ。怖い。
 だから必死に後退しつつも、千雨は無意識に振り返ったときにそれを見た。
 あの瞬間、ヒゲグラ先生がハチを見据えて指パッチンしていたことを。
 単純に考えれば、いきなり強風が吹いてスズメバチが吹き飛ばされたことで、指を鳴らして自分の幸運を表現した、ということになるのだろう。指パッチンと突然の烈風に因果関係があるはずがない。
 しかし指パッチンの方が先だった。ちゃんと見ていたのだ。
 あんたは素晴らしきヒィッツカラルドか! とそのとき千雨は呆れた目で見ていたが、かの世界で「魔法」に触れ、ある意味では極めた今ならば、その理由がよく分かる。
 あれはきっと魔法だった。
 フィンガースナップを起点に魔法を行使して、風を操り、ハチに狙われた子供を守ったのだ。


 記憶にある情景を細々と思い返してみると、以前ですらそういったことに結構な割合で出くわしている。
 異常であるとか非常識だとか思う以前に、それが意味するところが分からなかったのだろう。
 以前の千雨に分かったのは、常識と不整合である情景だけだ。
 一般的な視点からすれば、竹刀袋に入っていれば中身は竹刀だと普通は思うし、当時は実際にそう思っていた。
 まさか美人女教師が日頃から日本刀を持ち歩いているなどとは想像しまい。
 指パッチンで風を発生させるだなんてそれこそ漫画じみている。
 問題は、今ならそれが分かってしまう、ということだ。
 分かってしまうようになってから、麻帆良の街を歩いてみると、思っていた以上にここはへんてこである。
 実際にはそう出くわすものでもないのだろう。
 この巨大な街のなかで、実際に何かがあって「魔法」を無思慮に使うことや、真剣を握りしめて駆けずり回るようなことはほとんど無いはずである。
 少なくとも一般人の前でそうした行動に出ることは、緊急時を除いて控えられていると思っていい。
 意識を誘導しているとはいっても、誤魔化すには限度というものがあるはずだ。そうでなければ真剣を竹刀袋に入れて隠したり、子供を下がらせてから無詠唱で「魔法」を使ったりはしまい。
 まさか、好き勝手に何らかの「力」を使った挙げ句、見られたら一方的に相手の記憶を消去するなんて、そこまで無茶苦茶な真似はしていないだろうし、するはずがないと信じたかった。
 それが千雨の出した結論だった。
 あからさまな麻帆良特有の常識、たとえば武術系クラブの部員が格闘ゲームじみた技を使ったり、気がどうこう叫んで遠当てを練習している男がいたり、工学部が最先端技術を惜しみなく使いまくって謎のロボを作っていたり、学園長がどう見ても仙人です本当にありがとうございました的な見た目だったりはさておき、この都市は「魔法」そのものと、「魔法」にまつわるトラブルは一応上手く隠しているようなのだ。
 で、それに関わる教師が対処のために走り回っている場面に、ちょうど出くわす。
 偶発的に起こる物事に対し、千雨は何の意図もなく、単なる偶然でそこにいる。
 一般人が近づけないようにされているところに、知らずに踏み込んでいる場合もあるのかもしれない。
 厳重な人払いがされているなかを、素知らぬ顔で歩いて行く千雨。
 客観的に自己の状況を鑑みるに、魔法関係者にとってみれば疑わしいことこの上ない存在である。
 もしかしたら、すでに目を付けられているかもしれない。
 というか確実にされているだろう。
 何も知らなかったときに、誰も不思議に思ってない異常を常識と照らし合わせて異常であると幾度となく指摘し続けていたのだから。
 自分の過去の行いを後悔しているわけでは決してないが、現状においては何の慰めにもならない。
 何が要因かを理解出来る者が知れば、以前の千雨の置かれていた状況を即座に看破するに違いない。当時ならともかく、今更になって過去の記録から見抜かれても迷惑なだけである。
 千雨は嘆息せずにはいられなかった。
 面倒ごとに巻き込まれる可能性が飛躍的に高まったことに気がついたからである。
 すでに渦中にいると考えても正しいはずだ。
 問題は、それが誰かの意思によって巻き込まれるのか。
 それとも当たり前のように行く先々で自動的に事件が起こるフラグ体質なのか。
 特に後者がまずい。
(コナン君体質とか本気で勘弁してくれ……)
 本心からの嘆きだった。

 あの世界においては、世界を創造し、互いに闘い、すべてを破壊した三柱の闘神や、その力によって生み出された幻獣が魔法の力の元となっていた。
 帰還前に想定はしていたが、この世界にも魔力が存在しているのは確定した。
 厳密には違うものだと思われるが、燃料としての用途が同じなのだから、ほぼ同一と考えて問題は無いはずだ。
 違ったとしても、精々が灯油とガソリンくらいの差だろう。
(なら魔法使いは石油ファンヒーターだったり、運送用のトラックだったりになるわけだ。そう考えると、幻獣や三闘神は油田みたいな扱いになるのか。魔石なんて化石燃料そのものか。使い方さえ間違えなければ便利なのは確かだ。そりゃ独占しようってヤツが出るのも当然だな)
 自分の想像に、千雨は苦笑せずにはいられなかった。
 不注意で大火傷を負いかねない点まで含めて、まったく同じようなものだと思ったからだ。

 千雨は会得した「魔法」がすべて恙無く行使できると確信していたが、帰還してからは一度も使っていなかった。そもそも攻撃や回復、支援などといった戦闘用に偏っているために使う理由も無かったというのもある。
 加えて、どこに監視の目があるかも分からなかったし、いわゆる「関係者」と思しき教師陣に偶然出くわす危険性の高さに辟易していたせいもあった。
 魔力の扱いについて研鑽を積んだがために、麻帆良の街全体を覆っている結界についても把握出来ていた。だから魔法を使うこと自体は忌避していなかった。
 嫌だったのは面倒ごとに関わることである。
 魔法が使えるとなれば、彼らは絶対に千雨に接触を持とうとしてくるだろう。千雨が彼らの立場だとしたら捨て置かない。
 まず真っ先に対話を試みるだろう。彼らが選択するのが敵対なのか、協力要請なのか、実際にそのときになってみないと分からないのではあるが、間違いなく不干渉というのはありえない。
 こうした理由から、魔法は可能な限り使わないつもりでいた。
 時間を掛けて読み取ったおかげで、結界の効果についてもおおよそは理解出来ている。
 侵入者関知。おそらくは外と内側を隔てる薄い膜のようなものがあり、それを突き破って来た何者かを侵入者として扱うという仕組みになっているのだろう。
 いくらなんでも住人全員の情報は登録するには多すぎるし、その出入りを判別するのも無理がある。だから結界の内部である学園都市内で千雨が次元を越えて引きずり込まれたことにも、帰還した際にも全く気づかれなかったのだ。
 文句を言うべきか、それとも面倒ごとの要素が一つ減ったと感謝すべきか、いささか判断に迷うところではある。


 次元を渡る扉としてデジョンを使うに当たって、魔力のコントロールを完璧にするのは最低限の条件だった。千雨には魔力の制御に関してはひとかたならぬ自信がある。
 ゆえに、ほんの少しでも自分の魔力に干渉されていれば気づかないはずがないのだ。
 なりふり構わない探査からもすり抜ける自信があるし、対象として自分に調査の手が及んだら瞬時に分かる。
 読心であれ、遠見であれ、魔力を用いているのでさえあれば。
 が、逆に言えば魔力を使わない隠形を相手取っては若干厳しいとも言えた。以前、かなりの距離を近づかれるまで楓に見られていたことに気づかなかった。
 もちろん普通の視線なら即座に気づけるはずだ。
 見られている、という感覚に対しては千雨はむしろ敏感な方だった。
 帰還出来たという達成感と安堵から油断していた点を差し引いても、あのときの楓の気配を隠す技術は凄まじかった。
 身を潜めるという一点に限れば、あの無口なアサシンと良い勝負なんじゃないだろうか。
 万が一楓並の技量を持った者が他にもいて、終日監視されるようなことがあれば、千雨はそれに気づき得ないかもしれない。
 それほどの腕を持った人員を千雨に貼り付ける意味があるかどうかはさておき、可能性として存在するとの認識は棄てがたかったのである。
 千雨自身は自身の保有する魔力と最適化しすぎた身のこなしを、現状では一般人並みに隠蔽している。
 なりきるまでもなく、それら外見上、あるいは表面上の能力はまず見破られない確信があった。
 問題はむしろ精神的な部分にある。
 異世界で戦い抜いた経験は、千雨の人格に多大な影響を及ぼしている。
 それは消せないし、隠しきれるものでもない。いくら過去の自分になりきったとしても、それがある種のエミュレーションである以上、今の千雨という本来の人格の表面でしか繕いきれない。

 ゴゴの弟子として過ごした千雨であったが、他の仲間たちの教えを受けることもあった。
 口の悪いリルムに比べればまだ口調が丁寧という理由からか、他の連中がどこかに置き忘れた遠慮という言葉を知っていることを歓迎されてか、とみに弟子筋、妹分扱いされることも多かった。
 特にエドガーの薫陶を受けられたことは、千雨にとっては得難い経験となった。
 彼こそはエドガー・フィガロ。あの世界の砂漠地帯にあるフィガロ王国を治める、若き国王である。
 何しろ教授してくれた相手は一国の国王である。
 国を守るため強大な帝国の侵攻を協力の姿勢を見せることでのらりくらりと躱し、形ばかりの同盟によって周囲との均衡を保ちつつも、裏では当の帝国に対する反抗組織であるリターナーと協力体制を取っていたのだ。
 外交とは右手で握手をし、隠した左手にナイフを握りしめることである。
 それを実践していた張本人だったわけだ。
 女好きの若き国王陛下という評判の裏にあるのは、どっちつかずのコウモリというより、昼行灯の政治家としての顔であった。
 そんな人物が、うら若き乙女が身を守るための術と称して、これ幸いとあれこれ指南してくれたのである。
 訓戒はためになることばかりだった。何しろ一国の王の言葉である。説得力が違う。女性と見れば口説かないことこそ失礼などと嘯く性格ではあったが、その性根は間違いなく善良であり、並々ならぬ知識と気品を持ち合わせていた。
 一言で表してしまえば、千雨にとっては尊敬すべき人物であったのだ。
 帰還してからこっち、考える時間は山ほどあった。
 自分の持つ力について。周囲について。麻帆良について。それらすべての影響について。
 大きな力を持つということにどういう意味があるのか。
 千雨は、それを知ってしまっている。
 だからこそ、千雨はこうして可能な限り自分の力を隠すことを選んだのだった。


 ちなみに、この結界の内部で魔法を使った場合、即座にバレるかといえばそうでもないらしい。というのもこの結界に張り巡らされている魔力そのものが強力であるため、これ以上の大魔力を用いない限りほとんど認識出来ないようなのである。
 なお、千雨が持ち帰ったふくろの中の装備や諸々のアイテムに気づいていれば、下手をすると学園中の魔法先生? が総出で出張ってくる危険性もありえたのだが、それすらもなかった。
 魔法を使っている場面を何らかの手段で直接見るか、感知に長けたものが余程近くで調べないと、残余の魔力にすら気づき得ないのではないか。
 外から来た者には厳しく対処するが、中で起こることに対しては鷹揚を通り越して鈍感ですらある。
 それが千雨の知り得た、麻帆良の学園結界の正体だ。
 だからといってほいほい魔法を使うようなそんな軽率な真似はしないのだった。


 そんなことをつらつら考えていると、女子中等部の卒業式は今日だったらしい。ちょうど終わった時間らしく、生徒達が茶色の円い筒を片手に歩いてくる光景に遭遇した。
 千雨はつい、自分がこれから通う学校の卒業生をまじまじと見てしまった。
 筒の中身は卒業証書だろう。親御さんと一緒に歩く卒業生や、友人たちと集まっている姿も見える。涙を流したあとの残る顔に笑顔を貼り付けている少女もいれば、これからカラオケやゲーセンにでも行こうかと騒いでいる集団もある。
 その大半に共通するのは、眩しかったということ。
 卒業生たちの表情は悲しげでも明るく、寂しげでも前を向いていた。まるで太陽に向かって歩いて行くかのように、その行く先は眩しいものに照らされていた。
 だというのに。
 ひとりだけ、空気の違う少女がいた。
 別段、表情が暗いわけではない。むしろ無表情だ。無感動に、中学を卒業してゆく同級生たちを眺めている様子だった。
 それでも千雨には違って見えた。誰もが明るい光のなかを歩く傍らで、ひとりだけが暗い場所にいた。そんな雰囲気が感じ取れた。外国人の少女である。金髪で、人形みたいに綺麗な顔立ちだった。肌は光に透けるような白さだった。
 留学生だからいじめにでもあっていたのかと一瞬だけ考えてかぶりを振った。そういう感じではない。
 まるで小学生みたいに小さなその少女は、ひとの流れに逆らうでもなく、かといって流されるでもなく、ただ同じ方向へと進んでゆく。
 卒業式日和と表現すべきのどかでよく晴れた青空の下だった。
 穏やかな気候の早い春の彩りに囲まれている。
 世界はこんなにも明るいのに。
 ゆっくりとした歩みで、卒業証書の筒だけを手に静かにどこかへ去ってゆく後ろ姿は、あまりにも寂しげだった。
 光の下を行くことが辛いのだとでも言いたげに。
 その想いをすっかり隠して、胸の奥にしまい込んでいるかのように。
 ただ、ひとりぼっちで。

 儚げ、と表現すべきなのかもしれない。
 ひとのゆめと書いて、儚い。そんな寂しい言葉で誰かのことを言い表すのはひどく可哀想なことに思えた。
 幼さを残した顔立ちには疲れ切った者特有の薄暗さが滲み出ている。美少女と呼ぶに相応しい容貌を翳らせるそれの正体を、千雨はよく知っていた。
 あきらめの色。
 もう少しでぽっきり折れてしまう、その直前の気配。
 千雨は知っている。
 諦めないことは、一度でも望んだものだけが勝ち取れる権利だ。
 そして諦めることもまた、望んだものにしか許されない行為だった。
 けれど、どれだけ望めば、こんなにも色濃く絶望へと傾いていくのだろう。
 彼女の浮かべた表情はごく単純な言葉で呼ぶのなら、空虚だった。
 空っぽだった。
 ただ繰り返すことの虚しさを知りながら、それ以外のことをすることもなく、何もかもを空白へと放り投げてゆく。それを惜しまない姿が、彼女だった。
 どうしたらそんな表情をするまでに至るのか。
 千雨は目を奪われていた。
 目が離せなかった。
 その情景をなんと語れば良いのだろう。
 まるで映画の中のワンシーンのように、その少女は優しい光の中を急がず歩いて行く。
 人の流れはゆるやかにいくつもに枝分かれを繰り返し、数多に広がる談笑の輪の外側に、ぽっかりと空いたエアポケット。
 舗装された道はまっすぐに伸びていて、そこには白く澄んだ陽光がすっと射している。
 正面からは春のあたたかな風が吹き付けていて、少しずつ緑に切り替わってゆこうと植物たちがさざめいていて、桜通りという名に相応しくずらりと立ち並んだ桜の樹はいくつものつぼみが見え隠れしている。
 桜は、あと数日で花開くかもしれない。あと一週間もすれば二分咲きくらいかもしれない。けれど今はただ寒々とした木々の隙間から降りる枝の影を踏んで、誰と言葉を交わすこともなく、少女がひとり歩き去ってゆく。
 ひそやかに、鮮やかに、誰でもない人々の狭間に紛れて、もはや誰も彼女を見ることはない。
 一度だけ、何か焦がれるように彼女は宙を見つめた。誰かがやってくるのを待っているかのように。
 翠玉のごとき瞳が、かすかな光に揺れる。そして何事もなかったかのように再び歩き出した。
 その背中は、まるで光に溶けてゆくようだった。
 千雨は思った。彼女はそのまま消えるのだ。
 ここではないどこかへ。手の届かない場所へ。二度と光を見ることの叶わない闇の中へ。
 そんなことを許してしまえるほど、千雨は大人ではなかった。


 千雨は軽い口調で声を掛けた。
「ガキがしょぼくれた顔して……どうした?」
 自分が特大の厄介ごとに首を突っ込んだという自覚はあった。それがどういった種類のものかはさておき、この年代の少女があんな複雑な表情を浮かべているのだ。
 よほど特異な状況下にあるか、特異な性質の人間か、そのどちらかなのは間違いない。
 ひとを見る目については師匠から太鼓判を押されている。
 見るというより、見抜いてしまう目だ。
 自分の目で見た印象が、警鐘を鳴らしている。表層だけを見ては見誤る。彼女は見た目通りの存在ではないと。その一方で、見た目そのものである十歳くらいの少女でもあると直感が囁く。
 とはいえ千雨のごとく異世界に飛ばされてなんとか帰還を果たした、という話ではないはずだ。いくら麻帆良の街が厄介ごとの巣窟だとしても自分ほど特異な経験をしたものがそう何人もいてたまるか、という千雨なりの後ろ向きの確信である。
「……」
 千雨の声が聞こえなかったわけではないだろう。
 金髪の美少女はちらりと一瞥をくれると、無言で歩き去ろうとした。
 千雨が追いかける。
 少女は逃げるというでもなく、ただ淡々と歩を進める。
 無言での追いかけっこが始まった。が、振り返った少女は、実にくだらんと言いたげに眉をひそめていた。
「……失せろ」
 それまで千雨が感じていた儚げな印象とは全く異なる声色だった。殺意こそ混ざっていなかったが、千雨に対するその感情は、たとえばテーブルの上にある邪魔なものを無造作に脇へどけるくらいの扱いだった。
 路傍の石と同等の、心底どうでもいいものを見る視線。けれど一応蹴り飛ばす前に自分からどけと促す言葉だった。
 千雨はふうんと頷いた。
 絵に描いたような美少女然として、そのくせこの世の悲哀をすべて背負ったようなあの顔に比べれば、この羽虫を見るがごとき見下す視線はまだマシである。
 そして、千雨はとても安心した。
 声を掛けてすらあの空虚を纏ったままであったとしたら、それはもはや人間ではない。今の彼女も超然とした気配は窺えるが、これならば理解出来る範疇に戻ってきている。寂寞たる砂漠に声を掛けるのは無謀だが、そこに覗くサボテン相手ならやりようはあるのだ。
「なんだ、世の中に拗ねてるガキだったか」
「……なんだと」
「違うのか? さも自分が世の中で一番不幸です、みたいな顔してたじゃねーか」
「貴様……」
 ぞわり、と怖気だった。
 目の前の少女が本気で殺意を向けてきたのだ。いきなりのことにさすがに千雨も動揺した。が、それもすぐにかき消えた。
 千雨の驚いた顔を見て溜飲を下げたのだろう。
 表情に含まれた不機嫌さのなかに、もはや殺気は含まれていなかった。
「まあいい。さっさと失せろ。そして私に二度と話しかけるな」
 少女は唇を歪ませた。年齢に似合わぬ、皮肉げな表情だった。
 殺気の代わりに見せられたのは、自分を上位者と見定めた者特有のあざけるような寛容さだ。
 いつでもひねり殺せる相手に対しての、絶対的優位者ゆえの余裕。
 たとえば蟻が指先を噛んだところで、さほど大したことはない。だから殺さずにおいてやるのだ。そう言いたげな、何もかもを見下すだけのつまらない視線だった。
 千雨としては、面白くなかった。
 今の自分は何の力もない。そういうふうに「なりきって」いる。しかし、中学生の制服を着ているとはいえ、背丈からも見た目からも年下にしか見えない少女に見下されるのは我慢ならなかった。
「なるほど。これが中二病ってヤツか。……外国人のガキも罹るんだな」
「は?」
「お年頃……いや、思春期だもんな」
「……どういう意味だ」
「いやいや『失せろ』とか『貴様』とか、普通は恥ずかしくて口に出来ねーよ」
 少女の顔が赤くなった。
 羞恥ではなく、当然強い怒りによるものである。
 端正な容貌がひとを睨むために崩れると、ひどく恐ろしげに見える。少なくとも平凡な顔で同じことをされるより、ずっと迫力があるのは事実である。
 千雨は真正面から怒気をまともに浴びた。普通なら竦みそうな重圧が少女から放射されていたのだが、千雨は気づかない素振りで続けた。
「制服姿で、その手に持ってるのは卒業証書だろ。……中学を卒業したばかりとは思えねーな」
 挑発めいた言葉だった。
 無論、わざとである。


 どうしてこうなった、との思いは両者共通であったかもしれない。
 千雨としては眼前の少女を激高させて、多少なりとも心情を吐露させて事情の手がかりを得て、それから上手いこと怒りの向く先、感情の置き所を用意して、一時の慰めにでもなれば……などと勝手に考えていた。
 身勝手であることは承知の上だが、もともと無関係の他人が問題を解決できるとも思っていない。
 そもそも、そんなことはするべきでもない。
 ただ指向性のある強い感情は、それがどんな性質のものであれ、諦めよりはマシだと千雨は経験上理解していた。
 一瞬の怒りであっても、いっそ憎しみでもかまわない。それがあることで無為に立ち止まらずに済むのなら、空っぽになって生ける屍として漫然と在り続けるよりずっと人間的だ。
 問題はこの少女がとんでもなく強かった場合である。激怒させたあと千雨の身の安全が脅かされる可能性があるのだ。しかし千雨が見た限りでは普通の少女とほとんど変わらない。
 武術の心得でもあるのか、歩き方は綺麗なもので、若干妙な気配を感じなくはないのだが、それでも千雨にとってはなんとかなると判断するレベルだった。
 この「なんとかなる」の判断基準があの世界での日々に拠っている自覚はしているのだが。
 問題は無かろう、千雨はリスクの判断をずいぶん低いものとして見た。
 何より大事なのは、この少女が危険かどうか、という部分なのである。
 口で怒らせたくらいで平気で殺そうとしてくることはありえない。そういう、手のつけようもないくらい壊れた人間だったとしたら、そもそもあんな表情なんてするわけがないのだ。
 とまあ、衝動的に話しかけたわりには、こうして色々と計算尽くでリスクコントロールも考えてはいる。
 怒らせるという一歩目は上手くいったが、二歩目で躓いた。
 横から、おそらく少女の同級生と思わしき人物から、いきなり声をかけられたのだ。


「マクダウェルさーん! 何かもめてるみたいだけど、どうしたの?」
「いや、なんでもない。気にするな」
 これには問題の少女の方もずいぶんと驚いたらしく、毒気を抜かれた表情をしていた。マクダウェルというらしい。イギリス、いやアメリカあたりでたまに聞く名字だったか。
 絡んでいる側として千雨に怪訝そうな視線を送ってくるその同級生は、まあいいかと表情を改めた。
「え、まあ、本人が良いなら良いけど。あ、そうだ! 四月にみんなで集まろうって話があるんだけど、マクダウェルさんも来る? 一緒のクラスだったのにほとんど喋らなかったじゃない。でもそんなの寂しいじゃん。どうかなっ?」
「……遠慮しておく。皆で楽しんでくれ」
「そっか。……うん、分かった。気が変わったら連絡してね。これ、あたしのケータイの番号」
「ああ、すまんな」
「じゃね!」
 といって、その卒業生は素早く去っていった。
 メモを受け取ったマクダウェルはしばらくその番号を眺めていたが、やがて無言でポケットにしまった。
「行かないのか?」
「貴様には関係ないだろう」
 千雨が尋ねると、いたことをすっかり忘れていたかのように目を瞬かせ、みるみるうちに少女の表情が渋くなった。
 声にこそ出していなかったが、胸中の言葉は千雨にも読み取れた。
 まだいたのか。早く失せろ。
 千雨が動こうとしないので、少女はわずかに向きを直す。
「……行きたそうな顔してたのにな」
「黙れガキ。くびり殺すぞ」
「おー怖い怖い。まあ、多少は元気が出たみたいだな。あの手の誘いは受けといたほうがいいぜ。断ってばかりだと、そのうちぼっちになるからな」
 経験談である。
 親身になっての忠告だったのだが、やはり届かなかった。
「私に指図するな。くだらん説教までして。……年上を敬おうという気はないのか、ガキ」
「そういう発言は私より背と精神年齢が高くなってから言え、金髪幼女」
 これはさすがに腹に据えかねたのか、厳しくなった視線にさらに殺気が込められた。千雨はその殺気に全く気づかないフリをして、彼女の頭をくしゃくしゃとなで回す。
 いつか寂しくて泣きそうだったとき、マッシュが黙ってこうしてくれたことを思い出す。
 分厚い手のひらに込められていたのは、こういう気持ちだったのだと、今ならそれが理解出来る。
「何をするッ」
「いや、こしゃまっくれたガキだからこういうのに慣れてないのかと思って」
「……ふん」
 手から抜け出して、彼女は口角をあげて、つまらなそうに笑みを浮かべた。
「たまにいる善人気取りか、くだらんな」
 そう言い捨てて、マクダウェルは千雨の脇をすり抜けた。
 引き留めようとはしたものの、さすがの身体捌きで、一瞬だけ腕を伸ばすのが遅れた。
「ガキ、もう私に関わろうとするなよ……まあ、貴様もどうせ覚えておらんだろうがな」
 最後の部分は小声だった。
 聞こえないように呟いたはずのそれは、千雨の耳に妙にはっきりと残った。
 視線を逸らし、少女はその場から離れる。
 表情のなかには先ほどのような虚無は覗けない。ただどうしようもなく静かな瞳が、寂しげに揺れていた。
 いつの間にか数を減らした卒業生達の集団に紛れて、マクダウェルと呼ばれた少女は遠ざかってゆく。
 少女の背中から、拒絶の意志がひしひしと伝わってくる。
 追いかけてくれるなと、そんな声が聞こえてくるようだった。

 ……間に合っただろうか。
 千雨は、あの小さくなる背中を見ながら、そんな風に少しだけ思った。
 間に合ったなら良いと、そう、思ったのだ。



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