簡単なオリエンテーションが終わったあと、千雨は茶々丸に連れられてエヴァンジェリンの住居までやって来た。
 麻帆良の郊外にある森、その奥に設置された大きめのログハウスである。
 基本的に女子中等部の生徒は寮生活をすることになっている。財閥の令嬢である雪広あやかですら寮住まいをしているのだから、例外措置というのはほとんど無いと考えて言い。
 この時点で、エヴァンジェリンという人物が実に奇妙極まりない境遇にあると考えられる。
 そもそもあの超と葉加瀬とやらが作成したという茶々丸を当たり前のように従者として連れているあたり、よっぽどの訳ありなのは分かっていたことだ。
 人工知能に関してはどこぞの学生がとんでもない高性能AIを作り出したとかで一時期話題になっていたが、あくまでAIに関してだけのはずである。
 そういえば、超からのメールにマサチューセッツの天才日本人兄妹とコンタクトが取れたヨ! なんて話があった。よっぽど浮かれていたのか、専門的な用語だらけで一部しか意味が掴めなかったのだが、おそらくはプログラムの根幹を借りたとか、組み込んだとかそういう話だったはずである。
 こう考えると現実の延長線上に存在しているような気がしてくる。
 しかし、フィクションで出てくるようなメイドロボを実際に形にしたなんて話は一切聞いたことはない。
 自立稼働が可能な人型ロボットの段階で偉業なのだ。
 これでも千雨はニュースには耳聡く、大半をネットで集めている。麻帆良の技術レベルがいくら最先端でも、完成した時点で世界中に大々的に発表されて然るべき大発明、少なくとも他の話題に埋もれるものではないというのは明らかだった。
 それがされていない。
 これだけでもう、麻帆良の事情に何かしら引っかかっているのだと想像が付くというものだ。
 というわけでスルーである。
 千雨はドラゴンも恐竜も魔獣も侍も国王も間近で見たことがあるのだ。ついでに雪男との意思疎通をしたこともある千雨にとって、物理法則の範疇にありそうなメイドロボであれば、まだ常識の範囲内として受け止められるということにした。
 詰まるところ単なる思考停止である。


 先に教室を出て行ったエヴァンジェリンは、まだ戻ってきていないようだった。
「どうぞ、お上がりください」
「ああ。お邪魔します」
 玄関で靴を脱いで上がり込むと、そこには生活感溢れる空間があった。といってもきちんと掃除されており、だらしがない感じはしない。テーブルの上もきっちり片付けられており、埃ひとつ見あたらない。
「マスターが帰宅するまでお相手するよう申しつけられております。何かお飲みになりますか」
「そうだな。何がある?」
「ランダースアッカー・プフェルベン・リースリング・シュペトレーゼ・トロッケンなどはいかがでしょうか」
 茶々丸は棚なり冷蔵庫なりに何を調べに行くでもなく、いきなり何かの名称を口にした。
 全く意味が分からない。名前が長いからワインだろうと当たりは付けたが。
「……何語だ?」
「ドイツのワインなのですが」
 それっぽい名前の通りだった。千雨にはワインを嗜む趣味はないため、それがどんなワインなのかがさっぱり想像が付かない。
「嫌な予感がするが、一応聞いておこう。他には」
「久保田の万寿などありますが」
 千雨でも知っている日本酒の銘柄である。美味いが高いとはよく聞く。
「次」
「魔王はこの間取り寄せたばかりで」
 これまた千雨でも知っている焼酎の銘柄である。やはり美味いが高くて地元以外だと手に入りにくいとよく聞く。
「ここには酒しかないのか」
「トマトジュースでよろしければすぐにご用意できますが……」
「へえ。ブラッディマリー作るために置いてあったってところか?」
 すなわちカクテル用である。この分だとトマトをミキサーにかけるところから始めそうだ。
 名前が出てこない酒類も色々取り揃えてあるのだろう。ぱっと見では見あたらないが、地下にでもワインセラーや酒蔵が存在しているのかもしれなかった。とてもじゃないが中学生の自宅とは思えない。酒飲みのための隠れ家と呼んだほうが近いんじゃなかろうか。
「ミネラルウォーターも各種取り揃えております」
「あー。水でいいや。絡繰、頼む」
「軟水、硬水、どちらによろしいのですか」
 水の銘柄まで口にされた。原産地は日本からフランス、イタリアあたりまで幅広い。いくら趣味だとしても、酒にどんだけ金額注ぎ込んでいるのかと背筋に冷たいものが走るのを止められなかった。
「どっちでもいい」
 もう、心底どっちでもよかった。
 茶々丸は了解しましたと答えて台所に向かい、水と氷を入れたコップを運んできた。
「つーか女子中学生に普通に酒を勧めるなよ」
「そういうものなのでしょうか。マスターは毎晩お飲みになっておられますが」
「まあ、外国じゃ子供でも普通に飲んでたりするけどな。昼からワイン飲んでたり、ビール飲んでたりもあるか……。ここは日本だ。ついでに言えば未成年は飲酒禁止だ」
「なるほど。勉強になります」
「知識はあるんだろ?」
「常識的な知識はインプットされていますが、どこにどう当てはめていいのかについては学習中です。基本的には自己判断するようにと超と葉加瀬から言いつけられています」
「マクダウェルからは?」
「特に何も。四月に入ってからお世話させていただいておりますが」
「へえ」
 そんなもんか、と頷いておいた。
「で、いつごろ帰ってくるんだ? つーか、私に何の話があるんだか。絡繰は聞いてるか?」
「いえ。マスターは仰っておりませんでした」
 なるほど、と千雨は笑って、重ねて問いかけた。
「マクダウェルが何も喋ってないのは分かった。じゃあ質問を変えるぞ。私に何の話があるか、絡繰は知ってるか? あるいは、どんな話なのか予想がつくか?」
 その話に茶々丸は少しだけ驚いたような素振りを見せた。
 表情は変わっていないのに、仕草のなかに逡巡があったのだ。果たして本人が気づいているのかいないのか。わずかに興味はあるが、本題はそこではない。
「絡繰はこう問われたとき、どう切り返すつもりだったんだ?」
 茶々丸が焦ったのが、傍目にも分かった。
 当たり前のような無表情だったその顔は、やはり変わらず、しかし戸惑いに満ちあふれている。
「……そこまでだ」
「お早いお帰りだったな。覗き見とは趣味が悪いぜ」
 制止したのはエヴァンジェリンだった。どこからか様子を窺っていたのだ。いつ入ってきたのかは分からなかった。もしかしたらずっと室内で隠れていたのかも知れない。
 息を潜めて見つからないように身体を隠しているエヴァンジェリンの姿を想像したら、少し笑えた。似合わない。
「……なかなか頭は回るようじゃないか。だが、危険だとは思わなかったのか」
「危険ってのは、どれについてだ?」
「この家に来ること。そして、その質問を茶々丸に投げかけることだ」
「中学生を繰り返してるヤツにそのこと指摘しちまった後だからな。……全部手遅れだろ?」
 背もたれに深く寄りかかって、千雨は嘆息した。
 たいしたことではないと無意識に考えていたようだが、それは十分以上に大した異常だったのだ。
 反省しているのだ。常識や、リスクに対する基準が思ったよりあちら側に毒されている自覚は持つべきだったと。
「話も早いな。後学のために聞いておこう。どこで気づいた?」
「さっきは『貴様、なぜ覚えている?』って言ったよな。前には『まあ、貴様もどうせ覚えておらんだろうがな』とも」
 眉をひそめている。おそらく彼女は聞こえないように呟いたつもりだった。
「そこから大体は。答え合わせはしてもらえるのか?」
「自力でそこまで辿り着いているのなら構わん。言ってみろ」
 尊大な態度はそのままに、エヴァンジェリンはソファに腰掛けた。テーブル越しに対面した少女の表情はどこか楽しげで、弄りがいのあるおもちゃを見つけたとでも言いたげだった。
 千雨はその姿を嘆息しつつひとしきり眺めると、肩をすくめ、かすかに苦笑を浮かべた。


「どういう理屈かは分からねーが、あんたは中学生を繰り返してる。それも自分の意志ではなく強制的に。見るからにプライドが高そうだからな、わざわざガキに混じってお勉強したいなんてガラじゃなさそうだ」
「加点方式で採点してやろう。先を」
「はいはいそりゃどーも。で、そんなことをしてたら普通だったら当然周囲は奇妙に思う。まあ、教育委員会が出張るか、マスコミが騒ぐか、何にしても真っ当な教師なら異常を訴えるだろ。……いくらこの麻帆良でも」
「普通だったら、か」
 最後に付け加えた一言に受けたのか、エヴァンジェリンが含み笑いを漏らした。
 その時点で千雨は、以前の自分が口にしていた話、周囲との乖離についての情報を細かく調べられたと判断した。
 いつの時点で情報を入手したのかは判然とはしなかったが、おそらくは素行調査のリストを持っている教師、あるいは学園長あたりと繋がっているのだろう。
 自分に意識誘導が効いていなかった。これは、すでに知られている。
 しかし、今の話は続けるにやぶさかではない。
 本題はすでにそこにはないからだ。
「何年も同じ中学校に通い続ける生徒なんていかにも怪談でありそうなネタだ。麻帆良には目ざとい新聞部もしつこい報道部もフリーのパパラッチも山ほどいる。そいつらが騒がない時点で、この話は他に漏れないようにも仕掛けが出来ていると判断するのが正しい。となれば、どういう手段でかはサッパリ分からないが、あんたにまつわる情報は確実に操作されてる。周囲の人間が記憶を書き換えられているのか、消去されているのか、あるいは認識できなくなっているのか」
「ふむ。考え方としては悪くない。良い着眼点だな」
「そしてあんたは言った。『貴様、なぜ覚えている?』ってな」
「ああ、その通りだ。確かに言った」
「つまり、あんたは周囲の人間の記憶から自分のことが消えることを知っていた。だからあのとき泣いていた」
「アホかっ! しつこいぞ、最初から泣いてなどおらんわ!」
「……そうだったっけか」
「いい加減にしろ、くそガキ」
「と、中学生をガキ扱いできるくらいには年上ってのも間違いなさそうだ。こんなに小さいのに」
「死にたいのか貴様」
「単なる枕じゃねーか。話はまだ途中だろ」
 口が悪い少女と見ると、ついリルムを思い出してしまう。
 まあ、あっちはこんなに直接的な感じでも、嘲笑混じりでもなかったが。
 可愛らしく口が悪い少女というのは案外好ましいものかもしれない。千雨はふと、郷愁にかられた。
 エヴァンジェリンは視線の温度を下げたが、代わりに身体を温めることにしたらしい。
「……茶々丸。クロ・ド・ラ・ロッシュを出せ。確かこちらに戻しておいたはずだな」
 エヴァンジェリンの後方に控えていた茶々丸が、素直に頷くかと思ったら、一応お伺いを立ててきた。
「よろしいのですか?」
「こいつが未成年云々を言い出したのは気にするな。相手より先に酔いたくなかったから、常識的判断を持ち出して遠回しな断り方をしただけに過ぎん。どうせその程度を気にするタマじゃなかろう?」
「まあ。飲めなくはないが」
 情報収集のため酒場に出向いて一人だけ飲まないというのもバツが悪く、付き合いのため一応覚えたという程度である。
 声高に酒を飲めないと言うと酒場でたむろしている周囲のゴロツキから子供扱いされて舐められるのが理由だ。
 だから、あくまで一応の範疇でしかない。
 茶々丸がデキャンタまで持ち出して用意しているのを横目で眺めつつ、千雨は半眼で告げた。
「いや、良いワインっぽいけどよ……私は味の違いなんか分からないんだが」
「気にするな。好きに愉しめ」
「はははは。上から目線がムカツクんだが」
「50年モノだ。もしかしたら貴様が一生を送るうちには、もう二度と飲む機会が無いワインかもしれんぞ」
「……で?」
「貴様はいつか思い出すのだ。ああ、あの時飲んだワインの味が分からなかった自分はなんて愚かだったのだ……! と」
「アホか」
 一言で終わった。
「アホとはなんだ、アホとは!」
 意外に沸点が低いらしく、エヴァンジェリンは真っ赤な顔で怒りだした。
「そんなくだらねーことのために貴重品使ってんじゃねーよ! お前なんかアホで十分だろ!」
「あの、マスター」
 平坦そうに聞こえる茶々丸の声が、二人のアホなやり取りを遮った。
「ご歓談中のところ失礼します……注いでもよろしいのでしょうか」
「む。そうだな。そろそろいいだろう」
「……まあ、私も飲ませてもらおう。ありがたくな」
「ふふふ。そうやって素直に感謝すればいいのだ。いちいち茶々を入れずにな」
 茶々丸だけに、という心の声は聞こえなかった。


 茶々丸が注いだグラスを手にして、エヴァンジェリンを見つめる。茶々丸はロボなので飲めないそうである。当たり前と言えばそうなのだが、普通に食事くらいしそうな雰囲気があっただけに残念だ。
「乾杯、するか?」
「しても構わんが……何に対してだ」
 千雨は少し考える。
 ことの成り行きに任せてこんなことになっているが、雲行きの怪しさは別の種類のものにすり替わっていた。
 人生万事塞翁が馬、とはまさしく至言だ。
 それでも全く見通しの立たない暗雲立ちこめる未来に自ら飛び込むとき、必要なものについて考える。
 これまで何を失い、何を得たのかについて。
 あるいは自分が何を求めたのかについて。
「良いんだか悪いんだか、後になるまで分からない、すべての出会いに」
 千雨がそう告げると、
「なるほどな。……乾杯」
 グラスを打ち合わせることもなく、ほんの少し離れた場所で交わし合う。
 エヴァンジェリンは、ひどく穏やかな表情で笑んだ。その微笑みは、同性の千雨ですらはっとするほど美しかった。



「美味い……とは思うが、味や香りの感想は聞くなよ」
「ド素人にソムリエの真似事をやらせるつもりはない。……いや、意外と面白いかもしれんが」
「勘弁してくれ」
 しばらくワインの色や香り、味を愉しんだあと、エヴァンジェリンがほくそ笑んだ。
「さて、そろそろツマミが欲しいところだな」
 暗に話の続きをしろと促された。酒の肴にするには七面倒くさい内容だと千雨などは思うのだが。
 どこまで話したっけか、と軽く首をかしげる。
「あんたは周囲から自分が忘れられることを知っていた。そこからか」
「ああ」
「……まあ、たぶん忘れられるには何かしらの条件はあるはずだ。そうじゃないと色々不都合な部分が出てくるからな」
「たとえば?」
「まず書類関係。卒業生の数とかもそうだな。確実に学校関係者、それも事務関連に手を回せる上の方が関わってる。そして、そいつらはあんたの状況を把握してる。その上で、意図的か、そうでないかは不明だが……そのままの状況を放置し続けている」
 視線には愉悦の色が混じっている。うっすらと朱の差した頬は、子供の容姿とかけ離れて妖艶ですらある。
 間違いなくサドっ気があるのだろう。
「で、周囲から忘れられるというのは……繰り返すたび、あんたが中学生であるという不自然な事実が記憶から丸ごと抜け落ちる。もしくは、不自然なあんたという存在そのものが記憶から消される。そのどちらかだ。あんたの反応を見る限りでは……後者だよな?」
「及第点をやろう。だが、満点ではないな」
「で……それを私の口から言わせたいわけか」
「当然だろう、長谷川千雨? わざわざ取っておいたワインを空けるのだ。それくらいの余興がないとな」
 悪人風の笑いは堂に入っている。
 面倒ごとに首を突っ込んだ自覚はあったが、その本人からこうも追い詰められるのは釈然としないものがあった。仕方ないと言えば仕方ないのだろう。あのまま見過ごしておけば、実に簡単に回避出来た事態なのだから。
「私はあんたを忘れる条件に当てはまってる。だが、そうはなっていない」
 エヴァンジェリンはよく出来ました、と言わんばかりに拍手をしてくれた。
 これほどされて全く嬉しくない称賛も珍しかった。
「……理由については?」
「どうせ調べたんだろ?」
「まあ、自力で気づけたのは貴様自身の才覚だ。胸を張って良い」
 全く嬉しくないお褒めの言葉である。
 別に自分からコナン君になりきっているわけではないのだが、こうして推理を働かせなければならない状況に陥っているのは、いったいどういうことなのか。
 ことの元凶はにやにやと笑みを浮かべている。ほっぺたを引き延ばしてやろうか。
「一応答え合わせの続きだ。麻帆良には不自然を自然と捉える、非常識を常識の範疇に誘導する何かがある、だろ?」
 そしてそれに自分だけが引っかかっていない。
 もう少し正確には、関係者ではない一般人のなかで、長谷川千雨という個人だけが何故か誘導を受け付けない。
 エヴァンジェリンの反応からさらに分かったことがひとつ。
 最近ようやく把握したか、知っていてずっと放置していたのかは知らないが、麻帆良学園の関係者、特にその不可解な仕組みに関わる者はすでにこうした千雨の特質について認識している。
 気づかれないようにしていること。そして、気づかれてはならないこと。
 図らずもそれを知ってしまった者に対しての処置としては、フィクションには良くあるお約束が存在する。あるいはマフィアの論理。華やかな世界の裏側に隠れ潜んでいる、薄暗い場所のルール。
 すなわち、沈黙か死か。
 記憶に手を加えられる技術があるのだから、後者がそれに取って代わられるのだろう。
 各地に蔓延る記録の方が改竄しづらい現代に置いては、殺すより、ずっと楽な処理方法だからだ。
 こうした話を千雨は淡々と語った。
 口を挟まず聞き届けたエヴァンジェリンは泰然として、千雨の推測を悉く肯定してくれた。
 またもや、これっぽっちも嬉しくない首肯である。
「情報の差異から、よくそこまで辿り着いたな。状況に困惑しているだけの愚か者ではないとは分かっていたが」
「これだけヒントがあればな。真剣持って走る美人教師だの、指パッチンでハチを吹き飛ばすだの。正直、麻帆良の街はツッコミどころが多すぎる」
「……あの馬鹿どもが……いや、なんでもない」
 エヴァンジェリンが頭を抱えている。あれは気づかれてはならないことのひとつだ、という傍証である。
 とりあえず聞き流しておいてやることにした。
「でもって、あんたが忘れられる云々もそれか?」
「いや、これは別物のはずだ」
「じゃあ相乗効果かもな。不自然を自然と思わせるために、不自然な部分を切り捨てる。確かに効率が良いやり方だし」
 奇妙には思っていたのだ。
 得体の知れない手段を用いて、特定人物に幾度も中学生をやり直させる。
 そこに周囲からの忘却まで付け加えて、当然現出する不自然さを強引な手法で解消している。
 千雨としては呆れるばかりだが、嫌がらせにしては度が過ぎているし、周囲に与える影響も馬鹿にならない。とすれば、本来の意図とは異なった仕組みが働いていると見るべきだ。
 まるで冷蔵庫に入れた水が、取り出すときにはかき氷にされて出てくるような違和感。
 そんな話を滔滔と語った。
「不自然を……ん? ……いや待てよ。そう考えると確かにあれは呪いの効果としては無理があるな……。二種類、いや三種類が入り組んで混ざっているとすれば……」
 エヴァンジェリンは千雨の言葉を聞いてから、ぶつぶつと呟きつつ一人で考え込んでしまった。
 放置されて手持ちぶさたになった千雨は、視線をさまよわせているうちに茶々丸の顔に辿り着いた。
 じっと見る。
 茶々丸は、見つめ返してきた。
 が、何を喋っていいのか分からないようで、さりげなく困惑している風であった。
「なあ絡繰。マクダウェルがなんか考え込んじまったし、答え合わせの続きをしてもいいか?」
「マスター……はい、分かりました。どうぞ長谷川さん」
 これくらいは茶々丸の自己裁量の範疇らしい。
 フレーム問題はどう処理しているのだろうか。専門的なことは分からないが、微妙に気になる部分もある。
 そういえば、絡繰茶々丸という名称は誰がつけたのだろうか。
 全くロボ娘であることを隠す気が無い、その心意気だけは分かる名前だが。
「さっきの案内はそこで客を放ってる主人の悪戯、もう少しマシな言い方だとテストだった。違うか?」
「その通りです」
「私が何にも気づいていなかった場合……そうだな。何の疑いも考えもなくここに来た場合は、こいつが中学生を繰り返しているって部分の記憶を消してた。そんな感じか。で、自力で気づいた、あるいは気づいていた場合に関しては二通りの対処があった、か?」
「その問いにも……肯定です」
「まあ、張本人がこの調子だからな。採点はもういい」
「長谷川さん、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ん、なんだ」
「私に対する問いかけは、どうしてあのような形で」
「ああ、質問を変えた理由か。絡繰はロボだろ?」
「ガイノイドですが」
「まあそこは何でもいいんだけどな。嘘、付けるか?」
 今度こそ茶々丸は驚いていた。表情が変わらないなんて、きっとそれこそ嘘だろう。
 一貫した無表情のくせに、感情の動きがわかりやすすぎる。
「そういうことだ。嘘を言わないように言い含められてたのか、それとも元から言えないのかは知らないが、少なくともマクダウェルは私の反応を見たがってた。なら、情報の受け渡しはフェアにしておかないとゲームにならない。こいつに取っちゃ娯楽だったんだろ?」
「最初から気づかれていたのでしょうか」
「さてな。ま、最後にネタ晴らしを用意してそうな感触もあったのは事実だ」
「……長谷川さん。お見それしました」
「絡繰にそう言われると、何か妙な気分になるな」
 呟いたところでエヴァンジェリンが顔を上げた。不機嫌そうで、その割には愉快そうな不思議な表情だった。
「長谷川千雨」
 声は静かだった。それまでの思案顔からすると、静かすぎるくらいだった。
「お、やっと再起動したか」
「マスターはプログラムではありませんが……」
「そういう言い回しだ。気にすんな」
「はい」
 千雨と茶々丸のやり取りは聞かなかったことにしたらしく、エヴァンジェリンは鼻を鳴らした。
「満点をやろう」
「ありがとよ。景品はなんだ?」
「……貴様の頭の回転は速い。状況判断も悪くないし、こうして私と対面して物怖じしない者も久しい」
「褒め言葉として受け取っておく。で?」
 エヴァンジェリンは、すっと視線を引いた。
 顔は真剣そのものだった。
「私の従者にならんか?」
 戯れ言のつもりはないのだろう。居住まいを正して、真っ直ぐな視線で千雨の瞳を覗き込む。
 千雨はしかし、肩をすくめた。
「……そこの絡繰みたいにメイドやれってか?」
「いや、貴様をメイドにしたいとは思わんが」
「悪いが、意味がさっぱり分からん」
「あの、マスター。説明が不足していると思われます。長谷川さんは例のことについて全くご存じないはずです」
「……ん? ああ、そうか。そうだったな」
 とは言うが、エヴァンジェリンの笑みは微妙に邪悪なものだった。確実にわざとだ。
 今のエヴァンジェリンの浮かべる笑みと、この手のノリには憶えがある。
 悪の組織の幹部が部下を勧誘するときのそれだ。しかも高笑いしてる隙に主人公にやられる役どころだ。
 本人が勝ち誇っているところに起きる予期せぬアクシデントに足を掬われ、負け惜しみを言いつつみっともなく破れるタイプだとしか思えなかった。
 千雨はこうした胸中の感想を口に出す愚は犯さなかった。
「貴様には二つの道がある。このことを黙っているか、忘れるかだ」
「分かった。黙っておく。決して言わないから安心してくれマクダウェル。じゃあな!」
 といって即座に去ろうとする千雨だった。
 すでにソファから離れている。玄関先に向かってすたすたと歩いて行るところである。
「って、待て! いきなり帰ろうとするな!」
「厄介ごとはご免なんだよっ」
「貴様、それだけの賢しさを持ちながら平穏を志向するとは、もったいないとは思わんのかっ」
「まったく思わねー! 平穏無事が私のスローガンだ! 景品くれるならまずは私に平穏な日々を寄越せ!」
「最近の若いヤツはこれだから……嘆かわしいことだな」
「まったくです」
「おい、そこのボケ主従。呆れたような顔をするな。アホなことを言ってるのはお前らだっ!」
 妄言が二人分である。結局、千雨はツッコまずにはいられなかった。


 エヴァンジェリンはしつこく食い下がるかと思われたが、意外に潔く引いた。
「惜しい気はするが……貴様のおかげで積年の難題がひとつ解決しそうだ。実際にはしばらく研究しなければならないが、それでも一歩前進したことは間違いない。私は恩を仇で返すほど落ちぶれてはおらんのでな」
 話の流れから推測すると、中学生を繰り返すことに関しての話だろう。
「長谷川千雨、ひとつ問おう」
「ん?」
「貴様は私によって害されるとは思わなかったのか」
「強制的に記憶を消すって話か?」
 千雨よりずっと長い年月を生きた、この美しい金の髪の少女は、翠玉のごとき双眸を爛爛と輝かせている。
 じっと見ているのだ。長谷川千雨という一個の人格を。
 よく磨かれた硝子の欠片か、あるいは希有な宝石であるかと見極めんとして。
「いや、そもそもの部分だ。貴様は自分が対応をしくじれば危険である、そう認識していたことはしかと分かった。だが世の中には理不尽など山ほど転がっている。対話する暇もなく喉を食いちぎられることもあれば、気を許した瞬間に胸に刃を突き立てられることだってあるだろう。まさか、言葉を解するものならばどんな者にも歩み寄る余地があるなどとは言うまい。これほどまでに透徹した思考を巡らせ、且つこの私に正面から対峙する。そんなことの出来る人間がただの女子中学生であるものか。そして、そんな存在がこの場で起こりうることを理解していないはずがない」
 一息に畳みかけるその言葉には実感と確信がこもっていた。
 鋭い刃のような、心に切り込むための問いかけだった。
「この家に一歩踏み込んだ瞬間に殺されるかもと思わなかったか、って?」
「極論すれば、そうだ」
 エヴァンジェリンの顔に一切の表情はない。怒りも、嘲りも、笑みも、すべて消し去っている。
 この顔に比べれば、茶々丸の無表情など様々な感情に満ちあふれていると言い切れる。
 視線が合う。
 このとき千雨は小さく笑った。
「あんまり他人のことを見くびってんじゃねーぞ、ガキ」
「そうか。ならいい」
 返答が気にくわなかったのか、それともお気に召したのか。
 エヴァンジェリンは表情を変えなかった。そして、それ以上何も言わなかった。沈黙を守りながら、赤い液体の入ったワイングラスにそっと視線を向けるだけだった。
 千雨も、だから、口を開かなかった。
 去り際に玄関まで見送りに来たのは茶々丸だけだった。エヴァンジェリンはソファに腰掛けたまま動く気配もなかった。
 ドアを抜けるとき、なぜか茶々丸から深々と頭を下げられたのだった。


 翌日、ダンボール箱いっぱいの荷物を紐解いているところに茶々丸がやって来た。なんでもエヴァンジェリンの命令で、荷物の開封に手間取っているようなら手伝ってこいと言われたそうだ。
 家に呼びつけて、手間を掛けさせた詫びも含まれていると。
 大した量ではなかったため、二人での作業は一時間ほどで終了した。
 そのとき、茶々丸にエヴァンジェリンの様子を尋ねてみた。
 気にはなっていたのだ。その後、どうだったのかと。
「長谷川さんが帰られたあと、マスターはずっと文句を言い続けておられました」
「やっぱりか」
 矜恃から引き留めなかっただけで本心は違ったらしい。意地っ張りというか、負けず嫌いというか。
「ですが」
 茶々丸は一瞬言い淀んで、言葉を続けた。
「文句を口にされているときのマスターは、どことなく楽しげだったかと思われます」
「それは絡繰の感想か?」
 客観的な言葉のつもりで口にしているようだが、ロボットによる印象の判断である。
「……感想。ああ、これは、そうなるのですね」
「ま、いいさ。エヴァンジェリンのやつには、そのうち遊びに行くって伝えておいてくれ」
「長谷川さん、ありがとうございます。マスターもきっと喜びます」
「どうかな。開口一番『帰れ!』とか言われそうだが」
「……」
 長時間、茶々丸は無言だった。
 否定の言葉が返ってこない理由は、千雨同様、その光景が鮮明に目に浮かぶためらしかった。


 
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