六月後半の、いささか蒸し暑い日のことであった。
 麻帆良学園都市の敷地は広く、足を伸ばせば人の手の入っていない自然そのものの土地がある。
 そこは鬱蒼とした森林を抱える小高い山であった。
 青々と茂る植物の葉に覆われて薄暗く視界を遮られ、かと思えば森林の隙間を縫うようにして澄んだ流れの川があり、天高くより射し込む夏の眩い日差しに照らされて、そこかしこに夢のように美しい景色が現出することもあった。
 遠くに聞こえるのは鳥の声。近くに響き渡るのは季節にはまだ早い蝉の声。
 土を踏みしめる音にも、無数の鳴き声は止むことを知らないかのようだった。
 木々や葉の陰、土の上に身を置いている夏の虫たちは誰憚ることなく、むしろ自らを主張するがごとく騒がしく鳴いている。
 人間のいないはずの山奥は、普段通りの騒がしさを保ちつつも、どこか静かさを感じさせるものだった。


 楓が他の作業に専念しているあいだ、千雨がテント作りに用意した場所は川からかなり離れた位置だった。
 水場が近い方が色々と楽ではあるのだが、千雨がつい不慮の事故を想定して動いてしまうのは慎重さゆえだ。あるいはバックアタックに対する危機感が染みついているためかもしれない。
 雨が降ったときに水が溜まるのを避けるため、若干の傾斜がある場所、それなりに視界が効く場所、強風の直撃を受けにくい場所、とどんどん候補地を絞っていった結果がそこであった。
 面倒くさい性格をしている、と自分でも分かっている。そこはかとなく心配性で、物事に対しては悲観的に捉えがちなくせに、いざ実行の段階になると大抵のことを楽観的に見ようとする。
 悲観は気分であり、楽観は意思であると唱えたのは誰だったか。
 矛盾するのが人間だ、なんて嘯くつもりは千雨自身毛頭無いのだが、平穏無事をスローガンに掲げているわりに、結果を見ると波瀾万丈に自分から首を突っ込んでいる気がしてならない。
 考え始めるとなんだか落ち込みそうだったので、何も考えずに手を動かすことにした。
 テントの組み立てなど千雨にとっては手慣れたものだった。
 今作っているテントは、楓が用意したものである。
 山岳地帯でも使えるほど頑丈なものではないが、普通の雨風を凌ぐにも、夜を越すにも十分なものだった。
 思い出すのは何も無い荒野のど真ん中でテントを張って睡眠を取った日々。あるいはまともな装備もなく冬山近くで凍えながらテントを組み立てた思い出である。非常に上質な寝床であり、使い捨てであることだけが難点であった。
 あちらで使っていたテントのように魔物除けの結界こそ組み込まれてはいないようだったが、忍者が山中に陣を張るための特注品なのか、非常にしっかりとした作りのテントだった。
「千雨、何か手伝うことは……って、早いでござるな」
「あー。まあ、ちょっとは慣れてるんでな」
「では、拙者は動物除けを仕掛けてくるでござる。しばし待たれよ」
 楓が戻ってくるまで数十分ほどかかった。何匹もの生きた川魚が彼女の腕の中にあったのは、寄り道の証拠であった。


「千雨、久々の手合わせでござるな」
「……たまには身体を動かさないと錆び付くからな。手合わせはいいんだが」
 ほがらかに笑顔を見せる楓とは対照的に、若干テンションの低い千雨の姿があった。せっかく作ったテントが壊れるのも癪なので、先ほどの場所からはだいぶ離れた山奥に足を伸ばしている。
 周囲には人の気配はない。山の向こう側、ちょうど学園都市の敷地の外側と思われるあたりが、学園を覆い尽くす結界によって区切られている。結界は感覚としては、透明でやわらかな壁とも障壁とも付かぬ、うっすらとした魔力で出来た薄絹である。
 普通の人間の出入りを遮断するほど強烈な効果は無いと思われるが、それ以外の存在に対しては圧力を掛けるような仕組みになっていると見た。人間の出入りにしても、妨げないだけできちんと感知はされるようにはなっている。
 つまりあのあたりに足を踏み入れるとこの結界の関係者に怪しまれる、ということだ。
 千雨は微妙な顔をした。楓は分かっているのかそうでないのか、山間のある一定のラインから先には進まない。魔力による不可視の結界は見えなくとも、どうにかしてこの区切られている部分を把握しているのかもしれない。
「おや、どうかしたでござるか」
「人目に付かない場所とは言ったけどよ、こんな山奥ってのはどうなんだ?」
「良い場所でござろう?」
「人目に付かないのは間違いないんだろうが……泊まりだろ」
「あいあい」
 先刻、楓は週末になると寮を離れてよくこの山奥で修行していると聞かされた。実家の近くの山と似ているから過ごしやすく、鍛錬にはもってこいなのだそうである。
 何の修行なのかは聞くまでもなく分かっている。
 最初、嫌な予感はしたのだ。泊まり支度が必要だと言われた瞬間に。
 寮の部屋を尋ねてきた楓に連れられ、街を抜け、木々をかきわけ、山に入り込んで、そして今である。
 山に分け入ってから二、三時間ほどは歩いただろうか。
 踏み固められて獣道になっている部分を選んで進んだため、ほぼ一直線で迷うことはなかった。
 そして、この獣道を作ったのが目の前でのほほんと笑っている忍者娘であることは容易に想像出来た。毎週ではないのだろうが、何度となくこの場所に来ては修行に励むことを繰り返しているのだろう。
「アウトドアでキャンプと思えば……まあ、なんとか」
 千雨は根本的にインドア派であるのだが、気分を切り替えることにした。
「どのみち今日の晩はネットできねえしな」
「久々の大規模停電でござるからな。夜八時から十二時までの」
「いいのか? あの双子、暗いよーとか泣いて怖がってるんじゃねーのか?」
「拙者が週末に部屋にいないのはいつものことでござるよ。あと、二人は今宵、アキラ殿のところに泊まると聞いているでござる」
「へえ」
 以前の生活は暇さえあれば夜中までパソコンに触ってネットで遊んでいるか、アニメを見ているか、漫画を読んでいるか、そうでなければ本を読んでいるかで、普段ほとんど部屋の中から動こうとしない千雨であった。
 帰還後の生活も以前と大きな違いは無い。そこにいくつか追加された程度である。
 ひとつには裁縫。幸いコスプレ用の小道具は揃っているので、買い込んできた布をそれらしく自分で加工して、リアリティに説得力を持たせる作業に余暇を費やしていたりする。
 これに付随して、千雨は最近ついに自分のサイト『ちうのホームページ』を無事開設したのだった。
 千雨が我ながら素晴らしいと自負する様々なコスプレ衣装と、撮影した自分のコスプレ写真を眺めているうちに、つい世の中に発表したくなってしまったのである。
 自分の作成したものが素晴らしいと思えば、ひとに見せたくなるのが世の常というもので、ある意味当然の帰結と言えた。
 サイト上にアップしているのはデジカメで撮った写真であるが、加工は背景の合成だけに留めている。
 つまり、ちうとして振る舞う自分のコスプレ姿も、手作りや本物そのものな衣装も、それっぽさ抜群な小道具も、全部自前なのが売りでありまた醍醐味なのであった。
 サイトの構成も自分でやっている。それどころか、サイトの在処は自室に置いたサーバー上である。
 ネットサーフィンの趣味が高じて自作プログラムやハッキングの勉強を以前はずっとしていたのだが、その手の技術は、最近はほとんど自分のサイト構築や、セキュリティ周りを強化することにしか使っていない。
 ここまでやりながら、しかし長谷川千雨扮する『ちう』は、煌びやかなネットアイドルというわけではなかった。もちろんサイトを作ろうと考えていた当初はネットアイドルの女王としてウェブ上で君臨しよう、などというある種の顕示欲があったのだ。
 そうした自己顕示欲は、あの世界に飛ばされたことで霧消した。
 率直に言って、それどころではなかったためである。
 千雨は帰還してすぐ、自分がずっと求めていたものの正体に不意に気づいたのだ。
 ネットアイドルとして、ネット上でちやほやされたかったその根本。人気者として扱われようと、そう振る舞いたかった理由。
 それは、たとえば己に対する賞賛の声だった。あるいは千雨という存在の意思についての全面的な肯定だった。
 ネット上におけるヴァーチャルは非現実でありながら、ファンタジーではなく、フィクションでもない。
 それは、あくまで現実の延長線上にあるもの、人工の幻想に仮託したもうひとつのリアルに過ぎない。
 非日常と日常が曖昧になる場所、と呼び変えることもできる。
 だから、もしかしたら理解出来る範囲での非日常にどっぷり浸かることで、周囲との乖離、その距離を少しでも埋めようとする千雨なりの自己防衛だったかもしれない。
 一度気づいてしまったならば、ネットアイドルとしてそれらしいキャラクターの仮面を被って、そう振る舞うのは、想像するだけでもあまりに虚しかった。
 リアルの中で様々なものを否定されて生きてきた千雨が、ネットというヴァーチャルの中、その共有された幻想のなかにあって共感や賛同、不特定多数からの肯定を欲するというのは、あまりにも分かりやすい代償行為だった。
 今の千雨にとって、そうする意味は失われていた。
 仮想現実に自分の虚像を置いて、他者と繋がっているという安心感を得る必要は、もはやなかったのだ。
 このため『ネットアイドルちう』という、見知らぬ誰かからの人気によって成り立つはずだった空想の存在は、一度として世に出ることもなく無用の長物として記憶の片隅に追いやられることとなった。
 結果、千雨に残ったのはコスプレに対するこだわりと愛情であった。
 自分の持っている知識、技術、能力といったものがコスプレそのものに向けられるとなれば、衣装にせよ写真にせよ、そうそう下手な作品が出来上がるはずもない。
 千雨の手の中にあるのは、自信満々で作り上げられた珠玉の『作品』である。
 後生大事に抱え込んでいるのはあまりにもったいない。
 これらのことから『ちうのホームページ』は発足した。
 さらには『コスプレイヤーちう』というかたちで、ネット上で一人歩きを始めた。
 千雨にしてみれば写真だけ見てもらえれば満足だったせいか、サイト上にはほとんど文章らしい文章もなく、コスプレした『ちう』の写真が延々とアップロードされてゆく。
 サイト構成のあまりのシンプルさとは裏腹に、さほど間を置かず更新されるのは、レベルの高い新たなコスプレ写真。ひとたび火が付けば話題になるのは早かった。
 人口に膾炙する、とはまさにこのことだった。
 付随する文字は、写真やコスプレ先のタイトルと、撮影と合成に使った機器の名前くらいなものであった。
 かくして自分のホームページ上でコスプレ写真を発表するだけの、ひとりの謎めいたコスプレイヤーが誕生したのであった。
 ちなみにネットアイドルのランキングには千雨自身は登録していなかったし、ネットアイドル風に振る舞ったこともなかった。
 にもかかわらず『ちうのホームページ』は開設して一年を待たずして、他の人気ネットアイドルをすべて抑えて、あっという間にそのランキングのトップに躍り出た。コメント欄も掲示板もない千雨のサイトは炎上のしようもなく、むしろ他のサイトにばかり飛び火したため、ランキングから外してくださいとわざわざ『ちう』が自分からメールせざるを得なくなったという、ネット上では真贋不明と噂される笑えない話がある。
 どんな皮肉だ、と千雨はこのとき盛大に頭を抱えたのだが、それはまた別の話なのであった。

 閑話休題。
 変わったことのふたつ目としては、厭わず運動するようになった、というのが挙げられる。
 まず鈍らないようにと日々多少の運動はしているのだが、目立つ場所で鍛錬をしているわけではなかった。時折軽くランニングをしたり、家の中で身体をゆっくり動かしてマッシュやカイエンに倣った型を繰り返したりと、してもその程度である。
 平穏な日常生活を送る上では、桁外れの強さが必要となる場面などないし、そんな場面は来ないに越したことはないのだ。それでも不測の事態というのは起こりうるものだからと、長らく鍛錬を怠るような真似が出来ない性格であった。

 人の目があるところで鍛錬しづらいのは、クラスメイトにとんでもないバトルマニアがいるせいでもあった。
 古菲に目を付けられたら勝負を吹っ掛けられるのは目に見えていた。自分の運動能力については注意深く隠しているし、多少なりとも動けることを知っている数名には口止めを頼んである。
 ちなみにクラスで武闘派と目されるほぼ全員に対し、四月の始めから古菲が「さあ勝負アル!」と叫んでいたのは知っている。
 龍宮真名はのらりくらりと直接対決を躱したし、桜咲刹那は古菲からの対戦願いを見世物ではないと固辞した。
 耳目を集めながらまともにやり合ったのは楓くらいなもので、一見すると良い勝負をしていたように見受けられたのだが、最終的には時間切れで引き分けという結果で終わっている。
 対決の際、クラスの異様な盛り上がりを横目で見ていた千雨は、しかし楓がほとんど技を使っていないことに気づいていた。おそらくは真名も刹那も気づいていただろうし、クラスの中には、さらに数人分かっていたであろう者がいた。
 古菲自身も思うところがあったのか素直に敗北を認めていた。
「古は伸びるでござるよ」
「……かもな」
「気の扱いには未だ無自覚なれど、ひとたび自在に使えるようになったなら、凄まじい勢いで強くなるでござる」
 楓はそんな風に言っていた。すでに武術家としては高みに達しつつあると。
 気。
 カイエンやマッシュが使っていたアレとほぼ同一の概念なのだろう。千雨は二人からは闘気という言葉で習ったが。
 古菲は中国武術研究会なる、麻帆良の武道系部活動の最大規模の集団に属している。ほぼ敵無しと言われていることからも、来期の部長就任は確実視されていた。
「そのうち抜かれるか?」
「容易くは抜かせん、でござる」
「期待してるってところか」
「容易く越えがたい壁というのは、気の置けない友人と同じくらい得難いものでござるよ」
「自分がそれになってやるってか」
「今は古より拙者のほうが強い。自他の差を知ることから見えることもある、でござろう?」
「そんなもんか」
 肩をすくめて、千雨は笑った。
「そんなもんでござる」
 ふ、と楓も笑った。こちらも大概バトルマニアの気がある。まあ、古菲のように場所を問わず戦い始めるようなことはないから、その点では安心している。
「ああそうだ。長瀬」
「ん、なんでござるか」
「武道四天王とか呼ばれてるときにこっち見んな」
「……あいあい」
 龍宮真名、桜咲刹那、古菲、そして長瀬楓。この四人をして1−A武道四天王と呼ばれている。分かりやすく強い古菲とあっさり引き分けに持ち込んだ楓、その楓が、自分より上かも知れぬ強者として真名や刹那の名を挙げたのだ。
 刹那は眉をひそめ、真名は余裕そうに鼻で笑った。
 戦う場面を見たわけではないのに、古菲も異論を唱えなかった。真っ先に挑もうとしたことからも分かる通りに、あの二人は強い、という自分の嗅覚を信じたのだろう。
 中国武術を嗜んでいるという点では超も同じなのだが、身体能力の差か、古菲には一歩劣ってしまう。
 これにより、クラスの中ではくだんの四人こそクラス最強、ゆえに武道四天王という扱いが定着したのだった。
「他のヤツは気づかなかったみたいだけどな。龍宮がヘンな目で見てたぜ、あのとき」
「む。それはすまなかったでござる」
 その話題になったときに、楓が無意識にか、千雨をちらりと見たのだ。
 特に言葉にしたわけではなかったが、その動きに龍宮真名だけが気がついていた。
 一瞬だけの視線、それに気づくというのは驚くほどの観察力である。
 何がバレるというわけでもないのだろうが、注意するに越したことはない。
 一応、千雨にはあれこれ隠しごとがあるのだ。多少強いということだけなら、知られたところで実際には大したことにはならないのは分かっている。
「ま、気をつけてくれればいいぜ。それより桜咲は……なんなんだろうな」
「木乃香殿と何かあったのは間違いないのでござるが」
「下衆の勘ぐりにしかならないか」
「……少なくとも、他人がいきなり踏み込んで良い問題ではない……でござろうな」
 刹那は同室の真名と会話しているのは見かけるが、その他はほとんど他人と話そうとしないのである。
 脳天気なクラスメイト連中がいくら仲良くなろうと話しかけても、なしのつぶて、大抵はどうでもよさそうな視線と他人行儀な返答か、丁寧で淡々とした口調で撫で切りにされる。
 それに懲りずに馬鹿話をしに行くと、スパッと一刀両断――もとい黙殺される。
 いたずら好きの鳴滝姉妹や春日美空でさえ、刹那相手のいたずらは無言の視線があまりに怖くて一度で懲りたのだった。あの真名ですら双子からは何度もいたずらを仕掛けられているというのに。
 いや、真名の場合はあんみつを奢れば結構許してくれるのが理由のひとつかも知れない。
(……そういやマクダウェルも仕掛けられてなかったな。教師相手にやらかすあの双子でも、仕掛ける相手は選ぶのか)
 千雨はそんな風に思った。
 刹那に関してはもうひとつ問題があって、そんな人付き合いの悪い様子を微妙に遠くからどこか切なげに見ている近衛木乃香の姿があって、色々込み入った事情があるのだろうと思わせるややこしい関係なのは一目で見て取れた。
 両者ともに気づいていないようだったが、第三者の視点からすると、那波千鶴や雪広あやかがそれとなく見守っているのが分かる。案外、朝倉和美あたりも把握している可能性が高い。
 他の面子はクラス全体を見回すことがほとんどないため、気づく以前の問題なのだろう。
「近衛のことを嫌いじゃなさそうなのが救いか」
「正直、もどかしいのでござるが」
「何がだ」
「刹那の仕事っぷりが、でござる」
「……仕事、ねえ。あれか。護衛とか、そういう感じか」
「千雨も分かっていたでござるか?」
 驚いた顔で聞き返された。
「別に個人の趣味をどうこう言うつもりはないんだがなぁ」
「ああも木乃香殿の後ろを着いて回られると、なかなか動きづらくてかなわんでござるよ……一度気配を消して近づいたら、むき出しの殺気を向けられたでござる」
 刹那は、さりげなく身を潜めているつもりらしいのだ。
 が、見る者が見れば分かってしまう隠形なのである。
 そもそも身を隠すのはむしろ忍者の領分であって、一介の剣士がやるべきことではないのだ。本職からすると口を出したくなるような警護の手法なのだろう。
 護衛なら護衛、隠れて見守るなら見守る。両者を両立させようとするから無理が出るのだ。
「あれでは自分のいないときを狙ってくれと言っているようなものでござるよ」
「むしろ堂々と守ってりゃいいのになぁ」
 二人してため息を吐いてしまった。雰囲気から読み取れるだけでも、剣の腕は決して悪くはないはずである。どころかあの足運び、重心の安定ぶり、修練の練度からすると、刹那が歳に似合わぬ上手の使い手であることは目にも明らかだった。
 なのに、というか、だからこそ先が思いやられるのだ。
「……」
「……」
 ひとの心配ばかりしていても仕方がない。千雨から話を変えることにした。
「あー。そういや龍宮とは前からの知り合いなのか?」
「そういうわけではないのでござるが……まあ、お互いにプロなので多少は分かるところがあるのでござる」
「プロ?」
「職種は異なれど、そういう部分は分かるものでござるよ」
 千雨は首をかしげつつも、そういうものかと納得した。楓が言っているのは忍者としての仕事なのだろう。武道派に偏り気味の忍者である気はするが、故郷の里では化け物退治にでも精を出していたのだろうか。
「なるほどなぁ。言われてみりゃ龍宮は傭兵っぽいしな。忍者とは共通項が無くもない、か」
 楓が目を見開いた。
「……千雨、それはあまり公言せぬことを勧めるでござるよ」
「龍宮のことか? 傭兵って、あいつマジにそうなのか。拳銃っぽいものを隠し持ってるのは知ってたが」
 それきり楓は黙ってしまった。おそらくは正鵠を射ていたようだ。が、それを否定することも出来ないため、明確な返答そのものを避けているらしい。
「あいつも面倒くせぇ事情抱えてそうだな……あれはエアガンってことにしとく」
「それがいいでござる」
 楓の他人の秘密を守ろうとするその姿勢は好ましいものだった。だから千雨はこの話題を避けることにした。


「さて、そろそろ仕合うでござるか」
 楓がぽつりと言った。
 世間話も楽しいが、戦う時間を浪費するのはもったいないと言わんばかりに。
「……人払いは」
「言われると思って、先に仕掛けてござる。安心召されよ」
「ならいいけどよ。あ、ちょっと待ってくれ。着替えるから」
 山道を歩く羽目になると知って、千雨は長袖長ズボンという格好だった。ジーンズでは少々歩きづらいと思ったのか、薄茶色のソフトパンツに薄手の青いシャツを着ていた。
 楓が頷くのを見て、荷物を手にテントの中に潜り込む。
 早着替え、というほどでもないが、かなり素早く着替えを済ませた。
「千雨、その格好は――もしや、侍、でござるか?」
 楓の声には疑問の色が見え隠れしていた。
 千雨の格好は見ればなんとなく侍に見えなくもない、という一般的な侍のイメージからはかけ離れた装束だったのである。時代劇にこんな格好の侍が出てきたら千雨だって怒る。ありえねーと叫ぶ。そのくらい侍っぽくない。
 が、なりきる相手は侍という曖昧な対象ではなく、カイエン・ガラモンドという人物なのである。当たり前の侍風の格好でもやってやれないことはないのだが、具体的なイメージの想起という一点においてやはり差異が出てきてしまう。
「毎回ござる口調に引っ張られるのもアレなんでな。今回はちゃんと衣装を揃えてきた」
 カイエンの姿を思い出したとき、一番していたのはどこか洋風に見えるこの装いだったのである。
 胸当てや小手のある軽装で、色使いは和風とはかけ離れていた。もちろん装備を身につけていない場合には袴姿であったり、和装にほど近い格好のときも多かったのだが、敵に対して刀を振っている姿と結びつくのはまずこちらの格好だった。
 ショルダーガードに膝当て、さらにはマントまで完備しているのだ。ドマの侍というのは先進的であったと言える。
 これは当人の服装を千雨が記憶を頼りに再現してみた、という代物である。異国風というか、オリエンタルな感じはちゃんと出ていると千雨自身としては納得の出来であった。
「その胸当て、本物でござるな」
「もらいもんだからな」
 胸当てを見つめた楓から口にされた本物という言葉が、どこまでを指し示していたかは分からない。
 本物の戦場を駆け抜けたもの、という意味か。それとも歴戦の剣士が身につけていた本物、という意味か。
 どちらにせよ、使い古されて、もう使わないからと譲り受けた一品であることに変わりはない。
 手入れはかかさなかったが、本来千雨が身につけるためのものではなかったために、装備するには大きさが微妙に合っていない。こればかりは仕方がないことだった。カイエンの胸板の大きさと一介の女子中学生の体格とでは差がありすぎるのだ。
 このため若干詰め物をしたり、紐でずれないように後ろからくくりつけたりと、千雨は少し苦労をしていたりする。
「武器は……こっちは木刀でいいな?」
「真剣が良い、と言えば持ち替えてくれるのでござるか」
 からかうような楓の口調に、千雨は額に手を当てて考え込むような仕草をした。どう答えたものかと一瞬迷ったのだ。
「いや、今日するのは鍛錬だろ? 型稽古なら真剣でやってもいいんだ。けどな、こちとらクラスメイト相手に真剣で斬りかかる趣味はねーんだよ」
「……すまぬ。拙者、少々浮かれておったようでござる」
 苦笑を浮かべると、楓はひとつ大きく深呼吸して、むしろ意気軒昂たる気迫を見せた。
「前回、その木刀相手に手痛く打ち落とされた自分の未熟を忘れていたでござるよ」
「なあ、長瀬」
 楓の名をまっすぐに呼ぶ。
 今回はきちんと衣装を整えたがために、千雨はカイエンになりきっていても、口調はそのままでいられる。
 それでも内面の心の動き、意志の行方は、記憶にあるカイエンのあの在り方に引っ張られている。
 そこにいるのは、熟練の腕前を持ちながら、往々にしてお人好しな、ひとりの武士である。
 千雨にとっては同年代、しかしカイエンの年齢であれば、楓は後に続く目をかけたい若輩である。
 不器用ながら心優しきカイエンは、ときに温かく見守りもしてくれた。ときに厳しく打ち据えもしてくれた。
 たとえば語られる思い出のなか、在りし日のドマの城内で、先が楽しみだった同門の子弟にそうしたように。
 剣など握ったことのなかったころの千雨に対して、彼なりの誠実な言葉で剣の理を静かに語り続けたように。
 負けることで失うものあらば、勝てるように強くなるべし。
 貪欲なまでに強さを求めるものを前にして、教えを叩き込むことに躊躇などありえないのだ。
 だから強者との戦いに瞳を燃やす楓にも対しても、こうするに違いなかった。
「ん、なんでござるか」
 名を呼ばれた楓から、いきなり雰囲気の切り替わった千雨は怪訝そうに見つめられる。
 身体は半身、握りしめた木刀は以前と同じ。
 切っ先が斬り飛ばされたどこかの流れもの。その先端を楓に向けて、構えとも言えぬ構えを取る。
 カイエンになりきった千雨は、平素ではありえぬ獰猛な笑みを浮かべていた。それは剣に生きるものの笑みだ。いくさ場に足を踏み入れるつわものの凄まじき表情であった。
 戦うにあたって、身体の奥底から沸き上がる昂揚を十全に感じながら。
 数ヶ月前と比べ、眼前の忍者娘がどれほど腕を上げたのかを楽しみにしながら。
 場の雰囲気に当てられたか、みるみるうちに楓の表情が真剣なものに塗り変わってゆく。余裕そうな笑みはなりを潜め、楓の瞳の輝きは冷静に戦場を見回す戦闘者の視線へと切り替わる。
 こうしているあいだにも、すでに千雨の隙を窺っているのが気配から感じられた。
 かすかに笑みを深める千雨。
「あれから自分がどれだけ強くなったか、試したいんだろ?」
 笑顔の獰猛さは一転、飄々とした微笑によってやわらかな印象に埋もれてしまう。
 しかし、その雰囲気の変化が弱卒を意味することはありえない。
 カイエン・ガラモンド。
 千雨がなりきっている相手は、あの侍なのだ。
 獣が牙を研ぐように、猛禽が空を旋回して地を這う得物を窺うように、表情の裏には英傑の気迫が覗いている。自然に溢れた山奥の景色はすっかり静けさに飲み込まれしまった。無数にいた騒がしい虫たちも、優雅に空を舞っていた鳥たちも、ひそやかに息を殺して葉の裏、木の陰、雲の向こうに身を潜めている。
 逃げ去ることさえできず、身動きさえ許されず、わずかに震えるような空気の緊張に沈黙を強いられている。
 楓が、視線を合わせてくる。
 気圧されることもなく。
 ゆえに自分を保ちながら、千雨はカイエンという強者の動き、その強さを、その在り方を再現する。
「さあ、遠慮せずにかかってこい! 私に一太刀入れてみせろ!」
 千雨の声に、楓は応答し――
「――委細承知……甲賀中忍長瀬楓、いざ、参るッ!」
 こうして訓練とは名ばかりの、観客などいない、苛烈にして轟然たる仕合いが始まった。


 
前へ / SS置き場へ / 次へ


inserted by FC2 system