千雨の中学生になって初めての夏休み。その初日は、寮の部屋のドアをノックされる音から始まった。
 早朝というほど早くはないが、普段から夜更かし気味な千雨にしてみれば寝て過ごすつもりだった時刻である。


 何とも言えない微妙に困惑した顔で、まるで自分の従者のごとく横に立っている茶々丸を眺めた。
「で、なんで私はここにいるんだ?」
「突然お呼び立てして申し訳ございません、千雨さん」
 茶々丸からの返事は、本当にすまなそうな響きに聞こえた。
 長期休みのためか、いつもの制服姿ではなく私服である。
 誰の趣味かは知らないが、いやに可愛らしかった。
 具体的にはフリルいっぱいの白を基調とした少女趣味な洋服である。下は落ち着いたベージュ色のスカートだ。特に上半身。自分より十センチほど高い身長の茶々丸が自分から着るような服とも思えず、かといって超や葉加瀬の趣味にしては可愛すぎる。
 不可解である。
「いや、別に強制されたわけじゃないし、怒ってるわけじゃないが……」
 不可解なのは服の趣味だけではなく、千雨の今いる場所もだ。
 千雨がいるのは、エヴァンジェリン宅の居間であった。ソファに腰掛けてくつろぐよう勧められた。
「少々お待ちください。マスターの準備が出来次第、お呼びいたしますので」
 またもや申し訳なさそうな表情である。
 茶々丸の心情としては、呼びつけておいてこの場で待たせるのを悪いと思ったらしい。茶々丸はその場を離れる前に、さりげなく氷を入れた麦茶を用意していった。
 用件がさっぱり分からない。エヴァンジェリンに呼びつけられたと思しき状況なのだが、茶々丸の態度から判断するに、特に何か用事があるという口調でもない。周囲の森深く緑鮮やかな風景はさほど変わらない。せいぜい、以前来たときより夏らしく青々とした空気に囲まれているくらいだ。
 今更襲いかかられるというのも考えにくく、他の用件など特には思い浮かばな――いや、千雨は首を振った。
「って、あれか」
 つい先日、楓と一緒に山ごもりしたときの一件である。
 一泊の予定は取りやめたし、関係者が現場に到着する前に千雨は山から下りた。そのときは誰にも見られなかった自信があるのだが、帰りはともかく山に向かう段階では人目を気にしていなかった。
 誰とすれ違ったという記憶もないが、朝のうちから楓に同行していた姿を見られていてもおかしくはない。
 千雨に何らかの釘を刺すために呼んだのだろうか。千雨があの場にいなかったことにしたところで、特に麻帆良の関係者にとって不利益になるような行為とも思えなかったのだが。
 そもそもエヴァンジェリンには、意識誘導が効きづらいという千雨の事情は露呈してしまっているのだし。


 何分経っただろうか。冷やされた麦茶入りのコップが汗をかき始めている。
「……暇だな」
「待たせたな」
 口に出した瞬間、エヴァンジェリンが顔を出した。
 涼しげな格好である。エヴァンジェリンの着ているのは白いワンピースだ。大きさ的には子供向けと思われるが、それにしては高級そうな生地を使っているように見える。茶々丸の着ている服と傾向は似ていて、本人の容姿と相まって実に可愛らしい。
 上衣とスカートがひと繋がりになっているが、その上下に色々と手が加えられている。シンプルそうに見えて手の込んだ品であり、それにしては器用に布一枚のみで作っている風だ。
 高級ブランド、あるいはオーダーメイド品なのかもしれない。少なくとも、しまむらあたりで買えるような品ではない。
「で、何してたんだ」
「寝てた」
「……は?」
「寝てたと言っている。私は朝は弱いんだ」
 冗談を言っている風ではない。
 先ほど待たされたのは、単にエヴァンジェリンが起きられなかっただけのようだ。茶々丸は、と背後を見れば、無表情のなかに謝罪の意志がありありと浮かび上がっている。こんな主の不手際で、従者をいちいち責め立てるのはさすがに可哀想だろう。
 よくよく見ればエヴァンジェリンは眠たげな表情を隠しもしない。というかまさにこの瞬間あくびをした。
 千雨は生暖かい笑顔で、茶々丸に視線をやった。
「絡繰も……大変だな」
「恐れ入ります」
「……待て。どういう意味だ貴様ら」
「そのままの意味だろ」
「マスター。寝癖がついております。そのまま、じっとしていてくださいますよう」
「そうか。任せる」
 さっとタオルと櫛とを用意した茶々丸が、すぐさまエヴァンジェリンの後ろに回る。
 茶々丸に梳られながら、優雅な仕草でエヴァンジェリンが首を動かし、なすがままになっている。
「……いやもう、ホント大変だな」
「恐れ入ります」
「だから貴様ら、どういう意味だっ!?」
 噛みつくようなエヴァンジェリンの声に、千雨は微妙な笑顔で返しておいた。


「それで、私を呼んだ理由はなんだ?」
「茶々丸」
 エヴァンジェリンが呼ぶと、すでに支度を終えていた茶々丸がテーブルの上にそれを置いた。
「はい。千雨さん、こちらをご覧ください」
 千雨の使っているものとは違うタイプのノートパソコンである。カタログでも見た覚えのない形状から推察すると、最新型というよりも独自規格品なのだろう。麻帆良大学工学部の関係者に貸与される品らしい。きちんと麻帆良大学工学部備品と蓋の部分に刻印されている。
「で、これがどうした」
「いえ。こちらです」
 見せたかったのは画面に映っているサイトらしい。見覚えのあるトップページである。
 ちうのホームページ。
 コスプレ写真を掲載するためだけに作った、千雨謹製のサイトであった。曰く言い難い表情をして、千雨は茶々丸を見て、それからエヴァンジェリンに視線を移した。茶々丸は表情を変えず、エヴァンジェリンはわずかににやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべている。
 剣呑な案件ではなかったようだ。
 が、意図が良く分からない。
 あげつらうつもりではないことは、二人の性格からして明らかである。はて。
「昨晩これを見たマスターが、千雨さんに話があるから呼んでこいと唐突に仰いました。それがおよそ深夜二時頃のことでした。さすがにもう就寝されているだろうと思い、今朝になるまでマスターにお待ちいただきました」
「ああ、一応気は遣ってくれたわけだ」
「本来であれば先にアポイントメントを取ってからにする予定だったのですが……」
「分かった分かった。ワガママ娘の無茶振りに答えるのもほどほどにしとけよ。あとで苦労するのは絡繰自身だぜ」
「心得ております」
 ポンポンと矢継ぎ早にやり取りする二人は、揃ってエヴァンジェリンを見た。
 視線に含まれている意図はあからさまなくらいだった。
「さっきから聞こえてるように言ってるだろ貴様らッ!」
 朝から呼びつけたことか、それともなかなか起きなかったことか、ともあれ悪いとは思っているらしい。からかわれて苛立ったような口調ではあるが、それで茶々丸や千雨に本物の怒りを向けてくるわけではない。
 エヴァンジェリンのささやかな文句を流して、千雨は茶々丸に話の続きを促した。
 当人に話を聞かず、茶々丸から聞きだそうというのは、その方が早く話が進むからである。
「こちらは、一般的にはコスプレと称される行為だと思われますが、千雨さん」
「その通りだな」
「この『ちう』さんは、千雨さんと同一人物と判断してもよろしいのでしょうか」
「絡繰が別人だと思ったなら、私はここにいないだろ」
「その通りですが」
 コスプレ趣味を認めるに吝かではない。だいいち、別に知られてもさほど困ることではないのだ。
 クラスには同人漫画を書いて、それをおおっぴらに話題に出す早乙女ハルナという同級生もいる。
 彼女は漫画研究会の会員だそうだが、毎月のように締め切りギリギリの修羅場に陥っては周囲を巻き込もうとする悪癖があるため、千雨はなるべく近寄らないようにしている。
 夕映やのどかが普通に友達として付き合っている以上、悪い人間ではないのだろうが、どうにもノリが合わない気がする。二人もハルナと一緒にいるときには積極的に話しかけてこないあたり、価値観の部分で致命的に相性が悪いのではなかろうか。
 趣味のコスプレに関しては、誰も彼もにお披露目したいわけでもないから普段は黙っている。明け透けに語ることでもなし。
 自サイトのホームページ上で発表することには躊躇しなかったし、写真の顔に修正を入れているわけでもないからそのうちバレることもあるだろうとは作った時点から予測していた。
 その相手がこの二人というのは非常に不思議な気分ではあったが。
 あのサイトに気づくとしたら、朝倉和美あたりが一番最初だと思っていた。なまじ人気が上がってしまって、登録してもいないランキングで上位を取ってしまったのが運の尽きか。
 サイトの閲覧者が増えることに否はないが、応じて諸問題が持ち上がるのは困りものだ。
 早いうちに色々対処しておくべきかもしれない。千雨は言葉の続きを待ちながら、あれこれと考えていた。
「で、これが私だとして、だからなんだ?」
「昨晩のことです。マスターがこちらの写真をしげしげとご覧になりまして、直後のことです」
 茶々丸は嘆息するような間を空けたあと、
「『ふん、ここの縫製は甘いな。デザインも微妙だ。自作か?』『安物の生地ばかり使いおって……見せるなら見せるでそれなりのプライドはないのか!?』『千雨は素材は悪くないのだから、手製のを着せてみるのも一興か……』とそんな独り言を仰いました」
「ちょっと待て茶々丸」
「『まったくこんな趣味があるならさっさと言っておけばいいものを……いや待て、単なる着せ替え人形ではつまらんな。どの道アレを着せるなら、いっそ茶々丸が似合わなかったあの服を仕立て直すか』などとも口にされました」
「黙れボケロボッ!」
「どうかなさいましたか、マスター」
 エヴァンジェリンは渋面を隠しもせず、かといって怒鳴るのも格好悪いことに気づいたのか、低い声で他の部屋を指し示した。
「ちッ……向こうで待機しておけ。この件についてお前に喋らせると碌なことにならん気がしてきた」
「了解しました」
 主従のやり取りを困惑気味に眺めていた千雨は、なんと言って良いか分からず黙り込んだ。
「千雨。今の茶々丸の話は忘れろ」
「……いや、私に関する話だろ。忘れろって言われても」
「忘れろ。いいな?」
 エヴァンジェリンに睨まれたので、慌てて頷いておいた。
 まったく怖くはなかったが、さすがにちょっと気まずかった。


「さて、お前をここに呼んだ理由だが」
「あ、そこから再開するのか」
「……何か言ったか」
「いや別に」
 凄まじい目つきで睨まれた。今度はちょっと怖かった。
 さきほどの茶々丸の証言は、綺麗サッパリ無かったことになったらしい。
 エヴァンジェリンは平静そのものといった表情だ。微妙に口の端がひくついていることを千雨は見なかったことにした。そのままノートパソコン上に映し出された自サイトの画像をエヴァンジェリンの指し示すままに眺める。
「昨夜この写真を見てな。見るべきものもあるが、全体的に服の出来が甘いと言わざるを得ん」
「そこはまあ、自覚してる」
 なにしろ無いものは自分で作るしかない。やたらと込み入った刺繍やらフリルのついた魔法少女のコスチュームや、どう見ても超絶技巧が駆使されているとしか思えない不思議な作りの衣装に関しては、それっぽく見えるように作るしかないのだ。既製品を買ってきても、千雨が自作するのより出来が悪いので、作るときは割と必死になって型紙から作る羽目になる。
 かといって眠い目をこすって時間をかけた衣装の出来上がりが完璧かというと、そんなわけもない。
「ならいい。それで、だ。……千雨、お前、私の作った服を着てみないか」
「マクダウェルが作った服をか?」
 エヴァンジェリンは面倒くさそうに眉をひそめた。
「なんだか呼びづらそうだな。……ファーストネームで呼んでも構わんぞ」
 むしろ、その方がありがたい、という表情だった。
「エヴァンジェリンだったか? いや、むしろこっちの方が呼びづらくないか」
「なら、エヴァでいい。タカミチあたりもこう呼んでくるしな」
 あっさりと譲歩された。タカミチ。呼び捨てした相手は、あの高畑教諭であろう。呼び方の響きから想像しうるロマンスとは縁遠く、完全に目下の名を呼ぶような口調だった。
 色々あるのだろう。
「服のことだったな。これを見ろ。お前もものの善し悪しくらいは分かるだろう」
 言って指し示したのは、先ほど千雨が感嘆した高級品風のワンピース。エヴァンジェリンが今着ている端麗な一枚布。
「私にかかればこの程度の洋裁は造作もない。さすがに無料で作ってやるというわけにはいかんが、実費に多少色を付けるくらいで良いだろう。どうだ、悪くない……お前にとっては益の方が大きい取引だと思うがな」
「へえ」
 自信ありげに見せられた仕立ての細工を間近で凝視する。確かに言うだけのことはある、素晴らしい出来だった。
 デザインが普段使いにはちょっと可愛すぎるというか、ロリータ・ファッション方面に偏っている印象はあるのだが。


 千雨は元から手先は器用な方だった。
 しかも自称トレジャーハンターやら女好きマシーナリーやら身勝手ギャンブラーの薫陶(?)を受けた身である。それぞれ器用さの発揮される方向性が別々だったが、参考にはなった。
 それでも裁縫というのは一通りの技術の先に、経験と習熟というステップを踏まねばそれなり以上にはなり得ない世界だ。
 仲間たちのなかでは、裁縫の巧さという一点では、おそらく師匠であるゴゴが一番上手かったはずである。問題はそこら辺の技術は教えてもらった憶えがないという点である。ものまね師としてのものまね技術とはおそらくほとんど関係がなかったためであろうが、衣服ごと物真似する場合、そっくり同じ見た目になることもあったのだ。
 衣装を合わせる場合は、当たり前のように早着替えまでしていた。
 そのおそらくは大半が自作の衣装であったのだろう。つくづく何でも出来るひとだったと懐かしく思う。
 他に裁縫が上手かったのは、ティナだろうか。子供たちの世話をしているうちに上手くなったと言っていた記憶がある。ちなみにセリスは生活に関する家事の腕は言葉通り壊滅的だった。
 千雨は嘆息せずにはいられなかった。あれは、本ッ当にひどかった。
 まだあの時点で小学生だった千雨よりも出来なかったのだから、その力量足るや相当なものである。
 幼い頃から軍人で士官教育を受けていたという話だから仕方ないのかも知れないが、それにしても全般的にどうしようもない腕前だった。野営時の食事の用意はセリスとウーマロは当番を免除されていた。モグでさえ役割を割り振られていた食事当番ですらそれなのだ。
 ちなみに千雨が初めて会ったときには大分性格が円くなっていたそうである。それ以前はどれだけだったのか。そこらへんの話を聞きそびれたことは今でも悔やまれる。
 家事の腕はさておき、セリスはきつい部分もあるが優しいところも垣間見える、そんないいお姉さん役だったのだ。
 思い出に浸りつつも、目の前のことに意識を集中する。
「話がうますぎるな。他に対価が必要なんだろう? 何が望みだ」
「簡単なことだ。私が望んだときに私の作った服を着ろ。それだけだ」
「ああ簡単だな……って、んなこと出来るかッ!」
「なっ、なぜ断る? 私の腕に不満は無かろうッ!?」
 はぁああ、と長く息を吐いて、千雨は呆れたように肩をすくめた。
「よく考えてみろよ。日常生活で毎日毎日こんな乙女チックなもんずっと着てられるか」
「ふん。つまらんことにこだわりおって」
 舌打ちまでされた。
「いや、全然つまらなくねーからな。というか、自分で作った服を私に着て欲しいならそう言えよ」
「いいだろう」
 千雨の言及に、軽く頷いたエヴァは鼻でフッと笑った。
「私の作った服を着ろ、千雨」
 まっすぐ目を見つめられ、素直にそう言われた。
 千雨は一瞬黙り込んでしまった。言葉に詰まった、とも言える。
「どうした。言えと言ったのはお前だぞ」
「まさか本当に率直な言葉が出て来るとは思わなかったんだよ」
「で、着るのか? それとも着ないのか?」
 年上のようにも、見た目通りの年齢にも思えるのは、外見に精神年齢が引っ張られるからだろうか。
 挑発するような口調は小憎らしいほどで、端正な顔立ちに浮かんだ笑みは、微笑ましくもどこか悪戯っぽい。
「分かった。サイトにアップする写真を撮るときには優先的に着させてもらう。それでいいか」
「……まあ良かろう。私としてもナイトドレスで着かざったまま駅前をうろつけなどという無茶は言わん。コスプレに必要だというのなら、ある程度はデザインの要求も聞いてやろう。面白いシルエットなら型紙から起こして仕立ててやる。実費と多少の作業費は貰うがな。私の腕が借りられると思えばそのくらい安いものだろう?」
 エヴァがくすりと笑った。余裕のある、懐の深さを示すような言い方だった。
「でも、いいのか」
「何がだ?」
「一着作るのだって相当な時間がかかるだろ。こんだけ綺麗に仕立てるなんて」
「何回も中学生を繰り返してみろ。退屈を通り越して空虚にもなる。どのみち暇を持てあますなら精々楽しめるほうを選ぶさ」
「意外だな。針仕事、好きなのか」
「嫌いならわざわざ自分ではやらん。まあ、最初こそ人形作りの余技だったがな」
「人形作りねえ。ってことは、あれもエヴァの作品ってことか?」
「ん? ……ああ、その通りだ」
 何やら70センチほどの大きさの人形が、陽の当たらない位置に置かれた椅子に腰掛けている。まるで生きているような、というおざなりな表現を使うのが正しいのかどうか分からないが、今にも動き出しそうな雰囲気もあり、相当な年代物であることは間違いない。
 ぬいぐるみのような丸さを感じるのだが、遠目にも材質は布ではありえないことは分かる。かといって陶器のようにはもっと見えない。ぱっと見は本物の人間風に見えなくもない茶々丸をデフォルメして、目つきを悪くした感じと言えば伝わるのだろうか。
 千雨の問いかけには若干の称賛の響きがあった。これに気をよくしたのか、エヴァは鷹揚に頷き、うっすらと口角の端を緩めた。
「長く生きていると色々なものに手を出したくなるものだ。そして趣味に使う時間を惜しむほどつまらないことはない。……そうだろう?」
 再び指し示されたのは千雨のサイト。そこに映り込んだ自分が、他の誰かになりきっている写真だった。
 エヴァのこうした指摘に、千雨は深く納得せざるを得なかった。


 エヴァの要件は服の件だけだったらしく、いくつかの取り決めを交わしているうちに気づけば昼になっていた。
「千雨、昼の予定はあるか。無ければ私の分と一緒に茶々丸に作らせるが」
「いいのか?」
「呼んだのはこちらだからな。美味い昼食くらいは振る舞うさ」
 エヴァに呼ばれて茶々丸が出てきた。エプロンではなく、なぜか地味な割烹着を着込んでいる。これこそ誰の趣味なのか分からない。もしかして茶々丸自身の好みが反映されているのだろうか。
 エヴァと千雨、二人の前に湯飲みを音を立てずに置いた。水出し緑茶らしい。透き通った緑が涼やかに見える。
 妙にアンバランスな格好に千雨は直接のコメントを避けた。ツッコミ待ちというわけでもなかろうに、茶々丸は千雨が完全にスルーの体勢を取っていることに落胆したような空気を醸し出した。
「千雨さん。何か食べられないものはございますか」
「いや。特にはねぇな」
「リクエストがありましたら、なるべくそれに沿ったものをお作りしますが」
「何が作れるんだ?」
「中華が最もレパートリーが多いのですが……」
「……あー。なるほどなぁ」
 超の影響を受けているとすれば、さもありなん。
 あの超が春になってからお料理研究部に頻繁に顔を出しているのは知っていた。さすがテストで全教科満点。運動も万能。ついでに料理まで出来るとなれば、もはや敵無しと言えよう。
 四葉五月と相談して何か企画していることは風の噂に聞いていた。数日前には『夏休みの半ばくらいには完成すると思うから、そのときまでお楽しみネ! 出来上がったら千雨さんも招待するヨ!』と言って、超が不適な笑いを浮かべていた。
 何を企んでいるのかについては、なんとなく想像は付く。
「料理研にて五月さんに教えていただいているので、今後、少しずつ作れる種類は増えてゆく予定です。パスタ、和食などのオーソドックスなものであればある程度は調理出来ます。カレーやハヤシライスなどでも問題ありません」
「ランチだと、そうだな、ペペロンチーノとか出来るか」
「……申し訳ありません」
「作れないのか」
 三つ星シェフになりたいという野望があるならともかく、一般的な食卓に出す分にはさほど難しいものとも思えなかった。千雨の不思議そうな表情を前に、茶々丸は目を伏せた。
「いえ。作れるのですが、マスターがニンニク入りの料理を食べられないのです」
「……へぇ」
「言っておくが好き嫌いではないぞ。ある種のアレルギーに近い理由だからな。勘違いするなよ」
 千雨の向けた生ぬるい視線にエヴァが敏感に反応した。
「マスターはネギもお嫌いです」
「ニンニクにネギねえ。それ系の香りの強いのがダメってことか」
 この分だとニラあたりも駄目そうだった。完全に偏食というわけでもないのだろうが、ニンニクという言葉が出た瞬間の本気で嫌そうな顔を見るにつけ、食べられない以上に、単純に匂いが嫌いというのもあながち間違っていないように感じられた。
「しかしニンニクがダメって……吸血鬼みたいだな」
 突然エヴァの視線が鋭くなった。急な雰囲気の変化に千雨が戸惑っていると、
「わざとか?」
「は、何がだ?」
「いや……ああ、そうだったな」
「ひとりで納得されても困るんだが」
 千雨が怪訝そう眉をひそめるのと同時に、エヴァは不愉快そうだった表情をニュートラルなものに戻した。この話を続ける気はないと態度で示されて、しぶしぶ千雨は引き下がった。
 今の質問の意図がいまいち掴めないまま、千雨が昼食のメニューについて話を戻した。
「じゃあ、カルボナーラはできるか」
「それでしたら……。はい、それでは支度をして参ります」
 エヴァが頷くのを待って、茶々丸がその場を辞した。すっと台所の方角へと消えていった。


 千雨は喉を潤して、湯飲み茶碗を静かに置いた。少しのあいだ言葉に迷っている千雨に、エヴァが気づいた。
「……なんだ?」
「いや、完全に洋風の居間なのに……出てくるのが湯飲み茶碗で水出し緑茶ってのが不思議でな」
 特にエヴァの様子が一番不可解だった。ゆったりとした椅子に優雅に腰掛けておきながら、ごくごく当たり前の顔をして湯飲みで美味そうに飲んでいるのが、ぱっと見では人形みたいに見目麗しく可憐で儚げな外国人美少女である。内実を知れば若干印象は変わるとはいえ、この場に描き出された光景そのものは非常に絵になる。
 千雨にとって何が違和感かといえば、その仕草のひとつひとつが堂に入りすぎているという部分であった。冷たい緑茶を飲むエヴァの様子は落ち着きすぎていて、どこか老成した雰囲気が目に見えるようだった。
「ああ、隣には茶室もあるぞ」
「あるのかよ!?」
「落ち着くからな。今日は用意していないが、そのうち千雨にも茶を点ててやろう」
「礼儀とかさっぱり分からねーぞ」
「安心しろ。そこまでは期待していない。……茶道について勉強したくなったら委員長にでも教えてもらえ。傍目にも、あれはよく勉強していると見える。ただ、華道部は新入部員が少ないと部長が嘆いていたからな。そっちに引きずり込まれるかもしれんが」
「エヴァは何部なんだ?」
「茶道部と囲碁部とを兼部している。まあ、部員であるというだけだ」
「そっか」
 なんとはなしに黙り込んだ。
 風鈴の音が、りぃん、と一際高く澄んだ響きで音を鳴らした。
 時折聞こえるのは窓を揺らした風の声だった。遠くから届くのは軽やかな包丁の音だった。しばらくあとには茹で上がったパスタを鍋から出している音。やがて茶々丸がフライパンで調理を始めたらしく、引いた油が熱されるじゅうじゅうという音が千雨の耳朶を打つ。
 外はひどく蒸し暑そうだった。どこか涼しい風がゆるやかに室内を通り過ぎてゆく。
 また、風鈴の音が甲高く響き渡った。
「和風が好みなのか?」
「……ああ、古風な日本の情景は好きだな」
「となると、寺巡りとかが趣味なのか」
「神社仏閣言うに及ばず、神さびた景色はまた見たいものだ。もう随分と旅行という言葉からは遠ざかっているしな」
「……あーっと、悪ぃ。麻帆良から離れられないのか」
「ふん、同情を引きたくて言っているわけじゃない。単なる事実だ」
「へいへい」
 拗ねたような横顔は、そこに浮かんだ寂しさは、諦めにも似た情感を思い起こさせる表情だった。
 同情されたくないというのは本心だろう。
 だが、事実がどうであれ、エヴァが何も思っていないわけではない。そんなわけがないのだ。
「なんだその目は」
「修学旅行とかはどうしてたのか、ってちょっと引っかかっただけだ。行き先に京都とかの古都巡りもあるだろ」
「ただの一度も、行けてない」
 それだけ、エヴァはぽつりと言った。短い言葉の中には、悔しさのようなものが滲んでいた。エヴァの声の静けさに、これまで見たことのないような暗い情念が見え隠れしていた。
 そのまま黙したエヴァの瞳の奥には決して見えてはいけないたぐいの妖しい輝きが爛々と煌めいていた。
 まずい。
 今の問いかけは、完全に地雷だった。
 断崖絶壁を目の前にしたサスペンスドラマの犯人の気分で、千雨は必死に挽回の言葉を探した。
「ああっと、あれだ。修学旅行は学業の一環だってことにはならないのか」
 表情を消したまま頷くエヴァ。
 ならないらしい。重苦しい空気が一歩、崖っぷちの方に進んだ。
「えっと、……ああ、前なんか呪いだとか言ってたな。そのへん私は詳しくないから、呪いとか言われても良く分からないんだが……根本的な疑問として、それって解けないのか?」
 呪いなら解いてしまえばいい。
 詳しい話を聞いていない千雨が考え得る解決法としては、もっとも単純なことである。
 ギロリ。そんな音が聞こえそうな目つきだった。
 エヴァがふつふつと怒りの湧いた表情を浮かべ、本気で睨まれて戸惑っている千雨は怒鳴られた。
「貴様、分かってて喋ってるだろッ!?」
「だから何をだよ!?」
 噛みつくような剣幕に、千雨も勢い込んでつい怒鳴り返してしまった。


 
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