エヴァをなだめすかして、ようやく落ち着いたころになって茶々丸がパスタ皿を運んできた。
 残さず食べた。
「ごちそうさまでした、っと。いやあ、美味かったぜ。さすがだな絡繰」
 行くとしたらファミリーレストランが精々で、専門店に出向くことなどまずない千雨にとっては、久々の本格パスタであった。食通というわけではない。それでも美味しいものを食べれば機嫌も良くなろうものだ。
 千雨はいささか上機嫌で茶々丸に声を掛けた。
 満足だったのだ。ベーコンの塩加減といい、チーズと黒胡椒の味といい、店で出されるようなしっかりとした料理であった。新鮮な卵を使ったおかげか、口当たりもまろやかだった。
「はい、ありがとうございます千雨さん」
「食器はどこに持っていけばいい?」
「洗い場には私が持っていきますので、そのままおくつろぎください」
「悪いな」
 こんな会話の最中、エヴァは当然の顔をしてふんぞり返っていた。きちんと皿が綺麗になっているあたり、茶々丸の料理の腕を認めているのは分かるのだが。
 和気藹々とした昼食の後、茶々丸はメンテナンスのために工学部に向かった。

 図らずもエヴァと二人きりにされてしまった。
「……で、これは何のつもりだ」
「朝迎えに来た絡繰がさ、『マスターは娯楽に飢えておられます』とか言ってたから。ゲームはやるし、ロープレ好きなんだろ? とりあえず二人プレイ出来る格ゲーとか持ってきた。オススメはコレだな」
「イヤミか貴様ッ!!」
 なぜか怒鳴られた。
 この家にはいくつかゲーム機があると茶々丸から聞いたのだ。
 何を持ってくるかは少し考えたが、この辺りが妥当なところだと判断して厳選したのである。
「おいおい、何をそんなに怒ってんだ」
「コレはどういう意味だ」
 エヴァが指し示したのは、淡い色合いで描かれたドノヴァンというキャラクターが表紙を飾っている、一本のソフトであった。
「これって……ああ、ヴァンパイアハンターか。格ゲー嫌いなのか?」
「そういう意味ではないッ!」
「ああ、セイヴァーのが良かったか」
「そういう意味でもないッ!!」
 ちなみにサターン版である。さすがにアーケード用の基盤を所有していたりはしない。
「適当に持ってきたからな。スーファミならスト2とターボだろ、ドリキャスはジョジョ、プレステはKOF'98を選んで来たんだが……あ、アレか。ハンターはゲーセンでめためたにやられたトラウマがあるとか?」
「そんなトラウマなんぞ無いわボケ!」
「じゃあなんだよ!? アレか、逆ギレする年頃か。今頃反抗期なのか?」
「……ちっ」
 舌打ちまでされた。千雨には何が悪いのかさっぱり分からない。
「ちなみに桃鉄だのドカポンだのは持ってきてないぜ。ボンバーマンは持ってきたけど」
「買ったのか」
「一人で遊ぶとあんなに虚しいものはねーな」
「千雨……あれを一人でやったのか……」
 なにしろ元ぼっちである。友情破壊ゲームをやる以前の問題であった。ゲームを一緒に遊ぶ友達とか都市伝説だろ、と口ずさみたくなる年頃であった。
 怒り心頭、といったエヴァの形相が、みるみるうちに哀れみのこもったものに切り替わった。
 全く嬉しくないし、なんだか釈然としなかった。
 マルチタップごと袋にしまわれていたスーパーボンバーマン5の、金色に燦然と輝くカセットを、袋からそっと取り出して、自慢するような気分でエヴァに手渡した。
「ボンバーマンとかくにおくんはまだ一人でも楽しめるからいいよな」
「分かった。分かったから……もう何も言うな」
「スマブラも楽しいよな」
「……千雨」
 憐憫混じりの切なげな視線を送られてしまった。なぜだろう。悲しくもないのに、千雨は涙が出そうだった。

 結局、ヴァンパイアハンターで対戦する運びとなった。エヴァの心境にどんな変化があったのかは分からないが、先ほどとは異なり、腹を立てているようには見えなかった。
「モリガン使うのかよ」
 対戦キャラの選択画面で、エヴァはたどたどしい動きで女性キャラを選んだ。
「ふん。そっちは雪男か」
「なんだよ。私がこいつ使うのはそんなに意外か」
 エヴァがパッドを握りしめつつ、横目で千雨の様子を窺っていた。若干不思議そうに。
「この……猫女を使うのかと思っていただけだ。コスプレイヤー的に」
「……フェリシアかー。そっちも嫌いじゃないけどなぁ」
 ヴァンパイアハンターという対戦格闘ゲームは、その名の通りヴァンパイアとそれに連なる者、そして、それを狩る者が使用キャラにいるわりとポピュラーなゲームソフトである。一時期はゲームセンターでも大流行していた記憶がある。小学生だった時分には千雨は横目で覗いただけで、対戦台を挟んで見知らぬ誰かと、などということはしたことがなかった。
 というか、乱入されるのも、絡まれるのも困るのでゲームセンターで対戦格闘ゲームをやったことはないのであった。
 エヴァの選んだモリガンとは、このゲーム中に出てくるプレイアブルキャラクターの一人だ。
 設定的には魔王の娘だったり、続編に出てくるリリスと深い関係があったり、因縁からデミトリというヴァンパイアと対立関係にあったりと面白い背景がある人気キャラクターである。
 種族としてはサキュバスで、なんというか、淫靡で妖艶な容姿をしているのが特徴的である。
 一方の千雨が選んだサスカッチは、一言で表せば雪山に住んでいる巨人、すなわちビッグフットである。いわゆるイエティと似た扱いをされるので、まとめて雪男として扱われることが多い。
 選択した理由は単純である。なんとなくウーマロのことを思い出すからだ。あの巨体で骨彫刻をこよなく愛していたり、モグの子分をやっていたりするギャップもあって結構気に入っていた。なにしろモグの子分になった理由が、行き倒れていたときにご飯を恵んでもらった恩義からだというのだ。
 二メートルを超える巨体で、話しかけるときは常に見上げる形になってはいたが、たぶん千雨より年下だったはずである。
 そんな懐かしさも手伝ってサスカッチを選んだのだった。
 ちなみにウーマロは、見た目的にはサスカッチよりもうちょっとスマートである。愛らしさはサスカッチのが上かもしれないが。
「なあ千雨」
「ん?」
「ひとつ言っておくことがある」
「なんだいきなり。不慣れでもハンデは無しってさっき決めただろ」
 画面に目を向けながら、千雨が口を尖らせる。お遊びとはいえ、やるからには手を抜かないつもりなのだ。
 こうした千雨の態度に気を悪くした様子もなく、エヴァは吐息のような声でこう口にした。
「……私はヴァンパイアだ」
 ヴァンパイア。
 吸血鬼。
 千雨はわざとらしくため息を吐いた。
「おい、今からデミトリに変えるのかよ。……始まっちまった。こっからだと削るよりリセットした方が早いか?」
「そういう意味ではない」
 千雨はエヴァに身体ごと向き直った。画面のなかでは、モリガンとサスカッチがにらみ合ったまま動かない。
 こちらをじっと見据えるのは、美しい湖のような、静けさを湛えた翠玉の瞳だった。
「私は本物さ。薄々感づいていたんだろう?」
「……本物って何がだ」
 面倒くさそうに、千雨が言葉の意味を問い返す。
「本物の吸血鬼さ。私は悪の魔法使いにして、吸血鬼の真祖なんだよ。闇の福音、人形使い、不死の魔法使い、悪しき音信、禍音の使徒、童姿の闇の魔王……どれも私を呼び表す名だ。すなわち――私はひとから恐れられる最強の魔法使い、本物の化け物ということだ」
「ふうん」
 誇らしげに語っているように見えた。どことなく皮肉を混じえているように聞こえた。
 それを千雨は気のない返事であっさりと流した。
 よく考えてみれば、エヴァが自身を魔法使いであることを言葉にしたのは、これが初めてのことだった。
「魔法使いねえ。いいのか、私にそれをバラしちまって。前に来たときにはその話には触れなかっただろ?」
 気に掛かったので、とりあえずそこだけ質問しておいた。
 千雨の反応に肩すかしを食らったような表情で、ぽかんとエヴァが口を半開きにしていた。
 こんなことで嘘を付くようには見えないから、真実なのだろう。
 なんとなく気に掛かっていた違和感の理由もこれで理解できた。確かに吸血鬼であれば学園結界の封印がエヴァンジェリンをピンポイントで狙い撃ちにしているのも納得だった。ついでに暫定的に『魔法』と認識していたものが、そのものであったことに安堵する。
 魚の骨のごとく喉につっかえていたことが取り払われて、むしろさわやかな気分であった。
 むしろ先刻より表情を緩めた千雨は、我を取り戻したエヴァからくってかかられた。
「なんだその反応は!?」
「いや、エヴァがヴァンパイアとか、どうでもいいし。血を吸うなら、前にお誂え向きな機会もあったわけだしなぁ」
「どうでも良くはなかろう!?」
「じゃあなんだよ。キャーキャー言いながら怖がれってか? それとも……ジョジョのディオみたいに崇めろってか?」
「む」
 反論すると急ブレーキがかかったかのように言い淀んでしまった。千雨が重ねてこう言い加えた。
「それを言うなら絡繰だってロボだろ。人間じゃないのがクラスに二人、そう考えたら別に珍しくねーぜ」
「確かにその通りだが、もっとこう、葛藤はないのか!?」
「なんだよ、私に葛藤してほしかったのか」
 そう告げると、今度こそエヴァは完全に黙り込んでしまった。

 自分のなかで折り合いを付けたのか。久しく感じるほどの沈黙のあと、エヴァは小さく口を開いた。
「茶々丸が帰ってくるまでまだ時間があるな。それまで、疑問があれば答えてやろう。……聞きたいことはあるか」
「そうだなぁ。じゃあ、吸血鬼の真祖ってどういう意味だ?」
「そこからか。簡単に言ってしまえば、人間から吸血鬼に成り果てた存在だな。吸血鬼から血を吸われて変化するのではなく、儀式によって人間を辞めてしまったもの。太陽の光を始めとした様々な弱点を克服したためにハイ・デイライトウォーカーとも称されるが」
「……バスタードに出てくるアレみたいな?」
「あんなのと一緒にするなッ!」
 呟くと、意外にも知っていたらしい。引き立て役になりがちなダイ・アモンは好みではないそうである。
 というか、美意識もアレか。マッチョ大好きなナルシストと同一視はされたくないか。だよな。千雨は納得した。
「じゃあジョジョの奇妙な冒険の、後期ディオ?」
「まだそっちのがマシだが、むしろ第二部のカーズの方がイメージ的には近いだろう」
「げっ、究極生命体かよ」
 二人の話に出てくるカーズとは、殺されても死なず、弱点もどんどん克服し、そのうちに主人公側の切り札まで使えるようになり、最終的には宇宙に放り出されてどうしようもなくなったジョジョ第二部のラスボスである。
「そうかそうか、ようやく私の恐ろしさを理解したかっ! ちなみに輝彩滑刀みたいなことも出来るぞ!」
 そして余裕ぶってフハハハハと悪役ちっくに笑おうとしたところで、千雨が持ってきたソフトの一本に目を遣った。
「格ゲー版ジョジョにはカーズ入ってねーんだよなぁ。せっかく後発のドリキャス版買ったのに」
「話を聞け!」

 とりあえず、ヴァンパイアハンターでの対戦を再開しつつ、千雨が質問を続けた。
「じゃあ、あの中二病みたいな二つ名っぽいやつは?」
「中二病だと!?」
 一瞬顔を赤くして、耳まで赤くなったエヴァは、大きく深呼吸してから大義そうに答えた。
「普通、か弱い人間にとって吸血鬼がどういう存在として目に映るか。ましてやそれが、分かりやすい弱点を克服したものなら。お前なら分かるだろう?」
「……なるほど」
 意外にエヴァの操作が上手かった。サスカッチが突っ込んでいったら、連打で反撃を食らった。
「自称じゃないのか。ま、あんな恥ずかしい二つ名を自分で付けるわけないもんな。ましてや名乗りを挙げるとか……」
 直後、エヴァは無言でパッドを握りしめ、素早くコマンド入力をしていた。モリガンのダッシュ中段、ついでにコンボ。結局千雨の操るサスカッチは、超必殺技であるダークネスイリュージョンをもろに食らってしまった。
「何か言ったか?」
「……いや別に」
 それでいいと言いたげに、エヴァは鷹揚に頷くのだった。
「つーかヴァンパイアならデミトリ使えよ!」
「それを言うなら貴様はこれで遊ぶな! 純粋な人間キャラがおらんだろうが!」
「セイヴァーにはいるぜ」
「そうだな、バレッタならお前によくお似合いだろう」
「まったく嬉しくねーよ。なあ……詳しすぎねーか? さっきのモリガンも上手いし。どう見ても初心者じゃないだろ」
「誰が初心者などと言った?」
 にやり、とエヴァが笑った。
「ふっ、プレステのセイヴァーEXエディションなら持っているぞ」
「ハンター見たときに怒鳴ったのはなんだったんだよ、つーか持ってるなら早く出せよ!?」
「合わせてやったのだ。初心者相手なら勝てると思い上がった間抜けを釣るためになぁっ」
「てめえっ」
 千雨がテレビとゲーム機の接続をつなぎ替えるあいだ、エヴァの楽しげな高笑いが長らく響き渡っていた。
 ちなみに連戦の結果、最終的には八勝二敗という戦績で、千雨は呆気なくボロ負けしたのだった。


 ゲームを遊ぶ手が止まったのは、千雨がこの質問を投げかけた瞬間だった。
「で、最強の魔法使いが、なんで中学生を何度もやり直してるんだ?」
「……くっ」
 プライドがいたく傷ついたらしい。エヴァは言葉に詰まった。
「答えてやると言ったのは私だからな。一度しか言わん。よく聞けよ」
 というわけでエヴァから『登校地獄』なる呪いについて説明を受けた。
 登校地獄――インフェルヌス・スコラスティクス。
 曰く、不登校の学生を強制的に登校させるという素行の矯正を目的とした馬鹿げた呪い。これによって麻帆良学園の敷地内から一歩も外に出られないように縛り付けているのだという。
 千雨の知っている『魔法』とは完全に別物の技術である。
「……さっぱり意味が分かんねー」
「そう簡単に分かっていたら私がこんなに苦労するわけがなかろう」
「いや、そもそも学校が消滅したらどうすんだ、これ」
「は?」
「あるだろ、子供のする妄想に……テストが嫌だから学校が爆発しないかなー、みたいな短慮」
「まあ、分からんでもないが」
「実際に学校爆発して、跡形もなくなったら呪いはそのまま続くのか?」
「私にこの麻帆良学園を根こそぎ消し飛ばせと言っているのか。さすがにそれは試してなかったな……」
「ちげえよ! いきなり真顔で怖いこと言うなよ! 例に挙げただけ! 分かるだろ!?」
 千雨は慌てて言い添えた。
「バカめ、冗談に決まっているだろう」
「本気に見えたぜ」
「とはいえ……たまにじじぃの戯れ言を聞くと、本気で消し飛ばしたくなる瞬間があるな」
「じじぃって学園長か。心臓に悪いから真顔で言うなよ……」
「ま、冗談はさておき。登校地獄については色々調べてはみたんだ。まず対象に呪いがかかると同時に人工精霊が発生する。この精霊が納得するかどうかが、登校地獄の強制力が働くかどうかの条件だ。この精霊の目さえ誤魔化せれば登校しなくても済むのだが……それさえも出来てはおらん。ついでに言えば、学校に登校さえすれば、屋上で寝ていようが校内をうろついていようが自由だ。体調が悪いときには欠席届を出して許可さえもらえれば、この場合も登校しなくて済む。……どうだ、無駄にファジーでえげつない精霊だろう」
 人工精霊という言葉にピンと来なかった千雨だが、大まかな理解だけしておくことにした。
 つまりは精霊と呼ばれる仕事をする目に見えない存在が、エヴァの近くで監視しているのだろう。特に自意識があるわけでもなく、決められたことを自動的にこなす不可視の何か。
「思ったよりも融通は利くのか……いや、それなら卒業すれば登校する必要は無くなるんじゃねーのか」
「いや、卒業しても無駄だった。新学期が始まると同時に中学一年生からやり直しさ。そもそも……この呪いをかけた張本人がデタラメなヤツでな。適当な呪文で力任せにやって、こんな風にバグったらしい」
「力任せねえ。そいつより強いヤツを連れてきて、もっと力任せでどうにか出来ないのか」
「出来る者がいたら、とっくにそうしてると思わんか」
 説明が付け加えられた。吸血鬼の真祖はまごうことなく最強種であり、エヴァ自身も熟練の魔法使いである。しかし、誰憚ることなく自らを最強と称せるエヴァに匹敵、あるいは凌駕するほどの英雄――これもまた最強と呼ぶに相応しい、人間の魔法使いがいたのだと。
 人間とは思えないほどの、バカみたいな大魔力を以てして課せられた呪いである。
 長い年月、魔法使いとして研鑽を重ねたエヴァにすら解けないものを、いったい他の誰に解けるというのか。
「そいつ自身に解いてもらうってことは出来ないのか」
「あいつは死んだよ」
 答える声は寂しげだった。疲れ切った少女の顔で、エヴァは続けた。
「私が卒業する頃に解きに来ると言って……そのままさ。光に生きてみろ、そんな言葉を口にしてな」
 語り終えて、エヴァが深く嘆息した。
 話題に出した人物に対しては複雑な心境があるようで、静かに思いを馳せているようだった。


 やはり根本的に異なる方式の『魔法』であるためか、千雨にはこの呪いの解き方が分からなかった。
 エヴァを蝕んでいる呪いがあるのは分かる。
 学園結界と同じように、透明ではあるが、そこにあるものとして視えるのだ。
 喩えるのなら頑丈な紐で全身を雁字搦めにして、さらに複雑な結び目をいくつも作って無理矢理縛り付けている感触だった。
 本来であればタコ糸くらいの紐を用いるべきところに、縄というか、しめ縄を使っているようなデタラメっぷりなのだろう。ならば力任せに断ち切ろうとして到底出来るものでもない。
 ハサミではなくチェーンソーを持ってこい、といったところか。断ち切るためには、単に魔力が大きければ良いというものでもないようだった。
 一方の結び目はといえば、こちらはこんがらかりすぎて何が何だか分からない。結び目と表現してはみたが、ある意味では錠前みたいなものであるため、鍵になるべきものがあればなんとかなる。
 頑丈な鉄扉の鍵をなくした場合、すべきことは扉を蹴破るのではなく、鍵屋を呼ぶのが正解であろう。かかる労力が段違いである。
 この場合、本人なり近親者を連れてくるしか手が無い。似通った魔力を用いれば、それが合鍵代わりになるはずだ。現実的にはこちらの手段を選ぶべきだった。
 あるいは呪いが解ける条件を達成するか。
 しかし卒業というプロセスを経てすら条件達成扱いにならない以上、この方向性ではどうしようもないのも確かだった。
 あの世界で覚えた多くの魔法を使うことができる千雨には、呪いをどうにかしうる『魔法』の心当たりがあった。
 縄を断ち切るのでも、結び目を解くのでもなく、かかっている魔法効果そのものを強制的に解除する『デスペル』という魔法。
 しかし吸血鬼であるエヴァにどんな悪影響があるか分からないこともあって、それを口に出すことは憚られた。
 以前、ウーマロにかけても問題は無かったことから考えて、元々の種族としての吸血鬼であれば大丈夫だっただろう。しかし吸血鬼の真祖というものが後天的に人間から変化した存在と聞かされてしまっては、これまた下手に試すことも出来ない。
 デスペルは、非常に使い勝手の悪い魔法なのだ。
 魔法効果の解除という現象はこの上なく強力ではあるが、どれを解除するか一切選べないのが玉に瑕である。不利になるものも有利になるものも区別無く強制的に消し去ってしまう。
 そのくせ飛んできた攻撃魔法の無効化なんかには使えない。機械と魔力とを組み合わせているものにデスペルをかけてもその魔導機械が停止するようなこともなかった。さらには魔法によって受けた毒や、石化、睡眠などにも効果がない。
 デスペルは『魔法効果そのもの』の解除でしかないのだ。魔法による効果の結果には何ら意味のないとも言える。
 さらには装備アイテムの効果による永久状態変化……具体的にはエルメスの靴によるヘイストや、リフレクトリングによるリフレクなどだが、これらにも通用しない。
 効果を発生させる機構が別に存在する場合には、一瞬だけ効果が消滅して、アイテムによって即座にかけ直される形になるのだろう。
 思いつくところでは、他に『エスナ』という状態異常治癒の魔法があるが、カッパ化にも死の宣告にも効かないくらいだ、これでは呪いなんてものに効果を発揮するとも思えない。
 こちらの魔法の仕組みに詳しくない以上、無思慮に手出しすると悪化する危険性が高いのもネックであった。最初これを紐に喩えたように、すでにこんがらがっている固結びを横からしゃしゃり出て下手に弄ると余計にきつくなることがある。仕組みそのものはそこまで複雑には見えないが、造りが単純なだけに、何かをひとつでも動かすと全体への影響が大きそうにも感じられる。
 千雨はつらつらと考えていたことをおくびにも出さず、別のアプローチを考え始めるのだった。


 茶々丸はまだ帰ってこない。ぼおっとしていると、エヴァが手ずから飲み物を用意してくれた。ぬるめで淹れた普通の緑茶である。さすがに手の込んだものではなかったが、珍しいものを見た気分でまじまじと眺めてしまった。
「なんだ」
「なんでもない」
 自分の分のついでだ、と言いたげな表情だったので、そういうことにしておいた。
「んー。さっきの話を聞く限りじゃあ……修学旅行には行けそうな気がするんだが」
 期待していない目でエヴァが顔を向けてきた。無言で説明を要求されたようなので、素直に考えたことを話してみる。
「いや、責任者に書類を書いてもらって、これは学業の一環です、で通らないのか。要はその精霊とやらが納得するかどうかなんだろ? 納得させちまえば済むよな」
「……その方法か」
「試したのか」
 エヴァの反応が鈍かった。
「ああ。一瞬はなんとかなる。だが、およそ五分で書類が無意味になる」
「無効化される前に新しく書類を書き続けたらどうだ?」
「書類を作って認可のハンコを押してを繰り返し、延々と誤魔化し続けるのは理屈の上では可能だ。呪いにかけられたのが他の善良な誰かであれば実現可能だったかもしれないが、私の場合はまず無理だろう」
 首をかしげた千雨に、エヴァは不満げに鼻を鳴らした。
「私は元々高額の賞金首でな。大勢から野放しにするのは危険だと思われている。じじいの立場では容易く許可はできんし、他の連中は私のために書類を書くことさえ嫌がるだろう」
「ふうん」
「これも驚かないか」
「そんなところだろうって予想はついてた。入学式のあとにした話、もう忘れたのか」
「なあ千雨……お前、本当に一般人か? どの口で平穏無事がスローガンなどと言い出したんだ?」
 からかうように、エヴァは薄く笑った。
「ま、私に掛けられた賞金自体はとうに取り下げられたがな。麻帆良の連中にとっては私など人食いの虎と変わらん。頑丈な檻に入っているのなら見逃すが、そこから自由に出入りされるのは困るといったところだ」
 落ちぶれたものだ、と小さくこぼしたエヴァに、千雨は何と声を掛けていいのか分からなかった。
「周囲が納得する理由があればいいってことか。でかい貸しを作るとか」
「そういうことだ。あるいは交換条件だな。今の私には取引する材料が無いから、現実的な案ではないが」
 そもそも非効率過ぎて話にならん、とエヴァは腕を組んで苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
 なんにせよ、今の話はあくまで一時的なものに過ぎず、抜本的には解決にはならない。あくまで一時的に街の外に出られるだけで、ハンコを押すのを止めた瞬間から引き戻されることになる。
 自由に見せかけただけで、首輪付きには変わりない。
 鳥籠の中の自由に意味が無いとは言わないが、少なくとも、エヴァが求めているのはそんなものではない。まだ付き合いの浅い千雨にだって分かることだった。
「登校地獄って呪いは、本来なら卒業すれば解けるのか?」
「ああ、まともに卒業出来ればな。役目を終えたと判断した時点で、精霊が自動的に消滅するようになっている」
「卒業したと認識されてないってことか? 単位は……」
「最初のうちは真面目に通っていたし、授業もサボらなかったからな。足りないということはありえん」
「つーことは、卒業式の後も中学校に通い続けるのが当然って思われてるのか」
「思われてるだと? 誰にだ?」
「問題の精霊」
 千雨の即答に、エヴァは少し驚いた顔をした。
「……まあ、そういうことに……なるのか?」
「そこも奇妙なんだよなあ。卒業したあとに高校に入学するってのは出来なかったのか」
「考えなかったと思うか。大学も試したが、どうあがいても登校する場所は中学校に限定されていた」
「だよな」
 行く校舎の場所は移せたのだがな、と付け加えるエヴァ。麻帆良の学園都市内部には麻帆良女子中等部を始めとして、いくつかの中学校が存在している。敷地内の中学校であれば校舎に拘らないとは、呪いの精霊の裁量の範囲内だ、ということなのだろう。
 千雨がぱっと思いつく案は大方試されていると考えて良いらしい。完全に手詰まりである。
「気にするな。もともと単なる一般人に解決出来る問題だとはつゆほども思ってはおらん。胆力は充分、少しばかり頭と口は回るし、ものを見抜く目は持っているようだがな……話したのは、素人なりの意見が欲しかったからだ」
 エヴァは疲れたように天井を眺めた。現状を再確認して、胸に去来するものがあったのかもしれない。
 一般人と思われているのはありがたかったが、全く期待していないと言われるとそれはそれで気に入らない。

 当てずっぽうながら、千雨は思いつきを語り始めた。
「……逆に考えてみようぜ。修学旅行にも行けない。同じ中学校に卒業式後も何年も登校し続ける。模範的な中学生なら絶対にありえない状況なのに、どうして呪いの精霊ってヤツはこんなことを許容する? おかしいだろ、まともに登校しても卒業できないなんて。普通の中学生が修学旅行に行かないのが当然だなんて」
 エヴァは沈思黙考し、千雨の無責任な言葉に耳を傾けている。
 解く方法ばかり調べていたために、精霊の行動規範については考えたこともなかった、といった表情だった。
「その精霊は何を基準にして模範的な生徒と考えるんだ? 規則なんて学校によって色々だろ。登校の時間も違えば、規模や敷地の大きさだって全然異なる。校内規則に明記されている部分はそのままの意味で受け取ったとして、暗黙の了承だとか、明文化されていないルールを精霊はどうやって判断してるんだ。話を聞く限り、呪いの精霊ってのは独自で勝手な判断するような存在じゃないんだろ?」
 あるいはそこまでバグってるのかもしれないが。
 千雨は考える。呪文の効果そのものは案外まともに成立しているのだとしたらどうだろう。『呪いの精霊』なる不可思議な存在が自身は正常に動いていると思い込んでいたらどうなるのだろう。
 世間一般での非常識の大半は、麻帆良においては常識の範疇として判断される。
 意識誘導。
 もし千雨以外の、ありとあらゆるものがそれに引っかかっているとしたら。
 確固たる自意識のない呪いの精霊までもが影響を受けるのかどうか、千雨には知る由もない。知る術もない。だが、それが選んだ『模範的な生徒』が、その実、常識的にはありえない存在だったとしたら。
 特殊すぎる『模範的な生徒』と同じ行動を、エヴァが、精霊から求められているとしたら。
 千雨も自覚している。こんなものは強弁である。牽強付会に過ぎない。
 だが、千雨の言葉に一縷の望みを見いだしたのか、エヴァがかすかに低く声を漏らした。
 そこに込められている強い感情は何なのかなど知るべきではない。だから千雨は視線を外して先を続けた。
「もし精霊の選んだ模範的な生徒が……そうだな、中学生活のあいだ、一度も修学旅行に行ったことのない生徒で、それこそエヴァよりも長いあいだずっと同じ場所で中学生を繰り返し続けているとしたら、どうだ」
 仮定した存在は、もしかしたらいるかもしれない何か。
 口に出しておきながら、そんなのがいるはずないと思いながら、千雨はそれでも声にした。
「誰よりも登校日数が多くて、決してどんな日にも欠席せず、授業も真面目に受けているような誰か」
 千雨は肩をすくめる。
 自分には見当も付かなかった。だが、逆説的に考えれば、そんな存在がいるかもしれないことになる。
 エヴァが麻帆良の外に出られず、中学生を繰り返し、修学旅行に行けないという結果があるのならば。
 その原因たる何かがあると考えるのは、それほど不思議なことだろうか。
「エヴァなら思い当たらないか? 自分と似たような境遇の誰か、ずっと同じ日々を繰り返しているような誰か」
 じりじりと、外から射し込む日の光が強さを増しているようだった。
 室内は奇妙なまでに明るくて、いやに静かだった。
「そんな生徒がいたら、精霊はこれこそ基準にすべき『模範的な中学生』だって判断しないか?」
 エヴァはしばらくのあいだ、無言のまま目を閉じていた。
 やがてぽつりと声にしたのは、誰かの名前だった。
「相坂、さよ」
 その名を呼ぶエヴァの声は平坦だった。声に感情がこもってはいないのではなく、あまりにも複雑に色を重ねすぎて黒くなってしまったキャンバスのような、そうした意味合いの静かすぎる声だった。
 聞き覚えのある名前だった。ずっと不思議に思っていた名前でもあった。
 一度も出席していないにもかかわらず、病欠だとか、療養中だとか、そういった説明が何もない同級生。
「千雨……あいつのことを知っていたのか?」
「クラス名簿に載ってる名前だろ。それ以上のことは知らねぇよ」
「そうか」
 エヴァは一度何かに耐えるように再び目をつむり、そろそろと息を吐き出した。
 ここにいたるまでの千雨との会話から、何か得るものがあったらしい。そしてそれは、思いのほか大きな意味を持っていたようだった。
「情けは人のためならずとはよく言ったものだ。あるいは知りながら何もしなかったツケということか」
「よく分かんねーけど、さっきのは単なる思いつきだからな」
 千雨が念を押すと、エヴァが反射的に顔を上げた。
「分かっている!」
 こう叫んでから、目を丸くした千雨を見遣り、バツの悪そうな顔で視線を彷徨わせ、静かな声で繰り返した。
「分かっているさ……」

 それからしばらくのあいだ、エヴァは傍らに千雨のいることを忘れたかのように、すっかり黙り込んでしまった。
 千雨は微妙な居心地の悪さを味わいながらも、どこか儚げな雰囲気になってしまったエヴァを一人にするわけにもいかず、何事もなかったかのように普段通りの表情を取り繕っていた。
(チクショウ。この状況じゃ帰るに帰れねぇー……)
 冷め切ったお茶を時間をかけてちびちび啜りながら、茶々丸が帰ってくるのを今か今かと待ち望むのだった。


 
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