七月も半ばを過ぎた。しかし暑さが減じていくようにはまったく感じられなかった。
椅子に座った千雨の背筋は、すっと伸びていた。
暑くないわけではない。今にもかき氷のひとつもかき込みたい気分ではあったが。
クーラーの風の音が、直射日光の遮られた教室の静けさと入り混じっている。夏の空気は攪拌されて、それでも拭いきれない午後の暑さが涼しさを上書きしている。
大半の同級生達は休み中にもかかわらず部活動に精を出している。とはいえ夏休み中に頑張っているのは運動部が大半である。
別に活動してはいけないというわけでもないのだろうが、夏休み中の文化系の部活動はどこを見回しても大人しい。というのも六月の中程に行われたあの麻帆良祭、つまりは超巨大な学園祭に傾注しすぎた結果であろう。
俗に言う燃え尽き症候群というやつに違いない。ほぼ一年がかりの成果を先日発揮したばかりである。
視線を感じて振り返れば、どこか気の抜けた表情で明日菜が、千雨の描くキャンバスの中の光景を見つめている。
「千雨ちゃん」
「ん?」
「どうしてそんなに巧いのよっ!? 美術部でもないのに!」
千雨たちの今いる場所は、麻帆良学園女子中等部校舎にある美術室である。
本来ならば授業以外では立ち入ることのない場所なのだが、美術部員は例外となる。その例外であるクラスメイトの神楽坂明日菜に頼んで、絵を描くためにいっとき場所を借りている。
一応、仮入部という形式にしてもらっているため、問題になることもないだろう。本入部するつもりが皆無であるため帰宅部のエース千雨としては非常に心苦しかったのだが、明日菜と高畑先生の好意に甘えるかたちとなった。
実家に帰れば絵を描くためのスペースだけは確保出来そうだったのだが、往来に時間がかかるうえ、キャンバスの持ち運びがけっこう大変なのである。そこで使える場所は無いかと、クラスでは唯一の美術部員である明日菜に相談したところ、
「あ、じゃあ千雨ちゃん、うちの部室使う?」
との返答。知恵を借りようと思っていたのに、場所を借りることになってしまった。とんとん拍子に美術部の顧問であるタカミチ・T・高畑教諭に相談に行き、他の部員が活動していないときなら構わないとの許可をもらった。
ありがたいことである。
千雨の私見ではあるが、見せてもらった明日菜の絵は決して下手ではなかった。しかし飛び切り巧いとも言い難かった。美術部に所属していると言われれば、大体のひとが納得するくらいの腕前と表現するのが正確であろうか。
最初に描いた絵も見せてもらった。
……ひどかった。何を描こうとしたのかさえいまいち理解しがたい落書きのような絵だった。しかし比較すれば、成長速度は素晴らしいものだった。
明日菜が本格的に絵筆を握ったのは中等部に入ってからだと千雨は聞いたことがある。
一握りの天才を除けば、初心者が絵が巧くなる近道はひたすら描くことであると言う。明日菜が毎日放課後に美術部に籠もっているわけではないことを合わせて考えても、始めて半年経っていない素人とは思えない上達ぶりであった。麻帆良に数ある部活動のなかで、なにゆえ美術部を選んだのかはあえて問うまい。
始めたきっかけが何であれ、明日菜は部活動に対しては、真摯に打ち込んでいるようだった。
そんな明日菜が叫んだのも無理からぬことである。
明らかに、千雨の描き出した景色、それを為す技量は隔絶していた。まだ下書きの段階にもかかわらず、である。
小さめのキャンバスの中に何人もの誰かの姿があった。まだ輪郭だけの彼らは、今にも動きそうだった。彼らの背後に覗く巨大な飛空艇の存在は、どこまでも幻想的であり、どこかしら現実的でもある。
想像される完成図は、まるでおとぎの国に迷い込んだようなファンタジックの雰囲気を思わせるものだった。
木炭片手に、当たり前のような顔をして、自信ありげに千雨が振り返る。
「何でって言われてもね。上手く書けるんだから仕方ないのよ」
大人びたような、子供っぽいような、そんなあっさりとした口調。
明日菜の知る同級生、長谷川千雨らしからぬ、聞いたこともないような女の子っぽい言葉遣いだった。
「……あれ? 千雨ちゃんってそんな風に喋ったっけ?」
「そうね。たまにはこんな風よ」
頭にたくさんのはてなマークを浮かべる明日菜をよそに、リルムになりきった千雨は、口元だけで軽やかに笑うのだった。
下書きに使った木炭は美術部の備品である。というか、ほとんどが備品を借りることで賄えてしまった。
明日菜が語った話をまとめると、中等部から本格的に油絵をやるという生徒はそう多くないらしい。一方で情熱的に美術に打ち込んでいる生徒は自前のものを持ち込むために、備品はさほど使われていないのだそうである。
但し、キャンバスと絵筆と絵の具だけは全員自分で用意することが原則だという。スケッチブックも自分で購入しろとのお達しである。当然と言えば当然だ。
ちなみにキャンバスの用意は朝のうちにしておいた。
地塗りした白がすぐ乾くかどうか心配だったが、空調のおかげか、なんとか大丈夫そうだ。
午後から部室に出てくる予定だった明日菜も、わざわざその作業に付き合ってくれたのである。
都合を付けてもらった借りを返そうと、千雨はモデルを買って出た。
自分の休憩中は、明日菜のデッサンのモチーフをやることにしたのだ。といっても厳密に動かないようにしているわけではなく、雑談しながらの名ばかりモデルではあるのだが。
「ほら……油絵の具って高いでしょ」
「あー。そういやそうだな。一色千円とか見かけるな」
明日菜の表情は暗い。一揃い集めるだけでも結構な額になってしまうのだ。
毎朝新聞配達をしている勤労学生には痛い出費である。
というわけで一年生のあいだはひたすらデッサン、もしくはスケッチブック片手に水彩画に走る部員が大半だそうである。それでも描く量によっては月に数千円の出費になることもある。
「こう、デッサンが、なかなか上手く描けないのよねー」
「見せてもらった絵を見た限りじゃ、悪くねーと思うが」
「さっきの千雨ちゃんのを見たあとだと、さすがに私もうぬぼれられないわよ……」
「あ、わりぃ」
意外と落ち込んでいるらしかった。実際のところ、千雨が素のまま描くよりずっと上手なので、明日菜がへこむ必要はまったくない。
ないのだが、千雨はなりきりについて隠したままそれを伝える術を持っていなかった。
「でも千雨ちゃん、どうして黙ってたの?」
「ん、何をだ」
「こんなに上手いならもっと自信満々に特技としてみんなに言っちゃってもいいと思うけど」
「それなんだが……黙っててくれねーか」
「えっ!? なんで!?」
声を挙げての疑問顔に対し、千雨は一言で答えた。
「早乙女」
「……うん。ごめん。すっごく理解したわ」
明日菜もげんなりした表情で頷いた。二度も頷いた。
早乙女ハルナ。漫画研究会所属の同人作家。ペンネームはパル。千雨の印象としては、どこぞの会場で彼女を見かけたら、とにかく見つからないように逃げなければならない相手ナンバーワンである。
噂好き。修羅場好き。恋バナになるとどこからともなく現れて、煽って笑って話をややこしくされると評判である。
近づくと碌な目に合わないことが確定している相手でもある。
なまじちょっと絵が描けるというだけでも、彼女の作る同人誌の戦力扱いされかねない危険性があるのだ。明日菜の様子からして、すでに何度か勧誘されたことがあるのかもしれない。無理強いはされていないのだろうが、だからといって千雨に彼女の魔の手が忍び寄らないとは限らない。
「よし! こんな感じだけど、どう?」
無数の線で描かれた千雨の顔は、明暗がはっきりしていて、普段より落ち着いた表情に見えるものだった。
「……いいんじゃないか? ただ、私だぜ? ちょっと美人に描きすぎじゃねーかな」
「眼鏡外してる千雨ちゃんって、ふつーに綺麗だと思うけど」
返事に困り、千雨は頬をかいて視線を逸らした。
「あ、可愛い」
「からかってるだろ」
「うん。ちょっと」
「神楽坂てめー……、あ、おはようございます高畑先生」
「えっ。うそ! 今日来るなんて知らなっ、あっ、今すぐ冷たいコーヒーでも買ってき――」
「冗談だ」
ぎしり。音を立てて動きと時が止まった気がした。
即座に振り返ろうとした明日菜の首が途中で止まり、ぎぎぎと回って千雨に向き直る。
「……ちっさめちゃーん!?」
割と遠慮のないアイアンクローを食らった。超痛え、と千雨はうめいた。
休憩を終えて、千雨は再び絵筆を握る。使うのはアクリル絵の具である。油彩にも惹かれたのだが、かかる費用、寮の部屋に置くにあたって匂いが気になることなどを考慮すると、油絵にはどうしても手が出なかった。ふくろの中にしまってある魔法の絵筆を持ち出すのもどうかと思って、絵の具の他にわざわざ絵筆も買った。
飾る場所の問題もあってキャンバスは小型のものを選んだため、こちらはそこまで高くはつかなかったが、それでもかなりの出費である。出来上がったら今度は額縁も買ってこなければならない。
不意に、諭吉が翼を生やしてどこかに飛んでゆく姿を幻視した。
趣味というのは、なんであれ、お金が掛かるものである。PC弄りなりコスプレなりで痛いほど身に染みている千雨であったが、美術だとか絵画だとか、芸術の領域については、学校の授業以外ではこれまでまったく触れてこなかった分野である。
これに対し、湯水のように小遣いを浪費するのはさすがに躊躇した。躊躇しただけで最低限の物品は揃えてしまったあたりに、絵を描くことに対する意気込みが透けて見える。
こうして絵筆を持って描くのは、たぶん一度きりになるだろう。
そのつもりで描いている。
千雨にとって、リルムになりきることは、それなりに覚悟のいることだった。
ある種の身勝手な感傷であるとも理解出来ている。だが、自由に描くことの出来なかったリルムのことを思い出すたび、なりきりで絵を描くことに対する引け目を覚えてしまうのは確かだった。
リルムには才能があった。あれこそ本物の天才だと、ストラゴスならずとも褒め称えるであろう才が。
彼女はおそらく唯一にして最高のピクトマンサーである。
絵を操るもの。
世に存在する万物を描き、写し取り、支配するもの。
だが、才能がありすぎることが、リルムにとっては若干の不幸でもあった。
初めてそれを知ったとき、千雨は画竜点睛という言葉を思い出した。
リルムは普通の絵が描けない。どんな絵を描いても、完成してしまえばそれは幻影として具現化してしまう。リルムの描く絵は恐ろしいほどの迫力だった。まるで生きているようなというありきたりな形容では全く足りない。
本当の意味で、魔法の絵と呼ぶに相応しいものだった。
スケッチひとつで鮮やかに写し取った寸分違わぬ姿が、本当に生きて動き出すのだ。
魔導士としての才覚。画家としての技量。その双璧があまりにも才能としてありすぎるがゆえに、リルムは親しいひとの似顔絵すら自由に描くことはできなかった。
たとえば、テストで常に百点を取る人間であれば、九十点でも、零点でも、低い点数を取るのは容易いだろう。答案用紙に書き込む答えをわざと間違えれば良いからだ。
だが、百点の答えが分かってしまうということそれ自体は止められない。それと同じだ。
リルムが何かを描くという行為は、いついかなる場合であっても、完成してしまえば常に百点にしかなりえない。リルム・アローニィという存在は本物の天才であり、有り余るほどのあの才能はある種の呪いでもあった。
ゴゴのものまねと似て、世界そのものを、その在り方を写し取っているように感じられたこともある。
千雨は言われたことはないが、リルムの脅し文句にこんなものがあった。
――似顔絵かくぞ!
本人は怒ったり笑ったりしてこんなことを口にするが、それはとても悲しい台詞だった。さらっとスケッチしただけで、対象の幻影が具現化し、描かれた当人に自らの技を持って挑みかかろうとするのである。
普通の絵を描いて、ストラゴスに似顔絵を描いてあげたいと、リルムはずっと望んでいた。それを千雨は知っている。
マッシュをキンニク男と呼んだり、セッツァーを傷野郎と呼んだり、セリス相手に年増呼ばわりするあの口の悪さが優しさと反比例するとまでは言うつもりはないが、それでもリルムは心優しい少女であることに間違いなかった。ほぼ同い年である千雨にとって、あの世界での不安を分かち合った数少ない女友達でもある。
歳に似合わぬ大人びたものの考え方を持ち合わせているくせに、年相応の感性を保っている。
そして、だからこそ、なりきりを多用するのは躊躇われた。
千雨のなりきりは、たとえば口調、たとえば衣装によって精度が左右される。
師匠であるゴゴのものまねではありえない。差異が生まれるものまねは、単純に失敗として判断されるからだ。
百点のリルムをものまねすれば、ゴゴもまた百点のスケッチを行うことになる。
だが、千雨のなりきりは決して完璧ではない。千雨という人格を介してエミュレーションでは、自分より上の技術や才能を持った存在を再現しきるにはどうあがいても不足がある。
つまり、どれほど完全を望んでも百点には届かない。
百点のリルムのスケッチと比較して、九十九点のスケッチならほとんど差はないだろう。
だが九十点のスケッチなら? 八十点のスケッチならどうだろう?
精度が低くなるに従って、完全なリルムの絵から、何かの足りない不完全な絵へと切り替わる瞬間が訪れる。
ただ素晴らしいだけの絵。今にも動き出しそうで、でも本当に動き出すことのない当たり前の絵。リルムという完璧な才能からいくらか差し引かれて描かれる、千雨なりの模倣。
逆説的ではある。完璧でないからこそ、望みが叶うこともあるのだ。
ピクトマンサーであるリルムにはそれが出来ない。どれほど簡略化しようと、リルムという才能には何ら疵を付けられないのは分かりきっていた。
リルムの絵を描くという才能が、完璧な百点が、それ以下になることはありえない。
ケフカを打倒し、闘神や幻獣が消え、魔法の力があの世界から失われたそのときにこそ、リルムは本当の意味で絵を描くことが出来るようになるのかもしれない。
あるいは、と千雨は夢想する。
いつか、あの才能がさらに磨かれて、完全にコントロール出来るようなる日が来る。百点満点のテストで、百二十点を取るような、そんな桁外れの領域にまでリルムが踏み込む日が……。
何の不安も、何の不思議もなく、ただただ純粋に、大好きなひとたちのことを描けるようになるのかもしれない。
いつかじゃない。そう遠くない日に、きっと、リルムならできる。ぼんやりと、そんな風に思った。
千雨は、まるで自分の手が何かを求めるかのように、絵筆を自在に精緻に、それこそ縦横無尽に操るのを感じていた。
パレットのなかで必要な色を作り、大胆に塗り、繊細に筆を滑らせ、絵の具の乾く速度を調整し、そしてあっという間に描き出されてゆく色鮮やかな光景。
普通の描き方ではありえないほどの早さで、景色が、世界が、キャンバスの中に鮮烈に写し取られてゆく。
まさに魔法だった。
自分の手がそれを為していることを忘れて、千雨はリルムの業に圧倒されていた。
リルムに出来ないことを、リルムの技術や才能を中途半端に借りて行うというのは、あまりにも……。
罪悪感を抱きながらも、腕は勝手に動いてくれる。
こんなふうに思い悩むあたりが、すでになりきりが中途半端になっている証拠でもある。なりきるにあたって衣装の用意は状況的に難しかったため、絵筆を握るついでにバンダナで髪をまとめた程度で済ませた。
明日菜と同様、ジャージ姿である。
リルム本人ならもっと快活に動くだろう。こんな風に足踏みする悩み方はしないだろう。
千雨は、もっと深くなりきろうとする。
描かれるのは人の姿。キャンバスの小ささなど忘れてしまったかのように、どんどん描き加えられてゆく無数の色。
見回せる世界はひどく薄暗く、背後にある飛空挺はどこか傷だらけ。
中央に描かれているのはあんな場所で寝ているロックだ。荒野の真ん中で寝転んでいるのは彼らしいと言うか、なんというか。セリスは見守るような優しげな顔つきで、なんとまあロックを膝枕してやっている。
右側の岩の前にはマッシュとエドガー。何を話していたのか、どこか呆れた様子のマッシュと、胸を張って自慢げに笑うエドガーだ。左側にはガウとカイエン。真面目な顔をして教え諭すカイエンと、思い切り首をかしげているガウ。
その奥、飛空挺に寄りかかって立っているセッツァー。さらに離れた場所にシャドウがいて、インターセプターが素晴らしく精悍な顔つきで静かに控えている。
右端に座り込んでいるのはウーマロだ。近くにいるモグは、嬉しそうなティナにしっかり抱きしめられていて、逃げるべきか、ウーマロに助けを求めるべきか、それともこのままでいるべきかと苦悩している様子が見て取れた。
その手前では着ぐるみを着こむのに苦労しているストラゴスがいて、それをリルムが仕方ないなあ、と言いたげな表情で着替えを手伝っている。
左側の大きめの空白に、最後に描き込まれたのはゴゴだった。なんだかよく分からない衣装を着た姿が、全員を見守るような位置に配置される。一瞬だけ幻影が立ち上ったような気がした。
そこは、暗く、静かな世界だった。
寂寥たる荒野の果てで、眩く輝くものを見た。そんなふうに感じられた。
「……すごい、すごいわよ千雨ちゃん! これ、賞とかに出したら入選……いえ、大賞取れるかも!?」
明日菜が背後から覗き込んでいた。手が止まったのを見計らって声を掛けてきたのは分かるのだが、それでも驚いたことに変わりはない。
むしろここまで近づかれて気づかなかったことに千雨は自分で吃驚した。よっぽど入り込んでいたらしい。
絵筆を握りしめたまま、千雨は明日菜に振り返る。
リルムの腕を褒められて嬉しくないわけがない。リルムのすごさは千雨が自分でよく知っている。
リルムになりきって描いたこの絵をじっと眺めていると、妙な違和感があった。
この絵には何かが足りない。そんな感触だった。
それが何なのか、明確な言葉にする前に、明日菜が首をかしげた。
「これで完成?」
「ふふ! そんなわけないじゃない、まだよ!」
即座に返答していた。からかうような楽しげな口調を受けて目を丸くする明日菜をよそに、千雨はといえば自分で答えておきながら混乱していた。
元々描くつもりだったのはあの世界における仲間達の姿だった。人数は全員、ちゃんと揃っている。他に描くつもりなどなかった。
だが、なりきったがゆえに、リルムの感性が、これでは未完成であると告げている。
「つまんない絵なんか描かないもん。さあ行くよ!」
悪戯っぽく瞳を輝かせて、絵筆を強く握る。
何の変哲もない絵筆がほのかに輝いているような気がした。塗り替えられてゆくのは絵ではなく、ひとつの世界だった。
絵筆の先に宿る煌めきは窮屈なキャンバスのなかを自由自在に飛び回り、少しずつ、少しずつ、薄暗かった世界に小さな光が灯されてゆく。
そこは荒野のはずだった。
あるとき世界を覆い尽くす暗雲の隙間から、ひときわ明るい一条の光が射し込んでくる。
だんだんと空から降り注ぐ光量が増してゆくたび、そこかしこから植物が芽を出し、周囲には草木が育っていった。足下からかすかに見え隠れてしているのは鮮やかな緑だった。
絵の中だというのに、まるで荒れ果てた地に生まれたての緑が、今まさに蘇ってゆくかのような光景が広がってゆく。
時が流れるように、生まれ変わるように、風景はあるべき姿へと移り変わってゆく。
背後にいる明日菜は声も出ないようだった。千雨も驚愕していた。
なりきりでリルムのスケッチを模倣したことはあった。いとも容易く具現化するモンスターの姿に驚愕したこともあった。ほとんど一瞬の作業に過ぎなかった。それですら、リルムの手によって描かれた絵は実体を伴って世界に呼び起こされるのだった。
対象を大まかに写すのではなく、思い描いたヴィジョンを、鮮烈なイメージを、精緻に、繊細に、描いているのだ。
これほどまでに隔絶した技量をリルムが持っていたことを知って、それがこうして描き出されてゆくのを目の当たりにして、抑えきれないほどの感動で、千雨の胸の奥が知らず打ち震えた。
リルムが天才であるとは思っていた。本物というのはこういうものを言うのだとも知っていた。
知っていたつもりだった。それでもなお、言葉を尽くしても言い表せないほどの唯一無二、絶対の才能というものが存在することを、今まで千雨は知らなかった。
あの世界が、ここにあった。
そこには暗さがあった。絶望があった。そして、彼らがいた。それをはね除けようとする眩さがあった。
すべてが、描かれていた。
絶句している明日菜と、呆然としたままの千雨。
しかし、千雨の腕は、まるで容赦なくその先を描き出そうとしている。あのリルムが未完成のものを描いて満足するわけがなかった。女の子らしく優しくて、女の子らしくわがままなリルムには、こんなところで止める気なんてさらさらなかった。
千雨の知るリルムには、完璧でない絵など描けやしないのだ。
なりきっている最中だということをすっかり忘れていた千雨は、自分の動揺をまったく意に介さず描き続ける腕と、指先と、絵筆とを見つめ、こうなって初めて、自分が何を描こうとしていたのかを強く意識する。
画竜点睛という言葉がある。
今にも飛び立たんとする竜の絵。その瞳を描くまでは、単なる絵に過ぎない。
しかし、瞳を入れてしまえば、その竜は自らの意志によって天へと昇ってゆくことだろう。
大きめに取られた空白。ゴゴのそばに、一人分のスペースがある。
腕は動く。
千雨の意志で? それともリルムの意志で?
自然に。当たり前に。あるべきものを、あるべき場所に。
描かれるのは、少女の姿。
いつか浮かべた皮肉そうな笑みもなく、ずっと隠していた不安げな瞳もなく、生きるために戦い始めた千雨の姿だ。どこにでもいる少女だった千雨が、かすかに不適な笑みを浮かべて、はるか遠くを見つめている姿だった。
色合いは淡く、普段着より少しだけめかし込んだ、ちょっと可愛いかも知れない衣装なんか着て。
そこにいたのは、何も知らなかったころの千雨ではない。少しだけ成長して、前よりちょっとだけ周りのことを見られるようになった自分自身の姿だった。
今の千雨が、そこにいる。
最後に、サインとして隅っこに書き添えられて。
ゆっくり全部を見回して、絵の中の世界を覗き込んで、そしてリルムになりきった千雨が、声にする。
「でーきたっと!」
完成させないなんて選択肢はありえなかった。だから手を抜くなんて出来なかった。
精度の低いなりきりなんて、こんなときに使えるわけがなかった。
それは魔法の絵だった。リルムが描いた本気の絵だった。
圧倒されて、一時として目を離せなかった。それに触れるなんて千雨には思いも寄らなかった。
漏れ出た魔力が影響したのか、乾くまでにかかるはずの時間は超越されていた。
だから完成。
本来なら何日もかかるような工程をすっ飛ばして、あっという間にできあがり。
ピクトマンサーが描く、世界そのものの写し絵。
絵を描き終えた満足感と、なりきりに傾注しすぎて余力を失った疲労感。ある種の恍惚に身体の自由を奪われていた千雨は、直後、ここに至るまで長らく麻痺していた直感が警鐘を激しく鳴らしていることに気づいた。
千雨自身の感覚は、この状況が、ずっと危険であると訴え続けていたのだ。
今にも立ち上ろうとする幻影が、実体化しようとするあの世界の気配が、ぼんやりと形を取ろうとし始めている。キャンバスの小ささに比べて巨大すぎるひとつ丸ごとの世界だ。本当の意味で具現化するまでにはまだ時間がかかりそうだった。
目の前の絵を見つめる。
息が止まる。
それだけしか目に入らなくなる。
彼らの姿がある。あまりにも遠い世界が。
もう会えない、仲間たちの姿が。
圧倒されていた。吸い込まれそうになった。ずっと、いつまでも見つめていたかった。
その衝動、あるいは未練を振り切って、千雨は自分を取り戻す。
惜しむ気持ちはあるが、それ以上に危険すぎることを知っているからだ。
なんとかしてキャンバスを傷つけなければならないと、千雨は咄嗟に立ち上がろうとして――
後ろにいた明日菜が、いきなり飛び出した。
凄まじい勢いだった。
それは、千雨が反応するのとほぼ同時だった。
どんな速度だと驚きながらも、やばい、と反射的に絵から引きはがそうとするより先に、
「なんで!? なんでこんな凄い絵が描けちゃうのよっ!?」
キャンバスに挑みかかるようにして、その端を握りしめ、絵の隅々までを目を皿のようにして凝視している。
そんなこと言っている場合か!
そう叫ぼうとして、しかし起こるべき結果がいまだ訪れないことに千雨は気づく。
「今だって、ここから飛び出してきそうな風に見えたし! どうなってるの? ねえ千雨ちゃんっ!?」
伸ばしかけた千雨の腕が、その場で停まる。
完璧なリルムの絵が、具現化しなかった。いっさい実体化しなかった。
そんなはずがないのに。
千雨は困惑していた。振り返った明日菜が浮かべた訝しげな表情を見ても、即座に取り繕えないくらいに。
描いた絵は、完璧だった。リルムのなりきりも、あれほどまでに深くなりきったことは初めてなほどだった。成功するつもりではなかったけれど、今の感触で失敗であるはずがなかった。
低くするはずだった精度は、過去のどんなときよりも高くなってしまった。こめるつもりなんか皆無だったはずの魔力さえ十二分に含有されていた。
仲の良かった千雨ですら知らなかったリルムの本気を垣間見た。そのはずだった。
本当の意味で、これは魔法の絵だった。
なのに。
どうして、幻影ひとつ浮かび上がることがなかったのだろう。
意味が分からなかった。
千雨が黙り込んでしまったせいで不安が感染したかのように、千雨に駆け寄ってきた明日菜もまた、その様子に気遣うような表情を覗かせた。
明日菜が、はっとした。
自分の行動が無茶苦茶だったことに今更に気づいたのだろう。
顔色がさあっと青くなる。血の気が引いていた。
そもそも、本来ならまだ乾いているはずがないのだ。そんな描き上がった直後の絵に、千雨の了承も取らず、さらに縁の部分だけとはいえ直に触れてしまったことについて慌てた様子で謝り始めた。
「ご、ごめんなさいっ」
あまりにも心の琴線に触れて、反射的に動いてしまったのだと、凄まじく申し訳なさそうに頭を下げた。
言葉を尽くしての明日菜の謝罪が次から次へと耳に入るのだが、千雨は頷くだけで、しばらく何も答えられなかった。
心情としては、それどころではなかったためである。
「千雨ちゃん……ねえ、顔が強ばってるけど……大丈夫?」
「あ、ああ。なんとか」
叫び出したい気持ちを無理矢理飲み込んで答えて、そしてようやく千雨は見た。
さっきまで明日菜の触れていた部分、キャンバスの端が、一瞬燃えるように揺らめいたことを。
絵に込められていた魔力が漸減している。それが分かった。
マジックキャンセル。
絵画から顕現する力、それを構成していた魔力がどうしてか無効化されたのだった。
原因に見当は付いた。問題は、どうして明日菜にそんな力が備わっているのかという点である。しかし危機は去ったと見て良い。臨戦態勢を取りつつあった千雨は、力を抜き、安堵の息をそろそろと漏らした。
そして残ったのは一枚の絵だった。
魔力の残滓すら消え失せて。
リルムがあれほどまでに描きたがっていた、普通の絵。
描くことの楽しさと、誰かに見せることの嬉しさと、空恐ろしいほどの技量と、ただそこにあるという美しさ、そういったものが綯い交ぜになって、それらすべてがただ一枚の中に表現されている。
天才画家リルム・アローニィの描いた一枚の絵画。
千雨は無言で見入っていた。
何の衒いもなく、素直に素敵な絵だった。いつまでも眺めていたかった。鑑賞と呼べるほど余裕のある行為ではなかった。身じろぎひとつせず、絵の中の世界を延々と見つめていた。
いまは寂しくはなかった。けれど、二度と会えないということが辛くないわけではなかった。
何かを残しておきたかった。こんなふうに目に見えるかたちの、何かを。
彼らと自分とが確かに一緒に過ごしたという証拠を。
千雨はたしかにあの世界にいて、ここに帰ってきたのだ。彼らは、あの世界で生きているのだ。
リルムは元気でやっているだろうか。師匠は旅を終えたら今度は何をするつもりだったろうか。そっと想いを馳せる。彼らと過ごした日々のことを。
当たり前のように記した画家の署名が、視界の片隅に映り込んだ。
署名に使われた文字は向こうの世界のものだった。読み方は覚えている。
日本語に置き換えると、リルム・アローニィの名前が読み取れた。もう片側に、どうしてか長谷川千雨の名前があった。その長い文字列が紐状にくるりと並んでおり、まるでリボンのように可愛らしく結ばれている。
ふと、考える。
あの世界で一度もやらなかったこと。この世界に戻ってきて、こうしてやろうとしたこと。
千雨がなりきって、実体化しない絵を描いたとして、当のリルムはなんて思っただろうか。
リルムの顔が目に浮かぶようだった。
――バカね。チサメったら、そんなことも分からないんだ?
そんな風に辛辣に口にして。
――ともだちのくせにヘンな遠慮して。ふふ。バカなんだから。
そして。
あの絵描きの少女は、世界最高のピクトマンサーは、千雨の大事な友人は。
文句のひとつも言って、それからきっと優しく笑うだろう。
想いを馳せる。それだけで胸の奥が温かくなった。少しだけ切なくて、それでもほのかな熱が消えなかった。
「千雨ちゃん……? ねえ、ちさめちゃんっってば!?」
明日菜に肩を掴まれてガタガタと強く揺すられるまで、千雨はその絵をひたすら見つめ続けていた。
「ごめん。悪かったって」
「もう! 体調が悪くなったのかなとか、ホントに心配したのよ!?」
我に返った千雨が誠心誠意心から謝ると、明日菜はあっさりと許してくれた。
確かに心配を掛けたのは間違いない。
クラスメイトが絵を描ききった途端にとんでもなく動揺したり、忘我の体でその絵画に見入っていたとなれば、明日菜ならずとも普通は気にするものだ。
その上で千雨のことを気遣ってくれるあたり、案外明日菜が優しいことに気づいた。
普段は委員長といがみ合っている姿ばかり見るが、あの光景もよくよく見ればじゃれ合いの範疇である。
クラスメイトが困っていたら手を貸すのに躊躇う様子も見せないし、学費も払ってもらえるのに新聞配達で自力で調達しようとしているし、双子や春日のように悪戯するわけでもなし。
欠点と言えば高畑教諭ラブを隠しきれていないことくらいか。それだって別に悪いことではない。
接点がないため今までよく知らなかったが、考えていた以上に神楽坂明日菜は付き合いやすい人間だった。
周囲から見ている限りではアホの子というイメージが強かったのだが、色々話してみないと分からないこともある。
走っている姿を見たこともあるが、運動能力も抜群だし、こうしてまとめてみると勉強以外は文句の付けようがない。
先ほどの不可解な現象が明日菜に起因することは確信していたが、あえてそれを追及する気にもなれなかった。明日菜本人にあの能力の自覚が無いとすれば、千雨がそうであったように、体質の問題なのかも知れない。
不用意に指摘するのは避けるべきだった。千雨のように知らないことで不都合があるならともかく、こちらは普通の生活を送る上では何ら必要のない体質、あるいは才能である。
明日菜はちょっと元気の良い普通の女子中学生だし、そうであるべきだ。魔法なんて言葉が平気で飛び交う事態になど、巻き込まれないに越したことはないのだ。
「私もまだまだだな……」
「なにがよ」
「いや、神楽坂って良いヤツだったんだなあ、としみじみ思っただけだ」
「な、なにいってんのよ! もう千雨ちゃんたら!」
素直に褒められると弱いらしい。微妙に顔を赤くしている。
「さてと、そろそろ良い時間だな」
千雨は片付けを始めた。奥から引っ張り出してきた備品は明日菜に抜けがないかチェックしてもらう。
「礼も兼ねて……そうだな、このあとの予定がないなら、どっかに寄ろうぜ。奢るから」
「いいの?」
「予算はこのくらい」
指を三本立ててみた。だいたいの概算で、今回かかる費用を先んじて計算しておいたのだ。いくらか備品として使わせて貰った分があるため、組んでいた予算から額縁の代金を除いて余った分を謝礼に回すことにしたのだ。
「三百円?」
「ちげーよ、三千円だ」
「えっ。いいの? 千雨ちゃん……三千円って、三千円よ!?」
「口止め料込みだ。あと、さっきの描いてる最中の私のことは忘れてくれるとありがたいんだが」
「あ、さっきの『つまんない絵なんか描かないもん!』みたいな? 可愛らしい話し方だと思うけど」
「くっ……三千五百円出す」
「ええっと、そういうつもりじゃなかったんだけど……本当にいいの?」
「いいぜ。礼がメインだしな。ただ、頼むのは食べきれる分だけにしてくれ」
それを聞いた明日菜のほっこりとした笑顔は、何とも言えず幸せそうなものだった。
薄暗くなり始めた空の下を、明日菜と二人でゆっくりと歩いて行く。
気がつけば夕方である。物事に集中していると時間が経つのが早いものだ。夏の最中であるため、まだ陽が沈みきるには時間はあるのだが、それでも透き通るような青だった空の色が刻一刻とオレンジや紫へと変わりつつある。
「私、千雨ちゃんのこと誤解してたわ」
「へえ。どんな風に?」
「千雨ちゃんって、エヴァちゃんや茶々丸さんとたまに話してるでしょ? あの二人って何か、こう、超然としてるっていうか、話しかけづらいじゃない。茶々丸さんは普通に返事してくれるけど、エヴァちゃんは無視されたり、素っ気ない返事しかしてくれなかったりするし。なのに普通に喋ってる千雨ちゃんって、なんか凄いなあっていうか、不思議だなーって思ってたの」
否定しがたい。
千雨も、自分の他にエヴァがまともに対応しているのを見たのは、教師か四葉五月が相手の時くらいだった。
「そうかと思えば武闘派な楓ちゃんと談笑してたり、本屋ちゃんたちと話してる姿も見かけて……でも、遠くからだとどういう話をしてるのかがさっぱり分からなくてね。ほら、千雨ちゃんって、あんまり自分から積極的に話しかけないでしょ」
よく見ている。明日菜の言葉に、小さく頷き返した。
以前のように極端な人見知りではなくなったが、それでも誰にでも何でも話せるという性格ではない。眼鏡のレンズ越しに明日菜の表情を覗き込むと、楽しげに前を向いているところだった。小さく千雨に顔を向けて、
「でさ、どんな性格なのかなって気になってた」
なんてふうに口にする。そんなことを言われては、千雨は肩をすくめるしかない。
「ふうん。一日付き合ってみた感想は?」
「なんていうか、びっくり箱みたいだったわ。千雨ちゃんって、見てると色んなものが出て来るのね」
「……ははは」
非常に返事に困るので、笑って誤魔化した。
「ねえ千雨ちゃん。あの絵ってさ、どこに飾るつもり?」
「とりあえずは寮の部屋のつもりだが、なんでだ」
「じゃあ、今度また見せてもらっていい?」
「そりゃ構わねぇが……あれって、私以外にはあんまり意味が無い絵だぜ」
「うん。そんな気はしてたわ。でもね、なんか……ああいうのって、いいなあって思ったの」
千雨は不思議に思った。
確かにあの絵は素晴らしい出来だった。身内の欲目を差し引いても、人目に付けば放っては置かれない。それだけの価値があると千雨は確信している。
だが単純に美術品としてではなく気に入った部分がある。そんな物言いだった。
「ああいうのっていうと」
「苦楽を共にした仲間とか、大切な時間を一緒に過ごした……そんな空気かな」
明日菜が浮かべたのは、なんともいえない、物憂げというか、しかし、ひどく穏やかな表情だった。
その表情は普段見せている年頃の少女が持ち合わせるようなものではなく、どこまでも静かで、郷愁に満ちていて、たとえばいま頭上に広がるあの夕空のような、そんなせつせつとした雰囲気を漂わせていた。
なぜか、ティナのことを思い出した。
性格も性質も全く違うはずなのに、どうして彼女のことが脳裏を過ぎったのだろう。
「あ、千雨ちゃん! あの店でもいい!?」
「いいぜ……って、あそこか」
「え、何かマズイかしら」
「大丈夫。値段は高いけど、そのぶん美味いから。オススメはプリンアラモードだな。旬のフルーツ付きの」
「うわあ。すっごく美味しそーっ」
「このあいだ長瀬と寄ったときに私も食ったんだが……あのプリンは本当に美味い。感動する。ちなみにモンブランもすげぇ美味い。時期じゃないのに乗ってる栗が絶妙に甘くてだな。そういやチーズケーキもとろけるような感じで」
「えええ!? ここまで来て迷わせないでっ!?」
「飲み物は紅茶がオススメだな。ただ珈琲とセットだとお得なミルフィーユも美味いんだよなあ。良いサクサク感だとアップルパイもメニューに載ってるぜ。注文してから作るらしいから、ちょっと時間はかかるけどな」
「千雨ちゃん、わざとでしょ」
明日菜からジトっとした目つきで睨まれた。おお怖い怖い。
いつの間にか、先ほどの奇妙な雰囲気は微塵も感じられなくなっていた。
「今話してたの、全部頼んだら絶対に額が超えちゃうじゃない」
「神楽坂。……越えた分は自分で出すか、次の機会にしとけ。欲張るとろくなことになんねーぞ」
「うーっ」
「晩ご飯、近衛が作ってくれるんじゃなかったか?」
「う、ううっ」
「というわけで、せいぜい悩め」
時間にして三十秒ほど、店舗の前のメニューをにらみつけている明日菜であった。
「決めたわ! プリンと紅茶に……」
「そりゃ良かった。じゃ、入るぞ」
「……あとチーズケーキも」
「夕飯、食べきれるのか?」
「よく言うでしょ。甘いものは別腹よ」
対デザートに燃える明日菜の決意の表情を目の当たりにして、千雨は吹き出しそうになった。
後日のことである。
夕方、用事を終えた千雨が部屋に戻ってくると、室内には珍しくルームメイト、ザジ・レイニーデイの姿があった。普段はザジが別の場所で寝泊まりしているため、二人部屋にもかかわらず千雨が占有しているような状態になっている。
一応ザジのためにいくらか場所は空けてあるのだが、個室とほとんど変わらない。
「よう。……珍しいな。どうした?」
ザジが委員長以外と会話しているところを千雨は見たことがない。だから返事を期待したわけではなかった。
無言のままのザジの視線の先には一枚の絵があった。
リルムになりきった千雨が描いた、あの世界と彼らの姿だ。
ザジは、なにか眩しいものを見るような穏やかな仕草で、さほど大きくないキャンバスをじっと見つめている。
額縁に入れられて壁に飾られた絵は千雨自身素晴らしいものだと胸を張って言えるものだったが、余人に意味があるかと言えばそういうものでもない。
「……いい絵ですね」
千雨に振り返ったザジは、そっと微笑んだ。
驚いた。
何が驚いたって、ザジが喋ったことより、その表情の柔らかさに千雨は吃驚したのである。なんとまあ優しそうな顔か。これが素だとすれば、ザジという人間をずいぶんとこれまで見誤っていたことになる。
たった一回の笑顔でそれまで積み重ねてきた印象を書き換えられるだなんて思っていなかった。
なるほど。あの委員長がああも楽しげに会話をするわけだ。納得した。
千雨は少しだけ告げる言葉に迷い、頭を何度かかいて、それから口を開いた。
「ありがとよ」
「これは千雨さんの絵ですね」
千雨の描いた絵という意味だろうか。それとも千雨の描かれている絵という意味だろうか。
なんとなく前者だと判断して、答えた。
「……そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるな」
「なるほど」
説明になっていない。誤魔化しにも聞こえる言葉だったが、ザジは普通に受け止めたらしかった。本当に、ザジがなぜかちゃんと納得していることだけは分かったので、千雨はそれ以上を語らなかった。
ちなみにこの日以降、ザジがちょくちょく部屋に帰ってくるようになったことを付け加えておく。分かっていたことだが、やはりあの絵がえらく気に入ったそうである。
出先から帰ってきた千雨がドアを開けると、室内には、無言で絵画鑑賞中のザジが普通にいるのである。
微動だにせず、絵をじっと見つめているザジの後ろ姿を眺めると、何とも言えない不思議な感じがするのだった。