八月初めの正午過ぎ、雲一つ無い晴れやかな空の下で、超主催の『超包子』のブランド成立記念パーティーが開催された。
 夏休み中ということもあって麻帆らに残っていたクラスメイトだけでなく、屋台の関係者に繋がりのある招待客はクラスや学校関係無く足を運んでくれた。
 大々的にあの中華屋台を率いての宴会のような催しであった。今回が終わればまた来年の六月まで屋台を使う予定はない。それもあって、名残惜しむ声に応えたのだと超は言う。
 半分は宣伝目的でもあったのだろう。しかしサービスとして振る舞われた大量の点心には、無料での提供でありながら手抜きは一切無く、四葉五月という料理人の若年ながらのプライドというものを感じさせるものだった。
 許可はきちんと取ってあった。大学部からも話を聞いて駆けつけた者がいた。複数の教師もその場に訪れた。そのおかげか、あれよあれよという間に招待されていない生徒までもが集まってきて、夕刻を過ぎてまでのどんちゃん騒ぎと相成った。

「よ、神楽坂か。誘われたのか?」
「あら、千雨ちゃんも来てたんだ。わ、さっちゃん凄いわね。普通の速さなのにものすごーく手際が良いわ」
 連れ立ってきたのだろう。向こうの方に近衛がいて、のどかたちと談笑している。夕映がこちらに気づいてぺこりと頭を下げたので、とりあえず手を振っておいた。
 屋台の内部、外から窺える調理場の様子は明日菜の言うとおり、シェフ四葉の独壇場であった。
 燃え盛る火が! 食材に火の通る音が! そして漂う香ばしさ、美味しそうな匂い!
 四葉の動きにはまったく無駄がない。全てを統括し、普段と見違えるようなてきぱきとした指示を周囲に与えている。
 いくつもの皿を抱えた古が飛び出していく。手際よく茶々丸があちらこちらのテーブルを回っている。超がにこにことリクエストと感想を聞いて回ってメモに書き込んでいく。手伝えそうな状況になった瞬間、即座に超が調理場に乗り込んでいき、四葉と一緒に縦横無尽八面六臂の大活躍であった。
 それでいて衛生観念はきちんとしているのである。誰も彼も文句の付けようもない働きぶりであった。
「結構な人数だよな。超が金出してるって話だが、そこそこの額になるぜ。これ」
 千雨は見回した。視線の先の各テーブルには色とりどりの料理や点心、特に肉まんを中心とした超包子のメニューが所狭しと並べられている。そのどれもが冷める前に奪われるようにして持って行かれているため、皿の回収役でもある古の動きも活発だった。
「そうなのよねー。こんなに美味しいのに、お金払わなくて良いのかしら」
「ま、こんだけ集まって、まずいって表情してんのが一人もいねーし、宣伝費と思えば元は取れるんだろうけどな。利益狙いなんだか、肉まん普及が目的なんだか、あいつらの考えてることはよく分からん」
「ふーん。よく分からないけど、美味しいからいいじゃない」
 肉まんをほおばって幸せそうに眼を細める明日菜だった。
 千雨もそれに倣った。肉汁たっぷり、熱々で、少し甘くてジューシーな、皮まで美味しい肉まんであった。
 美味い。
「それもそうか」
「そうそう! さっちゃん、今日も美味しいわ! ありがとー!」
 少し休憩するためか、調理場から出てきた四葉にぶんぶん手を振ってストレートに告げる明日菜である。
 四葉もこくりと頷いて嬉しそうににっこりしていた。
 幸せの化身、四葉五月。
 さっちゃん美味しい! さっちゃん最高! ありがとうさっちゃん! さっちゃんありがとう! 今日も元気だ肉まんが美味い!
 明日菜の大声を契機にして、遠くからさっちゃんコールが聞こえてきたのは、気のせいではなかったと思われる。
 ちなみにどこかで聞いた、おそらくは教師の声、それも複数だったことをここに付け加えておく。


 適当に小籠包を摘んでいた。中のスープも熱々である。はふはふ言いながら時間をかけて味わう。
「千雨も来ていたでござるか!」
「……っと、長瀬か」
 後ろから声を掛けられて、一息吐いてから振り返る。
「ん、双子はどうした?」
「あそこにいるでござるよ」
 鳴滝姉妹の下の方が、なぜか恭しく柿崎に皿を差し出しているところだった。
 傍目には柿崎が何やら悪巧みを思いついた顔をしているのが見えた。いつもの悪ノリらしい。
「……何やってんだあいつら?」
「ふむ。いま唇の動きを読んでいたでござるが、『ふふふ、お姉さんが教えてしんぜよう。お化けは美味しい胡麻団子を追ってるのさ。つまり……誰かに胡麻団子を渡せば良ーんだよ!』と口にしていたでござるな」
 最後は恐怖の大王でも出てくるような口調である。腕の動きもどこかで見たような動きである。
 しかも「な、なんだってーっ!」と鳴滝姉妹が大げさに驚いているのは見て分かった。
 史伽から胡麻団子の皿を受け取って、代わりに辛そうな春雨の皿を渡している。聞いた話に拠れば、あの双子は幽霊やら怪談やらが苦手なはずである。
「ふむふむ『……団子ばかり? そいつはいいや!』と小さく呟いてござるな」
「それはフラグだ」
 元ネタを知っているため、むしろわざとじゃなかろうか、と千雨は首をかしげた。
 それで大体の構図は見えた。誰も彼も食い意地が張っているとしか言いようがない。
 止めないのかと思って隣の楓を見ると、面白そうにそのやり取りを眺めている。
 憐れ鳴滝姉妹、このまま柿崎の奸計に嵌められたまま終わるのであろうか。
 そんなわけがなかった。
 そばにいた釘宮が窘めるように視線を送ったので、柿崎が分かってるって、と言わんばかりに頷いた。
 その瞬間のことであった。視線を外した一瞬に、風香が胡麻団子をひょいと口の中に放り込んだ。
「ん?」
 重さが変わったことに気がついたのか、怪訝そうに皿を見た柿崎。即座に史伽が叫んだ。
「あーっ! お団子が消えたです!?」
 先手必勝である。
 イカサマをしたら相手に責任を押しつける。良くある手だが、どこかで麻雀漫画でも読んできたのだろうか。
 柿崎の驚く暇もあらばこそ、史伽の後ろに隠れていた風香が、咀嚼を終えたのか、すぐさま続いた。
「ボクのお団子が食べられちゃったよ〜。もしかして、美砂姉ぇが言ってたみたいに……」
「おば、おば、おば……」
 風香の言葉を引き継いで、史伽がその単語を口にしようとして、がたがた震えている。
 ……フリをした。
 怪談苦手の幽霊嫌いな姉妹といえど、柿崎のあからさまな悪ふざけにはさすがに引っかかっていなかったらしい。自分で食べておいてこれだから、双子もなかなかやるものである。
 楓は双子の成長を喜んでいるようであった。何か間違っている気がしないでもないが。
「オババ?」
「オババ!」
「お団子、オババに食べられたですか!?」
「そうだそうだー、きっとオババが食べたんだっ」
「あっはっは。……史伽、風香、今どこを見て言ったのかなぁ?」
 千雨の隣で一部始終を見ていた楓が笑い転げている。特に割り込むつもりはないらしかった。
 お化けも真っ青な、いかにも悪そうな顔で柿崎がニヤリと笑った。
「ほーれほれ、言ってごらん。早くしないと麻帆良七不思議幽霊編を読み上げちゃうよ〜」
 双子は顔を見合わせて、さっさと逃げる準備をしていた。
「うふふふふ。じゃあ話すわよー。――私たちの通うA組教室には、窓際に座らずの席と呼ばれる……」
 きゃーきゃー言いながら鳴滝姉妹は逃げ出した。
「待て待てーっ! その座らずの席にはな――もう何年も前から幽霊の噂があって、うらやましそうにこっちを見て……」
「うわーん! 美砂姉ぇが本気だーっ!?」
「聞きたくないですーっ!!」
 ぎゃーぎゃー言いながら必死に逃げようとする双子に、すすすっと追いすがる柿崎美砂。非常に楽しそうである。
「……!」
 喧嘩と呼ぶには子供じみたやり取りではあったが、騒がしいことは事実である。
 すわさっちゃん出動か、と周囲が事態の推移を見守っていると、どこからともなく大河内アキラが現れた。
 鳴滝姉妹がアキラの後ろに隠れる。
 柿崎がにっこり笑って首をかしげる。後ずさりながら。
 アキラがにっこり笑って手を伸ばす。
 柿崎、腕を掴まれる。
 無言のままアキラに遠くの方へと連行されていった。愛想笑いで誤魔化そうとする柿崎はしかし、いやいやをするように首を振りながらも握られた手首をほどく術も無く、ゆっくり静かにどこかへとドナドナされていった。
 残された皿の上には、美味しそうな春雨だけがひとつ、寂しげにその身を主張していた。
 その後、すっかり柿崎のことなど忘れたように、史伽がもぐもぐ食べていた。大人しいように見えるがさすが姉妹。楓は感心したようにうんうんと頷いていた。
 さんぽ部の教育方針はどうなっているのだろう。口を挟む気はないが、少し心配になった。
 気がつけば、もう柿崎の姿は見えない。
「柿崎ぃぃぃぃっ!」
 千雨が小声で叫んだ。先ほどの伏線、もといフラグの回収である。
「どうしたでござるか、いきなり」
「いや、なんか叫んでおかないといけない気がしてな」


 夕映とのどかが会場の片隅で読書談義をしていた。話の内容はスタニスワフ・レムの『完全な真空』についてである。のどかはメタ小説の読み方の方から、夕映は本の中身の端々から窺える哲学的な観点から話したいようだった。かみ合っているようでまったくかみ合っていないのに奇妙に盛り上がっている。近衛の姿は見当たらない。
 同じ本読みといえどジャンルというものがある。近衛の得意分野ではないからだろう。
 千雨は乱読派なためあちこちに手を伸ばしてはいるが、そこまで深い話には入り込めない。近くで二人の――複雑怪奇な小説批評とはかけ離れて――楽しげな声を聞いていた。
「オオ! 千雨サンも来てくれたか! 嬉しいヨ! ……が、こんなところでどしたネ?」
「いや、あいつらが盛り上がってるからさ。声を掛けようかどうしようか迷ってな」
 指し示すと、超は話の内容をあっさり把握したようで、興味深そうに眼を細めた。
「フム。面白い話をしてるナ」
 一通り料理が行き渡ったためか、若干余裕が出来たようである。そうでなければ超がこっちに来られる状況でもなかったのだろうが。
 二人の世界が繰り広げられているそのテーブルに、超はあっさり声を掛けた。
「二人とも楽しんでるカナ?」
「超さん……その、今日は招待していただいて……ありがとうございますー……」
 のどかが言い、夕映が続いた。
「なかなか面白い話をしているのが聞こえてナ、良ければ混ぜてもらえぬカナ」
「あ、はいっ」
 こくこく頷くのどかだった。
 特に混ざる気はなかったのだが、なんとなく隣りにいた千雨も同席する。
「よ!」
「千雨さんもお話を……?」
「いや、ただの付き添い」
「次は何の本の話にしましょうか」
「まだ読んでないんだけど、『魔法の国が消えていく』とかどうかなー……?」
 一瞬。
 超が、本当に珍しいことに、目をまん丸にしてのどかを見つめた。余裕のある驚き方ではなく、ありえないものを聞いたような素振りだった。
 口にしたのどかの方が、そんな超の様子を目にしてさらに驚いていた。
「えっ、ど、どうかしましたか?」
「……い、いや。すまないナ。ちょっと思い出したことがあっただけネ」
「『魔法の国が消えていく』というと、ラリィ・ニーヴンでしたか」
 超とのどかの驚きぶりに首をかしげつつ、夕映が作者名を出して確認すると、のどかが頷いた。
「……それは、ファンタジー小説カナ?」
「聞くところによれば、魔法を取り扱ったファンタジーな話ではあるのですが……魔法を使うための魔力――マナが枯渇した場所では魔法が使えないとか、魔法で作られた物体はマナが枯渇した場所では崩壊するとか……ある種の天然資源的な扱いをされていたはずです。ですよね? のどか」
「うん。あくまで地球上の資源だからー……、宇宙にある隕石とか、月には、まだマナがいっぱい残ってる、みたいな……」
「のどか。まだ読んでいないのによく内容が分かりますね」
「こないだ探検部の先輩から、あらすじだけ教えて貰ったんだー。今貸し出し中らしいけど、もうすぐ読めるし……」
 ふむふむとようやく平静を装って、超が手にしていたウーロン茶入りのコップをあおった。
 なぜかかすかに手が震えているのだが、千雨としては指摘してやるべきかどうか、大いに迷うところだった。
 ふと気がついて、千雨はいま出て来た作者の名前に口を挟む。
「ニーヴン……ああ、あれか。ニーヴンの法則の――」
「ニーヴンさんは、『タイムトラベルと過去の改竄が可能な世界では、タイムマシンは決して発明されない』と書いた方ですー……」
「みんなして歴史を改変することになるから、最終的にはタイムマシンが発明されないって未来に収斂されるわけか」
 こくこく。のどかが我が意を得たり、とばかりに頷いた。
「つまり、タイムトラベルが実在するとするならば、パラレルワールド前提になると」
「まあ、親殺しのタイムパラドックスが成功しても困るわな」
「あの……さっき喋ってた、レムさんの『完全な真空』の中に、『生の不可能性について / 予知の不可能性について』という話があるんですが……あれを読んじゃうと、意図的に矛盾させようと思わなくても、過去に来て呼吸しただけでも、未来ががらりと変わっちゃうような気はしますー……」
 のどかの言う内容は、小説における架空の書評のひとつであり、その架空の本の作者が生まれるにあたって、どれだけの出来事が重なった結果であるかが、ひたすらに書き連ねられている。彼の両親がもし出逢わなければ、彼は生まれていない。一言で言ってしまえばそれだけなのだが、出逢いひとつに至るまでにも様々な事象の結果の集積であることが窺える。
 手術中の軍医によって看護婦が手術室から追い出さなければ、両親の出逢いはなかった。
 が、それ以前の一件無関係な話として、もし一発の銃弾がサラエボの皇太子を射殺しなければ。もし戦争が起きなければ。彼の祖父の信念が異なれば。彼の両親に直接、間接的に関わる人々、事象、そして数多の過去の出来事が存在していた。そうした一切合切の、数兆、数京にも及ぶようなありとあらゆる出来事が折り重なって、彼という人間がこの世に生まれ落ちることになった。小説内では両親にまつわる人々と過去に遡りながら、それが切々と物語られているのである。
 たったひとつ歯車がずれれば、ありとあらゆるその後が変化してしまう。
 大きな出来事は、小さな出来事と、それによって動かされた人々によって形作られているからだ。
 この小説の本旨とは若干ずれた感想ではあったが、しかしその認識自体は何らおかしいものではない。
 変えようと意識せずとも、変わってしまうものがある。
 変えるつもりがなかったことでさえ、知らずして変えてしまうことがある。
 が、のどかの感想はこれに尽きた。
「でも、ひとの出逢いって……すごいな」
 のどかが何の気なしに呟いた一言を聞いてか、ウーロン茶を口に含んだところだった超が、勢いよく吹き出した。
 はて、そういう話の流れだっただろうか。
 千雨ですら一瞬首をかしげたくらいだから、多世界解釈にでも想いを馳せていたであろう超にしてみれば、のどかの言葉は青天の霹靂であろう。
 激しく咳き込んでいる。
 夕映が慌てて背中をさすってやると、超は大きく息を吸って、ようやく落ち着きを取り戻した。
「……す、すまぬナ」
「あ、そーいや超は量子力学研究会ってとこにも所属してたか。ツッコミどころだらけの会話で悪ぃな」
「ハハ、実に興味深い話ばかりヨ。ハハハ……」
「超。さっきからどうした? 大丈夫か?」
「なんでもない。なんでもないヨ」
 千雨は以前触ったことのあるカードゲームにおける、ネビニラルの円盤というカードのことを思い出した。ネビニラルという言葉の元ネタは、そのニーヴンという作者のスペルをアナグラムしたものだったはずである。円盤そのものも、話題にしている小説に出て来るアイテム、ウォーロックの車の効果をひねったものであろう。
 本について尋ね、のどかによるあらすじの説明を聞き終えると、超は妙に疲れたように微笑んだ。
「なるほどナ……今度、読んでみるヨ」
 思わぬところでとんでもないものに出くわした。そんな感じの、投げやりなような、やる気に満ちたような、そんな笑い方であった。


 古も茶々丸も忙しそうに動いているが、各所のテーブルにはあっという間に空の皿が積み上がっていく。
 盛況だったことは言うまでもない。
 そもそも「超包子」とは、お料理研究会所属の超鈴音が麻帆良祭に向けて企画した肉まん販売を主目的とする飲食店、あるいは主催である超の名を冠する中華屋台の名前である。
 ちなみに四葉五月は協力者というよりメイン料理人という立ち位置となっている。
 超がオーナーで、五月が店主という立場と考えるのが分かりやすいだろうか。
 さて。
 超包子はあくまで中華屋台であり、その名は、あくまで屋台の名に過ぎなかった。
 学園祭準備期間中に現れたあの屋台を、常時設置して営業することについてはやはり許可は下りなかった。元より期待はしていなかったから、この点について超は簡単に引き下がった。
 しかしすでに広まった名称を利用しない手はないのである。屋台の名称ではなく、美味しい肉まんの販売ブランドとしての名称として用いられることに関係者一同に否やはない。
 超らは場所の許可を得るのではなく、学園敷地内での営利活動の許可を得ることにしたのだ。これには学内の他の生徒からの文句をかわす狙いもあった。麻帆良祭以外の時期に一定の場所を占有して店舗を経営することと、望まれて生徒間で肉まんを提供することでは、意味合いが大きく異なるからである。
 ちなみに規模が大きくなるにつれお料理研究会と相互連携する予定と耳にした。さもありなん。

 特にそのあとの用事もなかったため、千雨はパーティーの後片付けを手伝っていた。点心以外はほとんど中華料理であったが、そうでない料理も数種類混ざっていた。
 やがて後始末もほぼ終わった。残るはいくつかの椅子を仕舞うのと、屋台の中の掃除くらいなものである。千雨以外にも人の良いクラスメイトの幾人かが片付けに手を貸してくれていたのだが、暗くなり始めた頃合いに、皆すでに寮の部屋へと帰っている。
 残っていた数名にはお礼兼土産として肉まんを持たせたためか、大げさな歓声を挙げていたのが聞こえていた。
 エヴァの世話があるとのことで、早朝から働いていた茶々丸はすでに帰路についた。今この場にいるのは千雨を除いては古や五月たちといった、元々の超包子の関係者だけである。あとは椅子を屋台の内側に入れて、倉庫へと運ぶだけという手はずであった。
 すでに時刻は夕刻を過ぎて夜に入り込んでいる。夏休みということもあって、多少のお目こぼしがあるとはいえ、さすがに切り上げないとまずい時間帯に突入してしまった。
 夏らしく澄明な夜空にはいくつか星が瞬き、地上では生ぬるい風が吹き過ぎ、ゆっくりと耳を撫でて去ってゆく。
 最後に残った椅子に腰掛けて一休みしていると、隣で超がにこにこと笑っていた。
「今後とも我が超包子の肉まんをヨロシク!」
 勝ち誇った顔である。超の完璧超人との呼び名は揶揄ではなく、それ以外表現しようがないためである。当たり前のように運動勉強料理と各方面で才能を思う存分振るっている、そんな彼女が、ほくほくといった顔で満足げにしている。
「よくやるよ。で、見事学園内で売り歩く権利を勝ち取ったってか」
「イヤー。ここまで来るにはなかなか苦労したヨ。いくら五月の料理の腕が素晴らしくとも、評判が広まるまでに時間がかかるのは分かていたからネ。屋台の完成が麻帆良祭前に間に合ったおかげで、この時期にもかかわらずお客サンがこんなに増えた。他校の教師陣という販路も出来たことだし、あとはイベントごとに作る量を間違えなければ安定するハズ」
「法律的な部分はどうなってんだ?」
「上手くやるネ」
 にこにこ。こめかみに手をあてつつ、千雨は続けて尋ねた。
「ま、いいけどよ。四葉のやつまで巻き込んでるんだ。なら、少なくとも書類上は本当にちゃんとやってそうだしな。……ずいぶんと儲けてるらしいが……税金対策まで教えてんのか?」
 ニヤリと笑ったのが答えらしかった。
「五月の努力は本物だからネ。美味しい料理を誰かに食べさせてあげたくても、それを続けるためには利益を出し続けなければならないという現実をしっかりと理解している。料理の腕はすでにプロ並みだとしても……本気で店を持ちたいならやっぱり帳簿くらい読めないと辛い。何かを始めるのはさほど難しくはないが、何かを守り続けることは……決して容易いことではナイ」
「四葉の夢の応援ってとこか。ま、それだけじゃなさそうだが」
「コレは私のやりたいことでもある。手伝てるとも言えるし、手伝てもらてるとも言えるナ」
「ふうん。良かったな、超」
「どういう意味ネ?」
「それが友達ってことだろ」
 一瞬、超が不思議な顔をした。まるで予期せぬことを聞かされたかのように、ぽっかりとした空白の表情だった。それから刹那の間を空けて、納得したかのように顔をほころばせた。
「ウム。茶々丸からも聞いてはいたが……千雨サンは……イヤ、やっぱりなんでもないヨ」
「そこで止めんなよ。気になるだろ」
「アハハ。せいぜい気になて悶々とするがいいヨ! それはそれとして、わざわざ片付けまで手伝てくれてありがとう。それで今日はどうだたカ?」
 どうやら素直に語るつもりはないらしい。表情も雰囲気も和やかで、特に悪い意味でも無さそうだったため、超の言いかけたことは放っておくことにした。
「美味かったぜ。これをタダで食わせてもらっていいのか、って恐縮するくらいには」
「それはそれは。お褒めにあずかり光栄ネ。ン……、もう少し手を広げてもいいかも知れぬナ」
「学外にか?」
「ゆくゆくはそれも視野に入てるヨ。肉まん片手に目指すは世界! なんてのも良いナ!」
「夢は肉まんで世界征服ってか。まあ、いいんじゃないか? 夢は大きいに越したことはないからな」
 超から首をかしげられた。その表情には釈然としないと分かりやすく書いてあった。
 視線で問い質すと、超は照れたように鼻のあたまをかいた。
「千雨サンのことだから鼻で笑われるかと思たヨ。千雨サンはリアリストだたと思ていたが?」
「私は別にリアリストってわけじゃねーよ。身の程を知ってるだけだ」
 超は驚いた顔を見せた。次に浮かべたのは笑顔だが、目は笑っていなかった。
「実のところ、千雨サンには私のやりたいことを手伝てもらえないかと思てたヨ」
「ふうん」
 気のない返事に表情を変えず、超は続ける。
「先日、アレのことを知ったと聞いたネ」
「アレねえ。どれのことだか分からんが、それを知ったからどうなるってもんでもないだろ」
「そうかナ?」
 状況的に、麻帆良の事情以外にはありえまい。狭いところでは魔法そのもの。広いところではその麻帆良の仕組みと関係者についてか。超が何らかの理由でそれについて関わっていることは分かっていた。最初の邂逅でもそうだし、エヴァの従者を茶々丸がやっているという点からも無関係であるほうがおかしい。
「だいたい私に手伝ってほしいことってなんだよ。ここで何かヤバイことでもしでかすつもりか?」
 超は即答しなかった。焦らすように、ゆっくりと口を開いた。
「そうだ、と言えばどうなる?」
「目的がヤバイって自覚してんなら止めとけ。成功しても後悔するぞ。手段の方がヤバイって分かってるんならさっさと直せ。変えろ。両方ヤバイってんならやる意味がない。それくらい分かってんだろ? ……頭が良いくせに、微妙にバカだよな超って」
 千雨は真顔で答えた。
 一瞬以上の間が空いた。その隙間に何が入り込んだのか、超は涙目になって大きく笑い出した。
「……アハハハ! 千雨サン、ちさめサンッ、それはあまりにピンポイント過ぎる助言ヨ! 内容を何にも知らないままに、一番大事な部分を抉るように打たないで欲しいナ!」
「笑うなよ」
「そうだナ。真面目に返答してくれた相手にコレは失礼だたカ」
 呼吸を落ち着ける仕草、そして千雨の目を見返して、超はそっと唇を舐めた。
「親身になっての助言には感謝するネ。それでも私は引き返すわけにはいかない」
「私の話聞いてたか?」
 千雨は努めて静かな声を意識した。
 天才のくせに案外頭が固いようである。あるいは知識に拠っている分だけ、その正しさに引きずられやすいのかもしれない。ものの良し悪しと問題に対する答えの正否とは常に等号で結ばるわけではない。誰かにとっての正義が、ときに誰かにとっての悪であるように。
 だが、イコールにならないわけではない。
 必要であれば手を取り合うことはできる。お互いが歩み寄り妥協点を探すことはできる。完全な正しさが存在し得ないように。完全な正しさが存在しないからこそ。
 正しさゆえに争うことを知り、自らを悪と定めたものほど、そんな単純なことを見落としがちだ。
「引き返せなんて言ってない。目的のためには手段を選べ。手段に拘泥して目的を見失うな。そう言ったんだ。なあ超。お前さ、なにをそんなに生き急いでるんだ?」
「……ン」
「私もお前も、たかが中学生だぜ。自分で何でも出来るだなんて思い上がりも甚だしいな。そりゃ能力はあるだろうさ。まだ一年生だってのに麻帆良の最強頭脳とか呼ばれて、大学の工学部であれこれやってるのも、東洋医学研究会とかで会長にいきなり就任したのも知ってる。私よりずっと頭も良いんだろ。知識一つとっても中学生離れしてるのは見りゃ分かるよ。なんか知らねーけど、重ッ苦しい過去も背負ってそうなのもな。だがな、どれほど凄くても、私と同じで……所詮はガキなんだよ」
 超は薄く笑った。そんなことはすべて分かっていると、そう言いたげな笑い方だった。
「私の理由は、きっと千雨サンには理解出来ないヨ。そして私にはやらねばならぬことがある。……それだけネ」
 自虐と自負との中間にあるような小さな笑みだった。千雨には分かった。
 超鈴音は、もはや悲しいくらいに覚悟を決めてしまった人間なのだと。
 視線が絡み合った。超の瞳の奥には光があった。意志の強さを窺わせる、強いけれど、どこか寂しい輝きだった。
「ついでだ。ひとつ聞かせろ」
「何かナ?」
「お前さ、いま楽しいか?」
 こんな質問が投げかけられるだなんて夢にも思わなかった。そう言いたげな呆けた表情で、超はしばし目を瞬かせた。
 それからすぐ答えようとして、超はぴたりと動きを止めた。そのまま口ごもった。千雨からされた質問の意味が、これまで分かっていたはずなのに、全く難しいことではないはずなのに、急に形を失ってしまったかのようだった。
 あるいは何を答えにすればいいのかと困惑しているふうでもあった。
 正直に答えようとしているのだろうが、それが出来ないといった素振りだった。辛うじて出来たのは、
「どうしてそんなことを?」
 と質問で返すことだけだったらしい。
「そのままの意味だ。別に深い意味なんかねぇよ。つーか即答しろよそのくらい」
「分かていたつもりだたが……千雨サンは案外厳しいナ」
 結局、単純な答えひとつ返せなかった超に対して、千雨は呆れた視線を送るに留めた。


 片付けは終わり、いざ帰る段になって満面の笑みを浮かべた古が超の進路に立ち塞がった。
「さあ、超! 闘るアル!」
「……で、なんで私はコレに付き合わされてるんだ?」
「そこまで知らないヨ。観客ナシというのも寂しいから、良いんじゃないかナ?」
 視線を横に向けると四葉五月がにこにこと見守っている。店の営業中じゃなければ止める気は皆無らしかった。二人の手合わせ自体は特別珍しいことでもない。
 小声で明日に響かないようにしてくださいね、と告げている。
 そんな五月の忠告が聞こえているのかいないのか、超も古もいつの間にか臨戦態勢を取っている。場所とタイミングのおかげだろう。普段であれば古が戦い始めるとどこからともなく中武研やその他の格闘技サークルの連中がわらわら集まってくるのだが、今日はそれがない。
 他にはひとのいない広場である。
 二人は中国拳法らしい独特の構えをとって、いざぶつかり合わんと対峙する。
「ワタシ、今日の支度で忙しいからとここ数日我慢してたアルよ! 明日まで待てないアル! きっとこのまま帰ったら眠れずに一晩中悶々としてしまうに違いないアル!」
「どんだけだよ!」
「そこまで私とやりたがっていたとはナ。分かたヨ。古の想いは全力で受け止めるネ。……止めてくれるな千雨サン!」
「止めねえよ!」
「ム? 千雨も混ざるアルか? ひと思いにヤっちゃうアルか? 本気でやると気持ちいいアルよ?」
「やらん!」
「これから始まるのは肉体同士のぶつかり合いネ。慣れてない千雨サンには……ちょっと刺激が強すぎるヨ」
「なあ、お前ら……わざとか?」
「なにがアル?」
「何のことかナ?」
 本気で不思議そうな古と、ニヤリと笑った超。とりあえず片方を睨むと、おお怖いと肩をすくめられた。
 ともあれ、寸劇風になってきたやり取りに律儀に突っ込む千雨だった。


「で、あいつら止めなくていいのか?」
 五月が店内での喧嘩を嫌っていることは千雨でも知っている。そんな五月に尋ねると、こんな答えが返ってきた。
 喧嘩は好きではありませんが、ときにはぶつかり合うことも必要です、と。
「ふうん」
 千雨の見たところ、両者の腕は互角、ではなさそうであった。
 優位を数字で表すならば、おおよそ超が四、古が六くらいであろう。技術的には同レベルなのだろうが、地力の部分で古の方が若干強いように見受けられた。
 四対六という見立ては長期戦を見込んだ場合であり、短期決戦に絞れば五対五に限りなく近くなる実力差である。
 一瞬の機会を捉えられるかどうか。そこに尽きた。
 平時の稽古であれば周囲の観客の様子にも気を配る超であったが、珍しくこちらに背中を向けている。
 古の要望に応えてか、今日は全力でやり合う気でいるらしかった。目の前の相手である古に集中しきっている証拠であろう。一方の古も普段であれば多少のパフォーマンスくらいはしてくれるのだが、こちらも眼前の超にのみ意識を向けている。
 周囲は薄暗さを増している。街灯の光が、高い位置から見下ろすように、二人の影を縦に長く伸ばしている。
 照明は、ちょうど良い光量だった。まるで舞台の上のスポットライトのごとく、対峙する両者を照らしてくれている。
 先手を取ったのは古であった。
 始まったのは、軽い攻撃の応酬から繋がる、自分に優位な間合いの奪い合いである。
 わずかに回り込むようにして、じわりじわりと距離を詰めてゆく。
 よく古が対戦相手を吹き飛ばしていることから、派手な技を連発しているように思いがちだが、動き自体は意外と地味である。シンプルと言っても良い。つまり無駄が少ないということでもある。
 無駄が少ないことは、すなわち隙が少ないということに通じる。無手での対戦である以上、そこに極端な攻撃力の差は無い。言い換えれば、防御の上から一刀両断されるような心配は一切無いのである。
 一方の超はといえば、こちらも動きに滑らかさがあった。牽制気味に打たれた古の拳を、いとも容易く躱すのである。
 手数の多さで翻弄しつつ、隙を窺いながら狙うのは蹴りであろう。距離の掴み方が手慣れている。無論、古の人間離れした打撃の威力は危惧すべき一撃であるが、それほどの一発をみすみす食らうほど超は下手ではないと見た。
 いくら古の拳の威が凄まじいといっても、岩をも砕くほど強烈ではないのである。
 あるいは気の使い方を学べば、やがて鉄さえも撃ち抜く威力へと長ずるのだろうが、古という格闘家がそこまで辿り着くにはまだ遠い道のりが必要だろう。
 ゆえに、今はただ気を無意識に使っているに過ぎず、そうして加算された身体能力の恩恵を受けているに過ぎない。名刀を持ちながら刃ではなく腹で打ち据えるがごとき仕業だ。知らぬがゆえに無駄が多すぎる。なんとも非効率極まりないのである。
 とはいえ、気によって増量された一撃は、現状ですら一般人には十分以上に脅威なのだが。
 超はそれを理解しているのだろうか。きちんと見て、打点を適切に守りさえすれば、一発ならば耐えられる。その事実を知悉している者の動き方ではあった。
「ここアル!」
「甘い!」
 防がれた瞬間に古は離れ、超が反撃を仕掛けようとする。しかし浅い。掠った一撃を気にせず、古は懐に潜り込もうとする。肘によって進路を妨害した超は、地を蹴って距離を離し、着地した瞬間に再び蹴りによる牽制を仕掛けた。
 攻めきれないと悟ったか、後ろにいったん下がった古が、ゆっくりと息を整えた。
 仕切り直しである。
 互いの修練と工夫を褒め合いながら、わずかな隙を睨んでの一進一退を繰り返している。当たり前のように受け入れてしまったが、よくよく考えてみればこの仕合も常識外れの戦いである。
 拳の当たる音、それを瞬時に防ぐ音。
 傍目にはリズミカルに見える動きと、シャープな所作のひとつひとつが作り出す、まるで演舞のような流れる攻防。しかし肉を叩くたび発せられる重く鈍い音は、決して寸止めで終わらせていないことを知らしめるに十分だった。
 千雨の目の前で、最近よくテレビでやっている格闘番組より余程迫力のある対決が繰り広げられているのだ。
 そして、やはり二人は強い。おそらく今ですら、チンピラ程度が何十人群がってきても意に介さず倒せてしまうくらいには。
 常識的に考えれば、どんな達人であれ、相手が格下であっても数十人に同時に襲いかかられたら苦戦する。運悪く引き倒されることもあるだろう。しかし二人にとっては敵ではない。格下に敗北するという、そのイメージがまるで湧かないのである。
 古には天性のカンがある。何人いようと正面から打倒しきってしまうだろう。超には理知がある。愚直に目の前の敵を倒さず、必要なタイミングでのみ力を振るって窮地を切り抜けるだろう。
 二人には華がある。一人で立ち塞がるような敵、行くべき道を阻むライバルには、ときには打ち倒されることがあるだろう。
 しかし、敵にすらなれぬ有象無象に二人が負ける印象は、欠片も感じられないのである。
 未成熟の身体と未完成な技量とを思えば、道を大きく誤らない限り、これからもどんどん強くなってゆくのは明らかであった。


 こうした素手での殴り合いを間近で見ていると、どうしてもマッシュのことを思い出してしまう。
 仲間のひとりにして、エドガーの弟であるマッシュは、まさしく拳ひとつで岩をも砕く格闘家であった。
 筋骨隆々として、たまに野営していると無精ヒゲで野人のごとき容貌を見せることもあったが、なんというか、往々にしてよく出来た兄貴分でもあった。
 ガウの面倒を見ているところとか、綺麗な女性を見てもエドガーみたいにすぐ言い寄ったりしないところを見ても、まあ仲間内ではまっとうに頼りになる人物だったのである。
 聞くところによれば、あれで昔は身体が弱かったという話だが、千雨には信じられなかった。幼い頃には儚げな面影があったなどとエドガーが口にするのを笑い飛ばしたあと、本人からまごう事なき事実だと言われたときにはどうしようかと思った。
 決してバトルマニアではなかったと思うのだが、かなりの修行好きではあった。
 なりきりのために何度か稽古を付けてもらったときは厳しかった。優しかったぶんだけ甘くなかったのだ。呼び起こされた記憶では、いつもだいたい笑顔で、そうでなくとも豪快な性格という印象が先に立つのだが、実際には繊細なところも多々あったのだろう。
 一度、何かの機会に手ずから入れてもらった紅茶は美味しかった。よくよく考えれば国王のエドガーの弟なのだから、マッシュもまた王族なのである。
 ちゃんとした店で食事するときのマナーも弁えていたし、当然と言えば当然だったと千雨は今になって気がついた。
 過去に思いを馳せながら、二人の仕合を眺めているうちに、五月にじっと見られていることに気がついた。
「なんだ」
 あまりいじめないであげてください。聞こえたのは、五月のささやくような声だった。
 五月はすっと超を見た。声が聞こえる距離にはいなかったはずだが、先ほどのやり取りを遠目で見られていたらしい。千雨は据わりの悪さを感じつつも、ほほをかいて頷いた。
「そんなつもりじゃなかったんだがな……そう見えたか?」
 いいえ、と首を振られた。
「じゃあ、なんでだ」
 五月の視線を追うと、古を打ち倒さんとして、本気の様子で挑みかかっている超の背中があった。
 視線を千雨に戻した五月は、微笑みを返事として寄越した。言葉で答えるつもりはないらしかった。
 再度問いかけても、五月はまるで揺らがなかった。
 千雨は嘆息した。どいつもこいつも、自分がまだ中学生だってことを忘れてやがる、と。


 長期戦の様相を見せ始めたかと思われた仕合の行方だったが、決着はいささか唐突だった。
 超が懐に飛び込んだ瞬間、合わせて撃ち放たれたカウンター気味の古の一発。それが腹部に入ったのである。衝撃によってくの字に折れ曲がって吹き飛ばされた超は、しかし実際のダメージは薄く、未だ宙にありながら即座に体勢を整えようとした。
 それは、落下する猫の着地に似て、しなやかな動きと綺麗な姿勢であった。
 だが、この場面にあってはあまりに悠長に過ぎた。
 勝負の帰結を決めたのは、この瞬間だった。
 どんな速度でか、瞬時に数メートルの距離を詰めた古は、一拍の間さえ置かずさらに追撃を仕掛けたのである。体勢を整える刹那、超は古の動きからわずかに目を離した。先ほど攻撃ですら辛うじて防御は出来ていた。ゆえに、ことここに至るまで純粋な一撃をもらうことのなかった超であったが、迫り来る裂帛の一撃に、とうとう対応が追いつかなかった。
 千雨はじっと目を凝らしていた。
 不意に、古と目が合った気がした。一瞬、不思議そうに目を丸くした古だった。
 意識を逸らしたわけではなく、古はすぐさま超を見据える。
 その直後だった。おそろしく硬質な音がした。人体から出たとは思えぬ、巨大な骨同士がぶつかったかのごとき凄まじい音であった。
 伸ばした腕の先、古の拳の当たった場所は、超の掌の中だった。
 打った者と打たれた者。
 その差が如実に表れていた。超は一呼吸だけ置いて、
「私の負けネ。さすが、古は強いナ」
 とだけ告げた。衝撃の強さに腕は一時的に感覚を失っているようで、ぶらぶらと遊ばせている。超にとって、古は片手のみで闘える相手ではなかった。同じ条件なら勝ち目はあれど、すでに開いた差を埋めるには都合の良い偶然を頼るしかない。
 すでに勝敗は付いているのだ。これ以上の仕合を長引かせてまでの、運否天賦の決着は避けたかったのだろう。幕引きは自分の手で。それが超なりのルールだと思われた。
 一方の古はといえば、ここで終わってしまったことを惜しそうにしていた。だが、双方の力量は分かっている。ひとたび負けを認めた相手を同じ舞台に引きずり出すことの醜さは理解していると見え、超からの賛辞を素直に受け取ることにしたようだった。
「ウム、今回はワタシが勝ったアルな。しかし次は分からないアル。……超は強いアルな」
 嬉しそうに、古は笑った。
 獰猛な笑いだった。強者との闘いに満足した者の笑みだった。それはまさに勝者の笑みだった。
 超もまた、笑っていた。
 負けたことの悔しさを滲ませながら、しかし満足そうに笑っていたのである。


 帰り道は五月と古と千雨の三人であった。超はといえば、帰路の途中までは同行するという。
「私はこれから工学部に顔を出す予定ネ。今ハカセが忙しくて手を離せない、というか身動きが取れぬらしくてナ。本当なら今日はハカセも顔を出す予定だったが……せめて肉まんを差し入れに持ていくことにするヨ」
 超の手にあるのは数個の肉まん入りの紙袋だ。作りたてではないが、冷めても美味いと評判である。
「古。次は負けないネ!」
「いつでも受けて立つアル!」
 千雨の目の前では、拳をこつんと打ち合わせて、友情を確かめている青春の図が繰り広げられていた。どちらも整った顔立ちのため、二人が次戦の約束をする情景は、傍目には思いの外絵になる光景であった。
 もしこの場に朝倉がいたら、あの拳が触れあった瞬間をピシリと写真に捉えていたであろうことは間違いない。
 デジカメ専門ではあるが、朝倉に負けず劣らず、千雨も最近カメラによく触れているのである。
「千雨サン。こんな時間まで付き合てもらて悪かたナ」
「暇だったからな」
「ンー。そういうことにしておくネ!」
 超が浮かべたのは、ちゃんと分かってるヨー、みたいな笑みであった。それに対する千雨の反応は鈍かった。明確なシャッターチャンスを逃したことで、千雨はわずかばかり残念がっていたのである。
 超が怪訝そうに首をかしげて、しばらく腕を組んで悩んでいたが、突然、何か思いついたように顔を上げた。
「……おお! ではお礼にチャイナドレスを渡せばいいかナ? 深いスリットがオススメの」
「待て。どういう思考を辿ったらそうなる」
「千雨サンがもたいなさそうに私と古を見た。中国ぽい美少女二人。この場に足りないもの。ヘウレーカ! ヘウレーカ!」
「その台詞使うならそこらへん裸で走ってこい!」
 古代ギリシア的にはヘウレーカだが、日本人的にはエウレカのが分かりやすいか。
 エウレカ。これは、分かったぞ、みたいな意味である。千雨は、アルキメデスの逸話としてその単語を知っていた。
「風呂の中でもないのに私の裸が見たいとは……千雨サン、やはりそちらの趣味があたカ!?」
「ネタが分かっててそっちにずらすな! あと、本気にするヤツがいるから止めろ!」
「し、信じてはいなかったアルよ!?」
「ほれ見ろ、古が半分信じてたじゃねーか!」
 千雨が大きくため息を吐いた。五月はこのやり取りを止めるでもなく、隣でにこにこと見守っている。
「話を戻すぞ! さっきのは、カメラがあれば写真に撮れたのにな、って思っただけだ」
「ふむ。写真ネ……」
「絵に描いたような場面だったからな。手元にちゃんとしたカメラがあったら撮ってたんだが」
「フフフ。こんなこともあろうかと!」
「その台詞が言いたかっただけだろ。あと携帯電話のカメラなら私も持ってるぜ」
「うう、ネタつぶしが速すぎるヨ。せめて茶々丸がいればなんとかなたが、そうそう上手くはいかないナ」
「楽しそうアルね。今まで知らなかったアル。超とちさめはけっこう仲がよいアルなー」
「古。実は私、千雨サンにいつもこうして弄ばれてるヨ。千雨サンは好ましいひとだと思てるが、まさかこんなことになるとは。ヨヨヨ……」
「ま、まさか! 超にもそっちの趣味があったアルか!?」
「そんな話じゃねえよ! ……って、なんで戻したはずの話がもう一回繰り返されてるんだよ!? あと、『超にも』ってなんだ!? 私にはそっちの趣味はねー!」
「フッ。甘いナ千雨サン。主語が切り替わてるから、ちゃんと話は変わてるヨ!」
 女三人寄ればかしましいとはよく言ったもので、なんだかんだで盛り上がるものだった。
 千雨と超のやり取りに何か悪戯を思いついたのか、古がにやりと笑った。
 まず間違いなく超の悪影響であろう。
 わざわざ言うタイミングまで計っているところを見て、千雨も超も、面白い言葉が出てくるのを待ち構えていた。
「超! 私を嫁にしたければ、まず私より強くなるアル! そしたら少し考えてやってもいいアルよ!」
「……ほれ、どうすんだコレ」
「まさか古にその手の理解があたとはナ……」
「へ? イヤ、冗談アルよ? さっきまで二人ともお笑い芸人みたいだたのに、いきなりなぜ真顔になるアルか!?」
「大丈夫ヨ。いくら周囲の男が弱くとも、いつか必ず古より強い男に巡り会えるヨ! だからノーマルに戻るネ!」
 やいのやいの言っているうちに、無言でいた五月が割り込んだ。
「そこまでです」
 小さいのに、よく通る、いやにはっきりとした声であった。
 口調はやわらかいのだが、後ろに陽炎のごとく揺らめくプレッシャーがとんでもなかった。
「はい、すみません」
「すまぬアル」
「私も悪かたネ」
 こうして不毛な争いは一瞬で終結した。
 なお、こんこんと諭されるように、三人まとめて叱られたことを付け加えておく。


「私はこっちネ。おそらく徹夜になるから、五月、部屋の戸締まりは頼むヨ!」
 はい、任せてください。五月が小さく頷いた。
 こうして途中の分かれ道で超が去った。
 あとは三人で寮に戻るだけである。クラスメイトであるため千雨とて親交が無いわけではないが、四葉とも古とも超を経由して付き合いに過ぎない。自分から積極的に話を振るにも何を話題にすべきなのかがいまいち判然としない。
 街灯の明るさゆえに夜道という感じもしなかったが、それでも薄暗いのは確かである。四葉が転ばないように気をつけながら、三人は喋るでもなく、ぼんやりと歩を進めていた。
 と、少し前に突出していた古が突然立ち止まり、凄い勢いで振り返った。
「すっかり聞くのを忘れてたアル! 千雨、さっきどうして目が合ったアルか!?」
「……は?」
 発言の意図も、内容も、まったく意味が分からなかった。千雨は眉をひそめた。
 横にいる五月も小首をかしげて、古のいきなりの発言に目を瞬かせている。
「中国武術、私と一緒にやってみないアルか!?」
「待て待て待て。話が飛びすぎてわけ分からん。まず目が合ったって何の話だ」
「さっきの仕合の最後、あのとき超は私を一瞬見失ってたアルよ」
 言われて千雨は思い出した。先ほどの決着のとき、そういえば古と目が合った気がしたことを。一瞬の出来事だったからまったく気にしなかったのだが、古としてはそうではなかったらしい。
 超が着地しようとして、そこに古が即座に間合いを詰めた瞬間のことである。
 そこまで常識外れの戦闘をしていたわけではないため、特に気にせず観戦していたのが目を付けられた理由らしかった。動体視力がそれなりにあれば辛うじて見えなくもない、そのくらいの速度で入れ替わる攻防であった。
「でも千雨はちゃんと私の動きを追いかけてた。違うアルか?」
「あー。まあ、そう言われればそうだな」
「故郷でもそうだたアルが……見ることが巧い者は、たいてい上達も早いアルよ。たしか千雨は帰宅部だたアルな? 武術もスポーツもやっていないにも関わらずあの動きが追える目を持ってるなら、けっこう才能が有ると思うアル」
「なるほど。悪いが遠慮しとく」
「そうアルか? ……ムゥ。もったいないアルなー」
 古は見ての通りのバトルマニアである。強いヤツに会いに行く、というどこかのストリートファイターのキャッチフレーズがぴったりな天才格闘少女である。スポーツの世界では、頂上の記録を押し上げるには、まず競技人口を増やすのが先決だという。
 知ってか知らずか、武術を始めとした格闘人口を増やすことに古は余念がないらしかった。
 とはいえ、しつこく勧誘するつもりはないらしい。千雨は少し想像してみた。確かに日頃から動きの鈍そうなインドア派のド素人が、いきなり自分の動きを見切っていると思ったら、才能が埋もれていると誤解するのも仕方ないのかもしれない。
「動体視力だけならシューティングゲームやってりゃ鍛えられるしなあ。腕の良いシューターなら見える速度な気もするが」
 判断力や記憶力勝負になる場合もあるが、大まかには動体視力が必要になる分野である。半分ほど誤魔化しのつもりもあったが、シューティングゲームを遊んでいること自体は嘘ではないため、とりあえずそれらしい理由を挙げておくことにした。
「シューター、アルか?」
 言葉の意味がさっぱり掴めないと言いたげである。古が見せたのはアホっぽい表情だが、可愛らしく見えなくもない。
「シューティングゲームのプレイヤー。略してシューターだな。やったこと無いのか?」
「ないアルよ!」
 元気いっぱいの発言に一瞬ツッコミかけたが、別にわざと言っているようではないのでスルーした。
「ゲーセンは……この時間だとマズイか。何本かは部屋にあるし……あとで触ってみるか?」
「良いアルか?」
「ま、大したことじゃねぇし、気にすんな」
「はっ!? まさか、千雨が優しくしてくれるのは、私の身体が目当てアルか!?」
「アホか」
「そういえば最近、風呂場でよく会うアルね? ま、まさかッ!?」
「ははははは。いいかげんにしないと本気で胸をもみ倒すぞテメー」
 ちなみに大浴場はクラスごとにだいたいの時間帯が決められている。
 このため、古に限らず入ろうとするとたいていクラスメイトの誰かとかち合うのである。あまり自由な時間に入れないのは寮が大人数であることの弊害だが、逆に言えば、寮が大きいからこそあれだけの広さの浴場が作られているのだ。ちなみに浴室自体は部屋にもある。
「ち、千雨が怖いアルッ!? 表情が変わってないのに、目が、目がすごく怖いアル!?」
「くーさん」
 五月がにこやかに名前を呼んだ。はっきりとした声だった。立ち上る何かが見えていた。
 声に出ていないが、いいかげんにしなさい、という文字がまるでオーラのごとく浮かび上がって見えた気がした。
「ひいいっ、五月はもっと怖かったアルーッ!?」


「四葉。今日のもすげー美味かったよ。また機会があったら頼む」
 こちらこそ。長谷川さんはとても美味しそうに食べてくれるので作りがいがあります。
「あー……そんなに顔に出てたか?」
 こくり。四葉から迷い無く頷かれた。千雨としては、普通にしているつもりだったのだが。
 自覚はあまりなかったが、意外と顔に出るタイプだったらしいと知って、千雨はとりあえず笑っておいた。
 挨拶を交わして、四葉は自分の部屋に帰っていった。


 そのあと部屋で古と一緒に遊んだ。
 取り出したるはサターン版怒首領蜂である。超有名STGである。絶対に初心者向けではないが、ともあれ金字塔である。
 この手のゲームを遊ぶのは初めての体験らしく、ゲームパッドの握り方から教える羽目になった。武術まみれ、修行漬けの人生を送ってきたことは想像に難くない古ではあるが、この地で当たり前に生活をする女子中学生でもあるのだ。
「ほー、なんだか派手アルなー」
 画面にばらまかれた弾幕を眺めての感想であった。操作方法を教えると、始めは指先だけで動かすということに物珍しさを覚えていたようであったが、さすがに動体視力に反射神経、ついでにそれを活かすだけの運動神経がある。
「おおっ、むずいアルっ!? ギリギリ、ギリギリ過ぎるアルっ!?」
「お、当たり判定は覚えたか」
「これはつまり、急所に貰わなければ問題ないアルか?」
「そーゆーこった」
 不慣れなうちは凡ミスを繰り返したのだが、一度コツを覚えたら、あっという間に上達していった。
 最初のうちなら、画面上を埋め尽くす弾にも隙間が結構あるのだ。
「よっ、ほっ、ふっ。……おお、すり抜けたアル!」
「避けるのがメインのゲームだからなあ。敵がやたらと弾をバラまくけど、見た目よりは結構なんとかなるもんだろ」
 もっと正確には敵を連続で倒し続けてスコアを稼ぐゲームなのだが、この際楽しめるならどちらでも良いことだった。
 古はひどく納得したよう顔をした。
「ビビらせた方が勝ちアルな」
「微妙に違うよーな。……いや、この場合は合ってるのか?」
 身体ごと動いているのが難点と言えば難点だが、しかしパターンを覚えているというよりほぼ気合避けである。
 点を稼ぐ云々はさておき、あれよあれよという間に一面クリアであった。
 完全に慣れきったのか、二面もさっくりクリアした。
 だが、さすがに経験が足らず、反射神経だけで避けるには段々と辛くなっていき、六面で力尽きた。それでも数回のプレイで六面まで辿り着く時点でかなり異常なのだが、古は悔しそうであった。
 その一方で、たった数回でそこまで行けてしまう古はやはりとんでもないと、千雨の表情は若干引きつっていた。
「うー。負けたアル」
「さすがにいきなりは無理だろ。何度も練習して、慣れればなんとかなるが」
「とゆーことは千雨はこの先まで行けるアルか!?」
「そりゃ何十回も遊んでりゃ上手くもなるぜ」
「すごいアルな!」
 素直に褒められるとちょっと面映ゆい。古の目がキラキラと輝いているようだった。
 嫌な予感がした。
「千雨!」
「待て」
「私、千雨がこのゲームをクリアするところが見たいアルよ!」
 問題は、古の要求が非常にストレート且つ、何ら邪心の無いところにあるのだった。
 いつぞやの宮崎のどかの視線によく似ている。非常に断りにくい、それはそれは眩しい視線であった。


 死闘。それはまさしく死闘であった。
 何度も通った道である。うっかりミスさえなければ、さすがに一週目でどうにかなるほど初心者ではない。
 古が期待の眼差しで見つめるなか、一週目を危なげなくクリアした千雨は、満を持して恐るべき二週目に突入した。
 一般的に、怒首領蜂というシューティングゲームは二週目からが本番であると言われる。
 正確な表現をすれば、二週目に現れる真ボスこそが真骨頂であると。
 ノーコンテニューで一週目をクリアして、とある条件を満たすと二週目に入ることが出来る。条件そのものも結構な困難なのだが、二週目では道中での難易度が跳ね上がるし、どこまで行っても弾幕の嵐が続く。まるで満たされることのない餓狼のごとく、パッドを操作する手を小刻みに、必死に動かし続けてゆく。緊張感。張り詰めた感覚、気の休まらない一瞬の連続、あるいは何時間にも及ぶかのような引き延ばされた時間ののち、二週目の終わり際にて、緊張感漂うイヤな感じの音楽と、有名すぎるメッセージとともに、ついにソレは現れる。

 ――死ぬがよい。

 そして出てくるのは、最終鬼畜兵器・蜂である。
 まず名前からしてとんでもない。最終鬼畜兵器である。どんだけ、と思わなくもないが、決して名前負けしていない。凄まじい量の弾幕を撃ち放ってくるのである。機関銃から発射される無数の弾の隙間を、刹那にくぐり抜けるような気分で、辛うじて躱しきる。とはいえボスなので躱しているだけでは勝てないのだ。
 見た目も蜂である。巨大な蜂だ。画面の八割方に映り込んでいる、ラスボスの風格漂う凶悪なボスである。
 たかがゲームと侮るなかれ。今、ここまで辿り着くには相応の時間という対価を払っているのだ。当たり前だが、負けてしまえばどんな形であっても敗北でしかない。費やした道中は戻らない。
 そして古の期待で爛々と輝く瞳。
 勝つことを全く疑っていない、キラキラと煌めく古の表情が、千雨を後ろから的確に追い詰めてくる。
(やりづれーっ!!!)
 弾の隙間をすり抜けて気合と根性と反射神経とをフルに使い切ってなお足りぬ。ガンガン攻勢に出たいところではあるが、そんな余裕があるはずもない。極太のレーザーを出しっぱなしでひたすら避ける。避ける。避け続ける。ミキサーのごとく吐き出される弾幕を避ける。螺旋状に吹き出してくる弾幕をすり抜ける。避ける。避ける。必死に避ける。諦めることなくひたすら意地で避け続けること幾星霜。
 普段と違う環境が功を奏したのか、正直ここまでたどり着けたのは初めてだったりする。
 そしてついに千雨はやり遂げた。
 倒したのだ。
「おおおおっ! すごいアル!」
 ストーリーの流れからあの巨大な蜂がラスボスであると思ったのだろう。古が歓声を挙げた。
「とうとうやったアルか!?」
 フラグたてんな。
 倒した! そう思った瞬間が、最後の猶予であった。千雨は前情報からそれを知っていた。
 あの巨大でおぞましい蜂が倒れる、爆風のさなか。
 あれが現れるのだ。
 ようやく倒しきったと思ったあとに出現するのは、これぞ本物の最終鬼畜兵器と名高い真ボスである。
 バラモスを倒した直後に闇の衣付きゾーマと連戦するみたいなもんである。その名を火蜂。ラスボスっぽい巨大な蜂に比べると小さくて、一見するとそんなに凄くなさそうに見える。
 見えるだけだ。
 限界まで弾幕を吐き出し続けて暴れ回るその姿はまさに真ボスの名にふさわしい。パターン化出来ないし、ふぐ刺しみたいな形状のうねうねする弾幕が非常に避けづらい。しかも画面ほぼ全てを埋め尽くすような弾幕がひっきりなしに飛んでくるのだ。全く力を抜けないために神経使う作業で、しかもここまで来るだけで大変なため、闘っている最中に腕がつりそうになるのである。
 もはやここまで来たら勝つしかない。
 目がちかちかする、うんざりする量の弾幕が華美に非道に撩乱するなか、千雨は決死の覚悟で臨んだ。


「……千雨は頑張ったアル」
 背後で、古が、非常に気を遣った声のトーンで慰めの言葉を探し回っている。
 無理だった。
 いいかげんにしろ、と言いたくなる難易度である。そもそも直前の蜂を倒したのも今回が初めてだ。もう一回あれを抜けろと言われてもお手上げである。
 火蜂とか無理ゲー過ぎる。初見であんなもんをクリアしろとか、どう考えても無茶に決まっていた。いや、初見じゃなくても不可能な気がしているのだが。
「あんなん勝てるかーッ!!」
 叫んでおいた。出来るかもと思ったのが運の尽きだったと言えよう。
「惜しかったアルねー」
「そうでござるな」
「……まあ、そういうわけでガンバレ。私はちょっと疲れた。あとは気が済むまで遊んでろ」
「りょーかいアル! まずはさっきのでかいハチまで辿り着くアル!」
「とりあえず二週目行くには……スコア稼ぎよりノーミスのが分かりやすいか。よし、ミスすんな」
「さりげなく無茶ぶりアルよ!?」
 首をかしげて千雨が振り返った。
 古と律儀に並んで座って、楓が背後で笑っていた。
「……待て。長瀬、どうしてここにいる」
「む? 先ほど部屋を訪ねて戸を叩いたら、勝手に入れと言われたでござるが」
「千雨が自分で言ってたアルよ」
 まったく記憶になかった。
「さっきっていつだ」
「あのちっこいハチを死にものぐるいの表情で追い詰めてる最中アルな」
「……全然覚えてねぇ」
「集中しすぎでござるよ。ま、それはそれとして面白そうなことをやっているでござるな」
「楓もやるアルか? なかなか面白いアルよ。千雨から教わった動体視力を鍛える修行アル!」
「いや、別に修行として使えとは言ってないんだが」
「なるほど。細やかな指の動きを練習するにも使えそうでござるな。では拙者も」
「……まあいいや。二人で仲良く遊べよ。ただし、二週目行きたかったら一人プレイでな」
「孤独な道を行かねばならぬアルか。やはり修行の道は過酷アルな……」
 やいのやいの言いながら怒首領蜂をプレイするクラスメイト二名。
 楓の表情を見る限りでは、古の言動からだいたいの事情を察したか、話を合わせてくれたようだ。本気で修行になるとは、あまり思っていないようである。
 人のことは全く言えないが、女子中学生が夢中になって怒首領蜂を遊ぶとかどんな光景なんだか。
 邪魔にならないよう、千雨は後ろに移動した。
 忍者と武闘家がパッド握ってテレビゲームに熱中している後ろ姿は、どことなくシュールではあったけれど、案外ふたりともが年相応に見えて、背後から眺めているだけでもわりと楽しかった。
 戦績は悪くはない。遊び初めて初日だというのに、一回だけ、二週目に辿り着いたのである。素直に感嘆した千雨だったが、二人ともそこで満足しなかったらしい。
 楓を探して双子が部屋を訪ねてくるまでのあいだ、二人の挑戦は延々続いたのだった。


 
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