まだ暑い盛りの八月十二日。夏休み中の日曜日。とはいえ今日はいつもより気温も下がっていて、若干は過ごしやすい。天を仰げば機嫌の悪そうな空から、そろそろ雨が降り始めそうな朝のことである。
(目覚ましかけ忘れたな……出遅れたか)
 朝といっても、始発の時間はだいぶ前に過ぎ去っている。
 ん、と目を向けた。
 コンコン、と控えめなノックの音が続けて聞こえてきていた。
 意識がはっきりしてくる。そして気づいた。部屋の戸を叩く音を聞いて、千雨は起きたのだ。
「千雨さん……まだ寝てるのでしょうか」
「そやなー。ちょっと早かったかもしれんなぁ」
 夕映と、木乃香の声である。はてな、と身体を起こして首をかしげた。何の用件であろうか。
「……いま起きた! 開けるからちょっと待ってろ!」
 とりあえず声だけかけて、パジャマから着替え始めた。


「図書館探検?」
「はいです。千雨さんがもしお暇だったら、ですが」
「……んー」
 千雨にとっては久しぶりとなる図書館地下探検のお誘いであった。
 目の前では、夕映、木乃香の二人が返事を待っている。
 一応、夏休み中でも図書館島には自由に出入りすることが出来る。地上部分に関しては、職員の夏休みのために一定期間の閉館は存在するものの、八月後半は自由研究その他の課題が出された小学生たちの憩いの場として、平時に比べて急激に混雑したりもする。
 なまじ地下の特殊さに目を奪われ忘れがちだが、上層部分だけを見ても巨大図書館なのである。
 地下の蔵書を含めれば、世界でも有数の大図書館である。麻帆良近隣だけでなく県外からも利用するため足を運ぶ者が数多くおり、知識の宝庫として名に恥じない充実ぷりを発揮していた。
 但し、麻帆良在住ではない場合は通常は貸し出し禁止、する場合でも七面倒くさい書類の提出が必要となる。
 当然と言えば当然である。
 問題の図書館島探検部に関しても、夏休み中の活動は許可されていた。
 上から下まで、基本的に麻帆良の住人は好奇心旺盛且つお祭り騒ぎが大好きである。女子中等部1−Aには特にそういった傾向があることは否定出来ないが、大らかな性格の者が多いのは土地の特色とも言える。千雨としては世界樹及びそれにまつわる意識誘導の結果であると仮説を付けてはいるが、魔法関係者、そして世間一般の常識との乖離を初めとした、諸々の裏事情を考えさえしなければ、性質として善良な住人が多いという麻帆良特有の雰囲気は嫌いではない。
 非常識を常識と捉えやすいという特質を住民に勝手に押しつけるのは、ある意味では独善的ではあるが、千雨の推察通り神木・蟠桃そのものが行っているもものだとすれば、今更文句を言うのも変な話なのである。
 あの特殊すぎる巨木の存在と性質とを鑑みれば、人間が周囲に住み着いたのは巨木がかなり育ってからのことであろう。後から来た人間が先住の存在を蔑ろにするのは、千雨にとって、あまり気分の良いことではない。
 自分に都合があるように、世界樹にも相応の都合があるのだろう。また、無論、神木・蟠桃を意図的に利用している勢力について肯定的になりたいとは思わないが、かといって全面的に否定するわけにもいかない。
 千雨にとってはマイナス面の方が大きかっただけで、それによって助かっている誰かがいるのかもしれないのだから。
 見知らぬ誰かと自分とを比較すれば、当然自分の優先度のが高くなるのが人の常であり、千雨自身もそのつもりではあるが、自分と無関係な存在だから不幸になることを励行したいとも思わないのである。
 多少心に余裕が出来たからこその考え方かも知れないが、千雨としては是々非々のスタンスを取るつもりであった。
 さて、話は戻るが、生徒、学生にとっては待ちに待った心躍るサマーバケーションである。
 ここで冒険をさせない、という締め付けがどのような結果を呼び起こすかは麻帆良の責任者たちが重々承知している、と推測された。やるなと強く言われると、要らぬ反発心も生まれようものである。目の届かないところで無茶をされるよりは、許可のうえで活動させるかたちにしたほうが後のトラブルが少なくて良いのは事実だった。
 そもそもの話として、探検部は地下に潜る場合、毎回、ちゃんと届け出を出しているのである。長年の探検で慣れきった大学部の学生がそうするように、無断で入っても特にペナルティはないが、中等部、高等部の生徒はたいていの場合は素直に書類を提出している。
 地下一階や二階あたりであれば届けでなくても何ら問題は無いが、地下三階以降、特にその先、事故や遭難の危険性がある下層についてはそうはいかない。
 これを怠ると万が一遭難した場合に救出が遅れて致命的なことになりかねない、とのことで、探検部員は入部時点から口を酸っぱくして叩き込まれる。
 とまあ、くだくだしく説明はしたが、届け出といっても自分の名前を書いて何日に地下探検します、という走り書き程度のものだ。部員の活動は基本的には自己責任で行われている。
 1−Aにおける探検部員は四名。
 予定さえ合えばハルナとのどかもこの場にいたのだろう。
 とはいえ、今日という日に早乙女ハルナがいない理由については、千雨には非常によく理解出来ていた。
「なるほど、参加は三日目だったか。……危ないところだった」
 次からはカタログのサークルカットの欄をちゃんと読んでおくことにしよう。確か、ペンネームは「パル」だったはずだ。敵を知り己を知れば百戦危うからず。三十六計逃げるに如かず。同じ日に行った場合は参加している島さえ把握しておけば、会場内で偶然出くわす場合を除いてはまずすれ違わないだろう。
 そもそもジャンルというか、スペースそのものが違うのだから。
「はい?」
「いや、なんでもない。いいぜ。無茶はしないんだろ?」
「もちろんです。今日は三階の地図を埋めるために集まりましたから。あ、このかさん?」
「千雨ちゃん、今日はよろしくなー」
「ああ」
 木乃香からぺこりと頭を下げられた。
「ウチな、千雨ちゃんとお話したいとずっと思ってたんよ。でもな、あんまりその機会もなくてなぁ」
「いや、普通に喋ればいいじゃねぇか」
「ええの?」
「構わねーけど、なんで遠慮する必要があるんだ?」
「そやかて、千雨ちゃんてめったに自分から話しかけへんし。自分から声かけるんは……楓さんやろ、エヴァちゃんやろ、茶々丸さんやろ、あと超りんくらい?」
「そんなこと……あるか? あー、そういや似たようなこと神楽坂にも言われたな」
「アスナから? あれ、千雨ちゃんてアスナと友達やったの?」
「このあいだ、ちょっと私用で手伝ってもらってな。夏休み中は会うとちょくちょく話すようにはなったな」
「そかー。知らんかったわ。ほなウチともお友達になってくれるゆーことでええの?」
「んー」
「へ、いやなん?」
「いや、なんつーか、友達になりましょう。はい。みたいなやり取りに違和感が」
「そやな。なら、千雨ちゃんがそう思ったときでええよー。ウチはもう友達や思うてるし」
「じゃあ、そういうことで」
「ほな、よろしゅうなー」
 夕映が豆鉄砲をくらった鳩そっくりの表情でぽかんと口を開けてこちらを見ていた。
「なんだよ」
「あ、いえ、不思議なやり取りだったのでつい。このかさんの天然ぷりを久々に見たというか、千雨さんの返し方に感じ入るものがあったというか」
「いややわー。ウチ天然ちゃうよ」
 夕映はものすごく反論したそうにこのかを見た。黙っていたが。
「さ、行くか」
「へ? あれ、千雨ちゃんなんで言い返してくれへんの?」
「行くですよ!」
「あれ? なんでウチを置いていくんよー。ちょうまって、まってえな」
 慌てて追いすがってくる木乃香を振り返り、その向こう側を見据えて、嘆息混じりに千雨がひとこと。
「これぞ這い寄る天然」
「上手いこと言ったつもりですか」
 夕映がぼそりと呟いた。


 地下二階までの道のりは易かった。というのも地図はほとんど埋められていたからだった。本番は三階であるということだろう。ほぼ完全に安全なルートを確保してあるために、気楽に話ながら進んでゆく。
「今日のマッパー役は?」
「ウチや」
 地図を手にした木乃香が、「そこ左やえー」「本棚を回り込んで右なー」などと一番後ろから指示を出す。道を覚えているであろう夕映も誘導に従って進んでゆく。千雨は隊列の真ん中に収まっている。
 夕映がすたすたと歩いて行く。案外素早く見えるのだが、実際にはさほど早く進んでいるわけではない。
「トラップ発見は」
「私です。普段であればハルナがマッパー役なのですが、あいにく今日は不在なので……」
「絵が上手いヤツが地図作成か。わりと考えてるんだな。綾瀬がトラップ発見係なのは何か理由があるのか?」
「単純に観察力で言えばのどかが一番罠を見抜けるですが、反応速度という点ではハルナの方が向いてるです。私の場合は理屈で、トラップを置くならこのあたりだろうと当たりを付けてるです。なので、だいたい一長一短ですね」
 千雨は先日聞いたことを思い出していた。盗難避けの意味合いが強いという話だった。さもありなん、と納得する。下に行けば行くほど罠の頻度が高くなったり、道がややこしくなっていくのは、単純に下層に希少本があるというだけではなさそうである。
 よくよく考えてみれば、ここの責任者であれば、人の出入りを制限し、あるいは道を塞ぐこともできるはずだ。危険であることを理由にすれば学生その他の探検部員たちを押し止めることも不可能ではない。いっそ物理的に遮断してしまうという手もある。
 それをしないのは、必要に応じて地下を利用している者がいる、と考えるべきだろう。
 とすれば理詰めで仕掛けを見破るというのはそれこそ理に適っている。乗り越えうる壁としてのトラップと、迷路じみた複雑な隘路。簡単に辿り着かせたくない。だが訪れる者が皆無になるようにもしたくない。
 いるであろう管理者の、そんな意図がそこかしこから窺える。
「あ、そういやのどかは図書委員の会合やて聞いたけど、ハルナの方は今日なんでおらへんの?」
「お祭りに行くと言ってたです。そういえば、のどかは何か手伝わされてましたが、このかさんは何か知ってるですか」
「確か、どーじんし作るゆーてたなー」
「同人誌というと、白樺派とかですか。『惜みなく愛は奪ふ』みたいな評論方面で?」
「そっちやないと思うえ」
「綾瀬。分かってて言ってるだろ」
「そういう千雨さんこそ」
 実際には行ったことはありませんし、今後も行く予定はありませんが、と夕映が無表情に付け加えた。
「中一でサークル参加ねえ。よくやるよ。つーかサークル参加は年齢制限か何かがあったはずだが」
「いえ。小学生の頃から参加していたそうですが」
「……マジか」
「あ、自分だけだと申し込みできないから、高校生のひとと一緒にやっていると言ってたですよ」
「代表者が高校生なら大丈夫ってことか」
 よく考えれば、小学生から参加という事実そのものは変わらない。
 実際にはあんまり良くなかったのだが、千雨はそれで済ませた。不意に、中等部の漫研が定期的に発行している機関誌にも、毎回ハルナの漫画が掲載されていることを思い出した。
 まだ入部してから四ヶ月のはずなのだが、四月末にはすでに作品発表を行っていたことを思うと、いったいどんな速度で執筆しているのか空恐ろしくなる。
「夕映、そろそろ下に降りる階段や」
「了解です」
 すでに三階には何度も下りていると説明されている。おおよその地図はあるが、罠を調べつつ進むという意思表示であろう。前回もそうだったが、ダンジョンアタックの基本をきちんと抑えてあることに千雨は感心した。
 一応、前回引っかかったダストシュート風の落とし穴トラップは回避している。下層に降りるショートカット扱いにしてもかまわないのだが、今回の『地下三階の地図の空白を埋める』という趣旨にはそぐわないからである。
「トラップが増えるえ。進むときは注意してなー」
「りょーかい」
 本棚近くからぐるりと回り込んで右、その後まっすぐ進んだあとに巨大な本棚の影に隠れて、細い通路が存在している。その隙間をすり抜けるように壁際を横ばいに進んでいくと、念願の地下三階への階段が覗いた。
 階段があるのは、小休止できる程度の大きさの開けた場所である。
 ちょうど巨大な本棚に囲まれるかたちになっているため、隙間から入り込まないと分からない位置にあった。
 この階段、横から見ると探しづらいのだが、本棚の上を通る場合には階段の在処が丸見えなのも特徴と言える。但し、本棚には降りるための足がかりがほぼ無いため、ロープなどの昇降器具が必須となるのが難点である。
 この階段以外にも下に降りるルートは複数あるのだが、千雨たち三人が以前下まで落ちたときに辿ってきた帰り道がこのルートだった。このため現在では、1−Aの探検部員の四名が地下三階へと降りる際には好んで用いられている。
「つまり獣道ですね」
「言い得て妙だなそりゃ」
 千雨が一度立ち止まって、振り返った。足を止めた千雨にならって木乃香もその場に留まる。不思議そうに背後を振り返る木乃香。
「ウチのうしろに何か見えたん?」
「ちょっとな。ま、幽霊とかじゃなさそうだから安心しとけ」
「ふむ。……幽霊というと、あの七不思議の話ですか」
「どの七不思議だか知らんが、なんでもないから気にすんな」
 首をかしげる二人に対して、千雨は何も言わなかった。


 中途半端な灯りがあたりを地味に照らしている。まっすぐ降りてきたからまだ一時間も経っていない。
 木乃香が声を挙げた。
「ほい、地下三階に到着やー。地図埋め作業ゆー話やったけど、これからどないするん?」
「まずは千雨さんに地図を読み込んでもらうです。一応、簡単に説明しておくと、いま地図上で埋まっていない部分は私たちが普通に探しても道が見つからなかった部分でして……」
「つまり、隠し扉だの仕掛けだのがありそうってことか」
 ざっと眺めると、確かに不自然な空白部分が二カ所存在している。四方を囲まれていて、上も蓋をされているかたちで塞がれている。このため、どこから侵入すればいいのか不明のようだ。
 大きめの空白部分のため、何らかの小部屋か道があることはあからさまなのだが、どうやって進めばいいのかが掴めない。
 主に本棚の上から調べることが出来ない場所が、未踏破の空白として取り残されているようだった。
「はい。先日ここまで埋めた地図を吉川先輩に見てもらいました。このどちらかの空白を埋めることが出来れば、地下四階以降に降りる許可が認められるとの言質もあるです。というか、どちらかが四階に下りるもう一つの道だそうです」
「私らが戻ってきたルートじゃない方ってことか」
「そうなるです」
 探検部員四人で調べても発見できなかったから、千雨の力を借りる。考え方としては理解出来る。とはいえ本職というわけではないのだ。前回はたまたま乙女の尊厳がかかっていたからロックになりきって技能を行使したが、毎回ああした千雨の能力を当てにされても困るのである。
 視線にその考えが乗っていたのだろう。夕映が慌てて言い添えた。
「あ、いえ、今回千雨さんに来ていただいたのは技術的な理由ではないです。むしろマーフィの法則的な意味合いです」
「捜し物をする場合、いつまで経っても張本人には決して見つけられない。が、他人が探すとすぐに見つかる、みたいなアレか?」
「それです。私たち以外の……別の視点が欲しかったのです。どうか、ご協力をお願いするです」
「んー。でもそれだと、別に私じゃなくても良かったよな」
「それは……」
 夕映が返す言葉に困ったのを見て、ちょっと意地悪だったかと苦笑する。
「やっぱええなぁ」
「何がだ?」
「誰でも良いのに、わざわざ千雨ちゃんを呼んだんよ。それが誰でも良くはなかったってことやない?」
「……なるほど。ま、頼られて悪い気はしないからな。いいぜ」
「あ、ありがとうです」


 探索は順調だった。
 ぐるりと地図上の空白部分に沿って一周する。二カ所とも分かりやすく本棚に囲まれていて、小部屋ひとつ分ほどの空間が存在している。本棚は押しても引いても動かず、何らかの手段で固定されていると思われた。
 つまり力尽くで空白部分に侵入することは出来ない、ということだ。
 一方はほぼ中央付近に位置しており、もう片方は本島側の壁際にある。先に聞いたとおりに、上から蓋をされているかたちになっており、中は見ることが出来ない。何かがあるのは確かなのだろうが、外からではそれを確かめる術がない。
 二つの空白箇所は距離にして数百メートル以上は離れているうえ、軽く見回しても先が見通せないほどに地下三階は非常に広い。さすがに図書館島の端から端までを貫くほどではないのだろうが、くまなく歩き回るだけで一日が潰れそうな広大さだった。
 高低差のある本棚の列があちこちに立ち並んでおり、高い場所の本を手に取るためには梯子が必要になるレベルである。
 坂道の上から巨石がごろりと落ちてくるほど危険とも思えないが、それでも万全の注意を払ってちびちびと歩を進める。
 壁際に近い、というか地下三階の端の部分にほど近い側。
 微妙な違和感をおぼえて、千雨は途中で立ち止まった。あたりは薄暗い。ゆうに数万冊は軽々と越えているであろう量の本に囲まれて、しかし人間の姿は見えず異様に静かな地下三階を、木乃香と夕映がとぼとぼと歩いている。だだっ広いために、どこぞの洞窟に入り込んだ感触だった。流れてくる空気は地下らしいひんやりとしたもので、そこに時折混じる気配に千雨は嘆息を禁じ得なかった。
 気分は完全にインディアナ・ジョーンズ教授である。ともあれ、事細かく怪しげな部分に目を向けた。
 千雨は眉をひそめた。目を懲らして調べるほどのことではなかったからだ。
「どういうことだ?」
「千雨さん、何かありましたか」
「いや。……見てもらえれば分かるか。探してたのはこういうのだろ」
 二人を手招きして呼び寄せる。
「……へ? これ、って何がです?」
「だからさ。そこだ、そこ」
 千雨が指し示した場所には、巨大な本棚の角の部分だった。色合いで誤魔化してはあるが、よく見れば明確に扉の形状をしている。長方形の切れ目からすると、ちょうど大人一人が通れそうな大きさだった。
 隠し扉と呼べるほど難しいものでもない。普通に通り過ぎれば気づかないかも知れないが、注意深く見ていれば必ず目に入る。
 木乃香が目を丸くして、扉の蝶番の部分をまじまじと覗き込んでいる。
「これは……扉、ですか」
「どうなっとるん?」
 木乃香の声はすねているようなものだった。夕映も似たようなものだ。
 浮かんだ疑問より、不可解さに対する反発心の方が強そうだった。
「こんな場所に、ここまで分かりやすいドアがあったら、ウチらかてすぐ気づくて」
「このかさんの言う通りです。ここも、しつこいくらいに何度も何度も調べたはずです。これは一体どうなってるですか」
 口ぶりからすると、四人で延々何周も、あるいは何十周もこの周辺を調べ回っていたらしい。
 ざっと十数時間近くはあるであろう仕掛けの探索に注ぎ込んでいたのだろう。その結果として見つかったのが、こんな単純な、仕掛けとも呼べないあからさまな隠し方の扉であったとしたら、そしてその程度を今まで発見できなかったとすれば、どんな気分になるか。分からなくもない。
「いや、んなこと言われても困るんだが。私に当たるなよ」
「あ、いえ。そんなつもりはなかったですが」
「そやね。千雨ちゃんに文句言うたわけやない。ごめんなぁ」
「怒ってるわけでもねーよ。でもまあ、とりあえずこれでいいんだろ?」
「……むむ。なんとなく納得しがたいですが、しかし発見は発見。目的は達成しましたから、ここは納得しておくです」
「こんな分かりやすいの、ウチら見落としてたんかなぁ」
「結果からするとそうなるです。ですが」
「良いから入ってみようぜ」
 危険は無いと判断したが、一応千雨が扉に手を掛けた。ノブは見当たらず、押し開ける形になった。予想通り小部屋風だったため、とりあえず室内の様子を観察する。動くものはなく、ぼんやりと輝く照明が部屋の隅々までを白々と明るく照らしている。蓋をされているかたちだから当然だが、天井はかなり低かった。
 部屋の真ん中には大きめの箱があった。箱と呼ぶと語弊があるかもしれない。形状として一番近いのはエレベーターである。部屋のほとんどをその箱ひとつが占拠してしまっているため、他に見るべきものは見当たらない。ここが図書館島の地下でさえなければ、間違いなくエレベーターだと判断しているところだった。
「箱だな」
「箱やなー」
「箱ですね」
 他に口にべき言葉をいったん避けたため、ひとしきりの沈黙があたりを満たした。
 三人で顔を見合わせた。
 箱の右側には『開』と書かれたボタンがある。上の部分に目を向けたが、階層表示はどこにも無かった。
「私の目には、エレベーターに見えるんだが」
「奇遇ですね。私にもそう見えるです」
「エレベーターやないの?」
「だよな。これがエレベーターなら何もおかしくない」
 一瞬の間。
「いや、おかしいだろ!?」
「そうです! どうしてこんなところにエレベーターが!? というか、どこに繋がってるですかコレは!?」
「見た感じ上には行けへんなー」
「もしや……これを使えば、幻の地底図書室に行けるのでしょうか」
「なんだそれ」
「地底にもかかわらずあたたかな光に溢れ、貴重な本が自由に読めるという――まさに本好きにとっての楽園、それが地底図書室なのです!」
「へー」
「但し、ひとたび降りれば生きて戻ってきた者はいないとされてますが」
「えーなー。きっと居心地が良すぎて帰る気をなくすんやろなー」
「かもしれません。ではレッツゴーです!」
 夕映がいきなりボタンをぽちっと押した。
「待て待て待て。下に降りたらマズイだろ。綾瀬、今日の目的を思い出せ」
「はっ!? そうでしたっ!?」
「正気に戻ったか。とりあえず、許可さえもらえば下に降りてもかまわないって話だろ。その好奇心は抑えとけ」
 安堵した千雨の顔をまじまじと眺めた夕映の頭の上に、いきなり電球が眩しく輝いた気がした。何か閃いた、そんな雰囲気だった。
「……千雨さん」
「なんだ」
「山手線に乗ったまま何周しても、乗車料金は変わりません」
「言いたいことは分からんでもないが、つまり?」
「エレベーターから降りなければ、地下四階より下に降りた扱いにはならないのでは?」
「一休さんのトンチか」
「ダメでしょうか」
 無表情なのに、夕映の目の奥の輝きは眩しいほどだった。
「そんな期待に満ちた瞳をされても困る。だいたい判断すんのは私じゃねーし」
 ぽーん、と音がした。先ほど夕映がボタンを押したため、エレベーターが下から昇ってきたらしかった。
 箱の扉が開いた。
「では、私が許可を出しましょう。こんにちは、可愛らしいお嬢さんがた」
 どこから話を聞いていたのだろう。
 エレベーターの扉が開いた中に、白いローブを着て、目深にフードを被った怪しげな男がいた。
 顔を隠すようなフードの奥を覗き込めば、うさんくさい美形であった。彼は、にこりと笑って手招きをしていた。
「地底図書室に行ってみたいのでしょう? よろしければご案内しますよ」
「あなたは……」
 夕映は、いきなり現れた謎の男を警戒してか、少し表情を強ばらせて彼を見上げた。
 木乃香はにこにこと笑っていた。しかし不用意に近づこうとはしなかった。
「さあ、こちらへどうぞ」
 白ローブの男を前に、千雨は警戒していた。
 こんなに近い場所にいるのに、相手の正体がまるで掴めない。人間のような、そうでないような不思議な気配。
 おそらくは麻帆良の事情にまつわる者。それも最上級の魔法使いと思われた。
 少なくとも情報もなく軽々しく敵に回すべき存在ではない。それだけは確かだった。
(クソ、なんでこんなのが出てきやがった……?)
 敵意は感じなかった。害意も無さそうだった。しかし危険でないとは言い切れない存在だと感じられた。
 千雨は口を開いた。
「すみません。どちら様ですか」
「ああ、これは失礼。名乗り遅れました。私の名前は……」
 ほんの一瞬、彼は言い淀んだ。
 次の瞬間には自分の思いつきに感心したように、清々しい笑顔でこう口にした。
「クウネル・サンダースと申します。なかなか良い名前でしょう?」


 
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