クウネル・サンダースと名乗った白ローブの男を前にして、千雨は警戒を解かなかった。
 さりげなく夕映と木乃香の前に進み、クウネルの視界から二人を隔てておく。
 自己紹介されたので、当然のように木乃香は名乗ろうとしたが、それを千雨が視線でたしなめた。夕映の方は元から名乗るつもりはなかったらしい。
 実際にはそこまで極端に危険視していたわけではないが、警戒してますよ、というポーズを見せておくのは大切である。
 少なくとも意図は伝わったのだろう。おや、という顔をされた。
「ふうむ。お嬢さんは……いえ、いいでしょう。しかしそんなにうさんくさいですかね、私」
「あやしげな格好に、あやしげな口ぶり。どっからどう見ても不審人物に見えますけどね」
「コスプレです」
 千雨の感想は、こう返された。
「……は?」
「魔法使いのコスプレですよ。ほら、全然あやしくないでしょう?」
 思いっきり盛大にため息をついておく。
「ノーコメントで」
「お望みなら場にそぐう台詞も言いましょうか? ――異邦人たちよ去れ! マピロ・マハマ・ディロマト!!」
 元ネタはウィザードリィである。千雨も知っている。プレイヤーのパーティを城下町に強制的に転移させる「対転移」の呪文である。迷宮に住み着いている謎の人物が、部屋に入ってきたパーティに有無を言わさずこの呪文で迷宮の外へと退去させるのだ。
 千雨は軽く身構えた。即座に後ろに二人を抱えて逃げ去る準備だけした。呪文の詠唱のわりに魔力はいっさい感じ取れなかったため、動きはしなかった。あくまで身構えるだけに留めたのである。
 実際に詠唱は効果を発揮しなかった。もしかしたら。いや、もしかしなくても目の前の男には本当にそれをするに足る能力があると見受けられた。
 少し考えて、いささかあからさまに、クウネルと名乗った男の一挙一動を注意深く観察し始める。
 クウネルはわずかに目を細めた。
「……とまあ、こんな役回りということです。それにしても、流石ですね」
「何がです」
「女子中学生だというのに、このネタに反応するのは称賛に値します。高校生くらいになるとこの呪文を聞いて面白がる子がチラホラ出てくるんですけどね。やはり迷宮探索というか、未知への冒険にはロマンがある、ということでしょうか」
「で、そこのエレベーターを使うにはブルーリボンでも探せと」
「よくお分かりで。このエレベーターは関係者専用となってましてね。資格の無いかたにはお引き取り願っているんです」
「はぁ。一番下にはワードナでもいるんですか」
 呆れたように千雨が尋ねると、クウネルは我が意を得たりと頷いた。
「そうですねえ。私がワードナ役をやってもかまいません。一番下には私の住処がありまして、営業時間は午前九時から午後三時までとなっています。ちなみに、私を倒してもアミュレットは落としませんのでご注意を」
 ふふふ、とクウネルは含みのある笑いをこぼした。
 なまじ話が通じるだけに、意図が掴めないのがより厄介だ。相手に合わせて、千雨は皮肉げに笑っておいた。


「あの、千雨さん」
「……なんだ」
「盛り上がっているところ悪いですが、いったい何のお話を?」
「前に喋っただろ。ウィザードリィってゲームがあるって。そのネタを振られたから適当に反応してただけだ。ワードナってのはその作中で邪悪な魔術師って扱いになってるゲームのラスボス。アミュレットはそれを倒したときに落とすマジックアイテムだな」
「はぁ。それでこの方は」
「地下の管理者か何かだろ。おおかたこのルートを使って欲しくないんで出てきたってところか。……ですよね?」
 ここまでの会話から得られた情報と、裏事情の関係者であろうという推測とを重ね合わせると、そう的を外してはいまい。
 視線で問うと、クウネルは口角を挙げた。態度の節々から余裕が覗く。そしてそれを隠そうともしていなかった。
「ですが、前回の鍵付きの扉、あの一方通行のルートの際には出てこなかったのは……」
「あっちはバレてもかまわない道。こっちはバレると困る道。で、いいんですか?」
「ええ、その通りです。聡明なお嬢さん。ただ、もう少し正確な表現をすると……一般的な探検部員の方が案内もなくこの近道を通って下に来てしまうと非常に危険なんですよ。初心者パーティがいきなりラスボスのフロアに来たらどうなるか、お分かりでしょう? ああ、素の口調で結構ですよ。尊敬できそうにない相手に対して畏まって話すのは苦痛そうですからね」
「言葉に甘えてそうさせてもらいます。……で、この下ってそんなにヤバイのかよ」
 この場合は一般的なロールプレイングゲームを基準にするべきだろう。
 比喩表現なのだろうが、この分だと巨大なドラゴンでも出てくるのかも知れない。
「ええ。こちらのルートに関係者以外が立ち入ると、間違いなく遭難します。仕掛けの危険度も命に関わるレベルの、かなりえげつないものになってますし。みなさん、まだ死にたくはないでしょう? ああ、これは脅し文句ではなくて厚意からの警告ですよ。多少困難な山道を登るのと、平地でも地雷原を通るのと、どちらが良いか。ゴールが同じなら前者を選ぶことをオススメしているに過ぎませんので」
 言い回しが引っかかった。確実に遭難する。それはつまり、潜る人間の力量とは無関係に、という意味だろう。千雨の想像通り、高位の魔法使いであるとすれば、意識誘導なり、幻術なり空間操作なりを用いて普通の人間では対抗出来ない手段で遭難させる、という風に聞こえる。
「……案外あっさりと答えるんだな」
「最近暇でしてね。ちょうど話相手が欲しかったところなんですよ」
「いいのか?」
「かまいませんよ。お望みなら地底図書室にもご案内しましょう。ただし」
「このエレベーターの部屋は地図に書くな、ってことか?」
「ええ。書かず、語らずを約束していただきたいですね。本来なら、この場所は誰にも見つからないように特別な仕掛けを施してあった場所なのですが。まったく困ったものです。この仕掛けが全く効かない特殊な方がいるのは……こちらとしても想定外でしたから」
 ある意味では深く納得し、千雨は肩をすくめた。
 探検部員ではない千雨からすれば、その条件であれば特に問題はない。友好的に取引を持ちかけてきた相手の手をこの状況下で振り払う理由もない。
 とはいえ、目的が果たせなくなる可能性があるため、本来の部員二名に選択は任せた。千雨としてはここで頷くことを薦めておきたいのだが、どうしてと問われると説明がややこしくなる。
 とりあえず二人が相談しているあいだ、頷かなかった場合にのみ説得しようと考えをまとめておく。
「うーん。夕映、どうするん?」
「地図を埋めないと部長から許可がもらえないので、書き込むなと言われると非常に困るです。しかし、蓋然性の高い危険を回避するためという理由であれば、仕方ないとしか」
 言葉とは裏腹に、口惜しそうな口調と恨めしげな視線を惜しげ無くたっぷりクウネルに送る夕映だった。
「失礼、ちょっと地図を拝借しますね。……ここ、中央の空白部分なら書いてもらって構いませんよ。西側の本棚、上から三段目を調べるといいでしょう。探検部員の方が試験扱いにしているのはそちらのルートのはずですからね」
 夕映の形無き攻撃にまったく堪えた様子はなかったが、クウネルは笑顔でこう口にした。
「くーねるはん、それでええの?」
「普通のルートで下まで降りてこられる場合にはとやかく言うつもりはありませんよ。稀覯本の持ち出しは困りますが、その場で読んでいかれるならば口出しもしません。あくまで罠のたぐいも盗掘避けのために置いてあるものですからね」
「はー。司書はんみたいやなー」
「このかさんこのかさん」
「ほい?」
「おそらく、この方が伝説の司書、あるいは幻の大司書長かと思われるですが」
「そーなん?」
「そう呼ばれることもありますね。実際には、ここの地下で食っちゃ寝しているだけですが」
「つまり、引きこもりやな」
「そうとも言います」
 言われても全く気にした素振りのない、眩しい笑顔であった。
 木乃香と夕映の視線の温度が三度ほど下がった。


「……そんなことを言っている間に、来ましたか」
「はい?」
 夕映が首をかしげた。クウネルの瞳に悪戯っぽい光が覗いた。何もかも分かっていますと言いたげな笑顔だった。
「時間稼ぎは十分でしたか?」
「何のことやら」
「お嬢さん。普通の中学生にしてはいささか明晰過ぎやしませんか。その聡明さはたしかに美徳です。が、あまり利口とは言えない。観察力。分析力。判断力。そのどれを取っても年齢とあまりに不釣り合いです。しかも、それだけのものを持ちながら……他人のためにあっさり晒したことはいただけません」
「……んなこと私に言われても困る」
「この状況ではそうせざるを得なかったのは分かりますが……。ままならないものです」
 凄まじい音を立てて、勢い良く扉が開かれた。
 開いた扉の向こう側から、刀の柄に手をかけたサイドテールの少女がひとり、剣呑な気配を漂わせながら歩み寄ってくる。
 無言でクウネルを睨んでいた。
 観察というより、睥睨である。敵か味方かを識別しようとする剣士の目が白ローブの男を鋭く捉えた。
 刀こそ抜いてはいないが、不審な挙動を見せれば即座に飛びかかるであろうことは想像に難くない。
「え、……せっちゃん?」
 木乃香の声に応えず、桜咲刹那は静かにクウネルと木乃香のあいだに割り込んだ。
「貴様、何者だ。顔を隠して、しかもこの場所で何をしている」
「いきなり割り込んできて何者だ、と来ましたか。困りましたねえ」
 クウネルは肩をすくめて、何とも言えない苦笑を浮かべている。
 しかし、刹那はその余裕をどう受け取ったのか。眼前にいる存在が、見知った顔ではないと把握したか。
 雰囲気がさらに緊迫したものにすり替わる。
 寄らば切る、という雰囲気がゆらゆらと陽炎めいて立ち昇っている。剣道の試合で発揮されるような健全な闘気のぶつかり合いではなく、邪魔する者を切り捨てることを躊躇わない、怜悧さを伴う暴力の気配がそこにはあった。
 すなわち、殺気。
 刹那が浮かべる表情はひたすらの敵意。油断できぬ相手と悟ったのだろう。クウネルを危険な敵と認識したのだ。
 そもそも闘争の空気にすら木乃香も夕映も慣れていない。動くことの躊躇われる空気に、息苦しさを感じてか、木乃香の表情にいつもの余裕は見あたらない。ただ刹那を心配げに見つめる切なげな視線だけが、ありうべき日常を思わせるに足るものだった。一方の夕映はといえば、刹那の登場といきなりの敵対に混乱しきっているのか、薄い表情のなかに精一杯の驚愕を表していた。けほ、と乱された呼吸ゆえに、軽く咳き込む夕映。
 千雨は軽く深呼吸してから、刹那の背中に声を掛けた。
「おい桜咲」
 無言で返された。クウネルに対し、隙を見せないことを優先しているらしい。
 それを見守っていた木乃香が、困惑しきった声で尋ねる。
「せっちゃん、どうしてこないなとこにおるん」
「……っ」
 少し動揺した気配があったが、すぐに持ち直した。こちらにも沈黙での応対であった。
「そないな怖い顔、どうしてくーねるはんに向けるん?」
「お嬢様……お下がりください」
「せっちゃん!」
 顔を見もせず、硬い声でそう告げられて、木乃香はどうしたらいいか分からないようだった。
「近衛。ちょっと待ってろ」
「でもな、千雨ちゃん」
 木乃香がなおも言い募ろうとしているのを遮った。
「桜咲、勘違いしてるみたいだから言っておくが、そこのうさんくさい男はたぶん敵じゃねーぞ」
「……なに?」
「確かにうさんくさい。非常に底意地も悪そうだ。ついでに怪しげで、どう見ても不審人物だ」
 散々な言われようのクウネルは、しかしことの成り行きを見守ることに決めたのか、泰然として微笑を浮かべていた。わざわざ怪しげに見えるよう振る舞っているのは、単に場をかき回したいだけなのかもしれない。
 クウネルの実力が読み切れないが、下手すると、高畑教諭より格上かもしれないと千雨は見定めた。
 だが、これで確信出来た。この人物は敵ではない。少なくとも今は敵対する意思は皆無だと。
 いまクウネルが本気でこの場から木乃香をさらって、しかも逃げに徹されたら、刹那にはそれを止める手立てがないだろう。
 刹那が尾行のようなかたちで木乃香についてきていたことも知っていた。
 この怪しげな男に対して武力で対抗するために呼び込んだのだ。しかし、それは判断ミスだったかもしれないと考えを改めた。
 こうなってくると刹那に下手に動かれる方が危険である。
 場を鎮めなければならない。しかし、なぜ自分がその役割をやる羽目になっているのか。千雨は己の迂闊さを呪った。
「ならば」
「でも学園長の知り合いだろ? 少なくとも面識があって、なおかつ悪い関係じゃないはずだ」
「くーねるはんて、おじいちゃんの知り合いなん?」
「ええ、そうですよ」
 はぐらかされるかと思ったが、ちゃんと答えてくれた。
「長谷川さん。……その男が嘘をついていないと何故言い切れますか」
「その前にその物騒な気配をどうにかしろ。慣れてない二人が辛そうだろ」
「あ、お嬢様っ」
 ようやく気づいたのか、対象を絞らずにまき散らされていた重圧が薄まった。無意識に濃密な殺気を振りまいていたとも言える。
 そうした争いとは無縁の生活を送ってきた二人ともが、わずかばかりではあるが、精神的にダメージを負っていた。
「ん、ウチはへーきや。ゆえは……大丈夫?」
「はい、なんとか……」
「で、疲れたところ悪いが、綾瀬。謎の怪人とか、伝説の司書とか、大司書長の話はどのくらい前からあるか知ってるか」
「大司書長についてですか……噂が流れ始めたのは、おそらく最低でも五年以上は前と思われるですが、それが何か」
「ちょっと確かめたかっただけだ。結構長いのな。で、桜咲。……まだ分からないか」
「何がだ」
 刹那は千雨が夕映に向けた質問の意図が掴めなかったらしい。訝しげな表情を隠そうともしなかった。
 千雨は髪をかき上げて、どう言葉にしたものかと顔をしかめた。
 一拍遅れて夕映が言葉の意味を理解したらしい。なるほど、と得心した様子で頷いている。しばらく考えていた様子の木乃香も、あ、という表情をした。
 クウネルはことの推移を面白おかしく見守る所存らしかった。お手並み拝見と言いたげに、目が笑っている。しかもそれを刹那から見えない位置で、そのくせ千雨には見えるように表情を露出させている。
 この野郎一発殴りたい、と千雨は思った。
 刹那が理解してくれるまで時間がかかりそうだったため、仕方なく説明を始めた。
「まず、いくら麻帆良の連中が上から下まで大半おおらかな性格をしてるからって、こんなところに五年も十年も隠れ潜んでて、しかもそれが結構な噂になってたら、麻帆良のトップ……この場合は学園長が命じて大々的に調査するだろ。本当にヤバイ危険人物が隠れてたら、まずいなんてもんじゃねーし。盗まれそうな稀覯本が山ほどある場所に、警備員なり責任者なりを置かないなんてのもありえない」
「……あ」
 ようやく言いたいことに気がついてくれたらしかった。
「噂になった時点で調査したのか、してねーのかは分からんが、学園長がこのうさんくさい白ローブのことを把握してなかったとは到底思えない。むしろ最低でも顔見知り、場合によっては友人以上。重要な場所を任せるだけの、信用に値する人物だと思っている可能性が非常に高い。凄まじくうさんくさいが」
「し、しかし」
「ついでに言えば、ここに危険人物がいると思ってたら孫娘が探検部員にならないように手を回すんじゃねーかな、とか」
「た、たしかにっ」
 刹那は大ダメージを受けていた。一方で、おっさん呼ばわりされたクウネルはまったく気にした様子がなかった。
 多少は嫌そうな顔をするんじゃないか、という当てが外れて、千雨は不満そうに息を吐いた。
「まあ、ひとつだけ桜咲のフォローをするとすれば、麻帆良の中にこんなのがいるなんて思ってなかったんだろ?」
「……ええ」
「知らない顔がいれば、まあ警戒するわな」
「その通りです」
「だよな。大好きな近衛にこんな胡散臭い男が近づいてきたら必死になって守らないとって思うもんな」
「ええ、お嬢様に近づく悪い虫なんぞ切り捨てなければ! ……は?」
 テンポ良く肯定を続けさせると、わりと簡単に本心を吐露するものだ。しかしここまで上手く行くとは。
 木乃香は今の言葉を聞き逃さなかった。わずかばかりの希望にすがりつくように、刹那の名を、震える声で呼んだ。
「せっちゃん」
「え、あ、あの、私は今何を」
「せっちゃん!」
「……失礼しますっ」
 はぐれメタルのごとく俊敏な動きで逃げだそうとした刹那は、普段とは見違えるようなおっそろしい勢いで腕にしがみつかれた。
 当然、それをしたのは木乃香である。
「なんで逃げるえ? せっちゃんっ! 待ってえな!」
 ずりずりと引きずられながらも決して手を離そうとしない木乃香を、力尽くで引きはがすこともできず、赤くなった顔で困り果てた様子のまま刹那があたふたとあっちこっちにふらついている。
 這い寄る天然リターンズ、といった感じである。
 それでも本人たちは真剣そのものといった表情であり、手を離したらこの世が終わりそうな必死さの木乃香と、なんとか抜け出さなければ二人とも不幸になるとばかりに狼狽えている刹那とが、なんともいえない不思議な緊迫感をかもし出している。
 青春真っ直中な感じの雰囲気に飲み込まれている二人は放置しておくことにして、クウネルに向き直る。
「なるほど、私を当て馬役にしたわけですか」
「あー。悪ぃ。気に障ったか?」
「いいえ。複雑に絡み合った人間関係の膠着には、第三者をぶつけるのは良い手と言えます。ラブコメの常套手段ですね。若い子たちの甘酸っぱい青春を眺めるのもなかなか良いものですし。まあ、もう少しこじれた方が面白いし、あとになれば良い思い出になるとは思いますが」
「アンタ、やっぱり趣味悪いな」
「それより、いいんですか。そちらの少女が何か聞きたそうにしていますが」
 夕映が見上げるようにして、千雨とクウネルを見つめていた。問いかけに用いるべき言葉を、慎重に選んでいるのが分かった。
「色々聞きたいことはありますが。何よりもまず……結局、さっきの話はどうなったですか?」


 とりあえず、向こうの追いかけっこは決着が付いたらしい。顔を真っ赤にして、珍しく息を荒くしている刹那と、もう絶対離さないぞと言わんばかりに刹那の身体をぎゅうっと抱きしめている木乃香の図があった。
 下手に動いて木乃香に怪我させることを厭ったようで、しがみつかれたまま刹那は床の上にへたりこんでいる。
「どうする? 一応ヘンな真似はされないとは思うが、地底図書室に案内して貰うか?」
「ウチはせっちゃんおるし、どっちでもえーよ。夕映はどうやの?」
「この場にのどかとハルナがいれば一も二もなく行くのですが。最終目的地のひとつですし、二人を差し置いて、というのは少々ためらわれるです」
 刹那にも意見を求めようと思ったが、諦め悪く木乃香の抱きつき攻撃から逃れようと四苦八苦している。
 今はそれどころではなさそうだった。
「全員でいらっしゃらなくても構いませんよ。たとえば、あなた一人だけでも。どうです? ハセガワチサメさん」
「名乗った覚えはないんだが」
「先ほど、そちらの二人がハセガワさん、チサメさんと呼んでいましたからね。せっかく自己紹介したのに、相手の名前を教えてもらえないのは寂しいじゃないですか。あとはコノカさんに、セツナさん。それとユエさん、ですね?」
 刹那の名前を口に出した覚えはなかったから、こちらは最初から知っていたのだろう。
「あからさまに偽名を名乗るヤツに素直に名乗りたくなかっただけだ」
「むしろ本名にしたいくらいなんですがね。クウネル・サンダース。私にぴったりな良い名前だと思いません?」
「つまり偽名じゃねーか」
「あ。これは一本取られましたね。あっはっは」
 超うざい。
「そもそもうさんくさい美形はあんまり信用しないことにしてるんだ。責任者ってことは、ここの罠はあんたが仕掛けてるんだろ?」
「なるほど。あの隠し扉を見破ったのはあなたでしたか」
「ずっと見てたんじゃないのか」
「さすがにそこまで暇ではありません。ここの扉のはわりと厳重に隠してありましてね。誰にも見つからないはずでしたが、一応用心のためにとつけてあったセンサーに反応があったんですよ。ウィザードリィ風に言うならアラーム。警報ですね。それで何事かと思ってこうして調べに来たんです」
 ドアのそばに、何やら小型の機械が目立たないように取り付けられていた。赤外線センサーである。
「少し驚きましたが、やはりチサメさんは関係者ではないようですね。……ふむ、この地でその体質では、さぞかし苦労したでしょう。とすると、その警戒心はそのあたりの理由から培われたものですか」
「自分のうさんくささを棚に上げるなよ。フードも被ったままだし」
「おっと、これは失礼」
 それまで被っていたフードを外した。
「はえー。千雨ちゃんの言うとおり、ホントに美形やったんかー」
「さて、どうします?」
 二人の意見は聞いた。千雨にも地底図書室まで降りる理由はない。刹那はもう放置でいいだろう。
 断ると、クウネルはうーん、とうなった。
「取引というのものは互いに利が無ければ成立しません。私としては、このエレベーターの部屋を地図に書かず、他言しないでいただきたい。しかし条件として釣り合うものはなかなか見当たらない。そうですねえ、では……皆さんには口止め料として、ひとつだけ質問をする権利を差し上げましょう。ただし、どんな些細な質問であっても絶対に一回限りです。そして私に答えられるものなら、一切の嘘を交えず答えてさしあげましょう」
 たかが一度きりの質問の権利が、地底図書室行きと見合う価値がある、と判断したらしかった。
 そこに欺こうという気配は見当たらなかった。
 たかが言葉。されど言葉である。問答における価値は、人それぞれであろう。
「それって一人一回なん?」
 木乃香が問いかけた。
「その通りです。そしてあなたの質問の権利はこれで打ち止めです。……よろしいですね?」
「うー。失敗したわぁ」
 容赦がなかった。
 質問の内容を吟味する夕映と、残念そうにしている木乃香に慰めの言葉をかけようとして逡巡している刹那。
 やがて夕映が何を尋ねるかを決めたようだった。
「クウネルさん。あなたは――」
 夕映が問いを言い終える前に、クウネルが動いた。さりげなく木乃香へと指先を向けたのだ。
 糸が切れた人形のように、木乃香がくたりと倒れた。地面に倒れる前に、刹那がさっと抱き留める。
「このかさんっ!?」
「貴様、お嬢様に何をっ」
 弛緩しかけていた態度が頑ななものに戻ってしまった。
「眠ってもらっただけです。セツナさん……この答えを知られると、あなたも困るでしょう?」
「ッ!?」
「そして、今のでセツナさんからの質問には答えました。よろしいですね?」
 千雨はピリピリとした雰囲気を素知らぬ顔で受け流した。
 刹那が再び、先ほどの剣呑な気配を漂わせ始めていた。
 意識を失った木乃香を連れて、このまま一息に地上へと帰還するかと思われたが、この場に残るようだった。夕映と千雨をクウネルの前に残したまま離脱することが躊躇われたらしい。
 優先順位の差はあるにしろ、一応はクラスメイトの身の安全に気を遣ってくれたのだ。
「問いの続きをどうぞ」
 夕映は今の一連の流れですでに答えをもたらされたことに気づいていたが、しかし明確な言葉を求めたらしかった。
「あなたは……魔法を使えますね?」
 クウネルは表情を変えずに頷いた。
「ええ、私は魔法使いです。そして魔法は秘匿されるべきものです」
「つまり、不特定多数にバラしたら……殺される。そういうことですか」
「いえ。魔法について忘れていただくだけです。秘密を守っていただけるなら、記憶を消すような真似はしませんが……」
「殺されることと、記憶を消されること。そのふたつはどう違うですか」
「少し死ぬか、全部死ぬか。それくらいの違いでしょうね。記憶とはそのひとの人生、そのひとの在り方そのものでしょう。ですから、私にあなたを殺すような真似はさせないでいただきたい。私は自分の性格がよろしくないことを承知していますが、それでも少女の命と魔法使いの義務を秤になどかけたくはないのですよ」
 クウネルが笑った。透明な笑みだった。わざとらしくて、真摯な、そういった不思議な笑みだった。
 刹那が露骨に渋面を作った。
「……沈黙を約束するです」
「物わかりの良いお嬢さんで助かりました」
「一回限りなのにそこまで答えてくれたのは脅すためでしたか。それともサービスですか」
「ふふふ。ひみつです」
 クウネルは感慨深げに眼を細めた。
「とはいえ、……てっきりその質問は、そこのチサメさんから出て来ると思ったんですがね。本当に聡明なお嬢さん方だ。これは好奇心から尋ねるのですが、どのあたりで疑惑を抱いていましたか」
「この部屋の扉は、あまりにもあっさり見つかりました。隠されているわけでもないのに、必死に探していた私たちだけではずっと見つからなかった。いえ、こんなエレベータの話は一度も聞いたことがありません。つまり、何年、何十年の歴史がある探検部員の誰にもこれまで見つからなかった。この点から、何か超常の力が働いていると思うのはそれほど難しいことではないです」
「お答えありがとうございます」
「それに……」
「それに?」
「クウネルさんが超然としすぎていて、しかもあまりに魔法使いっぽい格好過ぎます。コスプレという言葉で誤魔化すには雰囲気がありすぎました。そもそも一般的な司書はそんな格好をしていません!」
「なるほど。それは迂闊でした」
 クウネルは千雨をちらりと覗き見た。含むところがありそうだったが、それ以上語ることもなかった。もしかしたらフードかローブそのものに認識阻害でもかかっていたのかもしれない。
 千雨の指摘によって、クウネルの格好を夕映が疑問に思うようになったとしたら、ご愁傷様である。
「さて、残るはあなたですが……」


 夕映とクウネルとの会話を耳に入れながら、千雨は本気で頭を働かせていた。
 この状況下において千雨が魔法について尋ねることはひたすらに危険だった。問うことは、己の理解を晒すことでもある。自分がどれだけのことを知っているか。何についての答えを求めているか。
 たったそれだけのことで、おそろしく深い場所まで把握されかねないことを知っている。
 何を問うべきか。迷う。何を問うにせよ、クウネルは自分の言葉を違えるつもりはないだろう。しかし嘘を言わないだけで、本当のことを語っているとは限らない。
 千雨は知っている。
 真実だけを語っても、ひとは騙せると。
「あんたの本当の名前はなんだ?」
 クウネルはささやかな笑みを浮かべた。ひどく愉快そうだった。それをもはや隠そうともしなかった。
「これは純粋な疑問なのですが……どうしてその質問を選びましたか? 私の名を知ったところであなたには何の益もないはず。先ほどのやり取りからすれば、あなたならもっと有用な問いがいくつも思い浮かんでいるでしょうに」
 千雨はため息を吐いた。
「この問いが、あんたが一番嫌がりそうだったから、かな」
「ふむ。よく出来ました。花丸をあげましょうか」
「いらねぇよ」
 くつくつと笑う魔法使いに、千雨は肩をすくめて答えた。
 嫌がらせとしてはおそらくこれ以上なく成功したが、ヘンな意味合いで興味を持たれてしまった気がする。
 試合に勝って、勝負に負けた。千雨のイメージとしては、まさしくそんな感じだった。


「では……我が名はアルビレオ・イマ。昔はさておき、今ではしがない引きこもりですよ。とはいえ、あなたにとって私の名前は何ら意味を持ちません。それと、不用意に私の名前を口にすることは避けた方が良いでしょう。良くも悪くも私は有名ですからね。名前を知っているというだけで何らかの不利益を被る可能性があります」
 ちらりと横目で覗き見ると、刹那の表情が引きつっていた。知っている名前だったらしい。
「なんかやったのか」
「いえいえ。少々お尋ね者として賞金を掛けられていた時期がありまして」
「……げ」
「もう取り下げられていますが、私の立場はご理解いただけましたか?」
 千雨としては特に思うところはなかったが、夕映は困惑していた。その反応にクウネルは気をよくしたようだった。
 刹那の様子を窺うと、凄まじく動揺しているのが目に見えて分かった。
 アルビレオ・イマという名前が、ろくでもない意味を持つのは確かなようだ。
「ま、そういうわけですから私の本当の名前は口にチャック、でお願いしますね。ユエさん、セツナさん、そして」
 クウネルは、微笑んだ。
「ちうさん」
「待て」
 制止の声は滞りなく出た。が、アルビレオは、満面の笑みを浮かべて、こう口にした。
「ちうのホームページ。ずっと通わせていただいてます。素晴らしいですね、あのサイト」


 クウネルは流れるような口調で縷々と語った。千雨は耳を塞ぎたかった。
「実は私、以前からファンなんですよ。そういえば一昨日の会場にも出向かれたそうで。すごい話題になってましたねえ。いやー。私は見ての通りの引きこもりなので、ちょっと外に出て行くことは出来ないのですが……最近のネットは非常に便利で楽しいですね」
「だから待てと。……って、話題?」
 意味の分かっていない夕映が、ちょこんと首をかしげている。
 刹那はそれどころではなさそうだった。
「おや、ご存じない? それではこちらのノートパソコンをご覧ください。なにしろ地下ですからね。ここまでネットの回線を引っ張ってくるのには苦労しました。まずはコミケ会場に行った方の日記、というかレポートですね。一日目のコスプレ会場の昼頃の話などが」
「……おい」
 最新型のノートパソコンである。具体的には千雨の使っているのと同じ型。
「写真もアップされてますよ。さあどうぞ、超人気コスプレイヤーちうさんの勇姿です!」
 声では止まらぬと判断し、即座に千雨がクウネルのノートパソコンを奪い取ろうとした。
 が、どこにそんな俊敏さがあったのか、クウネルは千雨の伸ばした腕をひらりとかわした。
 モニターのなかには、星界の紋章というスペースオペラ小説のヒロイン、ラフィールがそこにいた。
 細かい説明は省くが、ラフィールは遺伝子改造により発生した、アーヴと呼ばれる種族である。
 年の頃なら二十歳くらい。世間知らずな少女のような。それでいて美しい容貌を持っている。
 苛烈な性格でありながら、可愛らしい物語のヒロインとしての面も持ち合わせている。
 子爵という位にある。アーヴの帝国においては王女である。
 写真を見ていると、ラフィールと呼ぶがよい! と尊大な態度で言い出しそうな空気である。というか実際に会場でそう口にしたのは、紛れもなく千雨自身である。
 つまりこのラフィール殿下は、コスプレしている千雨の写真であった。
 傍目には、千雨とは全くの別人に見えることだろう。
 人並み外れた美貌と、青がかった幻想的な髪の色、さらには高貴さを窺わせる瞳。その容貌が何かに向ける冷たい視線、誰かに向ける寛容な視線、ときに浮かべた怜悧な表情。
 平静の仕草、ふと見せる笑顔、そのどれをとってもアーヴなる恐ろしくも美しい存在を確信させる。
 架空のキャラクターのはずである。
 だが、そこにいたのは紛れもなくラフィールという人物でしかなかった。
 肌の露出が少ないのは、艦船に乗船しているときの制服姿であるためだ。
「……は?」
 画面を見た夕映が目を、ぱちくり、と瞬かせた。苦虫を噛みつぶしたような顔の千雨と何度も見比べている。
 今更取り繕っても無駄である。
 千雨は天を仰いだ。
 狭い部屋の薄暗い天井があるだけだった。
「ちなみにこんな写真もあります。こちらは二日目のものですね」
 次の被写体はカードキャプターさくらに出てくるサブキャラクター大道寺知世である。資産家の一人娘で、まさにお嬢様といったふんわりした雰囲気が見え隠れしている。こちらは千雨から三、四歳ほど年下である。なのに、それでもいっさい違和感が無い。
 千雨がコスプレしているのだが、どう見てもまごう事なき小学四年生である。
 落ち着いた雰囲気があり、今にも敬語でしゃべり出しそうな姿がそこにあった。
 白を基調としたフリルだらけの、いかにもお嬢様然とした格好をしている。普段の千雨が着たら似合わないにもほどがあるであろうその衣装も、黒髪で幼さを残した知世であればこれ以上なく似合っている。
 ショルダーバッグを肩からかけて、すぐにでも撮影に動けそうな楽しげな笑顔が見える。
 作中では少しレズっ気があるように表現されていた。優しげな目つき、口元に浮かべる笑みが、どこかあからさまに、それでいてさりげなく、まるで当人であるかのように、表情の所作のなかに表されている。
 で、しっかりビデオカメラを手にしているのはお約束、といったところか。
 知世になりきってファインダーを覗き込んでいる千雨の姿。
 そのカメラレンズの先には、同作品の主人公、木之本桜のコスプレをした妙齢の女性の姿があった。
 改めて見ると凄まじい構図である。
「これは会場にいた無数のさくらさんを、知世さんに扮したちうさんが撮影しているところですね。撮られていたコスプレイヤーの方々は皆さん口を揃えて『私が本物のさくらちゃんになったみたいだった』と仰っていたそうです。いやはや、さすがですね」
 おっとりとした感じ。穏やかそうな印象。その実、けっこう押しが強いところが小さな目線の動き、笑い方、その細やかな仕草からうっすらと読み取れる。
「これだけ完成度の高いコスプレを直に見に行けなかったのが残念でなりません。私も似たようなことはできるのですが、なにぶん道具頼りでして」
「ツッコミ待ちの発言か、それ」
「実は、ひとにコスプレさせる方が好みだったりします」
 ひょい、と取り出したのはヘアバンド型のネコ耳である。お手軽グッズだが、意外にケモノ耳部分がちゃんとしている。手にとって確かめてみると、手触りももふもふで猫をなでているような気分になれる。
「ちなみに私の手作りです。使うなら持ち帰ってもかまいませんが……」
「いらねーよっ!」
「出来は良いと思うんですがねえ」
「それは認める。アルビレオ、だったか? ……ホントーに暇なんだな。よく見るとすげー手間かかってるだろ、これ」
「私のことはクウネルとお呼びください。代わりにちう様と呼びますので」
「やめろ。マジでやめろ」
 千雨は目をつむった。なんだか非常に疲れたのだ。


「さて、そろそろコノカさんが目を覚ます頃合いです。ここで私はお暇させていただきましょうか。セツナさん」
「は、はい」
 完全に警戒を解いたわけではないのだろうが、先ほどまでの今にも刀を手に斬りかかりそうな雰囲気は雲散霧消しており、悩ましげな表情を見せている。その苦悩の表情たるや、ああ悩ましい悩ましいと床に転がって悶えながら口走りそうなくらいであった。
 千雨のコスプレ写真に関してはほとんど頭に入っていないようである。
「みなさん、私のことは……いえ、今日のことは口外無用にお願いしますよ」
「ですが!」
「ああ、もちろん私の存在が信用ならないというなら、コノエモン――学園長に確かめてもらって結構です。ただ、今の段階で他の方に私の存在をバラしてもらっては困るんですよ。こちらにも色々と事情がありますので」
 刹那は逡巡していた。
 言おうか、言うまいか、迷った挙げ句に、こう叫んだ。
「では……なぜ、なぜお嬢様や彼女たちの前に出てきたのですかっ!」
「おや、理由を聞きたいですか」
 クウネルは苦笑した。その言葉を待っていた、と言いたげですらあった。
「……なんです? その笑みは」
「この部屋に入る前にセツナさんが彼女たちを止めてくれれば、わざわざ私が出てくる必要はなかったんですが」
 その一言で、刹那の動きが凍り付いた。
「これは一般論ですが、本気で護衛として守るのであれば、常にコノカさんと一緒に行動したほうがいいと思いますよ。離れた場所からストーカーよろしく見守るのではなく。それこそ鬱陶しがられるくらいにべったりしてるくらいでちょうど良いでしょうね。まあ、年相応の子供らしく、その護衛ごっこを続けるのが悪いとは言いませんが……」
「言ってるじゃねーか」
「言葉の綾ですよ、ちう様」
「ちう様言うな!」
 矛先が逸れたのは良かったが、聞き流せなかった。
「冗談ですよ。ああ、誤解無きように言っておきますが……ちうさんのファンというのは本当です。特に今月初めにアップされた写真、あのさくらちゃんはポーズからアングルから何もかも素晴らしかったですね。しかも以前より衣装の出来が抜群に良くなっています。あれはちうさんの手作りですか?」
「いや、学校の友人に作ってもらった。そういうのが巧いヤツがいるんだ」
「なるほど。これだけの腕を持っている中学生がいるとは。さすがは麻帆良ですね」
 クウネルが話しているのは、カードキャプターさくらの主人公のコスプレについてである。
 エヴァお手製のピンクを基調とした、スカートのフリルにものすごく手間の掛かった一品であった。本当は茶々丸が部屋まで衣装を持ってくる手筈だったのだが、エヴァに呼び出されて着ている姿をお披露目させられた。なりきる前に。
 そのキャラクターになりきっている最中ならともなく、素のままであの格好は超恥ずかしかった、と思い出して顔を赤くする千雨。
「さて、あんまりいじめるのも可哀想だからこの辺にしておきましょうか」
「そうしてくれ」
「最後にひとつお聞きしましょう。……ユエさん。魔法を使ってみたいですか?」
 抗いがたい誘いの言葉である。話の展開は読めたが、千雨は差し出口かと思い、横から何か言うのを控えた。
「使えるものなら使いたいに決まってるです。クウネルさんは、私に魔法の使い方を教えてくれるですか」
 率直に答えた夕映に、クウネルは幼子に言い含めるようにこう告げる。
 建前を語る大人の口調で、真実をささやく子供のような声色で。
「魔法とはすなわち魔の法です。湿気のないところに氷を作り出し、燃えるもののない場所に炎を生み出す。見えているものを見えなくし、ありえざるものを呼び起こす。物理法則から外れたことさえ発生させ、ときにはひとの心さえ意のままに操ることもある。その名の通りに不自然なものなんですよ。魔力と呼ばれる目に見えないエネルギーを消費して、この世界の物理法則を、ありとあらゆる摂理を、ただ個人の意のままにねじ曲げる。そういう力です」
 一呼吸置いてから、こう続けた。
「よく考えてみてください。この平和な地で、平穏な日常を送るうえで、魔法は本当に必要なものですか」
 そして、と付け加えた。
 夕映の目を見つめて。
「魔法を使いたいという言葉を、銃を撃ちたいという言葉にそのままそっくり置き換えてみてください。本質はたいして変わりません。度を超した力は、普通の生活を送るためには必要ない。それどころか、むしろ大きな害になりうるものです」
 しばらく無言で考え込んだ夕映は、それでも使いたいとは口に出さず、そろそろと息を吐き出した。
「分かりました。少し……考えてみます」
「やれやれ。年を取ると説教臭くなっていけませんね」
「ご忠告ありがとうです。クウネルさん」
 片方の眉を上げて、夕映を見つめたクウネルは何事か付け加えようとしたが、口をつぐんだ。
「……時間切れですね。また会う機会もあるでしょう。答えは、そのときにもう一度聞くことにします。ああ、セツナさん。この件については私から直接学園長に伝えておきますので、特に報告などしなくて結構ですよ。では――」
 クウネルが姿を消したのと同時に、刹那の腕の中で木乃香が目を覚ました。
「はれ? ……ウチ、ねとった?」
「お嬢様っ! 大丈夫ですかっ!?」
 顔を覗き込む。目が合う。そして木乃香は嬉しそうに笑った。
「あ、せっちゃんやー。なら、さっきまでのは夢やなかったんやな……。んと、くーねるはんはどこいったん?」
 刹那が安堵の息を吐き出した。木乃香が自分の足で立ったのを確認すると、
「申し訳ございません。ではっ」
「な、なんで、せっちゃんっ」
 俯き加減に顔を背け、木乃香から遠ざかってゆく刹那。制止の声を振り切るようにして。
「待って。待ってえな! ウチ、何かしたん?」
「……いえ。これで失礼します」
 木乃香が刹那と再会してからもう数ヶ月経っているのだ。その前には数年分の空白があるのだ。
 木乃香にしてみれば大好きな幼なじみである。ずっと会えることを楽しみにしていた。
 それなのに、話しかけようとしては避けられ、逃げられ、他人行儀の会話しかできずにいた。
 ようやく間近に顔を見れたと思ったら、刹那は、近寄ることを嫌がるかのように、さっさと離れようとする。先ほど千雨が刹那とした会話のために、嫌われていないと思った途端にこの対応では、ショックも大きくなろうものだ。
 ここまで積み重なったものが一気に溢れてきたようだった。
「どうして……ちゃんと、目を見て話してくれへんの? 昔みたいにこのちゃんと呼んでくれへんし、なあ、ウチのこと、嫌いになったんか……? ずっと大切なともだちやと思ってたの、うちだけだったんかな……なあせっちゃん。どうして? せっちゃんがこっちに来て、一緒に遊びに行ったり、一緒に美味しいもん食べたり、昔みたいにしゃべったり、そうするの、ずっと楽しみにしてたんよ……なんでなん? どうして、何も答えてくれへんの? なぁ、せっちゃん。なぁ……」
 刹那の名を呼ぶ木乃香の声は震えていた。悲しみに打ちのめされている声だった。
 普段の脳天気な姿はなりを潜め、ただただ弱々しかった。幼なじみからの拒絶がそれだけ堪えたということだ。
 寂しそうに、目で追う。
 木乃香は、また追いかけようと心で思っても、身体が動いてくれないようだった。
「あ……せっちゃん」
 それでも刹那は答えず、足早に部屋から出て行こうとした。
 ドアの前には夕映がいた。いつの間にか、立ち去ろうとする刹那の前に立ち塞がっていた。
「刹那さん。このかさんからどうして逃げるのですか?」
「あなたには関係ないことです」
「関係ならあるです。私は、このかさんの友達ですから」
「……ッ!」
 刹那は口を開きかけて、やめた。
 そっと唇を噛みしめた。拳を握りしめた。
 悔しそうに。苦しそうに。
 まるで、どうしたらいいのか分からない幼子のように。
「待て待て待て。なんでそんなに悲壮感溢れる状況になってんだお前ら。やっと面倒なおっさんが帰ってくれたってのに……」
「……千雨さんにも聞きたいことは色々あるのですが」
「それは後にしてくれ。いや、聞かないでくれるのが一番ありがたいんだが」
「分かりました」
「んで、桜咲」
 睨まれた。しかし、眼光には最初クウネルに向けたほどの鋭い輝きはなく、動揺しきっていることが丸わかりだった。
「お前が何やってて、何を考えてるか、これから近衛に好き勝手に吹き込むけどいいか?」
「……好きにしろ」
 ふん、と鼻息荒く刹那が答えた。何も知らないくせに、とそうした感情が透けて見える態度だった。
 千雨は笑顔で言った。
「分かった。好きにさせてもらおう。えー、こちらにおわす桜咲刹那サンは、近衛お嬢様のことがこれ以上なく大好きらしい。授業中にさりげなくちらちらと見ているし、階段を降りるときは転ばないかな大丈夫かな先に下に降りて抱き留められる位置取りすべきかな、と遠くから心配そうに見守っていたりする」
「ちょっ!? 待ってくだ――」
「ちなみに近衛が危なそうな場所に行くときは、だいたいちょっと離れた場所から見守ってたりする。地下探検のときも近衛が降りるときには実は毎回こっそり付いてきてるし、神楽坂と一緒に東京方面に何か買い物に出かけるときもさりげなくついて行ってる。いやそんなに心配なら一緒に行動しろよ、むしろ一緒に遊びに行けよ、と言いたくなるくらいこっそりひっそりとな」
「は、長谷川さんが何故それを!?」
「――ちなみに今のはカマかけただけなんだが」
「え」
 愕然としていた。心配になるくらい反応が素直すぎる。
 実際には楓からの目撃情報を参考にしていたりするため、根拠はあるのだが。
「ついでに言うと、なぜか自分は近衛の近くにいてはいけない、とか思い込んでるよな。さっぱり意味分かんねーけど!」
「……なっ」
 刹那の目に千雨に対する警戒の色が浮かんだ。動揺もあったが、危険と認識されたらしかった。
「まあ嘘付くのも苦手そうだし、近衛に隠し事とか出来そうにないし、だから距離を取る方が楽なんだろ?」
 千雨としては、刹那が何を考えているのか、おおよそのところは分からなくもなかった。
 刹那は怖がっているのだろう。
 木乃香から否定されることを。嫌われることを。そうされたくないから、距離を取る。壁を作る。
 だが、そんなのは誰でも同じだ。
 誰だって、自分な好きな相手からは、嫌われるより好かれたいに決まっている。
 特殊な事情は、逃げたい理由にはなるけれど、それを逃げるための言い訳にしてはならない。
 木乃香が一言一句聞き漏らすまいと、千雨と刹那の会話にじっと耳を傾けている。
 千雨は軽く息を吐き出した。
 自分は所詮第三者に過ぎない。主役はこの二人であって、脇役はただ場を盛り上げるのみであると理解している。
「長谷川さん、あなたに私の何が分かるというんですかッ」
「いや、だから分かんねーって。自分の気持ちが分かってほしかったらちゃんと言えよ。あ、話す相手は私じゃねーぞ」
 千雨のおざなりな物言いを受けて激高しかけた刹那だったが、
「せっちゃん、今のホントなん?」
「い、いえ」
 横からの期待に満ちた声に、一気にそれどころではなくなった。木乃香が詰め寄る。刹那が言葉を出せずに一歩下がる。
 木乃香がさらに前に足を踏み出す。それこそが、まさに今の二人の関係のようだった。
「ウソはアカンよ」
「……その」
「そういえば、寝言で『このちゃんは私が守るっ! 誰であろうと指一本触れさせんッ!』とか叫んでたって聞いたぜ」
「……うう」
 反論はなかった。千雨は少し意地悪な顔をした。
「ちなみに今のもカマかけただけなんだが……自分なら寝言でそれ言いそうって思っただろ、今」
「は、長谷川さんはさっきから何が言いたいんですかっ!?」
 木乃香に言い訳もできず、言い返せもしないために、とりあえず千雨にくってかかる刹那だった。
「べっつにぃー」
 護衛としての欠陥についての説教はすでにクウネルがしてしまったから、千雨としては二人を煽るだけで良かった。
 もちろん勝算はあった。
 端から見ていれば分かる。刹那が木乃香を嫌っているというのがありえない以上、あとはどこを着地点にするかだけである。刹那が拒絶するようなかたちで距離を置いているのが問題であるのなら、話をする環境させ整えてしまえば、どっちに転がっても前進することは間違いない。
 木乃香が刹那を求めている以上に、刹那は木乃香に執着している。
 千雨はもう何も言わなかった。
 二人は、お互いを、互いの一挙一動を注目している。
 目と目が合う。視線が絡み合う。
 瞬きする暇さえ惜しむかのように、二人は見つめ合っている。
「なぁ、せっちゃん。ウチが何か悪いことしたんなら謝るえ。ウチと話してくれへんのに、何か理由があるんなら、それもしゃーない。何か隠してることがあるんなら、言わんでええ。でもな、ウチはせっちゃんとまた仲良うしたいんや」
「それは……」
「ダメなんか。答えられんのやな……うん、知っとると思うけど、ウチはせっちゃんのこと好きや。大事な幼なじみやし、今も大切なともだちだと思ってるえ。だからな、せっちゃんはウチのこと、どう思てるん? これなら答えるの難しくないやろ? 好きか、嫌いか……それだけ教えてくれたらええ。なあ、せっちゃん」
「……その」
「ウチがせっちゃんのことを好きなのと同じくらい、せっちゃんは、ウチのことが好き。それでええ?」
 真面目な顔をして、木乃香が正面からそう言い切った。
 今の言葉を否定されたらどうしよう。嫌いだって言われたらどうしようと、そんなふうに不安を押し殺しての問いだった。
 答えを聞くのはきっと怖かったはずだ。それでも、まっすぐに刹那を見つめた。
 刹那は、もう目を逸らせなかった。逃げ出そうともしなかった。顔を背けるなどできるはずがなかった。
 ただ、はいと唇を動かし、首を大きく縦に振った。
「良かったぁ」
 本当に、安心したと、木乃香はそっと笑った。華やぐような笑顔で、やわらかく微笑んだ。ほろり、と溜まっていた涙の雫が一筋、頬を伝った。ぼろぼろと涙はこぼれ、次から次に溢れてきた。堰を切ったように止めどなく流れ続けた。
「あ……このちゃん……」
 不意に、刹那が昔の呼び方を口走った。なおも嗚咽をこらえようとする木乃香に動揺しきって慌てふためいている。
 木乃香は泣き笑いのまま、うん、と頷いた。二度、頷いた。
 刹那も我慢していたらしい。木乃香にそっと手を取られる。手を取られ、両の手で包み込むように握りしめられる。
 やがて耐えきれなくなったのか、刹那も泣き出してしまった。
 ずっとこうしたいと内心では思っていたのだろう。そうしてはいけないと心を押し込めていたのだろう。
「あはは……せっちゃんは泣き虫さんやなぁ」
「このちゃんだって泣いとる……」
「そやなー……ウチ、こんなに泣いたのいつ以来やろ……うん、すっきりしたわ」
 先に泣き止んだのは木乃香だった。どこか晴れやかな表情で、輝くような笑みをこぼした。


 めでたしめでたし、ということでいいだろう。
 千雨はほっと一息ついた。大丈夫だとは思っていたが、刹那がどの程度自分を抑圧しているのかは読み切れなかった。行動の理由が全部好意によるものだと半分決めつけて発破をかけた以上、上手く行って貰わねばとけっこう心配だったのである。
 交わされる会話からおおよその事情を察したらしく、微妙にもらい泣きしていた夕映と一緒に、千雨は邪魔にならないようさりげなく部屋の隅に移動していたのだが、ようやく落ち着いた様子の木乃香から穏やかな目を向けられた。
「千雨ちゃん。ありがとうな」
「どういたしまして。つっても大したことはしてないぜ。私は状況を整理しただけだ」
「うん。そういうことにしとく。そんでな、夕映にも感謝しとるえ。さっき、せっちゃんを逃がさんといてくれて、ありがとう」
「気にしないでください。……友達ですから」
 そう返す夕映の耳が真っ赤だった。感謝されるのに、あまり慣れていないらしかった。


 
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