刹那も十分に落ち着いたところで、なんとはなしに千雨に視線が集中した。木乃香は急に切り替わった雰囲気にびっくりしているが、夕映も刹那も聞きたいことが山ほどあると顔に出ていた。
 しかし二人とも口を開こうとはしなかった。何を聞いていいのか分からなかったのかもしれない。
「……えっと、千雨さん」
「なんだよ」
「いえ。その」
 木乃香がいるために、どの話題を振って良いのかと判断に困っているのだ。クウネルの行動から、木乃香の前で魔法の話をしてはならないことは夕映にも分かっていた。困り果てている刹那の、赤くなって潤んだままの目も、口ほどに物を言っていた。
「そういえば、こ、コスプレがご趣味で?」
「……う」
 どうしたものか。千雨はうなった。
「クウネルさんも言ってましたが、すごく綺麗だったと思うです」
「そっ、そうですよ! まるで別人みたいに格好良かったり可愛かったではないですか!」
 フォローのつもりで夕映の感想に同乗してきた刹那の声も、どこか上擦っていた。
「へ、コスプレ? なんの話なん?」
「あ」
 ちょうどその話が出る前のタイミングで眠らされていた木乃香が、楽しげな話題と見てきゅぴーんと目を光らせた。
 こういうときだけ妙に鋭い。
「おお、それやな! えーなー。可愛いー。これホンマに千雨ちゃんなんかー」
 木乃香が何かを発見した。視線の方向はエレベーターの扉の前である。ちょこんと置かれていたのは数枚の写真と、作りのしっかりとしたネコ耳であった。
 手にとってしげしげと眺めている。
 夕映たちも覗き込んだそれは、千雨にとっては見覚えのある写真である。
 構図も、衣装も、顔立ちも、何もかもに見覚えのありすぎる姿だった。
 先日ホームページ上にアップロードした記憶がある。どう見ても自分のコスプレ写真であった。わざわざ写真用の光沢紙を使って綺麗に印刷してあるあたり、まず間違いなくクウネルの仕業である。
 先ほど話題に出していたキャラクターの、千雨によるコスプレだった。
 木之本桜になりきっているところがしっかりと映し出されている。
 タイトルを付けるとしたら『汝のあるべき姿に戻れ、クロウカード!』という呪文だろうか。ちょうど、そう唱えている瞬間の姿になりきっているところである。木乃香の手に握られた別の写真ならば『絶対、大丈夫だよ』と口にしている場面である。
 反撃のつもりか。クウネルにとっては、名前を答えさせられたのは案外本気で痛かったのかもしれない。
 流石に無いとは思うのだが、ファンによる布教活動の一環と答えられても否定出来ないのがさらに怖いところだった。
「なっ……いつの間に!?」
「あれ、そーいやくうねるはんはどこにいったん?」
「用事が済んだらさっさと帰ったぜ。そのとき近衛は寝てたしな」
「……あ! なるほどなぁ。千雨ちゃんが魔法少女やったんやな!」
 おそろしい勢いで空気が凍り付いた。
 無論そういう意味ではないとは三人とも分かっているのだが、あまりといえばあまりなタイミングだったせいである。
 眠らされる直前の夕映との会話との繋がりからすると、別段木乃香にとってはおかしな言葉ではない。
「あれ? そういやくうねるはんも魔法使いのコスプレゆーてたなぁ。……こんな写真も持っとるゆーことは、つまり千雨ちゃんとくうねるはんはコスプレ仲間なん?」
「違う」
「ちゃうの? そんな照れなくてもー。んー、このネコ耳、くうねるはんもつけてたんかな?」
 良いながらネコ耳を自分の頭につけてみる。にゃーん。手を招き猫風に丸めて、刹那に向ける。
「にゃー」
 可愛かった。
「お、お嬢様っ」
「にゃーにゃーや。せっちゃんも、一緒にどうにゃー」
 ネコ耳はもうひとつあった。刹那に手渡した。普段の刹那であれば断るであろう装飾品だったが、先ほどまでの空気のためか、いまこの状況の雰囲気に飲まれてか、おそるおそる頭に乗せた。
 木乃香が鳴く。
「にゃーん?」
「……その、やはり私には」
「にゃー?」
「えっと。にゃ、にゃーん」
「にゃー」
 ごろごろ。丸めた手のかたちのまま、刹那にすり寄っていく木乃香。押し返すこともできずされるがままの刹那。
 木乃香はにこにこと笑っている。幸せそうだった。為す術もなくうにゃうにゃされている刹那はもっと幸せそうだった。
「……なんですか、これ」
「私に聞くな」
 夕映の感情のこもってない声に、千雨はため息混じりに答えておいた。


 にゃんにゃんにゃーん、とキリがないので、二人の戯れは適当なところで止めておいた。
 我に返った刹那が顔を真っ赤にして俯いている。木乃香は極めて当たり前の顔をしていた。流石としか言いようがない。
「せっちゃん、それ、ずっとつけへん?」
「いえ」
「にゃーにゃー鳴くせっちゃん、可愛かったえ」
 沈黙であった。
 ふう、と大きく息を吐き出して、木乃香は少しすねたように目を伏せた。
「……で、そろそろウチには内緒の話するん?」
「お、お嬢様」
 わずかに恨みがましい口調は少しわざとらしかったが、雰囲気を深刻にさせすぎないためには必要だったのだろう。
 いきなり図星を突かれて、刹那の目が泳いでいる。これでは、隠し事がありますよと喋っているに等しい。単純に魔法関係のことを隠す必要がある以上に、刹那にはひとに知られたくない秘密があるのだろう。
 刹那の隠している何かについて、千雨にはなんとなく見当がついていた。だがそれを口にするのは憚られた。ただ、あの世界の仲間のことを思い返した。ティナは決して明るい性格だとは言えなかったが、ひどく優しいひとだった。
 ときには悲しい目をすることもあったが、ふとした瞬間に見せる笑顔は美しかった。
 彼女の、子供達を見つめるあの横顔を、あたたかな眼差しを、今そっと思い返していた。
「ウチかて何も考えてへんわけやないしなー。でもな、せっちゃん」
「……はい」
 先刻の問答から完全に主導権を握られてしまって、刹那は萎縮するばかりである。
「千雨ちゃんが言うてたけど、こっそり見守ってたとか、それってウチのこと守るためやった?」
「はい……影ながら護衛をさせていただいておりました」
「ウチはそんなこと頼んどらんえ。なら、父さまに頼まれたん?」
「それもありますが……このかお嬢様のことは、私が守りたかったんです!」
「なら、せっちゃん。お願いやから……身体だけじゃなく、ちゃんと心も守ってえな」
 木乃香の一声で、刹那が打ちのめされていた。
 千雨が想像していた以上に打たれ弱かった。傍目には、前向きに考えれば問題の大半が解決するタイプと思われた。このタイミングで木乃香に引っ張られていくのは悪いことではないだろう。
 いくらか心配ではあったが、二人のすれ違いの最大の原因は会話をしなかったことにある。それも刹那が逃げるかたちだった以上、木乃香が一度捕まえてしまえば、今までより悪くなるとは考えにくかった。
 これ以上、二人のあいだに横槍を入れるのは御節介が過ぎる。これ以上は良くも悪くも二人の問題なのだ。
 刹那から話すのか、それとも木乃香が聞き出すのか。刹那がその身に秘めたものを打ち明けられる日まで、そう遠いことではあるまい。
「な、せっちゃん。今日は……ウチの部屋でゆっくり話そ。これまでのこと。これからのこと。話したいことはいっぱいあるえ。大丈夫、せっちゃんが隠してることを無理に聞きだそうとは思ってへん。けどな、離ればなれになってた時間はちゃっちゃと取り戻さんともったいない。せっかくまた仲良うできるんや。まずは一緒にどこかへ遊びに行く日も決めなあかんし……ああ、アスナにせっちゃんのこと紹介もせんと! もー、夏休みが半分しか残ってへんやん。急がな!」
「お嬢様っ!? ちょ、引っ張らないでくださ……お嬢様っ!?」
「ちゅーわけですまんけど、ゆえ、千雨ちゃん。勝手ですまんけど、後は任せてもええ?」
「行ってらー」
「はい。地図の方は描き込んでおきますので、存分に語り合ってくると良いです」
「おおきにー。ほな、せっちゃん行くえー」
 刹那は、抗う余地もなく、地上への長い道をあの体勢のままずるずると引っ張られていくのだった。
 それを見送った夕映と千雨は、お互いに顔を見合わせた。
「……近衛、意外とアグレッシブだな」
「探検部員はけっこうあんな感じですよ?」
「ああ、理解した。そういや宮崎も性根の部分だとあんな感じっぽいしな。……乙女は強し、ってか」
「千雨さんまでラブ臭とかハルナみたいなことを言い出さないでほしいですが」
 夕映の言葉に、なんとも言い難い表情をして、千雨は肩をすくめた。



「で、このかさんも帰ったので聞きますが……千雨さんは知っていましたね?」
「何をだ?」
「はぐらかさなくていいです。魔法について、です」
「よく分かんねーけど、私がそれを知っているという根拠はあるのか?」
「驚かなかったじゃないですか」
「いや、すげー驚いてたぜ」
「表情が変わってませんでした」
「ああ、動揺すると表情に出なくなるタイプなんだ。ポーカーとか得意だし」
 正確にはセッツァー仕込みのイカサマ技術があるから得意なのである。口には出さないが。
「……喋る気はない、ということですか」
「喋る気もなにも、知らないものはどーしようもないんだが」
「……刹那さんは途中から、クウネルさんは最初から気づいていたようですが」
 じっと見つめられた。
 てこでも動かないという断固たる意思が感じられた。
「分かった分かった。降参する。魔法については知ってた。つっても桜咲とかクウネルとかと違って、私はああいった手合いじゃない。つまり、麻帆良のそういう事情の関係者じゃないってことだ」
「そう、ですか」
「安心したか?」
「安心。……ええ、そうかもしれないです」
「さて、どーすっかな。……っと、そうだ。綾瀬に謝っておくことがあった」
 すっかり失念していたが、落ち着いてみるとこの状況の一因が自分にあることが思い出された。
 刹那と木乃香の関係に一石を投じる切っ掛けになったことを考えれば、一概に悪かったとも言い難いのだが、しかし夕映にアルビレオ・イマなる怪人物との接点を作ってしまったのは失敗だったかもしれない。言葉通りの元賞金首、明確な危険人物とは考えにくいのだが、それでも刹那の反応を見る限り有名な人物であることは確かなようだ。
 魔法の関係者にとって有名という時点で、誘蛾灯じみて厄介ごとを引き寄せかねないのは言い過ぎではあるまい。
 木乃香については麻帆良の学園長という、魔法関係者の最たるものの孫娘という時点で関わらないのは不可能だと推察されるが、一般人もどきの千雨とは違い、夕映だけは好奇心旺盛なだけの完全な一般人である。
「なんです?」
「この部屋に入れるようになったのは私が原因だ。すまん」
「なぜ千雨さんが謝るのかがさっぱり分からないですが、説明はしていただけるのでしょうか」
 夕映の疑問に答えるため、知っていることを推測を交えてざっと話した。
 麻帆良学園都市全体に、ある程度の非常識を常識としてすり替える、あるいは曖昧にする意識誘導が存在すること。魔法関連の行為、施設、道具などを一般人から秘匿するために、認識阻害という魔法が使われていること。そしてそれが、この隠されていた部屋の扉にも仕掛けられていたこと。
「千雨さんは関係者ではないと言いましたが」
「私の場合……意識誘導とか、認識阻害とか、そういうのが効かない体質らしくてな。私が同行してなきゃ、ここの扉はスルーされてたはずだ。中に入らなければクウネルと出くわすこともなかったし、魔法について知ることもなかったはずだ。だからな」
「なるほど。クウネルさんの発言の真意がようやく分かりました」
 夕映が深く頷いた。
「ですが、千雨さんに謝られる筋合いはありません。地図の空白部分を調べたいと言い出したのは私たちですし、魔法について知ったことを後悔してもいません。魔法に関わった者が不幸になると確定しているわけではない……ですよね?」
「まあな。ただ、平穏無事な日常からは遠ざかる。こっちは確実だ。知らない方が良いことって世の中には多々あるからな」
「このかさんに聞かせなかったのは、そのためですか」
「んー。あれはまた別の事情も絡んでそうだが……そこんとこ、どうなんだ? なあ、覗き見してるクウネルさんよ」
「えっ!?」
 夕映が驚く顔を見せるのと同時だった。
 すぐそばの空間がぐにゃりと歪んで、先ほど去ったはずのクウネルが現れた。
「驚きました。よく気づきましたね。……セツナさんにも気づかれないように全力で隠れていたんですが……あなた本当に一般人ですか?」
「話してみた感じ、あんたの性格からすると、近衛と桜咲の甘酸っぱいやり取りを見逃すはずがないと判断しただけだ。つっても、すぐ近くに隠れてるのか、遠くから見てるのかまでは分からなかったが……最低でも盗み聞きはしてるだろうと思ってな」
「そんなに分かりやすいですか、私の性格は」
「知人に似たようなのがいたんだよ。それだけだ」
「ふむ。なかなか苦労されたようで」
 タチの悪さは自覚しているらしい。それはそれで非常に嫌な相手である。
「あ、あの」
「というわけで、早々にまた会う機会とやらが来てしまいましたね。まだ一時間も経っていないのですが……答えをお聞きしましょうか」
「保留には、できませんか」
「かまいませんよ。ただし、その場合には……次にいつ私と遭遇するかは分かりませんが」
 特売セールの文言じゃあるまいし、と思ったが、千雨はこの茶番を止めることにした。何ヶ月後かにまた出くわして、その間夕映が思い悩んだ結果を口にするならともかく、さっきの今で答えを急かされてしまっては、このやり取りに意味が無い。
「あー、ちょっと待った」
「どうしました? ちうさんも魔法と使ってみたいとか?」
 クウネルが笑顔で手招きをしている。実際にはその場に佇んでいるだけなのだが、そんな雰囲気だった。
 千雨は無言で一蹴して、夕映に対して向き直る。
「綾瀬。答える前に、こいつの言葉をよーく思い返してみろ。綾瀬なら冷静になってみればすぐ気づくと思うんだが」
「えっ? クウネルさんの発言ですか。えっと、あれ……まさか!?」
 一分経たずに気づいたようだった。日頃の成績に比べて、頭の回転がやたらと速い。
「魔法を使ってみたいですか、と聞いているだけで……教えてくれるなんて、ひとことも言ってないです!?」
「つーか、どうせ綾瀬が使いたいって答えてたら、『では魔法を教えてあげましょう……あなたの記憶を消す魔法をね!』とか言うつもりだったんだろ? 実際には消さないにしても……充分以上の脅しにもなるしな」
「あっはっは。困りましたね。いくら私でもそこまではやりませんよ」
「そこまでは、ってことは似たようなことはやるつもりだったんだろうが」
「うーん、ちう様にはかないませんね」
「ちう様言うな」
 とんとん拍子に投げ合う言葉の応酬を呆れたように眺めつつ、夕映は嘆息混じりにクウネルを見上げた。
「結局、クウネルさんは私に魔法を教えてくれる気はなかったと?」
「ユエさんが本気で私の教えを欲し、なおかつ力が必要な状況に陥っていたならば――魔法の使い方を教えるに吝かではありませんでしたよ」
「つまり、今は教える気はないと」
「ええ。ユエさんには不必要でしょう。チサメさんの場合は、むしろ何らかの自己防衛の手段を持っているべきだと思いますが」
「千雨さんなら? どういう意味です?」
「チサメさんは魔法関係のトラブルに巻き込まれやすいということです。体質の件と併せれば、これまで関係者の庇護下になかったほうがおかしい状況ですし……今のように安全のために一般人が入り込まないようにしてある場所に踏み込んでしまうとか、危険な妖怪退治の場面にたまたま遭遇してしまうとか、今まで何度かあったのでは?」
「まあ、確かにあったが」
 夕映から心配そうに見つめられた。クウネルの声は淡々としていて、ひとを落ち着かせるような響きだった。
「チサメさんが望むのであれば、学園長宛の紹介状を書きましょう。いかがですか」
「気遣いはありがたく受け取ります。ですが、いりません」
 こればかりは完全に厚意からの発言だったために、少し佇まいを正して、きっちり頭を下げておく。
「本当に大丈夫ですか。おそらく、これからも巻き込まれるでしょうに」
「一応、身を守る術にはいくつか心当たりがあるので」
「ふむ……分かりました。本人がそう言うならこれ以上は押しつけになりますか」
 目が合った。クウネルは頷いた。
「では、私はこれで」
 別れの挨拶もそこそこに、クウネルは去った。
「千雨さん。……私たちも帰るです」
 夕映の言葉に頷いて、千雨は歩き出した。


 一応、クウネルの言っていたもう一カ所の地図の空白、本棚を調べて仕掛けをチェックし、その中に潜り込んだ。
 嘘ではないだろうとは思っていたが、下への階段はちゃんと存在していた。配置を確認して、周囲に余計なトラップが設置されていないことまでチェックして、夕映が大きく息を吐き出した。
「終わったです!」
「じゃ、帰るか」
 ようやく本日の目的が終了したのだ。
 帰り道には一番安全なルートを用いて戻ることにした。無事に地上に戻るまでが正しい冒険の姿である。
 急がず慌てず落ち着いて進み、地上に出て、一息ついて、それからとりあえず並んで歩き出した。
「なんか……脇道に逸れてる時間のが長かったな」
「ですね。お腹が空いたです」
「なんか食いに行くか。なんか食べたいもんあるか?」
「特には思いつかないですが……」
「どうすっかな。日曜だしなあ。……あ」
「どうしました?」
「……くそ。ミスった。近衛の事情を聞くつもりだったのに、話逸らされてたことに今気づいた」
「気にしなくていいと思うです。このかさんの事情を聞いても、ヘンに手出ししないほうが上手くいく気がしますし」
「それはそうなんだが……まあ、いいか。なんかもう一個くらい忘れてる気もするんだが……」
「あ、のどか!」
 夕映が遠くにいたのどかを見つけて声を掛けると、ぱたぱたと急ぎ足で近づいてきた。
 どうやら図書館島の地上部分で仕事をしていたらしい。夏休みだというのに制服姿だった。
「ゆえ、今日はごめんね……誘ってくれたのに行けなくて……さっき、ようやく終わったんだよー」
「図書委員の仕事だから仕方ないです。それより、今から千雨さんと一緒にお昼を食べに行くのですが……」
「え、千雨さんっ?」
「まだ昼食取ってないなら一緒にどうだ?」
「は、はいっ。ご一緒させてもらいますー」
 橋の方へと進むと、のどかもあたふたしながら横に並んだ。
「ゆえ、どうだった?」
「バッチリです」
 軽く地図を見せると、のどかは手にとって、じっくり眺めだした。空白部分に入るための仕掛けについても書き込んであるため、ふむふむと真面目な表情で地図を読み込んでいる。道ばたで。
「宮崎。とりあえず、どっかの店に入ってからでいいんじゃないか」
「あ、は、はい……そうしますー……」
 のどかは照れた。


 三人で適当に入った店で一緒に食事をし、その後、街中の書店をぶらついたあとで別れた。千雨が寮に戻ると、明日菜が部屋の前でぼけーっとしていた。
「あ、千雨ちゃん」
「何やってんだ」
「ねえ聞いてよー。このかがいきなり刹那さんを部屋に連れてきてね、『ウチの幼なじみを紹介するえー』とか言い出して、せっちゃんせっちゃんって延々のろけ話みたいに聞かされて、刹那さんの方もいつものキリッって感じじゃなくて、うなーとか、ほにゃーって感じだったのよ。このかが褒めると顔赤くするし、なにあの可愛い生き物」
「へえ」
 うなーとかほにゃーという形容はよく分からないが、だいたいのところは把握した。
「でね。なんか積もる話もあるとかないとかで、邪魔しちゃ悪いというか、あの謎の空気に耐えられなかったっていうか、居場所がなくて逃げてきちゃった」
 気持ちは分からんでもなかった。
「それとね、この写真なんだけど……」
「あ」
 千雨のコスプレ写真であった。つい先ほど目にしたのと全く同じものだった。
 完全に忘れていた。
 木乃香がその写真を持ったままだったのだ。そのまま刹那を連れて、自室まで戻ってきた。だから写真も一緒だった。何もおかしくはない。おかしくはないのだが、どうしてこうなるのだろう。
「違ってたら謝るけど……これ、千雨ちゃんよね?」
「……はぁ」
「えっと、そのー、趣味って人それぞれだから、気にしなくてもいいと思うんだけど!」
「フォローしてくれるのはありがたいが、とりあえず部屋の中に入ってくれ……」
 千雨は力尽きた表情で明日菜を室内に引っ張り込んだ。
「このかがね、『やっぱり千雨ちゃんかわえーわー。こんなん着てるとこ普段から見せてくれたらええのになぁ』って」
「もう、寝る」
「え?」
「時間潰したいなら、そこにあるゲームを好きに使ってくれ。私は寝る。あとその写真は処分しておいてくれるとありがたい。じゃ」
 ばたん。
 ベッドに飛び込んで、うつぶせになった状態でそう告げた。枕に顔を埋めて目を閉じる。
「ちょ、ちょっと! 千雨ちゃん! ホントに寝ちゃうの!?」
「パトラッシュ……なんだかとても眠いんだ……」
「いつからネロになったのよ千雨ちゃん! っていうかあのアニメ思い出して泣きそうになるから止めて!」
「もう、ゴールしても……いいよね」
「どこによ!? しかもいま声だけで泣きそうになったわよ! いったいどうなってるのよ!?」
「……神楽坂。すげーな。そのツッコミ体質」
 半分は本気で眠るつもりだったのだが、打てば響くような反応に、千雨はゆるゆると身体を起こした。
「だれがツッコミ体質よ!」
 この場にハリセンがあったらスパーンと頭をはたかれていたであろうことは想像に難くなかった。
 実のところ、あかん、ゴールしたあかん! とか返されたらどうしようとボケてから気がついた千雨だったのだが、杞憂だったらしい。これが超だった場合普通に台詞全部きっちり揃えて返答される危険性があったのだ。
 ちなみに前者はフランダースの犬アニメ版。後者はPC版Airが元ネタである。ちょうど全年齢版が三週間ほど前に発売されたばかりであった。
 頭もすっきりしてきたので、ベッドから降りる。
「ゲームでもするか?」
「あー。実はあんまりやったことがないのよね。前に友達の家で触らせてもらったくらいで」
「よく考えたらクラスメイトにゲーマーほとんどいねえな。……エヴァくらいか?」
「え、エヴァちゃんこういうのやるの!? すごく意外なんだけど」
「っと、あいつ、わりとイメージ大事にしてそうだから、聞かなかったことにしてもらえると助かる」
「へー、エヴァちゃんって……そうなんだ。うん。黙っとく」
 エヴァの事情については説明しづらいにもほどがある。明日菜が何やら想像をたくましくしているのは見て取れたが、ここで変な否定をするとよりややこしくなりそうでもあった。
(すまん、エヴァ。神楽坂の中で、お前に変なイメージがついたかもしれない)
 胸中で謝罪しておいた。


 あとは暇つぶしを兼ねて、明日菜とゲームでわいわい遊びながら適当に楽しく話していた。
「ねえ千雨ちゃん……ボム投げるの止めて。ホント止めて。っていうかさっきからグローブ狙って取ってるでしょ!」
「そっちだってボム使って道塞ぎまくってるだろ! いきなり殺しにかかっておいて何言ってんだ!」
「初心者なのよ! 少しくらい優しくしてよ!」
「お前のどこが初心者だ! 最初からパンチ使いこなしてんじゃねえかっ!」
「だって爆弾なんて怖いじゃないっ! 遠ざけないといけないって気分になるでしょ!」
「これはそういうゲームだッ!」
「知ってるわよっ!」
 適当に楽しく話していたのだ。
 ちなみに勝率は半々である。一人プレイになれている千雨を相手にしての明日菜の戦績である。パンチもキックもピンポイントで嫌な位置を狙ってくる明日菜のどこが初心者なのかと、半ば本気で小一時間ほど問い詰めたくなった千雨だった。
 特に反射神経がおかしい。いや、足の速さも非常識なのだから、他の運動能力も桁外れであることは予想して然るべきだったのだが、あの古と同じレベルの反応速度である。どこの超人中学生だと、ツッコむのも躊躇われるレベルだった。
 そこらへんを広い海のような心でスルーすれば、まあ言い合いも含めておおむね楽しかったと言える結果であった。
「……二人だと殺伐としすぎるな、ボンバーマン」
「誰か呼ぶ?」
「んー。誰かってえと」
 とんとん。
 肩を叩かれた。振り返った。ザジがいた。
「うおわっ!?」
「ザ、ザジさん!?」
 こくり。そして自分を指さすザジだった。
「……一緒にやるか?」
 こくこく。静かに頷かれた。
 千雨はさっと三人以上で遊ぶときのために用意して置いたマルチタップを取り出した。埃ひとつ無い新品同様のマルチタップである。手早く設置して、それに繋がったコントローラを渡すと、ザジは明日菜と千雨の真ん中にちょこんと可愛らしく座った。じっと画面を見つめている。
「じゃ、再開するか。ザジは三コンな」
「千雨ちゃん、ルールはそのままでいいの?」
「初心者っぽいけど……大丈夫、みたいだな」
 細かい設定を触る前に、ザジの視線で思いとどまった。そのままやりたいらしい。
「うし、スタートな」


 ザジは強かった。八割方、ザジの勝利である。
「……無表情で、無言のまま、ボムを蹴り続けるとか……どうなんだそれ」
「ザジさん強すぎ……無駄がないわ。初心者じゃないのよね」
「つーか神楽坂。いきなり足引っ張ってんじゃねぇよ!」
「千雨ちゃんだって私の前に爆弾置いてさりげなく引っかけようとしたじゃない!」
「共同戦線張るって言い出したのお前だろうがっ!」
「私ね、さっきの自爆の恨み忘れてないからね」
「その前にお前がミスって私まで巻き込んだじゃねーかっ!」
 喧々囂々であった。
 ちなみに、罵り合いながらもゲームは進んでいる。というか叫びながらも全く集中を切らしていない千雨が隙を窺っている合間に、叫ぶたびに適当な場所にボムを跳ね飛ばして顰蹙を買う明日菜という構図が出来上がっていた。そこに滑り込むザジのボムシュート。すとんと入り込んだ爆弾のせいで逃げ場が無くなって、飛んできたボムがぶつかって身動きが取れなくなって、どかん、であった。
 明日菜の負けの理由のうち、半分くらいは自爆である。
 千雨の負けの理由については、ザジが最初に狙うのが千雨一本に絞られていることと、横から飛んでくる明日菜の余計な横やりボムによるものが大半であった。
「くそ、戦略レベルで負けてる気がする」
 千雨が呟いた。
 それを聞いたザジがふっと笑った。
「ザジてめー! 計画通り、ニヤリ。みたいな笑い方すんじゃねぇよ!」
「えっ。ザジさんの笑顔? 見たかったのにいっ」
「魔王みたいな笑い方だったぜ」
「それはちょっと」
 ふるふる。魔王みたい、という言い回しにザジが首を横に振った。ちょっと困った顔が初めて年相応に見えた。


 その後、刹那を引き連れた木乃香がにっこにこな笑顔で乱入してきた。
 一応ノックはされたのだが。
 どうやら刹那を連れ回しては、あちこちにのろけ話を交えて『ウチの大事なせっちゃんをよろしゅう』と言い回っていたらしい。わずかに後ろを控えめについてくる刹那は、全く護衛とは思えない困惑と動揺の綯い交ぜになった心細そうな表情を覗かせていた。
 ご愁傷様である。
 千雨は刹那に対し、ささやかな同情の視線を送った。
 確かにクラスメイトとの関係はあまり良くなかった刹那である。
 嫌われているわけではないが、友達と呼べるほどに仲の良い相手が全くと言って良いほどいなかったのだ。
 クラス内での対応は、さすがにエヴァほどひどくはない。しかし以前からまともに会話をしていたのは龍宮くらいなもので、他者との交流はほぼ存在していなかったのは傍目にも分かった。
 これではあかんと一念発起した木乃香が、刹那をクラスに溶け込まそうと思って行動に移した。
 と、話を聞けばそういうことらしいのである。
 朝の今でこれである。どうしてこの行動力でこれまで関係が断絶状態のままだったのか。千雨としては首を捻るばかりである。やはりきっかけがないとずるずる行ってしまうものなのだろう。
 嫌われるかもと思えば、足は勝手に止まってしまう。
 嫌われていないと分かれば、どこまでも突き進める。
 年頃の女の子なんて、結局そういうものなのだ。吹っ切れたらしい木乃香の勇姿は、なんとも頼もしいものだった。
 昔の自分しかり、色々と胸に去来するものがあり、千雨は温かく見守ることにした。
 横目で覗き見ると、刹那が非常にいたたまれない表情をしていた。
 ザジが十分楽しみました、と言わんばかりにその場を辞すると、木乃香の行動に戦々恐々……もとい恐縮しまくっている刹那にそのコントローラを握らせた。
「あのお嬢様。これでいったい何をすれば……」
「ええからええから。せっちゃんもふつーの女の子みたいにせんと」
「ボンバーマンで四人対戦する女子中学生ってのが普通かというと違和感があるんだが」
「千雨ちゃんー。ゲームの持ち主さんが何ゆーてるん」
「まあそうなんだが」
「みんなで遊ぶためのもんちゃうの?」
「分かった分かった。近衛の分のコントローラもあるから少し待ってろ」
 気を利かせて千雨が四コンを仕度していると、
「おおきにー。千雨ちゃん、これの遊び方教えてもろうてええ?」
「いいぜ。神楽坂は桜咲の方を頼む」
「いいわよ。ええっと、桜咲さん……まず、この十字のボタンが移動で……」
「え。あ、その、神楽坂さん。……お手数おかけします」
 深々と頭を下げて指南してもらうのは、ボンバーマンの遊び方である。刹那の真面目くさった表情と手元のコントローラー、ついでに画面から流れてくるデモの音楽がどこまでも不似合いであった。
 千雨はちらちらと明日菜と刹那のやり取りを眺めつつ、大きく息を吐き出した。
「どしたん」
「いや、こういうのもいいもんだって思ってな」
「そやねー。うん、ええな」
 同意してくれた木乃香は穏やかな微笑みを浮かべた。


「お嬢様。あの、私はこういうものには疎くてですね」
「あ、そっちに爆弾行ったえー」
「なんの! せいッ!」
 飛んできた爆弾を蹴り返す刹那。慣れるまで手間取りつつも、意外に頑張っていた。ちまちま爆破して、パワーアップ用のアイテムをこまめに集めている。
「アスナー。さっきからウチんとこにばっか投げてへん?」
「だって桜咲さんがすぐそっちに行っちゃうんだもん」
「こっちばっかり気にしとると、すーぐ千雨ちゃんがフリーになるえー」
「え。あ!?」
 すれ違いざまに爆弾をボロボロと落としながら、千雨の操るボンバーマンがそそくさと逃げてゆく。
「千雨ちゃんずるい!」
「ずるくて結構。おっと、後ろから近衛が反撃しようと狙ってるぜ」
「うわっ。ちょ、そっち!?」
「ごめんなーアスナー。蹴るえ」
「このかまで敵に回ったし!? さ、桜咲さんっ! あなたは私の味方よねっ!?」
「その。申し訳ありませんが」
 隙だらけの木乃香のキャラを素通りして明日菜を狙うために一直線に近づいてくる。
「敵しかいないの!? あ、爆弾がっ! 爆弾がっ!?」
「こっち飛ばすな!」
「知らないわよっ! いいわ、千雨ちゃんも道連れにしてやるんだから!」
「待て! 話せば分かる、話せば分かる!」
「問答無用ーッ!」
 逃げ道は千雨の方角にしかなかった。しかし安全地帯は存在しなかった。
 明日菜が千雨のそばに爆弾を投げつつ接近してきた。そして、設置して置いた盾代わりの爆弾と、明日菜の投げたものは、ほぼ同時に爆発した。当然明日菜のボンバーマンも被害を受けた。
 やたらと火力の強い爆風によって、千雨と明日菜はそのままリタイアするのだった。


「争いは何も生まない。虚しいだけだ……」
「とかなんとか言っちゃって。みそボン状態でこのかをしつこくしつっこく狙ってるじゃない」
「これは争いじゃなくて生存競争だからな」
「なんかもー。千雨ちゃんの性格がよく分からなくなってきたわ」
「実はけっこう負けず嫌いなんだよ」
「うん。思い知ったわ」
「でも神楽坂もそうじゃねぇの?」
「かもね」
 と和気藹々と喋りながら、刹那と木乃香の一騎打ちに、横から爆弾を投げ入れ続ける二人だった。
「あんな、アスナー」
「え、なーにー?」
「さっきから、やっぱりウチんことばっか狙ってへん?」
「ウフフ」
「アスナが変わってもうた……昔のアスナはおしとやかやったのに」
「まったく、誰情報よそれ。……あれ? つまり今はおしとやかじゃない、って言いたいわけ?」
「いいんちょやけど」
「ウフフフフフ。あのショタコンそのうちシメるわ」
「アスナもオジコンやし、どっちもどっちちゃうんやないかなー」
「じゃあこのかはどんなひとが好みなのよ」
「ウチかー。うーん、やさしくて、かっこよくて、かわええひとがええなー」
「いくら親友のこのかでも高畑先生は渡さないわよ!?」
「いらへんいらへん」
 今の会話をまとめると、明日菜の中では高畑教諭は優しくて格好良くて可愛いらしい。千雨は首をかしげた。
「何か文句あるかしら?」
「いや」
 喋りながら明日菜が爆弾を投げつけていた。
 蛇がいると知りながら藪をつつく趣味はないので、千雨はそそくさと刹那の方に逃げた。


 ハイテンションな木乃香と明日菜のやり取りを、半ば呆然と眺めている刹那がいた。
「大変だな、桜咲」
 軽く声を掛けると、刹那からは疑念の混ざった視線が戻ってきた。
「なんつうかさ、近衛がこんなにはしゃいでるの初めて見たんだよ。私もそんなに親交があったわけじゃないが、仲の良い神楽坂でも似たようなもんみたいだな。つーわけで、前みたいに距離を取ろうとするのはお勧めしない」
 小声で伝えると、刹那は眉をひそめた。千雨が何を言いたいのか分からなかったらしい。
「あんま考えすぎるなよ。ちゃんと好かれてるんだから、胸を張って仲良くしとけ」
「しかし。いや、それは」
「この状況で近衛から離れようとしたら、毎日せっちゃんせっちゃんって部屋を尋ねて来られるぞ。いいのか」
 刹那は反論の言葉に詰まった。
 今日の木乃香の様子からすると、確かにありえる未来だと思ったようだ。
「まあ、いきなり距離を詰めすぎてる感はあるが、こういうの、別に嫌じゃないんだろ?」
「……ああ。先頃は多少面食らったがな」
 ここまでの流れから一定の信用をしてくれたのか、悄然とした様子ながらも、素直な答えが返ってきた。
「せっかく離してた手を向こうから握ってくれたんだ。もう手放すなよ。せいぜい大事にしとけ」
 そう告げる。
 言葉に感情を込めたつもりはなかったが、刹那はそうは受け取らなかったようだ。
 怪訝そうにまじまじと見返された。照れくささもあって、わずかに目を逸らす。
「おい近衛! 神楽坂ばっかり構うから、お前のせっちゃんが寂しそうにしてるぞ」
「長谷川さん、何をいきなり!?」
「そうなんかー。ごめんなせっちゃん。さっきからアスナばっか見とった。ウチ、せっちゃんをちゃんと狙うえ!」
「……え? お嬢様? ちょ、待って、待ってください! なぜそうなるんですか!?」
「んー。遊びは真剣にやらなあかんもん。せっちゃんもその方が楽しいやろ?」
「と言いながらにじり寄ってくるのはなぜですか!? って、ちょ、あかん! このちゃんそれはずるやて!」
 画面の中のボンバーマンではなく、木乃香自身が刹那に近づいていって手をわきわきさせていた。ちなみに爆弾はさりげなく良い場所に設置してあるので、刹那のキャラは爆風の範囲内に入ってしまっている。早いところコントローラーを操作しないと逃げられないのだが、刹那はそれどころじゃない様子であった。
 わいわい楽しそうな二人を見て、明日菜が笑った。
「うんうん。これでいいのよ」
「へぇ。ちゃんと空気読んだのな」
 ちょうど明日菜のみそボンが両方とも狙える位置だった。だが、爆弾は投げ込まなかった。
 二人に聞こえない程度に声を落とす。
「だって、暗い顔してるより明るい顔してるほうがいいでしょ? 楽しくないより楽しい方がいいし、仲が悪いより仲良しのがいいわよ。なんだか分からないけど、せっかくこのかと桜咲さんが仲直りできたんだから、協力できるならするに決まってるじゃない」
「良いヤツだよな、神楽坂って」
 前にもそう思ったか、口にした気がしたが、千雨は呟いた。
「千雨ちゃんだって色々気を遣ってたくせに」
「う」
「遠回しに色々言ってたみたいだけど。それくらい私にだって分かるわよ!」
 小声で叫ばれた。案外器用だ。
「このかの代わりにお礼を言うわ。ありがとう」
「……どういたしまして」
 お礼を言われるほどのことじゃない。そう言い返そうかと一瞬思ったが、少し考えてやめておいた。満面の笑みを浮かべた明日菜は、一騎打ちの決着がついた頃合いを見計らって声を掛けた。
「このかー、終わった?」
「んー。ウチ負けてもうたー。ざんねんやー」
「順当な結果だったわけね」
「せっちゃん運動神経も抜群やもんなー。さてと、そろそろ夕飯のしたくせなあかん時間やけど」
「晩ご飯、桜咲さんも一緒に食べる? 用事が無ければどう?」
「お、せっちゃんも食べるん? ならウチいつもより気合い入れて作るえー!」
「いえ、その、ご迷惑では」
「ウチはいつでも大歓迎やのに、どうしてそう遠慮するん? それともウチの作るご飯、食べたくないん?」
「いいえ! そんなことはありません!」
「なら決まりやな。せっかくやし千雨ちゃんも来えへん?」
「いいのか?」
「もちろんええよー」
 邪魔者が割り込むのはどうかと心配だったが、それこそ今更である。
 せっかく作ってくれるのを断るのも悪い。というわけで千雨は招かれることに決めたのだった。実は上手と評判な木乃香の料理の腕は気にはなっていたのだ。
 超包子を経営する四葉五月と超鈴音は別格として、クラス内では料理上手として真っ先に名の挙がることの多い木乃香である。その実力は毎朝のように明日菜の朝食を作って美味しい美味しいと言われていることが証明している。
 神楽坂が自慢げに褒め称えるのを聞いていたので、実は食べるのがちょっと楽しみだった。美味しい食事は日々において非常に大切である。醤油や出汁の味からかけ離れていた時期があったこともあって、千雨はその貴重さ、大事さについては身に染みているのだ。
 それから食事時にも刹那の座る場所その他を巡って一騒動あったのだが、それはまた別の話である。
 何はともあれ、そんなこんなで美味しく楽しい夕食の時間を千雨は過ごすことができたのだった。


 どうにかこうにか無事に終わると思われた、長い一日の最後のことである。
「近衛。ごちそうさま。神楽坂が褒めてた通り、すげー美味かったぜ」
「おおきにー。千雨ちゃんの口に合って何よりやー」
「じゃ、私は部屋に帰るが……」
「私も自室に戻らせていただきますね。では、お嬢様。おやすみなさい」
「せっちゃん帰ってしまうん?」
「え? いや、泊まる理由もありませんし」
「そうなんかー。そうやな。うん。泊まる理由がないもんな」
「あの、お嬢様?」
「理由。理由かー。……じゃあ、ウチな、今日は眠くなるまでせっちゃんとお話したい。ダメ?」
「うっ」
 おそるべき眼差しであった。逆らおうという気にならない、純朴且つ切なげな瞳の揺れ方であった。
 刹那がそんな木乃香のお願いに逆らえるはずもなかった。
「……は、はい」
「やったえ!」
「はいはい。じゃあ私は誰かの部屋に泊まってくるから」
「えー。アスナも一緒にお話しよ。な?」
「なに言ってんの。昔からの幼なじみと一晩中話すんでしょ? それを邪魔する気はないわよ?」
「んー。アスナかてウチの幼なじみやん。せっちゃんと別れてから、こっち来て、ずっとアスナと一緒やったし」
「ええと。まあそうなるわね」
「なら、せっちゃんとアスナも一緒に仲良うなればええんちゃう?」
「それは、うーんと、いいの、かな?」
 よく分からなくなってきたらしく、明日菜が首をひねっている。
「正直なー。……せっちゃんにウチ以外の友達おるのか、ちょう不安なんよ」
 ぴしり。刹那が凄まじい音を立てて凍り付いたように見えた。
「この際やから親睦深めてくれると嬉しいかなーって思うてなぁ」
「そういうことなら協力するわよ! これからよろしくね、桜咲さん!」
 刹那は硬直していて、対応できないようだった。
「ほらせっちゃん。アスナもこう言うてくれてるし。な!」
「な! じゃありません! このちゃんに心配されへんでも、と、友達くらい!」
 名前を挙げようとしてまたもやフリーズした。
「……た、龍宮が」
「友達なん?」
 ピンポイントで急所を抉るように打つ質問だった。最大の問題は、木乃香には追い詰めている意識が皆無という点にある。
「……仕事仲間、かも」
「なぁなぁ他には?」
「他には……」
 声は、止まった。刹那の顔が暗かった。
 木乃香の純粋な気持ちでの問いかけは、恐るべき精度で刹那を追い詰めていた。明日菜が刹那の様子に気がついて非常に気遣わしそうに見つめている。千雨には刹那の今の気持ちが痛いほど分かった。
「近衛。過去のことなんていいじゃないか。桜咲の未来のことだけ考えてやれ」
「それもそやな。ほなせっちゃん、まずは布団敷こ。なっ」
「せつなさん。私たち、今日から友達よっ! 大丈夫。大丈夫だから。ね!」
 明日菜の優しさが痛い。
 端から見ていて辛かったので、千雨はさりげなく離れていった。
「じゃ、帰るから。あとは頑張れ」
「長谷川さんっ!?」
 刹那の瞳が訴えるのは、この状態で見捨てて帰るのか、という明確な追及の視線だった。
 背を向ける直前に、うん、と千雨は爽やかな笑顔で頷いた。
 戦い疲れた戦士が最後の希望を奪われた、みたいな表情を見せていた刹那だったが、極寒の地における氷の彫像のごとくであったその眼差しのこわばりも、ほがらかで楽しげな木乃香の声にゆるやかに融かされてゆくようで、明日菜の声にこめられた聖母のごとき優しさに触れ、その傷ついた心はだんだんとやわらかく癒されてゆくのだった。
 という想像を千雨はしてみた。
 実際のところは千雨には分からない。三人でのパジャマパーティーだかガールズトークだかが始まる前に、さっさとドアを閉めたからだ。
 部屋の中からは嬌声だか歓声だか区別の付かない騒がしい音がしている。楽しそうで何よりである。
 が、まあ現実で繰り広げられる光景も想像とそう遠いものではあるまい。
 千雨は、武運を祈ると刹那に胸中でのみ告げ、静寂に満たされた自室に戻るため、寮の廊下を軽やかに歩くのだった。


 
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