長かったようで短かった夏休みも、ついに最後の日がやって来た。すなわち八月末のことである。
 千雨は顔を洗い、パジャマから着替えて、部屋の窓を思い切り開け放った。
 澄み切った青空がぐんと広がっていくように見えた。不意に差し込んだ強烈な陽射しは、室内を純白に染め上げていった。
 夏休みだというのに、寮の朝は騒がしい。耳を澄ませるまでもなく、大勢の慌ただしい人の動きが遠く近くにかかわらず聞こえてくる。
 そんなざわめきに紛れて、部屋の扉をノックする音があった。
 ドアを開けると、見知った顔があった。
「おはよー! 良い天気だね千雨ちゃんっ!」
「ああおはよう。良い天気か。それは良かったな。じゃあ帰れ」
「ひどっ。いきなりそれはないんじゃないかなー」
 三条こずえであった。普段ならどこかに遊びに行こう、と誘いに来たのかと考えるのだが、なにしろ八月三十一日である。わざわざこんな日に千雨の部屋に来る用事はひとつしか思い当たらなかった。
 こずえは白い半袖のTシャツにミニスカートという、いかにも夏らしい格好をしている。シンプルだが女の子らしい装いである。一方の千雨はといえば、淡色のTシャツを着ており、履いているのは薄地のチノパンだった。
「夏休みの宿題を写させて、とか言わないならいいぜ」
「……望みは絶たれた」
 がくり。
 こずえは廊下に伏した。抱えていた紙束だかノートだかと筆記用具が音を立てて転がった。
「部屋の前で倒れ込むなよ」
「間に合わないのー。お願い千雨ちゃん! たーすーけーてー!」
「遠慮しとく」
「遠慮なんかしなくていいよ!」
「つーか大した量じゃなかっただろ。なんで……いや、担当が違うか。異常な量が出たのか?」
「いやー、これなんだけど」
 差し出された課題のプリントやら、宿題やら、その他諸々に千雨はさっと目を通した。見た限り、むしろA組が出された宿題の量よりも随分少ないように見えた。前回テストの平均点が全クラス中で最下位だったことや、A組における平時の授業態度やら、遅々として進まぬ授業内容の進行状況のせいで、さりげなく宿題で他より嵩増しをされているらしかった。
 分量に差が出るのは仕方ないと諦めることにして、こずえがどこまで宿題を終わらせたのかに目を凝らした。
 一通り見終えて、うん、と一回頷いた。
 千雨は優しげに微笑んだ。
「分かった帰れ」
「ひどいっ! そこで手伝ってくれる優しさはないのっ!?」
「ほとんど白紙じゃねーか! せめて真面目にやってから、それでも間に合わなかったら泣きつけ!」
「これだけはちゃんとやったよ!」
 こずえが見せつけるように取り出したのは読書感想文だった。確かに、きちんと埋めてあった。わざわざ内容は読まなかったが、とりあえず文字の分量は足りていた。
「で?」
 二秒後、こずえは額を廊下にこすりつけるくらいの勢いで頭を下げた。千雨の視線が怖かったらしい。
「これだけしかやってなくてすみません……手伝ってくれると嬉しい、かな?」
「はぁ……」
 深々とため息。
 縋るような目で見られた。潤んだ瞳と、子犬みたいな表情だった。
「分かった分かった。手伝ってやる。ただし、代わりにやるって意味じゃねぇぞ」
「ありがとー! 千雨ちゃん大好きっ!」
「ええい抱きつくなっ」
「ふへっへっへ。どうしたのー千雨ちゃーん! 顔が真っ赤だぜーい!」
「うぜぇ……」
 泣きつく相手を見つけたこずえのはしゃぎっぷりといったらなかった。
「いいから中に入れ」
「はーい。……うわ、なにあのパソコン。超高そうなんだけど」
「まあ高いな。下手に触るなよ?」
「あっ、ゲーム機があるし。やってみてもいい?」
「……余裕だな。手伝わなくても良いか?」
「ゴメンナサイ。調子に乗りました。私が悪うございました。だから助けて!」
 よろしい、と頷いて先を続ける。
「まずは数学のプリントからだな。これは同じか。とりあえず丸写ししとけ。国語は新田先生ね……漢字の書き取り? 単純作業だからラストに回せるな。こっちは自力でガンバレ。あとは英語。量は少なめだな。んー、と、そっちの担当は誰だ?」
「英語の担当? しずなちゃんだけど?」
「……高畑先生だったら楽だったんだけどなあ」
「なんで?」
「ぶっちゃけ甘い。同じ課題でも、丸写しさえしなけりゃまず見逃してくれる。テストの点が悪いと放課後に居残りやらされるけど、それだって難しいもんじゃない。そういうレベルだな」
「いいなー。しずなちゃんって優しいのに、宿題の内容が割とキツイんだよねー」
「あー。和訳か。なになに、トムはペンを……メンドイなこれ。つーか三条。たぶん自力でやったほうがいいぞ」
「ええー?」
「よく見たら提出じゃねーし。授業中に、これで和訳した内容を元に他のこと答えさせられるっぽいぞ」
「げげげっ。ってことは自分でやらないと!?」
「バレるな。少なくとも、どうしてそういう訳をしたかまでちゃんと覚えてないと指摘される危険性が高い。源先生も考えたな。宿題自体の量が少なくても、真面目にやらないとあとで痛い目を見るってことだぜ」
 他のものにも目を通す。
「あとは……自由研究っぽいやつか。学園内でのことについて、内容はなんでもいいから調べろと」
「思いつかないんだよねー。これ、千雨ちゃんは何にしたの?」
「あのバカでっかい樹があるだろ。世界樹ってヤツ。で、適当に世界中の巨大な樹木の情報調べて、それらとの対比、世界樹の特殊性、みたいなレポートを書いてみた」
 これ、と部屋の隅に置いてあった紙束をこずえに手渡した。パソコンでまとめて印刷を終えたレポートであるため、案外読みやすいものに仕上がっている自信はあった。書くものが決まっていないのであれば、参考資料くらいにはなるだろう。
 ふむふむとこずえが読みふける。
 次に渡したのは各サークル発行の小冊子である。まずは学園史編纂室。割と歴史のあるサークルらしく、いかにも堅い文章が特徴的だ。
 今度はオカルト研究会。世界樹そのものの存在を不思議に思っていないくせに、それにまつわるオカルティックな話には敏感に反応するのだ。実に不可解ではあるが、何十年周期かで起こる世界樹の発光についていくつもの仮説を発表してみたり、某ときメモにおける伝説の樹に近い効力があるという噂話をまとめあげていたりと、踏み込んだ内容で、なかなか真に迫っている。
 このオカルト研究会による調査については、たとえば超能力者が存在したとして、念動力だの読心だの瞬間移動などには追及の手を緩めないくせに、超能力者自身にはいることが当たり前のように振る舞っている、といった感触である。千雨にしてみれば、世界樹そのものが何より不思議であるのに、それはここにあって当然という認識が根付いてしまっているのだ。不気味と言えば不気味である。キリスト教圏の欧米人が神の存在を疑わないのと似ているのかも知れない。
 世界樹をこよなく愛する会は、ひたすら麻帆良の世界樹に関する情報をかき集めているサークルである。実地調査という名目で山ほど写真を撮ったり、世界樹を題材に創作活動を行ったりしており、活動内容そのものは非常に微笑ましい。
 学園七不思議研究会というのもある。こちらは七不思議の一種としての世界樹伝説に注目しており、オカルト研究会の活動報告とかなりの部分が被っている。ただ、どちらかといえば伝説と謳われるあれこれを科学方面から解き明かそうとしている風に見受けられた。
 これらの資料を集めるのは、千雨にしてみれば麻帆良内部における非常識と常識の境目がどこらへんにあるのかを調べるついででもあった。


 奇妙なことに、ごく一般的なオカルトはきちんと非現実のものとして捉えられているのだ。
 たとえば木乃香が占いを趣味としているが、それが怪しげなオカルトであると彼女は認識出来ている。世の中に超能力者なんていないと普通に思っているし、魔法使いが本当にいるなんてことは考えもしない。
 それが当たり前のことだからだ。
 表面上、彼女の内側に育まれた常識そのものは千雨とそう違わないのだ。
 すなわち、魔法はありえないことであり、周囲に魔法による結果が存在していないから、それは常識的なものではない、という思考プロセスである。
 常識の延長線上にある非常識は、その流れが一度断絶していない限り、非日常としては受け入れられないらしい。たとえば足の速さであれば、走っているという行為さえちゃんとしているのなら、世界記録を更新するレベルの早さであっても、麻帆良においてはさほど違和感を持たれないのである。
 一方で自由自在に空を飛んだり、杖を降って呪文を唱えるなどした場合には、さすがに無理があるらしく、誤魔化すためには何らかの橋渡し的な状況を必要とする。手品であると強弁するなり、それらしき小難しそうな機械を用意するなり、それを認識した者が納得するような理屈がなければ誤魔化しきれなくなるのである。
 世界樹はとんでもないものである。これは誰しもに共通する認識なのだが、だから『異常』なものである、という理屈には流れない。千雨が基準から外れていることを意味して『おかしい』という表現した場合、これを聞いた麻帆良在住の人々は『すごい』であるとか『面白い』という認識で受け取ってしまうのだ。
 同じものを見ていても、同じ言葉で表していても、そこには確実に隔絶した意識の差が存在している。
 千雨はこの差を埋めることについてはほぼ諦めている。
 以前は、ずっと誤解していた。
 自分と、他の人は違うから、こんなにも辛くなるのだと。
 だが、見え方が違うというのは、単なる事実に過ぎないのだ。むしろその差を正確に認識した上で、いかに振る舞うべきか、どうすれば齟齬を減らすことが出来るのか。そちらに意識を傾けるべきだったのだ。
 とはいえ、そんなものを幼い子供でしかなかった自分に出来たとは思えない。
 あのころ単なる小学生に過ぎなかった千雨にとって、身を守るために壁を作る、それ以外の選択肢など存在しなかった。
 今になって思えば、それは最善の選択肢ではなかったかもしれない。しかし決して誤りだったとも思えない。
 他にどうすれば良かったのか。見える異常を飲み込んで、自分を歪ませて、偽って、そうして過ごし続けた挙げ句にどこに辿り着こうというのか。
 そもそも常識なんてものは所詮社会における共同幻想である。
 形あるものではないからこその幻想。ゆえに、それが絶対のものであるはずがない。
 だとすれば、千雨と他のすべての人々とのあいだに、そのひとだけの考え方、見え方の差があるように、ありとあらゆる誰かにとっても、隣人とは異なるものの見え方、自分なりの考え方があるはずなのだ。
 違うのは当たり前のことなのだ。ならば、それをとやかく言ったところで無益である。
 麻帆良という土地の特殊性を考慮しなければ、そこに残るのは相互理解における自他の意識の差であり、それは誰であっても容易く埋めがたい差である。
 だが、そんなことは千雨に限らない。
 誰も、他人の心なんか分からない。誰も、他人が本当に何を考えているかなんて分からない。
 だからこそ、ひとは知ろうとするのだ。知ってもらおうとするのだ。
 見て、話して、ぶつかって。そうやって少しずつ分かる部分を増やしながら、分かって貰おうと努力するのだ。
 そんなことをぼんやり考えていた。


「何しろ資料だけは山ほどあるからな。あちこちのサークルが出してる機関誌みたいなのから必要な情報だけ抜いてまとめてみた。資料集めに若干時間がかかったが、考える必要がなかったから結構楽だったぜ」
「じゃあじゃあ私も!」
「私が使ったネタ以外のを選べよ」
「……千雨ちゃんが最近冷たいよう」
「ほう」
「千雨ちゃんから腕組んで冷たい目で見下ろされた……怖い。でも素敵!」
「アホなこと言ってないでさっさと考えろ」
「はーいっ」
 こずえは返事だけは素直だった。
 シャープペンを握るよりは楽だからか、小冊子をパラパラ捲ってはああでもないこうでもないと首をひねっている。
「何か探してんのか?」
「うん。七不思議で何かなんかないかなーって。でも、こっちとそっちで書いてあるのが違うんだよね。魔法オヤジとか意味わかんないし」
 魔法少女の噂もあったが、より鮮明に人々の記憶に残っているのは魔法オヤジの方だそうだ。自分でどうにもならないほどピンチになったら、どこからともなく魔法オヤジがやってくるというある種の都市伝説である。
 魔法オヤジに遭遇したという少女Aは、快くインタビューに答えてくれた。記者に対し、潤んだ瞳と、熱っぽい口調を隠しもせず、こう語ったという。
 ――あのとき、急にパンクした車が凄い勢いで歩道に突っ込んできたんです。
 死ぬかと思ったその瞬間、あたしは……分厚い胸板にかき抱かれていたの。顔も見えなかった。何が起きたのかも分からなかった。
 でも……あれは魔法だったんです。
 そして、あたしを助けてくれたのは中年のおじさま。
 なんで中年だと分かったのか、って? 声が……『大丈夫か?』って聞こえたの。良い声だったわ。
 気づいたとき、そばには誰もいなかった。車は少し先の道路で停まっていたわ。運転手さんは何が起きたのか、って呆然としてた。
 そのとき、顔も知らないあの声のひとが助けてくれたんだと、あたしには分かったの。あの筋肉質な腕と、体つき、そして中年のおじさんらしく、ちょっとだけタバコ臭かった……。
 え、どうしてインタビューを快諾したのか、ですって? あたしは伝えたいんです。
 でも、どうしたらあのひとに伝わるのか分からないから、この話が記事になったら読んでくれるかもしれないって。
 その、あのとき助けてくれてありがとう、魔法オヤジさん。
 ――以上が、インタビューの内容である。
 秘匿義務には辛うじて引っかかってない、のか? 千雨は首をかしげた。とりあえず、正体も特定するには微妙に情報が足りない。本命は高畑教諭だが、関係者と思しきそれっぽい人物は他にもいるのだ。大男でスキンヘッドの教師や、ヒゲにグラサンの教師あたりが候補である。魔法オヤジに助けられたという話は一人や二人ではないので、もしかしたら全員持ち回りであちこち回っているのかもしれない。
 魔法少女が正体を隠すのはお約束だが、魔法オヤジという単語には微妙な哀愁が漂っているように感じられて、なんとなく微笑ましい。
 超包子の屋台でくだを巻く魔法オヤジども。
 可愛らしい女の子、可憐な女性、華やかな美女を窮地から救っても、言葉ひとつ交わさず、消えるようにして去ってゆくおっさんたち。
 切ねぇ。
 千雨は事細かに情景を思い描いてしまい、単なる空想にも関わらず、少しほろりときた。
「ああ、けっこう頻繁に入れ替わってるらしいぜ。まず古いヤツに七不思議なのに六つしかない、って定番のオチがあるだろ」
「えー? でも昔のまで数えると二十個ぐらいあるんだけど」
「だから最近は七不思議なのに八つ以上あるってオチになってるらしい。で、昔からのネタだと、麻帆良祭の時期に特定の場所でコクると成功率百パーセント。あなたも告白してみませんか? って記事だな。眉唾もんだと思ったんだが、告白に成功してる恋人同士のインタビューの量がなぁ……」
「え? なにこれ、百人のカップル成立ってホント!?」
「知らん」
 こずえは目を爛爛と輝かせている。
「千雨ちゃん! 図書館島の、あの白ローブのひ――」
「三条。うめぼしの刑」
 ぐりぐり。以前にも似たようなやり取りをしたときにやった、手軽なお仕置きである。さほど力は入れていない。
「痛い痛いっ。千雨ちゃん痛いってば! まだ何も言ってないでしょっ」
「アレとは恋人でもなんでもない。好きでもないし、何の関係もない。だから黙れ。な?」
「……あれ? 千雨ちゃん、その言い方、もしかしてあのひとと会えたの?」
「あ」
 大失敗である。
 こずえは楽しげにうんうんと頷いた。数ヶ月前の認識のままであるとすれば、こずえにとってクウネルは図書館島を闊歩する謎の怪人である。それも無垢な少女とのふれあいを求めて彷徨う、江戸川乱歩の小説に出て来そうな感じの耽美と猟奇の中間くらいに位置する存在である。
「そっか。あのひとに会えたんだ。いいなー」
「……いや、良くないが」
 ロリコン疑惑については詳細不明であるが、少なくとも会えたことを幸運とは思いがたい相手ではあった。
「私もまた会えるかなー」
「それは止めとけ」
「やっぱり、あのひと、千雨ちゃんの……ひゃめてぇー。にゃにするにょー」
 こずえのほっぺたをぐいぐい引っ張って、その先は決して言わせなかった。
 恐ろしいことを言わないでもらいたいものである。まったく。嘆息し、千雨は強引に話題を終わらせた。
「さて、告白成功率百パーセントだったな。まあ、こんな話が出回ってて、告白されるかもしれないのに呼び出されて行くなりデートするって時点で、お互いに大抵まんざらでもない関係なんじゃないか」
「つまり?」
「特に時期とか場所とか関係なく、もともと恋人同士になりそうな二人が順当にくっついただけ」
「夢も希望もねーことを! ダメだよ千雨ちゃん! もっと女の子らしくロマンチックに考えなきゃ!」
「三条。よーく考えてもみろ。その時期にお前が世界樹周辺に呼び出されたとして」
「うん」
 千雨に言われたとおり、こずえは、どこかに呼び出された自分を想像しているらしかった。
「その相手が別に好きでもない人物だった。いきなり告白された。そしたら特に好きでもないのに付き合う羽目になった」
 凄まじく嫌そうな顔をして、こずえはうんうん唸り始めた。想像力が非常に豊かである。リアリティたっぷりにその場面を思い描いているのだ。
「嬉しいか?」
「ごめん。それは……ダメ。まったく嬉しくない。ロマンチックの欠片も無くて、すっごく気持ち悪い」
「だから嘘の方がいいんだよ。こういうのはな」
「そうだね。うん」
「好き合ってる同士が一歩を踏み出す切っ掛け、くらいなら許容範囲だけどな。さ、次だ次」
「ええと、座らずの席? なになに……座ると寒気がするので、誰もその場所に座れない。しかし椅子と机は毎年なぜか置いてあるため、その席で幽霊が授業を受けているのではないかと噂されている……」
「中等部で、今の一年A組の窓際最前列だな。つまり、うちのクラスだ。一応それっぽい席はあるしな」
 女子中等部では入学してからクラス替えは無く、三年間同じ教室を使うことになる。単なる空席であるならば、通常は後列の端に置くべきである。しかしその席は最前列の窓際に位置しており、席替えの場合でも一カ所だけ特別に除外されているようだった。
「あるんだ!?」
「確かにそこの席は空席になってるんだが……」
 席の主は、相坂さよという名前である。
 空席になっている最前列の窓際が、彼女のための場所であった。クラス名簿にはしっかり名前が記載されている。しかし不可解なことに欠番扱いとなっている。
 入学してから数ヶ月が経過した現在でも、一度として姿を見たことがなかったクラスメイト。千雨は最初、怪我やら病気やらで長期療養なり、何らかの事情で休学中、あるいは欠席し続けているものとばかり思っていた。
 それが違うと知ったのは、つい最近のことである。
 エヴァがその名前を口にした。エヴァが自分に似た境遇の存在として、思い至った誰かの名前だった。
 とすれば、彼女がいっさい姿を見せないのは、当たり前に語れる理由では無い。千雨がそう悟るのも早かった。
 七不思議における『座らずの席』の話がいつから存在しているかを知れば、おおよそのところは見えてくる。実物を見たわけでも、千雨よりも詳しく知っているであろうエヴァが説明してくれたわけでもないため、あくまで推測に過ぎないのだが、そこまで大きく外れてはいまいと想定している。
 相坂さよは幽霊である。
 そして、一学期の間中、あの席で毎日授業を受けていた。
 おそらくは噂が生まれてから、あるいはそれよりも前からずっと、何十年間も、あの教室で、延々と授業を受け続けていたことになる。
 傍目には模範的な生徒以外の何物でもあるまい。
 以前よりエヴァは彼女のことを知っていたのだろう。
 もしかしたら彼女の姿が見えているのだろうか。千雨にはさよが見えないが、エヴァならばその瞳に映すことも出来たのかも知れない。
「もしもーし、千雨ちゃーん……? 千雨ちゃんってばー」
「あ、悪ぃ。なんだ」
 申し訳なさそうにこずえは乾いた笑いをこぼした。
「とりあえず怖い話っぽいから、その話スルーでいい?」
「おい」
「っていうか、他にないの!? もっとロマンチックな話とか、メルヘンチックで可愛い話っ!」
「ねぇよ。少なくともこれに載ってる七不思議の中には無い。そもそも七不思議ってそういうもんじゃないだろ」
「それもそうだね。うーん」
「いっそ自分で作れ。このリストをずらっと書いたあとに、新たなる七不思議を発見しました! みたいなノリで」
「え、それってアリなの!?」
「いいんじゃね?」
 適当である。
「前に喋ったみたいな……図書館島に謎の怪人がいて、いたいけな少女と戯れる話でも?」
「アリだな」
 千雨は頷いた。主に意趣返し的な意味で。
「なんだか書けそうな気がしてきたーっ! 書くよ! 書いちゃうよ!」
「いけるいける。じゃんじゃん書いちまえ」
 こずえがすごい勢いで書き出した文章を千雨は眺めてみた。今時の中学生の文章であったが、勢いだけはあった。ほとんど小説の体を為していないので読みづらくはあったが、しかし意図するところはあっさりと理解出来た。
 長い闘いの果てにボロボロに傷ついた身体を地下でゆっくり癒しながら、たまに訪れる少女たちの無垢な笑顔を糧に、日々を生き延びる白ローブの怪人の話であった。
 誰にもここにいることを知られてはいけない。だから少女たちと仲良くなっても最後には記憶を消さなければならない。
 そんな葛藤に苦しむ……生き様も格好良くて、美形で、思いやりと優しさを兼ね備えた、儚げな美青年という設定であった。
 本物と出くわした千雨にしてみれば思い切り首をかしげる描写なのだが、口を挟むのも悪いと思って黙っていた。
 本人が聞いたら悶え苦しむ可能性と、呵々大笑での反応が返ってくる可能性とが半々くらいだろうか。まあ、どちらにせよ設定と本人とが掠りもしていないと思われるので、千雨は止めなかった。
 三条こずえの自由研究『図書館島の怪人の秘密』は一時間もしないうちに完成した。
「私やったよ! 良い仕事したよ……!」
「よく頑張った。さ、次は英語な」
 ぱたり。
 こずえは床に倒れた。
「……パトラッシュ……ぼくもう疲れたよ……なんだかとっても眠いんだ……」
「あ? 遊んでないで早く起きろ」
「千雨ちゃんがノってくれない……」
「ネタに走れる元気があるなら大丈夫だな。ほれ、さっさと手を動かせ」
「はーい」
 こずえはゾンビのようにのそりと身体を起こして、のろのろと腕を伸ばした。


 部屋のドアがノックされたのはこずえに付き合って結構な時間が経ってからだった。
「ん? 誰だ?」
「千雨ちゃん、いる?」
 明日菜の声である。何か後ろと会話している気配もあった。他にもいるらしい。
「ああ。開いてるから勝手に入ってくれ」
 ちらりと横目で覗き見ると、こずえがテーブルに顔を伏していた。積み上がったプリントとノートの山。最後の追い込みを前に、体力が尽きかけているようだった。
「おじゃましまーす……って、大丈夫なの? その子?」
「まあ、朝から延々夏休みの宿題と戦ってたからな。そろそろ限界らしい」
「朝からって……もう夕方じゃない! ぶっ続けってこと!?」
「安心しろ。休憩と昼飯は摂らせた」
 気遣わしげな視線がびしびしとこずえに突き刺さっていた。本人は視線に反応できる状態ではなかったが。
「で、神楽坂。何の用だ?」
「ええっと、宿題ちょっと見せてもらえないかなーって思ったんだけど……お邪魔だったみたいね」
「英語か?」
「うん」
「いいぜ。そこにあるから答え合わせなり参考にするなりしてくれ。ただし、合ってる保証はないが」
 指し示した先にあるノートには目を向けず、明日菜は言いにくそうに続けた。
「ごめん。他のもいい? 私だけじゃないのよ」
「いいけど。宿題なら、もうちょっと頼りになる連中がいるだろ?」
 超とか葉加瀬とか委員長とか、と名前を挙げると、明日菜は分かりやすく顔を引きつらせた。
 千雨は全力で学業に打ち込んでいるわけではないので、一学期の成績は上位陣に比べるとかなり落ちる。というかA組の上位二人の頭脳は次元が違うのでそもそも別枠扱いである。
 また、クラスの委員長である雪広あやかは決して天才ではないが、日頃から予習復習をきちんとやる上、真面目に勉学に励んでおり、文武両道、生徒の鑑みたいな人物なので、特殊な上二人を除けば全教科全方位ほとんど隙無しである。
 前者はマッドサイエンティスト、後者はショタコンという問題はあるにせよ、本気で教えを乞うてくるクラスメイトに冷たい対応を取ることはありえない。普段から口で争うことの多い明日菜に対しても、頭を下げて頼まれたなら、あやかは文句の一つも口にするかも知れないが、頼まれたことについては全力で手を貸してくれることだろう。
 A組には、基本的に善良な人間が多いのだ。
「実は……満杯なのよ、そっちの部屋」
「……ああ、なるほど」
 明日菜の背後を覗くと、よく分からない組み合わせの面々がいた。
「綾瀬は、どうしたんだ?」
「ハルナが必死に原稿を描いているので、邪魔にならないように出てきただけです。のどかは部屋の隅で日本人作家のスペースオペラを読み耽っていて、回りの声がまったく聞こえてない状態ですし」
「となると、夏休みの宿題は」
「とっくに終わってます。まあ、プリントの答えが正しいかどうかは別問題ですが」
「……何しにきたんだ?」
「特に用は無かったのですが……珍しい組み合わせなのと、千雨さんの部屋に興味があったのでついてきました」
 ああそう、としか言えなかった。
「桜咲は……聞かなくていいか」
「聞かなくていいってどういう意味ですか!?」
「どうせアレだろ。近衛にダメだしされたとかだろ」
「う」
「『せっちゃん、ちゃんと勉強せなあかんよー』とか言われて頑張ってはみたけど、宿題がどうしても終わらない。普段は頼りになる龍宮あたりが不在で、かといって他に親交のあるクラスメイトも少なくて、近衛に頼るのは気後れして、とりあえず他の面子で一番気安く喋れる神楽坂に泣きついては見たけれど、むしろ成績的には自分より下で当てにならないので、私んところに流れ着いた、と」
「長谷川さん、見てきたように言いますね……」
「実際のところは」
「お恥ずかしながら」
 刹那は俯いた。木乃香に一緒に宿題やろうとか誘えば良かったのに。千雨はそう思ったが口に出さなかった。
 俯いた顔をさっと上げて千雨の表情を確認して、刹那が呟く。
「……何か仰りたいようですが」
「いや別に」
 顔に出ていたらしかった。
 話を逸らすために最後のひとりに視線を向けた。
「朝倉だけわかんねぇな。お前、もう宿題終わってるだろ」
「まあね。とっくに終わってるんだけどさ、ちょいと……長谷川さんに用があって一緒に来たのよ」
 朝倉和美は、笑顔でそう喋った。言葉の途中、長谷川さん、と妙に強調していた。
 自然に千雨に顔を寄せて、
「ね、ちうちゃん」
 聞こえるか聞こえないか、そのくらいの小さな声だった。
 表情をまったく変えずに千雨は頷いた。視界の片隅で刹那が、ん、と眉をひそめたのが見えた。
「分かった。……とりあえずお前らさっさと部屋に入れ」


「三条。そろそろ起きろ」
「千雨ちゃん……あと五分寝かせて……」
「そういえば冷蔵庫の中にケーキが」
「ありがと! 起きたよ! ケーキはどこ!?」
「なかった」
 目の前でがばりと起き上がって、千雨の一言でばたりと倒れた。テンションの上下が激しい。
「……だまされた」
「アホなことやってないでさっさと宿題を終わらせろ。休憩は終わりだ」
「だーまーさーれーたー……ああ、パトラッシュ……ぼくもう疲れ」
「そのネタは何時間か前にやっただろ」
「これさえ最後まで言わせてもらえないなんて、なんて時代だ!?」
 がくり。
 こずえは静かになった。
「あ、あのさ。千雨ちゃん。いいの?」
「かまってもらいたがってるだけだから放っとけ。それよりお前ら、ここでやるのか」
「いいの? ノート貸してくれるだけでも助かるんだけど」
「まあ、こいつみたいに全部やってないってこともないだろ? 一教科分なら大した時間じゃないし」
「ごめん。助かるわ」
「……いつの間にか千雨ちゃんの部屋にひとがいっぱいいる件について」
「クラスメイトだが」
「つまり、友達?」
「だな」
「えええっ!? ……ち、千雨ちゃんに友達が!?」
 こずえが凄い顔をしていた。驚愕で硬直しているようだった。
「そんな驚くことか」
「中学生になってから急に社交性アップしたとは思ってたけど……いつの間にかこんなリア充になってたなんて! あの頃の一匹狼な千雨ちゃんはどこにいったの!?」
「待て。その表現はおかしい」
「とまあ冗談はこのくらいにして」
「おいコラ三条……」
 千雨が軽くにらむのをまったく気にした様子もなく、こずえはぐるりと面々を見回した。
「初めまして。私、三条こずえって言います。千雨ちゃんの友達です。その、みなさんは?」
「え、えっと。神楽坂明日菜よ。初めまして」
「ここは自己紹介する流れですか。……綾瀬夕映です」
「……桜咲刹那と申します」
「私は朝倉和美だよー。報道部所属、別名麻帆良のパパラッチなんて呼ばれてるね。よろしく」
「アスナさんに、ゆえさんに、せつなさん、それから和美さんと」
 ふむふむと頷いて、こずえはぺこりと一礼した。それから満面の笑みを浮かべて、千雨に振り返る。
「千雨ちゃん。良かったね」
「何がだ」
「友達がいるって、いいことだよ」
「そりゃ否定しないが、何をいきなり」
「少し安心したの」
「……そうかよ」
「ふっふっふ、そうなのだよ。じゃあ、あと残ってるのは書き取りだけだから、私は自分の部屋に帰ってやるね」
「ここでやらないのか」
「千雨ちゃんのこと一日独占しちゃったみたいだし、お裾分けしとかないと」
「私はお裾分けするような存在なのかよ」
「そうだよ? 知らなかったの?」
「あのなぁ」
「というわけで。千雨ちゃん、今日は手伝ってくれてホントにありがとう。そのうち何かでお礼するからねっ」
「はいはい。期待しないで待ってるよ」
 ずびしっ、と手を振ってこずえはさっと出て行った。
 今のやり取りに千雨以外の全員が呆気にとられていた。この場に残っている千雨に視線が集まった。
「なんというか、……何とも言えないものを見たというか」
「あー、気にすんな」
「こずえさん、でしたか。なかなか個性的な方ですね」
 全員揃って頷いたので、千雨は首をかしげた。
「いや、お前らほどじゃねーよ」
「え?」
 本人は気づいていないが魔法無効化能力を持っている中年好きに、哲学マニアの探検部員、幼なじみを護衛しているとんでも剣術使い、中等部という枠を越えて活動しているパパラッチ。
 個性的という表現をするなら、こちらの方がよっぽど強烈である。
 本人達に自覚がなかったのか、全員揃って不思議そうな顔をされた。そのくせ回りの顔を見て納得はしているようだった。
 全員、自分だけは普通だ、と思っているのだろう。
 んなわけねー! と千雨は叫びたかったが、こらえた。無駄なことだと分かっていたからである。


 
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